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佛教大学仏教学会紀要 12号(20040325) 011南尊融「本末制度確立過程における寺伝の改竄 (明山安雄先生古稀記念号)」

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Academic year: 2021

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(1)

-所

﹁阿

は じ め に 仏 教 各 宗 の 教 団 が 江 戸 幕 府 の 宗 教 政 策 と し て の ﹁ 本 末 制 度 ﹂ に よ っ て 統 一 的 に 組 織 化 さ れ て い っ た こ と は 周 知 の 事 実 で あ る 。 そ の 具 体 的 な 施 策 と し て 、 幕 府 は 諸 宗 の 本 山 に 対 し て 末 寺 の 書 上 げ を 命 じ 、 こ れ を う け た 各 宗 本 山 は   ユ   末 寺 帳 を 作 成 し て 、 寛 永 九 ( 一 六 三 二 ) ∼ 十 年 頃 に か け て 幕 府 に 末 寺 帳 を 提 出 し た 。 こ の 末 寺 帳 の 作 成 に あ た っ て は 、 各 宗 本 山 の 指 令 に も と つ い て 、 中 小 本 末 圏 の 本 寺 や 触 頭 等 が そ の 所 管 の 触 下 ・ 末 下 各 寺 の 由 緒 書 草 案 を 提 出 さ せ 、 こ れ を 触 頭 ・ 本 寺 が 一 括 浄 書 し て 各 寺 の 住 持 に 署 名 捺 印 さ せ る こ と (﹁ 本 寺 改 め ﹂ ) に よ っ て 出 来 上 が っ た と 考  こ ぞ   え ら れ て い る 。 そ し て 、 こ の ﹁ 寛 永 の 本 末 改 め ﹂ を 最 初 の 契 機 と し て 本 末 制 度 が 成 立 し て く る の で あ っ て 、 そ れ が 本 格 的 に 確 立 す る の は 、 幕 府 が 再 度 各 宗 本 山 に ﹁ 寺 院 本 末 帳 ﹂ の 提 出 を 命 じ た 元 禄 五 年 ( 一 六 九 二 ) を 待 た な け れ       ば な ら な い と 考 え ら れ て い る 。 と こ ろ が 、 そ の よ う な 本 末 制 度 が 確 立 す る 以 前 に お い て は 、 中 井 真 孝 氏 が 指 摘 し て い る よ う に 、 本 末 の 関 係 と い 本 末 制 度 確 立 過 程 に お け る 寺 伝 の 改 竄 ー 所 謂 ﹁ 阿 弥 陀 寺 本 末 圏 ﹂ 諸 寺 院 の 場 合 -一 一

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仏 教 学 会 紀 要 一 二 号 一 二 な   う も の に は 、 か な り 流 動 的 な 部 分 が あ っ た の で あ る 。 す な わ ち 、 本 末 改 め の 実 施 に よ る 末 寺 帳 の 作 成 に 際 し 、 本 寺 が そ の 各 末 寺 の 住 持 に 加 判 (﹁ 着 帳 ﹂ ) さ せ よ う と し た と き に 、 こ れ を 拒 否 す る 末 寺 が 現 れ た と い う こ と で あ る 。 こ の 事 態 に 直 面 し た 本 寺 は 、 解 決 の 場 を 本 山 に 求 め て 訴 訟 を 起 こ し 、 裁 決 を 仰 ぐ こ と に な る の で あ る ( こ の よ う な 、 本 寺 と 末 寺 と の 間 の 訴 訟 が ﹁ 本 末 争 論 ﹂ で あ る ) が 、 そ の 決 着 の 仕 方 は 様 々 で あ っ た 。 す な わ ち 、 そ の 末 寺 が 本 寺 の 支 配 か ら 離 脱 し て 本 山 の 直 末 と な る こ と に 成 功 す る こ と も あ れ ば 、 結 局 本 来 の 本 寺 と の 本 末 関 係 に 甘 ん ず る こ と を 余 儀 な く さ れ る 場 合 も あ っ た の で あ る 。 こ の よ う に 本 末 制 度 成 立 の 過 程 に お い て 、 各 宗 派 で 本 末 争 論 が 起 こ っ て い っ た の で あ る が 、 浄 土 宗 教 団 に お け る       本 末 制 度 確 立 過 程 に 関 す る 研 究 は 、 中 井 真 孝 氏 ・ 伊 藤 唯 真 氏 ・ 宇 高 良 哲 氏 ら の 業 績 が 顕 著 で あ る 。 こ れ ら の う ち 中 井 氏 や 伊 藤 氏 の 研 究 に お い て は 、 特 に 地 方 の 浄 土 宗 諸 寺 院 が 知 恩 院 等 の 本 山 の 下 に 組 織 化 さ れ て い っ た 典 型 的 な 例 と し て 、 近 江 南 部 の 所 謂 ﹁ 阿 弥 陀 寺 本 末 圏 ﹂ を 取 り 上 げ て 考 察 し て い る 。 そ れ に よ れ ば 、 ﹁ 阿 弥 陀 寺 本 末 圏 ﹂ は 中 世 末 期 、 近 江 国 栗 太 郡 金 勝 山 の 浄 厳 坊 と そ の 麓 の 草 庵 か ら 発 展 し た 阿 弥 陀 寺 を 中 心 と し て 形 成 さ れ 、 近 江 湖 南 地 域 に 数 百 箇 寺 に も 及 ぶ 末 寺 を 抱 え た 一 大 本 末 圏 で あ っ た 。 そ し て 、 織 田 信 長 の 政 策 に よ っ て 、 こ の ﹁ 阿 弥 陀 寺 本 末 圏 ﹂ の 中 心 は 安 土 城 下 の 浄 厳 院 に 移 さ れ 、 ﹁ 浄 厳 院 本 末 圏 ﹂ と 称 さ れ る よ う に な っ た 。 そ の 後 、 こ の ﹁ 浄 厳 院 本 末 圏 ﹂ の 諸 寺 院 が 近 世 幕 藩 権 力 に よ っ て 知 恩 院 を 頂 点 と す る 統 一 的 な 本 末 制 度 の 下 に 組 織 化 さ れ よ う と す る と 、 元 の 中 心 寺 院 で あ っ た 阿 弥 陀 寺 や そ れ に 準 ず る 有 力 寺 院 が 直 接 の 本 寺 た る 浄 厳 院 の 支 配 を 拒 否 し て 知 恩 院 等 の 本 山 の 直 末 寺 に な る こ と を 企 て 、 つ い に は 幕 藩 権 力 に そ の 裁 定 が 委 ね ら れ る と い う 事 態 に ま で 発 展 し た の で あ る 。 こ れ が ﹁ 寛 永 の 本 末 争 論 ﹂ と い わ れ る も の で あ る が 、 こ の 争 論 を 起 こ し た 阿 弥 陀 寺 以 下 の 有 力 寺 院 は 、 そ の ほ と ん ど が 結 局 敗 訴 し 、 浄 厳 院 の 末 寺 と し て 組 織 化 さ れ て し ま う の で あ る 。

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と こ ろ で 、 こ の よ う な 浄 厳 院 本 末 圏 に お け る 本 末 争 論 に お い て 、 争 論 を 起 こ し た 有 力 寺 院 は ど の よ う な 根 拠 に よ っ て 浄 厳 院 の 支 配 か ら 離 脱 し よ う と し て い た の で あ ろ う か 。 例 え ば 阿 弥 陀 寺 は 、 本 来 の 中 心 寺 院 と し て の 立 場 か ら 、 浄 厳 院 と 阿 弥 陀 寺 は ﹁ 両 本 寺 ﹂ で あ っ て 阿 弥 陀 寺 は 浄 厳 院 の 末 寺 で は な い と い う 主 張 を 持 ち 出 し て い る こ と に つ い て 、 従 来 の 研 究 に お い て は 、 こ れ を 全 く 文 面 通 り に 受 け 取 っ て 論 究 さ れ て き た 。 し か し 、 論 者 は こ の ﹁ 両 本 寺 ﹂ と い う 根 拠 に つ い て は 、 大 き な 疑 問 を 抱 か ざ る を 得 な い の で あ る 。 す な わ ち 、 阿 弥 陀 寺 は そ の 寺 伝 ・ 由 緒 を 改 竄 す る こ と に よ っ て 浄 厳 院 の 支 配 か ら の 離 脱 を 謀 っ た の で は な い か と 思 わ れ る の で あ る 。 こ の こ と を 論 証 し よ う と す る の が 本 稿 の 主 題 で あ る 。 一 、 所 謂 ﹁ 阿 弥 陀 寺 本 末 圏 ﹂ ( 1 ) ﹃ 湖 東 三 僧 伝 ﹄ に 見 る ﹁ 阿 弥 陀 寺 本 末 圏 ﹂ の 成 立 そ こ で 、 最 初 に 阿 弥 陀 寺 と ﹁ 阿 弥 陀 寺 本 末 圏 ﹂ の 成 立 の 経 過 を 概 観 し て お か ね ば な ら な い 。 既 述 の 如 く 、 中 世 末 期 に 近 江 湖 南 地 方 に 成 立 し た 所 謂 ﹁ 阿 弥 陀 寺 本 末 圏 ﹂ は 、 当 時 各 地 に お い て 現 出 し て い た 地 方 本 末 圏 の 最 も 典 型 的 な も の と し て 知 ら れ る 。 そ し て 、 そ の 中 心 的 存 在 と し て 成 立 ・ 発 展 し た 金 勝 阿 弥 陀 寺 の ﹁ 開 山 ﹂ か ら . 第 三 世 L 住 持 ま で の 事 跡 を 中 心 に 綴 ら れ た の が ﹃ 湖 東 三 僧 伝 ﹄ (以 下 ﹃ 三 僧 伝 ﹄ と 略 覚 ) で あ る こ と も よ く 知 ら れ て い る 。 こ れ に よ る と 、 阿 弥 陀 寺 の ﹁ 開 山 ﹂ 隆 堯 法 印 は 、 応 永 十 一 年 ( 一 四 〇 四 ) 金 勝 山 金 勝 寺 の 草 庵 ( 11 ﹁ 浄 厳 房 ﹂ ) に お い て 念 仏 三 昧 に 入 っ た が 、 そ こ は 女 人 結 界 の 地 で あ っ た の で 、 ﹁ 応 永 二 十 年 の こ ろ 金 勝 山 の 東 阪 ﹂ に 庵 を む す ん で ﹁ 弘 法 の 道 場 ﹂ と し 、 ﹁ 第 二 世 ﹂ 堯 誉 隆 阿 の 弟 子 と な っ た ﹁ 第 三 世 ﹂ 厳 誉 宗 真 は 、 隆 堯 が 草 創 本 末 制 度 確 立 過 程 に お け る 寺 伝 の 改 竄 ー 所 謂 ﹁阿 弥 陀 寺 本 末 圏 ﹂ 諸 寺 院 の 場 合 ー 一 三

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仏 教 学 会 紀 要 一 二 号 一 四 し た ﹁ 東 坂 の 庵 を 拡 き 大 に 殿 宇 を 起 し ﹂ て ﹁ 阿 弥 陀 寺 と 名 づ け ﹂ 、 文 明 十 八 年 ( 一 四 八 六 ) に そ の 新 仏 殿 に お い て ﹁ 不 断 念 仏 ・ 六 時 常 行 を 開 白 し ﹂ 、 ﹁ 開 山 忌 ﹂ を 初 め て 勤 修 し た 。 明 応 元 年 ( 一 四 九 二 ) に は ﹁ 清 規 ﹂ を 制 定 し 、 そ の 間 、 長 享 元 年 ( 一 四 八 七 ) 足 利 義 尚 の 鉤 の 陣 に 甥 の 結 城 七 郎 を 尋 ね 、 ﹁ 当 山 の 属 院 ﹂ に 火 を か け る こ と を 中 止 さ せ た 宗 真 は 、 義 尚 の 奏 聞 に よ っ て 土 御 門 天 皇 か ら ﹁ 黒 衣 参 内 特 勅 の 綸 旨 を 賜 り ﹂ 、 翌 年 ﹁ 当 山 へ 閻 浮 檀 金 の 弥 陀 佛 ・ 念 佛 弘 通 の 綸 旨 ・ 浄 厳 宗 の 号 、 宸 翰 の 阿 弥 陀 寺 の 額 及 び 香 合 を 賜 ﹂ っ た 。 そ う し て 、 つ い に ﹁ 門 弟 千 余 、 子 院 六 宇 、 属 院 数 百 ﹂ に も 及 ぶ 、 一 大 本 末 圏 を つ く り あ げ る こ と に な っ た の で あ る 。 以 上 が ﹃ 三 僧 伝 ﹄ が 伝 え る と こ ろ の ﹁ 阿 弥 陀 寺 本 末 圏 ﹂ 成 立 の 経 過 の 概 要 で あ る 。 ﹁ 浄 厳 宗 ﹂ の 称 号 な ど 、 い く       つ か の 点 に 後 世 の 粉 飾 が あ る こ と は 既 に 指 摘 さ れ て い る が 、 阿 弥 陀 寺 及 び ﹁ 阿 弥 陀 寺 本 末 圏 ﹂ 成 立 の 過 程 に つ い て は 、 こ の ﹃ 三 僧 伝 ﹄ の 既 述 を ほ と ん ど 唯 一 の 根 拠 と し て 語 ら れ て き て お り 、 こ れ が 通 説 と な っ て い る の で あ る 。 し か し 論 者 は 、 こ の ﹃ 三 僧 伝 ﹄ の 記 述 に は さ ら に 大 き な 問 題 点 が 存 在 す る と 考 え る の で あ る 。 ( 2 ) ﹁ 阿 弥 陀 寺 本 末 圏 ﹂ の 実 態 そ こ で 、 ﹃ 三 僧 伝 ﹄ に 述 べ る と こ ろ の 内 容 を 検 証 し な け れ ば な ら な い の で あ る が 、 宗 真 の 時 代 に 成 立 し た と い う ﹁ 阿 弥 陀 寺 本 末 圏 ﹂ と は 実 際 に は ど の よ う な も の で あ っ た の で あ ろ う か 。 そ の 重 要 な 手 が か り と な る 史 料 が ﹁ 知 恩 院 文 書 ﹂ に 残 さ れ て い る 。 そ れ は 、 永 正 十 二 年 ( 一 五 一 五 ) 十 月 十 六 日 付 の ﹁ 浄 厳 坊 宗 真 及 び 諸 末 寺 住 持 連 署 定 書 写 ﹂ ( (9 ) 仮 題 ) ・ 天 文 四 年 ( 一 五 三 五 ) 九 月 + 三 日 付 ﹁ 浄 厳 坊 忍 誉 及 び 諸 末 寺 住 持 連 署 定 書 写 ﹂ (仮 題 ) 、 永 禄 + 年 ( 一 五 六 七 ) 三 月 三 日 付 藷 末 寺 置 目 之 事 (致 の 三 点 の 文 書 (写 ) で あ る (以 下 、 こ れ ら 三 点 の 文 書 は そ れ ぞ れ 永 正 ・ 天 文 ・ 永 禄 の ﹁ 連 判 状 ﹂ と 略 す ) 。 こ れ ら の 文 書 は 、 当 時 の 浄 厳 坊 と そ の 有 力 末 寺 と 思 わ れ る 諸 寺 院 住 持 ら の

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連 判 に よ る ﹁ 定 書 ﹂ で あ る 。 こ れ ら の 文 書 の 連 判 の そ れ ぞ れ の 筆 頭 者 で あ る ﹁ 宗 真 ﹂ ﹁ 忍 誉 ﹂ ﹁ 応 誉 ﹂ に は 肩 書 き は な い が 、 後 述 の 如 く 彼 ら は 阿 弥 陀 寺 で は な く 、 あ く ま で も . 浄 厳 坊 L の 住 持 で あ る (左 の ︹表 1 ︺ で は 便 宜 上 ﹁ 浄 厳 坊 ﹂ と し た ) 。 そ し て 、 二 人 目 以 下 の 僧 侶 名 に は ほ と ん ど ﹁ 何 々 寺 ( 院 ) ﹂ と 末 寺 の 名 が 肩 書 き さ れ て お り 、 そ の 最 初 に 阿 弥 陀 寺 住 持 が 連 署 し て い る 。 こ れ ら を 寺 院 ご と に 整 理 す る と 次 の ︹ 表 1 ︺ の よ う に な る 。 ︹表 1 ︺

(所

)

*

・盞

﹁ 浄 厳 坊 ﹂ 宗 真 忍 誉 応 誉 阿 弥 陀 寺 ( 栗 . 金 勝 ) 浄 阿 祐 真 文 誉 般 舟 庵 ( ﹁ 本 寺 ノ 寺 僧 ﹂ ) * 真 誓 信 楽 院 (蒲 . 日 野 ) 宗 玖 珠 養 敬 恩 寺 ( 栗 . 金 勝 ) 臨 西 林 阿 ( ﹁本 寺 ノ 寺 僧 ﹂ ) * 周 般 正 覚 院 (蒲 . 繖 山 ) 誉 阿 珠 慶 ○ (住 持 名 無 し ) 常 楽 院 (甲 . 小 佐 治 ) 宗 阿 善 永 浄 光 寺 (神 . 奥 村 ) 酉 圓 宗 永 常 念 寺 ( 野 . 永 原 ) 観 阿 真 良 摂 取 院 ( 蒲 . 内 池 ) 宗 秀 浄 善 寺 ( 甲 . 小 佐 治 ) 源 阿 宗 源 本 末 制 度 確 立 過 程 に お け る 寺 伝 の 改 竄 -所 謂 .阿 弥 陀 寺 本 末 圏 ﹂ 諸 寺 院 の 場 合 一 五

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仏 教 学 会 紀 要 一 二 号 一 六 九 品 寺 ( 甲 ・ 下 山 ) 珠 源 酉 源 称 名 寺 ( 甲 ・ 多 喜 ) 寿 清 臨 西 弘 誓 寺 (神 ・ 野 村 ) 珠 栄 宗 慶 西 願 寺 ( 甲 ・ 市 原 ) 永 源 来 迎 寺 ( 不 明 ) 善 正 如 来 堂 (﹁ 組 頭 二 而 ハ 無 御 座 候 ﹂ ) * (不 明 ) 慶 阿 東 善 寺 ( ﹁組 頭 二 而 ハ 無 御 座 候 ﹂ ) * ( 不 明 ) 祐 春 * 所 在 地 の 郡 名 ⋮ 栗 11 栗 太 郡 、 蒲 11 蒲 生 郡 、 甲 11 甲 賀 郡 、 神 11 神 崎 郡 、 野 " 野 洲 郡 * ﹁本 寺 ノ 寺 僧 ﹂ ﹁組 頭 二 而 ハ 無 御 座 候 ﹂ の 註 記 は 、 原 文 書 に は な か っ た と 思 わ れ る が 、 理 解 の 助 け に な る の で 表 示 し た 。 こ の 表 が 意 味 す る 一 つ の 重 要 な 点 は 、 こ れ ら の ﹁ 連 判 状 ﹂ 署 名 の 中 心 人 物 は 浄 厳 坊 の 住 持 で あ っ て 、 そ の 筆 頭 末 寺 と し て の 阿 弥 陀 寺 住 持 は 別 に 存 在 す る と い う こ と で あ る 。 こ の 点 に つ い て は 後 に も う 一 度 詳 細 に 検 討 す る が 、 と も か く こ の ﹁ 連 判 状 ﹂ 署 名 者 は 浄 厳 坊 と そ の 諸 末 寺 の ﹁ 組 頭 ﹂ (﹁ 末 寺 頭 ﹂ ) の 住 持 で あ る 。 た だ 、 こ れ ら の 末 寺 頭 の 数 や そ の 構 成 に は 年 代 に よ っ て か な り 異 同 が あ る の で あ る が 、 永 禄 十 年 ま で の 約 五 十 年 間 に お け る 三 通 の ﹁ 連 判 状 ﹂ に お い て 、 二 回 以 上 署 名 し て い る 末 寺 が 十 一 ヶ 寺 あ り 、 こ れ ら は 特 に 有 力 な 末 寺 で あ っ た と 思 わ れ る 。 こ の よ う に ﹁ 阿 弥 陀 寺 本 末 圏 ﹂ は 浄 厳 坊 第 三 世 宗 真 に よ っ て そ の 基 盤 が 構 築 さ れ 、 十 六 世 紀 後 半 に は 十 数 箇 寺 の 末 寺 頭 を 中 心 に 宗 政 が 運 営 さ れ て い た の で あ る 煙 、 そ の 後 織 田 信 長 の 出 現 に よ っ 三 つ の 大 き な 転 機 を 迎 え る 。 よ く 知 ら れ て い る よ う に 、 天 正 五 年 ( 一 五 七 六 ) 信 長 は 安 土 城 を 築 い て こ こ に 移 る と 、 そ の 直 後 に 浄 厳 坊 第 八 世 応 誉 明 感 に 命 じ て ・ ﹁纛 の 坊 主 ﹂ を 安 土 城 下 に 移 住 毳 、 旧 慧 寺 の 寺 地 を 与 え て 巖 院 を 建 立 し た . そ の 結 果 、 .阿

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弥 陀 寺 本 末 圏 L の 中 心 は 金 勝 か ら 安 土 に 移 り 、 浄 厳 院 が そ れ ま で の ﹁ 阿 弥 陀 寺 本 末 圏 ﹂ の 末 寺 を 支 配 す る こ と と な り 、 こ こ に ﹁ 浄 厳 院 本 末 圏 ﹂ と 称 す べ き 地 域 的 本 末 圏 を 形 成 す る こ と に な っ た の で あ る 。 二 、 ﹁ 浄 厳 院 本 末 圏 ﹂ 諸 寺 院 の 寺 伝 改 竄 ( 1 ) 寛 永 の 本 末 争 論 お け る 場 合 ① 寛 永 の 本 末 争 論 さ て 、 冒 頭 に お い て 述 べ た よ う に 、 江 戸 幕 府 に よ る ﹁ 寛 永 の 本 末 改 め ﹂ を そ の 最 初 の き っ か け と し て ﹁ 本 末 争 論 ﹂ が 起 こ っ て い っ た の で あ る が 、 そ の う ち ﹁ 浄 厳 院 本 末 圏 ﹂ に お け る 寛 永 年 間 の 争 論 に つ い て は 、 知 恩 院 文 書 の   レ   六 号 文 書 ( ﹁ 浄 厳 院 末 寺 公 事 出 入 り 一 件 書 類 ﹂ ) に よ っ て そ の 概 略 を 知 る こ と が 出 来 る 。 そ の う ち 寛 永 十 一 年 ( 一 六 三 四 ) 閏 七 月 十 日 付 、 京 都 所 司 代 板 倉 重 宗 宛 、 知 恩 院 役 者 書 状 ( 六 号 文 書 九 八 ) に は 一 書 申 上 候 一 、 江 州 正 覚 院 一 、 同 阿 弥 陀 寺 一 、 同 常 念 寺 右 三 箇 寺 者 江 州 浄 厳 院 末 寺 二 而 御 座 候 、 本 寺 与 末 寺 公 事 双 方 於 知 恩 院 遂 穿 鑿 承 届 、 則 三 箇 寺 私 曲 二 申 付 候 處 二 少 茂 下 知 承 引 不 仕 候 、 然 上 者 向 後 諸 末 寺 仕 置 不 罷 成 候 、 両 御 所 様 御 朱 印 之 表 永 代 不 相 背 様 今 度 被 仰 付 可 被 下 候 、 粗 言 上 、 本 末 制 度 確 立 過 程 に お け る 寺 伝 の 改 竄 -所 謂 ﹁ 阿 弥 陀 寺 本 末 圏 ﹂ 諸 寺 院 の 場 合 -一 七

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仏 教 学 会 紀 要 一 二 号 一 八 右 之 外 マ マ 一 、 水 口 真 光 寺 一 、 羽 田 光 明 寺 此 貳 箇 寺 茂 従 前 々 浄 厳 院 之 末 寺 二 而 御 座 候 處 、 近 年 背 小 本 寺 恣 二 在 寺 仕 、 浄 厳 院 致 迷 惑 候 、 已 上 、 知 恩 院    ぐ    ご 閏 七 月 + 日 役 者    ゆあ 板 倉 周 防 守 殿 御 番 所 と あ っ て 、 正 覚 隧 以 下 五 箇 寺 が 浄 厳 院 と ﹁ 本 末 争 論 ﹂ を 起 こ し て い た こ と が わ か る 。 こ の う ち 常 念 寺 を 除 く 四 箇   め   寺 に つ い て は 、 中 井 真 孝 氏 が 綿 密 に 分 析 し て い る の で 争 論 の 詳 細 な 経 過 は 省 略 す る が 、 幕 府 に ま で 持 ち 込 ま れ た 浄 厳 院 と そ の 末 寺 と の ﹁ 公 事 ﹂ ( 争 論 ) は ど の よ う に 決 着 が 付 い た の で あ ろ う か 。 ま ず 、 正 覚 院 . 阿 弥 陀 寺 . 常 念 寺   レ   の 三 箇 寺 は 、 結 局 こ の 訴 訟 に は 敗 れ 、 そ の 後 も 浄 厳 院 末 寺 の 地 位 に 甘 ん ず る こ と に な る 。 こ れ に 対 し て 、 真 (心 ) 光 寺 と 光 明 寺 は 百 万 遍 知 恩 寺 と の 間 に 新 た な . 契 約 関 係 ﹂ を 持 っ て い た の で 、 浄 厳 院 の 支 配 か ら の 離 脱 に 成 功 し 、 な   と も に 知 恩 寺 の 直 末 と な っ た の で あ る 。 こ の 事 実 を 踏 ま え た 上 で 、 先 に も 指 摘 し た よ う に 、 こ れ ら の 末 寺 の う ち 阿 弥 陀 寺 の 成 立 . 発 展 の 経 過 や 寛 永 の 争 論 に お け る 動 向 に つ い て は 再 検 討 す る 必 要 が あ る 。 ま た 、 常 念 寺 に つ い て は 従 来 の 研 究 で は 全 く 扱 わ れ て こ な か っ た の で あ る が 、 本 稿 の 主 題 に 対 し て 重 要 な 示 唆 を 与 え て く れ る 点 が あ る の で 、 こ れ を 新 た に 検 討 す る こ と と す る 。 ② 阿 弥 陀 寺 の 寺 伝 改 竄

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そ こ で 先 ず 阿 弥 陀 寺 に つ い て で あ る が 、 阿 弥 陀 寺 と 浄 厳 院 と の 争 論 は 、 知 恩 院 文 書 の 寛 永 十 一 年 ( 一 六 三 四 ) 五   の   月 六 日 付 、 知 恩 院 役 者 中 宛 、 浄 厳 院 深 誉 書 状 ( 六 号 文 書 九 四 ) に よ る と 、 ﹁ 阿 弥 陀 寺 不 謂 た く ミ を 仕 、 企 邪 儀 を 候 て 、 浄 厳 院 与 阿 弥 陀 寺 者 両 本 寺 二 而 候 間 、 諸 末 寺 並 二 着 帳 仕 間 敷 由 申 、 着 帳 不 仕 候 ﹂ と い っ て ﹁ 前 代 未 聞 之 新 儀 ﹂ を 申 し 立 て て き た の で 、 浄 厳 院 は ﹁ 阿 弥 陀 寺 儀 者 浄 厳 院 之 末 寺 た る 事 、 実 正 明 白 ﹂ で あ る 理 由 を 八 箇 条 に わ た っ て 列 記 し 、 本 山 知 恩 院 の 裁 許 を 求 め て い る 。 そ し て 、 年 欠 で あ る が 同 じ く 寛 永 十 一 年 の も の と 思 わ れ る 五 月 廿 三 日 付 、 お   知 恩 院 役 者 宛 、 深 誉 書 状 ( 六 号 文 書 一 = 二 ) に は 、 ﹁ 阿 弥 陀 寺 ハ 浄 厳 院 末 寺 二 落 着 仕 候 ﹂ と あ る の で 、 五 月 六 日 付 の 浄 厳 院 か ら の 訴 え に 対 し て 知 恩 院 の 裁 定 が 一 旦 下 さ れ た よ う で あ る 。 と こ ろ が 、 こ の 裁 定 に 対 し て 阿 弥 陀 寺 は ﹁ 何 共 不 致 落 着 ﹂ と い っ て 再 び ﹁ 着 帳 加 判 ﹂ を 拒 ん で い る の で 、 再 度 知 恩 院 か ら ﹁ 御 折 帋 ﹂ を 下 し て ほ し い 、 と 浄 厳 院 が 要 請 し て い る 。 そ の 後 、 こ の 争 論 は 少 な く と も 正 保 二 年 ( 一 六 四 五 ) ま で 続 い た こ と が 知 ら れ る が 、 既 述 の 如 く 、 阿 弥 陀 寺 は 結 局 こ の 争 論 に 敗 訴 し 、 浄 厳 院 の 末 寺 と し て 留 ま る こ と と な っ た の で あ る (註 17 参 照 ) 。 さ て 、 こ の よ う に 寛 永 の 本 末 争 論 に 敗 れ た 阿 弥 陀 寺 に つ い て 、 そ の 寺 伝 ・ 由 緒 の 改 竄 が 行 わ れ た の で は な い か と い う 仮 説 を 冒 頭 に 掲 げ た の で あ る が 、 そ の 点 に つ い て こ こ で 具 体 的 に 検 証 し て み よ う 。 阿 弥 陀 寺 の 成 立 に 関 し て は 、 既 に 見 た よ う に 隆 堯 が 金 勝 山 麓 の 東 坂 に 結 ん だ 草 庵 を 、 宗 真 が 拡 大 ・ 発 展 さ せ た も の が 阿 弥 陀 寺 で あ っ た 。 そ し て 、 そ の 歴 代 は 第 八 世 応 誉 明 感 ま で が 浄 厳 坊 ( の ち 浄 厳 院 ) と 共 通 し た 住 持 と な っ て い た 、 と い う の が 阿 弥 陀 寺 の 歴 代 住 持 に つ い て の ﹃ 湖 東 三 僧 伝 ﹄ に 基 づ く と こ ろ の 通 説 で あ る 。 そ し て 、 浄 厳 院 に 伝 わ る ﹁ 元 禄 五 申 年 九 月 十 五 日 之 改 帳 ・ 同 六 年 酉 九 月 晦 日 公 儀 江 上 候 扣 帳 ﹂ (以 下 ﹁ 元 禄 五 年 改 帳 ﹂ と 略 す ) に は   れ   ﹁ 隆 尭 法 印 造 立 ﹂ と さ れ 、 ま た こ れ と ほ と ん ど 同 じ こ ろ に 作 成 さ れ た ﹃ 浄 土 宗 寺 院 由 緒 書 ﹄ に は ﹁ 開 山 隆 堯 法 印 ﹂ 本 末 制 度 確 立 過 程 に お け る 寺 伝 の 改 竄 ー 所 謂 ﹁阿 弥 陀 寺 本 末 圏 ﹂ 諸 寺 院 の 場 合 -一 九

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仏 教 学 会 紀 要 一 二 号 二 〇 と 記 さ れ て お り ( 註 4 ・ 17 参 照 ) 、 ﹃ 三 僧 伝 ﹄ の 記 事 と 一 致 す る の で あ る 。 と こ ろ が 、 ﹃ 三 僧 伝 ﹄ や 元 禄 年 間 の 由 緒 書 類 に お い て 、 阿 弥 陀 寺 の 開 山 を 隆 堯 と し て い る こ と に つ い て は 甚 だ 疑 問 が あ る の で あ る 。 実 は ﹃ 三 僧 伝 ﹄ 自 身 が 語 っ て い る と お り 、 . 東 坂 の 庵 L を 本 格 的 な 寺 院 の 体 裁 に 整 え た の は 宗 真 な の で あ り 、 そ の 意 味 に お い て も 阿 弥 陀 寺 の 開 山 は あ く ま で 宗 真 で あ っ た と 考 ら れ る の で あ る 。 こ の こ と を 明 確 に 示 し て い る 史 料 が 、 知 恩 院 文 書 の 寛 永 十 二 年 ( 一 六 三 五 ) 六 月 六 日 付 、 浄 厳 院 深 誉 の ﹁ 本 末 代 々 ノ 覚 ﹂ (六 号 文 書 一 〇 一 ) で あ る 。 こ れ に よ れ ば 、 ま ず 本 寺 浄 厳 院 (坊 ) の 住 持 を ﹁ 開 山 隆 堯 法 印 ﹂ か ら ﹁ 十 代 広 誉 鉄 牛 上 人 ﹂   お   ま で 列 記 し 、 そ の 次 に 、 浄 厳 院 末 寺 阿 弥 陀 寺 開 基 者 、 同 五 代 文 誉 真 智 大 徳 本 寺 三 代 住 持 厳 誉 宗 真 上 人 同 六 代 真 誉 珠 養 大 徳 阿 弥 陀 寺 二 代 宗 誉 浄 阿 上 人 同 七 代 宝 誉 正 琳 大 徳 同 三 代 観 誉 祐 真 大 徳 同 八 代 行 誉 浄 運 大 徳 同 四 代 興 誉 宗 隆 大 徳 同 九 代 長 誉 勢 把 上 人 と 記 さ れ て い る 。 こ れ ら の 阿 弥 陀 寺 住 持 の う ち 、 二 代 ﹁ 浄 阿 ﹂ ・ 三 代 ﹁ 祐 真 ﹂ ・ 五 代 ﹁ 文 誉 ﹂ は 、 そ れ ぞ れ 先 に あ げ た 知 恩 院 文 書 の 永 正 ・ 天 文 ・ 永 禄 の ﹁ 連 判 状 ﹂ ( ︹表 1 ︺ ) に よ っ て 確 認 で き る 。 た だ 、 ﹁ 本 末 代 々 ノ 覚 ﹂ は 、 寛 永 の 本 末 争 論 に お い て 、 浄 厳 院 側 か ら 提 出 さ れ た 文 書 で あ る の で 、 そ の 信 憑 性 に 若 干 の 問 題 な し と し な い の で あ る が 、           と こ ろ が 、 阿 弥 陀 寺 に 所 在 す る 宗 真 の 墓 塔 (無 縫 塔 ) に は ﹁ 冨 谷 山 開 祖 嚴 譽 上 人 大 和 尚 ﹂ と 刻 銘 さ れ て お り 、 ﹁ 本 末 代 々 ノ 覚 ﹂ の 記 載 と 一 致 す る の で あ る 。 こ の よ う に 、 阿 弥 陀 寺 の 開 山 は 隆 堯 で は な く 厳 誉 宗 真 で あ る こ と は 疑 う 余 地 が 無 く 、 少 な く と も 十 七 世 紀 中 頃 ま

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 タ で は 阿 弥 陀 寺 自 身 に お い て は そ の よ う に 認 識 さ れ て い た こ と は 明 ら か で あ り 、 二 代 目 以 降 の 歴 代 も 浄 厳 坊 と は 全 く 別 の 住 持 で あ っ た の で あ る 。 従 っ て 、 所 謂 ﹁ 阿 弥 陀 寺 本 末 圏 ﹂ は 、 そ の 宗 政 が 実 質 的 に は 阿 弥 陀 寺 を 中 心 に お こ な わ れ て い た に し て も ( こ の 点 に つ い て も 検 討 の 余 地 が あ る が 、 今 は 取 り 敢 え ず 通 説 に 従 っ て お く ) 、 形 式 上 は あ く ま で 浄 厳 坊 が 本 寺 と し て 存 在 し 、 阿 弥 陀 寺 は そ の 末 寺 で あ っ た の で あ る 。 こ の よ う な 理 由 か ら 、 ﹁ 阿 弥 陀 寺 本 末   お   圏 ﹂ と い う 呼 称 は 不 適 当 で あ り 、 論 者 は こ れ を ﹁ 浄 厳 坊 本 末 圏 ﹂ と 呼 ぶ べ き で あ る と 考 え る の で あ る 。 と こ ろ が 、 そ の 後 隆 堯 法 印 を 阿 弥 陀 寺 の 開 山 と し 、 そ の 三 代 に 宗 真 を 据 え 、 さ ら に 四 代 以 降 八 代 応 誉 明 感 が 安 土 に 移 る ま で の 問 、 浄 厳 坊 の 住 持 が 同 時 に 阿 弥 陀 寺 の 住 持 で も あ っ た と い う こ と に 書 き 替 え ら れ て し ま っ た と 考 え ら れ る の で あ る 。 ③ 常 念 寺 の 寺 伝 改 竄 こ の よ う な 寺 伝 . 由 緒 の 改 竄 は 、 常 念 寺 に お い て も 行 わ れ て い た と 思 わ れ る 。 野 洲 郡 永 原 の 常 念 寺 は 、 既 述 の 天 文 と 永 禄 の ﹁ 連 判 状 ﹂ ( ︹表 1 ︺ ) に そ の 名 が 見 え て お り 、 ﹁ 浄 厳 坊 本 末 圏 ﹂ (所 謂 ﹁ 阿 弥 陀 寺 本 末 圏 ﹂ ) の 有 力 末 寺 の 一 つ で あ っ た こ と が 確 認 で き る 。 こ の 常 念 寺 の 由 緒 を 伝 え る 現 存 最 古 の 記 録 は 、 先 に 若 干 引 用 し た ﹁ 元 禄 五 年 改 帳 ﹂ で あ る 。 こ れ に は  ぬ       同 末 寺          同 国 野 洲 郡 永 原 村 一 、 御 朱 印 寺 領 五 石 明 鏡 山 常 念 寺 マ マ 弐 百 九 拾 七 年 已 前 応 永 三 丁 丑 中   め   念 蓮 社 常 誉 真 厳 和 尚 草 創 本 末 制 度 確 立 過 程 に お け る 寺 伝 の 改 竄 -所 謂 ﹁ 阿 弥 陀 寺 本 末 圏 ﹂ 諸 寺 院 の 場 合 二 一

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仏 教 学 会 紀 要 一 二 号 二 二 と あ る 。 一 方 、 常 念 寺 に 伝 わ る 文 書 の う ち 由 緒 を 記 し た も の と し て は 、 宝 永 二 年 ( 一 七 〇 五 ) に 寺 社 奉 行 に 差 し 出 さ れ た ﹁ 乍 恐 常 念 寺 代 々 書 付 奉 差 上 ヶ 候 ﹂ ( 以 下 ﹁ 代 々 書 付 ﹂ と 略 す ) と 題 す る 文 書 が 最 古 で 、 そ れ に は マ マ 一 、 常 念 寺 開 山 然 蓮 社 常 譽 眞 嚴 上 人 、 三 百 拾 年 以 前 、 應 永 三 丁 丑 年 中 草 創 、 其 後 、 永 正 三 丙 寅 年 、 永 原 越 前 守 開 基 建 立 、 (以 下 略 ) と あ る 。 こ れ ら の 史 料 に 従 え ば 、 応 永 の 初 め (三 年 11 一 三 九 六 。 ﹁ 丁 丑 ﹂ は 四 年 ) に 常 誉 真 厳 ( ま た は 真 巌 ) に よ       っ て 草 創 さ れ 、 そ の 後 、 永 正 三 年 ( 一 五 〇 六 ) に こ の 地 の 領 主 永 原 越 前 守 に よ っ て 本 格 的 に 堂 舎 が 整 え ら れ た と い う こ と に な る 。 と こ ろ で 、 常 念 寺 の 歴 代 住 持 に つ い て 、 右 の ﹁ 代 々 書 付 ﹂ に 、 二 世 臺 蓮 社 蓮 誉 上 人 十 二 世 教 蓮 社 大 誉 上 人 三 世 眞 蓮 社 西 誉 上 人 十 三 世 聲 蓮 社 念 誉 上 人 四 世 極 蓮 社 證 誉 上 人 十 四 世 真 蓮 社 圓 誉 上 人 五 世 忠 蓮 社 良 誉 上 人 十 五 世 然 蓮 社 廓 誉 上 人 六 世 大 蓮 社 恩 誉 上 人 十 六 世 横 蓮 社 超 誉 上 人 七 世 實 蓮 社 忠 誉 上 人 十 七 世 天 蓮 社 鏡 誉 上 人 八 世 心 蓮 社 安 誉 上 人 十 八 世 本 蓮 社 誓 誉 上 人 九 世 生 蓮 社 長 誉 上 人 十 九 世 玄 蓮 社 照 誉 上 人 十 世 照 蓮 社 真 誉 上 人 廿 世 然 蓮 社 卓 誉 上 人

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十 一 世 荘 蓮 社 厳 誉 上 人 廿 一 世 秀 蓮 社 梅 誉 上 人 と あ る 。 こ の う ち ﹁ 二 世 臺 蓮 社 蓮 誉 ﹂ に つ い て は 、 寛 延 三 年 ( 一 七 五 〇 ) に 序 を 記 す 常 念 寺 の 過 去 帳 に ﹁ 二 臺 蓮 社 蓮 譽 上 人 華 朴 觀 阿 大 和 尚 十 一 月 朔 日 ﹂ と あ る の と 一 致 す る 。 こ の ﹁ 二 世 観 阿 ﹂ の 名 は 知 恩 院 文 書 の ﹁ 天 文 の 連 判 状 ﹂ に ﹁ 常 念 寺 観 阿 判 ﹂ と あ り ( ︹表 1 ︺ ) 、 観 阿 は 常 念 寺 住 持 職 と し て 実 在 し た こ と が 確 認 で き る 。 そ し て 、 三 世 か ら 二 十 一 世 梅 誉 ( 元 禄 年 間 頃 ) に 至 る 歴 代 住 持 に つ い て も 検 討 し て み る と 、 か な り 事 実 を 伝 え て い る       と 考 え ら れ る 。 こ の よ う に 常 念 寺 の 歴 代 住 持 の 名 は 概 ね 事 実 で あ る こ と が 確 認 で き る わ け で あ る が 、 こ こ で 一 つ 大 き な 問 題 点 が あ る 。 そ れ は 、 先 に 見 た よ う に 元 禄 ・ 宝 永 年 間 に 記 さ れ た 寺 伝 に お い て 、 応 永 三 年 に ﹁ 常 誉 真 厳 (巌 ) ﹂ が 常 念 寺 を 開 い た と し て い る こ と と 、 第 二 世 観 阿 が 天 文 年 間 に 実 在 し て い た と い う こ と で あ る 。 す な わ ち 、 開 山 の 応 永 年 間 か ら 第 二 世 の 天 文 年 間 ま で は 百 五 十 年 近 く も 隔 た っ て お り 、 全 く つ じ つ ま が 合 わ な い の で あ る 。 そ こ で 、 こ の 疑 問 を 解 く と 思 わ れ る も の が 、 現 在 常 念 寺 の 境 内 墓 地 に 存 在 す る ﹁ 宗 真 上 人 戊 ヨ 十 二 廿 九 ﹂ ( ﹁ 戊   お   ヨ ﹂ の ﹁ ヨ ﹂ は ﹁ 寅 ﹂ の 異 体 字 ) と 刻 銘 の あ る 一 石 五 輪 塔 で あ る 。 こ こ に 名 前 の 彫 ら れ た ﹁ 宗 真 上 人 ﹂ と は 、 浄 厳 坊 第 三 世 宗 真 の こ と と 思 わ れ 、 ﹁ 戊 勾 十 二 廿 九 ﹂ の 日 付 も 宗 真 の 寂 年 月 日 、 永 正 十 五 年 ( 1ー 戊 寅 ) 十 二 月 二 十 九 日       ( ﹃ 一二 僧 伝 ﹄ ) と 一 致 す る 。 す な わ ち 、 こ の 一 石 五 輪 塔 は 浄 厳 坊 宗 真 の 供 養 塔 で あ る こ と が 判 明 す る の で あ る 。 で は 、 何 故 に 宗 真 の 供 養 塔 が 常 念 寺 に 存 在 す る の で あ ろ う か 。 こ の 点 に つ い て は 、 先 に 見 た よ う に 宝 永 二 年 の ﹁ 代 々 書 付 ﹂ に ﹁ 其 後 、 永 正 三 丙 寅 年 、 永 原 越 前 守 開 基 建 立 ﹂ と あ っ た こ と が 重 要 な ヒ ン ト と な る 。 す な わ ち 、 永 正 三 年 と い う 年 代 は 宗 真 が 在 世 し て い た 年 代 で あ る か ら 、 常 念 寺 が そ の 後 天 文 年 間 以 降 に お い て 浄 厳 坊 の 有 力 末 寺 で あ っ た と い う 事 実 と 、 宗 真 の 供 養 塔 が 常 念 寺 に 存 在 す る と い う こ と と を 考 え 合 わ せ る と 、 永 正 三 年 に 永 原 氏 の 経 本 末 制 度 確 立 過 程 に お け る 寺 伝 の 改 竄 -所 謂 ﹁ 阿 弥 陀 寺 本 末 圏 ﹂ 諸 寺 院 の 場 合 -二 三

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仏 教 学 会 紀 要 一 二 号 二 四 済 的 援 助 に よ っ て 本 格 的 な 堂 舎 を 整 え た と い う そ の と き の 常 念 寺 住 持 は 、 実 は こ の 宗 真 そ の 人 で あ っ た と 考 え ら れ る の で あ る 。 そ う で あ る と す る な ら ば 、 宗 真 が 入 寂 し た 永 正 十 五 年 ( 一 五 一 八 ) か ら 第 二 世 観 阿 の 実 在 が 確 認 で き る 天 文 四 年 ( 一 五 三 五 ) ま で は 十 七 年 の 差 で あ る か ら 、 宗 真 を 常 念 寺 の 開 山 と 考 え る と 年 代 的 に 丁 度 符 合 す る の で あ り 、 ﹁ 常 誉 真 厳 (巌 ) ﹂ を 開 山 と し た 場 合 の 応 永 年 間 と の 差 が 百 五 十 年 も あ っ た 矛 盾 が 一 挙 に 解 消 す る の で あ る 。 す な わ ち 、 現 在 の 常 念 寺 の 住 職 は 第 四 十 二 世 を 数 え る が 、 こ の 代 数 は 、 以 上 の 考 察 に よ っ て 、 十 六 世 紀 初 頭 ( 寺 伝 に よ れ ぼ 永 正 三 年 ) に 宗 真 を 初 代 ( 開 山 ) と し て 数 え ら れ て い る と 考 え ら れ る の で あ る 。 す な わ ち 、 常 念 寺 に 所 在 す る ﹁ 宗 真 上 人 供 養 塔 ﹂ は 、 常 念 寺 の ﹁ 開 山 塔 ﹂ と し て 祀 ら れ て い る こ と が 判 明 す る の で あ る 。 と こ ろ が 、 寺 伝 で は 開 山 僧 を ﹁ 常 誉 真 厳 (巌 ) ﹂ と し 、 こ れ を 初 代 に 数 え て 二 世 観 阿 以 降 の 歴 代 住 持 を あ げ て お り 、 し か も そ れ 以 降 の 歴 代 中 に も 宗 真 の 名 を 見 い だ す こ と は で き な い 。 宗 真 を 開 山 と す る こ と が 正 し い な ら ば 、 既 述 の 如 く 第 二 世 観 阿 以 降 の 歴 代 は か な り 事 実 を 伝 え て い る と 考 え ら れ る の で 、 常 念 寺 歴 代 住 持 は 宗 真 の み が そ の 名 を 伝 え て い な い こ と に な る 。 す な わ ち 、 開 山 で あ る 宗 真 は 何 ら か の 理 由 に よ っ て 常 念 寺 歴 代 か ら そ の 名 を 消 さ れ 、       そ れ に 代 わ っ て ﹁ 常 誉 真 厳 (巌 ) ﹂ な る 僧 が 開 山 と し て 伝 え ら れ て い る の で あ る 。 で は 、 い か な る 理 由 に よ っ て 宗 真 の 名 が 消 さ れ た の で あ ろ う か 。 そ の 重 要 な 手 掛 か り と な る の が 、 先 に も 挙 げ た ﹁ 代 々 書 付 ﹂ の 記 述 で あ る 。 そ れ に は 、 ﹁ 開 山 ﹂ ﹁ 常 誉 真 厳 ﹂ に よ る 応 永 三 年 の ﹁ 草 創 ﹂ と 永 正 三 年 の 永 原 越 前 守 に よ る ﹁ 開 基 建 立 ﹂ を 述 べ た あ と に 続 い て 、 天 正 八 辰 十 月 、 織 田 信 長 公 蒲 生 郡 豊 浦 江 寺 ヲ 御 引 被 為 成 候 、 同 十 壬 午 年 豊 浦 6 永 原 江 立 帰 り 、 同 十 三 乙 酉 當 寺 諸 方 旦 那 之 以 助 成 建 立 仕 候 御 事 、 ( 中 略 ) 浄 厳 院 末 寺 と 申 候 旨 趣 ハ 、 此 安 土 浄 厳 院 ハ 織 田 信 長 公 御 取 立 之 寺 二 御 座 候 故 、 信 長 公 以 御 威 光 、 右 之 時 末 寺 二 被 為 成 候 也 、 其 訳 二 付 、 常 念 寺 本 堂 ヲ 一 度 安 土 近 所 江 御 引 被 為 成 候 得 共 、 中

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一 年 差 置 、 又 永 原 江 立 帰 り 、 右 之 通 諸 旦 那 と し て 建 立 相 続 仕 、 と あ る 。 こ れ に よ れ ば 、 織 田 信 長 に よ る 浄 厳 坊 の 安 土 へ の 移 転 ( 日 浄 厳 院 の 成 立 ) の 直 後 、 常 念 寺 は 一 時 安 土 の 城   お   下 に 移 さ れ て い た こ と が 知 ら れ る の で あ る 。 し か し 、 こ の 記 述 に は 一 つ 大 き な 問 題 点 が あ る 。 そ れ は 、 常 念 寺 は 信 長 の ﹁ 御 威 光 ﹂ に よ っ て 、 こ の 安 土 移 転 の 時 に 初 め て 浄 厳 院 の 末 寺 に な っ た と し て い る こ と で あ る 。 事 実 と し て は 、 既 に 見 た よ う に 常 念 寺 は 永 正 年 間 頃 に 宗 真 に よ っ て 開 か れ た と 考 え ら れ 、 遅 く と も 天 文 年 間 ( 第 二 世 観 阿 の 時 ) に は 浄 厳 坊 の 有 力 末 寺 と な っ て い た の で あ り 、 そ の 後 永 禄 年 間 に お い て も 同 様 で あ っ た の で あ る 。 に も か か わ ら ず 右 の よ う な 記 述 が さ れ て い る と い う こ と は 、 安 土 へ 一 時 移 転 し た 天 正 年 間 ( 一 五 八 〇 年 代 ) か ら ﹁ 代 々 書 付 ﹂ が 書 か れ た 宝 永 二 年 ( 一 七 〇 五 ) ま で の 間 に 、 常 念 寺 の 由 緒 が 書 き 替 え ら れ た と い う こ と が 判 明 す る の で あ る 。 そ し て 、 常 念 寺 の 開 山 で あ る 浄 厳 坊 宗 真 の み が 常 念 寺 の 歴 代 か ら そ の 名 を 消 さ れ て い る と い う こ と も 考 え 合 わ せ る と 、 こ の よ う な 常 念 寺 の 由 緒 改 竄 は 、 浄 厳 坊 ( 院 ) と 常 念 寺 と の 本 来 の 密 接 な 関 係 を 否 定 す る こ と を 目 的 と し て 行 わ れ た と 考 え ざ る を 得 な い の で あ る 。 ③ 阿 弥 陀 寺 と 常 念 寺 の 寺 伝 改 竄 の 理 由 以 上 見 て き た よ う に 、 寛 永 の 本 末 争 論 で 本 寺 浄 厳 院 と 争 っ た 阿 弥 陀 寺 や 常 念 寺 は 、 十 六 世 紀 に お い て は 共 に 浄 厳 坊 の 有 力 な 末 寺 で あ っ た の で あ る が 、 そ の 後 、 そ れ ぞ れ の 寺 伝 ・ 由 緒 が 書 き 替 え ら れ た と い う こ と が 明 ら か と な っ た の で あ る 。 そ し て 、 書 き 替 え ら れ た 内 容 は 、 両 寺 共 に 浄 厳 院 の 末 寺 で は な い ( ま た は 、 本 来 末 寺 で は な か っ た ) と い う こ と を 示 そ う と し て い る の で あ る 。 こ の 共 通 点 か ら 導 き 出 さ れ る こ と は 、 ま さ に 両 寺 が 浄 厳 院 と 確 執 の あ っ た 寛 永 年 間 の 争 論 時 に こ の よ う な 寺 伝 の 改 竄 が 行 わ れ た の で は な い か と い う こ と で あ る 。 す な わ ち 阿 弥 陀 寺 の 場 合   お   は 、 浄 厳 院 と ﹁ 両 本 寺 ﹂ で あ る と い う 主 張 を 正 当 化 す る た め に 、 浄 厳 坊 が 安 土 に 移 る ま で の 歴 代 住 持 と 阿 弥 陀 寺 の 本 末 制 度 確 立 過 程 に お け る 寺 伝 の 改 竄 -所 謂 ﹁ 阿 弥 陀 寺 本 末 圏 ﹂ 諸 寺 院 の 場 合 -二 五

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仏 教 学 会 紀 要 一 二 号 二 六   あ   そ れ と は 同 じ で あ っ た の で あ る 、 と い う こ と を 示 そ う と し て 書 き 替 え ら れ た と 考 え ら れ る の で あ る 。 ( そ の 結 果 、 ﹁ 浄 厳 坊 本 末 圏 ﹂ は 、 阿 弥 陀 寺 が そ の 中 心 で あ っ た と い う 認 識 が 定 着 し て し ま い 、 ﹁ 阿 弥 陀 寺 本 末 圏 ﹂ と い う 呼 称 が 出 来 上 が っ た と 思 わ れ る の で あ る 。 ) ま た 常 念 寺 の 場 合 は 、 浄 厳 坊 宗 真 が 常 念 寺 の 開 山 で あ る と い う 事 実 を 隠 蔽 す る こ と に よ り 、 常 念 寺 は 本 来 は 浄 厳 坊 (院 ) と は 直 接 に は 無 関 係 の 寺 院 で あ る と い う こ と を 殊 更 に 示 す こ と に よ   お   っ て 、 浄 厳 院 か ら の 自 立 を 企 て よ う と し た の で あ っ た と 思 わ れ る 。 ( 2 ) ﹁ 本 寺 替 え ﹂ が 行 わ れ た 場 合 一 方 、 本 寺 と 争 っ て そ の 支 配 か ら 離 脱 し た わ け で は な い が 、 他 の 本 寺 と の 間 に 本 末 関 係 を 新 た に 結 ん だ ﹁ 本 寺 替 え ﹂ が 行 わ れ た 場 合 に お い て も 寺 伝 の 改 竄 が 行 わ れ た と 考 え ら れ る 例 が あ る 。 そ れ が 蒲 生 郡 日 野 の 信 楽 院 で あ る 。       信 楽 院 は 、 室 町 ・ 戦 国 期 に 日 野 の 領 主 で あ っ た 蒲 生 氏 に よ っ て 建 立 さ れ た と 伝 え ら れ て い る 。 そ の 寺 伝 に よ る と 、 蒲 生 郡 内 池 村 に あ っ た 堂 宇 を 、 文 明 六 年 ( 一 四 七 四 ) に 蒲 生 貞 秀 入 道 智 閑 が そ の 居 城 音 羽 城 に 移 し 、 厳 誉 宗 真 を 請 じ て 中 興 開 山 と し 、 仏 智 山 信 楽 院 と 号 し た の に 始 ま る と い う 。 蒲 生 智 閑 と 宗 真 と が 実 際 に 密 接 な 関 係 を 持 っ て い た こ と は 、 文 明 十 六 年 ( 一 四 八 四 ) に 宗 真 が 願 主 と な っ て 知 恩 院 御 影 堂 の 本 尊 法 然 上 人 座 像 の 修 復 が 行 わ れ た と き 、   サ   そ の 資 財 を 提 供 し た の が 蒲 生 智 閑 で あ っ た と い う 事 実 に よ っ て 確 認 で き る 。 そ し て 、 そ の 後 も 信 楽 院 は ﹁ 浄 厳 坊 本 末 圏 ﹂ の 有 力 な 末 寺 で あ っ た こ と が 知 恩 院 文 書 の 永 正 と 永 禄 の ﹁ 連 判 状 ﹂ に よ っ て 確 認 で き る ( ︹表 1 ︺ ) 。 こ の う ち 、 永 正 十 二 年 の ﹁ 宗 玖 ﹂ は 、 宗 真 の 跡 を 継 い で 浄 厳 坊 第 四 世 と な っ た ﹁ 映 誉 宗 玖 ﹂ で あ っ て 、 こ の と き 宗 玖 は 信 楽 院 の 第 二 世 で あ っ た こ と が ﹁ 信 楽 院 世 雌 ﹂ に よ っ て 知 ら れ る 。 そ の 後 信 楽 院 は 、 蒲 生 智 閑 の 孫 定 秀 が 中 野 城 ( 日   み   野 城 ) を 築 い た と き 、 音 羽 城 か ら 移 し た と い わ れ る 。 中 野 城 へ 移 転 し た 後 の 信 楽 院 の 住 持 は ﹁ 永 禄 の 連 判 状 ﹂ に

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  れ   ﹁ 珠 養 ﹂ と あ る こ と で 確 認 で き る ( ︹ 表 1 ︺ ) 。 こ の よ う に 、 宗 真 を 中 興 開 山 と す る 信 楽 院 は 、 十 六 世 紀 の 中 頃 ま で は 浄 厳 坊 の 有 力 な 末 寺 の 一 つ で あ っ た こ と が わ か る 。 そ の 後 、 定 秀 の 孫 氏 郷 は 豊 臣 政 権 下 の 大 名 と し て 伊 勢 松 坂 、 さ ら に 会 津 若 松 へ と 領 地 替 え と な り 、 そ の 結 果 、 蒲 生 氏 の 菩 提 寺 信 楽 院 は し だ い に 衰 退 し て い っ た 。 そ こ で 、 地 元 の 有 志 が 会 津 城 主 蒲 生 秀 行 ( 氏 郷 の 子 ) に 掛 け あ い 、 信 楽 院 を 再 興 す る こ と と な っ た (慶 長 元 年 11 一 五 九 六 ) 。 と こ ろ が 、 こ の と き か ら 信 楽 院 は 百 万 遍 知 恩 寺 の 末 寺 と な っ た の で あ る 。 当 時 、 蒲 生 郡 は 水 口 城 主 長 束 正 家 の 領 す る と こ ろ で あ っ た の で 、 信 楽 院 再 興 を 正 家 に も 依 頼 し た が 、 正 家 は 知 恩 寺 三 十 二 世 奉 誉 聖 伝 と ﹁ 親 縁 ﹂ で あ っ た の で 、 そ の 関 係 か ら 信 楽 院 の 再 興 は 浄 厳 院 で は な く 知 恩 寺   む   の ﹁ 預 り 寺 ﹂ と な る こ と で 実 現 し た の で あ る 。 こ う し て 、 近 世 に 入 っ て 知 恩 寺 の 末 寺 と し て 存 続 す る こ と に な っ た 信 楽 院 は 、 ﹃ 由 緒 書 ﹄ に は 、 次 の よ う に 記 さ れ て い る 。 江 州 蒲 生 郡 日 野 町 佛 智 山 信 樂 院 一 、 起 立 者 明 應 七 戊 午 年 、 蒲 生 左 京 大 輔 貞 秀 及 晩 年 落 髪 、 一 宇 建 立 隱 居 、 法 名 大 貳 法 眼 智 閑 大 徳 號 、 于 時 永 正 十 一 甲 戌 年 三 月 五 日 逝 、 行 年 七 十 一 、 從 斯 已 下 蒲 生 貞 秀 第 六 代 主 飛 彈 守 氏 郷 、 天 正 八 年 六 月 勢 州 移 城 、 其       時 父 左 兵 衞 大 輔 堅 秀 、 法 名 天 英 惠 倫 大 徳 號 、 信 楽 院 止 住 、 惠 倫 逝 去 後 、 氏 郷 下 知 始 令 僧 住 持 也 、 一 、 寺 門 中 興 清 蓮 社 盛 譽 上 人 一 、 姓 氏 ・ 生 所 ・ 剃 髪 等 不 知 、   わ   一 、 遷 化 慶 長 十 三 年 六 月 廿 一 日 、 行 年 不 知 、 こ の 文 面 で 注 目 す べ き こ と は 、 ま ず 、 信 楽 院 の 起 立 が 蒲 生 貞 秀 (智 閑 ) で あ る こ と は 先 に 見 た 寺 伝 と 一 致 す る 本 末 制 度 確 立 過 程 に お け る 寺 伝 の 改 竄 -所 謂 ﹁阿 弥 陀 寺 本 末 圏 ﹂ 諸 寺 院 の 場 合 -二 七

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仏 教 学 会 紀 要 一 二 号 二 八 (年 代 の 不 一 致 は 、 こ の 場 合 あ ま り 問 題 と は な ら な い で あ ろ う ) が 、 こ の と き の 開 山 僧 の 名 が 示 さ れ て い な い こ と で あ る 。 本 来 、 元 禄 八 年 頃 か ら 一 斉 に ま と め ら れ た ﹃ 由 緒 書 ﹄ に 記 載 す べ き 最 も 重 要 な 項 目 は 、 宇 高 良 哲 氏 が 述 べ   ゐ   て い る よ う に 、 そ れ ぞ れ の 寺 院 の 開 山 の 由 緒 や 行 状 で あ っ た は ず で あ る 。 実 際 に 、 ﹃ 由 緒 書 ﹄ の 他 の 寺 院 の 項 目 を 一 覧 す る と 、 ほ と ん ど 例 外 な く 開 山 僧 の 名 を 記 す か 、 不 明 な 場 合 は ﹁ 起 立 ・ 開 山 不 知 ﹂ と 書 か れ て い る 。 と こ ろ が 、 信 楽 院 の 場 合 は 、 起 立 の 蒲 生 氏 に つ い て は か な り 詳 し く 記 し て い る に も か か わ ら ず 、 開 山 に つ い て は 一 言 も 触 れ ら れ て い な い の で あ る 。 先 に 見 た と お り 、 信 楽 院 は そ の 成 立 か ら 約 百 年 間 は 浄 厳 坊 の 有 力 な 末 寺 と し て 存 在 し た こ と が 明 ら か で あ る に も か か わ ら ず 、 そ の 点 に つ い て は 全 く 記 さ れ て い な い の で あ る 。 そ し て 、 知 恩 寺 の 末 寺 と し て 再 興 し た と き の 住 持 ﹁ 清 蓮 社 盛 誉 ﹂ ( ﹁ 信 楽 院 世 代 ﹂ の 四 世 ) が ﹁寺 門 中 興 ﹂ の 僧 と し て あ げ ら れ て お り 、 こ の 盛 誉 を 事 実 上 の 開 山 と し て 、 そ の 略 歴 が 記 さ れ て い る の で あ る 。 こ れ ら の こ と は 何 を 意 味 す る か と い う と 、 ﹃ 由 緒 書 ﹄ が 書 か れ た 元 禄 当 時 、 信 楽 院 は 知 恩 寺 の 末 寺 と な っ て い た こ と に よ り 、 そ の 事 実 が 発 生 し た 以 前 の 本 末 関 係 を 示 す 由 緒 が 消 さ れ た と い う こ と で あ る 。 蒲 生 氏 と の 関 わ り 自 体 は 本 末 関 係 と 直 接 に は 関 係 が な い の で 、 智 閑 に よ る 起 立 を 初 め と す る 蒲 生 氏 と の 関 係 に つ い て は 記 さ れ た が 、 知 恩   ゆ   院 を 本 寺 と す る 浄 厳 院 (坊 ) に 関 係 の あ る 事 実 は 消 さ れ て し ま っ た と 考 え ら れ る の で あ る 。 お わ り に ﹁ 浄 厳 坊 (院 ) 本 末 圏 ﹂ の 有 力 末 寺 で あ っ た 阿 弥 陀 寺 や 常 念 寺 の 中 世 末 期 か ら 近 世 初 期 に お け る 動 向 を 検 証 す る こ と に よ っ て 、 寛 永 の 本 末 争 論 を き っ か け に 、 こ れ ら の 寺 院 の 由 緒 が 書 き 替 え ら れ て し ま っ た こ と を 明 ら か に し た 。

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ま た 、 信 楽 院 の 場 合 の よ う に 、 い わ ば 平 穏 に 本 末 関 係 の 改 変 が お こ な わ れ た 場 合 で も 由 緒 の 書 き 替 え が お こ な わ れ た の で あ っ た 。 こ の よ う な 寺 伝 の 改 竄 は 、 近 世 幕 藩 体 制 確 立 期 に 実 施 さ れ た 本 末 改 め を 主 な 契 機 と し て 、 地 方 の 有 力 な 寺 院 に お い て は 、 か な り 一 般 的 に お こ な わ れ て い た の で は な い だ ろ う か 。 す な わ ち 、 本 末 制 度 の 成 立 過 程 に お い て 、 あ る 寺 院 と そ の 本 寺 と の 本 末 関 係 が 改 変 さ れ よ う と し た と き 、 あ る い は 改 変 さ れ て し ま う と ( そ の 改 変 が 恣 意 的 で あ る と 否 と に か か わ ら ず ) 、 も と の 本 寺 と 関 係 の あ る 寺 伝 ・ 由 緒 は 書 き 替 え ら れ て し ま う ( 少 な く と も 公 的 な 文 書 に お い て は ) と い う こ と で あ る 。 そ う で あ る と す る な ら ぼ 、 本 稿 で 検 証 し た 以 外 の 寺 院 に お い て も 、 こ の こ と を 念 頭 に 置 い て 寺 伝 ・ 由 緒 を 検 討 し て い け ば 、 そ れ ぞ れ の 寺 院 の 成 立 ・ 発 展 の 過 程 や 本 末 関 係 の 変 遷 等 を 明 ら か な   に す る こ と が 出 来 る の で は な い だ ろ う か 。 註 ( 1 ) 圭 室 文 雄 ﹃ 日 本 仏 教 史 近 世 ﹄ ( 一 九 八 七 年 吉 川 弘 文 館 ) 五 二 頁 。 ( 2 ) 竹 田 聴 洲 ﹁ 蓮 門 精 舎 旧 詞 の 史 料 批 判 補 説 ﹂ (竹 田 聴 洲 著 作 集 第 二 巻 ﹃ 民 俗 仏 教 と 祖 先 信 仰 (下 ) ﹄ ︿ 一 九 九 四 年 国 書 刊 行 会 ﹀ 六 三 五 頁 ) 、 宇 高 良 哲 ﹁ 浄 土 宗 寺 院 由 緒 書 解 題 ﹂ ( ﹃増 上 寺 史 料 集 ﹄ 第 七 巻 一 五 二 五 頁 ) 。 但 し 、 こ れ は 元 禄 年 間 に 作 成 さ れ た ﹃ 浄 土 宗 寺 院 由 緒 書 ﹄ (﹃ 増 上 寺 史 料 集 ﹄ 第 五 ・ 六 ・ 七 巻 ) の 成 立 過 程 に つ い て の 考 察 で あ る が 、 寛 永 の 本 末 帳 に つ い て も 基 本 的 に は 同 様 な 方 法 で 作 成 さ れ た と 考 え て よ い で あ ろ う 。 ( 3 ) ﹃宗 教 制 度 調 査 資 料 ﹄ 第 拾 壱 輯 ﹁寺 院 本 末 関 係 ﹂ (大 正 十 二 年 三 月 調 ) の な か で 、 浄 土 宗 の ﹁ 本 末 関 係 ノ 確 立 ﹂ は ﹁寛 永 十 年 ノ 本 末 帖 作 成 以 後 ト 見 ル ヘ シ ﹂ と し て い る (同 書 二 七 ∼ 二 八 頁 ) 。 本 末 制 度 確 立 過 程 に お け る 寺 伝 の 改 竄 -所 謂 ﹁阿 弥 陀 寺 本 末 圏 ﹂ 諸 寺 院 の 場 合 i 二 九

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仏 教 学 会 紀 要 一 二 号 三 〇 ( 4 ) 圭 室 文 雄 ﹃ 日 本 仏 教 史 近 世 ﹄ 四 三 頁 。 こ の 元 禄 五 年 の 寺 社 奉 行 か ら の 命 を 受 け て 作 成 さ れ た も の が ﹃浄 土 宗 寺 院 由 緒 書 ﹄ ( 元 禄 八 ∼ 十 年 頃 成 立 。 以 下 ﹃由 緒 書 ﹄ と 略 す 。 ) で あ り (宇 高 良 哲 ﹁寺 院 由 緒 書 解 題 ﹂ 一 五 一 八 頁 ) 、 そ の 抄 写 本 が ﹃ 蓮 門 精 舎 旧 詞 ﹄ ( ﹃続 浄 土 宗 全 書 ﹄ 第 十 八 ・ 十 九 巻 ) で あ る (註 2 参 照 ) 。 ( 5 ) 中 井 真 孝 ﹁ 浄 土 宗 の 本 末 関 係 ﹂ ( ﹃法 然 伝 と 浄 土 宗 史 の 研 究 ﹄ 一 九 九 四 年 思 文 閣 ) 二 五 九 ∼ 二 六 〇 頁 。 ( 6 ) 中 井 真 孝 ﹁ 浄 土 宗 の 本 末 関 係 ﹂ 、 同 ﹁ 知 恩 院 の 京 都 門 中 に つ い て ﹂ 他 ( ﹃法 然 伝 と 浄 土 宗 史 の 研 究 ﹄ ) 。 伊 藤 唯 真 コ 般 寺 院 の 成 立 事 情 -近 江 の 場 合 L (伊 藤 唯 真 著 作 集 11 ﹃ 聖 仏 教 史 の 研 究 下 ﹄ 一 九 九 五 年 法 蔵 館 ) 、 同 ﹁ 浄 土 宗 近 世 教 団 の 胎 動 ﹂ (同 著 作 集 卿 ﹃浄 土 宗 史 の 研 究 ﹄ 一 九 九 六 年 ) 他 。 宇 高 良 哲 ﹃近 世 関 東 仏 教 教 団 史 の 研 究 ﹄ ( 一 九 九 一 年 文 化 書 院 ) 。 (7 ) ﹃浄 土 宗 全 書 ﹄ 第 十 七 巻 六 一 六 ∼ 六 二 五 頁 。 (8 ) ﹁ 浄 厳 宗 ﹂ の 称 号 に つ い て は 、 伊 藤 唯 真 氏 が ﹁ 阿 弥 陀 寺 の 門 流 を 誇 る た め 、 後 世 に 言 い 出 し た 称 で あ ろ う ﹂ (﹁ 知 恩 院 周 誉 珠 琳 と 浄 厳 坊 宗 真 -珠 琳 の 一 書 状 を め ぐ っ て l ﹂ ︿ ﹃ 浄 土 宗 史 の 研 究 ﹄ ﹀ 二 五 五 頁 ) と 述 べ て い る 。 ( 9 ) 知 恩 院 文 書 六 号 文 書 一 〇 〇 1 六 。 ( 10 ) 同 前 一 〇 〇 1 七 。 ( 11 ) 同 前 一 〇 〇 1 八 。 以 上 三 点 の 文 書 の 全 文 は 、 中 井 真 孝 ﹁浄 土 宗 の 本 末 関 係 ﹂ (前 掲 書 ) 二 七 六 ∼ 二 七 八 頁 に 掲 載 。 ( 12 ) 中 井 真 孝 ﹁ 浄 土 宗 の 本 末 関 係 ﹂ (前 掲 書 ) 二 六 二 頁 、 同 ﹁ 知 恩 院 の 京 都 門 中 に つ い て ﹂ (同 書 ) 二 八 一 頁 。 ( 13 ) よ く 知 ら れ て い る よ う に 、 こ の 時 の 織 田 信 長 朱 印 状 が 浄 厳 院 に 残 さ れ て い る 。 稔 ぜ の 坊 主 寺 領 事 ・ 昨 日 如 申 聞 ・ 可 相 渡 之 儀 ・ 自 余 之 坊 主 も 此 方 へ 越 候 ハ ・ 、 可 遣 候 、 無 左 候 ハ 、 皆 可 為 欠 所 候 、 成 其 意 可 申 付 事 専 一 候 也

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十 月 十 日 (朱 印 ) (印 文 ・天 下 布 武 ﹂)    ご (捻 封 ウ ワ 書 ) ﹁ (墨 引 ) 長 谷 河 竹 と の へ                   野 々 村 三 十 郎 と の へ 信 ﹂ ( ﹃ ︿ 企 画 展 ﹀ 隆 堯 法 印 と 阿 弥 陀 寺 ・ 浄 厳 院 ﹄ ︿ 一 九 九 一 年 栗 東 歴 史 民 俗 博 物 館 ﹀ 七 頁 図 版 ) ( 14 ) 冊 子 を 含 め て 通 番 七 六 号 か ら 一 = 二 号 ま で 、 合 わ せ て 三 十 八 点 の 文 書 。 ︹表 1 ︺ に 示 し た 三 通 の ﹁ 連 判 状 ﹂ (写 ) も こ れ に 含 ま れ る 。 ( 15 ) 正 覚 院 は 、 知 恩 院 文 書 の 三 通 の ﹁ 連 判 状 ﹂ に お い て 、 阿 弥 陀 寺 を 除 い て 、 唯 一 、 三 通 と も に ﹁ 末 寺 頭 ﹂ と し て そ の 名 が 見 え て お り ( ︹表 1 ︺ 参 照 。 但 し 、 ﹁ 永 禄 の 連 判 状 ﹂ に は 住 持 名 は 記 さ れ て い な い 。 ) 、 浄 厳 坊 の 最 も 有 力 な 末 寺 の 一 つ で あ っ た 。 (16 ) 中 井 真 孝 ﹁ 寛 永 の 末 寺 改 め ﹂ ﹁ 本 寺 へ の ﹃ 出 仕 ﹄ ﹂ (﹃ 法 然 伝 と 浄 土 宗 史 の 研 究 ﹄ ) 二 六 三 ∼ 二 六 七 頁 。 (17 ) 三 箇 寺 と も ﹃由 緒 書 ﹄ ( ﹃ 増 上 寺 史 料 集 ﹄ 第 七 巻 ) に 浄 厳 院 末 と し て 記 さ れ て い る (正 覚 院 一 一 六 九 頁 、 阿 弥 陀 寺 一 一 七 八 頁 、 常 念 寺 = 七 三 頁 ) 。 な お 、 こ の 三 箇 寺 の う ち 正 覚 院 と 阿 弥 陀 寺 に つ い て は 、 こ の 訴 訟 は 少 な く と も 正 保 二 年 ( 一 六 四 五 ) ま で 続 い た こ と が ﹁ 浄 厳 院 文 書 ﹂ B 二 二 ・ 二 六 (﹃ 安 土 城 ・ 織 田 信 長 関 連 文 書 調 査 報 告 四 撼 見 寺 文 書 目 録 H ・ 浄 厳 院 文 書 目 録 ﹄ ︿ 一 九 九 五 年 滋 賀 県 教 育 委 員 会 ﹀ 七 五 頁 ) に よ っ て 知 ら れ る 。 ま た 、 常 念 寺 に つ い て は 訴 訟 が い つ 終 結 し た か は 不 明 だ が 、 知 恩 院 文 書 中 に こ の 争 論 に 直 接 関 係 す る も の が 数 点 あ り 、 他 の 有 力 末 寺 と 同 様 な 争 い を し て い た こ と が わ か る 。 ( 18 ) 中 井 真 孝 ﹁ 浄 土 宗 の 本 末 関 係 ﹂ (前 掲 書 ) 二 六 五 頁 。 両 寺 と も ﹃由 緒 書 ﹄ に は 知 恩 寺 の 末 寺 と し て あ げ ら れ て い る ( ﹃ 増 上 寺 史 料 集 ﹄ 第 五 巻 一 四 八 頁 ) 。 本 末 制 度 確 立 過 程 に お け る 寺 伝 の 改 竄 ー 所 謂 ﹁阿 弥 陀 寺 本 末 圏 ﹂ 諸 寺 院 の 場 合 -一一 コ

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仏 教 学 会 紀 要 一 二 号 三 二 (19 ) 全 文 は 、 中 井 真 孝 ﹁ 浄 土 宗 の 本 末 関 係 ﹂ (前 掲 書 ) 二 七 二 ∼ 二 七 四 頁 に 掲 載 。 (20 ) 全 文 は 、 同 前 二 七 五 ∼ 二 七 六 頁 に 掲 載 。 中 井 真 孝 氏 は こ の 文 書 を 寛 永 十 二 年 の も の と 推 定 し て い る が 、 そ の 内 容 か ら 論 者 は 十 一 年 と 考 え る 。 ( 21 ) ﹁ 浄 厳 院 文 書 ﹂ D 七 ( ﹃撼 見 寺 文 書 目 録 H ・ 浄 厳 院 文 書 目 録 ﹄ ) 八 八 頁 ) 。 ( 22 ) よ く 知 ら れ て い る と お り 、 二 代 堯 誉 隆 阿 ・ 三 代 厳 誉 宗 真 ・ 四 代 映 誉 宗 玖 ・ 五 代 忍 誉 真 源 . 六 代 仙 誉 珠 慶 . 七 代 九 誉 源 慶 ( こ こ ま で が ﹁浄 厳 坊 何 代 ﹂ と 記 す ) ・ 八 代 応 誉 明 感 (以 下 ﹁ 浄 厳 院 何 代 ﹂ ) と つ づ き 、 九 代 磨 誉 了 念 . 十 代 広 誉 鉄 牛 ま で 記 さ れ て い る 。 ( 23 ) 金 勝 阿 弥 陀 寺 厳 誉 宗 真 墓 塔 ( 二 〇 〇 四 ・ 三 . 二 三 実 測 ) OOcm

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﹃ ︿ 企 画 展 ﹀ 隆 堯 法 印 と 阿 弥 陀 寺 ・ 浄 厳 院 ﹄ 四 九 頁 ﹁ 厳 誉 宗 真 墓 ﹂ 解 説 文 に も 記 さ れ て い る 通 り 、 ﹁ 冨 谷 山 ﹂ は 阿 弥 陀 寺 の 本 来 の 山 号 で あ る 。 寛 政 六 年 ( 一 七 九 四 ) に 書 か れ た ﹃ 湖 東 三 僧 伝 ﹄ の 内 題 に ﹁ 近 江 金 勝 山 阿 弥 陀 寺 三 僧 略 傳 ﹂ ( ﹃ 隆 堯 法 印 と 阿 弥 陀 寺 ・ 浄 厳 院 ﹄ 二 二 頁 図 版 ) と 記 し て い る が 、 ﹃由 緒 書 ﹄ で は ﹁富 谷 山 阿 彌 陀 寺 ﹂ と 書 か れ て お り 、 少 な く と も 元 禄 年 間 ま で は ﹁ 冨 谷 山 ﹂ で あ っ た こ と が わ か る 。 ( 24 ) 宗 真 の 無 縫 塔 (註 23 図 ﹁ 厳 誉 宗 真 墓 塔 ﹂ ) は 室 町 時 代 の も の と さ れ て い る (﹃ 隆 堯 法 印 と 阿 弥 陀 寺 ・ 浄 厳 院 ﹄ 四 九 頁 ) が 、 こ れ は 誤 り で あ る 。 こ の 宗 真 の 無 縫 塔 の 基 礎 に ﹁施 主 一 丸 ﹂ と 刻 銘 が あ り 、 ﹁ 一 丸 ﹂ と は 、 宗 真 塔 の 隣 に ほ と ん ど 同 じ 形 状 の 無 縫 塔 が あ り 、 そ こ に ﹁ 冨 谷 三 五 世 一 丸 演 誉 空 有 上 人 ﹂ と 刻 銘 さ れ て い る 人 物 が そ れ で あ る 。 金 勝 阿 弥 陀 寺 一 丸 演 誉 空 有 墓 塔 ( 二 〇 〇 四 ・ 三 ・ 二 三 実 測 ) 本 末 制 度 確 立 過 程 に お け る 寺 伝 の 改 竄 ー 所 謂 ﹁ 阿 弥 陀 寺 本 末 圏 ﹂ 諸 寺 院 の 場 合 1 三 三

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仏 教 学 会 紀 要 一 二 号 三 四 こ の ﹁ 一 丸 演 誉 空 有 ﹂ は ﹁ 浄 厳 院 文 書 ﹂ の 正 保 二 年 六 月 二 十 八 日 付 、 江 州 安 土 浄 厳 院 宛 、 知 恩 院 役 者 連 署 書 状 ﹃檍 見 寺 文 書 目 録 11 ・ 浄 厳 院 文 書 目 録 ﹄ 七 九 頁 D 三 ) に ﹁ 江 茘 金 生 阿 弥 陀 寺 住 持 演 誉 重 科 之 事 ﹂ と あ る の で 、 正 保 二 年 ( 一 六 四 五 ) に 在 世 し て い る こ と が 確 認 で き る 。 従 っ て 、 阿 弥 陀 寺 墓 地 に 所 在 す る ﹁ 厳 誉 宗 真 墓 ﹂ は 十 七 世 紀 中 頃 に 一 丸 演 誉 に よ っ て 建 立 さ れ た も の で あ り 、 そ の 頃 ま で は ﹁ 冨 谷 山 阿 弥 陀 寺 ﹂ の 開 山 は 厳 誉 宗 真 で あ る と 認 識 さ れ て い た こ と が 明 白 で あ る 。 ( 25 ) 中 井 真 孝 氏 は ﹁浄 厳 坊 ・ 阿 弥 陀 寺 本 末 圏 ﹂ と 呼 ぶ の が そ の 実 態 か ら 妥 当 で あ る と 述 べ て い る が (﹁ 浄 土 宗 の 本 末 関 係 ﹂ ︿ 前 掲 書 ﹀ 二 六 八 頁 、 ﹁ 知 恩 院 の 京 都 門 中 に つ い て ﹂ ︿ 同 書 ﹀ 二 九 九 頁 ) 、 論 者 は 単 に ﹁ 浄 厳 坊 本 末 圏 ﹂ と す る の が 最 も ふ さ わ し い と 考 え る 。 ( 26 ) ﹁ 浄 厳 院 文 書 ﹂ D 七 ( ﹃ 擔 見 寺 文 書 目 録 H ・ 浄 厳 院 文 書 目 録 ﹄ 八 三 ∼ 八 四 頁 ) 。 ま た 、 ﹃由 緒 書 ﹄ に は 、 ﹁起 立 知 不 申 候 ﹂ ﹁ 開 山 常 譽 眞 巖 上 人 、 由 緒 知 不 申 候 ﹂ と あ る (﹃ 増 上 寺 史 料 集 ﹄ 第 七 巻 = 七 三 頁 ) 。 ( 27 ) 永 正 三 年 と い う 年 代 が 正 し い と す れ ば 、 こ の 時 の ﹁ 永 原 越 前 守 ﹂ の 実 名 は ﹁ 重 秀 ﹂ で あ る 。 永 原 氏 は 、 応 永 年 間 頃 よ り 永 原 村 を 中 心 に 野 洲 郡 一 帯 を 領 し た 国 人 領 主 で 、 そ の 嫡 流 の 当 主 は 代 々 ﹁越 前 守 ﹂ を 称 し て い た 。 現 在 常 念 寺 に は 、 重 秀 の 孫 ﹁ 重 興 ﹂ の 墓 塔 ( 一 石 五 輪 塔 ) な ど が あ り 、 ま た 、 一 族 の ﹁ 筑 前 守 重 頼 ﹂ の 画 像 も 伝 存 し て い る (拙 稿 ﹁ 戦 国 争 乱 と 永 原 氏 ﹂ ﹃ 野 洲 町 史 ﹄ 通 史 編 第 一 巻 七 〇 一 ∼ 七 一 八 頁 )。 ( 28 ) 元 禄 年 間 以 前 の 常 念 寺 住 持 に つ い て 検 証 し て み る と 、 既 述 の 二 世 観 阿 に つ い で 、 寺 伝 で は 七 世 と 伝 え る ﹁實 蓮 社 忠 譽 上 人 ﹂ ( ﹁代 々 書 付 ﹂ ) が あ る 。 こ れ は 過 去 帳 に ﹁七 實 蓮 社 忠 譽 上 人 順 阿 真 良 大 和 尚 二 月 十 九 日 ﹂ と あ る の と 一 致 し 、 こ れ も 観 阿 同 様 、 ﹁永 禄 の 連 判 状 ﹂ に ﹁ 常 念 寺 真 良 判 ﹂ と あ り ( ︹表 1 ︺ ) 、 実 在 の 確 認 が で き る 。 そ の 他 、 常 念 寺 に 所 蔵 す る 文 書 、 或 い は 、 境 内 墓 地 に 所 在 す る 墓 塔 ( 一 石 五 輪 塔 ) 銘 、 さ ら に は 一 次 史 料 で は な い が 、 先 の

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本 末 制 度 確 立 過 程 に お け る 寺 伝 の 改 竄 i 所 謂 ﹁ 阿 弥 陀 寺 本 末 圏 ﹂ 諸 寺 院 の 場 合 三 五 〔表II〕 常 念寺 歴代検 証表 年.月.日 1535(天 文4).9.13 1550(天 文19) 1562(永 禄5) 1567(永 禄10).3.3 1570∼73(元 亀年 中) 1585(天 正13) 1614(慶 長19).3.19 1623(元 和9).4.14 1628(寛 永5).4.3 1634(寛 永11).6.5 1649(慶 安2).5。22 1662(寛 文2).8.17 1697(元 禄10)頃 1703(元 禄16).11.19以 前 僧 侶 名 観阿 恩誉慶文 忠誉真良 真良 忠誉真良 長誉 生蓮社長誉天然 教蓮社大誉文諦 廓誉 円誉 廓誉 本蓮社誓誉霊山 梅誉 梅誉 摘 要 常念寺住持 末寺清源寺建立 末寺西念寺(紺屋町村)建立 常念寺住持 末寺浄法院建立 末寺西念寺(新町村)開基 〈入 寂〉 〈入 寂〉 常念寺住持 常念寺住持 常念寺住持 〈入 寂〉 常念寺住持 常念寺住持 典 拠 知6-100-7 浄 「元禄 五改帳 」 浄 「元禄 五改帳 」 知6-100-8 浄 厂元禄五 改帳 」 浄 「元禄五 改帳 」 墓塔銘 墓塔銘 知6-76 知6-95 常念寺文書 位牌,過 去 帳 『由緒 書』 『知恩 院 日鑑 』3 寺伝世代 2世 6世 7世 7世 7世 9世 9世 12世 15世 14世 15世 18世*(1) 21世*(2) 21世*(2) 典 拠 凡 例 知 … …知 恩院 文 書 浄 … …浄 厳 院 文 書 墓 塔 銘 … …一 石 五 輪塔 銘 『知 恩 院 日鑑 』3… … 『知 恩 院 史料 集 』 日鑑 ・書 簡 篇3 『由緒 書 』 … … 『浄 土 宗寺 院 由緒 書 』 *(1)13世 とす る 記録 有 り *(2)22世 とす る 記録 有 り

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仏 教 学 会 紀 要 一 二 号 三 六 ﹁ 元 禄 五 年 改 帳 ﹂ そ の 他 か ら 歴 代 住 持 の 在 世 を 伝 え る 年 代 を 拾 い 上 げ 、 既 に 検 証 し た も の と 併 せ て 整 理 し て み る と 前 頁 の ︹表 H ︺ の 如 く に な る 。 ( 29 ) 永 原 常 念 寺 宗 真 上 人 供 養 塔 ( 二 〇 〇 四 ・ 三 ・ 五 実 測 ) 0 ( 30 ) ﹃ 浄 土 宗 全 書 ﹄ 第 十 七 巻 六 二 三 頁 。 ( 31 ) そ う で あ る と す る な ら ば 、 ﹁ 常 誉 真 厳 (巌 ) ﹂ と は い か な る 存 在 で あ る か と い う こ と が 問 題 と な る が 、 ﹃ 由 緒 書 ﹄ 等 に よ っ て は 他 の 浄 土 宗 寺 院 に は そ の 名 を 見 い だ す こ と は 出 来 ず 、 ﹁ 常 誉 真 厳 ﹂ の 実 在 を 確 認 す る こ と は 出 来 な い 。 た だ 、 常 念 寺 に 伝 わ る ﹃ 文 化 七 年 卯 月 廿 五 日 明 鏡 山 寺 格 年 暦 記 ﹄ (﹁ 明 鏡 山 ﹂ は 常 念 寺 の 山 号 。 文 化 七 年 11 1 八 1 O ) マ マ に は ﹁ 開 山 常 誉 真 巌 上 人 (中 略 ) 応 永 三 丙 午 年 (中 略 ) 是 よ り 永 正 三 年 迄 百 拾 壱 年 、 七 世 之 間 西 堂 看 住 也 ﹂ ﹁ 永 正

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三 丙 寅 年 、 永 原 越 前 守 殿 、 再 建 起 立 之 檀 那 与 成 、 是 よ り 代 々 上 人 住 職 L と あ る の が 注 目 さ れ る 。 永 正 三 年 の 永 原 越 前 守 に よ る ﹁ 再 建 起 立 ﹂ ( H 宗 真 に よ る 開 基 ) ま で の 間 は ﹁ 西 堂 看 住 ﹂ 、 す な わ ち 、 正 式 な 住 持 職 ( 11 ﹁ 上 人 ﹂ ) で は な い 僧 が 七 代 続 い た と い う の で あ る 。 そ う す る と 、 ﹁常 誉 真 厳 ﹂ に つ い て は 二 つ の 可 能 性 が 考 え ら れ る 。 一 つ は 、 ﹁常 誉 真 厳 ﹂ は 実 在 の 僧 で あ っ て 、 寺 伝 の 通 り そ の 後 永 正 三 年 ま で は ﹁ 西 堂 看 住 ﹂ で あ っ た が 、 ﹁ 再 建 起 立 ﹂ の 宗 真 の 名 は 消 さ れ て し ま っ た と い う こ と 。 も う 一 つ は 、 ﹁ 常 誉 真 厳 ﹂ か ら 宗 真 出 現 ま で の 間 は 全 く の 架 空 で あ る こ と で あ る 。 つ ま り 、 宗 真 の 名 を 消 し 、 そ の 年 代 も 曖 昧 に す る た め に 由 緒 が 偽 作 さ れ た と い う こ と で あ る 。 し か し 、 現 在 の と こ ろ で は こ の ど ち ら で あ る か を 判 断 す る こ と は 不 可 能 で あ る 。 ( 32 ) 浄 厳 院 は 現 在 、 安 土 町 大 字 慈 恩 寺 の 小 字 ﹁ 安 土 ﹂ に 所 在 す る が 、 そ れ に ほ ぼ 隣 接 し て ﹁ 浄 念 寺 ﹂ と い う 小 字 が 存 在 し (安 土 町 役 場 事 業 課 の 小 字 一 覧 図 に よ る ) 、 常 念 寺 が 安 土 の 城 下 に 一 時 移 転 し た と い う 所 伝 を 傍 証 的 に 裏 付 け て い る 。 ( 33 ) 阿 弥 陀 寺 が 浄 厳 院 と ﹁ 両 本 寺 ﹂ で あ る と 主 張 す る よ う に な っ た き っ か け は 、 知 恩 院 文 書 (六 号 文 書 九 四 ) に よ れ ば 次 の よ う な 経 過 が あ る 。 阿 弥 陀 寺 は ﹁ 浄 厳 坊 第 三 代 之 住 持 厳 誉 宗 真 ﹂ が ﹁ 本 寺 之 と り で 旅 所 ﹂ と し て 建 立 し た 。 そ し て 、 ﹁浄 厳 坊 住 持 并 寺 僧 下 向 候 て 、 旅 所 二 而 開 山 忌 ﹂ を 執 行 す る こ と と な っ た 。 と こ ろ が 、 天 正 五 年 浄 厳 坊 が 安 土 に 移 り 、 そ の 後 は 安 土 浄 厳 院 に お い て 開 山 忌 が 営 ま れ る こ と に な り 、 阿 弥 陀 寺 住 持 も 毎 年 こ の 開 山 忌 に 出 仕 し て い た 。 そ し て 、 天 正 九 年 に 阿 弥 陀 寺 が 焼 失 し 、 そ の 後 本 堂 は 再 建 さ れ た が 、 ﹁ 阿 弥 陀 寺 く り 殊 外 不 弁 に 罷 成 、 常 住 つ ﹀ き 不 マ マ 申 候 て 、 迷 惑 ﹂ し て い た の で 、 ﹁ 仕 堂 供 養 と て 四 十 八 日 念 佛 を 執 行 ﹂ す れ ば ﹁ 諸 人 之 志 ﹂ に よ っ て ﹁ 阿 弥 陀 寺 相 続 ﹂ も 可 能 で あ ろ う か ら 、 ﹁ 本 寺 之 開 山 忌 を 申 請 ﹂ け 、 ﹁ 四 十 八 日 之 内 へ 開 山 忌 を く わ へ ﹂ 、 ﹁ 天 正 十 七 年 二 開 山 忌 執 行 仕 候 故 二 両 本 寺 ﹂ で あ る 、 と 主 張 す る よ う に な っ た の で あ る 。 本 末 制 度 確 立 過 程 に お け る 寺 伝 の 改 竄 r 所 謂 ﹁ 阿 弥 陀 寺 本 末 圏 ﹂ 諸 寺 院 の 場 合 ー 三 七

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仏 教 学 会 紀 要 一 二 号 三 八 ( 34 ) そ の 結 果 、 ﹁元 禄 五 年 改 帳 ﹂ で は ﹁ 隆 堯 法 印 造 立 ﹂ と 記 さ れ て い る の で あ る 。 ま た 、 ﹃由 緒 書 ﹄ に は ﹁ 開 山 隆 堯 法 . 印 ﹂ ﹁起 立 嚴 譽 宗 眞 上 人 ﹂ と 記 さ れ て お り 、 実 際 の 開 山 で あ る 宗 真 の 立 場 が 微 妙 に 誤 魔 化 さ れ て い る 。 但 し 、 寛 永 年 間 に 書 き 替 え ら れ た 後 も 阿 弥 陀 寺 自 身 に お い て は 、 既 述 の 如 く 少 な く と も 一 丸 演 誉 の 十 七 世 紀 中 頃 ま で は 開 山 が 宗 真 で あ る と 認 識 さ れ て い た の で あ る が (註 24 参 照 ) 、 阿 弥 陀 寺 が 浄 厳 院 末 に 留 ま っ た 後 も 、 公 的 な 場 に 対 し て は 一 旦 書 き 替 え ら れ た 由 緒 を そ の ま ま 用 い た も の と 思 わ れ る 。 な お 、 ﹁ 阿 弥 陀 寺 寺 記 ﹂ ( ﹃近 江 栗 太 郡 志 ﹄ 巻 五 二 〇 四 ∼ 二 〇 五 頁 所 収 ) に お い て も 、 阿 弥 陀 寺 は ﹁ 浄 厳 坊 法 印 隆 堯 遁 世 幽 棲 之 地 ﹂ で あ り 、 . 第 三 世 厳 誉 宗 真 上 人 ﹂ が . 移 寺 東 坂 村 、 今 阿 弥 陀 寺 是 也 、 安 土 浄 厳 院 亦 堯 公 真 公 事 跡 全 同 当 寺 ﹂ で あ っ て 、 阿 弥 陀 寺 と 浄 厳 院 は ﹁ 同 祖 同 業 ﹂ で あ る 、 と 記 し て い る 。 し か し 、 阿 弥 陀 寺 の 山 号 を ﹁ 金 勝 山 ﹂ と 記 し て い る の で 、 こ の ﹁ 阿 弥 陀 寺 寺 記 ﹂ は 、 元 禄 年 間 以 降 に 書 か れ た こ と は 明 ら か で あ る (註 23 参 照 ) 。 従 っ て 、 歴 代 が 書 き 替 え ら れ た 後 で あ る の で 、 そ こ に は ﹁ 同 祖 同 業 ﹂ と 記 さ れ て い る の で あ る 。 ま た 、 ﹃ 湖 東 三 僧 伝 ﹄ も そ の 奥 書 に よ れ ば 、 寛 政 六 年 ( 一 七 九 四 ) に 当 時 の 阿 弥 陀 寺 住 持 信 冏 に よ っ て 著 さ れ た も の で あ る (信 冏 は 寛 政 二 年 か ら 同 七 年 ま で 阿 弥 陀 寺 の 住 持 で あ っ た ︿ ﹃浄 土 宗 全 書 ﹄ 第 十 八 巻 ﹁ 略 伝 集 ﹂ の 内 、 五 三 七 頁 ﹁ 信 冏 上 人 自 叙 伝 ﹂ ﹀ ) 。 従 っ て 、 ﹃ 三 僧 伝 ﹄ も 歴 代 が 書 き 替 え ら れ た 後 に 成 立 し た も の で あ る か ら 、 当 然 な が ら 隆 堯 を ﹁ 開 山 ﹂ と し 、 宗 真 を ﹁ 第 三 代 ﹂ と 呼 び 、 以 下 . 第 八 世 L 応 誉 明 感 に 至 る 歴 代 を 阿 弥 陀 寺 の 住 持 と し て あ げ て い る の で あ る 。 た だ 、 ﹃ 三 僧 伝 ﹄ の 最 後 に ﹁ 幹 事 の 中 、 宗 誉 浄 阿 上 人 、 宝 誉 正 琳 法 師 な る 者 あ り 。 当 山 に 功 あ る こ と 住 持 職 に も 譲 ら ざ り き 、 と 旧 記 に 見 え た り ﹂ と あ る の が 注 目 さ れ る 。 こ こ に は ﹁本 末 代 々 ノ 覚 ﹂ に 記 さ れ て い た 阿 弥 陀 寺 の 二 世 と 七 世 が あ げ ら れ て お り 、 彼 ら は ﹁ 幹 事 ﹂ で あ っ た と い う 。 ﹁ 幹 事 ﹂ と は ﹁ 監 寺 ﹂ (本 来 の 読 み は ﹁ か ん す ﹂ ) の こ と と 思 わ れ 、 住 持 に 代 わ っ て 寺 内 の 一 切 の 寺 務 を 監 督 す る 役 職 で あ る (中 村 元 ﹃佛 教 語 大 辞 曲 ハ﹄ 縮 刷 版

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