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tasyāpy anya itītthaṃ tu yatraiṣā vyavatiṣṭhate // LT 2.2 あるアートマンは 他 の 何 ものかのものであり またそれにとってもそれも 別 の 何 ものかのものである それにとっ てもまた 別 の というように ここにおいて 彼 女 は それら

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Academic year: 2021

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全文

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1 .はじめに

 『ラクシュミー・タントラ』(Lakṣmītantra、略号:LT)は、ヴィシュヌ派の一派であるパーンチャラートラ派 の主要な文献の一つであり、およそ 9 世紀から12世紀の間に編纂された。この書の主要なテーマの一つはパーンチャ ラートラ派独自の哲学と宇宙論である。その哲学的見解は、ヴィシュヌ神を奉ずる多様な教派の早期の伝統を組み 込んでいるだけでなく、様々な思想を自由に取り入れ、折衷している。そして、様々な要素を統合するものとして、 ヴィシュヌ派における母なる女神ラクシュミー(ヴィシュヌ・ナーラーヤナの妃)のシャクティ(宇宙の根源力)を 最高の形而上学的原理に据えているところにこの書の特徴が現れている。そのために、『ラクシュミー・タントラ』 はパーンチャラートラ派のテクストの中で特別な地位を占めているのである。それにもかかわらず、『ラクシュミー・ タントラ』の本格的な研究は不十分であり、翻訳についてもサンスクリット原典から英訳されたものが一本あるの みである。  本稿は、「『ラクシュミー・タントラ』第 1 章訳註」(『東洋大学大学院紀要』第49集、2013年、pp. 129–150)に 続くものである。『ラクシュミー・タントラ』第 2 章の和訳を試み、適宜註解をつけ、その内容解明に努める。

2 .凡例

   1 .  底本はLakṣmī-tantra: A Pāñcarātra Āgama(Edited with Sanskrit gloss and introduction by V. Krish-namacharya, Chennai: The Adyar Library and Research centre, 1959)を使用した。

   2 .  翻 訳 に 際 し、Sanjukta Guptaの 英 訳Lakṣmī Tantra: A Pāñcarātra Text(Delhi: Motilal Banarsidass,  2000)を参照した。    3 .各偈(シュローカ)は、原文、試訳の順に記し、註は文末に記した。    4 .  翻訳中の〔 〕は訳者が内容を理解しやすくするために補った部分であり、( )は訳者による補足的な 説明である。

3 .『ラクシュミー・タントラ』第 2 章「清浄なる創造」

  Śrīr uvāca. シュリーは語った1   asti nirduḥkhaniḥsīmasukhānubhavalakṣaṇaḥ /   paramātmā paraṃ yasya padaṃ paśyanti sūrayaḥ // LT 2.1 聖仙(sūri)たちが認める至高のアートマン(paramātman)の最高の境地(pada)は2、苦しみを離れ、計り知れなく、 至福の経験という特徴を持つものである3   kaścit keṣāṃcid ātmā syāt tasyānyeṣāṃ ca kaścana /

『ラクシュミー・タントラ』第 2 章訳註

三澤 祐嗣

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  tasyāpy anya itītthaṃ tu yatraiṣā vyavatiṣṭhate // LT 2.2 あるアートマンは他の何ものかのものであり、またそれにとってもそれも別の何ものかのものである。それにとっ てもまた別の、というように、ここにおいて、彼女は〔それら個々のアートマンとは〕異なる4   adhvanām adhvanaḥ pāraṃ paramātmānam ūcire /   ahaṃ nāma smṛto yo ’rthaḥ sa ātmā samudīryate // LT 2.3 至高のアートマンをあらゆる道にとっての道の彼岸と言い5、わたし(aham)として意味が想起されるもの、それ がアートマンであると語られる6   anavacchinnarūpo ’haṃ paramātmeti śabdyate /   kroḍīkṛtam idaṃ sarvaṃ cetanācetanātmakam //LT 2.4 束縛から離れたものとしてのわたし(aham)が至高のアートマンと呼ばれる7。〔その至高のアートマンは〕この あらゆる知覚できる性質のものとできない性質のものを包含する8   yena so ’haṃsmṛto bhāvaḥ paramātmā sanātanaḥ /   sa vāsudevo bhagavān kṣetrajñaḥ paramo mataḥ // LT 2.5 永遠なる至高のアートマンの状態であるそれはわたし(aham)であると想起することによって、彼はヴァースデー ヴァ9、バガヴァット、クシェートラジュニャ10、最高存在(parama)とみなされる11   viṣṇur nārāyaṇo viśvo viśvarūpa itīryate /   ahaṃtayā samākrāntaṃ tasya viśvam idaṃ jagat // LT 2.6 〔また彼は〕ヴィシュヌ、ナーラーヤナ12、ヴィシュヴァ、ヴィシュヴァルーパと呼ばれる。彼(=ナーラーヤナ)の「わ たし性」(ahaṃtā)によって、この世界全てが把握されている13   vastvavastu ca tan nāsti yan nākrāntam ahaṃtayā /   idaṃtayā yad ālīḍham ākrāntaṃ tad ahaṃtayā // LT 2.7 そして、「わたし性」(ahaṃtā)によって満たされないもの、それは実在の物質にも非実在(=未顕現)の物質に も存在しない。「これ性」(idaṃtā)によって解消される(示される?)もの、それは「わたし性」(ahaṃtā)によっ て満たされる14   sarvataḥ śānta evāsau nirvikāraḥ sanātanaḥ /   ananto deśakālādiparicchedavivarjitaḥ // LT 2.8 実に彼(ナーラーヤナ)は、完全に静寂で、不変化で、永遠であり、終わりがなく、場所や時間などの制限から自 由である。   mahāvibhūtir ity ukto vyāptiḥ sā mahatī yataḥ /   tad brahma paramaṃ dhāma nirālambanabhāvanam // LT 2.9 偉大なる彼女(ラクシュミー)は遍充である故に、「大いなる力の顕現」(mahāvibhūti)と呼ばれる。それ15がブ ラフマンであり、最高の居処、独立した本質16である。   nistaraṅgāmṛtāmbhodhikalpaṃ ṣāḍguṇyam ujjvalam /   ekaṃ taccidghanaṃ śāntam udayāstamayojjhitam // LT 2.10 〔ブラフマンは〕凪いだアムリタ(不死の霊薬)の海と等しいものであり、 6 つのグナ17が集合したものであり、輝 くものである、その唯一の最高精神(cidghana)は、静寂であり、生起と消滅から離れている。

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  apṛthagbhūtaśaktitvād brahmādvaitaṃ tad ucyate /   tasya yā paramā śaktir jyotsneva himadīdhiteḥ // LT 2.11 存在物とシャクティは不可分であるから、そのブラフマンは不二であると言われる。彼(ナーラーヤナ)にとって、 最高のシャクティは、月にとっての光線のごとくである18   sarvāvasthāgatā devī svātmabhūtānapāyinī /   ahaṃtā brahmaṇas tasya sāham asmi sanātanī // LT 2.12 あらゆる状態に到達した女性、女神、自己の存在が堅固なる女性(自己の実在が不滅なる女性)であり、そのブラ フマンにとっての「わたし性」(ahaṃtā)である彼女(シャクティ)は、永遠なるわたし(aham)である。   ātmā sa sarvabhūtānām ahaṃbhūto hariḥ smṛtaḥ /   ahaṃtā sarvabhūtānām aham asmi sanātanī // LT 2.13 彼(ナーラーヤナ)はアートマンであり、あらゆる存在物にとっての「わたしという存在」(ahaṃbhūta)であり、 ハリであると認められている。あらゆる存在物にとっての「わたし性」(ahaṃtā)は、永遠なるわたし(aham) なのである19   yena bhāvena bhavati vāsudevaḥ sanātanaḥ /   bhavatas tasya devasya sa bhāvo ’ham itīritā // LT 2.14 その存在するものとしての神にとって、その(神の)状態は、わたし(aham)と言われている。その状態によっ て永遠なるヴァースデーヴァが存在してる20   bhavadbhāvātmakaṃ brahma tatas tac chāśvataṃ padam /   bhavan nārāyaṇo devo bhāvo lakṣmīr ahaṃ parā // LT 2.15  存在するものと状態という〔 2 つの〕本質がブラフマンであり、それ故にそれは永遠の境地である。存在がナーラー ヤナ神であり、状態21がラクシュミーであり、わたし(aham)であり、最高処(parā)である。   lakṣmīnārāyaṇākhyātam ato brahma sanātanam /   ahamtayā samākrānto hy ahamarthaḥ prasidhyati // LT 2.16 それ故、永遠なるブラフマンをラクシュミー・ナーラーヤナと呼ぶ。なぜなら、「わたし性」(ahaṃtā)によって 遍満され、「わたしという実在」(ahamartha)が完成するから。   ahamarthasamutthā ca sāhaṃtā parikīrtitā /   anyonyenāvinābhāvād anyonyena samanvayāt // LT 2.17 彼女(ラクシュミー)は、「わたしという実在」(ahamartha)から生起するものであり、「わたし性」(ahaṃtā)と 言われる。互いに離れていないから、互いに結合しているから22   tādātmyaṃ viddhi saṃbandhaṃ mama nāthasya cobhayoḥ /   ahaṃtayā vināhaṃ hi nirupākhyo na sidhyati // LT 2.18 わたしと支配者という両者の関係は同性質であること23を知れ。なぜなら、「わたし性」(ahaṃtā)なしに、わたし (aham)は存在せず、完成することなはない。   ahamarthaṃ vināhaṃtā nirādhārā na sidhyati /   bhavadbhāvātmakaṃ rūpaṃ samastavyastagocaram // LT 2.19 「わたしという実在」(ahamartha)なしには、「わたし性」(ahaṃtā)は支えがなく、完成しない。存在するもの(ナー

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ラーヤナ)と状態(ラクシュミー)から成る形態は、全体として、また個々のものとして認識される24   parokṣam aparokṣaṃ ca jagati pravicintyate /   nirunmeṣe nirunmeṣā sāhaṃtā parameśvarī // LT 2.20 世界において、見えないものも見えるものも、〔人々によって〕考えられている。彼女は閉眼(未顕現)のときに閉眼(未 顕現)である25。〔その彼女は〕「わたし性」(ahaṃtā)である最高の主宰女神(parameśvarī)である。   kroḍīkṛtyākhilaṃ sarvaṃ brahmaṇi vyavatiṣṭhate /   unmeṣas tasya yo nāma yathā candrodaye ’mbudheḥ // LT 2.21 あらゆるものを包含するすべて(の世界)は、ブラフマン(の状態)において存在している。海から月が昇るとき のように、それ(ブラフマン)がまさに開眼(unmeṣa)であり〔それは次のものである〕。   ahaṃ nārāyaṇī śaktiḥ sisṛkṣālakṣaṇā tadā /   nimeṣas tasya yo nāma saṃhṛtau paramātmanaḥ // LT 2.22 そのとき26、〔それは〕わたし(aham)であり、ナーラーヤナのシャクティ(nārāyaṇī śaktiḥ)であり、創造のため の意欲を特徴とするものである。至高のアートマンにとって、世界の還滅のときに、それ(ブラフマン)がまさに の閉眼(nimeṣa)であり〔それは次のものである〕。   ahaṃ nārāyaṇī śaktiḥ suṣupsālakṣaṇā hi sā /   sisṛkṣāyā mamodyantyā devāl lakṣmīpateḥ svayam // LT 2.23 その彼女が27、わたし(aham)であり、ナーラーヤナのシャクティ(nārāyaṇī śaktiḥ)であり、まさに眠り(=還滅) のための意欲を特徴とするものである。創造のための意欲からわたし(aham)が生起することによって、ラクシュ ミーの主(夫)である神(=ナーラーヤナ)から自分自身で〔生起する〕。   avyāhatam asaṃkocam aiśvaryaṃ pravijṛmbhate /   jñānaṃ tatparamaṃ brahma sarvadarśi nirāmayam // LT 2.24 〔その彼女は〕妨げられず、抑圧されない「自在力」(aiśvarya)が、満ちあふれている。かの究極の「知識」(jñāna) がブラフマンであり、全てを見るもの、汚されないものである。   jñānātmikā tathāhaṃtā sarvajñā sarvadarśinī /   jñānātmakaṃ paraṃ rūpaṃ brahmaṇo mama cobhayoḥ // LT 2.25 同様に、「わたし性」(ahaṃtā)の「知識」(jñāna)の本質は、全てを知るものであり、全てを見るものである。 ブラフマンとわたしの両者の「知識」(jñāna)の本質は最高の形態である。   śeṣam aiśvaryavīryādi jñānadharmaḥ sanātanaḥ /   aham ity āntaraṃ rūpaṃ jñānarūpam udīryate // LT 2.26 他の「自在力」(aiśvarya)や「勇猛さ」(vīrya)などは「知識」(jñāna)の特質(属性、dharma)であり、永遠である。 「知識」(jñāna)の形態は、わたし(aham)という固有の形態であると言われている28   prakāśakādikaṃ rūpaṃ sphaṭikādisalakṣaṇam /   atas tu jñānarūpatvaṃ mama nārāyaṇasya ca // LT 2.27 〔その「知識」(jñāna)の形態は〕水晶などの特徴を伴っている輝きなどの形態であり、それ故に、わたしとナーラー ヤナの「知識」(jñāna)の形態を持つものである。

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  avyāhatir yad udyatyās tad aiśvaryaṃ paraṃ mama /   iccheti socyate tattattattvaśāstreṣu paṇḍitaiḥ // LT 2.28 生起する(udyatī)〔わたし〕は妨げられない(avyāhati)29、それがわたしの最高の自在力(aiśvarya)である。そ れは意欲(icchā)30であると、あらゆる真理〔が説かれる〕シャーストラ(聖典)において、賢者たちによって語 られている31   jagatprakṛtibhāvo me yaḥ sā śaktir itīryate /   sṛjantyā yac chramābhāvo mama tad balam iṣyate // LT 2.29 世界の物質的根源(prakṛti)としてのわたしの状態が「潜在力」(śakti)であると言われている32。わたしは創造 しながらも疲れることはない、それが「力」(bala)であると考えられている33   bharaṇaṃ yac ca kāryasya balaṃ tac ca pracakṣate /   śaktyaṃśakena tat prāhur bharaṇaṃ tattvakobidāḥ // LT 2.30  結果(創造されたもの)の維持、それもまた「力」(bala)と言っている。真理を体得した者たちは、その維持を「潜 在力」(śakti)の部分34として説明する35   vikāraviraho vīryaṃ prakṛtitve ’pi me sadā /   svabhāvaṃ hi jahāty āśu payo dadhisamudbhave // LT 2.31 わたしは世界の物質的根源(prakṛti)であるけれども、常に変異しない(変異から離れている)、〔それが〕「勇猛さ」 (vīrya)である。なぜなら、牛乳は、ヨーグルトに変わるとき、自己の性質を直ちに捨て去る36   jagadbhāve ’pi sā nāsti vikṛtir mama nityadā /   vikāraviraho vīryam atas tattvavidāṃ matam // LT 2.32 しかし、世界の存在において(世界が出現しても)、わたしにとってそれ(シャクティ)は永遠に変化しない。それ故、 変異しない(変異から離れている)ことが「勇猛さ」(vīrya)であると、真理を知る者たちは理解している。   vikramaḥ kathito vīryam aiśvaryāṃśaḥ sa tu smṛtaḥ /   sahakāryanapekṣā me sarvakāryavidhau hi yā // LT 2.33 「勇猛さ」(vīrya)は勇敢さ(vikrama)であると語られ、さらに、それは「自在力」(aiśvarya)の部分(要素) であるとも言われる。わたしはあらゆる行為の法則において共に行動するもの(sahakārin)とは関わりがない。   tejaḥ ṣaṣṭhaṃ guṇaṃ prāhus tam imaṃ tattvavedinaḥ /   parābhibhavasāmarthyaṃ tejaḥ kecit pracakṣate // LT 2.34 これこそを376番目のグナ(属性)である「光輝」(tejas)であると、真理を知る者たちは言う。「光輝」(tejas)は、 他者を支配下に置く能力であると、ある者たちは述べる。   aiśvarye yojayanty eke tattejas tattvakovidāḥ /   iti pañca guṇā ete jñānasya srutayo ’malāḥ // LT 2.35 真理を体得した者たちの一部は、その「光輝」(tejas)を「自在力」(aiśvarya)に結びつける。これら 5 つのグナ (属性)が、「知識」(jñāna)の清浄なる流出(sruti)である。   jñānādyāḥ ṣaḍguṇā ete ṣāḍguṇyaṃ mama tadvapuḥ /   udyatītthaṃ sisṛkṣāyā mamāyutatamī kalā // LT 2.36 これら「知識」(jñāna)などの 6 つのグナ(属性)は、6 つのグナ(属性)から成るわたしの顕現体(出現した姿)

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である。このように、わたしの創造の意欲により、何万もの部分38が出現しつつある。   śuddhāśuddhātmako vargas tayā kroḍīkṛto ’khilaḥ /   tatra śuddham ayaṃ mārgaṃ vyākhyāsyāmi sureśvara // LT 2.37 清浄と不浄な本質を持つ一群は、彼女(=ラクシュミー)によって、完全に包含されている。そこで、この清浄な る道をわたしは語ろう39、神々の主40よ。   abhivyaktānabhivyaktaṣāḍguṇyakramam ujjvalam /   ālambitacatūrūpaṃ rūpaṃ tatpārameśvaram // LT 2.38 その最高の主宰神の形態は、顕現しあるいは顕現していない 6 つのグナ(属性)から成る階梯に基づくものであり、 輝きであり、 4 つの形態である41   guṇakalpanayādhyasto guṇonmeṣakṛtakramaḥ /    mūrtīkṛtaguṇaś ceti tridhā mārgo ’yam adbhutaḥ // LT 2.39  グナ(属性)の形成によって位置づけられたもの、グナ(属性)の開眼(顕現)がなされる歩み、具現化がなされ たグナ(属性)という驚異的な 3 種の道がある42   yugāni trīṇi ṣaṇṇāṃ yāny āhur jñānādikāni vai /   samāsavyāsatas teṣāṃ cāturātmyaṃ vivicyate // LT 2.40 6 つの「知識」(jñāna)など(の属性)を持つものは一対ずつの 3 つになると言う。それらが、実に、それぞれの 組合せと配列により、 4 つの性質を持つものに分離される43   samastavyastabhedena guṇānāṃ tadyugatrayam /   vivakṣyate yadā sā me śāntāyāś cāturātmyatā // LT 2.41 結合したものと分離したものの区別によって、諸々のグナ(属性)がそれぞれ 3 つの組み合わせになるとき、それ はわたしの寂静なる 4 つの性質そのものと言われる44   ākṛtīr anavekṣyāpi guṇānāṃ kalpanākṛtam /   cāturātmyam idaṃ prāhuḥ śāntāyās tattvacintakāḥ // LT 2.42 たとえ顕現体を見なくても、この諸々のグナ(属性)が具現化することによって作られたものを、真理を考察する 者たちは寂静なる 4 つの本質と呼ぶ45   śāntātiśāntād unmeṣo mama rūpād yugatraye /   kramavyaktaṃ tadādyaṃ me cāturātmyam amūrtimat // LT 2.43 寂静と完璧な寂静の形態から、 3 つの組み合わせ(という状態)で、わたしの開眼(顕現)がある。段階的に顕現 するわたしの 4 つの本質のその最初のものが、形象を有さないものである46   ataraṅgam anirdeśyaṃ niḥsattaṃ sattvam avyayam /   saccinmātrākhya unmeṣaḥ sādyā me śāntatācyutiḥ // LT 2.44 〔すなわちそれは〕不動のものであり、指し示すことができないものであり、存在から離れたもの47であり、サッ トヴァであり、不変なものである。〔その〕開眼(顕現)は存在と知そのものと呼ばれる。それは、寂静性(不活 動性)48からのわたしの最初の分離である49   vyaktajñānabalākhyāyāṃ pūrvaṃ saṃkarṣaṇātmani /

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  tilakālakavat sarvo vikāro mayi tiṣṭhati // LT 2.45 まずはじめに、わたしの「知識」(jñāna)と「力」(bala)の顕現と呼ばれるサンカルシャナの本質(アートマン) の中に、(皮膚の下の)ほくろのごとくに、すべての変異(vikāra)が存在する50   tan māṃ saṃkarṣaṇātmānaṃ vidur jñānabale budhāḥ /   svayaṃ gṛhṇāmi kartṛtvam unmiṣantī tataḥ param // LT 2.46 かのわたしであるサンカルシャナの本質を、「知識」(jñāna)と「力」(bala)であると、知者たちは認識する。そ れから、〔わたしは〕開眼(顕現)しつつ、作者性を自らに獲得する51   pradyumna iti mām āhuḥ sarvārthadyotanīṃ tadā /   yugaṃ prasphuritaṃ rūpaṃ tasminn aiśvaryavīryayoḥ // LT 2.47 その時、すべての対象を輝かせるわたしをプラディユムナと言う。そこにおいて、「自在力」(aiśvarya)と「勇猛さ」 (vīrya)の組み合わせの形態が現れる。   tatas tayā kriyāśaktyā labdhāveśā cikīrṣayā /   yujyamānāniruddhākhyāṃ lambhitā tattvakovidaiḥ // LT 2.48 それから、その活動力(kriyāśakti)によって浸透され、〔また〕活動の意欲と結びついたものが52アニルッダとい う名称で真理を体得した者たちによって呼ばれる53   avasthāḥ kramaśo me tāḥ suṣuptisvapnajāgarāḥ /   tisro mama svabhāvākhyā vijñānaiśvaryaśaktayaḥ // LT 2.49 わたしにとって、その諸々の状態は、段階的に、熟睡状態(suṣpti)、夢眠状態(svapna)、覚醒状態(jāgara)で ある54。 3 つのわたしの自性(svabhāva)と呼ばれるものは、「知識」(vijñāna=jñāna)、「自在力」(aiśvarya)、「潜

在力」(śakti)である。   unmiṣantyaḥ pṛthaktattvatrayeṇa parikīrtitāḥ /   balaṃ vīryaṃ tathā teja ity etat tu guṇatrayam // LT 2.50 〔それらの自性は〕開眼(顕現)しつつあり、原理(tattva)の 3 種の区分として言及される。他方、「力」(bala)、「勇 猛さ」(vīrya)、そして「光輝」(tejas)というこの 3 つのグナ(guṇatraya)がある。   śramādyavadyābhāvākhyaṃ jñānāder upasarjanam /   itthaṃ śāntoditāvasthādvayabhedajuṣo mama // LT 2.51 〔それら 3 つのグナ(属性)は〕疲労などの不完全さは存在せず、知識(jñāna)などの流出(upasarjana)であ る55。このように、わたしにとって、平安なるもの56から生起した状態は 2 種の区別を持つものである57   svadharmormisamullāso na bhedāyām budher iva /   prāyo yad guṇakartavye varte kṛtyā yayā hy aham // LT 2.52 自己の性質のあらわれ(波)である喜びが、知者(=ラクシュミー)から離れてはいないように、わたしが現れる 創造によって、主にグナが作られるから58   tatra tadguṇayugmaṃ tu mama rūpatayocyate /   ato jñānabale devaḥ saṃkarṣaṇa udīryate // LT 2.53 さて、そこにおいて59、そのグナの一対(組み合わせ)が、わたしにとって形態性(形あるもの)として、語られる。 それ故、知識(jñāna)と力(bala)〔の組み合わせ〕である神は、サンカルシャナと述べられる。

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  aiśvaryavīrye pradyumno ’niruddha śaktitejasī /

  ādyas tv abhinnaṣāḍguṇyo brahmatattvāpṛthaksthitau // LT 2.54

「自在力」(aiśvarya)と「勇猛さ」(vīrya)〔の組み合わせ〕がプラディユムナであり、「潜在力」(śakti)と「光輝」(tejas) 〔の組み合わせ〕はアニルッダである。しかし、最初の分化していない 6 つのグナに関するものは、ブラフマンと いう原理と不可分な状態として〔存在する〕60   eko ’py anunayaudāryakrauryaśauryādibhir guṇaiḥ /   naṭaḥ pravartate yadvad veṣaceṣṭādibhedavān // LT 2.55 一人の役者でも、平静さ、高潔さ、残虐さ、勇敢さなどの諸々の性質(グナ)によって、衣装や演技などが異なっ て現れるように。   tadvad ekāpi saivāhaṃ jñānaśaktyādibhir guṇaiḥ /    saṃkarṣaṇādisadbhāvaṃ bhaje lokahitepsayā / LT 2.56 まさにそのように、かのわたしは一人であっても、「知識」(jñāna)や「潜在力」(śakti)などの( 6 つの)グナ(属 性)によって、世界の利益を望むことにより、サンカルシャナなどの実在に、〔自身を〕分割する。   kramaśaḥ pralayotpattisthitibhiḥ prāṇyanugrahaḥ /   prayojanam athānyac ca śāstraśāstrārthatatphalaiḥ // LT 2.57 〔わたしの目的は〕順番に破壊・創造・維持〔を行うこと〕による、人類の救済である。また、もう一つの目的は、 教え(śāstra)と教えの意味(śāstrārtha)のその諸々の結果によって〔人類を救済することである〕。   daśās turyasuṣuptyādyāś caturvyūhe ’pi lakṣayet /   vibhavo ’nantarūpas tu padmanābhamukho vibhoḥ // LT 2.58 第 4 状態(turya)や熟睡状態(suṣupti)などの状態(daśā)を、 4 つのヴューハ(配置)においても、見るべ し61。一方、遍在者(神)のヴィバヴァ(展開)は、パドマナーバ(蓮華を臍とする者=ヴィシュヌ)を始めとす る無限の形態である62   aniruddhasya vistāro darśitas tasya sāttvate /   arcāpi laukikī yā sā bhagavadbhāvitātmanām // LT 2.59 アニルッダの詳述は、かのサーットヴァタ63において示される。バガヴァットによってアートマンが清められた世 間の神像(arcā)も、また〔サーットヴァタにおいて示される〕。   mantramantreśvaranyāsāt sāpi ṣāḍguṇyavigrahā /   parādyarcāvasāne ’smin mama rūpacatuṣṭaye // LT 2.60 マントラとマントラの主宰神を付置することにより、それ(神像)もまた、 6 つのグナ(属性)を備えた身体とな る64。最高神(parā)で始まり神像(arcā)に至るこのわたしの 4 種の形態(ヴューハ)において。   turyādyavasthā vijñeyā itīyaṃ śuddhapaddhatiḥ /   īṣadbhedena vijñeyaṃ tadvyūhavibhavāntaram /   śuddhetaraṃ tv atho mārgaṃ mama śakra niśāmaya // LT 2.61 〔 4 ヴューハは〕第 4 状態(turya)などの状態が知られるべし。以上、これが清浄なる道(śuddhapaddhati)である。 そのヴューハとヴィバヴァの違いは、わずかな差異として知るべし。では次に、わたしの不浄なる道(śuddhetaram  mārgam)65を聞け。シャクラよ。

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iti śrīpāñcarātrasāre lakṣmītantre śuddhamārgaprakāśo nāma dvitīyo ’dhyāyaḥ 以上、パーンチャラートラ派の精髄『ラクシュミー・タントラ』における

第 2 章「清浄なる道の明示」。 参考文献

テクストと翻訳

Lakṣmī-tantra: A Pāñcarātra Āgama. Edited with Sanskrit gloss and introduction by Krishnamacharya, V. Chennai: The  Adyar Library and Research centre.

Gupta, Sanjukta [translation and notes with introduction]. Lakṣmī Tantra: A Pāñcarātra Text. Delhi: Motilal Banarsidass.

二次資料

Mani, Vettam, 1975, Purāṇic Encyclopaedia. Delhi: Motilal Banarsidass.

Rastelli, Marion, 2009, “Pāñcarātra” in Knut A. Jacobsen (ed.), Brill’s Encyclopedia of Hinduism, Vol. 1. Leiden: BRILL,  pp. 444–457.

Schrader, F. Otto, 1916, Introduction to the Pāñcarātra and the Ahirbudhnya Saṃhitā. Madras: The Adyar Library and  Research Centre. R.G.バンダルカル著; 島岩・池田健太郎訳 1984 『ヒンドゥー教──ヴィシュヌとシヴァの宗教』せりか書房。 橋本泰元・宮本久義・山下博司 2005 『ヒンドゥー教の事典』東京堂出版。 引田弘道 1997 『ヒンドゥータントリズムの研究』山喜房佛書林。 前田専学 1980 『ヴェーダーンタの哲学─シャンカラを中心として』〈サーラ叢書24〉平楽寺書店。 三澤祐嗣 2013 「『ラクシュミー・タントラ』第 1 章訳註」『東洋大学大学院紀要』第49集、pp. 129–150。 1  第 1 章においてインドラより『ラクシュミー・タントラ』を示して欲しいと乞われたラクシュミーが、その教えを語る 場面から、第 2 章は始まる。 2  Guptaは「有名なヴェーダマントラの繰り返し:tad viṣṇoḥ paramam padam sadā paśyanti sūrayaḥ divīva cakṣur  ātatam (Ṛg V. I. 22. 20)」と説明している。[Gupta 2000:  8 ] 3  第 1 偈では、創造の最初の状態は至高のアートマン(paramātman)から始まる、ということが示されている。 4  個々のアートマンは同じアートマンであるにも関わらず異なるものであるが、ここではさらに、それら個々のアートマ ンと彼女すなわちラクシュミーは、性質が同じであるが異なるものであるということを示していると考えられる。そし て、そのラクシュミーをLT 2.1で説かれる至高のアートマンと同一視している。そのために「彼女」という語を用いて いるのであろう。Krishnamacharyaによる註釈では、「アートマンは。統御するものという意味である。“eṣā”とは。個々 に異なるもの(vyavasthā)ということが省略されている。別のものである、すなわち完成しているのであり、それが 至高のアートマンという前者( 1 偈)と結びつく。」(“ātmā. niyantety arthaḥ. eṣeti. vyavastheti śeṣaḥ. vyavatiṣṭhate  samāpnoti, sa paramātmeti pūrveṇānvayaḥ.”)と説明される。[Krishnamacharya 1959: 6] 5  GuptaはKaṭha Upaniṣad 1.3.9を例に挙げ、「この概念はウパニシャッドに遡る」としている。[Gupta 2000: 8] 6  至高のアートマンとアートマンは別ものである。最高処において、活動せず、彼岸であるのが、至高のアートマンであ るが、自身をわたしとして想起するときにアートマンになるのである。 7  LT 2.3で説かれている「わたし」と異なることに注意しなければならない。〈「わたし」として意味が想起されるもの〉 がアートマンであり、〈束縛から離れた「わたし」〉が至高のアートマンである。ラクシュミーは至高のアートマンと同 一であり、その在り方の違いを示しているのである。 8  知覚できる性質のものとできない性質のものとは、精神性のものと非精神性のものを指すと考えられる。前者はこころ を持つものであり、生物のことである。一方、後者はこころを持たないもので、無生物のことである。そして、至高のアー トマンは、あらゆる精神性のものと非精神性のもの、つまり世界の一切を支配するのである。 9  サートヴァタ族、別名ヴリシュニ族において、ヴァースデーヴァは最高神として崇められていた。この一族にはヴァー スデーヴァやサンカルシャナという戦士がいたという。この宗教は広く信仰されるようになり、やがてクリシュナとも 同一視され、ヴァースデーヴァ・クリシュナとも呼ばれるようになった。[バンダルカル 1984: 24–31] さらにバンダ ルカル氏によると、「ヴェーダの神に起源をもつヴィシュヌ神の系統」、「宇宙的・哲学的神であるナーラーヤナの系統」、

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「歴史的神格であるヴァースデーヴァの系統」という 3 つの系統が明確にひとつの流れを形作り、さらに第 4 の系統と して「牛飼いのクリシュナの系統」が加わり、ヴィシュヌ派が形成されていくという。[バンダルカル 1984: 105] 10 知田者とも訳される。kṣetra(土地)をjñaḥ(知る者)という意味で、kṣetraとはプラクリティあるいは物質原理を指し、 kṣetrajñaḥとはプルシャすなわち精神原理のことである。 11 至高のアートマンから始まる創造の次の段階であり、無活動であった至高のアートマンが、「わたしである」と自己を 認識することによって、自己を最高神として顕現させるのである。これが創造の 2 番目の段階である。 12 ナーラーヤナ神は、「ナーラ(ナラの集団=人々)が赴く休息所(目的地)」や、「ナラ」を男らしい者としての神々」 と解して「神々の休息所(目的地)」を意味すると言われる。あるいは原初の水と結びつけられ、「水はナラの息子だか らナーラーといわれ、この水がハリ神の休息所だからハリ神はナーラーヤナと呼ばれるのだ」と説明されている。ナー ラーヤナは、ブラーフマナ文献の時代には最高神の地位に登っており、ヴァースデーヴァ崇拝が発展するようになると、 その 2 神は同一視されるようになっていったという。[バンダルカル 1984: 90–99] 13 Krishnamacharyaによる註釈では、「別のところで、シャクラ(インドラ)は「ヴィシュヌであるここなるあなたによっ て、水、世界、動くものと動かないものは遍満されている」と語っている」(“āha ca śakro ’nyatra — “tvayaitadviṣṇuṇā  cāmba jagadvyāptaṃ carācaram” iti.”)と説明される。[Krishnamacharya 1959: 6] ここではおそらく、ナーラーヤナは、 「わたし性」(ahaṃtā)すなわち自身を自身として認識することによって、全世界に行き渡っているということが説かれ ているのであろう。 14 Krishnamacharyaの註釈では、「“idaṃtayā”〔云々〕とは。“idam”という言葉の意味によって、すべての世界は 知られるという意味である」(“idaṃtayeti. idaṃśabdārthatayā pratītaṃ sarvaṃ jagad ity arthaḥ.”)と説明される。 [Krishnamacharya 1959: 6] 「これ性」(idaṃtā)とは、ものをものとして成立させるもの、個別に成り立つものと考 えられ、名称とも解せるであろう。“ālīḍha”は「舐められる」「食べられる」「解体される」などを意味する。「これ性」(idaṃtā) によって解体される(示される?)ものとは、この世界のあらゆるものを意味すると考えられる。そして、それらが「わ たし性」(ahaṃtā)によて満たされる、すなわち全世界に「わたし性」(ahaṃtā)が遍満していると考えられる。あるいは、 解体・解消されるということは、個別性がなくなるということであり、あらゆる世界が同一になるということを意味し ているとも考えられる。 15 ここでは、ラクシュミーとブラフマンを同一視している。 16 すなわち、他に依存することなく存在するのである。

17 シャクティの 6 つのグナ(属性)、すなわち、( 1 )知識(jñāna)、( 2 )自在力(aiśvarya)、( 3 )潜在力(śakti)、( 4 ) 力(bala)、( 5 )勇猛さ(vīrya)、( 6 )光輝(tejas)である。

18 Krishnamacharyaの註釈では、「自己と不可分に確立したシャクティである「わたし性」(ahaṃtā)に限定されるという ことから、その限定されたものが、まさに唯一のブラフマンであり、真実であるという意味である」(“svāpṛthaksiddhś aktyahaṃtāviśiṣṭatvāt tadviśiṣṭaṃ brahmaikam eva tattvam ity arthaḥ.”)と説明される。[Krishnamacharya 1959: 6] 19 「わたし」(aham)は、「わたしという存在」(ahaṃbhūta)=「わたしという実在」(ahamartha)と「わたし性」(ahaṃtā) という 2 側面があるが、シャクティである「わたし性」(ahaṃtā)を、属性でありながら永遠なる「わたし」(aham) という最高処と同置している。 20 ラクシュミーが存在するから、ヴァースデーヴァが存在するのである。 21 bhāvaḥは男性形であるが、ラクシュミーに対応する。 22 実在が先にできて、そこに属性が付与される。 23 ラクシュミーとナーラーヤナは同じ存在であるということ。 24 「わたし」には 2 つの側面がある。すなわち「本体としてのわたし」と「機能ないし属性としてのわたし」である。「本 体としてのわたし」は、「わたしという実在」(ahamartha)であり、ナーラーヤナである。「機能ないし属性としての わたし」とは、「わたし性」(ahaṃtā)であり、ラクシュミーである。両者は同一であるが別ものであり、片方が欠ける ことは想定されていなく、両者は互いに一方がなくては存在できない、すなわち両者は互いに限定し合っているのである。 25 ブラフマンが未顕現のときには顕現しないということである。あるいは顕現したいときに顕現するとも考えられるかも しれない。 26 前偈21のCパダ“yaḥ”を受けて。 27 前偈22のCパダ“yaḥ”を受けて。 28 シャクティの 6 つのグナ(属性)のうち、「知識」(jñāna)が彼女の本質であり、それ以外の 5 つは付随するものである。 29 Guptaは、「創造性のわたしの原初の状態に言及して」と訳し、この“udyatī”を直前の創造の局面に言及していると説 明している。[Gupta 2000: 10] 30 Krishnamacharyaの註では次のように説明されている。「icchāとは。創造の目的としてのシャクティの自在力(aiśvarya)

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の形態が前の24偈に説明され、ここで思い起こされる。なぜなら、sisṛkṣāは創造のため(sraṣṭum)の意欲(icchā)で あるから。」(“iccheti. sisṛkṣāśakteraiśvaryarūpatvaṃ pūrvaṃ caturviṃśe śloke varṇitamatra smartavyam. sisṛkṣā hi  sraṣṭumicchā.”)[Krishnamacharya 1959: 8] 31 「自在力」(aiśvarya)によって彼女の創造は妨げられない、すなわち、彼女にとって創造は自由自在なのである。 32 Krishnamacharyaの註では次のように説明されている。「女神による世界のプラクリティの状態は、自己の本質ではな いから、その状態のように、変化しうる性質を付加される故に。それにもかかわらず、自己のあり方が実在する知と無 知であるアートマンによって、と理解されるべきである。なぜなら、まさにこの彼女は、ブラフマンから世界のプラ クリティというものに帰着するからである。」(“devyā jagatprakṛtibhāvo na svarūpataḥ, tathātve vikāritvaprasaṅgāt.  kiṃtu svaprakārahūtacidacidātmaneti draṣṭavyam. eṣaiva hi brahmaṇo jagatprakṛtitve gatiḥ.”)[Krishnamacharya  1959: 8] 33 シャクティによって、女神は世界の根源(prakṛti)となる。女神は「力」(bala)によって何の労もなく世界を創造する。 34 シャクティにはおそらく 2 つの側面があると考えられる。ラクシュミーであるシャクティと 6 つのグナ(属性)の一つ としてのシャクティ(「潜在力」)である。ここでは後者を意味していると考えられる。 35 力(bala)によって結果(創造されたもの=世界)は維持される。 36 様々なものは、様々に性質を変化させていくが、シャクティのみは本質として変化しないということである。 37 前文“yā”を受けて。 38 何万ものわたしの部分になって出現する。あらゆる存在物が出現する。 39 61偈に示されるとおり、不浄な道は次章以降に説かれる。 40 インドラのこと。 41 この 4 つの形態とは、ヴューハ(配置)と呼ばれる 4 柱の神の顕現である。その神々は、ヴァースデーヴァ、サンカル シャナ、プラディユムナ、アニルッダである。サンカルシャナは別名Balabhadraとも呼ばれ、ヴァースデーヴァの兄 である。また、プラディユムナとアニルッダはそれぞれヴァースデーヴァの息子と孫である。ヴューハの神格は、上記 の 4 名にSāmbaを足した、ヴリシュニ族の 5 人の英雄が元になっているとされる。いつのころからかSāmbaは除外され、 ヴァースデーヴァを頂点とするヴューハが形成されたという。[Rastelli 2009] Guptaはヴューハについて次のように説 明している。「清浄なる創造と不浄なる創造の間の違いは、 3 つの現象の属性、サットヴァ、ラジャス、タマスが、清 浄なる創造において存在していないのであり、その清浄なる創造は時折nityavibhūtiと呼ばれ、反対に不浄なる創造は līlāvibhūtiと名付けられる。前者は 4 つの顕現(caturmūrtiあるいはcaturvyūha)から成る。これら 4 つの顕現(ヴュー ハ)の最初(すなわちヴァースデーヴァ)において、属性は休止状態であり、それ故、うっすらと顕現しているのみで ある。顕現が進行するにつれ、それらはより輝き、深淵となる。」[Gupta 2000: 11] 42 すなわち、グナ(属性)の段階的な顕現を示していると考えられる。 43  6 つのグナ(属性)が、 2 つずつ組み合わさり、 3 組できる。また、 6 つのグナ(属性)を全て組み合わせたものが 1 組できる。これらが、併せて 4 つの性質のものである。 44 前偈の註を参照。 45 諸々のグナが具現化すること、すなわち、実際に形成することによって作られたものが、 4 つの顕現体という具象した ものであるが、それらは、顕現体と言えでも、直接に見ることはできないのである。 46  4 つのヴューハの中で最初のもの、すなわちヴァースデーヴァは、未だはっきりと現れていないため、形象を有してい ないのである。 47 “niḥsattam”は、“nir-sattā”を中性にしたものと解した。プラークリットなどで“satta”は“sattva”の意味であるが、 ここではその意味はふさわしくない。 48 おそらく至高のアートマンのことを指すのであろう。 49 この44偈は、 4 ヴューハの最初であるヴァースデーヴァについて、説明していると考えられる。 50 変異したものが、うっすらと見えている状態。 51 徐々に顕現しつつある状態で、それは同時に徐々に活動性を有することでもある。作者性とは創造者としての性質で、 それを自ずから獲得するのである。この状態は、次の偈で説明されているとおり、プラディユムナである。 52 前者は自在力(aiśvarya)、後者は光輝(tejas)であると思われる。 53 ここでのヴューハの神々の展開は、ヴァースデーヴァ→サンカルシャナ→プラディユムナ→アニルッダの順で行われる。 54 ヴェーダーンタ学派を中心に、覚醒状態(jagāt)、夢眠状態(svapna)、熟睡状態(suṣpti)、そして 3 つの状態を超越 した第 4 状態(caturtha、turya、turīya)というアートマンの 4 つの状態は古代から思索されてきた。これら「四つの 状態に関する哲学的思索はウパニシャッドに始まり、その最も体系的な説明は、シャンカラの註釈をもつ『マーンドゥー キヤ・ウパニシャッド』に見られる」という。アートマンの覚醒状態においては 5 感覚器官と内的器官が機能し、夢眠

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状態のときは感覚器官は停止して、内的器官のみが働き、さらに、熟睡状態では、内的器官さえも停止する。そして、 第 4 状態はいかなる語によっても表現されることができず、清浄なものである。[前田 1980: 188–192] ここでは、覚 醒状態(jāgara)にサンカルシャナを、夢眠状態(svapna)にプラディユムナを、そして熟睡状態(suṣpti)にアニルッ ダを同定している。そして、第 4 状態(turya)はヴァースデーヴァに対応すると考えられる。ヴァースーデーヴァか らアニルッダまでの 4 ヴューハ神の顕現は、徐々に明確になっていくことであり、それはアートマンが覚醒に向かうこ とである。 55 28~35偈では「知識」(jñāna)を除く 5 つのグナ(属性)の特徴が述べられる。例えば29偈においては、創造において 疲れないということが、「力」(bala)の性質として説かれている。 56 創造における最初の段階である平安の状態のこと。 57  6 つのグナ(属性)には 2 種の分類があり、一方は自性(svabhāva)と呼ばれる。もう一方は 3 つのグナ(guṇatraya) と呼ばれ、それぞれが自性(svabhāva)から流出(upasarjana)する。サンカルシャナなどの 3 神は、両者から 1 つず つを有し、一対の組み合わせを形成する。すなわち、「知識」(jñāna)から「力」(bala)が、「自在力」(aiśvarya)から「勇 猛さ」(vīrya)、「潜在力」(śakti)から「光輝」(tejas)が流出(upasarjana)し、それぞれ組となるのである。 58 最高存在であるラクシュミーは、自身が顕現していく創造の時に、 6 つのグナ(属性)を作るということである。 59 前偈の“yad”を受けて、「グナ(属性)が作られるときにおいて」という意味である。 60  4 ヴューハの中で、最初に現れるものは、 6 つのグナを全て有しており、ブラフマンと不可分であると言うことである。 61 註54を参照。 62 ヴューハ(配置)とは別に、ヴィバヴァ(展開)という顕現がある。Schraderは、ヴィバヴァとはアヴァターラであり、「清 浄な創造」に属するとし、『アヒルブドニヤ・サンヒター』に説かれる39の神々を列挙している。[Schrader 1916: 49]  また、引田氏は、ヴィバヴァ神は最高神のエネルギーの顕現であり、この顕現は経験世界にも超越的世界にも生じると 論じている。[引田 1997: 80] 63 Guptaは、「サーットヴァタはここではパーンチャラートラ派の中でも最古の文献の一つである『サーットヴァタ・サン ヒター』を意味する」としている。[Gupta 2000: 14] この語は第 1 章の19偈と21偈でも示されるが、そこではパーンチャ ラートラ派の教えそのものを指していると解される。[三澤 2013] 64 神像は、マントラとマントラの主宰神を付置することにより、生きた身体を獲得しつつも、 4 柱の神と同質のものにな るということである。 65 ここでいう不浄(śuddhetaram)とは、より物質的な創造に移ることを言う。 キーワード ヒンドゥー教、インド哲学、タントラ、パーンチャラートラ派、『ラクシュミー・タントラ』

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執筆者一覧(五十音順)

一ノ瀬 正樹       東京大学大学院教授 井上 克人        関西大学文学部教授 大西 克智        東京藝術大学非常勤講師 呉 光輝         厦門大学外文学院副教授 小坂 国継        日本大学名誉教授 後藤 敏文        東北大学名誉教授 斎藤 明         東京大学大学院教授 白井 雅人        東洋大学国際哲学研究センター研究助手 関 陽子(山村 陽子)  東洋大学国際哲学研究センター研究支援者 竹中 久留美       東洋大学大学院文学研究科哲学専攻 博士後期課程 永井 晋         東洋大学文学研究科教授 堀内 俊郎        東洋大学国際哲学研究センター研究助手 三澤 祐嗣        東洋大学大学院文学研究科仏教学専攻 博士後期課程 村上 勝三        東洋大学文学研究科教授 渡部 清         上智大学名誉教授 アジャ・リンポチェ        チベット・モンゴル仏教文化センター所長 ギャワーヒー,アブドッラヒーム  世界宗教研究センター所長 ザキプール,バフマン       東洋大学大学院文学研究科哲学専攻 博士後期課程 ビービー,ヘレン         マンチェスター大学教授 マラルド,ジョン・C       北フロリダ大学名誉教授 メール,エドゥアール       ストラスブール大学教授

国際哲学研究  3 号

2014年 3 月31日発行 編 集 東洋大学国際哲学研究センター編集委員会     (菊地章太(編集委員長)、伊吹敦、大野岳史) 発行者 東洋大学国際哲学研究センター(代表 センター長 村上勝三)     〒112-8606 東京都文京区白山5-28-20 東洋大学  6 号館 4 階60466室     電話・FAX:03-3945-4209     E-mail:ircp@toyo.jp     URL:http://www.toyo.ac.jp/rc/ircp/ 印刷所 共立印刷株式会社 *本書は、私立大学戦略的研究基盤形成支援事業の一環として刊行されました。

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