恭
翁
運
良
の
活
動
と
曹
洞
宗
(上
)1
加
賀
大
乗
寺
と
瑩
山
紹
瑾
を
踏
ま
え
て
ー
佐
藤
秀
孝
は じ め に こ こ に 取 り あ げ る恭
翁 運 良 ( 仏 恵 禅 師 ・ 仏 林 恵 日 禅 師 、 一 二 六 七 − 一 三 四 一 ) と は鎌
倉 末期
か ら 南 北朝
初 期 に か け て 活 躍 し た臨
済
宗 法 燈 派 に 属 す る 禅僧
で あ る 。 系 統 的 に は 法 燈派
祖 の無
本
覚
心 ( 心 地 房 ・ 法 燈 円 明 国 師 、 = 一 〇 七i
一 二 九 八 ) の 法 を 嗣 い だ高
弟 の 一 人 で あ る が 、当
時、 進 ん で 曹 洞宗
永 平 下 の 瑩 山 紹瑾
( 仏 慈 禅 師、 一 二 六 四1
= 二 二 五 ま た は 一 二 六 八1
= 二 二 五 ) ら と 関 わ り を持
ち 、 主 と し て 加賀
( 石 川 県 ) や越
中
( 富 山 県 ) に 在 っ て 活 動 し て い る 。 当 時、北
陸 の 地 に は 永 平道
元 ( 仏 法 房 、 一 二 〇 〇1
一 二 五 三 ) を 派 祖 と す る 曹 洞 宗教
団 が 地 盤 を 確 立 し つ つ あ っ た時
期 に 相 当 し て お り 、 そ の 陣 頭 に あ っ た 禅者
こ そ 紹 瑾 ら に ほ か な ら な か っ た 。 そ ん な 曹 洞 宗 の 拠 点 と も い う べ き 地 に お い て 、 運良
は ほ ぼ 地 域 を 同 じ く し て法
燈 派 の 禅者
と し て 臨済
の宗
旨
を 鼓 駒 澤 大 學 佛 教 學 部 論 集 第 二 十 七 號 亭 成 八 年 十 月吹
し て い る こ と か ら 、 中世
に お け る 洞済
両 宗 の交
流 の 歴史
に 独自
の 関 わ り を 演 じ た こ と で 注 目 さ れ て い る 。 そ こ で 以 下 、 運良
の 足 跡 に つ い て 少 し く考
察 し 、鎌
倉
末 期 か ら南
北 朝 期 に お け る 洞 済 交 渉 の 一 端 を窺
っ て み る こ と に し た い 。 は じ め に 恭 翁 運 良 お よ び こ の 人 を と り ま く 法 燈 派 に つ い て、 近年
、 如 何 な る論
考 が存
し て い る か 、 運良
に関
わ る 研究
論
文 な ど は そ れ ほ ど多
く な い も の の 、 大 ま か に そ の研
究 動 向 の 一端
を 挙 げ て お く こ と に し た い 。 玉村
竹 二 氏 は 「 日 本中
世
禅
林
に 於 け る 臨 済 ・ 曹 洞両
宗 の 問 題1
「 林 下 」 の 問 題 に つ い てー
」 ( 『 日 本 禅 宗 史 論 集 』 下 之 二 に 所 収 ) や 「 法 燈 派 に つ い て 」 ( 『 臨 済 宗 史 』 に 所 収 ) に お い て 五 山派
研究
の 立 場 か ら林
下 と し て の法
燈 派 を 考察
し て お り 、 運 良 の 活 動 を 知 る 上 に も貴
重 な 事跡
を ま と め て い る 。 ま た中
世 曹 洞宗
史
の 研 究 の 上 か ら は 、東
隆
眞
氏 が 「初
期 の 日 本曹
洞 宗 と 臨 済宗
法 燈派
と の交
渉 」 ( 岡 本 素 光 博 士 喜 寿 記 念 論 一 三 七恭 翁 運 良 の 活 動 と 曹 洞 宗 ( 上 ) ( 佐 藤 ) 集 『 禅 思 想 と そ の 背 景 』 に 所 収 ) を ま と め、 原 田 弘 道 氏 が 「 中 世 に お け る 洞
済
交
渉
と曹
洞
宗 の 立 場 」 ( 『 駒 澤 大 学 仏 教 学 部 論 集 』 第 六 号 ) を 論 じ て お り、 と も に曹
洞 宗 と 法 燈 派 と の 交流
史
の 中 か ら 運 良 の 足跡
も 考 察 の 対 象 と さ れ て い る 。 さ ら に中
尾 良信
氏 が 「 瑩 山 禅 師 と 法 燈派
」 ( 『 曹 洞 宗 宗 学 研 究 所 紀 要 』 創 刊 号 ) を著
し 、 松 田 文 雄 氏 が 「 瑩 山 禅 師 の 尽未
来
際
置
文 に つ い て 」 ( 『 宗 学 研 究 』 第 一 二 号 ) を著
し て 、加
賀
の 大 乗 寺 を め ぐ る 紹 瑾 と 運 良 の 関 わ り に つ い て も 考 察 し て お り 、館
残 翁 氏 の 『 加 賀大
乗
寺 史 』 や 東 隆 眞 氏 の 『 塋 山 禅師
の 研究
』 な ど に も大
乗 寺 に お け る 紹 瑾 と 運良
と の関
わ り が論
じ ら れ て い る 。 ま た 広瀬
良 弘氏
は 禅 宗 の 地 方 展開
史
の研
究 か ら 「 越 中 に お け る 五 山 系禅
院
の隆
盛 と 臨済
宗
法 燈派
の 展 開 」 ( 『 禅 宗 地 方 展 開 史 の 研 究 』 に 所 収 ) と 、 こ れ と ほ ぼ 同 文 の 「 中 世 越 中 に お け る禅
宗 の 展 開 ( 文 芸交
流 と 社 会 ) 」 ( 『 富 山 県 史 』 通 史 編 H に 所 収 ) の 「 二 、 五 山 系 禅院
の隆
盛 と法
燈 派 の 展開
」 の 論 考 を な し て お り、 と く に 法 燈 派 で は 運良
と そ の 門 流 に よ る 越 中 地 域 に お け る 展 開 を 詳 細 に 論 じ て い る 。 さ ら に筆
者
も す で に 「 出 羽 玉泉
寺 開 山 の 了 然 法 明 に つ い て1
道
元 禅師
に 参 じ た高
麗 僧−
」 ( 『 駒 澤 大 学 仏 教 学 部 研 究 紀 要 』 第 五 二 号 ) や 「 了然
法 明 と 出 羽 玉 泉 寺−
道
元 ・ 瑩 山 両祖
と 関 わ っ た 高 麗僧
i
」 ( 『 印 度 学 仏 教 学 研 究 』 第 四 三 巻 第 一 号 ) に お い 一 三 八 て 、 運良
が若
く し て 得度
を受
け た受
業
師
で あ る 出 羽 ( 山 形 県 ) の 玉 泉寺
開
山 の 了然
法 明 ( 弘 章 、 ? ー 一 三 〇 八 ? ) に つ い て 論 じ て お り 、 運 良 と の 関 わ り を も指
摘 し て い る 。 そ こ で 以 下 、 こ う し た 諸 氏 の 研 究成
果 を 踏 ま え つ つ 、中
世
禅
者 と し て の 恭 翁 運 良 と い う 人 の 足跡
を 詳 し く 整 理検
討 し 、 そ の 目 本禅
宗
史
上 に お け る 特 異 な位
置
づ け に つ い て考
察 し て み る こ と に し た い 。伝
記 史 料 に つ い て は じ め に恭
翁 運 良 に 関 す る 伝 記 史料
と し て 如何
な る も の が存
し て い る か 、 こ の 点 に つ い て ま と め て お く こ と に し た い 。今
日 に お い て 、 運 良 の 足跡
を 知 る 上 で も っ と も 基 本 と す べ き も の は 、 法 孫 比 丘 某 甲 謹 状 「 大 日 本 国 越 中 州 黄 龍 山 興 化 護 国 禅 寺 開 山 勅 賜 仏 林 恵 日 禅 師 行 状 」 と い う 伝 記 史 料 で あ ろ う 。 こ の 「 大 日本
国 越中
州 黄 龍 山興
化
護
国禅
寺 開 山 勅 賜 仏 林 恵 日 禅師
行 状 」 ( 以 下 、 単 に 「 行 状 」 と 略 称 ) は 東 京 大学
史
料
編纂
所所
蔵 の 『名
僧 行 録 』 巻 二 や花
園大
学 禅 文 化 研 究 所 所 蔵 の 『 禅 林 諸祖
行 状 』 四 な ど に 所 収 さ れ 、 す で に 『 大 日 本 史料
』第
六編
之 六 や 『 富 山 県 史 』 「 史料
( 1 ) 編 」 な ど に 活 字 化 さ れ て い る 。 撰者
の 法 孫 比 丘某
甲 と い う の が 具体
的 に誰
の こ と な の か は 定 か で な い が 、 お そ ら く 表 題 から し て 越 中 の
黄
龍
山 興化
護
国 禅 寺 ゆ か り の 運 良 の法
孫
に 当 た る禅
者
で あ っ た も の と推
測
さ れ る 。 こ の点
、 当 の 興化
護 国 寺 が す で に 廃絶
し て い る た め 、 そ の 歴 住 の消
息 が 明確
に つ か め な い の が 惜 し ま れ よ う 。 し か も こ の 「行
状
」 が 具体
的 に い つ撰
述 さ れ た の か 、 そ の 年代
も 定 か で な い 。 た だ 、 そ の 記 事 内容
か ら し て 応 永 一 六年
( 一 四 〇 九 ) に 後 小松
天 皇 ( 一 三 七 七 − 一 四 三 三 、 在 位 は 一 三 八 二 ー 一 四 一 二 ) が故
運 良 に 対 し て 仏 林 恵 日禅
師 と 追 賜 し て よ り 後 の こ と と な り、少
な く と も 運良
が 示 寂 し て 七 〇 年 以 上 を経
過 し て か ら 撰 述 さ れ た 計 算 に な ろ う 。 ち な み に 聖 一 派 の華
岳
建
胄 ( 樵 隠 子 ・ 栗 隠 叟 、 ?1
一 四 七 〇 ) は こ の 運 良 の 「 行 状 」 に対
し て 、 行 状 後 序 前 南 禅 華 岳 建 胄 叟 越 之 興 化 禅 寺 開 山 勅 謚 仏 林 恵 目 禅 師 実 録 、 予 周 覧 者 数 十 回 矣 。 一 字 無 下 曾 可 二 増 損一 者 か 実 得 二 僧 史 之 筆 鴨 乃 今 遷 固 也 。 然 有 二 一 段 脱 所 噌 且 聞 、 師 欲 レ 到 二 大 乗 寺一 之 前 夕 、 瑩 山 夢 三 鷹 来 集 二 于 山 門 上 州 厥 貌 太 俊 、 山 怪 レ 之 。 翌 日 師 至 、 便 原 二 前 夢 → 延 侍二 首 座 寮 → 瑩 山 謂 レ 衆 云、 欲 レ 参 レ 余 者 、 参 二 首 座 叩 衆 僉 参一 一 首 座 叩 於 レ 是 山 避 レ 席 、 師 南 面 行 事、 云 々 。 是 口 碑 之 所 レ 伝 也 、 姑 書 以 作 二 楮 少 孫 之 補一 云 。 と い う 後 序 を 付 し て い る 。建
胄 は 聖 一 派 の潜
渓 処 謙 ( 普 円 国 師 、 ?1
一 三 三 〇 ) の 法孫
に 当 た る哲
岩
祖
濬
( 祖 浚 と も 、 一 三 二 四 − 一 四 〇 五 ) に 法 を 嗣 い で お り 、京
都
五 山 の 東福
寺 の第
一 四 ( 2 ) 二世
や 南 禅 寺 の 第 一 九 三世
に 就 い て い る 。 こ の 後序
に よ れ 恭 翁 運 良 の 活 動 と 曹 洞 宗 ( 上 ) ( 佐 藤 ) ば 、 「行
状
」 は別
に 「 越 之 興 化禅
寺
開 山 勅 謚 仏林
恵 日禅
師
実 録 」 と も称
し た も の ら し く、建
胄 も こ れ を 周覧
す る こ と数
一 〇 回 に 及 ん だ と 述懐
し て い る 。 た だ、 運良
が 加賀
の 大 乗 寺 に 住持
し た箇
所 の 記 事 に は 脱 所 が あ る と し て、 そ の 入寺
に 至 る ま で の興
味 深 い 逸話
を伝
え て い る の は 注 目 し て よ い 。 そ の 詳 細 に関
し て は 後 に触
れ る こ と に し た い 。 ま た、 そ の 建 胄 が 別 に 自 ら 撰 し た 運 良 に 関 す る 伝 記史
料 と し て 、 前 南 禅 華 岳 建 冑 撰 「 越 之 中 州 黄 龍 山 興 化 護 国 禅 寺 開 山 勅 謚 仏 林 恵 日 禅 師 塔 銘 井 序 」 と い う塔
銘
が伝
え ら れ て い る 。 こ の 「 越 之 中 州黄
龍
山興
化護
国 禅寺
開
山 勅 謚 仏 林恵
日 禅師
塔銘
并
序 」 ( 以 下 、 単 に 「 塔 銘 」 と 略 称 ) の 末 尾 に建
胄
は 「 告 寛 正龍
集
協 拾 秋 九 月 日、前
南
禅華
岳建
胄
老 衲 謹 銘 」 と 記 し て お り 、 「協
拾 」 が 十 二 支 で未
年
の 異 名 で あ る こ と か ら、 こ の 史 料 は南
禅 寺前
住
と し て建
胄
が 寛 正 四 年 ( 一 四 六 三 ) 九 月 に 撰 し て い る 事 実 が 知 ら れ る 。 ち な み に 建 冑 は こ の ほ か に 松源
派 金 剛幢
下 の 心 関清
通 ( 心 伝 と も 、 一 三 七 五 ー 一 四 四 九 ) の た め に 康 正 二年
( 一 四 五 六 ) に 「前
天 龍 心 へ 3 )関
大禅
師
祖
道 履 歴 之 記 」 も撰
し て い る 。 た だ 、建
胄 が 運 良 の 示 寂 し て 一 世紀
以 上 を隔
て た時
点
で 何 故 に 運 良 の た め に 「 塔銘
」 を撰
し て い る の か、 そ の経
緯
な ど は 定 か で な い 。 そ の ほ か に 江 戸時
代
に 編纂
さ れ た 燈 史 ・僧
伝 で 運良
の 章 を 一 三 九恭 翁 運 良 の 活 動 と 曹 洞 宗 ( 上 ) ( 佐 藤 )
載
せ て い る も の が い く つ か存
し て い る 。黄
檗宗
の 高 泉性
激 ( 大 円 広 慧 国 師 ・ 曇 華 道 人 、 一 六 三 三 − 一 六 九 五 ) が編
し た 『 扶 桑禅
林 僧 宝 伝 』 巻 六 に は 「 仏林
慧 日禅
師伝
」 が 収 め ら れ て い る 。 ま た 臨 済宗
妙 心 寺 派 の 卍 元師
蛮 ( 独 師 、 一 六 二 六 − 一 七 一 〇 ) が編
し た 『 延 宝 伝 燈 録 』 巻 一 五 に 「加
州瑞
応 山伝
燈 寺 恭翁
運良
禅
師
」 の章
が 、 同 じ く 師蛮
が 編 し た 『 本朝
高 僧伝
』巻
( 4 ) 二 六 に 「 賀 州 伝 燈寺
沙 門 運 良 伝 」 が載
せ ら れ て い る 。 江 戸 期 の 燈 史 ・僧
伝 と し て は 合 わ せ て 三種
が存
し て い る こ と に な ろ う 。 『 本朝
高
僧伝
』 は そ の典
拠
と し て 「塔
銘
」 と 『 延 宝 伝 燈 録 』 の み を挙
げ て い る が 、 内容
か ら し て 「塔
銘
」 で は な く 「行
状 」 の 記 事 を 詳 細 に 引 い て い る こ と は 疑 い な い 。 さ ら に 加賀
大 乗寺
の 世代
に つ い て 記 し た 曹 洞 宗 の 三 洲 白龍
( 一 六 六 九 ー 一 七 六 〇 ) が 重録
し た 『大
乗 聯 芳志
』 に も き わ め て 簡 略 な が ら 「前
( 5 ) 住恭
翁 運良
和 尚 」 の章
が存
し て い る 。 中 世 撰 述 の 「行
状 」 「塔
銘
」 と い っ た古
い 史料
が 運良
の 肩書
き を越
中 ( 富 山 県 ) の 黄龍
山 興 化護
国
寺
の住
持 と 記 し て い る の に 対 し て、 江 戸 期 の 燈 史 ・僧
伝 に な る と 加 賀 の 瑞 応 山 伝 燈寺
の 住 持 と し て 扱 わ れ る よ う に な っ て い る が、 こ れ は興
化寺
の 廃絶
に伴
っ て 、 伝 燈 寺 の み が 運良
と そ の 一 派 の 中 心 寺 院 と し て位
置
づ け ら れ た 時 代性
を反
映 し た も の で あ ろ う 。 し た が っ て、今
日、 運 良 の伝
記
史
料
と し て は 燈 史 ・ 僧伝
を 含 め て 六 種 が 存 し て い る こ と に な り 、 以 下 、 「 行 状 」 の 記事
一 四 〇 に 添 う か た ち で 運 良 の 足跡
を 窺 っ て い く が、伝
記史
料 を列
記 し て 検 討 す る 場合
、 つ ぎ の ご と く略
称 す る こ と に し た い 。 行 状 … 「 大 日 本 国 越 中 州 黄 龍 山 興 化 護 国 禅 寺 開 山 勅 謚 仏 林 恵 日 禅 師 行 状 」 塔 銘 … 「 越 之 中 州 黄 龍 山 興 化 護 国 禅 寺 開 山 勅 謚 仏 林 恵 目 禅 師 塔 銘 井 序 」 扶 桑 … 『 扶 桑 禅 林 僧 宝 伝 』 巻 六 「 仏 林 慧 日 禅 師 伝 」 延 宝 … 『 延 宝 伝 燈 録 』 巻 一 五 「 加 州 瑞 応 山 伝 燈 寺 恭 翁 運 良 禅 師 」 の 章 本 朝 … 『 本 朝 高 僧 伝 』 巻 二 六 「 賀 州 伝 燈 寺 沙 門 運 良 伝 」 大 乗 … 『 大 乗 聯 芳 志 』 「 前 住 恭 翁 運 良 釉 尚 」 の 章 な お 「 行状
」 「 塔銘
」 は原
則 と し て 『 名 僧 行録
』 本 を定
本 と し 、 必 要 に 応 じ て こ れ を 『 禅 林諸
祖 行 状 』 本 で校
定
し て お き た い 。 ま た 、 以 上 の 伝 記 史料
の ほ か に 運 良 の 消息
に つ い て 語 る資
料
に関
し て は、 必 要 に 応 じ て そ れ ぞ れ の箇
所
に お い て随
時
に載
せ て い く こ と に し た い 。 郷 関 と 出 自 〔 姓 族 ) 行 状 … 師 諱 運 良、 号 恭 翁 、 初 名 元 琳 。 師 絶 レ ロ 而 略 不 レ 道 二 其 姓 ・ 郷 邑 → 夫 至 人 以一 一 物 迹 一 為 二 大 道 之 累 叩 況 其 姓 氏 等 肯 以一 一 為 ( 意 ) 重一 耶 。 或 云 二 羽 州 人 つ 順 然 豊 碩 、 神 恵 疎 朗、 一 切 文 字、 不 レ 仮 二 師 訓 → 自 然 通 暁 。 塔 銘 … 師 諱 運 良 、 号 恭 翁。 卓 爾 儀 形 、 超 然 徳 量 、 禅 河 教 海 之 弁、 棒 雨 喝 雷 之 機 、 人 皆 辟 易 以 却 、 無 下 嬰 二 其 鋒一 者 加扶 桑 … 禅 師 、 名 運 良 、 号 恭 翁 。 未 レ 詳 ご 其 氏 族 殉 或 云 二 羽 州 人 叩 頑 然 豊 碩、 神 智 高 遠 、 一 切 文 字、 不 レ 仮 二 師 訓 「 自 然 通 暁 。 延 宝 … 加 州 瑞 応 山 伝 燈 寺 恭 翁 運 良 禅 師 。 本 朝 … 釈 運 良 、 字 恭 翁 。 不 レ 詳 二 姓 氏 郷 邑 叩 或 日 二 羽 州 人 而 生 質 順 然 、 神 慧 疎 朗 、 一 切 文 字 、 不 レ 仮 二 師 訓一 而 通 暁 。 大 乗 … 前 住 恭 翁 運 良 和 尚 、 羽 州 人 。 運
良
と い う の が こ の 人 の 法諱
で あ り 、道
号 ま た は字
を 恭 翁 と い い 、 「行
状 」 の み は さ ら に 初名
が 元 琳 で あ っ た こ と を伝
え て い る 。 こ の 点 は 「 行 状 」 の 中 で 参 学 期 の 運 良 に 対 し て 諸 師 が 「 元琳
長 老 」 と 述 べ て い る 点 か ら も窺
う こ と が で き る 。 た だ し、 こ の 人 が な ぜ 元 琳 の初
名
を 後 に 運良
と改
め た の か、 そ の 理 由 や 時 期 な ど に つ い て は何
ら 記 さ れ て い な い 。 で は、 運 良 は何
れ の 出 身 で あ っ た の か 、 そ の 郷 関 や俗
姓 に つ い て 明確
な こ と は 定 か で な い 。 「行
状 」 に よ れ ば 、 そ の 理 由 と し て 「 師、 口 を絶
し て 略 ぼ其
の 姓族
・郷
邑 を 道 わ ず 、夫
れ 至 人 は 物 迹 を以
て 大 道 の 累 い と 為 す 。況
ん や其
の 姓 氏 等 は 肯 て重
し と 以 為 ん や 」 と あ り 、 運 良 が 自 ら の 俗 姓 や郷
邑 に つ い て平
生 な ぜ か 口 に す る こ と が な か っ た た め ら し い 。 「 行状
」 や 『扶
桑
禅林
僧 宝 伝 』 『 本朝
高
僧 伝 』 は 、 運 良 が 羽州
す な わ ち 出 羽 ( 山 形 県 か 秋 田 県 ) の 人 で あ ろ う と推
測 し て い る が、 『 大乗
聯
芳
志 』 の み は 明確
に 羽州
の 人 と 記 し て い る 。 つ ぎ に 示 す ご と く 出 家得
度
の 地 が 羽前
( 山 形 県 ) で あ る こ と か ら し 恭 翁 運 良 の 活 動 と 曹 洞 宗 ( 上 ) ( 佐 藤 ) て 、 お そ ら く 運 良 は 具体
的 に は 羽 前 の 出 身 で あ っ た と 見 て よ い で あ ろ う 。 俗 姓 す ら 定 か で な い の で あ る か ら、 当然
、 父 母 の 氏名
や 幼年
時 の消
息 な ど に つ い て は 何 ら 知 ら れ て い な い 。 た だ 、 「行
状 」 は 運 良 の 人 と な り に つ い て 「 順然
と し て 豊 碩、神
恵
疎朗
に し て 、 一切
の 文字
、師
の 訓 を 仮 ら ず 、自
然 に 通 暁 す 」 と伝
え て い る 。 運 良 は背
が 高 く 肉付
き 豊 か で 大 柄 な 人 で あ っ た ら し く 、智
恵 す ぐ れ大
ら か 明 朗 で あ っ た と い う の で あ る 。 し か も お よ そ 文 字 を 見 る と 、 何 ら教
わ る こ と な く自
然
に そ の 意 に 通 達 し た と さ れ る か ら 、 運 良 は 幼 少 か ら か な り 聡 明 で あ っ た も の と 見 ら れ る 。 『 扶 桑禅
林 僧 宝 伝 』 と 『本
朝
高 僧 伝 』 も こ の 「 行 状 」 の 記 述 を ほ ぼ 踏 襲 し て お り 、 『扶
桑
禅 林僧
宝 伝 』 で は 神 智 が高
遠
で あ っ た と 記 し て い る 。 一方
、 「 塔 銘 」 で も 運 良 の 人 と な り を 「 卓 爾 た る儀
形
、超
然
た る徳
量、禅
河 教 海 の弁
、棒
雨 喝雷
の 機 、 人 皆 な 辟易
し て 以 て却
き 、其
の 鋒 に 嬰 る者
無 し 」 と伝
え て い る 。 こ れ も 運良
が儀
形
と 徳 量 に す ぐ れ 、教
・ 禅 に 通 じ た 弁 才 と 厳 格 な棒
喝 を駆
使 す る あ り よ う か ら 、 あ え て そ の機
鋒 に 触 れ る 者 が な か っ ( 6 ) た こ と を 語 っ て い る 。 こ う し た 記 述 か ら す れ ば 、 運 良 は幼
少 の 頃 よ り 聡 明 な 精 神 と頑
強 な 気骨
を 具 え た 人 物 で あ っ た も の の よ う で あ る 。 そ し て推
測 す る に、 お そ ら く 運 良 の 持 つ こ う し た 厳 峻 な 性格
や学
問 に 対 す る 天性
の資
質 が こ の 人 を し て 出 家 か ら 参禅
学 道 へ の 一 四 一恭 翁 運 良 の 活 動 と 曹 洞 宗 ( 上 ) ( 佐 藤 )
道
を 歩 ま せ る 因 由 と な っ て い る の で は な か ろ う か 。 玉 泉 寺 の 了 然 法 明 と 得度
の 因 縁 行 状 … 受 二 業 越 之 後 州 玉 泉 寺 了 然 明 和 尚 殉 十 九 歳 遊 方 、 登 壇 受 具 。 塔 銘 扶 桑 … 礼 二 玉 泉 寺 了 然 明 和 尚 一 為 レ 師。 十 九 歳 遊 方 、 登 壇 受 具 。 延 宝 … 受一 一 業 於 羽 州 玉 泉 了 然 明 禅 師 鴨 十 九 受 レ 戒 。 本 朝 … 受 鷁 業 於 本 州 玉 泉 寺 了 然 明 禅 師 → 十 九 歳 登 壇 受 戒 。 大 乗 … 受 二 業 於 玉 泉 法 明 叩 運 良 が 仏 門 に 投 じ た の が 具体
的 に い つ で あ っ た の か は 定 か で な い が 、最
初 に学
ん だ の は 出 羽 ( 山 形 県 ) 大 泉 庄 の善
見 山 玉泉
禅寺
の 了然
法 明 で あ っ た と さ れ る 。 『 洞 上 聯 燈 録 』 巻 一 「 羽 州 玉 泉寺
了 然 法 明禅
師
」 の章
に よ れ ば、 こ の 法 明 は高
麗
( 朝 鮮 半 島 )出
身 の 渡 来僧
で あ っ た と さ れ 、 入 宋 し て杭
州 ( 浙 江 省 ) 余 杭 県 の径
山 興 聖 万 寿禅
寺 に て 臨 済宗
破
庵 派 の 無 準師
範
( 仏 鑑 禅 師 、 一 】 七 七 ー 一 二 四 九 ) に学
ん だ後
、 来 日 し て 出 羽 の 羽 黒 山 下 に草
庵
を 開創
し 、 こ れ が や が て 玉 泉 寺 伽 藍 へ と 発 展 し て ( 7 ) い っ た と伝
え ら れ る 。 た だ し、 も っ と も 基本
と な る 「行
状 」 の み が 玉泉
寺 の位
置
を 越 後 ( 新 潟 県 ) と 記 し て い る が、 こ れ は 明 ら か な 誤 り で あ る 。 お そ ら く越
後
の 北 部 と 出 羽 の東
南部
が隣
接
し て い る こ と か ら 、 「 行 状 」 の撰
者
が こ れ を 見 誤 っ た か 、 一 四 二 あ る い は 玉 泉寺
の 位 置 が 一 に 越 後 の ご と く 見 ら れ た も の で あ ろ う 。 さ ら に 注 目 す べ き こ と は 、 出 羽 に 定 着 し た 高 麗僧
の 法 明 が 建 長 三年
( 一 二 五 一 ) 頃 に 越 前 ( 福 井 県 ) 志 比 庄 の吉
祥 山 永 平 寺 に 到 っ て 晩年
の 永 平道
元 の 席 下 に 投 じ た と さ れ る こ と で あ り 、 と く に 『 洞 上聯
燈 録 』 で 法 明 が 明確
に 道 元 の法
嗣 と し て ( 8 )扱
わ れ て い る 事 実 で あ ろ う 。 そ の後
、 出 羽 に 戻 っ た 法 明 は 久 し く 法 門 を 振 っ た と さ れ 、 玉 泉寺
も東
北
地 方 の 日本
海 側 で は も っ と も 古 く 、 か つ 有 数 の禅
宗 叢林
と し て 機 能 し て い た も の ら し い 。 ち な み に こ の 玉泉
寺 は 後 に荒
廃
し、 室 町時
代 に 曹 洞 宗太
源 派 の南
英
謙宗
( 三 謙 道 人 、 一 三 八 七 − 一 四 五 九 ) に よ っ て 再 興 さ れ、 羽 黒 町 国 見 の 国 見 山 玉 川寺
と 名 を改
め て 現今
に 及 ん で い る 。 ち な み に 謙宗
は 『 玉漱
軒 記 』 に お い て 法 明 を 道 元 の 法 嗣 と し て扱
っ て お り 、 伝 承 の 古 い史
料 で あ る だ け に 注 目 ( 9 ) さ れ る 。 「 行状
」 お よ び 燈史
・僧
伝
は 、 等 し く 運 良 が こ の 玉 泉 寺 に 法 明 を 礼 し て師
と な し、受
業
得度
し た こ と を 伝 え て い る 。 お そ ら く 運 良 は 近隣
の 名僧
と し て 注 目 さ れ つ つ あ っ た 異 郷 の高
僧
法 明 の 徳 風 を 慕 っ て 玉泉
寺 に投
じ た の で あ ろ う 。 運 良 に と っ て 法 明 は得
度 の 受 業師
で あ る こ と か ら 、 初名
で あ る 元 琳 と い う の が 法 明 よ り 与 え ら れ た 法 諱 で あ っ た の か も 知 れ な い 。 ち な み に 「 孤 峰 和 尚 行実
」 な ど に よ れ ば 、 出 羽 の 法 明 の席
下に は
後
に運
良 と同
門 と な っ た 孤峰
覚
明 ( 国 済 三 光 国 師 、 = 一 七 一 ( 10 )1
= 二 六 一 ) も学
ん で お り 、法
明
が東
北
の地
に在
っ て 当時
か な り 独自
の接
化 を な し て い た こ と が 知 ら れ て い る 。 運良
が 何 歳 頃 か ら法
明 に 学 ん だ か は定
か で な い が 、 お そ ら く年
少 よ り 童 行 ( 童 子 行 者 ) と し て 玉 泉 寺 の法
明 に随
侍
し て い た も の と 見 ら れ る 。 そ し て、 法 明 は在
宋 中 に 研鑽
し た中
国
禅
の禅
風 や来
日 後 に 永 平 寺 の 道 元 に参
学 し た消
息 な ど を若
き 運良
に 親 し く 語 る機
会
も存
し た は ず で あ ろ う 。 そ し て 、 こ れ が後
に 運良
が 瑩 山 紹 瑾 ら北
陸 の 曹 洞 宗 と 深 い 関 わ り を 持 つ因
由 と な っ て い る も の と 推 測 さ れ る 。 と こ ろ で 、 「 行 状 」 や 『扶
桑
禅林
僧
宝伝
』 に よ れ ば 、 運良
は 弘 安 入年
( 一 二 入 五 ) に 一 九歳
で遊
方
し 、 そ の 後 に 登 壇受
具 し た と さ れ て い る が 、 運 良 が い ず れ の寺
院
で受
戒
し た の か は伝
え ら れ て い な い 。 一 方 、 『 延 宝伝
燈 録 』 や 『本
朝
高僧
伝 』 に よ れ ば 、 一 九 歳 で 受 具 し た事
実
を 述 べ る の み で 、 遊 方 し た こ と を 伝 え て い な い か ら 、 玉 泉 寺 の法
明 に 就 い て受
戒
し た も の と解
し て い る こ と に な ろ う 。 い ず れ に せ よ、 運良
は 一 九 歳 ま で は 明確
に 法明
に 参 学 し て い た わ け で あ り、 そ の 間 に 法 明 の 人 と な り と そ の 示 す 禅 風 の 片 鱗 を 実 地 に 修 め て い る は ず で あ ろ う 。 瑩 山 紹 瑳 へ の参
学 と そ の 問 題 点 行 状 … 初 参 二 洞 谷 瑩 山 瑾 禅 師 → 周 年 之 間、 尽 得 二 曹 洞 之 旨 趣 → 於 二 恭 翁 運 良 の 活 動 と 曹 洞 宗 ( 上 ) ( 佐 藤 ) 其 授 受 之 際 噛 乃 自 惟 日 、 禅 有 二 伝 授 哨 豈 仏 祖 自 証 自 悟 之 法 。 遂 棄 レ 之 。 塔 銘 … 初 参一 一 洞 谷 瑾 禅 師 → 旁 捜 二 曹 洞 之 旨 → 扶 桑 … 初 参 二 洞 谷 瑾 禅 師 門 尽 得 二 洞 上 之 旨 幻 当 二 授 受 間 ハ 竊 自 惟 日 、 禅 有 ご 伝 授 → 豈 仏 祖 自 悟 自 証 之 法 乎 。 乃 棄 去 。 延 宝 … 辞 去 萍 遊 、 首 参 二 瑩 山 瑾 于 洞 谷 → 尽 得 二 洞 下 秘 奥 → 当 二 授 受 間 → 竊 惟 、 禅 若 有 二 伝 授 → 豈 仏 祖 自 証 自 悟 之 法 乎 。 本 朝 … 萍 遊 参 二 瑩 山 瑾 公 于 洞 谷 → 尽 得 二 洞 上 之 旨 叩 当 一 一 授 受 間 「 竊 自 惟 日 、 禅 若 有 二 伝 授 噛 豈 仏 祖 自 証 自 悟 之 法 乎 。 大 乗 諸 史 料 は 出 羽 の 法 明 に学
ん だ後
、 一 九 歳 で 受具
し た 運良
が さ ら に 能 登 ( 石 川 県 ) 酒井
保 に 到 り 、洞
谷 山 永光
禅
寺 の 瑩 山紹
瑾 に 学 ん だ こ と を伝
え て い る 。 と く に 「 行 状 」 で は 運 良 が永
光
寺 の 紹 瑾 に 参 随 し て い た 期 間 を 周年
と 記 し て い る か ら 、 運良
は お よ そ 一 年 間 に わ た り 紹 瑾 に 学 ん だ こ と に な ろ う 。紹
瑾
は い う ま で も な く 永 平寺
開
山道
元 の 四世
の 法 孫 に 当 た っ て お り 、 永光
寺
は そ の 開 創 し た 拠 点 寺院
に ほ か な ら な い 。 し か し、 実際
に は こ の 記 事 は か な り 問 題 で あ っ て、 運 良 が こ の時
期 に す で に 紹 瑾 の席
下 に 投 じ た と す る の は 肯 え な い 内容
と い っ て よ い 。従
来 、 紹 瑾 に つ い て は 文 永 五年
( = 一 六 八 ) の 生 ま れ と い う 説 が 無批
判 に踏
襲
さ れ て い た わ け で あ る が 、 近 年 で は中
世
撰
述 の 古 写 本史
料 の 出 現 に よ っ て、 こ れ よ り 四年
早 い 文 永 元年
一 四 三恭 翁 運 良 の 活 動 と 曹 洞 魯 夙 ( 上 ) ( 佐 藤 ) ( 一 二 六 四 ) の 生 ま れ で あ っ た と い う
新
説 が 出 さ れ 、 こ れ が 大 ( 11 )勢
を 占 め て い る 現状
で あ る 。 運 良 と 紹 瑾 と の 年齢
差 は、 従 来 の紹
瑾 の 生 没年
か ら す れ ば 運良
の 方 が 一 歳 年 長 と な り 、 近 年 の新
説 に従
え ば紹
瑾 の 方 が 三歳
の 年 長 と い う こ と に な る 。 そ の い ず れ に せ よ 、紹
瑾 と 運 良 は ほ ぼ 同世
代
に 当 た っ て お り 、 運 良 が 一 九歳
で受
具
し た 当 時、 紹 瑾 も い ま だ 一 八歳
か 二 二歳
で し か な く 遍 参 修 行 の 身 で そ れ ほ ど 名 が知
れ わ た っ て い た わ け で な い 。 ま た 運 良 が 赴 い た と さ れ る能
登 の 永 光寺
が 開創
さ れ た時
期 に つ い て も、 年代
的 に 問 題 を含
ん で い る 。 す な わ ち、紹
瑾 が 能 登酒
井保
の 地 に 草 庵 を結
ん だ の が 正 和 二年
( ; 二 三 ) 八 月 の こ と で あ り、 永光
寺 の 諸堂
が建
立 さ れ る の は さ ら に 遅 く 文 ( 12 ) 保 元年
( 一 三 七 ) 頃 か ら と 見 ら れ て い る 。 し た が っ て 、 運 良 が 仮 に 永光
寺 に お い て 紹 瑾 に 学 ん だ と す る な ら ば、 そ れ は か な り 後 の こ と と し な け れ ば な ら な い 。 あ る い は 永 光寺
で は な く 加賀
の大
乗 寺 で あ っ た の か も知
れ な い が、紹
瑾 が師
の徹
通 義 介 ( 義 鑑 と も 、 一 二 一 九 − 一 三 〇 九 ) の 後席
を継
い で 大 乗 寺 第 二 世 に 住 し た の す ら 永 仁 六 年 ( = 一 ( 13 ) 九 八 ) の こ と で あ り、 運 良 の 三 二 歳 の と き に 当 た っ て い る 。 ま し て 無 本 覚 心 が 示 寂 す る の が そ の 同 じ 永 仁 六年
一 〇 月 = 二 ( 14 ) 日 で あ る こ と か ら す れ ば 、 運 良 が大
乗 寺 の紹
瑾 に 参 じ て後
に覚
心 に学
ぶ 可 能 性 は ま っ た く 存 し な い こ と に な ろ う 。 た だ 、 → 四 四 紹 瑾 は 正 応 四年
( 】 二 九 一 ) か ら 永 仁 二年
( 一 二 九 四 ) に か け て 阿波
( 徳 島 県 )海
部 郡 の城
万 寺 の 住職
と し て 活動
し て お り 、 こ の間
、 正 応 五 年 に は 二 九歳
で 越 前永
平 寺 に 赴 い て第
四 世 の義
( 15 )演
( ?1
;
二 四 ) に 参 じ て 受 戒 作 法 を 許 可 さ れ て い る こ と か ら、 こ う し た往
来 の最
中 、 京 都 な ど いず
れ か の 地 で 運 良 と 面識
を 得 る機
会 が あ り 、 互 い に意
気 投合
す る 因 縁 が存
し た と し て も 何 ら 不 思議
で は な い 。 運 良 の 「 行状
」 な ど に い う 「 洞 谷 」 の こ と ば が単
に 紹 瑾 に 対 す る敬
称
の 意 味 に す ぎ な い の で あ れ ば 、 取 り 立 て て 永 光 寺 に こ だ わ ら な く て も よ い の か も知
れ な い 。 と こ ろ で 、 運 良 は 紹 瑾 に 参 学 し て 尽 く 曹 洞 の 旨 趣 を 得 た と 記 さ れ な が ら 、 「行
状 」 や 『扶
桑 禅 林僧
宝 伝 』 『 延 宝 伝 燈 録 』 『 本朝
高
僧
伝 』 に よ れ ば、 法 門 の 授受
が存
し た 後 、 運 良 が 「禅
に 伝 授 有 り 、 豈 に 仏 祖自
証 自悟
の 法 な ら ん や 」 と 思惟
し た と さ れ 、 あ た か も 紹 瑾 の 示 す 曹 洞 の宗
旨
を捨
て る か の よ う な内
容 と な っ て い る 。 あ え て推
測 す る に 、 こ れ は お そ ら く 後 の曹
洞 宗 と の し が ら み か ら 運良
の 伝 記 内容
に改
変 が 加 え ら れ た も の で は な か ろ う か 。 と も あ れ時
期 的 に は 運 良 は つ ぎ に 示 す 無本
覚
心 や南
浦紹
明 ら に 学 ん で 後 に 大 乗寺
か で 紹 瑾 に 参 じ た と解
す る の が 妥 当 な よ う で あ る 。 紹 瑾 へ の参
学 を最
初
に 記 し た と こ ろ に 「 行状
」 撰者
の意
図 の ご と き も の を 感 じ ず に は い ら れ な い 。 燈史
・僧
伝 の 記 述 は 単 に こ の 「行
状 」 の 説 を無
批判
に
踏
襲
継 承 し た も の に す ぎ な い 。 由良
の 無 本覚
心 と の 機縁
行 状・ 三 竟 聞 三 鷲 峯 法 燈 国 師 熾 二 化 於 南 紀 → 往 諮 参 。 国 師 示 以 二 狗 子 話 → 従一 一 昏 鐘一 提 撕 、 至一 一 五 鼓】 豁 然 契 悟 。 趨 扣 二 丈 室 → 竊 作 二 是 念 噛 老 和 尚 不 レ 可 レ 譲 。 国 師 見 レ 来 便 日 、 除 二 汝 胸 中 剣 叩 師 不 レ 覚 白 汗 浹 レ 背 、 即 問 日、 和 尚 八 十 二 、 与 二 学 人 二 十 二 門 是 同 是 別 。 国 師 日 、 同 同 。 従 レ 此 機 語 密 契 、 針 芥 相 投 。 親 炙 者 数 歳、 辞 去 遊 方 、 欲 レ 訪 二 諸 善 知 識 叩 国 師 告 日、 汝 縁 在 二 北 地一 住 欽 哉 。 塔 銘 … 後 詣 二 南 紀 鷲 峰 法 燈 国 師 而 師 示 以 二 狗 子 話 司 一 夕 豁 然 大 悟、 遂 吹 二 起 法 燈 不 焔 之 照 一 矣 。 扶 桑 … 叩 二 法 燈 国 師 於 南 紀 → 燈 示 以 二 趙 州 無 字 叩 師 帰 二 単 下 → 勇 力 提 撕 、 従 二 初 夜一 至 二 五 鼓 → 豁 然 大 悟。 急 趨 二 方 丈 一 通 二 所 見 叩 私 自 念 日 、 者 老 和 尚 不 レ 可 レ 譲 。 燈 見 二 其 来 一 便 日、 除 二 卻 胸 中 剣 子 → 師 不 レ 覚 流 汗 浹 レ 背 。 自 レ 是 鍼 芥 相 投 。 服 勤 数 稔 、 去 遊 二 諸 方 → 燈 日 、 子 縁 在 二 北 地 ハ 不 二 必 他 往 }。 延 宝 … 後 謁ワ 「 法 燈 干 鷲 峯 而 燈 示 以 二 趙 州 狗 子 話 叩 師 帰 こ 単 下 門 勇 奮 提 撕 、 従 二 昏 鐘一 至一一 五 鼓 → 豁 然 徹 底 。 趨 扣 二 丈 室 → 思 念、 這 老 漢 不 レ 可 レ 譲 。 燈 覩 二 其 来一 便 日 、 除 二 卻 汝 胸 中 剣→ 著。 師 不 レ 覚 白 汗 浹 レ 背 、 便 問 、 和 尚 八 十 ご 、 与 二 某 甲 一 隔 二 二 十 二 → 是 同 是 別 。 燈 日 、 同 。 従 レ 此 鍼 芥 相 投 。 親 附 数 載、 燈 記 日 、 子 縁 在 二 北 地 → 遭 レ 十 則 止 。 本 朝 … 去 謁 二 法 燈 国 師 于 鷲 峯 → 燈 示 以一一 趙 州 狗 子 話 → 良 帰 二 単 下 → 勇 奮 提 撕、 従 二 昏 鐘一 至 二 五 鼓 → 豁 然 大 悟 。 趨 扣 二 丈 室 → 将 レ 恭 翁 運 良 の 活 動 と 曹 洞 宗 ( 上 ) ( 佐 藤 ) 呈 二 所 悟 噌 私 自 念 日 、 者 老 和 尚 不 レ 可 レ 譲 。 燈 覩 二 其 来 一 便 日 、 除 二 卻 汝 胸 中 剣一 。 良 不 レ 覚 白 汗 浹 レ 背、 便 問 、 和 尚 八 十 二 、 与 二 某 甲 一 隔 三 一 十 ニ ハ 是 同 是 別。 燈 日、 同 。 従 レ 此 鍼 芥 相 投 。 親 附 数 載 、 燈 嘱 日、 子 縁 在「一 北 地 → 遭 レ 十 則 止 。 大 乗 … 臨 済 宗 、 嗣 ご 法・ 田 良 法 燈 而 そ の 後、 運 良 は 紀 伊 ( 和 歌 山 県 ) 由良
の 鷲峰
山 西 方 興 国禅
寺 に 赴 き 、 本師
と 仰 ぐ こ と に な る 無 本覚
心 の 門 に 投 じ て い る 。覚
心 に つ い て は 『 鷲峰
開 山法
燈 円 明 国師
行 実 年 譜 』 が 存 し て い る こ と か ら 比較
的 に 詳 し い 足 跡 が 知 ら れ る 。覚
心 は信
濃
( 長 野 県 ) 近 部 ( 神 林 と も ) の 人 で 、 二 九歳
で南
都 ( 奈 良 県 ) の東
大 寺戒
壇 で受
具 し、 高 野 山伝
法院
の覚
仏
に密
教 を 学 び、 さ ら に 山 中 の 金 剛 三 昧 院 に 明 庵 栄 西 ( 千 光 房 、=
四 【1
一 二 一 五 ) の 高 弟 で あ る 退 耕 行 勇 ( 荘 厳 房 、 一 一 六 一 ニ ー = 一 四 一 ) を 訪 ね 、 行 勇 が 鎌 倉 の寿
福 寺 に 遷 る の に 随 侍 し て い る 。 そ の 後 、 京都
深草
の 観 音 導 利 院 興 聖 宝林
禅
寺 ( 宝 林 寺 ) に 道 元 を 訪 ね て 菩薩
( 16 ) 戒 を 受 け る な ど 、 国 内 各 地 の 善 知識
に 歴参
し た 後 、 入 宋 し て杭
州 ( 浙 江 省 ) 銭 塘 県 の 霊 洞 山 護 国 仁 王禅
寺 に お い て 楊 岐 派 の 無 門 慧 開 ( 仏 眼 禅 師 、 一 一 八 三 − 一 二 六 〇 ) に 参 じ、 そ の 法 を 嗣 い で 帰国
し て い る 。 由 良 の鷲
峰 山 西 方 興 国 禅寺
は安
貞 元年
( 一 二 二 七 ) に鎌
倉
三 代 将 軍 の源
実 朝 (=
九 ニ ー = = 九 ) の 家 臣 で あ っ た葛
山 五 郎 景倫
( 入 道 願 性、 ?1
一 二 七 六 ) が 実朝
の 菩 提 を 弔 う た め に建
一 四 五恭 翁 運 良 の 活 動 と 曹 洞 宗 ( 上 ) ( 佐 藤 ) 立 し た も の で あ り 、 最
初
は 西方
寺 と称
し 、 真 言宗
に 属 し て い た ら し い 。 か つ て 南 宋 か ら 帰 国 し た直
後
の道
元 が 西 方 寺 の 寺 ( 17 )額
を 揮 毫 し た と い う 因縁
も存
し て い る 。 そ の後
、建
長
六 年 ( = 一 五 四 ) に南
宋
か ら帰
国
し た覚
心 が 西 方寺
の 開 山 始 祖 と し て 迎 え ら れ 、 正嘉
二年
( ] 二 五 八 ) に覚
心 が 入 寺 に 当 た っ て 禅宗
に改
宗 し て い る わ け で あ る 。 興国
寺
の 寺 号 に改
め ら れ る の が南
朝
の 興 国 元年
( 北 朝 の 暦 応 三 年、 =一西
○ ) の こ と で あ る か ら、 運 良 が 到 っ た 当 時 は い ま だ 西 方寺
と い う 呼 称 で あ っ た こ ( 18 ) と に な ろ う 。 運 良 は覚
心 が 南紀
に て 盛 ん に 化 導 を な し て い た の を聞
き 知 っ て、 そ の 門 を 叩 い た と さ れ る 。 門 下 に 投 じ た 運 良 に 対 し て 、覚
心 は 「 趙 州 狗 子 」 の 話 頭 を 参 究 せ し め た と さ れ る 。 か つ て 入宋
し て無
門 慧 開 に 参学
し た覚
心 に と っ て 「 趙 州 狗 子 」 の 話 頭 は 特 別 の 意味
を 持 つ 古 則 公案
で あ っ た と い っ て よ い 。覚
心 が本
師 と仰
い だ 無 門 慧 開 は古
則
公案
の 参究
を 通 し た 公案
禅
( 看 話 禅 ) を 標榜
し て 『 禅 宗 無門
関
』 を著
し て い る が 、 そ の中
で も 「趙
州
狗 子 」 の 話 頭 は 無字
の 参究
と い う 点 で も っ と も 重 要 な 古則
と な っ て い る 。 す な わ ち、 『 無 門 関 』 第 一 則 「 趙 州 狗 子 」 に よ れ ば 、 趙 州 和 尚 、 因 僧 問 、 狗 子 還 有 二 仏 性一 也 無 。 州 云 、 無 。 と い う も の で あ り 、唐
末
の 趙 州 従 論 ( 真 際 大 師 、 七 七 八 ー 八 九 七 ) が 一 僧 よ り 「 狗 子 、 還 た仏
性 有 り や 」 と 問 わ れ て 「 無 」 と答
え た商
量 で あ る 。慧
開 は こ の 無 字 を宗
門 に お け る 入 道 の 一 四 六 関 門 と し て 位 置 づ け て お り、 そ れ 以 来、 「 趙 州 狗 子 」 の 話頭
は と く に 公案
禅 の も っ と も 中 心 と な る 古 則 公案
と し て 参 究 の ( 19 ) 対象
と さ れ て い る 。 こ れ を 覚 心 は 会 下 に 到 っ た 運 良 に 参禅
の 眼 目 と し て 課 し て い る わ け で あ る 。 と き に 運良
は 夕刻
の昏
鐘 ( 初 夜 ) よ り専
心 に 「 趙 州 狗 子 」 の 古 則 を 工 夫 し 、 五鼓
に 至 っ て 豁 然 と し て 契 悟 し た と さ れ る 。 五 鼓 と は 一夜
を 五 更 に 分 け て 時 刻 を 知 ら せ た 更 鼓 の 五 更 目 の 鼓声
の こ と で あ り 、 時 間 的 に は 暁 天 ( 午 前 四 時 前 後 ) に 当 た っ ( 20 ) て い る 。 契悟
し た 運 良 は た だ ち に走
っ て 覚 心 の 方丈
を 叩 く の で あ る が、 心 中 ひ そ か に 「 老 和 尚 は 譲 る べ か ら ず 」 と 感 じ て い た ら し い 。覚
心 が そ う 簡単
に は省
悟 を 認 め て は く れ ぬ で あ ろ う と い う 思 い で あ る 。 案 の 定 、 覚 心 は 運良
が 方丈
に 入 っ て く る の を 見 て 、 た だ ち に 「 汝 が 胸 中 の 剣 を除
け 」 と告
げ て い る 。 心 の 中 に わ だ か ま っ て い る 剣 を除
け と い う の で あ り 、 い ま だ 運 良 の境
界 を 認 め な か っ た こ と に な ろ う 。 運良
は こ の こ と ば を 聞 い て 、 覚 え ず 白 汗 が背
を 浹 っ た と伝
え ら れ る 。 で は 、 運 良 が 西 方 寺 の 覚 心 に学
ん だ の は い つ の こ と で あ ろ う か 。 「 行 状 」 に よ れ ば、先
の 問答
に つ づ い て、 さ ら に 八 二歳
の 覚 心 と 二 二 歳 の 運良
の あ り よ う が 問答
の 課 題 と な っ て い る 。 す な わ ち 、 「行
状 」 で は 、 即 ち 問 う て 曰 く 、 「 和 尚 の 八 十 二 と 学 人 の 二 十 二 と は、 是 れ 同 か 是 れ 別 か 」 と 。 国 師 曰 く 、 「 同 、 同 」 。 此 れ よ り 機 語 密 に 契 い 、針 芥 相 い 投 ず 。 と 記 さ れ て い る 。 こ れ に よ れ ば 、 明 ら か に 運
良
は覚
心 と自
ら の 年齢
の 違 い を 問 題 に し つ つ 、 年齢
を 超 え た仏
法
の あ り よ う を 如 何 に と ら え る べ き か を 問 い 質 し て い る も の と 見 ら れ る 。 と こ ろ が 、 こ れ を 燈史
・僧
伝 で は 覚 心 と 運 良 と の年
齢
の 隔 た り が 二 二 年 で あ っ た か の ご と き 表 現 に改
め て い る 。 実 際 に は覚
心 と 運 良 の 年齢
差 は 干 支 を ち ょ う ど 一 回 ず ら し た 六 一歳
で あ り、単
に 二 二 歳 を 隔 て て い た わ け で な い か ら 、 燈史
・僧
伝 は 内容
を 見 誤 っ た も の と せ ざ る を 得 な い 。覚
心 の 八 二歳
は 正 応 元年
( 弘 安=
年 、 一 二 八 八 ) に 当 た っ て お り 、 こ の と き 運 ( 21 )良
は 二 二 歳 で あ っ た の で あ る 。 師 匠 の 自 己 と 学 人 の自
己 が年
齢 を超
え て 同 じ で あ る と い う覚
心 の こ と ば に よ っ て、 運 良 は 機 縁 が契
い 、 あ た か も 針 穴 と芥
子 が相
い投
ず る か の ご と き で あ っ た と さ れ る 。 し か も 運 良 が覚
心 に 随侍
し て い た の は数
歳 で あ っ た と 記 さ れ て お り 、 正 応 元 年 の 当時
、 先 に 述 べ た瑩
山紹
瑛 は い ま だ 二 五歳
ま た は 二 一歳
で し か な い か ら 、 そ れ 以 前 に 運良
が 紹 瑾 の席
下 に 学 ん だ と は 到底
考 え ら れ な い わ け で あ る 。 『鷲
峰 開 山法
燈 円 明 国 師行
実 年譜
』 な ど に よ れ ば 、 す で に述
べ た ご と く 覚 心 は 永 仁 六年
( 一 二 九 八 ) 一 〇 月 一 三 日 に 示 寂 し て い る が 、 運良
が 覚 心 の 示寂
ま で 参随
し て い た か否
か は 定 か で な い 。 た だ 、随
侍 が数
歳
で あ っ た と す れ ば 、 お そ ら く は 恭 翁 運 良 の 活 動 と 曹 洞 宗 ( 上 ) ( 佐 藤 ) 運 良 は覚
心 の 最 期 を 看 取 る こ と な く 、 そ れ よ り か な り 早 く に 西 方寺
を離
れ て い る も の と 見 て よ い で あ ろ う 。東
大 寺 で の 研 鑚 ( 塵 ) ( 諸 方 ) 行 状 … 師 少 有 二 出 群 作 略 → 名 聞 ; 四 方 叩 故 一 時 宗 匠 、 共 推 尊 レ 之 、 称 三 兀 琳 長 老 → 其 肆 説 如 二 蘇 張 之 雄 弁 州 其 応 機 如 二 孫 呉 之 用 兵 → 諸 老 歛 レ 衽 莫 三 敢 当 二 其 鋒 殉 往 詣 二 東 大 寺 唖 因 聴 三 戒 壇 主 講 二 華 厳 六 相 義 噛 屡 加 二 難 問 而 主 箝 レ ロ 不 レ 言 、 即 自 慚 服 、 就 問 二 別 伝 之 旨 叩 師 日 、 我 仏 祖 単 伝 之 正 宗 、 豈 義 学 之 所 レ 階 哉 。 然 既 問 不 レ 可 レ 不 レ 言 、 即 示 以刷一 宗 門 関 梹 → 主 之 所 レ 未 レ 聞 也 、 疑 網 頓 除 、 起 而 作 レ 礼 日、 若 不 レ 見 レ 師 、 安 得 レ 窺 二 仏 祖 之 玄 枢 殉 師 従 容 告 日 、 我 師 法 燈 、 昔 遊 二 於 此 哨 時 戒 壇叡
尊 、 探 二 直 指 之 道一 有 レ 省 。 又 有 二 一 老 宿 → 虔 恭 諮 啓、 於 レ 是 省 悟、 忽 坐 化 。 尊 乃 建 二 旦 過 於 戒 壇 院 → 待 二 十 六 開 士一 ( 宜 ) 委 報 二 法 燈 → 今 也 不 レ 給 、 起一廃
於 不 朽 → 不 二 亦 可一 哉。 主 即 諾 。 爾 来 復 接 二 雲 水 之 衲 子 → 旦 過 之 再 興 者 、 実 師 之 力 也、 尊 贈 二 謚 興 正 菩 薩 叩 塔 銘 … 又 遊 二 南 都 講 寺 → 以 化 二 律 虎 叩 扶 桑 … 因 至 二 東 大 寺 → 聞 三 戒 壇 主 講 二 華 厳 六 相 義 → 師 屡 加 二 難 問 崎 主 箝 レ ロ 不 レ 能 レ 答 、 即 自 慚 服 、 就 問 二 禅 要 叩 師 日 、 我 仏 祖 単 伝 之 旨 、 豈 義 学 者 所 二 能 階一 耶 。 然 既 問 及 、 不 レ 可 レ 不 レ 説、 即 示 以 二 宗 門 関 梹 噌 主 疑 網 頓 除 、 乃 作 レ 礼 日 、 若 不 レ 遇 レ 師 、 安 得 レ 窺 二 見 仏 祖 之 玄 枢 叩 延 宝 一 四 七恭 翁 運 良 の 活 動 と 曹 洞 宗 ( 上 ) ( 佐 藤 ) 本 朝 … 良 抵 二 南 都 東 大 寺 → 聴 三 戒 壇 院 凝 然 講 二 華 厳 ハ 至 二 六 相 義 → 良 屡 問 難 。 然 公 以 三 問 出 二 意 表 → 渋 二 滞 答 釈 → 就 レ 良 問 二 禅 要 叩 良 日 、 我 仏 祖 単 伝 之 旨 、 豈 義 学 者 所 二 能 階 一 邪 。 然 公 請 益 不 レ 止、 良 示 以 二 宗 門 関 捩 叩 然 公 疑 網 頓 釈 、 乃 作 レ 礼 日 、 若 不 レ 遇 レ 師 、 安 能