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ソ連邦の崩壊とロシアの改革関係 河 原 祐 馬

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(1)

『岡山大学法学会雑誌』第59巻第3・4号(2010年3月)   660   

説≡  

ll=ll‖‖川l■  

ソ連邦の崩壊とロシアの改革関係  

河 原 祐 馬   

本稿は,ソ連邦崩壊以後のロシアの政治における軍の役割について,文民   統制問題を主たる考察の対象として.論じようとするものである。まず第1   節では,連邦崩壊へと向かうゴルバチョフ時代におけるソ連の政軍関係につ   いて,同時代の民族間題およびそれに起因する連邦構成共和国の分離問題を   めぐる軍の反応,特に,1991年8月の連邦政府保守派によるクーデタ一束遂   事什に対するそれに焦点を当てて,論じる。続く第2節では,エリツィン大   統領と議会勢力との対立が決定的となった1993年秋の政治危機に対する軍の   対応をめぐる問題を中心に取り上げ,この危機を経て形成された「1993年憲   法体制」下のロシアにおける軍の政治参加に関する問題について,考察する。  

最後の第3節では,プーチンの時代以降における軍の改革問題に焦点を当て,  

主として,ロシアの民主化プロセスをめぐる議論との関わりにおいて,軍の   文民統制問題について,論じることにしたい。  

Ⅰ.ゴルバチョフ時代の改革関係  

ソ連の軍隊は,共産党を中心としたいわゆる「党=国家」体制の下で,そ   の特有のコーポレート・アイデンティティを培っていた。共産主義体制下の   ソ連では,党による軍のイデオロギー的統制が徹底され,組織上党中央委員   会の管轄下にあった政治総本部が国防省の中で自立した統制組織としての役   割を担っていた。陸海空等の各軍種司令官には党籍をもつ将校が任命され,  

27  

(2)

659 ソ連邦の崩壊とロシアの政軍関係  

その副官には政治将校(ザムポリト)が政治指導担当の任を担って配置され   ていた(1}。この司令官と政治将校との関係は,ソ連社会にあって,企業の支   配人と党書記の関係のそれと同じく,共通の臼標達成に向けての「協調的な   労働関係を維持するための重要な職業上のインセンティブ(2)」の下にあった  

と言われている。  

また,軍の将校たちは一般の非軍事エリートたちと同じく,「信頼すべき」  

党員たることをもってその自らのエリートとしての経歴を評価されていた。  

国防省の官僚文化のそれは政府における他のすべての官庁のそれに類似して   おり,その意味で,軍の将校たちは党政治局を頂点とする「党=国家」体制   下での権威主義的ヒエラルキーの社会的評価システムに大きく組み込まれて   いた「)そこに,欧米諸国と比べて,非軍事的な文民の価値システムと職業的   な軍のそれとの間の乳轢がソ連においては相対的に少ないとされる主たる理   由があったと考えられる(3−。  

さらに,ソ連軍特有のコーポレート・アイデンティティの形成にとっての   重要な要因としてしばしば指摘されるのが,革と市民との密接な関係を担保   するものとしての徴兵制の役割である(1)〔〕徴兵制は,ソ連の軍隊への若い市   民の持続的な流人を保障し,「軍の制度と市民のそれとの間の高いレベルの透   過性 5)」を可能なものにした。即ち,徴兵制の実施は2年間の兵役(6−を終え  

た元兵士たちの市民社会への途切れることのない環流を意味し,それは市民   の生活と軍の制度との間の垣根を低くするのに大いに役立ったとされる。後   に見るように,そうした関係性は市民に銃「ほ向けることに対する軍として  

(1)笹岡伸夫 2007「ソ連崩壊と集団的アクターー一軍隊・反対政党・民族共和国一」『国    際政治』第148号,62頁を参照 

(2)Jones,Ellen.1985.RedArmyalZdSu(:ie妙:ASo(:lbl(煤γq//heSol)lbtMiliklTy,Allen&   

Unwin,p.142.  

(3)ノ仇 dりP.219.  

(4)乃オd.,pp.92−93.  

(5)〟履.,p.219.  

(6)ソ連の徴兵・制度は連邦崩壊後のロシアにも継承されていく′つ徴兵期間は原則2年だが,   

その後,プーチン政権卜の軍改革のプロセスにおいて,その期間を短縮する方向(基本    的に1年)で計画が進んでいった。  

2β   

(3)

岡 法(59−3・4)   

の抵抗の意識を強く育むことにつながった。その意味において,ソ連の軍隊   は制度的に「市民化」されていたと考えられるけ〉。  

658   

1.ゴルバチョフの改革   

ブレジネフ時代末期のソ連は.西側との技術格差に象徴される経済的停滞,  

また,汚職ヤアルコール中毒といった社会的退廃現象の増大,さらには,外   交面での国際的孤立など抜本的な改革を必要とする慢性的な停滞期に陥って   いた。クレムリン内部では,ブレジネフの流れを汲む守旧派とアンドロポフ   に代表される改革派との間に改革をめぐる政争が展開され,この両派の政争   の中から改革派の旗手として登場したのが1985年3月に党書記長に就任した  

ミハイル・ゴルバチョフであった。   

ペレストロイカの名で知られるゴルバチョフの改革は,翌1986年春のチェ   ルノブイリ原発事故を大きな契機として加速されていく。まず,彼は国家と   社会との関係の再定義という観点から,言論の自由ヤ検閲の禁止といった情   報公開をめぐる問題を主眼としたグラースノスチ政策に着手し,また,1987   年1月以降,複数候補制を軸とした最高会議の改革に取り組み,それは新選   挙法の採択を経て,1989年5月の人民代議員入会の召集へとつながっていっ   た。民主化の動きはさらに進み,翌1990年2月には,ソ連共産党の指導政党   としての社会的役割を規定した憲法第6条の改正および同3月の大統領制の   導入へと至る。こうした政治的諸改革を経て,立法・行政権力は,法的には   ソ連共産党から人民代議員大会および大統領(大統領会議,閣僚会議,国防   会議)へと移行し,ここに党書記長を頂点とする「党=国家」秩序を基盤と  

した共産主義体制はその終焉へと向けて大きく動いていった。   

また,ゴルバチョフは,これらの政治的諸改革と並行して,連邦秩序の碓  

(7)エリツィンおよびプーチン時代における軍改革をめぐる議論では,後述するように,   

徴兵制を廃して,志願兵制への全面移行の方向性が具体的に検討されたが,政治的・軍    事的指導者の側だけではなく,国民の間でも徴兵制廃止の方向性に否完的な見解が多く    見られた。その理由の一つとして,こうした軍の「市民化」という状況に起因する国民    の軍に対する親近感もしくは信頼感を考慮に入れることができるように思われる。  

29  

(4)

657 ソ連邦の崩壊とロシアの改革関係  

持を前提とした社会主義の枠内での経消的諸改革に着手した。改革以前の非   効率な中央集権的計画経済の弊害が指摘され,市場社会主義の名の下に新制   度移行のための法制定が順次進められた。1987年には企業の自主性強化や独   立採算化,生産財の流通および企業内管理の民主化等を主眼とした国営企業   法が制定され,約4万8000に及ぶ国営企業の新メカニズムへの漸進的な移行   が図られた。さらに,1990年2月から翌3月にかけて,個人農の育成促進に  

よる生産向上を目的とする土地基本法および社会主義的所有制度の抜本的見   直しを企図した所有権法が制定された。こうした市場化に向けての実質的な   流れの中で,経済改革の方向性は連邦政府が当初企図していた社会主義の枠   内での改革という基本的な方向性を大きく逸脱し,シヤターリン案に代表さ   れる市場経済への迅速な移行のための計画案が共和国権力を基盤とする急進   改革派を中心に大きな支持を集めていく〔つ この流れの中で,1991年6月にロ  

シア共和国大統領に当選したボリス・エリツィンの下に価格自由化政策が主   唱され,同共和国は独自の通貨や関税システムを導入し,連邦とは分離する   やり方で銀行改革や対外貿易を実施する方向へと進んでいった。   

以上のようなペレストロイカ期における一連の動きは,先に言及したソ連   草のコーポレート・アイデンティティをとり巻く環境に大きな変化を与える  

ものであった√〕グラースノスチ政策の展開は連邦内の諸民族の民族的自覚を   促し,それは国内の至るところで激しい民族独立運動の波を生み出す結果と  

なった。大統領制の導入に代表される政治改革はそれまで連邦の秩序維持に   決定的な役割を果たしていたソ連共産党の実質的な権威を失墜させ,それは   経清的な混沌と相まって,ソ連社会をきわめて流動的な状況へと導いていっ   た。こうした過程の中で,「これまで党・国家の一利度として保持されてきた   軍の地位・特権に対して,党がメスを入れたり,自立した諸集札 特にマス  

コミの側から軍の問題点が糾弾されたりするなど,政治や社会から軍に関与   する動向が現れ佃)」,また他方,「軍人が行政だけではなく,新設された立法  

㈲笹l町前掲論文,62貫。  

.了(j   

(5)

同 法(59−3・4)   

機関にも多数参加するという,軍の政治化という現象t9ニ」も同時並行的に進   んでいった。  

656   

2.ペレストロイカと軍   

「党=国家」体制下のソ連において,軍は強い文民統制の下に置かれ,ま   た,党に対する忠誠が軍エリートとしての将校の昇進をはじめとする社会的   評価の前提であったと考えられる。それと共に,歴代の党指導部は軍に対す   る敬意を共有し,革をめぐる問題に高いプライオリティを与えていた.。しか  

し,ゴルバチョフの登場によって,軍はその特権的な地位を次第に失ってい   く。まず,ゴルバチョフの改革は,ソ連国内の中央一周辺関係の基礎を大きく   揺るがした。彼の政治改革はソ連共産党の権威の失墜につながり,それは,  

国の津々浦々に張り巡らされていた共産党の指揮命令系統を損なう結果を招   いた。これにより,それまで中央一周辺関係において「文化的かつ言語的に異   なる背景をもつ地域を束ねていた官僚的接着剤(10)」が取り除かれた。また,  

民主的選挙を経て選出された人民代議員大会の召集に代表される最高会議の   改革は従来の党主導の政治システムを大きく変容させ,結果として,それは   以前には実質的な発言権を持ち得なかった共和国の民族指導者たちが連邦の   政策決定に関与する上での重要な契機となった。   

改革に伴う以上のような展開は,ソ連国防省に深刻な影響を与えた。まず,  

中央レベルにおける権力の弛緩は共和国レベルの周辺部において民族紛争を   引き起こす結果となり,そして,そうした民族紛争の鎮圧の任を担わされた   のがソ連国防省であった。また,ソ連の軍隊は経済的混乱に起因する無数の   ストライキの鎮静化にも駆り出された。軍指導部は,外敵に対する祖国の防   衛こそが革にとっての唯→の使命であるという認識を共有しており,それ故,  

このようないわゆる国内問題への軍の使用に対して否定的な反応を示した。  

(9)同上,63頁。  

(10)Brusstar.James H.andEllenJones.2004.TheRzLSSia)7Mz■/ita7ySRoJein Poh■ttcs,   

UniversityPressofthePaciflC.p.4.  

、了/  

(6)

655 ソ連邦の崩壊とロシアの枚軍関係  

にも拘らず,軍がこうした国内危機における武力行使を含めた命令に従った   のは,国内の市民的秩序の維持を強調する政治指導部の議論であったとされ  

る(Ⅲ 。   

こうした国内の騒乱の延長線上に位置づけられる共和国の分離主義の動き   は,連邦中央によって管理される単にとっての最大の脅威であった。連邦に   対する共和国レベルでの政治的挑戦は,まずバルト三国において始まった。  

二れら三国の分離主義の連動を牽引したのは,1988年10月に相次いで結成さ   れた人民戦線(リトアニアでは「サユジス」)だった。当初,連邦巾央のペレ   ストロイカ政策を擁護する比較的穏健な政治運動としてその活動を開始した   この道勅は次第に急進化し,それと共に運動の主要な目的も当初の連邦を前   提とした民族自治的な要求から連邦そのものからの分離独立というより過激   なそれへと進んでいった.」ウクライナやグルジア,さらにはロシアといった   他の連邦構成共和国がこれに続く動きを示し,1989年から91年にかけての時   期,連邦政府とこれら共和国政府との間に激しい権力闘争が展開された。   

軍に関わる連邦と共和国との権力闘争は,まず徴兵問題をめぐって展開さ   れた。ソ連国防省は長年にわたって,各々の共和国から徴発した兵士を他の   共和国に派遣するいわゆる「遠隔地駐屯」政策を実施していた。これは,一   つには部隊内の民族的混合を図ることを目的としていたが,その主たる理由   は,軍の指揮命令系統に支障を来すことがないように,駐屯地の兵士と地元   住民との間に一定の距離を保たせるためのものであった。しかし,この政策   は兵士たちとその家族たちにとって不人気なものであり,ペレストロイカ期   における共和国の自治要求の高まりの中で,その改善が草をめぐる問題の政   治的焦点の一つとなった。バルト三軋 グルジアおよびモルダゲイアといっ   た共和国選出の議員たちは国防省のこの政策に反対し,自国出身の兵士たち   が自らの共和国で勤務することができる措置をとることを要求した。  

1989年12月,まずエストニア議会が,徴発された兵士が同共和国内でのみ  

(11)j甘泡.,p.5。  

、●ゞご   

(7)

同 法(59−3・4)   

勤務するという市民的権利を主張する決議を行い,翌90年には,ウクライナ   やロシアといった他の共和国の議会もこれに倣って同様の決議を採択した。  

こうした流れの中で,多くの共和国がソ連国防省の徴兵に応じないという態   度を示し始め,それはもっとも分離志向の強い共和国において「国軍化」と   いう方向を辿っていった。エストニアでは,1990年4札 連邦への徴兵を停   止し,これにアルメニアやモルダヴイアといった共和国が続き,リトアニア   でも,同8月,ソ連軍での勤務の義務から同国市民を解放する決定を行った。  

さらに,グルジア議会が1990年12月から翌年1月にかけて,国防軍創設のた   めの法律および同共和国における兵役義務のための決議を採択した:12)。   

連邦の軍指導部は当然,こうした動向を多民族的なソ連軍の維持にとって   致命的な展開であると判断した。ヤゾフ国防相は,1989年の末以降,軍の権   威を共和国側に委ねることは連邦崩壊に導くものであるとの懸念を示し,ゴ   ルバチョフらの連邦政府指導部が共和国側の徴兵拒否や国軍化の動きに対し   て断固とした措置をとるよう再三にわたって要請した。この間題は,大局的   には,新しい連邦条約の締結をめぐる連邦共和国間の議論を軸に推移して   いったが,新連邦条約の締結をめぐる交渉は,ゴルバチョフによる共和国側   に対する譲歩の積み重ねの中で,国防省をはじめとする連邦の軍指導部に   とっては受け入れ難い方向へと進んでいった。また,連邦条約をめぐる連邦   政府と共和国側との権力闘争は,軍の将校団を次第に政治化させ,かつ分裂   させていった。ヴイクトル・アルクスニスやニコライ・ベトルシュンコと   いった軍人に代表されるソ連議会内の「連邦(サユース)」グループは,単一   の連邦国家としてのソ連の存続を危うくするゴルバチョフによる一連の譲歩   を非難し,共和国の分離主義の動きに対抗した。一方,改革派の政治グルー   プと連携したアレクサンドル・ルソコイらエリツィン支持の将校たちは,ロ   シア共和国議会における活発な活動を通してこれに対抗した。新連邦条約の   交渉をめぐるこうした両勢力の激しい対立の中で,軍は1991年の夏を迎えた。  

654   

○  

_1一  

/ヽ   

(12)助−dりpp.67.  

エフ  

(8)

653 ソ連邦の崩壊とロシアの政軍関係   3.1991年8月事件と草  

1991年8月19日に起こった連邦政府保守派によるクーデクー未遂事件は,  

ソ連の政治における軍の役割を考察する上で幾つかの有意な示唆をわれわれ   に与えてくれる重要な出来事であった。連邦と9つの構成共和国との間に予   定されていた新連邦条約締結の前日,ヤナーエフ副大統領ヤクリュチュコフ   KGB長官ら8人のメンバーから成る国家非常事態委員会は,当時クリミアで  

保養中のゴルバチョフ大統領を拘束し,クーデター遂行のために,タマン機   甲化ライフル師[孔カンテミー口フ戦車師団および第106トウーラ空挺師団と   いった軍の部隊をこのクーデターの企てに投入した几㌔同委員会のメンバー   の一人であったヤゾフ国防相は,その三日後にこの企てが失敗に帰した時,  

新連邦条約の締結がソ連邦を崩壊に導くであろうという危惧の念が自らをこ   の計画に駆り立てた主たる動機であったと述べている。この企てに積極的に   関わった地上軍司令官のヴ7レンティン・ヴ7レンニコフや国防次官のヴラ   チスラフ・アナヤーロブといった軍上層部の将軍たちも,同じくこの動機を   共有していた。しかし,軍_ヒ層部の山部におけるこうした明確な動機の存在   にも拘らず,この事件における軍全体の関与のレベルがけっLて高いもので   はなかったということが,このクーデクーの企てを未遂に終わらせる上で決   定的な役割を果たしたと考えられる。   

では,軍は何故この企てに積極的に関与しようとはしなかったのだろうか。  

当時ロシア人民代議員であったレフ・ポノマリョフは,軍指導部と将校団の   両方がこれに積極的に関わろうとはしていなかったという状況を伝えてい  

る。ブライアン・テイラーは,軍のこうした消極姿勢の主たる理由と考えら   れるものとして,(1)KG王∋,内務省および軍の間でのカウンターバランスもし  

くは民族間題に起因する国内の組織構造上の分裂,(2)クーデタ一失敗の可能   性故の■負け組」になりたくないとの個人的利益,(3)断固とした行動をとる  

(13)Taylor.BrianD,2003.Poi[ttcsa77dtheRussL−α71Armユ1Cl t]l■h軌 lita7TReklti(・nS,1689    2000,CambridgeUniversityPress,P.235,  

.■り   

(9)

同 法(5針一3・4)   

ことを禁じる軍の組織文化の3点を挙げ,これらの内,3つ目の軍の組織文   化という要因がこのクーデターの企てを失敗へと導く上で最も重要な役割を   果たしたと論じるし14ノ。即ち,8月事件において,将校(特に,中・下級将   校)たちの多くは国家非常事態委貝会の合法性について疑念を持ち,それ故,  

彼らは同委員会の命令に消極的にしか対応せず,それが基本的にこの企ての   決定的な失敗につながったという見解である。軍は文民統制に服し,かつ主   権問題に関与すべきでほないというのが将校団の主たる組織文化であり,彼   らにとって,誰が合法的な権力を保持しているのかという問題は自らのきわ   めて重要な行為規範であった。そして,エリツィンら改革派はクーデターの   企てを阻止すべく,こうした軍の伝統的な行為規範を積極的に利用しようと   した。当時,エリツィンはこの8月事件の2カ月前に実施されたロシア史上   初の国民投票によりロシア共和国大統領に選出されており,こうした事実は   彼に政治的指導者としての大きな権威と正統性を与えていた。8月事件の最   中,エリツィンは非憲法的な活動に参加しないよう軍にアピールし,また,  

ゴルバチョフ不在の中,自らが軍の総司令官であると宣言した。   

さらに,最高会議ビル(通称,ホワイトハウス)の前に集結した改革派支   持の数多の市民の存在も,エリツィンに政治的指導者としての正統性を与え   る上で大きな役割を果たしたと言われている。8月事件の趨勢を決定する上   で小心となった出来事は,エリツィンら改革派がクーデターの企てに抗して   立てこもった最高会議ビルへの軍による攻撃の可能性をめぐる問題であっ   た。8月20日,国家非常事態委員会は軍による最高会議ビルの急襲を試みる   ことを決定した。しかし,軍は同委員会のこの決定に結局は従わなかった。  

攻撃命令を出すことをヤゾフ国防相に最終的に思いとどまらせたのは,この   攻撃の際に生じるであろう市民の流血という惨事と内観への恐怖であったと  

される。そこでは.「軍と市民は結びついている」,「軍はけっして市民に対し   て銃を向けない」というそれまでソ連の軍人たちの間で共有されていた特殊  

652   

(14)′わざd.,p.240.  

35  

(10)

651ソ連邦の崩壊とロシアの政軍関係  

なコーポレート・アイデンティティが一定の重要な役割を果たしていたと考  

えられる(15)  。そうした事実は.8月事件に関わった軍人たちの当時の証言や   彼の回想からも伺い知ることができる。また,政治的指導部の重恩慮な判断   故に市民の流血を招いたとされるトビリシ,バクーおよびヴイリニュスにお   けるペレストロイカ期の先行する事件(16での軍にとっての手痛い教訓も,最   高会議ビルの急襲を最終的に軍に思いとどまらせる要因の一つであったと考   えられる。  

8月事件の背景には,上述したように,ペレストロイカの進展の中でのソ   連共産党の権威の喪失およびそれに起凶するソ連の国家的秩序の著しい弱体   化という状況に対する連邦政府保守派の人々の追いつめられた危機的意識が   存在していた。ソ連共産党はかつて2万人近くの党員を擁していた巨大組織   であったが,しかし,同党は当時すでに「強固な一枚岩の団結力やソ連邦全   体に対する強力な支配力を失っていた(17−」。こうした状況の中で,1991年7   月,エリツィンは.大統領令でロシア共和国内の国家機関での党晴動を禁止   する決定を下した。この決定は,ソ連共産党に対する初めての公然たる組織   的挑戦であり,それは同党のヒエラルキーの中での社会的位置づけを自らの   拠り所としてきた軍関係者を含む連邦政府保守派の人々を大いに刺激する結   果となったし18」。  

こうして,軍指導部および将校団の一部がクーデターの企てに荷担するこ   とになったが,同時にこの企てが実際に実行に移された時,ソ連軍は全体と   してほとんど「親衛隊」的な傾向を示さなかった。当時の状況から判断して,  

責任ある草の将校たちのほとんどは市民の流血を伴う武力行使という決定的   5 (1預 血d‥p・245・  

三 (16)1989年4月のトビリシ事件から導き出された軍にとっての制度的教訓は,軍が国内の   政治的紛争に関与することは自らの威信と統合にとって有害であるとするものであっ   た。この教訓は「トビリシ・シンドローム」と呼ばれるようになった。  

腫 上野俊彦1993「ソ連邦共産党角引本過程の分析、統計と世論調査から】」『匝】際政治』  

第104号,16−17頁。  

仕8)■F斗米伸夫1992「ソ連邦崩壊の叶の共産覚1990−91一軍隊■反対政党■民族共和国  

」『国際政治』第99号,29頁。  

36   

(11)

同 法(59−3・4) 650    な行動を最後まで回避しようと努めていたと考えられる。首謀者の一人で  

あったヤゾフ国防相でさえその例外ではなかった。様々な動機が指摘され   る巾,テイラーは,これら軍関係者たちの消極姿勢の主たる理由をあくまで  

も「文民の規範への愛着」を含めたソ連軍の従来からの組織文化に求めてい  

る(1㌔  

4.ソ連邦の崩壊と軍   

8月事件における連邦政府保守派の敗北を受け,軍指導部の構成もー新さ   れた。国防相.参謀総長,9人の国防次官および10人の軍管区・艦隊司令官   が解任され,また,軍の共産党組織も廃止された。新しい国防相には.空軍   出身のエヴデーニー・シャポシニコフが就任したぐ20〕。これは,その最高職が   常に陸軍の地上軍司令官によって占められてきた軍の慣例としては異例の人   事であった。ソ連邦の省庁はその年の11月までに,国防省や外務省などその  

−・部を残してほとんどすべてが・事実上解体され,軍指導部は寿充−されたソ連   軍の維持という展望に一緒の望みを託しつつ,12月初旬のベロヴューシ合意   の中に置かれた。軍指導部は,ロシア,ウクライナ,ベラルーシの3首脳に   よってなされたソ連邦の消滅とCISの創設を宣言したこの合意によって,ゴ   ルバチョフを支持するのか,それとも新しく創設されたCISを支持するのか   という大きなジレンマに直面する。この合意に先立って,ウクライナは同共   和国内のソ連軍部隊の「国軍化」を推進し,同国最高会議は10月までの間に   国軍創設のための基本的な法的環境を整え,さらに,12月3日,クラフチュ   ク大統領はウクライナ軍が同国に駐屯するソ連軍から形成されるものとし,  

自らをその総司令官と宣言していた。ベロヴューシ合意では,CISの統一し 三  

た軍は求められず,その共通の軍事戟略スペースに対する共同の指令を有す 9   る核兵器に関する統一の管理のみが言及された。   

以上のような展開の中で,軍によるクーデダーの試みが再びなされるであ  

(19)Taylor,咋=勇.,P.245,  

提d 乃z−d.,p.246.  

37   

(12)

649 ソ連邦の崩壊とロシアの政軍関係  

ろうという噂が国内外で飛び交った。しかし,ソ連邦の崩壊をくい止めるた   めに,そうした企てが軍指導部によって目論まれた形跡は存在していない。  

実際,シャポシニコフ国防相は,軍が権力を握り,秩序を回復すべきとのゴ   ルバチョフ大統領の提案を拒否したと言われている。エリツィンの権威の高   さと内戦への危惧の急が,このソ連草紙司令官の提案を彼に拒否させた主た   る理由とされている。結局のところ,軍の指導部および将校団は,ベロヴュー   シ合意を軍に対する「裏切り」行為であると見なしたけれども,軍の財政に   対する権限が各々の共和国に移行する中,統一軍の維持を期待しつつ,ゴル   バチョフの「無定形」の連邦よりもCISを受け入れることを選択した。しか  

し,1992年1月初旬,ウクライナは,CISの兵力とされていた黒海艦隊をは   じめとする同国内の部隊の国軍化をさらに進め,ウクライナのコンスタンナ   ン・モロゾフ国防相は,ウクライナに駐屯する部隊とモスクワの参謀本部と   の「連絡線」の停止を命じた(2い。   

ウクライナにおけるこうした展開は,CISの枠組みを通じた統一lノた軍隊   の椎特に期待を掛けていた軍指導部および将校団を大いに動揺させた。1992   年1月17日にモスクワで開かれた全軍将校集会の模様は,軍将校たちのこう  

した状況に対する当時の不満を如実に伝えている。約5000人の将校が集会に   参加し,ソ連邦の崩壊と軍の解体に抗議した。この集会で実施された投票で   は,参加Lた将校たちの71%が旧ソ連の領域における統一された政府の回復   を,また,79%が軍自らによる軍の未来の決定を望んでいたこ22)。当時,アナ  

リストたちの多くが,この集会を軍の将校団における「親衛隊」的傾向の兆   候であると見なした。しかし,ソ連軍はその後の数カ月の間も解体し続けた   が,軍側はこうしたプロセスに対する介入をさし控えた。軍指導部および将   枚団が目に見える形でソ連の崩壊および牢の解体をくい止めようとする企て   がなされた形跡はない。こうして,1992年5月,ロシアがその自らの軍隊を   創設し,ここにソ連軍は事実」二解体した。  

(21)J鋸dりp.252.  

CZ2)Brusstar.oL).Ctt.,Pp.17r18.  

こげ   

(13)

同 法(5針3・4)   

1991年の8月事件において草が学んだ組織的教訓は,「将校たちの非政治的   な立場を強化し,文民優越の規範を補強した鶴」ことであると考えられる。  

8月事件後に形成された新しい軍指導部は,軍が政治に関与すべきではない   との原則を強調した。シャポシニコフ国防相は,「軍は,党や政治対立の舞台   でも.また,誰かの野心を満足させるための道具であってはならない。国民   に奉仕し,憲法を遵守し,祖国を防衛すること−これらが,軍務の3つの   基本である(24)」と言及し.また,ウラジーミル・ロボフ参謀総長は,「軍は   文民の権威の下に置かれるべきであり,そして,軍は政治に干渉すべきでは   ない(コ5)」との自らの見解を明らかにした。こうした刷新された軍指導部の公   式の言動に象徴される8月事件後の軍を取り巻く環境の変化は,全体として,  

軍を政治の外に置こうとする将校団における意識のさらなる強化につながっ   た。また,ソ連が崩壊した1991年12月の段階で,革をとりまく状況は,同年   8月のそれと比べて人きく変わっていた。より「親衛隊」的傾向の将校たち   はすでに取り除かれ,KGBや党組織の軍における影響はほぼなくなり,連邦   政府は財政をはじめとする全ソ的な組織としての管理機能を喪失していた。  

それ故,将校団の忠誠は急速に共和国政府に移行していた。こうして,軍指   導部および将校団は,エlトリイン大統領をはじめとするCIS諸国のリーダー   たちを合法的な政治的最高指導者として認め,ソ連と連邦軍の崩壊という自   らにとって受け入れ難い事態に対しても離始消極的な姿勢をとり続けること   になったのである。  

648   

Ⅱ.エリツィン時代の改革関係  

ソ連共産党のヒエラルキーの崩壊によってひき起こされた中央集権的な国   家秩序の喪失の中で,エリツィン人統領もまた,かつてゴルバチョフを悩ま  

Q3)Taylor,叫Cit.,P.254.  

朗 撒且p.247.  

個 乃ヱーdりp.256.  

Jタ  

(14)

647 ソ連邦の崩壊とロシアの改革関係  

せたものと同じ種類の「中央一周辺」問題に直面する。ソ連崩壊後のロシア連   邦はソ連と同じく100以上の民族から構成される多民族国家であり,それはソ   連時代の自治共和国および自治州の大半をそのまま継承した。ロシア連邦の   中でかつての自治共和国のほとんとてが共和国へと格上げされ,その多くが中   央に対する地方の自治的要求を掲げ,そうした状況は,同国の「中央一同辺」  

関係において権力の真空状態という深刻な事態を招く方向へと進んでいった。  

経済的低迷と政治的混乱が続く中,共和国の一部はさらに連邦からの離脱   というより過激な動向を示しつつ,かつてソ連時代末期の諸共和国が採用し   たそれと同じく,連邦の兵役制度に挑戦する「国軍化」の方向へと進んだ。  

連邦政府は,共和国側に大幅な権限を認めることによってこうした分離主義   的傾向の強い共和国を連邦へとつなぎ止め,チェチェン共和国を唯一の例外   として連邦国家としてのロシアの一体件をかろうじて保持することに成功し   た。  

約8年にわたるエリツィン政権にとって最大の政治危機は1993年の秋に訪   れる。それは,市場化と民主化プロセスをめぐる政治的対立の中で,大統領  

と最高会議との武力衝突という形をとって現われた。この両者の権力闘争の   中で.軍はどのように行動したのであろうか。以下,エリツィン時代の政軍   関係について,1993年秋の政治危機をめぐる問題を中心に考えていきたい。  

1,1990年代初頭のロシア軍  

1992年5月にその創設が宣言されたロシア軍は,旧ソ連革の基本的な後身   であり,その兵員,装備,制度および文化の直接的な継承者であった。ソ連   崩壊後のロシア軍をとり巻く状況は,ソ連時代末期のそれと比べても悲惨な   ものだった。草の予算と兵員の規模の削減はすでにゴルバチョフの時代にお   いて始まっていたが,そうした傾向はエリツィンの時代に入って急速に加速   した。兵員の規模は,ロシア軍が創設された1992年5月時点の約270万人か   ら,1994年までに200万人以下へと落ち込んだ。また,軍の予算も,ソ連時代   末期にはCNP比で10%であったものが,IMF主導の価格自由化政策の実施  

JJJ   

(15)

開 法(59「3・4:■   

に起因する経済的混乱の中,エリツィン時代の初年にはそれは同比5%にま   で実質的な落ち込みを見せた㈲㌦幾十万八にも及ぶ将校たちが住宅不足に悩   まされ,給与の増額はインフレのそれに比例せず,こうした状況の中で,若   い将校たちの多くが辞職した。さらに,徴兵免除の増大による兵員不足がこ   れら軍の経済的困窮に加わった。   

軍をとり巻くこうした危機的状況はその組織としての利益を大きく損なう   ものであり,多くのオブザーバーたちが,軍によるクーデクーの可能性にっ   いて言及した。しかし.軍は自らの基本的な任務が対外防衛であり,けっし   て主権問題をはじめとする国内問題に積極的に関与すべきではないというソ   連時代からの従来の考え方に固執し続けた。エリツィン大統領の卜で新しく   国防相に就任したパーヴュル・グラチョフは,あくまでも軍が政治の外にあ  

i),文民の規範に従うべきであるとの見解を示し続けた。彼は軍を「非党化」  

かつ「非政治化」するというエリツィン大統領の命令を厳格に実行すること   を約束し,「私は軍人として文民に対して説明責任がある。そして,私は,大   統領,最高会議および政府の意志を実行する、こ27、」と繰り返し強調した。  

1992年から翌93年にかけて,経済問題を中心とした政策をめぐる大統領と   最高会議との権力闘争が激化し.この政争に対する軍の姿勢についての議論   が大きく高まった。軍指導部はあくまでも,軍がいかなる陣営にも組みせず.  

法と憲法に則って行動するという基本路線をとった。この時期,軍指導部は   軍が政争にできる限りまき込まれないように努め,軍を分裂させる事態を招   くような政治的な試みに対して警句を発し続けた。当時,軍の機関紙『赤い   星』の主幹であったアレクサンドル■ゴルツは,文民の指導部に対する軍の   立場を総括して,以卜のように述べた。「実際,われわれは,軍のクーデター   がモンスーンの雨の同期とともに起こる「バナナの共和国」には生きてはい   ない。政治家たちの間の争いにおいて,決定的な力の役割をひき受ける伝統  

646   

な疎 乃z■d.,p.267.  

餌 肋れp.269.  

4J  

(16)

645 ソ連邦の崩壊とロシアの政軍関係  

はロシア軍にはないし28ノ」と。こうした文脈において,グラチョフ国防相も,  

例えば,1992年12月,議会に対Lて,圧倒的多数の将兵が今日どのような政   争にもまき込まれることを欲Lてはいないと訴えた。  

1992年および翌93年に実施された調査によれば.将校たちの多くが文民に   よる国の統治を支持し,また,危機的状況においてその合法性が定かでない   場合には命令に服さないと回答した。先に言及したゴルソは,ソ連時代末期   において学ばれた制度上の教訓が主権問題への関与についての規範を将校団   に形成させる上で重要な役割を演じていると指摘した。即ち,彼ら将校岡は,  

トビリシ事件や8月事件といった手痛い経験から軍が国内の政争にまき込ま   れるべきではないとの教訓を引き出し,そうした教訓がソ連崩壊後の1992年   5月に創設された新Lいロシア軍においても基本的には継承されていったと   考えられるのである。では何故,軍指導部iま1993年秋の政治危様において決   定的な行動となる最高会議ビルに対する武力行使を敢行したのであろうか。  

2.1993年秋の政治危機と軍の対応   

エリツィン大統領は,1993年9月21日,最高会議を解散し,かつ,新憲法   のための国民投票およびそれに基づく新しい議会のための選挙を要求する大   統領令を発布した。彼は,この決定の主たる法的根拠を1991年6月の大統領   選挙および93年4月の国民投票における投票結果,国家の安全保障に対する   大統領としての自らの憲法上の責任に求めた。しかし,ハズブラートフ最高   会議議長寄りのヴァレリイ・ゾルキン憲法裁判所長官iま.エリツィンが議会   を解散する憲法上の権限を有してはいないとして,この決定を憲法違反であ   ると宣言した。そして,最高会議側はエリツィンを大統領職から解任し,ル   ツコイ副大統領を大統領代行とすると宣言した。こうして,ロシアに二重権   力状態が生み出され,軍は自らが最高司令官であると宣言する二人の政治指   導者を前にして,この深刻な政治危機への関与を余儀なくされた。  

嘩)roJtLu.A.neKCaH月P.1993.MoxeT6bTTb XBaTHT Dep〉KaTムaPMHfO.KpacTHaR   

∂βe3朋−27.03.1993,CTp.2.  

Jこ)   

(17)

同 法(59−3・4)  

9月21日から翌22日にかけての夜,ルツコイ大統領代行は元国防次官のウ   ラジーミル・アナヤーロフ退役大将を国防相に任命し,グラチョフ国防相の   解任を宣言した。しかし,ルソコイによるこのアナヤーロフの任命は,軍の   内部分裂をもっとも危倶していた軍指導部を刺激することとなり,グラチョ   フ国防相は軍が自らとエリツィン大統領の命令にのみ従うよう将校団に対す   る呼びかけを行った。1993年の春から夏にかけての調査では,将校団はルツ   コイ寄りとの結果が出ていたが,実際にはこの政治危機において議会側は軍   からの支持をほとんど得ることができなかった。ルツコイが将校団の支持を   取りつける努力をする一方,エリツィンは軍がこの政争に関与すべきではな   いと強調し,軍を政治にまき込もうとする議会側の挑発にけっして乗らない   よう促した。また,グラチョフは軍が政治の外にあるべきとの従来の主張を   繰り返し,国内秩序に責任を持つのは内務省であり,軍の部隊がモスクワの   政変に動員されることはないとの見解を示した。この政治危機に際して,大   多数の将校はこの問題が軍の関与なしに平和裡に解決されるであろうことを   望んでいたとされる。9月25日に実施された世論調査では,一般住民の回答   者の62%が軍の中立を支持したのに対して,軍人の回答者のそれは80%に及   んだ√2ウ)。   

軍指導部は当初,この大統領と最高会議との政治対決に関与しないと決め   ていたと言われる。それでは,何故,彼らは10月4日の最高会議ビルの攻撃   に同意したのであろうか。この間いに対する答えとして先ず挙げられるのは,  

10月3日に始まった議会側支援者たちによる暴力行為に起因する治安上の問   題であった。10月3日夕刻,ルソコイは最高会議ビルのバルコニーから彼の   支持者たちに向かって市庁舎とオスタンキノのテレビ塔を占拠するための戦   闘部隊を組織するよう呼びかけた。最高会議支持の群衆は警察隊を押しのけ   市庁舎を占拠し,さらにオスタンキノヘと向かった。また,ハズブラートフ   はクレムリンを占拠するよう軍の部隊に要請するとの宣言を行った。こうし  

644   

CZ9)Brusstar,L4).Ci[.,p.24.  

・/.●J  

(18)

643 ソ連邦の崩壊とロシアの政軍関係  

て,それまでは軍の動員に同意しようとはしなかったグラチョフ国防相は,  

同日の午後5時頃,この状況に対処すべく軍の部隊をモスクワへと動かす正   式な命令を下した。   

さらに,この政争に軍を関与させる上で大きな意味を持っていたと考えら   れるのは,最高司令官としてのエリツィン大統領の軍に対する正式な命令   だった。10月4日未明,エリツィン大統領とチェルノムイルジン首相は国防   省を訪問した。この段階で,軍指導部は初めて最高会議ビルの攻撃に軍を用   いるというエリツィンの要請に同意した。この時まで,軍は内務省や国防省   の管轄外のその他の特殊部隊がこうした任務を遂行すべきであると考えてい   た。にも拘らず,彼らをエリツィンの要請に同意させた最大の理由は,先に   言及した治安上の問題と共に.首相の在籍の下で確認された最高司令官とし   てのエリツィン大統領の文書による正式な命令であったとされる。その命令   書は,その決定に対するエリツィンの責任を強調しており,そして,大統領   としての彼の権限において国内紛争における軍の使用を認めるものであっ   た。グラチョフは国防次官のコンドラチェフ大将に対して作戦命令を送り,  

これを受けて,タマンおよびカンテミ一口フ両師[乱第119空挺パラシュート   連隊,第27機甲ライフル旅団,トウーラ空挺師団等の部隊に出動命令が出さ  

れた(30) 。この作戦は10月4日午前7時頃に開始され,最高会議ビルへの砲撃  

を含むこの戦闘が終了したのはその日の午後においてであった。ルツコイと   ハズ7うートフは逮捕され,こうして,大統領と議会側との政争は議会側の   決定的な敗北に終わった。   

この1993年秋の政治危横においても,軍は基本的に政治介入に対して消極   的な態度をとり続けた。先に言及したように,軍指導部に最高会議ビルへの   攻撃を決断させる上で重要な動機となったのは,モスクワにおける秩序の崩   壊と内乱への発展に対する危1具の念であったと考えられる。軍は最高会議ビ  

ルを守るために集まった群衆に対して発砲し,軍が恐れていた流血の惨事が  

@0)Taylor,(ゆ.ci[..p,293.  

44   

(19)

同 法(5913・4)   

ここでも再現された。しかし,例えば,前国防相のシャポシニコフ元帥は,  

ペレストロイカ期におけるトビリシやヴイリニュスでの惨事と1993年秋の事   件を比較して,この革の行為を次のような発言によって擁護している。「軍   は,平和的に行進する市民に対して送られたのではなく,武装した暴徒に対  

してそうされたのである。これは,大きな相違である(31−」と。ジェームス・  

プラスターやエレン・ジョーンズも  ,こうした観一己云を強調している。また,  

これも先に指摘Lたことであるが,「文民優越」の規範への服従という問題   が,この政治危機においても軍を動かす上で大きな役割を果たしたと考えら   れる。この間題との関係で,『イズベスチヤ」I紙の政治評論家であったオッ  

トー・ラトシスはこう述べている。「原則として,これを政治に対する軍の介   入と混同すべきではない。つまり,それは軍の独立した政治的決定ではない。  

もし軍が1993年10月に急襲を実行しなかったとしたら,むしろそれこそが介   入となっていたであろう。というのも,この急襲は合法的な大統領と捻司令   官からの命令であったのでし32)」と。この意味において,1993年秋のそれは軍   による政治介入の事例であるとは必ずしも言い難いところがあると言えよう。  

642   

3.軍の「政治化」と組織文化  

1993年秋の政治危機以後,96年の大統領選挙を経て,エリツィンの時代は   1999年末まで続いていく−〕この間,ロシアは,1994年から97年にかけて第一   次チェチェン戦争を経験する。ソ連崩壊後の8年間において,ロシア軍の規   模はほぼ3分の2程度まで落ち込み,1992年から99年までの間に軍の予算の   ほぼ62%が切り下げられた。こうした中.多くのアナリストたちは軍による   クーデターの可能性について予測した。彼らの中のある者は,93年秋の事件   がロシアを「ラテン・アメリカ化」し,それがクーデターの環境をつくり出   したと論じ,また,他の者はチェチェン戦争における軍の役割が主権問題へ  

飢)乃一正,p.299.  

C32)naTCHC,OTTO.1993.yユpaKOHa He OTIHa rOJIOBa、113BCCTHH,CTp.5.  

・んラ  

(20)

641ソ連邦の崩壊とロシアの政事関係  

のその介入を招くことになるであろうと論じた(33ノ。さらに,ある者は1998年   8月の金融危機を軍によるクーデターの可能性を予感させるものと考えた。  

しかし,実際にはエリツィン時代のロシアではクーデクーの企てをはじめ   とする軍による公然たる政治介入の試みは存在せず,1993年秋の事件以後,  

軍は如何なる主権問題にも関与しなかった。1999年12月から翌2000年6月に   かけてのエリツィンからプーチンヘの権力移譲のプロセスにおいても,軍は   それをただ静かに見守った。激動のロシア・ソ連の歴史を振り返ってみれば,  

意外なことかも知れないが,近衛兵による宮廷革命の試みが続発した18世紀   後半から19世紀第1四半期にかけての時代以降,軍はほとんどすべての権力   の移行に際して消極的な静観者としての立場を保ってきた(34J。ソ連崩壊後の   ロシアにおける軍をとり巻く環境は悲惨なものであり,彼らの間での大統領   の人気は最悪のものであったが,にも拘らず,「親衛隊」的傾向はけっして強   いものとはならなかった。エリツィン時代の軍においても,基本的に,主権   問題への介入をよしとはしない伝統的な組織文化が主流的位置を占めていた  

と考えることができよう。  

ところで,エリツィン時代における軍の組織規範に関わる重要な変化の一一   つとしてしばしば指摘される問題は,軍の政治化をめぐる議論のそれである。  

特に,1993年秋の事件を境に,将校団が,軍事問題に注意を集中し自らを政   治の外に置いていたソ連時代とは異なって,より活発に国内の政治的議論に   参加するようになったと言われる。自らの意に反して「10月事件」への関与   を余儀なくされた将兵たちがエリツィン政権に対して憤りを覚え,それが,  

その後の選挙における彼らの投票行動にも大きく反映したとの指摘がなされ   一 ている。例えば,新憲法のFで「10月事件」後初めて実施された1993年12月  

郎)Taylor,ゆCけ,p.301.  

(34)こうした帝政ロシア時代における宮廷革命の試みの最後を飾った事件が,1825年12月   

に起こった「デカプリストの乱」であるり アナトール・マズーアはこの事件を「最初の    ロシア革命」として位置づけるが,それは「専制の廃絶」と「農奴制の廃止」を掲げる   

近衛将校たちによる体制内変革連動の性格が強いものであった。デカブリスト連動につ    いては,河原拓馬「専制の確立と批判者たち」藤本和貴夫・松原広志編『ロシア近現代   

史』ミネルヴァ書房,1999年に詳しい。  

46   

(21)

同 法(59−3・4)   

の下院議会選挙では,将兵たちの多くがジリノフスキーのロシア自由民主党   およびロシア連邦共産党をはじめとする保守政党を支持し,特に,将校団の   約40%がロシア自由民主党に投票したと推定される。続く1995年12月の下院   議会選挙においても,政権与党「わが家ロシア」を支持したのは軍全体で7  

〜8%に過ぎなかったと言われている。この選挙に際して,グラチョフ国防   相は,軍の利益を擁護するために100名を超える軍関係者を立候補させるな   ど,軍として組織的な選挙戦を展開しようと試みた。翌1996年の大統領選挙   においても,硯職のエリツィンを支持したのは軍人たちの10〜12%程度に過   ぎなかった(35)。また,アレクサンドル・レーベチといった軍の中で高い人気   を持つ将軍が政権を公然と批判する事態も生じた。レーベナは,1994年7月   の有名なインタビューにおいて,エリツィンを政治的に否定し,「ピノチェ  

ト・モデル」に基づく軍の支配を支持した。この言動は大きな物議を醸した   が,軍の中での人気の高さ故に,国防省は彼を解任にまで追い込むことはで  

きなかった。   

こうしたエリツィン政権に対する軍関係者の批判的なスタンスにも拘ら   ず,軍はチェチェン戦争をはじめとする彼らの意に沿わない幾多の命令にこ  

とごとく従った。先にも言及したように,アナリストたちの多くが予測した   軍によるクーデターの企ては.ロシアの国家権力がもっとも脆弱であったと   されるエリツィン時代において一度も試みられることはなかった。ラヨ   シュ・サスジは.「将校団の義務とプロフェッショナリズムの意識が,命令を   実行するよう迫られた時,その政治的議論の衣を剥がされて,チェチェンに   対する作戦への軍の関与を説明する(師」としている。彼によれば,軍は元来   非政治的な組織であり,国レベルでの軍の「政治化」は,政党やイデオロギー   のラインに沿ったロシア軍の両極化としては現われなかった。通常,規程の   将校たちは,1995年の下院議会選挙においてのように,軍の利益を擁護する  

640   

(35)Szaszdi,LajosF.2008.RussianCiuil−MtLitarvRelatio7TSa71dtheOrなinsqf theSeco71d    Cheche?lWar.UniversityPressofAmerica,p.269.  

β㊥ 乃f♂.,p.269.  

47  

(22)

639 ソ連邦の崩壊とロシアの政軍関係  

ためのロビー活動という特殊な事例を除いて,候補者として選挙プロセスに   直接関与することはほとんどなかった ⊃例えば,上級将校たちが政治的声明   を公式に行う時,彼らは国家の安全保障に関わる対外政策や国内間道への軍   の使用の合法性といった自らにとって重要と考えられる純粋に軍事的な問題   のみを主たる争点とした(37−。即ち.彼らは政府の当該機関の「政策的見地の   ラインに沿って,政策に対する自らの姿勢を示しつつ,ロシア国家もしくは   政府の一員として彼らの公的なコメントを行っている(38」と考えられるので   ある。  

エリツィン時代全体を通して,軍による政治介入の可能性は,その脆弱な   国家権力の下で相対的に高いものであった。通常ならば,この時代に軍が置   かれていた劣悪な物理的環境を考えるならば,それが超法規的な手段を通し   て自らのコーポレート的な利益を追求する可能性は十分にあったと考えられ   る。こうしたコーポレート的な動椒が軍による政治介人のための断固とした   行動につながらなかった主たる理由は,先にも述べたように,「文民優越」の   規範への服従というその非政治的な組織文化に大きく求めることができるだ  

ろう。またその際,ロシア国家の防衛という使命に対する将校団のプロフェッ   ショナリズムの意識がロシア軍の結束力を維持し,それがこうした非政治的   な組織文化を支える上で重要な役割を果たしていたと考えることができるよ   うに思われる。  

フランスのロシア研究者イザベル・ファコンは,エリツィン時代における   以上のような将校団の非政治的な意識を,次のように端的に説明している。  

「今日でさえ,多くの将校たちは,政治的中立および文民の権威への服従に   ついてのこの伝統に従って行動しているようには見えない彼らの同僚たちの   元 それらを不審に思う。このように,たとえレベチ将軍の考えが多くの将校  

郎 ロシアの政軍関係を題材とする著作では,純軍事的技術的な問題に関しては自らの   コーポレートな利害の貫徹に固執するが,それ以外の争一旦についてiまほとんど関心を示   さないという軍の傾向を強調する指摘がしばしば見受けられ,現在,こうした観点が一   般的に受け入れられるようになっていると考えることができる。  

細 Szaszdi,qt}.rit.,p,270.  

イβ   

(23)

同 法(59−3・4)   

たちの関心を惹きつけたとしても,彼らの多くは,彼の政治的野心を軍の倫   理からの逸脱と考える。同じように,1992〜93年に多くの注意を引きつけ,  

また,1993年の秋には最高会議を支持した将校同盟は,当時の分析が予測し   ていた軍隊内での支持の獲得に成功しなかった。その見解の過激さが多くの   将校たちをそれから遠ぎけさせた。将校たちは現在の生活や労働条件に不満   だが,彼らはこのグループの極端な綱領(3射を支持することを拒絶する。ロシ   アの将校たちの間で実施された最近の調査は,彼らの物的に悲惨な運命にも   拘らず,その大多数が国家に奉仕するための強い意図を保持していることを   明確にする。これに関連して,彼らは,もっぱら対外的脅威に集中するとい   う自らの目的を強調する。それは,彼らが伝統的に課されてきた市民的命令  

(彼らを自らの任務から逸脱させる仕事)を単に拒否するだけではなく,特   に政治的危機の場合に,軍のいかなる介入も拒否するという事実を反映して   いる。入手可能な資料によれば,将校の75〜90%が,軍がこの種の危機にど   のような役割も演じてはならず,そして,ロシアにおける軍事体制の可能性   に反対すべきであると考えているのである(40)」と。   

以上,こうした伝統的な将校団の非政治的な組織文化をめぐる議論を踏ま   えた上で,次節では,軍の改革および文民統制問題を中心に,プーチン時代   以降の改革関係の進展について見ていくことにしたい。  

638   

Ⅲ.プーチン時代の政軍関係  

ウラジーミル・プーチンは,大統領としての2期目の任期満了が間近に   迫った2008年2月,クレムリンで開催された国家評議会の拡大会議において,  

鋤 この同盟はスタニスラフ・テレホフによって指導され,過激羊義勢力への近接性に    よって知られている。この同盟の主たる臼的は.ソ連邦の回復の必要性や兵員削減への    反対などであるが,この組織の1991年来の活動は軍関係者からの支持をほとんど獲得す    ることができなかった。  

桓O)Facon,Isabclle.2000. TheRussianArmedForcesニThreatSafeguard? ,Connict    StudiesResearchCentre.Apri12000,p.3(http://wwwtda.mod.uk/CSRC/documents′′   

Russian/ClO4).  

4タ  

(24)

637 ソ連邦の崩壊とロシアの政軍関係  

エリツィン時代にロシアの軍隊が置かれていた状況について,次のように   語った。「軍は事実上,道徳的に退廃し,戦闘準備ができてはいない状態だっ   た。軍人たちの給与面での満足は,まったく低いものだった。技術は急速に  

古くなった。軍事企業は資金繰りがつかず,人材と生産拠点を失った(41J  」   と。こうした問題に対応するべく,プーチン政権下のロシアでは,人的・技  

術的両面にわたる大規模な軍制改革の計画が打ち出されていった。1999年8   月以降,プーチンはエリツィン大概宗則二代わって実質的に安全保障会議を主   催し,翌2000年4月には,その後の軍の基本的な活動方針となる新たな軍事  

ドクトリンを大統領令によって公表した。  

プーチン大統領時代の8年間を通じて,軍を取りまく環境は大きく変化し   た。プーチンは,2004年の議会に対する教書において,「疑いもなく,軍の近   代化は国家にとっての重要な責務である(42」と強調し,オイルマネーによる   ロシア経済の急成長の中,同国の国防予算は2000年の60憶ドルから2008年の   420憶ドルへと大幅に拡大され(4:i\これにより,給与をはじめとする将兵た  

ちの生活面での環境もー一定程度の改善が図られた。軍と政治との関係におい   ては,特に,国防省やFSB(連邦保安庁)および内務省の関係者を重用した   プーチンの中央集権的な人事政策の下で,ロシア社会における上級将校を中   心とした軍関係者の政治的役割が一気に高まる結果となった。彼らは政権内  

における最大派閥である「シロヴイキ」の重要な一一翼を担うこととなり,プー   チンを頂点としたクライアント・システムの下で支配エリートとしての自ら   の地位を強化した。  

また,プーチン大統領は信頼に足る軍人たちの政界人り,特に,地方のそ   れを積極的に促し・こうした軍人たちの多くが地方の行政指導者として同政  

ノし   九  

射)nyTHH,BJIanllMHp.BbICTyrlJIeHHe rlpe3H且eHTa PoccHH Ha paCLIIHPeHHOM   3aCe工IaHI川「OCCOBeTa,H3BeCTHH.11▲02.2008,CTp.8.  

極2)Baev,PavelK,2008,Russta71E71eJg)・Policya)7dMilita7?Pou,,er,Routledge.p.14.  

匝3〕木村汎,名越健郎,布施裕之 2008『「新冷戦」の序曲か:メドベージュ7・プーチン   双頭政権の軍事戦略.』,北星堂,11頁を参照。  

5β   

(25)

同 法(59−3・4)   

権の下支え的な役割を担った。例えば,プーチンが大統領に正式に就任した   2000年の地方選挙において,知事選に立候補した4人の将軍たちの内,3人   が当選を果たした川)。さらに,プーチンは,以前に自らが解任した上級将校   たちを再任用することにより,自らに対する彼らの忠誠心の強化に努めた。  

国防省と参謀本部との長年にわたる対立の構図の中でイングーシ事件(45)を   坤由に解任された元参謀総長のアナトリー・クヴァーニシンがシベリア連邦   管区の総督に任命された2004年9月の人事はその好例であると言えよう(46)。   

プーチンは2期8年にわたる軍に対するこうlノた自らの政策を通じて,巨   大な軍の機構に対する効果的なコントロールの確保に成功したと言われる。  

ロバート・ブラノンは.「プーチンの下ではキャリアのある軍士官たちを周辺   化させつつ,セキュリティ・エスタブリッシュメントに依拠する明確なパ  

ターンが存在していた(47)」と指摘し,エリツィン時代がプーチンの時代に移   行する中で,文民のコントロールが増大し,軍に対するその監督がより効果   的なものになったと論じている。本節では,先ずソ連時代からその間題が指   摘されていた軍事力の整備計画を中心とした軍改革の基本的な流れについて   言及した上で,70−チン政権以降のロシアにおける軍の文民統制と民主化を   めぐる問題について考えてみることにしたい。  

636   

1.プーチン=メドヴュージェフ政権下における軍の改革   

ソ連軍iょその最盛期において約530万人の兵員を数えた。このソ連軍の主力   を引き継ぐ形で1992年5月に創設されたロシア軍の規模は約270万人であり,  

その数はエリツィン時代を通じて激減し,1999年初頭には約120万人となっ  

毎朝 同地方選挙では,カリーニングラード,クリヤノブスクおよびヴオロネジの各州知事    選で当選,サンクト・ペテルプルク州知事選で落選という結果となっている。  

㈹ 2004年6〃,イングーシ  共和国の中心郡市ナズラニの治安施設がチェチェン武装勢力    に襲撃され,イングーシ側に100名近い死者が出た。  

㈹ 木村・名越・布施前掲書,90−91頁。  

極7)Brannon,Robert,2009.RzLSSZ■anMiliLa7TRekttinns.Ashga[e,p.167.  

.うJ  

(26)

635 ソ連邦の崩壌とロシアの牧草関係  

た(48)。プーチン政権下のロシアにおいても,こうした兵員の削減はさらに進   み,現在,ロシア軍の総兵力は,約40万人の地上軍を中心とした100万人規模   であると見積もられている(49)。このロシア軍の規模については同国の経済力   に即したものであるとの見方が大勢であるが,軍の改革を考える上での主た   る問題は,そうした兵員の規模ではなく,人的・技術的両面における質の問   題であると言われている。  

ロシアでは,ロシア革命以前の帝政時代から徴兵制が長らく敷かれており,  

ソ連時代においても,18歳から27歳の男子に対して2年間(海軍は3年間)  

の兵役義務が課されていた。この徴兵制度がソ連時代の晩年において独立志   向の連邦構成共和国からの強い抵抗に遭ったことについては,すでに述べた   通りである。徴兵制は連邦崩壊後のロシアにも引き継がれていき,ソ連時代   と同じく,現在も,18歳から27歳の男子に対して一定期間の兵役義務が課さ   れている。しかし,適齢男子のほとんどが健康上の理由や大学での軍事教練   の選択あるいはその他の代替勤務を理由に義務的兵役を逃れており,徴兵忌   避率はロシア全体で90.5%,大都市部では97%にのぼると見なされている。  

このような状況下,兵役義務を免れることができない適齢男子の割合は,実   際のところ,徴兵適齢人口の10人に1人に過ぎないとまで言われている(50)。  

プーチンは,大統領就任以来メドヴュージェフ政権下で首相となった現在   も,こうした伝統的な徴兵制に代わって,すでに先進諸国では一般的なもの   となっている志願兵制への全面移行を漸進的に進めようとしている。志願兵   制への移行をめぐる議論についてはすでにソ連時代晩年から存在していた   が,第一次チェチェン戦争に対する国民の反戦ムードの中で徴兵忌避が社会   的規範として容認され始め・エリツィン大統領は1996年の大統領選挙におい  

八   七  

細 事乞一字 2001「プーチン政権下のロシアの国1坊政策」『ロシア研究』第32号,48頁を参    照。  

毎9)外務省 2009「ロシア」外務省ホpムページ(http//www,mOfa.go.jp/InOfaj/area′′   

Russia/data.htm】2009年1月23日)を参照。  

佃 木村・名越・布施前掲書,48頁。  

丘2   

参照

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