は じ め に 臨 済 宗 大 慧 派 の 無 際 了 派 ︵ 一 一 四 九 ︱ 一 二 二 四 ︶ と い え ば 、 南 宋 の 嘉 定 一 六 年 ︵ 日 本 の 貞 応 二 年 、 一 二 二 三 ︶ に 入 宋 し た 永 平 道 元 ︵ 希 玄 、 仏 法 房 、 一 二 〇 〇 ︱ 一 二 五 三 ︶ が 明 州 ︵ 浙 江 省 ︶ 慶 元 府 県 東 六 〇 里 の 天 童 山 景 徳 禅 寺 に 上 山 掛 搭 し た 際 、 最 初 に 参 学 し た 南 宋 禅 林 の 臨 済 禅 者 と し て 名 高 い 。 了 派 は 大 慧 派 の 拙 庵 徳 光 ︵ 東 庵 、 仏 照 禅 師 、 普 慧 宗 覚 大 禅 師 、 一 一 二 一 ︱ 一 二 〇 三 ︶ に 参 じ て 法 を 嗣 い だ 高 弟 と し て 知 ら れ 、 南 宋 初 期 に 看 話 禅 ︵ 公 案 禅 ︶ を 唱 導 し て 絶 大 な 接 化 を な し た 楊 岐 派 ︵ 大 慧 派 祖 ︶ の 大 慧 宗 杲 ︵ 妙 喜 、 大 慧 普 覚 禅 師 、 一 〇 八 九 ︱ 一 一 六 三 ︶ の 法 孫 に 当 た っ て い る 。 道 元 が 天 童 山 に 掛 搭 し て 了 派 に 参 学 し た の は 、 了 派 に と っ て 最 晩 年 の 二 年 間 の で き ご と で あ り 、 や が て 了 派 が 示 寂 し た こ と に 伴 っ て 、 道 元 は 後 席 を 継 い で 天 童 山 に 住 持 し た 曹 洞 宗 の 長 翁 如 浄 ︵ 浄 長 、 一 一 六 二 ︱ 一 二 二 七 ︶ の も と に 投 じ 、 身 心 脱 落 し て そ の 法 を 嗣 い で 帰 国 し て い る 。 い わ ば 了 派 は 道 元 を 如 浄 に 引 き 合 わ せ る 仲 介 役 を 演 じ て 世 を 去 っ た 感 も あ る が 、 道 元 と 関 わ る こ と で 了 派 の 存 在 は 禅 宗 史 上 に 不 朽 の 名 を 留 め る こ と に な っ た の で あ り 、 入 宋 し た 当 初 の 一 年 間 す な わ ち 足 掛 け 二 年 に お け る 道 元 の 事 跡 を 辿 る 上 で 、 了 派 と い う 禅 者 の 消 息 を 正 し く 捉 え る こ と は き わ め て 重 要 な も の が あ ろ う 。 そ こ で 以 下 、 道 元 が 入 宋 し て 最 初 に 参 学 し た 師 と し て 比 較 的 に 知 名 度 が 高 い に も 拘 わ ら ず 、 こ れ ま で あ ま り 本 格 的 に 考 察 が な さ れ て 来 な か っ た 無 際 了 派 と い う 人 物 に つ い て 、 諸 史 料 を 駆 使 し て 可 能 な 限 り 詳 細 に そ の 事 跡 を 窺 っ て み る こ と に し た い 。 幸 い に 平 成 一 九 年 度 ︵ 二 〇 〇 七 年 度 ︶ に 駒 澤 大 学 禅 文 化 歴 史 博 物 館 で は 、 し ば ら く 所 在 が 不 明 と な っ て い た 道 元 真 筆 ﹃ 正 法 眼 蔵 ﹄ ﹁ 嗣 書 ﹂ の 巻 ︵ 旧 里 見 本 ︶ を 入 手 す る 機 会 に 恵 ま れ て い る 。 ﹁ 嗣 書 ﹂ の 巻 に は 、 嗣 書 を め ぐ る 了 派 と の 関 わ り が い く ぶ ん 詳 し く 語 ら れ て お り 、 こ う し た 因 縁 も 踏 ま え て 了 派 が 辿 っ た 軌 跡 を 一 通 り 整 理 し て み る こ と に し た い 。 一 一 九 駒 澤 大 學 佛 學 部 論 集 第 三 十 九 號 成 二 十 年 十 月
天
童
山
の
無
際
了
派
と
そ
の
門
流
︱
道
元
が
入
宋
し
て
最
初
に
参
学
し
た
臨
済
禅
者
︱
佐
藤
秀
孝
天 童 山 の 無 際 了 派 と そ の 門 流 ︵ 佐 藤 ︶ 一 二 〇 ま た 了 派 の 法 を 嗣 い だ 門 人 に は 如 何 な る 禅 者 が 存 し 、 彼 ら は ど の よ う な 活 動 を な し た の か 、 そ の 門 流 は 果 た し て い つ ま で 江 南 禅 林 に 存 続 し て い た の か 、 在 宋 中 の 道 元 と 関 わ っ た 人 も 存 し た の か 、 な ど の 点 に つ い て も 一 考 を な し て お き た い 。 併 せ て 法 は 嗣 が な か っ た も の の 了 派 の も と に 集 っ た 禅 者 た ち の 消 息 や 、 当 時 、 天 童 山 の 了 派 の も と に 投 じ て い た 日 本 僧 の 消 息 な ど に つ い て も 、 若 干 の 考 察 を 加 え る も の で あ る 。 無 際 了 派 に 関 す る 伝 記 史 料 そ も そ も 無 際 了 派 の 章 を 載 せ る 禅 宗 燈 史 と し て は 、 明 代 初 期 に 臨 済 宗 松 源 派 の 円 極 居 頂 ︵ 円 庵 、 玄 極 、 ? ︱ 一 四 〇 四 ︶ に よ っ て 編 纂 さ れ た ﹃ 続 伝 燈 録 ﹄ 巻 三 五 ﹁ 明 州 天 童 派 禅 師 ﹂ の 章 が も っ と も 古 く 、 つ づ い て 大 慧 派 の 南 石 文 ︵ 一 三 四 五 ︱ 一 四 一 八 ︶ に よ っ て 編 纂 さ れ た ﹃ 増 集 続 伝 燈 録 ﹄ 巻 一 ﹁ 四 明 天 童 無 際 了 派 禅 師 ﹂ の 章 が 存 し て い る 。 た だ し 、 い ず れ も 了 派 が 亡 く な っ て 一 世 紀 半 か ら 二 世 紀 近 く を 隔 て て 編 纂 さ れ た も の で あ り 、 記 載 内 容 は き わ め て 簡 略 で 、 残 念 な が ら 伝 記 的 な 面 は 何 ら 記 さ れ て い な い 。 そ の 後 、 明 末 清 初 に 至 っ て 陸 続 と し て 編 纂 さ れ た 禅 宗 燈 史 に お い て も 、 ﹃ 五 燈 会 元 続 略 ﹄ 巻 三 ︵ 巻 二 上 ︶ ﹁ 慶 元 府 天 童 無 際 派 禅 師 ﹂ の 章 ﹃ 続 燈 正 統 ﹄ 巻 一 一 ﹁ 寧 波 府 天 童 無 際 了 派 禅 師 ﹂ の 章 ﹃ 祖 燈 大 統 ﹄ 巻 七 二 ﹁ 寧 波 府 天 童 無 際 了 派 禅 師 ﹂ の 章 ﹃ 続 燈 存 稾 ﹄ 巻 一 ﹁ 明 州 天 童 無 際 了 派 禅 師 ﹂ の 章 ﹃ 続 指 月 録 ﹄ 巻 二 ﹁ 慶 元 天 童 無 際 了 派 禅 師 ﹂ の 章 ﹃ 五 燈 厳 統 ﹄ 巻 二 〇 ﹁ 目 録 ﹂ の ﹁ 天 童 派 禅 師 ︿ 不 レ 列 二 章 次 一 ﹀ ﹂ ﹃ 五 燈 全 書 ﹄ 巻 四 七 ﹁ 明 州 天 童 無 際 了 派 禅 師 ﹂ の 章 と い っ た 具 合 に な り 、 ﹃ 五 燈 厳 統 ﹄ を 除 い て 了 派 の 章 が ほ ぼ 一 様 に 立 伝 見 録 さ れ て は い る が 、 や は り 伝 記 面 の こ と を 伝 え る 記 述 は 見 ら れ な い 。 後 世 の 禅 宗 燈 史 は 概 ね ﹃ 増 集 続 伝 燈 録 ﹄ の 記 事 を そ の ま ま 継 承 し て い る に す ぎ ず 、 禅 宗 燈 史 を 通 し て は 了 派 が 徳 光 の 法 を 嗣 い で 天 童 山 に 住 持 し た こ と 以 外 、 何 も 窺 い 知 る こ と が で き な い の が 実 情 で あ る 。 と こ ろ が 、 幸 い に も 了 派 に 関 し て は 、 ﹃ 続 伝 燈 録 ﹄ や ﹃ 増 集 続 伝 燈 録 ﹄ に 先 立 っ て 、 南 宋 末 期 の 景 定 四 年 ︵ 一 二 六 三 ︶ に 編 纂 さ れ た ﹃ 枯 崖 和 尚 漫 録 ﹄ ︵ 以 下 、 ﹃ 枯 崖 漫 録 ﹄ と 略 称 ︶ 巻 上 に ﹁ 慶 元 府 天 童 無 際 派 禅 師 ﹂ の 項 が 存 し て お り 、 慶 元 府 天 童 無 際 派 禅 師 、 嗣 二 仏 照 一 。 生 二 於 建 安 張 氏 一 。 慶 元 四 年 、 開 二 法 常 之 保 安 一 。 上 堂 云 、 説 即 無 レ 功 有 レ 過 、 不 レ 説 又 是 罪 過 。 自 レ 今 各 省 二 己 過 一 、 無 三 以 責 二 人 之 過 一 。 杖 不 レ 応 二 放 過 一 、 也 要 二 従 レ 頭 按 過 一 。 卓 二 杖 一 云 、 内 卦 已 成 、 再 求 二 外 象 一 。 又 卓 三 下 。 占 二 得 風 山 小 蓄 一 、 変 成 二 沢 風 大 過 一 。 卓 一 下 、 下 座 。 初 預 二 密 庵 法 席 一 、 有 レ 剪 二 紙 塔 一 、 戯 俾 レ 頌 。 頌 云 、 当 陽 拈 二 起 剪 刀 一 栽 、 七 級 浮 図 応 レ 手 回 、 堪 レ 笑 耽 源 多 口 老 、 湘 南 潭 北 露 二 尸 骸 一 。 一 衆 服 膺 。 讃 二 船 子 一 云 、 三 寸 離 レ 鉤 二 一 橈 一 、 百 千 毛 竅 冷 、 雖 二 然 両 手 親 分 付 一 、
天 童 山 の 無 際 了 派 と そ の 門 流 ︵ 佐 藤 ︶ 一 二 一 要 下 在 二 渠 儂 一 自 点 頭 上 。 讃 二 霊 照 女 一 云 、 老 爺 喪 二 尽 生 涯 一 後 、 累 レ 汝 レ 街 売 二 笊 一 、 不 二 是 家 貧 児 子 苦 一 、 此 心 能 有 二 幾 人 一 知 。 叢 林 称 レ 之 。 嘉 定 間 、 在 二 天 童 一 。 示 レ 疾 辞 レ 衆 上 堂 云 、 十 方 無 二 壁 落 一 、 四 面 亦 無 レ 門 、 浄 、 赤 洒 洒 、 没 可 把 。 喝 一 喝 云 、 幾 度 売 来 還 自 買 、 為 憐 松 竹 引 二 清 風 一 。 下 座 。 入 二 丈 室 一 端 坐 、 泊 然 而 化 。 寿 七 十 六 、 臈 五 十 二 。 仏 果 下 、 大 慧 接 レ 人 、 多 如 二 馬 祖 一 。 今 独 東 庵 下 為 レ 盛 。 と い う 記 事 が 載 せ ら れ て い る 。 記 事 的 に は そ れ ほ ど 分 量 は 多 く な い が 、 了 派 の 伝 記 に 関 す る 消 息 の 一 端 を 詳 し く 辿 る こ と が で き る 点 で 貴 重 な 史 料 と な っ て い る︵1 ︶ 。 ﹃ 枯 崖 漫 録 ﹄ 三 巻 は 大 慧 派 の 枯 崖 円 悟 が 編 集 し て 景 定 年 間 ︵ 一 二 六 〇 ︱ 一 二 六 四 ︶ に ま と め ら れ た も の で あ り 、 南 宋 後 期 の 禅 者 た ち の な し た 多 く の 逸 話 を 収 録 し て い る 。 円 悟 は 了 派 と 同 門 に 当 た る 浙 翁 如 ︵ 仏 心 禅 師 、 一 一 五 一 ︱ 一 二 二 五 ︶ の 法 孫 に 当 た っ て お り 、 本 師 の 偃 渓 広 聞 ︵ 仏 智 禅 師 、 一 一 八 九 ︱ 一 二 六 三 ︶ は 実 際 に 若 い 頃 に 久 し く 了 派 に も 参 学 し た 経 験 が 存 し て い る 。 禅 門 の 逸 話 集 と し て 編 纂 さ れ た ﹃ 枯 崖 漫 録 ﹄ の 記 事 内 容 は か な り 限 ら れ た も の で は あ る が 、 了 派 が 示 寂 し て わ ず か 四 〇 年 を 隔 て た 時 期 に ま と め ら れ た も の で あ る こ と か ら 、 了 派 の 生 涯 を 窺 う 上 で は 他 に 見 ら れ な い 貴 重 な 消 息 を 伝 え て お り 、 そ れ な り の 信 憑 性 を 認 め る こ と が で き よ う︵2 ︶ 。 さ ら に 入 宋 し た 道 元 が 天 童 山 の 了 派 の も と に 投 じ て い る こ と か ら 、 ﹃ 正 法 眼 蔵 ﹄ ﹁ 嗣 書 ﹂ の 巻 や ﹁ 明 全 和 尚 戒 牒 奥 書 ﹂ な ど 、 道 元 の 著 述 に も 断 片 的 に 了 派 の 消 息 を 伝 え る 記 事 が 存 し て お り 、 こ れ ら も 当 然 の こ と な が ら 了 派 の 伝 記 を 知 る 上 で 貴 重 な 史 料 と い え る も の で あ る 。 ま た 同 様 の こ と は ﹃ 三 大 尊 行 状 記 ﹄ や 古 写 本 ﹃ 建 撕 記 ﹄ な ど 道 元 の 伝 記 史 料 に も 窺 え 、 そ こ に は 了 派 の 消 息 が や は り 断 片 的 に 語 ら れ て い る 。 出 生 の 地 と 年 時 は じ め に 問 題 と す べ き は 了 派 が 出 生 し た 郷 里 と 俗 姓 に 関 す る 考 察 で あ っ て 、 こ の 点 に つ い て ﹃ 枯 崖 漫 録 ﹄ に は 幸 い に も ﹁ 建 安 の 張 氏 に 生 ま る ﹂ と 記 さ れ て い る 。 こ れ に よ れ ば 、 了 派 は 建 安 ︵ 福 建 省 ︶ の 出 身 で 、 俗 姓 が 張 氏 で あ っ た こ と が 知 ら れ る 。 建 安 と は 福 州 ︵ 福 建 省 ︶ に 隣 接 す る 建 州 ︵ 福 建 省 ︶ 建 寧 府 の こ と で あ り 、 と く に 建 寧 府 治 は 建 安 県 と 称 さ れ て い る か ら 、 こ の 地 が 了 派 の 出 身 地 で あ っ た こ と に な ろ う 。 と こ ろ が 、 道 元 は 在 宋 中 に 天 童 山 で 了 派 の 嗣 書 を 実 際 に 閲 覧 す る 機 会 に 恵 ま れ て お り 、 ﹃ 正 法 眼 蔵 ﹄ ﹁ 嗣 書 ﹂ の 巻 に お い て 、 拙 庵 徳 光 が 了 派 に 与 え た 嗣 書 を 紹 介 し て ﹁ 了 派 蔵 主 者 、 威 武 人 也 ﹂ と 記 し て お り 、 了 派 が 威 武 の 人 で あ っ た こ と を 伝 え て い る 。 こ こ に い う 威 武 と は 権 威 と 勢 い を 具 え た 勇 ま し い 人 と い う 意 味 で は な く 、 あ く ま で 地 名 と し て 特 定 の 地 域 を 指 し て い る は ず で あ る 。 こ の よ う に 了 派 の 出 身 地 に 関 し て は 建
天 童 山 の 無 際 了 派 と そ の 門 流 ︵ 佐 藤 ︶ 一 二 二 安 の 人 と す る ﹃ 枯 崖 漫 録 ﹄ の 説 と 、 威 武 の 人 と す る ﹃ 正 法 眼 蔵 ﹄ ﹁ 嗣 書 ﹂ の 巻 の 説 が 併 存 し て い る わ け で あ る が 、 建 安 と 威 武 と が 如 何 な る 関 係 に あ る の か が 問 題 と な ろ う 。 実 際 の と こ ろ 、 威 武 と は 唐 末 五 代 に 福 建 の 地 に 威 武 軍 節 度 使 が 置 か れ た こ と に 因 む 呼 称 で あ っ て 、 建 州 を 含 む 福 建 地 域 を 総 称 し た 表 記 で あ る こ と が 知 ら れ る 。 す な わ ち 、 唐 の 元 和 年 間 ︵ 八 〇 六 ︱ 八 二 〇 ︶ に 福 州 ・ 泉 州 ・ 汀 州 ・ 建 州 ・ 州 の 五 州 を 領 し た 福 建 観 察 使 が 置 か れ 、 乾 寧 年 間 ︵ 八 九 四 ︱ 八 九 八 ︶ に は こ れ が 威 武 軍 節 度 使 と 改 め ら れ て い る︵3 ︶ 。 し た が っ て 、 威 武 と は 現 今 の 福 建 省 に 当 た る 地 域 一 帯 の 総 称 で あ り 、 そ の 中 に 建 州 ︵ 建 寧 府 ︶ も 含 ま れ て い る わ け で あ っ て 、 道 元 が 書 き 記 し て い る ﹁ 威 武 人 也 ﹂ と い う の は 、 広 義 で は 誤 り で な い こ と に な ろ う 。 こ の こ と は 一 面 で 道 元 の 伝 え る 記 載 内 容 が き わ め て 信 憑 性 が 高 く 、 正 確 な も の で あ っ た こ と を 物 語 る 貴 重 な 一 例 と い っ て よ い 。 建 州 は 福 建 省 で も 海 岸 部 の 福 州 か ら 西 北 に 向 か っ た 内 陸 に 位 置 し 、 東 渓 と 西 渓 が 合 流 す る 地 に 当 た り 、 江 西 省 に 通 じ る 軍 事 上 や 交 通 上 の 要 衝 の 地 と な っ て い る 。 唐 代 に は 建 州 、 宋 代 に は 建 寧 府 、 元 代 に は 建 寧 路 と 称 さ れ て い る 。 東 渓 上 流 の 建 陽 に は 唐 代 に 南 嶽 下 の 馬 祖 道 一 ︵ 馬 大 師 、 大 寂 禅 師 、 七 〇 九 ︱ 七 八 八 ︶ が 最 初 に 卓 錫 し た と さ れ る 仏 迹 嶺 の 聖 跡 寺 が 存 し て お り 、 ま た ﹃ 頓 悟 要 門 ﹄ の 撰 者 と し て 名 高 い 馬 祖 下 の 大 珠 慧 海 も 建 州 の 朱 氏 の 出 身 と さ れ る 。 了 派 が 活 動 し て い た 南 宋 初 中 期 に 、 建 州 ︵ 建 寧 府 ︶ な い し 建 安 県 の 出 身 と し て 知 ら れ る 主 な 禅 者 を 一 通 り 挙 げ て お き た い 。 楊 岐 派 の 蓬 庵 端 裕 ︵ 仏 智 禅 師 、 一 〇 八 五 ︱ 一 一 五 〇 ︶ の 法 を 嗣 い だ 寒 巌 道 升 ︵ 慧 升 、 一 〇 九 八 ︱ 一 一 七 六 ︶ が 建 安 県 の 呉 氏 の 出 身 と し て 知 ら れ 、 了 派 が 受 戒 し た 直 後 に 当 た る 乾 道 九 年 ︵ 一 一 七 三 ︶ に 福 州 県 の 鼓 山 湧 泉 禅 寺 に 化 導 を 敷 き 、 淳 煕 三 年 ︵ 一 一 七 六 ︶ 四 月 に 示 寂 し て い る 。 大 慧 派 の 密 庵 道 謙 ︵ 建 州 子 ︶ も 建 寧 府 の 遊 氏 の 出 身 で あ り 、 世 に 儒 学 を 業 と し た が 、 早 く に 父 母 を 失 っ て 出 家 し た と さ れ る 。 そ の 後 、 道 謙 は 大 慧 宗 杲 の 法 を 嗣 ぎ 、 福 州 侯 官 県 の 昇 山 玄 沙 院 ︵ 安 国 院 ︶ に 出 世 開 堂 し 、 さ ら に 建 寧 府 崇 安 県 の 開 善 禅 寺 に 住 持 し て お り 、 一 代 の 儒 者 で あ る 朱 熹 ︵ 字 は 元 晦 、 号 は 晦 庵 、 朱 子 、 一 一 三 〇 ︱ 一 二 〇 〇 ︶ が そ の も と で 参 禅 し て い る こ と で 名 高 い︵4 ︶ 。 ま た ﹃ 径 山 志 ﹄ 巻 二 ﹁ 列 祖 ﹂ に よ れ ば 、 同 じ く 大 慧 派 の 雲 庵 祖 慶 も 建 寧 府 の 出 身 と さ れ 、 大 慧 宗 杲 の 法 を 嗣 い で 杭 州 余 杭 県 の 径 山 能 仁 禅 寺 ︵ 後 の 興 聖 万 寿 禅 寺 ︶ に 住 持 し て い る︵5 ︶ 。 と り わ け 、 道 謙 や 祖 慶 ら は 徳 光 と 同 門 で あ る こ と か ら 、 了 派 に と っ て 法 伯 な い し 法 叔 に 当 た る 禅 者 で あ り 、 彼 ら の 活 動 は 早 く か ら 郷 里 の 名 僧 と し て 知 ら れ て い た こ と で あ ろ う 。 さ ら に 興 味 深 い 消 息 と し て 、 ﹃ 枯 崖 漫 録 ﹄ 巻 上 ﹁ 臨 安 府 径 山 少 林 仏 行 禅 師 ﹂ の 項 に よ れ ば 、 大 慧 派 の 少 林 妙 ︵ 仏 行
天 童 山 の 無 際 了 派 と そ の 門 流 ︵ 佐 藤 ︶ 一 二 三 禅 師 、 ? ︱ 一 二 三 二 ︶ が 建 州 浦 城 の 徐 氏 の 出 身 と さ れ て い る 。 妙 は 了 派 と 同 じ く 拙 庵 徳 光 の 法 を 嗣 い で お り 、 杭 州 銭 塘 県 の 南 屏 山 浄 慈 報 恩 光 孝 禅 寺 な ど に 住 持 し た 後 、 同 門 の 浙 翁 如 の 後 席 を 継 い で 杭 州 余 杭 県 の 径 山 興 聖 万 寿 禅 寺 の 第 三 三 世 に 就 任 し て い る︵ 6 ︶ 。 妙 は 了 派 と 同 郷 で あ る ば か り で な く 、 同 じ く 徳 光 の 法 を 嗣 い だ 同 門 で も あ る こ と か ら 、 両 者 に は 親 密 な 道 交 が 存 し た は ず で あ ろ う が 、 そ の 詳 細 は 何 ら 定 か で な い 。 了 派 よ り 活 動 期 間 が 遅 れ る 禅 者 と し て も 、 ﹃ 建 州 弘 釈 録 ﹄ 巻 下 ﹁ 崇 徳 第 三 ﹂ の ﹁ 元 建 州 白 雲 崇 梵 寺 愚 叟 澄 鑑 禅 師 ﹂ の 章 に よ れ ば 、 同 じ 大 慧 派 の 無 文 道 ︵ 柳 塘 、 一 二 一 四 ︱ 一 二 七 一 ︶ の 法 を 嗣 い だ 愚 叟 澄 鑑 ︵ 通 悟 明 印 大 師 、 一 二 三 〇 ︱ 一 三 一 一 ︶ が 建 安 県 の 光 禄 坊 に 存 し た 白 雲 崇 梵 禅 寺 に 化 導 を 敷 い て い る︵7 ︶ 。 了 派 の 示 寂 年 時 に 関 す る 考 察 は 後 に 詳 し く 触 れ た い が 、 了 派 は 嘉 定 一 七 年 ︵ 一 二 二 四 ︶ に 世 寿 七 六 歳 で 示 寂 し て い る こ と か ら 、 こ れ を も と に 年 齢 と 世 寿 を 逆 算 す る と 、 出 生 し た の は 南 宋 政 権 が 樹 立 し て 凡 そ 二 〇 年 あ ま り を 経 過 し た 紹 興 一 九 年 ︵ 一 一 四 九 ︶ で あ っ た こ と が 知 ら れ る 。 と こ ろ で 、 後 に 了 派 は 拙 庵 徳 光 に 参 じ て 法 を 嗣 ぐ こ と に な る が 、 徳 光 の 法 を 嗣 い だ 高 弟 た ち の 生 年 を 窺 う と 、 秀 巌 師 瑞 ︵ ? ︱ 一 二 二 三 ︶ は 生 年 が 定 か で な い も の の 、 徳 光 の 門 下 で は 長 老 格 で あ る こ と か ら 、 了 派 よ り は か な り 年 長 で あ っ た も の ら し い 。 ま た 退 谷 義 雲 ︵ 一 一 四 九 ︱ 一 二 〇 六 ︶ は 了 派 と 同 年 の 生 ま れ で あ る が 、 了 派 よ り 二 〇 年 近 く も 先 に 示 寂 し て い る 。 浙 翁 如 は 紹 興 二 一 年 ︵ 一 一 五 一 ︶ に 生 ま れ て お り 、 妙 峰 之 善 ︵ 一 一 五 二 ︱ 一 二 三 五 ︶ は そ の 翌 年 の 紹 興 二 二 年 に 生 ま れ て い る か ら 、 こ の 両 者 は 了 派 よ り は 若 干 年 少 に 当 た っ て い る 。 さ ら に 北 居 簡 ︵ 敬 叟 、 一 一 六 四 ︱ 一 二 四 六 ︶ に 至 っ て は 隆 興 二 年 ︵ 一 一 六 四 ︶ に 生 ま れ て い る か ら 、 了 派 よ り は 一 五 歳 も 年 齢 が 離 れ て い る︵8 ︶ 。 ま た 了 派 の 後 席 を 継 い で 天 童 山 に 住 持 し た 曹 洞 宗 の 長 翁 如 浄 は 紹 興 三 二 年 ︵ 一 一 六 二 ︶ に 生 ま れ て い る か ら 、 了 派 よ り は 一 三 歳 の 年 少 に 当 た っ て い る 。 出 家 す る 以 前 に 了 派 が 如 何 な る 活 動 を な し て い た の か 、 ﹃ 枯 崖 漫 録 ﹄ に お い て も そ の 消 息 に つ い て は 何 ら 伝 え ら れ て お ら ず 、 幼 少 期 の 逸 話 や 出 家 す る に 至 る 事 情 な ど は 定 か で な い 。 た だ 、 了 派 は 世 寿 七 六 歳 、 法 臘 五 二 齢 で 示 寂 し て い る こ と か ら 、 受 具 は 二 〇 歳 代 半 ば の 頃 に な さ れ て い る こ と が 窺 わ れ る 。 出 家 得 度 は そ れ 以 前 で あ る か ら 、 二 〇 歳 に な る 前 に 郷 里 に 存 し た 何 れ か の 寺 院 に お い て 仏 門 に 投 じ て 剃 髪 し 、 受 業 師 よ り 了 派 と い う 法 諱 を 授 与 さ れ て い る こ と に な ろ う 。 後 に 詳 し く 述 べ る が 、 了 派 は 嘉 定 一 七 年 ︵ 一 二 二 四 ︶ の 夏 安 居 が 始 ま る 直 前 に 示 寂 し た も の ら し い か ら 、 そ の 時 点 で 法 臘 が 五 二 齢 と い う こ と に な る と 、 具 体 的 に は 乾 道 八 年 ︵ 一 一 七 二 ︶ に 二 四 歳 で 具 足 戒 を 受 け て 正 式 の 比 丘 と な っ て い る も の と 見
ら れ る 。 と こ ろ で 、 ﹃ 建 州 弘 釈 録 ﹄ や ﹃ 重 修 建 寧 府 志 ﹄ な ど を 通 し て 、 建 州 ︵ 建 寧 府 ︶ と く に 建 安 県 に お い て 宋 代 に 著 名 な 寺 院 を 窺 う に 、 建 安 県 で は 城 東 の 天 寧 報 恩 光 孝 寺 や 光 祿 坊 の 白 雲 崇 梵 寺 が 存 し 、 甌 寧 県 で は 雲 際 山 麓 の 開 元 寺 が 存 し 、 建 陽 県 で は 県 治 西 の 仏 跡 嶺 寺 ︵ 聖 跡 寺 ︶ が 存 し 、 崇 安 県 で は 呉 屯 里 の 瑞 巌 寿 聖 寺 や 五 夫 里 の 開 善 禅 寺 な ど が 存 し て い る 。 こ う し た 建 州 内 の 何 れ か の 寺 院 に お い て 了 派 は 仏 門 へ の 第 一 歩 を 踏 み 出 し た も の で あ ろ う︵9 ︶ 。 で は 、 了 派 と い う 法 諱 は 何 に 由 来 し て い る の で あ ろ う か 。 派 と は 元 か ら 分 か れ る こ と 、 河 川 の 支 流 や 分 流 の こ と を 意 味 し て い る 。 了 は 完 了 す る 、 終 わ る の 意 で も あ る が 、 こ こ で は 明 ら か に す る と か 、 悟 る の 意 で 用 い ら れ て い る も の と 見 ら れ る 。 し た が っ て 、 了 派 と は 派 を 了 ず る 、 も の ご と の 本 質 か ら 分 か れ 出 た も の を 明 ら か に す る と い っ た 意 と な ろ う 。 建 州 ︵ 建 寧 府 ︶ の 建 安 県 で は 東 北 か ら 流 れ て く る 東 渓 が 北 か ら 流 れ て く る 建 渓 に 合 流 し て お り 、 二 つ の 河 川 が 交 わ っ て や が て 江 と な っ て 福 州 の 海 に 流 れ 出 て い る こ と か ら 、 こ う し た こ と を 意 識 し て 法 諱 が 命 名 さ れ て い る も の で あ ろ う か 。 詳 し く は 後 に 示 す が 、 破 庵 派 の 無 準 師 範 ︵ 仏 鑑 禅 師 、 一 一 七 七 ︱ 一 二 四 九 ︶ は ﹃ 仏 鑑 禅 師 語 録 ﹄ 巻 五 ﹁ 小 仏 事 ﹂ の ﹁ 為 二 天 童 無 際 和 尚 一 起 龕 ﹂ に お い て ﹁ 大 海 渺 無 レ 際 、 漫 天 鼓 二 黒 風 一 ﹂ と か 天 童 山 の 無 際 了 派 と そ の 門 流 ︵ 佐 藤 ︶ 一 二 四 ﹁ 故 我 無 際 和 尚 、 慣 二 諳 水 脉 一 、 一 生 皷 レ 棹 揚 レ 帆 、 不 レ 犯 二 波 瀾 一 ﹂ と 表 現 し て お り 、 了 派 の 名 を 示 す の に 大 海 の 波 を 引 き 合 い に 解 し て い る 。 当 時 、 法 諱 ︵ 僧 名 ︶ の 下 字 に ﹁ 派 ﹂ の 語 を 用 い た 禅 者 は 珍 し く 、 了 派 の ほ か に は わ ず か に 黄 龍 派 の 慈 慧 祖 派 と い う 禅 者 が 知 ら れ る 程 度 で あ り︵ 10 ︶ 、 後 の 日 本 禅 林 で は 黄 龍 派 ︵ 千 光 派 ︶ の 江 西 龍 派 ︵ 庵 、 木 蛇 老 人 、 一 三 七 五 ︱ 一 四 四 六 ︶ が 名 高 い 。 こ れ に 対 し 、 了 派 の 前 後 で ﹁ 了 ﹂ の 一 字 を 法 諱 の 上 字 に 付 け て い る 禅 者 は か な り 多 く 見 ら れ 、 了 派 よ り 早 く に は 雲 門 宗 の 照 堂 了 一 ︵ 一 〇 九 二 ︱ 一 一 五 五 ︶ や 黄 龍 派 の 慈 航 了 朴 さ ら に 虎 丘 派 の 笑 庵 了 悟 な ど が お り 、 了 派 と 同 世 代 で は 大 慧 派 の 滅 堂 了 宗 や 楊 岐 派 の 無 証 了 修 が お り 、 遅 れ て 破 庵 派 無 準 下 の 西 巌 了 慧 ︵ 一 一 九 八 ︱ 一 二 六 二 ︶ な ど が 名 高 い 。 一 方 、 無 際 と い う 道 号 な い し 字 を 用 い た 禅 者 と し て は 、 了 派 よ り 先 に 同 じ 大 慧 派 に 無 際 慧 照 尼 ︵ ? ︱ 一 一 七 七 ︶ が お り 、 こ の 人 は 大 慧 宗 杲 の も と で 参 学 し て 悟 道 し て い る が 、 大 慧 下 の 無 著 妙 総 尼 ︵ 一 〇 九 五 ︱ 一 一 七 〇 ︶ の 法 席 を 継 い で い る か ら 、 了 派 に と っ て は 法 伯 母 な い し 法 従 姉 と い う こ と に な ろ う︵11 ︶ 。 ま た 元 代 に も 松 源 派 の 虎 巌 浄 伏 ︵ 天 瑞 老 人 、 仏 慧 定 智 禅 師 、 ? ︱ 一 三 〇 三 ︶ の 法 を 嗣 い だ 高 弟 と し て 無 際 如 本 と い う 禅 者 が 存 し て い る︵ 12 ︶ 。 た だ 、 何 よ り も 古 く 唐 代 に 青 原 下 の 石 頭 希 遷 ︵ 七 〇 〇 ︱ 七 九 〇 ︶ が 無 際 大 師 の 勅 諡 号 を 得 て お り 、 ま た 南 嶽 下