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駒澤大学佛教学部論集 45 005永井 政之,程 正,五十嵐 嗣郎,角田 隆真,大澤 邦由,本間 英純,徳 護「『宋会要』道釈部訓注 (9)」

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五三 駒澤大学佛教學部論集   第四十五號   平成二十六年十月

『宋会要』道釈部訓注(九)

 

 

 

     

五十嵐

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     

︹ 178︺ ︿原文﹀ 景徳三年八月、 諸王府侍講孫奭転対、 請減修寺度僧。真宗曰、 道 釈欠 二門、 有助世教。 人或偏見、 往往毀誉。 仮使僧道輩時有不検、 安可即廃止也。 ︿訓読﹀ 景 徳 三 年 八 月、 諸 王 府 侍 講 の 孫 奭 転 対 す る に、 寺 を 修 し 僧 を 度 す を 減 ず る を 請 う。 真 宗 曰 く、 道 釈 の 二 門、 世 教 を 助 く る 有 り、 人 或 い は 偏 見 も て 往 往 に 毀 誉 す。 仮 使 僧 道 の 輩、 時 に 不検有るとも、 安 くんぞ 即 ちに廃止すべけんや。 ︿解説﹀   景 徳 三 年︵ 一 〇 〇 六 ︶ 八 月、 諸 王 府 侍 講 で あ る 孫 奭 が 転 対 す る 際 に、 寺 の 建 設 と 僧 侶 の 披 剃 を 減 ら す こ と を 奏 請 し た。 こ れ に 対 し て 真 宗 は、 道 教 と 仏 教 二 つ の 教 は、 世 間 の 人 々 の 教化に役立っている、 人は往々にして偏見をもって、 悪く言っ た り ほ め た り す る。 た と え 僧 道 の 輩 が 時 に は 慎 み の な い 行 動 を と っ た と し て も、 ど う し て 全 て の 僧 道 を す ぐ に 廃 止 で き よ うか、と言った。   本 稿 と 同 じ 内 容 の 記 事 は﹃ 続 資 治 通 鑑 長 編 ﹄ 巻 六 三︵ 中 華 書 局 本、 第 五 冊、 一 四 一 八 頁 ︶ と﹃ 宋 史 ﹄ 巻 四 三 一︵ 中 華 書 局本、第七冊、一二八〇六頁︶にも見られる。   な お 転 対 と は、 宋 代、 天 子 の 前 で 臣 下 が 順 番 に 時 の 政 治

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五四 ﹃宋会要﹄道釈部訓注︵九︶ ︵永井︶ の 得 失 を 答 え る こ と で、 輪 対 と も い う。 ︵﹃ 大 漢 和 辞 典 ﹄ 巻 一〇、 一〇五九頁 d︶   孫 奭︵ 九 六 二 │ 一 〇 三 三 ︶ に つ い て は、 ﹃ 宋 史 ﹄ 巻 四 三 一 に﹁ 字 宗 古、 博 州 博 平 人 ﹂ と あ り、 現 在 の 山 東 省 茌 平 県 博 平 鎮 の 人 で あ る。 ま た﹁ 奭、 経 術 を 以 て 進 め、 道 を 守 り て 自 か ら 処 す。 即 ち 言 う 所 有 る も、 未 だ 嘗 て 阿 附 し 悦 を 取 る こ と な し ﹂ と あ り、 典 型 的 な 宋 代 の 儒 者 で あ っ た。 大 中 祥 符 初 め の 天書の事件に反対の意見を持ち、 封禅や祭祀等にも反対した。 ﹃ 宋 史 ﹄ に よ れ ば﹁ 然 し て 奭 の 朴 忠 な る こ と を 知 り、 其 の 言 切 直 な り と 雖 も、 こ れ を 容 る し て 斥 け ず ﹂ と あ る。 こ の よ う に 孫 奭 は た と え 自 分 の 意 見 が 受 け 入 れ ら れ な く て も、 皇 帝 に 対 し て は っ き り と 自 分 の 信 念 を 述 べ る 人 で あ っ た こ と が わ か る。 ︿徳   護・五十嵐﹀ ︹ 179︺ ︿原文﹀ 崇 寧 二 年 十 月 九 日、 詔、 崇 寧 寺 観、 並 依 十 方 住 持。 其 披 剃 並 紫 衣、 自 崇 寧 二 年 天 寧 節 為 始。 如 未 有 童 行、 即 仰 所 差 主 管 僧 道保的手下童行披剃。崇寧三年以後、即依此施行。 ︿訓読﹀ 崇 寧 二 年 十 月 九 日、 詔 す、 崇 寧 寺 観 は、 並 て 十 方 住 持 に 依 る べ し。 其 の 披 剃 並 び に 紫 衣 は、 崇 寧 二 年 の 天 寧 節 を 始 め と 為 す。 如 し 未 だ 童 行 有 ら ざ れ ば、 即 ち 所 差 の 主 管 僧 道 を 仰 い で 手 下 の 童 行 を 保 的 し て 披 剃 せ し め よ。 崇 寧 三 年 以 後 は、 即 ち 此れに依り施行せよ。 ︿解説﹀   崇 寧 二 年︵ 一 一 〇 三 ︶ 一 〇 月 九 日、 崇 寧 の 勅 額 を 賜 っ た 寺 院 や 道 観 は、 全 て 十 方 住 持 制 を と る こ と と す る。 ま た 披 剃 と 紫 衣 と は、 崇 寧 二 年 の 天 寧 節 か ら 始 め る こ と と す る。 童 行 が い な い 場 合 は、 当 該 の 崇 寧 寺 や 崇 寧 観 を 監 督 し て い る 僧 官 や 道 官 の 配 下 に い る 童 行 を 披 剃 さ せ よ。 崇 寧 三 年 以 後 は、 此 れ に準じて施行せよとの詔勅である。   本 項 に 関 係 す る 記 事 が﹃ 宋 会 要・ 礼 五 ﹄ に 以 下 の よ う に 記 述されている。 徽宗崇寧二年九月一七日、 左僕射蔡京等、 劄 子もて奏す。 臣等、 伏して 以 みるに、 陛下先烈を 遹 追し、 邪正を分別し、 明らかに賞罰を 信 い、 上は天心に 当 う。今、 天寧に届る、 伏 し て 請 う ら く は、 天 下 の 州 軍 に、 各 お の 寺 額 を 賜 い、 崇 寧 を 以 て 名 と 為 し、 上、 叡 算 を 祝 せ ん こ と を。 詔 す る に 所 奏 に 依 り、 仍 て 勅 額 を 賜 う。 天 寧 節 に 遇 う 毎 に、 鎮 州 に 紫 衣、 度 牒 各 お の 一 道 を 与 え、 其 の 余 の 州、 軍、 監 に 各 お の 度 牒 一 道 を 与 う。 便 に 任 せ て 修 蓋 せ し む る を 許 し、 了 る を 候 ち て、 逐 旋 に 奏 し、 旨 を 取 ら ば、 経 一 蔵 を

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五五 ﹃宋会要﹄道釈部訓注︵九︶ ︵永井︶ 賜う。 十 月 九 日、 詔 す、 崇 寧 寺 観 は 並 て 十 方 住 持 に 依 る べ し。 其 の 披 剃 并 び に 紫 衣 は、 崇 寧 二 年 の 天 寧 節 を 始 め と す。 如 し 未 だ 童 行 有 ら ざ れ ば、 即 ち 所 差 の 主 管 僧 道 を 仰 い で 手 下 の 童 行 を 保 明 し て 披 剃 せ し め よ。 崇 寧 三 年 以 後 は、 即 ち 此 れ に 依 り 施 行 せ よ。 修 す る 所 の 寺 観 は、 州 城 県 郭 及 び 名 山 福 地 に 拘 わ ら ず、 禁 山 林 并 び に 禁 地 に 係 わ る を 除 く 外、 如 し 官 地 有 れ ば、 有 無 を 以 て 拘 礙 せ ず、 並 て 監 司 に 申 し て 指 射 撥 充 す る を 許 す。 訖 れ ば 奏 せ よ。 応 に 名 額 な き 寺 観 有 れ ば、 増 広 を 以 て 充 つ る に 就 く べ し、 或 は 移 併 す べ し。 並 て 本 州 の 一 面 に 施 行 す る を 許 す。 或 は 旧 く 甲 乙 住 持 の 大 寺 観 に 係 わ る も、 僧 道、 只 だ 三 五 人 有 り て、 以 て 撥 充 す べ き 者 は、 亦 た 仰 い で 尚 書 省 に 申 せ ば、 諸 色 の 人 の 縁 化 を 許 す。 并 て 州 軍 の 擘 画 し て 修 建 し、 即 ち 接 便 搔 擾 す る を 得 ざ れ。 応 に 修 建 の 竹 木 物 料 は、 所 在 の 州 軍 よ り 文 憑 を 給 い 前 に 去 き て 計 置 せ よ。 縁 路 の 収 税 を免ずるを与うべし。 ︵﹃宋会要﹄第一冊、四五八頁︶   本 項 の﹁ 下 の 童 行 を 保 的 4 4 し て 披 剃 せ し め よ ﹂ の 箇 所 は﹃ 宋 会 要・ 礼 五 ﹄ で は﹁ 手 下 の 童 行 を 保 明 4 4 し て 披 剃 せ し め よ ﹂ と なっているが、保的も保明も保証するという意味。   な お 一 〇 月 一 〇 日 の 天 寧 節 は 徽 宗 の 生 誕 日 で あ る。 天 寧 節 に つ い て の 樣 子 は 幽 蘭 居 士 の﹃ 東 京 夢 華 録 ﹄ に 詳 し く 記 述 さ れているので、参照されたい。 ︿徳   護・五十嵐﹀ ︹ 180︺ ︿原文﹀ 大 観 二 年 十 月 三 十 日、 詔、 大 相 国 寺 慧 林 禅 院 住 持 長 老 元 正 坐 化。賜絹三百疋、 銭三百貫、 賜寂照之塔、 看塔人間歳度僧一名。 ︿訓読﹀ 大 観 二 年 十 月 三 十 日、 詔 す、 大 相 国 寺 慧 林 禅 院 の 住 持 長 老 元 正 坐 化 す。 絹 三 百 疋、 銭 三 百 貫 を 賜 わ り、 寂 照 の 塔 を 賜 う。 看塔の人、間歳に僧一名を度すべし。 ︿解説﹀   大 観 二 年︵ 一 一 〇 八 ︶ 十 月 三 〇 日、 大 相 国 寺 の 慧 林 禅 院 の 住 持 元 正 長 老 が 亡 く な っ た。 三 百 疋 の 絹 と 三 百 貫 の 銭 を 賜 わ り、 ま た 寂 照 の 塔 を 賜 わ っ た。 一 年 お き に 看 塔 僧 と し て 一 名 を度すことを許すとの詔勅である。   本 項 と 同 じ 内 容 の 記 述 は 宋 の 周 煇 が 撰 し た﹃ 清 波 雑 志 ﹄ 巻 八にも見られる。 大 観 二 年、 詔 す、 大 相 国 寺 慧 林 禅 院 の 住 持 長 老 元 正 坐 化 す。 並 て 衣 缽 な く、 葬 送 の 用 を 闕 く。 絹 三 百 疋、 銭 三 百 貫 を 賜 わ り、 寂 照 の 塔 を 賜 う。 仍 ち 間 歳 に 一 僧 を 度 す。

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五六 ﹃宋会要﹄道釈部訓注︵九︶ ︵永井︶ 浮 屠 示 寂 す る に、 寸 糸 も 掛 け ざ れ ば、 亦 た 安 ん ぞ 爾 許 の 縑 帛 を 用 い ん や。 時 方 に 道 教 を 崇 び、 道 流 の 敘 位 は 僧 の 上に在りと詔す。 元正は何人にして此の優典に 膺 たるか。 ︵﹃清波雑志校注﹄中華書局、三四五頁︶   慧 林 禅 院 に つ い て は、 ﹃ 仏 祖 歴 代 通 載 ﹄ 巻 一 九 に 次 の よ う な記述がある。 元 豊 三 年、 詔 す、 大 相 国 寺 は 二 禅 を 剏 む。 慧 林 を 東 序 に 闢き、智海を西廡に建つ。 ︵大正蔵四九、 六七八 c   また、 ﹃釈氏稽古略﹄巻四にも次のような記述がある。 中 使 の 梁 従 政 に 詔 す、 汴 京 の 相 国 寺 に 六 十 四 院 を 闢 き、 二 禅 八 律 と 為 す。 元 豊 庚 申 よ り 起 り 壬 戌 の 秋 に 成 る。 東 西 序 を 以 て 慧 林 智 海 二 巨 禅 刹 と 為 す。 駅 し て 詔 す、 杭 州 浄 慈 禅 師 宗 本 は 慧 林 に 住 し、 江 州 廬 山 東 林 禅 師 常 総 は 智 海 に 住 せ よ。 総 は 之 れ を 辞 す る こ と 固 く、 詔 し て 之 れ を 容し、就きて賜いて広慧禅師と号す︿僧宝伝﹀ 。 ︵大正蔵四九、 八七四 c   元 正 は 南 嶽 下 一 三 世 報 本 慧 元 法 嗣 の 永 安 元 正 と 思 わ れ る。 因 み に 報 本 慧 元 は﹃ 五 灯 全 書 ﹄ 巻 三 七 に よ れ ば、 元 祐 六 年 ︵一〇九一︶一一月一六日に坐化している。 宋 哲 宗 の 元 祐 辛 未 十 一 月 十 六 日 に お い て、 陞 座 し 偈 を 説 い て 曰 く、 五 十 五 年 夢 幻 の 身、 東 西 南 北 孰 か 親 し く 為 さ ん。 白 雲 は 青 山 の 外 に 散 尽 し、 万 里 秋 空 片 月 新 た な り。 言い訖りて化す。 ︵続蔵二乙、一三、 四二九 b   ま た 永 安 元 正 に つ い て は﹃ 続 伝 灯 録 ﹄ 巻 二 一 に は 次 の よ う な記述が見られる。 蘇州承天永安伝灯元正禅師、 鄆 州平陰県の人、 姓は鄭氏。 業 を 本 州 太 平 興 国 寺 に 受 け、 蔵 智 を 礼 し て 師 と 為 す。 諸 方に参じ、 晩に蘇州万寿寺に到る。時に元禅師 焉 に居す。 師 を し て 庭 前 柏 樹 の 因 縁 を 看 さ し む る に 因 り て、 心 地 を 発明す。 偈有りて曰く、 趙州の柏樹子、 去く処人知るなし。 甜桃樹を 却して、 山に尋ねて醋梨を摘む。元、 印可し、 挙して此の寺に住せしむ。 ︵大正蔵五一、 六〇八 c   この記事によれば元正は 鄆 州 ︵今の山東省東平県︶ の人で、 俗 姓 は 鄭 氏 で あ っ た。 太 平 興 国 寺 蔵 智 に つ い て 得 度、 そ の 後 諸方を歴参し、 蘇州の万寿寺において報本慧元と相見し、 ﹁庭 前の柏樹子﹂の問答で大悟し万寿寺に住したという。 ︿徳   護・五十嵐﹀ ︹ 181︺ ︿原文﹀ 建炎元年五月一日、 赦、 特旨還俗僧道、 許自陳、 与依旧為僧道。

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五七 ﹃宋会要﹄道釈部訓注︵九︶ ︵永井︶ 令本州出給公拠。 ︿訓読﹀ 建 炎 元 年 五 月 一 日、 赦 す、 還 俗 せ し 僧 道 に 特 旨 し、 自 ら 陳 ぶ る を 許 し、 旧 に 依 り て 僧 道 と 為 る を 与 う。 本 州 を し て 公 拠 を 出し給わる。 ︿解説﹀   こ れ は 靖 康 の 変 の 後、 南 宋 の 基 本 的 施 策 を 示 す た め に、 高 宗 か ら 出 さ れ た 最 初 の 詔 の 一 部 で あ る。 こ の 詔 に よ り 建 炎 大 赦 が な さ れ る が、 本 項 は 種 々 な 理 由 で 還 俗 し て い た 僧 道 に 対 して、僧道に戻ることを許すとした大赦の一つである。   こ の 記 述 と 同 じ 内 容 が 一 一 九 四 年 に 編 纂 さ れ た﹃ 三 朝 北 盟 会編﹄巻一〇一にも、 応 に 還 俗 せ し 僧 道 に 特 旨 し、 自 ら 陳 ぶ る を 許 し、 旧 に 依 り て 僧 道 と 為 す を 与 う。 本 州 を し て 公 拠 を 出 し に 給 わ し む。 ︵﹃三朝北盟会編﹄第七冊、台湾商務印書館、一七丁右︶ とある。   なお ﹃三朝北盟会編﹄ によれば、 この他大赦の条項としては、 ﹁ 二 帝 の 北 に 狩 す る に 随 行 す る 官 吏、 班 直、 諸 軍 及 び 諸 色 人 等、 見 に 家 属 有 れ ば、 並 べ て 旧 に 依 り て 請 給 を 支 破 す。 常 に 切 く 恤 を 存 し、 失 う 所 な か ら し め よ ﹂ か ら﹁ 一、 応 に 祖 宗 以 来、 内 を 赦 し 税 を 常 に す る 寬 恤 の 事 件、 及 び 名 山、 大 川、 歴 代の帝王を祭祀し爵を封ずる等を検会して行わしめよ﹂ まで、 全てで六七の大赦が行われたのである。 ︿徳   護・五十嵐﹀ ︹ 182︺ ︿原文﹀ 紹興二十一年正月十一日、 上、 因還俗僧円覚、 宗杲撰造聖旨、 偈妙喜禅、 皆 菑 祥謗 讟 之語、 誕謾無理、 鼓惑軍民、 此最害事。 宜厳行禁止。 ︿訓読﹀ 紹 興 二 十 一 年 正 月 十 一 日、 上、 還 俗 せ し 僧 円 覚、 宗 杲、 聖 旨 を 撰 造 し、 妙 喜 の 禅 を 偈 う、 皆 な 菑 祥 謗 讟 の 語 に し て、 誕 謾 に し て 理 な く、 軍 民 を 鼓 惑 す、 此 れ 最 も 事 を 害 す る に 因 り、 宜しく禁止を厳行すべし。 ︿解説﹀   紹 興 二 一 年︵ 一 一 五 一 ︶ 正 月 十 一 日、 還 俗 さ せ ら れ た 僧 円 覚 と 大 慧 宗 杲 へ の 世 間 の 反 応 に 対 し て、 こ れ を 諌 め る 聖 旨 が 出 さ れ た。 妙 喜︵ 大 慧 宗 杲 の 号 ︶ が 作 っ た 偈 頌 は、 社 会 に 禍 の き ざ し が あ る こ と 述 べ た り、 朝 廷 へ の 怨 や 悪 口 ば か り を 述 べ て お り、 全 く で た ら め で 道 理 に 適 っ て い な い。 ま た 金 に 対 し て 戦 う よ う 軍 隊 や 人 民 を 扇 動 し 惑 わ す ば か り で あ る。 こ の よ う な 事 柄 は 最 も 社 会 に 害 を 及 ぼ す こ と と な る。 従 っ て 宗 杲

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五八 ﹃宋会要﹄道釈部訓注︵九︶ ︵永井︶ た ち の 言 動 は 厳 し く 禁 止 し な け れ ば な ら な い と の 通 達 で あ る。   本 項 と 同 じ 内 容 の 記 事 が 宋 代 の 熊 克︵ 一 一 三 二 │ 一二〇四︶が撰述した﹃中興小紀﹄の巻三五にも見える。 紹 興 二 十 一 年︵ 歳 は 辛 未 に 在 り ︶ 正 月 癸 未、 ︵ 中 略 ︶ 上、 又 た 曰 く、 還 俗 せ し 僧 円 覚 宗 果 杲 、 聖 者 旨 を 撰 し て 妙 喜 禅 を 偈 う、 皆 な 菑 祥 謗 讟 の 語 に し て、 誕 謾 に し て 礼 な く、 軍 民 を 鼓 惑 す、 此 れ 最 も 事 を 害 す。 宜 し く 之 を 禁 止 す べ し。 ︵﹃中興小紀﹄第二冊、文海出版社、八八九頁︶   大 慧 宗 杲 が 径 山 能 仁 禅 院 に 住 持 し て い た 紹 興 一 一 年 ︵ 一 一 四 一 ︶ 五 月、 金 と の 和 議 に 反 対 し、 主 戦 論 者 の 張 九 成 と 徒 党 を 組 ん だ と し て、 衣 牒 を 奪 わ れ 衡 州︵ 湖 南 省 ︶ に 流 さ れ た。 い わ ゆ る 神 臂 弓 事 件 で あ る。 衡 州 に 流 さ れ た 宗 杲 の も と に は 糧 を つ つ ん で 来 遊 す る も の 跡 を た た ず、 ま た 書 簡 で 道 を 問 う も の が 相 つ ぎ、 宗 杲 は 径 山 に 劣 ら ぬ 充 実 し た 歳 月 を 送っていた。   こ の よ う に、 配 流 先 の 宗 杲 の も と に 多 く の 人 が 参 じ て い る ことに危機感を懐いた宰相秦檜は、 宗杲をさらに遠い梅州 ︵広 東 省 ︶ に 流 す た め、 こ の よ う な 聖 旨 を 出 す に 至 っ た の で あ ろ う。 そ の 結 果、 紹 興 二 〇 年︵ 一 一 五 〇 ︶ 一 〇 月、 宗 杲 は 梅 州 に 転 地 さ せ ら れ た。 こ の こ と に 関 連 す る 記 事 と し て、 ﹃ 仏 祖 綱目﹄巻三八に次のような一文がある。 宗 杲 衡 陽 に 在 り し に、 士 大 夫 数 書 を 通 じ 道 を 問 う。 軸 に当れし者 滋 悦ばず。紹興庚午、梅楊へ遷る。 ︵続蔵二乙、一九、 三九五 a   即 ち、 当 時 の 政 権 中 枢 に お い て は、 士 大 夫 た ち が 宗 杲 と 交 流していることに不快感を懐いていたことがわかる。   ち な み に 石 井 修 道﹁ 大 慧 普 覚 禅 師 年 譜 の 研 究 ﹂︵ 中 ︶︵ ﹃ 駒 澤 大 学 仏 教 学 部 研 究 紀 要 ﹄ 三 八、 一 一 四 頁 ︶ に よ れ ば、 紹 興 二 〇 年、 宗 杲 は 朝 廷 に 当 て 付 け る よ う に、 次 の よ う な 自 虐 的 な自讃を撰し、 梅州に転地することになった事を告げている。 師、 六 十 二 歳。 師、 自 ら 讃 ず。 ﹁ 身 に 維 摩 の 裳 を 著 け、 頭 に 龐 公 の 帽 を 褁 う。 資 質、 柔 和 に 似 て、 心 中、 実 に 躁   暴 なり。口を開けば便ち人を罵り、 青 ・ 白 ・ 皁 を分たず。 編 管 に て 衡 陽 に 在 る は、 口 業 の 報 に 非 ざ る は 莫 し。 永 世 に 放 還 せ ず し て、 方 に 始 め て 天 道 に 合 す。 時 に 趨 く 者 の 為 に 巧 に、 誣   訕 の 語 を 加 う。 ﹂ 憐 を 勢 位 に 取 り て、 是 の 年の六月二十五日を以て、命に准いて、梅州に移る。   なお僧円覚については不明である。 ︿徳   護・五十嵐﹀ ︹ 183︺ ︿原文﹀

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五九 ﹃宋会要﹄道釈部訓注︵九︶ ︵永井︶ 乾 道 元 年 四 月 四 日、 詔、 僧 道 年 六 十 以 上 并 篤 廃 残 疾 之 人、 並 比附民丁放納免丁銭、自乾道元年為始。仍令州県榜諭。 嘉 泰 三 年 拾 壹 月 拾 壹 日、 南 郊 赦 文、 在 法、 僧 道 年 六 十 以 上 及 篤 廃 残 疾 人、 本 身 丁 銭 聴 免。 訪 聞 州 軍 却 将 依 法 合 放 免 人 仍 旧 催納、 深可憐憫。兼近年給降度牒、 披剃至多、 若尽実根括入帳、 従 実 起 発、 於 額 自 無 拖 欠。 可 令 州 軍 今 後 並 仰 照 応 前 項 合 免 丁 銭 條 法 放 免、 却 従 実 根 括 新 披 剃 僧 道、 依 等 則 送 納、 不 得 過 有 多 収。 仍 令 提 刑 司 常 切 覚 察, 毋 致 違 。 ︿ 自 後 明 堂 大 礼 赦 亦 如之。 ﹀ 乾 道 元 年 四 月 四 日、 詔 す、 僧 道 年 六 十 以 上 并 び に 篤 廃 残 疾 の 人、 並 て 民 丁 に 比 附 し 免 丁 銭 を 放 納 す べ し。 乾 道 元 年 よ り 始 まりと為す。仍て州県をして榜して諭らしめよ。 嘉 泰 三 年 拾 壹 月 拾 壹 日、 南 郊 に て 文 を 赦 す、 法 に 在 る に は、 僧 道 年 六 十 以 上 及 び 篤 廃 残 疾 の 人、 本 よ り 身 丁 銭 は 免 る る を 聴 す に、 州 軍 却 て 法 に 依 り て、 合 に 放 免 す べ き 人 を 将 て、 旧 に 仍 り て 催 納 す と 訪 聞 く は、 深 く 憐 憫 す べ し。 兼 て 近 年 度 牒 を 給 降 さ れ、 披 剃 す る も の 至 て 多 し。 若 し 尽 実 し て 根 括 し 入 帳 し て、 実 に 従 り 起 発 せ ば、 額 に 於 い て 自 か ら 拖 欠 す る こ と な し。 州 軍 を し て 今 後 並 て 前 項 に て 合 に 免 丁 銭 の 條 法 に 応 じ て 仰 ぎ 照 ら し て、 放 免 せ し む べ し、 却 て 実 に 従 り 新 た に 披 剃 せ る 僧 道 を 根 括 し、 等 則 に 依 り 送 納 せ し め て、 有 る を 過 ぎ て 多 収 す る こ と を 得 ざ れ。 仍 お 提 刑 司 を し て 常 に 切 に 覚 察 せ し め、 違 を 致 す こ と 毋 か れ。 ︿ 後 ち よ り 明 堂 大 礼 赦、 亦 た 之 の如し。 ﹀ ︿解説﹀   乾 道 元 年︵ 一 一 六 五 ︶ 四 月 四 日 の 詔。 今 年 か ら 六 〇 歳 以 上 の 僧 道 や 病 人 の 僧 道 は、 一 般 の 男 子 と 同 じ よ う に 免 丁 銭 を 納 め な く て も よ い。 州 県 は 世 間 に 対 し て わ か り や す く 知 ら せ る ようにとの詔が出された。   嘉 泰 三 年︵ 一 二 〇 三 ︶ 一 一 月 一 一 日 の 冬 至 に 皇 帝 が 天 を 祭 る 儀 式 を 行 う が、 そ の 際 に、 乾 道 元 年 四 月 四 日 に 出 さ れ た 詔 を 確 認 す る 文 が 出 さ れ た。 そ の 内 容 は、 六 〇 歳 以 上 や 病 気 の 僧 道 は 免 丁 銭 の 賦 課 が 免 除 さ れ る は ず で は あ る が、 州 軍 に 尋 ね る と、 六 〇 歳 以 上 や 病 気 の 僧 道 か ら も 免 丁 銭 を 納 め さ せ て い た こ と が 判 明 し た。 こ れ は 大 変 憐 れ む べ き こ と で あ り、 法 律通り該当者には免丁銭を免除するように。   ま た 近 年、 度 牒 が 給 付 さ れ 披 剃 す る 僧 道 が 多 く な っ て き た の で、 新 し く 僧 道 と な っ た 実 数 を 実 情 に 基 づ い て 徹 底 的 に 調 べ て 記 帳 し、 実 数 に よ っ て 課 税 す れ ば、 歳 入 に 不 足 を 生 じ る こ と は な い は ず で あ る。 そ の 結 果、 州 軍 は 新 た に 披 剃 し た 僧 道 を き ち ん と 管 理 し、 身 分 に 応 じ て 徴 収 す る よ う に し、 余 分 な 徴 収 を し て は な ら な い。 提 刑 司 は 常 に 心 を 砕 い て 州 軍 を 監 察 し、 違 反 が な い よ う に す べ き で あ る と 述 べ て い る。 尽 実 と は 完 全 に 実 情 に 基 づ く、 あ る い は 基 づ い て の 意 で、 根 括 と は

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六〇 ﹃宋会要﹄道釈部訓注︵九︶ ︵永井︶ 徹底して詳しく調らべるの意である。   僧 尼 は 出 世 間 者 と し て、 税 法 上、 徭 役 免 除 の 特 典 を 得 て い た が、 南 宋 時 代 に 至 り、 僧 侶 に も 丁 税 に か わ る 税 銭 が 賦 課 さ れ る よ う に な っ た。 そ れ が 免 丁 銭 で あ る。 ﹃ 宋 会 要 ﹄︵ 巻 一 五 八 ︶ 食 貨 六 六﹁ 身 丁 銭 ﹂ に、 紹 興 一 五 年︵ 一 一 四 五 ︶ 一 月二七日、戸部の免丁銭についての上言に、 甲 乙 住 持 律 院、 并 び に 十 方 教 院、 講 院 僧 の 散 衆 は、 毎 名 五 貫 文 省 を 納 銭 す べ し。 紫 衣 二 字 師 号 は、 毎 名 六 貫 文 省 を納銭すべし ︵只だ紫衣無師号も同じ︶ 。 紫衣四字師号は、 毎 名 八 貫 文 省 を 納 銭 す べ し。 紫 衣 六 字 師 号 は、 毎 名 九 貫 文省を納銭すべし。知事は、 毎名八貫文省を納銭すべし。 住 持 僧 職 法 師 は、 毎 名 一 十 五 貫 文 省 を 納 銭 す べ し。 十 方 禅 院 僧 の 散 衆 は、 毎 名 二 貫 文 省 を 納 銭 す べ し。 紫 衣 二 字 号 は、 毎 名 三 貫 文 省 を 納 銭 す べ し︵ 只 だ 紫 衣 無 師 号 も 同 じ ︶。 紫 衣 四 字 師 号 は、 毎 名 四 貫 文 省 を 納 銭 す べ し。 紫 衣 六 字 師 号 は、 毎 名 六 貫 文 省 を 納 銭 す べ し。 知 事 は、 毎 名 五 貫 文 省 を 納 銭 す べ し。 住 持 長 老 は、 毎 名 一 十 貫 文 省 を 納 銭 す べ し。 宮 観 道 士 の 散 衆 は、 毎 名 二 貫 文 省 を 納 銭 す べ し。 紫 衣 二 字 師 号 は、 毎 名 三 貫 貫 文 省 を 納 銭 す べ し ︵ 只 だ 紫 衣 無 師 号 も 同 じ ︶。 紫 衣 四 字 師 号 は、 毎 名 四 貫 文 省 を 納 銭 す べ し。 紫 衣 六 字 師 号 は、 毎 名 五 貫 文 省 を 納 銭 す べ し。 知 事 は、 毎 名 五 貫 文 省 を 納 銭 す べ し。 知 観 法 師 号 は、 毎 名 八 文 省 を 納 銭 す べ し︵ 道 正 副 等 も 同 じ ︶。 詔 に依る。 ︵﹃宋会要﹄第七冊、六一九四頁︶   とある。この内容をまとめたものが左の表である。 甲乙住持律院 十方教院・講院 十方禅院 宮   観 散衆︵平僧侶・道士︶ 五貫文省 二貫文省 二貫文省 紫衣二字師号 ︵紫衣無師号︶ 六貫文省 三貫文省 三貫文省 紫衣四師号 八貫文省 四貫文省 四貫文省 紫衣六字師号 九貫文省 六貫文省 五貫文省 知事 八貫文省 五貫文省 五貫文省 住持僧職法師 ︵住持長老・知観法師号︶ 一五貫文省 一〇貫文省 八貫文省   金 額 の 単 位﹁ 文 省 ﹂ と は 省 陌 の 意 で、 百 銭 に 満 た な い 銭 をもって百銭として通用するとしたものである。   当 時、 経 済 の 急 速 な 発 展 か ら 銅 銭 の 需 要 が 銅 銭 の 発 行 量 を 上 回 る ペ ー ス で 高 ま っ た た め に、 結 果 的 に 市 中 に 流 通 す る 銅 銭 が 慢 性 的 に 不 足 す る こ と に な っ た。 そ の た め 唐 代 末 期 以 後 に 銅 銭 の 穴 に 紐 を 通 し て 纏 め た 束︵ 陌 ︶ 一 差 し に 一 定 の 枚 数 が あ れ ば、 そ れ を も っ て 百 枚 と 見 な す と い う 短 陌︵ 省 陌 ︶ の 習 慣 が 形 成 さ れ る よ う に な っ た。 五 代 十 国 の 一 つ で あ る 後 梁 で は、 乾 祐 年 間︵ 九 四 八 │ 九 五 〇 ︶ に 七 七 枚 を も っ て 銅 銭 百

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六一 ﹃宋会要﹄道釈部訓注︵九︶ ︵永井︶ 枚 と し て 見 な す こ と を 公 的 に 定 め た。 宋 代 で も 採 用 さ れ、 太 平興国二年 ︵九七七︶ に七七枚で百枚と見なすと決められた。 し た が っ て 五 貫 文 省 と は、 五 貫 文 × 〇 ・ 七 七 =三 貫 八 五 〇 文 となる。   な お﹃ 建 炎 以 来 朝 野 雑 記 ﹄︵ 甲 集 巻 一 五 ︶﹁ 僧 道 免 丁 銭 ﹂ に は 僧 道 士 の 免 丁 銭 は、 紹 興 十 五 年 始 め て 之 れ を 取 る︵ 正 月 癸 酉 ︶。 十 五 千 よ り 二 千 に 至 る、 凡 て 九 等 な り。 大 率 律 院 の 散 僧 は 丁 五 千。 禅 寺 の 僧・ 舍 観 の 道 士、 散 衆 は 丁 二 千。 長 老、 知 観、 知 事、 法 師、 紫 衣 師 号 の 有 る 者 は、 皆 な 次 第 に 増 銭 す。 六 字・ 四 字 の 師 号 あ る 者 は、 又 た 是 れに倍す。歳入の緡銭は約五十万緡。上供に 隷 う。 二 十 四 年、 紫 衣 師 号 を 以 て 售 ら ず。 乃 ち 詔 す、 律 院 の 紫 衣師号の有る者は、 禅刹の禅僧及び宮観の道士の有る者、 丁銭一千三百有奇を輸めるに 視 え銭を輸める。 八月癸巳、 今 に 至 り 以 て 初 め て 免 丁 を 取 る 例 と 為 す。 立 法 の 時 年 六十以上及び病廃残疾者は免ずるを聴す。 後ちに詔して、 七 十 以 上 乃 ち 之 を 免 ず。 然 る に 今、 浙 中 の 諸 大 刹 及 び 都 城 の 道 観、 時 に 多 く の 旨 有 り て、 徭 役 科 敷 を 免 る。 而 し て 州 県 は、 反 し て 其 の 額 を 以 て 民 間 に 於 い て 敷 き、 大 い に人の患いと為る。 ︵﹃建炎以来朝野雑記﹄上、中華書局、一五五三頁︶ と あ り、 免 丁 銭 の 課 税 は 紹 興 一 五 年 一 月 か ら 始 ま っ た こ と が 分 る。 ﹃ 朝 野 雑 記 ﹄ で は 課 税 額 に つ い て 一 五 貫 か ら 二 貫 ま で の 九 段 階 に 分 け る と あ る が、 ﹃ 宋 会 要 ﹄ に よ っ て も、 二 貫、 三 貫、 四 貫、 五 貫、 六 貫、 八 貫、 九 貫、 一 〇 貫、 一 五 貫 の 九 段階となっていることが分る。   志磐の﹃仏祖統紀﹄巻四七の紹興一五年には、 十 五 年。 天 下 僧 道 に 勅 し 始 め て 勅 丁 銭 を 納 め せ し む。 十 千 自 り 一 千 三 百 に 至 る。 凡 て 九 等 な り。 之 を 清 閑 銭 と 謂う。年六十已上及び残疾者は免納を聴す。 ︵大正蔵四九、 四二五 c   また﹃仏祖統紀﹄巻五〇の進納度僧でも、 僧 道 に 勅 し て 始 め て 免 丁 銭 を 納 め せ し む。 之 を 清 閑 銭 と 謂う。 ︵大正蔵四九、 四五三 b とある。   南 宋 で は 一 般 民 衆 は 丁 男 を 対 象 と し た 人 頭 税 で あ る 身 丁 税 の ほ か に 免 役 銭 を 負 担 し な が ら、 さ ら に 義 務 的 な 里 正・ 戸 長 な ど の 役 も 課 せ ら れ た。 一 方、 僧 道 に は 原 則 と し て 税 は 免 除 さ れ て い た が、 財 政 の 迫 に よ り 丁 税 を 免 ず る た め の 免 丁 銭 を課するようになったのである。   身 丁 銭 は 丁 男 を 対 象 と し て 原 則 均 一 賦 課 で あ る が、 免 丁 銭 は 課 税 対 象 と な る 僧 道 に 対 し て、 そ の 身 分・ 地 位 に 応 じ て 差

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六二 ﹃宋会要﹄道釈部訓注︵九︶ ︵永井︶ が付けられている。   僧 道 に 課 せ ら れ た 免 丁 銭 に つ い て、 志 磐 は﹃ 仏 祖 統 紀 ﹄ 巻 四七の紹興一五年の所で、 僧 道 目 し て 丁 夫 に 同 じ う し、 而 も 征 賦 を 出 す を 以 て 之 を 免 が る。 豈 に 独 り 僧 道 の 恥 な ら ん や、 亦 た 国 家 の 二 教 を 尊尚することを知らざるの恥なり。 ︵大正蔵四九、 四二六 a と 述 べ、 僧 道 が 丁 夫 と 同 じ よ う に 税 金 を 払 う こ と の 恥 と、 国 家が僧道から税金を取るという二重の恥を嘆いている。   と こ ろ で 出 世 間 で あ る 僧 道 は、 本 来 な ら ば 免 税 で あ る 筈 な のに、 僧道に免丁銭が課税されたことについて、 塚本善隆﹁宋 の 財 政 難 と 仏 教 ﹂︵ ﹃ 同 氏 著 作 集 ﹄ 五、 大 東 出 版 社、 二 八 頁 ︶ の 中 で、 紹 興 一 二 年 に 度 牒 の 出 売 停 止 に よ る 収 入 減 を こ の 税 銭 で 補 わ ん と し た 面 が あ っ た と 述 べ る。 因 み に 志 磐 の﹃ 仏 祖 統紀﹄巻五四の﹁三教厄運   儒道釈﹂の条には、 高 宗 紹 興 十 二 年、 詹 叔 義 上 表 し て、 度 牒 を 売 る を 住 め ん こ と を 乞 う。 十 五 年、 僧 道 に 勅 し て 免 丁 銭 を 納 め し む。 侍 郎 呉 秉 信 度 牒 を 売 る こ と を 請 う も、 論 じ ら れ 而 し て 出 づ。 ︵大正蔵四九、 四七一 b と あ り、 一 旦 停 止 さ れ た 進 納 度 牒 の 復 活 を 働 き か け る 動 き も あったが、当局は免丁銭を課税する方策をとった。 ︿五十嵐﹀ ︹ 184︺ ︿原文﹀ 開壇受戒 凡童行得度為沙弥者、 毎歳遇誕聖節、 開壇受戒。壇上設十座、 釈 律 僧 首 十 闍 梨、 説 三 百 六 十 戒、 授 訖、 祠 部 給 牒 賜 之。 東 京 於 太 平 興 国 寺 置 壇。 大 中 祥 符 三 年、 賜 名 奉 先 甘 露 戒 壇。 ︿ 後 慈孝建大乗戒壇。 ﹀諸州各置壇、 聴従地便往受。東京四、 ︿青、 鄆 、 徐、 登﹀ 。京西六、 ︿河南、 許、 兗 襄 、、 随、 潁、 郢。 ﹀河北三、 ︿大名、 真定、 倉 滄 。﹀河東五、 ︿并、 潞、 晋、 絳、 汾。 ﹀淮南九、 ︿ 楊 揚 、 廬、 寿、 楚、 泗、 通、 泰、 舒、 蘄 。﹀ 江 南 十 四、 ︿ 江 寧、 宣、 歙、 池、 江、 太 平、 饒、 信、 洪、 撫、 処、 吉、 筠、 袁。 ﹀ 両浙十五、 ︿杭、 蘇、 明、 越、 湖、 閏 潤 、、 常、 秀、 睦、 溫、 台、 衢、 婺 、 処、 江陰。 ﹀荊湖六、 ︿潭、 衡、 永、 郴、 全、 道。 ﹀福建三、 ︿福、泉、漳。 ﹀川陝七。 ︿益、綿、漢、眉、彭、邛、陵。 ﹀ ︿訓読﹀ 開壇受戒 凡 童 行 得 度 し 沙 弥 と 為 ら ん と す る 者 は、 毎 歳 誕 聖 節 に 遇 え ば、 開壇受戒すべし。壇上に十座を設け、 釈律の僧首十闍梨、 三 百 六 十 戒 を 説 き、 授 け 訖 れ ば、 祠 部 は 牒 を 給 し 之 を 賜 う。 東 京 は 太 平 興 国 寺 に 於 い て 壇 を 置 く。 大 中 祥 符 三 年、 名 を 賜

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六三 ﹃宋会要﹄道釈部訓注︵九︶ ︵永井︶ り て 奉 先 甘 露 戒 壇 と す。 ︿ 後 に 慈 孝 に 大 乗 戒 壇 を 建 つ。 ﹀ 諸 州 各 お の 壇 を 置 き、 地 の 便 に 従 い て 往 き て 受 く る を 聴 す。 東 京 四、 ︿青、 鄆 、 徐、 登。 ﹀京西六、 ︿河南、 許、 襄、 随、 潁 、 郢 。﹀ 河北三、 ︿大名、 真定、 滄 。﹀河東五、 ︿并、 潞、 晋、 絳、 汾。 ﹀ 淮南九、 ︿揚、 廬、 寿、 楚、 泗 、 通、 泰、 舒、 蘄 。﹀江南十四、 ︿江 寧、 宣、 歙 、 池、 江、 太 平、 饒、 信、 洪、 撫、 処、 吉、 筠 、 袁。 ﹀両浙十五、 ︿杭、 蘇、 明、 越、 湖、 潤、 常、 秀、 睦、 溫、 台、 衢 、 婺 、 処、 江陰。 ﹀荊湖六、 ︿潭、 衡、 永、 郴 、 全、 道。 ﹀ 福建三、 ︿福、 泉、 漳。 ﹀川陝七、 ︿益、 綿、 漢、 眉、 彭、 邛、 陵。 ﹀ ︿解説﹀   童 行 で 得 度 し 沙 弥 に な っ た 者 は 全 て 毎 年 皇 帝 の 誕 生 日 に 戒 壇 受 戒 を す る。 壇 上 に は 一 〇 座 が 設 け ら れ、 律 僧 の 一 〇 人 の 僧 首 が 沙 弥 に 三 六 〇 戒 を 説 き 授 戒 す る。 ま た 祠 部 は 沙 弥 に 度 牒 を 給 付 す る。 東 京 で は 太 平 興 国 寺 に 戒 壇 が 置 か れ、 大 中 祥 符 三 年︵ 一 〇 一 〇 ︶ に は こ の 戒 壇 は 奉 先 甘 露 戒 壇 と 名 付 け ら れた。後に慈孝寺にも大乗戒壇が設けられた。   な お 開 封 の 太 平 興 国 寺 に つ い て は、 ﹃ 日 本 大 百 科 全 書 ﹄ 一四に次のように記されている。 宋 の 太 宗 が 太 平 興 国 二 年︵ 九 七 七 ︶ に 重 建、 太 祖 の 像 を 安置した。 寺の西方に訳経院 ︵のち伝法院と改む︶ を建て、 イ ン ド よ り 来 朝 し た 天 息 災、 施 護、 法 天 な ど が 訳 経 に 従 事した。神宗の煕寧五年︵一〇七二︶には、 日本の成尋、 頼 縁、 快 宗 ら が 訪 れ、 月 称、 慧 賢、 慧 詢、 定 照 な ど に 謁 している。当時の寺のようすは成尋著 ﹃参天台五台山記﹄ に 詳 し い。 徽 宗 の 宣 和 元 年︵ 一 一 一 九 ︶ に 破 却 さ れ、 そ の 後 の こ と は 不 明。 そ の ほ か に も 全 国 に 同 名 の 寺 が 多 く あ る が、 そ れ は 九 七 八 年 に 勅 し て 天 下 の 無 名 の 寺 に 寺 額 を 下 賜 し、 太 平 興 国 寺 と 称 し た か ら で あ る。 な か で も 有 名 な の は 江 西 省 袁 州、 山 西 省 翼 城 県、 五 台 山 の 太 平 興 国 寺 で あ る。 ま た、 江 蘇 省 鐘 山 の 太 平 興 国 寺 は、 梁 代 の 名 刹 の 開 善 寺 を 九 八 〇 年 に こ の 寺 名 に 改 め た も の で、 明 代 に太祖の孝陵を築くために東方に移し、 霊谷寺と改めた。   ︵﹃日本大百科全書﹄一四、小学館、五二六頁︶   諸 州 に も、 地 元 の 意 向 を 聞 き 入 れ て 各 々 戒 壇 が 置 か れ た。 このことは﹃仏祖統紀﹄巻五三にも見える。 詔 す、 京 師 に 奉 先 甘 露 戒 壇 を 立 つ べ し。 天 下 諸 路 も 皆 な 戒 壇 を 立 つ べ し。 凡 そ 七 十 二 所。 京 師 に 別 に 大 乗 戒 壇 を 立つべし。 ︵大正蔵四九、 四六三 a   なお戒壇が設置された七二州を纏めると次の通りである。 東京道には四ヶ所︿青州、 鄆 州、徐州、登州﹀ 。 京西路には六ヶ所︿河南府、 許州、 襄州、 随州、 潁州、 郢州﹀ 。 河北路には三ヶ所︿大名府、真定府、滄州﹀ 。 河東路には五ヶ所︿并州、潞州、晋州、絳州、汾州﹀ 。

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六四 ﹃宋会要﹄道釈部訓注︵九︶ ︵永井︶ 淮南東西二路には九ヶ所︿揚州、 廬州、 寿州、 楚州、 泗州、 通州、 泰州、舒州、 蘄 州﹀ 。 江南東西路には十ヶ四所︿江寧府、 宣州、 歙州、 池州、 江州、 太平州、 饒州、 信州、 洪州、 撫州、 処州、 吉州、 筠州、 袁州﹀ 。 両浙路には十五ヶ所︿杭州府、 蘇州、 明州、 越州、 湖州、 潤州、 常州、秀州、睦州、溫州、台州、衢州、 婺 州、処州、江陰﹀ 。 荊湖路には六ヶ所︿潭州、衡州、永州、郴州、全州、道州﹀ 。 福建路には三ヶ所︿福州、泉州、漳州﹀ 。 川陝には七ヶ所︿益州、 綿州、 漢州、 眉州、 彭州、 邛 州、 陵州﹀ 。   こ の よ う に 七 二 州 に 各 々 戒 壇 を 設 置 さ れ る こ と に な っ た。 例 え ば 明 代 に 釈 元 賢 に よ っ て 著 さ れ た﹃ 泉 州 開 元 寺 志 ﹄ に よ れば、 甘 露 戒 壇 は 大 殿 の 後 に 在 り。 先 是 れ 唐 の 時、 其 の 地 常 に 甘 露 降 り、 僧 行 昭 因 み に 甘 露 井 を 浚 す。 宋 天 禧 三 年、 朝 例普度す。僧始めて戒壇を築す。 ︵﹃中国佛寺誌叢刊﹄一〇六、江蘇広陵古籍刻印社、       一七│一八頁︶ と あ り、 泉 州 開 元 寺 に 甘 露 戒 壇 が 設 置 さ れ て い た こ と が わ か る。 こ の 他、 潭 州 の 太 平 興 国 寺 や 杭 州 の 昭 慶 寺 に も 寺 志 等 か ら 戒 壇 が 置 か れ て い た こ と は 確 か め ら れ た が、 甘 露 戒 壇 で あ っ た か は、 こ の 他 の 州 に お け る 戒 壇 が ど こ の 寺 院 に 建 て ら れたかは、未詳である。後考を俟ちたい。 ︿五十嵐﹀ ︹ 185︺ ︿原文﹀ 太 祖 開 宝 五 年 二 月 詔 曰、 男 女 有 別、 著 在 礼 経。 僧 尼 無 間、 実 紊教法。 自今尼有合度者、 只許於本寺起壇受戒、 令尼大徳主之。 其尼院公院公事、 大者送所在長吏鞫断、 小者委逐寺三綱区分。 無得与僧司更相統摂。如違、重寘其罪。 ︿訓読﹀ 太 祖 開 宝 五 年 二 月 詔 し て 曰 く、 男 女 の 別 有 る は 著 か な る こ と 礼 経 に 在 り。 僧 尼 に 間 な け れ ば、 実 に 教 法 を 紊 す。 今 よ り 尼 の 合 に 度 す べ き 者 あ ら ば、 只 だ 本 寺 に 於 て 壇 を 起 し 受 戒 す る を 許 し、 尼 の 大 徳 を し て 之 を 主 ど ら し む。 其 の 尼 院 は 公 院 公 事 な れ ば、 大 な る も の は 所 在 の 長 吏 に 送 り て 鞫 断 し、 小 な る も の は 逐 寺 三 綱 に 委 ね て 区 分 せ よ。 僧 司 と と も に 更 に 相 い 統 摂 す る こ と 得 る こ と な か れ。 如 し 違 わ ば、 重 く 其 の 罪 を 寘 く べし。 ︿解説﹀   太 祖 開 宝 五 年︵ 九 七 二 ︶ 年 の 詔。 ﹃ 儀 礼 ﹄ に は﹁ 男 女 有 別 ﹂ と さ れ て お り、 僧 と 尼 僧 の 間 に お い て も 区 別 が な け れ ば、 教 法 を 乱 し て し ま う こ と に な る。 こ れ よ り 尼 僧 に な ろ う と す る 者 は、 自 分 の 寺 院 の 尼 院 で の み 壇 を 起 し 受 戒 し な け れ ば な ら

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六五 ﹃宋会要﹄道釈部訓注︵九︶ ︵永井︶ な い。 な お 受 戒 の 司 会 は 尼 僧 の 大 徳 に 司 ら せ た。 尼 院 は 公 に 認 め ら れ た 院 で あ り、 ︵ 受 戒 は ︶ 公 に 認 め ら れ た 行 事 な の で、 大 き な 寺 院 で は 地 元 の 役 人 の と こ ろ で 正 し く 行 わ れ た か 裁 断 し、 小 さ な 寺 院 で は そ れ ぞ れ の 寺 の 三 綱 に 委 ね て 判 断 す る こ と に な っ た。 僧 録 司 と 協 力 し て 僧 と 尼 が 一 緒 に 受 戒 す る こ と が な い よ う に し な け れ ば な ら な い。 違 反 す る 者 は 重 い 罪 を 科 すことになる。   こ の 詔 勅 は、 ﹃ 儀 礼 ﹄ で 男 女 が 別 で な け れ ば な ら な い と 定 め て い る こ と に 基 づ き、 僧 と 尼 僧 が 同 じ 戒 壇 で 受 戒 し て い る こ と を 、 太 祖︵ 趙 匡 胤 ︶ が 改 め た と い う 内 容 で あ る。 こ の 記 事については﹃続資治通鑑長編﹄と﹃燕翼詒謀録﹄ 、 及び﹃仏 祖統紀﹄によって傍証できる。   まず﹃続資治通鑑長編﹄巻一三には、 己 夘、 僧 尼 を し て 各 お の 相 い 統 摂 す る こ と な か ら し め、 当に受戒する者は各おの本寺に於いて壇を置くべし。 とある。 ︵﹃続資治通鑑長編﹄第二冊、中華書局本、二七九頁︶   次に﹃燕翼詒謀録﹄巻二の﹁尼不得於僧寺受戒﹂には、 僧 寺 戒 壇 に て 尼 の 受 戒 其 の 中 に 混 淆 せ り、 因 り て 以 て 奸 と 為 す。 太 祖 皇 帝 尤 も 之 を 悪 む、 開 宝 五 年 二 月 丁 丑、 詔 し て 曰 く、 僧 尼 に 間 な け れ ば、 実 に 教 法 を 紊 す、 応 に 尼 の 合 に 度 す べ き 者 は、 只 だ 本 寺 に 於 て の み 壇 を 起 し 受 戒 す る を 許 し、 尼 の 大 徳 を し て 之 を 主 ど ら し め よ、 如 し 違 わ ば 重 く 其 の 罪 を 置 く べ し。 人 の 告 ぐ る を 許 す。 則 ち 是 れ 尼 の 受 戒、 戒 壇 に 入 る を 須 い ず、 各 お の 其 の 本 寺 に 就 かしむ。近世の僧、 戒壇中、 公然と新尼を招誘し受戒す、 其 れ 至 ら ざ る は、 反 っ て 誣 る に 違 法 を 以 て す。 尼 亦 た 法 令 を 知 ら ず も 本 よ り 僧 を 禁 ず る な り、 亦 た 信 ず れ ば 以 て 然りと為す。官司は宜しく申明し之を禁止すべし。 ︵中華書局本、二〇頁︶ とある。   さらに﹃仏祖統紀﹄巻四三では、 詔 し て 曰 く、 僧 尼 に 間 な け れ ば 実 に 教 法 を 紊 す。 今 よ り は 尼 寺 に 於 て 壇 を 置 き 受 戒 し、 尼 の 大 徳 を し て 主 ど ら し めよ。 ︵大正蔵四九、 三九六 b   な お、 ﹃ 礼 経 ﹄ は 四 書 五 経 の 内 の 一 つ で あ る﹃ 儀 礼 ﹄ を 指 す 場 合 が 多 い。 ﹃ 儀 礼 ﹄ は 士 冠 礼 や 士 昬 礼 な ど 一 七 篇 が あ り、 士 の 階 級 の 成 人 式 や 結 婚 の 礼 な ど の 儀 式 が 詳 し く 説 か れ、 漢 代 以 後 の 風 俗・ 慣 行 を も と に 纏 め ら れ た、 き わ め て 形 式 化 さ れた行礼の記述である。このような行礼の法を述べた ﹃儀礼﹄ の 解 説 を 中 心 に 古 代 中 国 人 の 人 生 観 や 世 界 観 に つ い て 記 述 し たものとして ﹃礼記﹄ がある。 ﹃礼記﹄ には ﹁郊特牲﹂ ﹁大伝﹂ ﹁ 昬 義 ﹂ の 三 篇 に﹁ 男 女 有 別 ﹂ が 示 さ れ て い る。 こ の 他、 ﹁ 曲

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六六 ﹃宋会要﹄道釈部訓注︵九︶ ︵永井︶ 礼 ﹂ 上 篇 を 始 め 多 く の 篇 で、 男 女 の 間 に け じ め を つ け る こ と が し ば し ば 説 か れ て い る。 男 女 に 別 あ る こ と は、 中 国 社 会 の 人 間 関 係 を 律 す る 五 倫 の 一 つ に 数 え ら れ て い る。 五 倫 に つ い ては、 ﹃孟子﹄ の ﹁滕文公﹂ 上篇に ﹁教うるに人倫をもってし、 父子に親あり、 君臣に義あり、 夫婦に別あり、 長幼に序あり、 朋友に信あらしむ﹂とある。   尼院は尼寺のことである。公院という表現は珍しいが、 ﹁其 尼 院 公 院 ﹂ と あ る こ と か ら 国 が 運 営 し て い る 官 寺 で あ る と 考 え ら れ る。 そ の た め、 そ の 寺 院 で の 決 定 は 公 の 決 定 で あ る か ら 公 事 と さ れ、 大 き な 寺 院 で は 地 方 の 役 人 が 裁 断 し、 小 さ な 寺 院 で は 三 綱 が 判 断 す る こ と が 規 定 さ れ て い る。 三 綱 と は 上 座・ 寺 主・ 維 那 の 三 役 職 で あ り、 い ず れ も 寺 院 の 運 営 に 関 わ る役職である。   僧司とは僧録司のことである。 ﹃アジア歴史事典﹄ によれば、 中 国、 仏 教 統 制 の た め の 役 所。 僧 録 司 は 後 秦 よ り あ っ た が、 唐 代 に は 祠 部 の 下 に 天 下 の 僧 尼 を 統 領 し、 宋 代 に は 左 右 街 僧 録 司 が 置 か れ て、 鴻 臚 寺 の 管 掌 の も と に 僧 尼 の 帳籍および僧官の補授をつかさどった。 ︵﹃アジア歴史事典﹄第五巻、平凡社、三七四頁︶ とある。ちなみに鴻臚寺とは﹃中国仏教大辞典﹄によれば、 北 斉 が 大 鴻 臚 を 改 め、 朝 貢・ 外 交 使 節 な ど の 外 国 に 関 す る 事 項、 お よ び 国 家 的 な 祭 祀 を つ か さ ど る 役 所 と し て 置 いたもの。 ︵中略︶ 唐代には、 初めは僧尼の統制もおこなっ た。 し か し、 延 載 元 年︵ 六 九 四 ︶ 僧 尼 は 祠 部 の 所 轄 に 移 さ れ、 次 い で 開 元 二 四 年︵ 七 三 六 ︶ 再 び 鴻 臚 寺 の 管 轄 に 変わり、 翌年また祠部の管轄下に入り、 天宝二年 ︵七四三︶ 正 式 に 祠 部 の 所 轄 と な っ た。 だ が 功 徳 使 の 設 置 と そ の 勢 力 の 伸 長 に 伴 っ て、 憲 宗 の 元 和 二 年︵ 八 〇 七 ︶ に は、 僧 尼の管轄権は功徳使の手に移った。 ︵﹃中国仏教大辞典﹄東京堂出版、一〇六頁︶ とある。   と こ ろ で 賛 寧 が 撰 し た﹃ 大 宋 僧 史 略 ﹄ 巻 一 の﹁ 尼 得 戒 由 ﹂ に は、 尼 僧 が 僧 の 寺 で 受 戒 で き な く な っ た こ と に 関 し て、 次 のように示されている。 愛 道 の 初 縁、 豈 に 容 易 為 ら ん、 阿 潘、 俗 を 出 る も 又 た 実 に 希 奇 な り。 始 め 徒 三 帰 を 受 く。 且 つ 未 だ 二 衆 を 全 う せ ず。 五 運 図 を 按 ず る に 云 く、 漢 の 永 平 丁 卯 よ り、 宋 の 元 嘉 甲 戌︵ 四 三 四 ︶ の 中 間 に 洎 る ま で、 相 い 去 る こ と 三 百 六 十 七 年 に し て、 尼、 方 め 戒 を 具 す。 又 た 薩 婆 多 師 資 伝 に 云 く、 宋 の 元 嘉 十 一 年 春、 師 子 国 の 尼 の 鉄 索 羅 等 十 人、 建 康 南 林 寺 の 壇 上 に 於 い て、 景 福 寺 の 尼 の 慧 果 浄 音 等 二 衆 の 為 に 受 戒 法 事 に 中 る。 十 二 日 で 三 百 余 人 を 度 す。 此 に 方 め て 二 衆 に 於 い て 尼 受 戒 す。 慧 果 を 始 め と 為 す な り。 知 阿 潘 等 は 但 だ 三 帰 を 受 く。 又 た 晋 の 咸 康 中、

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六七 ﹃宋会要﹄道釈部訓注︵九︶ ︵永井︶ 尼 の 浄 撿 一 衆 の 辺 に 於 い て 得 戒 す。 此 れ 亦 た 未 だ 全 か ら ざ る な り。 建 武 中 に 及 び、 江 北 の 諸 尼 乃 ち 僧 寺 に 往 き て 受 戒 す も、 累 朝 輟 め ず。 近 く 太 祖 の 勅 を 以 て、 尼 の 僧 中 に 往 き て 受 戒 す る を 許 さ ず。 是 れ よ り 尼 還 た 一 衆 に 於 い て本法を得るや。 而して已に戒品終に円かならず。 今聖、 英 達 明 断 な れ ば、 護 法 の 士、 宜 し く 奏 し て 旧 行 の 免 法 に 仍ることを乞い、之を滅すること遄速ならんや。 ︵大正蔵五四、二三八 b   こ れ に よ れ ば、 太 祖 の 勅 で 尼 僧 が 僧 の 寺 で 受 戒 で き な く な っ た こ と に よ り、 尼 僧 の み で 受 戒 を 行 う こ と は、 戒 品 が 不 十 分 で 不 備 と な り、 仏 法 の 衰 退 に つ な が る、 と 律 僧 賛 寧 は 嘆 いているのである。 中国の礼の思想にもとづいた太祖の勅と、 仏 法 思 想 に も と づ い た 賛 寧 の 考 え 方 と の 対 立 が 垣 間 見 え る と ころである。 ︿本間・五十嵐﹀ ︹ 186︺ ︿原文﹀ 僧徒本教不許習他義。自今無得習天文、地理、陰陽之学。 ︿訓読﹀ 僧 徒 は 教 を 本 と し 他 義 を 習 う こ と を 許 さ ず。 今 よ り 天 文、 地 理、陰陽の学を習うを得ることなかれ。 ︿解説﹀   僧 侶 は 仏 の 教 え を 学 び の 本 と し、 今 よ り 天 文、 地 理、 陰 陽 の 学 を 習 う こ と を 禁 ず る、 僧 侶 へ の 禁 止 事 項 に つ い て の 詔 勅 で あ る。 こ の よ う な 詔 の 発 布 は、 当 時 の 仏 教 界 の 実 態 を 知 ら しめる。ちなみに﹃遺教経﹄にも、 浄 戒 を 持 つ 者 は 、 販 売 貿 易 し 、 田 宅 を 安 置 し 、 人 民 ・ 奴 婢 ・ 畜 生 を 畜 養 す る こ と を 得 ざ れ 。 一 切 の 田 植 及 び 諸 の 財 宝 、 皆 当 さ に 遠 離 す る こ と 火 坑 を 避 く る が 如 く す べ し 。 草 木 を 斬 伐 し 、 土 を 懇 し 、 地 を 掘 り 、 湯 薬 を 合 和 し 、 吉 凶 を 占 相 し、 星 宿 を 仰 観 し、 盈 虚 を 推 歩 し、 暦 数 算 計 す る こ と を 得 ざ れ。 皆 応 ぜ ざ る 所 な り。 身 を 節 し、 時 に 食して、 清浄に自活せよ。世事に参与し、 使命を通致し、 呪 術 し、 仙 薬 し、 好 み を 貴 人 に 結 び、 親 厚 媟 慢 す る こ と 得 ざ れ。 皆 作 す べ か ら ず。 当 さ に 自 ら 端 心 正 念 し て 度 を 求 む べ し。 瑕 疵 を 包 蔵 し、 異 を 顕 し、 衆 を 惑 は す こ と を 得 ざ れ。 四 供 養 に 於 て、 量 を 知 り、 足 る こ と を 知 り、 趣 か に 供 事 を 得 て 蓄 積 す べ か ら ず。 此 に 則 ち 略 し て 持 戒 の 相を説く。 ︵大正蔵一二、 一一一〇 c と あ る。 ま た、 道 僧 格 を 底 本 と し て 成 立 し て い る﹃ 養 老 僧 尼 令 ﹄ の 第 一 条 を も と に、 諸 戸 立 雄 氏 が 道 僧 格 を 復 旧 し た﹁ 観 玄象条﹂には、

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六八 ﹃宋会要﹄道釈部訓注︵九︶ ︵永井︶ 諸 も ろ の 道 士 女 冠 僧 尼、 上 に 玄 象 を 観、 仮 わ っ て 災 祥 を 説 き、 語、 国 家 に 及 び 百 姓 を 妖 惑 し、 幷 び に 兵 書 を 習 読 す る を 犯 し、 殺 人 奸 盗、 及 び 聖 道 を 得 る と 詐 称 し て、 獄 成 り し 者 は、 赦 に 会 う と 雖 も、 猶 お 俗 に 還 す べ し。 並 び に法律に依りて官司に付して罪を科すべし。 と あ っ た と い う︵ ﹃ 中 国 仏 教 制 度 史 の 研 究 ﹄ 平 河 出 版 社、 二七頁︶ 。 ︿本間・五十嵐﹀ ︹ 187︺ ︿原文﹀ 太 宗 太 平 興 国 八 年 八 月、 詔、 自 今 後 諸 処 申 請 祠 部 戒 牒、 当 職 官交付本処進奏知後官訖、 具限以聞。 知後官等獲時、 如法封角、 逓 赴 本 処 訖、 具 状 申 報。 兼 下 諸 路 転 運 司 及 本 属 転 運 司 州 府 軍 監遍行、 逐処委長吏即時勾集給付訖、 分析申奏。先是、 州市吏、 為 募 人 以 緡 銭 市 取、 齎 以 至 外 郡 売︵ 焉 ︶、 得 善 価、 即 付 与 之、 故命条約。 ︿訓読﹀ 太 宗 太 平 興 国 八 年 八 月、 詔 す、 今 よ り 後、 諸 処 に て 申 請 せ る 祠部戒牒、 当職官は本処にて交付す。知後官に進奏し訖らば、 限 り を 具 し て 以 聞 せ よ。 知 後 官 等 獲 し 時 は、 法 の 如 く 角 を 封 じ、 逓 い に 本 処 に 赴 き 訖 ら ば、 状 を 具 し て 申 報 せ よ。 兼 ね て 諸 路 の 転 運 司 及 び 本 属 の 転 運 司 に 下 し、 州・ 府・ 軍 監 に 遍 く 行わしめ、 逐処にて長吏に委ねて即時に勾集し給付し訖らば、 分 析 し て 申 奏 せ よ。 先 に 是 れ、 州 の 市 吏 は、 人 に 募 る に 緡 銭 を 以 て 市 取 し、 齎 し 以 て 外 郡 に 至 り 焉 を 売 り、 善 価 を 得 ば、 即ち之を付与す。為に故に命じて条約す。 ︿解説﹀   太宗の太平興国八年 ︵九八三︶ 八月の詔。諸処で申請のあっ た 祠 部 戒 牒 は、 担 当 の 役 人 が 申 請 の あ っ た 場 所︵ 本 処 ︶ で 交 付 し、 知 後 官 に 進 奏 し て か ら、 期 限 を 限 っ て そ の 分 を 天 子 に も 報 告 し な け れ ば な ら な い。 知 後 官 等 が 報 告 を 受 け た 際 は、 法 律 で 規 定 さ れ て い る よ う に 厳 封 し て、 申 請 が あ っ た 場 所 に 順 次 送 り、 送 り 終 て か ら 書 状 を 添 え て 報 告 し な け れ ば な ら な い。 同時に諸路の転運司と本属の転運司に命じて、 州監、 府監、 軍 監 は み な そ れ ぞ れ の 場 所 で 同 様 の こ と を お こ な わ せ、 そ れ ぞ れ の と こ ろ で 長 吏 に 委 ね て す ぐ に 申 請 し た 本 人 を 集 め て 給 付 し、 給 付 が 終 わ っ た ら 給 付 し た 内 訳 を 付 け て 報 告 し な け れ ばならない。   こ の よ う な 詔 を 出 す の は、 次 の よ う な 事 例 が あ っ た か ら で あ る。 州 の 官 吏 が 人 を 集 め て 緡 銭 で 戒 牒 を 買 い 取 り、 外 部 に 赴 い て そ れ を 高 い 値 段 で 買 う 人 に 売 り さ ば く と い う 不 正 行 為 が お こ な わ れ て い る。 そ れ 故 こ れ を 禁 じ る た め こ の よ う な 詔 を下すのである。

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六九 ﹃宋会要﹄道釈部訓注︵九︶ ︵永井︶   な お、 祠 部 は 尚 書 礼 部 の も と に あ り、 祠 祭、 天 文、 僧 道 の 籍 帳、 聖 節 の 得 度、 受 戒、 紫 衣 師 号 の 下 賜、 度 牒 の 紛 失 や 還 俗 死 亡 に よ る 度 牒 の 回 収 な ど、 仏 道 の 国 家 管 理 が 進 ん だ 宋 朝 にあって様々な職務に当たった。     ま た 本 文 中 の 知 後 官 と は 公 吏 の 一 つ で、 地 方 の 軍、 監、 場 務、 転 運 司 か ら 京 師 に 派 遣 さ れ、 各 お の 進 奏 院 に 置 か れ て い た。 職 務 は 進 奏 官 と 同 じ だ が 地 位 は 進 奏 官 に 比 べ 一 等 低 か っ た。   小 川 貫 弌﹁ 宋 代 の 受 戒 制 と 六 念・ 戒 牒 ﹂︵ ﹃ 龍 谷 大 学 論 集 ﹄ 三 八 五 号、 五 七 頁 ︶ に よ れ ば、 ﹃ 宋 会 要 ﹄ 第 六 七 冊 の 職 官 祠 部 の 条 に、 ﹁ 祠 部 が 牒 を 給 す ﹂ と あ る こ と か ら、 本 項 と 併 せ て祠部が戒牒を給付していたことが確認できるという。   ま た﹁ 宋 代 の 受 戒 制 と 六 念 ・ 戒 牒 ﹂ に よ れ ば 、 祠 部 牒 を 給 す る 際 に は、 一 通 に つ き 百 銭 を 僧 尼 か ら 有 司 に 納 め さ せ て い た。 だ が 太 平 興 国 二 年︵ 九 七 七 ︶、 工 部 郎 中 候 陟 は こ の 点 を 止 め る よ う に 上 奏 し た の で あ る。 祠 部 牒 給 付 の 方 法 と し て、 こ れ ま で 年 々 諸 州 か ら 僧 尼 の 籍 帳 を 祠 部 に 進 上 し て い る の で、 祠 部 牒 下 付 に つ い て も 諸 州 か ら 親 し く こ れ を 給 付 す る こ とにして、百銭の手数料をとらないことにしたのである。   し か し そ の 結 果、 諸 州 の 官 吏 が 人 を 集 め て 緡 銭 で そ れ を 買 い 取 り、 外 郡 に お い て も う け が あ れ ば こ れ を 転 売 す る な ど の 不 正 行 為 を 行 う よ う に な っ て し ま っ た。 本 項 は そ れ を 禁 ず る 内容である。   な お﹃ 宋 会 要 ﹄ の 職 官 一 三 祠 部 の 条 に も 本 稿 と 同 様 な 内 容 の箇所がある。 太 宗 の 太 平 興 国 八 年 八 月、 詔 し て 曰 く、 先 に 是 れ 祠 部 の 給 す る 僧 尼 牒 は 並 べ て 諸 州 の 長 吏 に 伝 送 し て 親 ら 給 せ よ。 如 し 吏 が 縁 を 聞 く は 奸 と 為 す。 人 に 募 る に 緡 銭 を 以 て 市 取 し、 齎 し 以 て 外 郡 に 至 り 焉 を 売 り、 善 価 を 得 ば 即 ち 之 を 付 与 す。 今 よ り 所 在 は 宜 し く 前 詔 を 奉 行 す べ し。 違う者は重く其の罪を致す。 ︵﹃宋会要﹄第三冊、二六五八頁︶ ︿本間・五十嵐﹀ ︹ 188︺ ︿原文﹀ 真 宗 大 中 祥 符 元 年 十 月、 詔、 祠 部 戒 牒 並 破 官 物 書 写、 旧 納 官 銭、悉除之。 ︿訓読﹀ 真 宗 大 中 祥 符 元 年 十 月、 詔 す、 祠 部 戒 牒 並 び に 官 物、 書 写 を 破せしは、 旧くは官銭を納めせしむるも、 悉く之を除くべし。 ︿解説﹀   理 解 し に く い 一 文 で あ る が、 ﹃ 続 資 治 通 鑑 長 編 ﹄ 巻 七 〇 に 類似した内容の記述が見られ、理解の一助となろう。

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七〇 ﹃宋会要﹄道釈部訓注︵九︶ ︵永井︶ 詔 す、 選 人 籤 符 並 び に 官 物、 書 写、 給 付 を 破 せ し は、 旧 例には官銭を納めしむるも、特に之を免ず。 ︵﹃続資治通鑑長編﹄巻七〇、中華書局本、第六冊、       一五七四頁︶   こ の 記 事 と 本 項 記 載 の 内 容 を 合 わ せ て 考 え る と、 ﹃ 宋 会 要 ﹄ 本 文 の 記 事 は、 次 の よ う に 解 釈 で き る。 真 宗 の 大 中 祥 符 元 年 ︵一〇〇八︶一〇月の詔。祠部戒牒の給付、 及び国家財産︵官 物 ︶ や 絵 画 等︵ 書 写 ︶ を 損 害 し て し ま っ た 場 合、 通 例 で は 貨 幣︵官銭︶を納めさせているが、 特別にこの納入を免除する。   ﹃ 宋 会 要 ﹄ と﹃ 続 資 治 通 鑑 長 編 ﹄ の 記 事 を 比 較 す る と、 ﹁ 祠 部 戒 牒 ﹂ と﹁ 選 人 籤 符 ﹂ に 違 い が あ り、 合 わ せ て﹃ 続 資 治 通 鑑 長 編 ﹄ で は﹁ 給 付 ﹂ が 付 加 さ れ て い る。 ﹁ 給 付 ﹂ と は 国 家 より官吏に支給されたものと理解できるが、 ﹁祠部戒牒﹂ と﹁選 人 籤 符 ﹂ の 違 い に つ い て は 傍 証 が な い た め ど ち ら が 正 し い の かわからない。これについて、後考を俟ちたい。   大 中 祥 符 元 年 一 〇 月 と は、 真 宗 が 天 書 降 臨 の 後 に 泰 山 封 禅 を 行 っ た 時 期 で あ り︵ 本 稿︵ 五 ︶︹ 76 を 参 照 ︶、 そ れ に 合 わ せ て 大 赦 や 俸 禄・ 官 品 の 特 進 が 行 わ れ て お り︵ ﹃ 宋 史 ﹄ 巻 七 ﹁本紀第七 ・ 真宗﹂ ︹中華書局本、 第一冊、 一三八頁︺を参照︶ 、 こ の 詔 勅 も 泰 山 封 禅 を 祝 う た め の 一 環 の 詔 勅 の 一 つ と し て 発 せられたものだと考えうる。 ︿本間・五十嵐﹀ ︹ 189︺ ︿原文﹀ 二 年 七 月、 賜 昇 州 崇 聖 寺 戒 壇、 名 曰 甘 露 戒 壇。 是 州 僧 徳 明 年 八 十、 習 律、 為 臨 壇 大 徳 五 十 年、 長 講 経 論、 江 左 僧 衆 皆 其 受 戒也。所習律蔵、 旧百三十巻、 徳明刪補為十三巻、 毎為人講説、 三年一周。真宗召至屢対便殿、求賜壇名故也。 ︿訓読﹀ 二 年 七 月、 昇 州 崇 聖 寺 の 戒 壇 に 賜 わ り て、 名 づ け て 甘 露 戒 壇 と 曰 う。 是 の 州 の 僧 徳 明、 年 八 十 な る も、 律 を 習 い、 臨 壇 の 大 徳 と 為 り て 五 十 年、 長 く 経 論 を 講 じ、 江 左 の 僧 衆 皆 な 其 の 戒 を 受 く。 習 う 所 の 律 蔵 は、 旧 百 三 十 巻 な る も、 徳 明、 刪 補 し て 十 三 巻 と 為 す。 毎 に 人 の 為 に 講 説 し、 三 年 し て 一 周 す。 真 宗 召 し て 至 ら し め、 屢 し ば 便 殿 に て 対 す。 求 む る に 壇 名 を 賜る故なり。 ︿解説﹀   大 中 祥 符 二 年︵ 一 〇 〇 九 ︶ 七 月 に 昇 州 崇 聖 寺 の 戒 壇 に 甘 露 戒壇という名を賜った。これは﹃仏祖統紀﹄巻五三で、 真宗、昇州崇勝寺に賜いて甘露戒壇と名づく。 ︵大正蔵四九、 四六三 a に該当するかもしれない。   昇 州 の 僧 で あ る 徳 明 は 八 〇 歳 で、 律 学 を 修 め て 臨 壇 大 徳 と

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七一 ﹃宋会要﹄道釈部訓注︵九︶ ︵永井︶ な り 五 〇 年 も の 間 経 論 を 講 じ、 江 左 の 僧 衆 は み な そ の 戒 を 受 け た。 徳 明 が 習 い 修 め た 律 蔵 は も と も と 一 三 〇 巻 あ っ た が、 そ れ を 編 集 し て 一 三 巻 と し、 常 に 人 の 為 に 講 説 し 三 年 で 一 回 り し た。 真 宗 は 徳 明 を 召 し て し ば し ば 別 殿 に て 対 応 し、 そ の 求 め に よ り 崇 聖 寺 戒 壇 に 甘 露 戒 壇 の 名 を 賜 っ た。 昇 州 は 今 の 南京に当たる。   僧徳明については﹃補続高僧伝﹄巻一七に、 円 覚 律 師 徳 明 は 金 陵 能 仁 寺 に 住 す。 太 宗 の 召 見 せ る に 際 遇 し、 紫 衣 并 び に 御 容 及 び 羅 漢 像 を 賜 い 以 て 帰 す。 律 声 江 の 以 南 に 振 い、 求 法 の 人、 之 に 望 み て 帰 す。 真 宗 位 を 嗣 ぐ に、 復 た 贈 る に 詩 章 を 以 て す。 精 勤 に し て 律 を 演 じ 真風に達す、釈子南禅道同じこと少なしの句有り。 ︵続蔵二乙、七、 一四四 b とある。   こ れ に よ る と、 徳 明 は 金 陵 の 能 仁 寺 に 住 し て い た。 律 に 通 じ て い て、 そ の 名 声 は 江 南 に 及 ん で い た。 太 宗 に 謁 見 し た 際 に 紫 衣・ 御 影・ 羅 漢 像 を 賜 っ た。 ﹃ 至 大 金 陵 新 志 ﹄ 巻 一 一 下 に よ れ ば、 真 宗 が 位 を 嗣 ぐ と、 徳 明 は 真 宗 か ら、 ﹁ 精 勤 に し て 律 を 演 じ 真 風 に 達 す、 釈 子 南 禅 道 同 じ こ と 少 な し、 奥 旨 は 筌 蹄 に し て 仏 理 を 悟 り、 慧 灯 は 九 円 中 に 広 布 す ﹂ と い う 詩 を 賜 っ た。 そ の 詩 の 全 文 は、 能 仁 寺 の 中 に 真 筆 と し て 所 蔵 さ れ て い る と さ れ て い る︵ 宋 元 方 志 叢 刊 六、 中 華 書 局 本、 五七〇一頁︶ 。 ︿本間・五十嵐﹀ ︹ 190︺ ︿原文﹀ 天 禧 三 年 二 月、 知 越 州 高 紳 言、 当 州 僧 尼 既 受 戒、 還 家 即 受 父 母拝礼。 伏以為臣為子、 忠孝之道居先、 在家出俗怙恃之情匪異。 苟 乖 斯 道、 是 曰 乱 倫。 且 子 於 父 母 恩 報 皆 一、 在 儒 書 則 曰 昊 天 罔 極、 在 釈 教 則 曰 恩 重 莫 報、 安 可 用 小 加 大、 使 卑 逾 尊。 蓋 甌 越 之 民、 僧 俗 相 半、 溺 於 信 奉、 忘 序 尊 卑。 切 見 唐 太 宗 貞 観 五 年 嘗 禁 僧 尼 受 父 母 拝、 方 今 鴻 化 風 行、 革 除 僥 倖、 望 勅 特 行 戒 止、奏有違者、重決罰。従之。 ︿訓読﹀ 天 禧 三 年 二 月、 知 越 州 の 高 紳 言 く、 当 州 の 僧 尼 の 既 に 受 戒 せ る も の、 家 に 還 れ ば 即 ち 父 母 の 拝 礼 を 受 く。 伏 し て 以 み る に 臣と為るも子と為るも、 忠孝の道、 先に居り、 在家も出俗も、 怙 恃 の 情、 異 る こ と な し。 苟 し 斯 の 道 に 乖 か ば、 是 れ を 倫 を 乱 す と 曰 う。 且 つ 子 の 父 母 に 於 い て は 恩 報、 皆 な 一 な り。 儒 書 に 在 れ ば 則 ち 昊 天 に 極 り な し と 曰 い、 釈 教 に 在 り て は 則 ち 恩 重 く し て 報 ゆ る 莫 し と 曰 う。 安 ん ぞ 小 を 用 い て 大 に 加 え、 卑 を し て 尊 を 逾 ゆ べ け ん や。 蓋 し 甌 越 の 民 は、 僧 俗 相 い 半 ば し、 信 奉 に 溺 れ、 序 を 忘 れ て 卑 を 尊 べ り。 切 に 見 る に 唐 の 太

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七二 ﹃宋会要﹄道釈部訓注︵九︶ ︵永井︶ 宗の貞観五年 ︵六三一︶ 、嘗て僧尼の父母の拝を受くるを禁ず。 方 に 今、 鴻 化、 風 行 す れ ば、 革 め て 僥 倖 を 除 き、 望 む ら く は 勅 も て 特 に 戒 止 を 行 ぜ し め、 違 す る 者 有 る を 奏 す れ ば、 重 く 決罰を決せんことを。之に従う。 ︿解説﹀   天 禧 三 年︵ 一 〇 一 九 ︶ 二 月、 知 越 州 の 任 に あ っ た 高 紳 に よ る 上 奏 文。 出 家 受 戒 し た 僧 尼 が、 帰 宅 し た と き 孝 を 尽 く す べ き父母から、 逆に礼拝を受けていることを禁止すべきという。 古 来 よ り 忠 孝 の 道 が 先 ず あ り、 在 家 出 家 に 関 わ ら ず 父 母 を 頼 り と す る 心 に 変 わ り は な い。 も し こ れ に 背 け ば 人 倫 を 乱 す と 言 う べ き で あ る。 父 母 の 恩 は 出 家 在 家 と も 同 じ で あ る。 ﹃ 詩 経 ﹄ で は こ れ を﹁ 昊 天 罔 極 ﹂ と 言 い、 仏 書 で は﹁ 恩 重 莫 報 ﹂ と 言 っ て い る。 出 家 受 戒 な ど と い う 枝 末 な も の を 忠 孝 と い う 大 な る も の と 比 較 し た り、 卑 が 尊 を 超 え る こ と が あ っ て 良 い ことがあろうか。考えるに私が管轄する甌 ︵温州︶ や越 ︵越州︶ で は 僧 俗 が 二 分 し て い て、 彼 ら は 信 仰 に 溺 れ て 順 序 を 間 違 え て い る。 よ く よ く 見 れ ば 唐 の 太 宗 は 貞 観 五 年 に 僧 尼 が 父 母 の 礼 拝 を 受 け る こ と を 禁 止 し た。 現 在、 皇 帝 陛 下 の 威 徳 が 行 き 渡 っ て い る の で、 仏 教 が 偶 然 手 に し て し ま っ た 幸 い を 取 り 除 き、 望 む と こ ろ は 勅 を 降 し て 彼 ら が 戒 と 禅 定 の み を 行 う よ う に し、 も し 違 犯 す る 者 が あ っ て 知 ら せ が あ っ た ら、 厳 罰 に 処 されんことを願っている。 この上奏を認めて詔勅が下された。   高紳については﹃嘉泰会稽志﹄巻二に、 高 紳、 天 禧 元 年 四 月、 刑 部 郎 中 直 昭 文 館 を 以 て 知 す。 三 年七月二十六日、任を去る。 ︵中華書局本、六七五三頁︶ とあり、また﹃咸淳毘陵志﹄巻三〇に、 高 紳、 蚤 歳 の と き、 横 山 冲 虚 館 に 寓 す。 泉 を 味 わ う に 極 め て 甘 く、 恵 山 に 比 す べ き と 謂 う も、 惜 む ら く は 陸 鴻 漸 の 品 第 に 入 ら ざ る こ と を。 太 平 興 国 中、 太 常 少 卿 を 以 て 出 て 故 里 を 宰 す。 章 聖 の 時、 其 の 子 夷 直 に 命 じ て 尉 と 為 し、 就 き て 焉 を 養 わ し め ん と す。 首 め 是 の 泉 を 訪 る る に 廃 す る こ と 已 に 久 し し。 是 に 至 り て 復 た 騰 涌 す。 郡 の 別 駕 の 董 黄 中、 詩 を 作 り 其 の 事 を 序 し、 高 家 の 父 子 泉 と 名 づく。時に天聖三 禩 なり。 ︵中華書局本、三二〇八頁︶ と あ る。 昊 天 罔 極 は﹃ 詩 経 ﹄ 蓼 莪 に 出 る。 広 大 な 父 母 の 恩 は 報 い た く て も 報 い が た い こ と を 言 う。 ま た﹁ 恩 重 莫 報 ﹂ の 語 は、 ﹃ 父 母 恩 重 難 報 経 ﹄︵ 大 正 蔵 一 六 所 収 ︶ な ど に よ る も の で あろう。   唐 の 太 宗 の 貞 観 五 年︵ 六 三 一 ︶ の 勅 に つ い て﹃ 仏 祖 統 紀 ﹄ 巻三九に、 五 年 正 月、 僧 尼 道 士 に 詔 し て 父 母 に 致 敬 せ し む︿ 正 観 政 要﹀ 。

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七三 ﹃宋会要﹄道釈部訓注︵九︶ ︵永井︶ ︵大正蔵四九、 三六四 a とあったり、 ﹃仏祖歴代通載﹄巻一一に、 辛卯、僧尼に詔して父母を拝せしむ。 ︵大正蔵四九、 五六九 a と あ る に 相 当 す る が、 こ れ は﹃ 仏 祖 統 紀 ﹄ が 注 記 す る よ う に ﹃貞観政要﹄巻七の次の記事によるものであろう。 貞 観 五 年、 太 宗、 侍 臣 に 謂 い て 曰 く、 仏 道 の 教 え を 設 く る は、 本、 善 事 を 行 う。 豈 に 僧 尼 道 士 等 を し て、 妄 に 自 ら 尊 崇 し、 坐 な が ら 父 母 の 拝 を 受 け し め ん や。 風 俗 を 損 害 し 礼 経 を 悖 乱 す。 宜 し く 即 ち 禁 断 し、 仍 り て 拝 を 父 母 に致さしむべし、と。 ︵新釈漢文大系九六﹃貞観政要﹄下、明治書院、五七五頁︶ ︿永井﹀ ︹ 191︺ ︿原文﹀ 十 一 月 尚 書 右 丞 林 特 言、 請 今 令 諸 路 普 度 僧 尼、 処 戒 壇 受 戒。 如本処無戒壇、 即就鄰州有戒壇処。祠部即出戒牒給付。従之。 ︿訓読﹀ ︵ 天 禧 三 年 ︶ 十 一 月、 尚 書 右 丞 の 林 特 言 く、 請 ら く は 諸 路 に て 普 く 僧 尼 を 度 す に、 処 の 戒 壇 に て 受 戒 せ し め よ。 如 し 本 処 に 戒 壇 な け れ ば、 即 ち 鄰 州 の 戒 壇 有 る 処 に 就 か し め よ。 祠 部 は即ち戒牒を出し給付せんことを。之に従う。 ︿解説﹀   尚 書 右 丞 の 任 に あ っ た 林 特 が、 各 地 に お い て 僧 尼 を 得 度 さ せ る 場 合、 所 住 の 地 の 戒 壇 に て 受 戒 す る も の と す る。 た だ し そ の 地 に 戒 壇 が な い 場 合 は 近 隣 の 地 の 戒 壇 で 受 戒 す る こ と を 認 め る も の と し、 受 戒 後、 祠 部 は た だ ち に 戒 牒 を 給 付 す る よ うにと上奏した。この意見は容れられた。   林特については本稿︵六︶ ︹ 103︺を参照されたい。 ︿永井﹀ ︹ 192︺ ︿原文﹀ 哲 宗 元 祐 元 年 五 月 十 二 日、 詔、 坤 成 節、 依 降 勅 命、 令 開 封 度 僧外、諸州軍有戒壇処、依在京開壇、与沙弥受戒。 ︿訓読﹀ 哲 宗 の 元 祐 元 年 五 月 十 二 日、 詔 す、 坤 成 節 に は、 降 せ し 勅 命 に 依 り て、 開 封 を し て 僧 を 度 せ し む る の 外、 諸 も ろ の 州 軍 の 戒壇有る処にては、 京に在りて壇を開くに依るがごとくして、 沙弥に受戒を与うべし。 ︿解説﹀   元 祐 元 年︵ 一 〇 八 六 ︶ 五 月 十 二 日、 哲 宗 の 太 皇 太 后︵ 英 宗 の 皇 后 ︶ の 誕 日 で あ る 坤 成 節︵ 七 月 一 六 日 ︶ に、 開 封 で は 勅

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七四 ﹃宋会要﹄道釈部訓注︵九︶ ︵永井︶ 命 を も っ て 度 僧 が 行 わ れ る。 戒 壇 が あ る 各 地 で は 開 封 に な らって沙弥へ受戒することを許す旨の詔勅が下された。 ︿永井﹀   ︹ 193︺ ︿原文﹀ 光 尭 皇 帝 建 炎 四 年 七 月 二 十 日、 中 書 門 下 省 言、 已 披 剃、 披 戴 僧 尼、 道 士 自 来 該 遇 天 申 節、 預 前 依 例 合 行 受 戒、 天 寧 節 未 有 指揮。詔、 自今後天寧節与依例開壇受戒、 上祝道君皇帝聖寿。 ︿訓読﹀ 光 尭 皇 帝 の 建 炎 四 年 七 月 二 十 日、 中 書 門 下 省 言 く、 已 に 披 剃 し、 披 戴 せ る 僧 尼、 道 士、 自 来、 該 と く 天 申 節 に 遇 え ば、 預 前 め 例 に 依 り て 合 に 受 戒 を 行 ず べ し、 天 寧 節 は、 未 だ 指 揮 有 ら ず。 詔 す、 今 よ り 後、 天 寧 節 に は 例 に 依 り て 壇 を 開 き 受 戒を与え、上、道君皇帝の聖寿を祝るべし。 ︿解説﹀ 光 尭 皇 帝︵ 高 宗 ︶ の 建 炎 四 年︵ 一 一 三 〇 ︶ に 中 書 省 か ら、 高 宗 の 誕 日 で あ る 天 申 節︵ 五 月 二 一 日 ︶ に は す で に 沙 弥 と な っ て い る 僧 尼、 あ る い は 披 戴 し て い る 道 士 は 前 例 に な ら っ て 受 戒 さ せ て い る、 し か し 高 宗 の 父・ 徽 宗 の 誕 日 で あ る 天 寧 節 ︵ 一 〇 月 一 〇 日 ︶ に つ い て は 取 り 決 め が な い と い う 上 奏 が な さ れ た。 そ こ で 天 寧 節 に も 戒 壇 で 受 戒 を 与 え る も の と し、 道 君 皇 帝・ 徽 宗 の 聖 寿 を 祈 る よ う に と の 詔 勅 が あ っ た。 高 宗 の 尊 称 光 尭 皇 帝 に つ い て は 本 稿︵ 一 ︶︹ 3 を 参 照 の こ と。 ま た 道 君 皇 帝 は 左 に 引 く﹃ 宋 史 ﹄ 巻 二 二 に あ る よ う に 宣 和 七 年 ︵ 一 一 二 五 ︶ 一 二 月、 欽 宗 の 即 位 に と も な い、 退 位 し た 徽 宗 に贈られた尊号。 十 二 月 乙 巳︵ 中 略 ︶ 庚 申、 内 禅 を 詔 し、 皇 太 子、 皇 帝 の 位 に 即 く。 帝 を 尊 び て 教 主 道 君 太 上 皇 帝 と 為 し、 龍 徳 宮 に居せしめ、皇后を尊びて太上皇后と為す。 ︵中華書局本、第二冊、四一七頁︶ ︿永井﹀ ︹ 194︺ ︿原文﹀ 紹興二年閏四月二十四日、 詳定一司勅令所言、 今参酌紹興法、 擬 修 下 條。 諸 未 受 戒 僧 尼 遇 聖 節、 執 度 牒 僧 司 験 訖、 本 州 出 戒 牒, 並 以 度 牒 六 念 連 粘 用 印。 仍 於 度 牒 内、 注 給 戒 牒 年 月 日。 印 押 給 訖、 申 尚 書 礼 部。 諸 僧 道 歳 当 供 帳、 官 司 前 期 取 度 牒 験 訖、 聴 供 帳。 候 申 帳 到 州、 州 委 職 官 一 員 取 度 牒 対 帳 験 寔、 申 発所属。其行遊在外者、 所在官司於度牒後連紙批書所給公憑。 ︿ 右 並 入 紹 興 道 釈 令、 以 紹 興 二 年 二 月 十 八 日 尚 書 省 批 状 詳 定 ﹀ 衝改本條不行。諸僧尼遇開壇受戒及供僧道帳、 若度牒有偽冒、 失 於 験 認、 並 帳 不 寔、 経 歴 官 司 杖 一 百、 所 供 官 減 一 等。 ︿ 右

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