︿論説﹀
タ イ 近 代 刑 法 典 お よ び 民 商 法 典 の 編 纂 過 程 に お け る
日 本 法 の 影 響 O
飯田順三
目次
はじめに
一タイ法制史研究の学問的状況
ニタイ政府法律顧問政尾藤吉
三刑法典の編纂過程
1編纂第一期政尾藤吉と一八九八年草案
2編纂第二期日本刑法改正案と一九〇一年修正草案
3編纂第三期一九〇六年最終草案
四一九〇八年刑法典の特徴
五一九〇八年刑法典とタイ現行刑法典(以上本号)
六民商法典の編纂過程(以下次号)
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はじめに
一九世紀から二〇世紀初頭にかけてアジア各国は︑西欧列強の帝国主義の伸張とともに植民地化あるいは保護国化
への運命を辿った︒日本は早くから脱亜入欧政策の下で西欧化を進めていったが︑日本と同様に独立を維持していた
ユ タイも近代国家への変身が急務であった︒こうした西欧化の対象に法制度も当然含まれ︑両国の伝統的法制度は西欧
近代型のそれへと急激な転換を迫られた︒
タイ法制史は︑現ラタナコーシン王朝第四代国王モンクット王の治世を境に近代化時代に入る︒すなわち︑一八五
一年に即位してから一八六八年に没するまで︑モンクット王はその開明的性格をもってイギリスといわゆるボウリン
グ柔約を締結し︑タイは以後︑近代国際法秩序を前提とする世界貿易体制に編入された︒第五代チュラロンコン王は
先王の遣志を継ぎ近代化政策を推進した︒法制度改革においては一八八八年︑同王は国家行政改革に関する政策を発
表し︑これによって司法省が設置された︒裁判所制度については︑一八九二年にバンコクの裁判所を改組︑七裁判所
制とした︒地方裁判所については︑一八九六年に司法省の管轄に置いたが︑依然として地方長官の影響が大きい状況
が続いた︒だが︑一九〇八年裁判所法の公布により︑司法省の権限拡大が実施された︒もっとも︑最高裁だけは依然
として国王直轄であったので︑一九一二年に再度法改正を行ないすべての裁判所が司法大臣の管轄下に統合されるこ
とになった︒こうして︑裁判所組織の近代化に着手してから二〇年後に一応の組織整備が完成した︒これに伴い訴訟
法も整備され︑一八九五年に証拠法︑翌年には暫定刑事訴訟法および民事訴訟法が公布された︒そして︑刑法典︑民
商法典法についても近代西欧法をモデルにして編纂されていった︒
ここで注目すべき点は︑この刑法︑民商法典の起草過程で日本法の影響が考えられるということである︒両法典の
タイ近代 刑 法典 お よ び民 商 法典 の編 纂 過 程 にお け る 日本法 の影 響(→
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起草において︑タイ政府法律顧問として赴任した政尾藤吉が︑民商法典にそして特に刑法典の編纂について重要な役
ヨ 割を果たしたことはわが国法学界ではあまり知られていない︒タイでは︑一九〇八年発布の刑法典序文において︑彼
の名が同法典の編纂委員の一員として記されているため︑タイ法学界では彼の存在については一定の認識があったこ
とは事実であるが︑その功績が注目され始めたのは一九八〇年代に入ってのことである︒タイの司法制度改革に参画
した政尾は︑刑法典の起草から発布までの過程と民商法典起草の初期の段階において中核的存在の一人であったこと
は事実であり︑特に刑法典編纂においては政尾の功績は大である︒
本稿では︑タイにおける西欧近代法継受の総合的分析の予備的考察として︑タイ刑法典と民商法典の起草過程を明
らかにし︑その中にあって日本法がどのような役割を有していたかについて考察することである︒
以上の諸点を考察する前に︑次節ではまず︑タイ法制史の先行研究について概観してみたい︒
一タイ法制史研究の学問的状況
タイ法制史研究で異彩を放つのは︑フランス人ロベルト・ランガー(一内Oげ①脱げ]﹁一づσqPけ鴇一c◎㊤卜○〜H㊤↓トの)である︒彼は︑
一九三五年から一九三九年まで︑現在のタマサート大学の前身である﹁法学・政治学大学﹂大学院修士課程において
ら タイ法制史の講義をおこない︑その内容は︑﹃タイ法制史﹄として結実した︒また彼は︑﹁シャムにおける女性の地位﹂︑
﹁シャムにおける利息付金銭消費貸借の起源﹂︑﹁シャム古法における私的奴隷﹂など数々のタイ法制史研究を著した︒
その後のタイ法制史研究はランガーの業績に負うところが大である︒彼はまた︑タイ法制史研究のみならず︑ビルマ
法︑ヒンドゥー法についても研究を残している︒ただ︑タイの近代法典編纂についてランガーはほとんど触れていな
い︒ランガー以外の欧米人では︑エンゲル︑ダーリング︑フーカーによる諸研究がある︒さらに最近では︑ハックス
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レイがタイ人研究者との共同研究を成功させている︒
↓方︑タイ人法学者の中でタイ法制史研究者は他の分野にくらべそれほど多くはない︒タイ法制の通史をあつかっ
たものとしては︑ランガーがベトナムに去った後にタマサート大学のタイ法制史講座を引き継いだプラヤー・ニティ
サー・パイサーの著した﹃タイ法制史﹄がある︒ただ︑近代法典編纂についての考察はそれまでほとんどみられなかっ
たところ︑パッチャリンがのこの分野において貴重な成果をあげた︒近代刑法典と民商法典の編纂を中心にその過程
を明らかにした彼女の論文は︑ラーマ五世︑六世︑七世時代の公文書を用いて書かれ︑タイの法典編纂にまつわる貴
重な歴史的事実をわれわれに語ってくれる︒また近時では︑プリディーの研究成果を見逃すことができない︒
他方︑日本のタイ法制史研究に目を向けると︑まず︑第一に政尾の諸論文をあげねばならない︒インド古代法との
比較の視点からタイ古法を論じた政尾は先駆的存在である︒政尾以降のわが国におけるタイ法制史に関する文献につ
ね いては︑まず石井米雄の諸論文が挙げられよう︒また︑赤木攻の政治学的視点からタイ法を見た諸論考や︑北原淳よ
レ る北部タイに存在した地方国家ランナーの研究︑吉川利治の東北タイ・ラオスにまたがる地域に存在した古代法の分
め 析など貴重な研究蓄積が存在する︒右はタイ学研究者によるものであるが︑一方︑わが国法学者によるタイ法制史研
究については︑タイ語という言語的障壁と特殊地域を対象にした研究領域のためであろうか︑その数は少ないと言わ
あ ざるを得ない︒
ニタイ政府法律顧問政尾藤吉
本節ではタイの近代法典編纂に寄与した政尾藤吉について述べたい︒政尾は明治三年=月一七日愛媛県喜多郡大
り 洲町に生まれる︒明治二二年早稲田大学前身の東京専門学校英語普通科を卒業︒同年九月米国バンダビルド大学へ入
タイ近 代刑 法 典 お よ び 民商 法 典 の編纂 過 程 にお け る 日本 法 の影 響(一)
学︒明治二五年九月ウエスト・バージニア大学へ転学後明治二八年に法学士となる︒同年九月イエール大学に入学し
翌年法学修士号を受ける・明治三〇年六月同大学Uogo円ohΩ< ピ9・≦を取得︒帰国後︑ジャパンタイムズ編集主
筆代理に迎えられたが︑タイ政府から日本人法律顧問招聰があった際︑政尾は外務次官小村寿太郎から推薦されバン
コクに赴任することになった︒
タイ政府が日本人法律顧問を招聰するきっかけとなったのは︑一八九八年日.タイ通商条約の締結であった︒すな
わち︑同条約の交渉中でタイの民法︑刑法︑民事訴訟法︑刑事訴訟法︑裁判所法の成立とその施行後一年間経つまで
日本政府は治外法権を有することが規定された︒そして︑この法典編纂作業を援助するため日本人法律顧問の招聰が
合意されたのであった︒
政尾が赴任した当時︑タイ政府内部では多くの外国人顧問官がいた︒最も有力であった人物は国際法学者でもあり
政治家として高名であったベルギ大・‑ラン・ジャックマンで︑彼は総顧問官職に就いていた︒彼の配下には法律
顧問官としてベルギー人が任命されていた︒政尾の役職はこれら法律顧問との関係を配慮され︑当初は外務省書記官
の地位にあつ︹耀しかし︑まもなくジャックマンから高い評価を得る働きぶりを示した政尾は︑総顧問官補佐に昇格
し︑さらに︑法律顧問官となった︒その後︑政尾はタイ最高裁判事まで務め︑日本へ帰国するまでの一六年間︑国王
を含め多くのタイ政府要人から信頼された︒その人間関係を評価され︑政尾は一九二一年︑日.タイ通商条約改正交
渉のため特命全権公使として赴任したが着任後半年で急逝した︒
政尾はタイ古代法の研究にも取り組んだ︒そして明治三六年︑ヒンドゥー法との比較の視点からタイ古法を論じた
論文によって東京大学から法学博士を授与されている︒
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三刑法典の編纂過程
1編纂第一期‑政尾藤吉と一八九八年草案
タイにおいて近代西欧法をモデルに作られた法典は一九〇八年刑法典(全三四〇条)が最初である︒その後︑新刑
法典が一九五六年一一月=二日に公布(一九五七年一月一日施行︑全三九八条)された︒これが現行刑法典で︑少な
くとも一九九三年まで八回の改正が行なわれている︒もっとも︑タイの現行刑法典は一九〇八年刑法典を基礎にして
おりその構造においてに大きな違いはないので︑後者の考察は現行法を理解する上でも重要であるとの指摘があ額︒
さて︑近代西欧法制度を模倣して自国の法制度を整備していった事情は日本もタイも同様である︒タイでは自前の
近代刑法典を作成する以前はインド刑法典を参考に刑事裁判を行なっていたので︑当時︑検察官長官で後の刑事裁判
所長となるルアン.ラタナヤティ(プラヤi・クライスィ!)は一八九三年にタイの事情に合った刑法草案を英文で
お 作成した︒だが︑この草案は採用されなかったという︒
その後︑日本を含む西欧各国と結んだ条約を改正する条件として法典整備が要求されてから︑タイ政府は近代法典
お 編纂に本腰を入れ始めた︒そして︑一八九七年に法典調査会が設置され︑まず刑法典の起草が開始された︒委員には
司法大臣ラピー親王︑前司法大巨ピチット親王︑プラヤ!・ブリチャi民事裁判所長︑プラヤー・クライスィー刑事
裁判所長︑総務顧問官ローラン・ジャックマン︑司法顧問力⁝クバトリックそして前述の政尾藤吉の七名が就任した︒
政尾は法典の起草が彼に一任されたと記している︒そして彼は︑一八九八年二月に起草を開始し︑日本旧刑法および
インド刑法典を参考にしながら一八九八年七月に起草完了しこれを立法院(窪Φい①σq一︒︒一簿鉱くΦOo茸o一一)に提出した
ム (以下︑一八九八年草案)︒この草案作成に当たり︑政尾が︑クライスィー刑事裁判長によって↓八九三年に作成さ