はじめに
かつて,テレビは遠くの世界を覗く「窓」であった。社会の諸相を特権的 に切り取り,視聴者に独占的に供給する「窓」であった。
日本でテレビ放送が始まって60年が経つ。「NHK テレビ1年の歩み」(1954・
2・1)の中で,吉田内閣の副総裁緒方竹虎は,「テレビジョンこそは,20世紀 の人類に与えられた文化の華であり,家庭において,居ながらにしてさまざ まなことを楽しく,文字通り見聞することができる」と述べた。
また,初期ドキュメンタリー ・ シリーズ日本の素顔「テレビジョン~現代 のマンモス~」(59・3・1)は,農家の居間でテレビを見る人々の顔を「とり憑 かれたような表情」と描写し,デパートのおもちゃ売り場に群がる子どもた ちの映像をバックに,「テレビは遊びの参考書」などと誇らしげなナレーショ ンをつけていた。そして,皇太子妃決定の映像を流しながら「新聞はその即 時性,同時性に,ラジオはその現実性において,テレビにははるかに劣るこ とが明らかにされた」として,視線の優位を誇ってみせた。事実,この皇太 子成婚パレード(60・4・10)の直前までに,公共放送 NHK の受信料契約は前 年の90万件から200万件に倍増した。
テレビはその出発点において,自らを「マンモス」に擬していた。一世を 風靡するモンスターが,大衆消費財としてはいずれ絶滅種になることを予感 していたのだろうか。この強さと弱さはテレビにずっとつきまとってきた感
テレビの中の「東京論」
―場所 ・ 空間 ・ 時間 ・ 無場所―
桜 井 均
覚である。
テレビが光をとり入れる「窓」であった期間は意外に短く,20年ほどであっ た。1980年代には,「楽しくなければテレビじゃない」というコピーが出回 り,ニュースはヴァラエティ化し,タレントが情報に味付けをし,いわば
世ノ イ ズ間話の域を出なくなった。テレビの画面は,「窓」から曇りガラスを経て
「鏡」に変貌して行ったのである。
視聴者は,テレビという「鏡」の中に,見知らぬ世界ではなく,いつか見 た光景や自らの似姿を見るようになった。それと同時に,テレビはジャーナ リズムの「いま ・ ここ」言説を喪失し,口当たりのよい情報市場と化して行っ た1)。
考えて見れば,「窓」から「鏡」への変化には必然があった。テレビは,そ もそもの初めから仮ヴァーチャル想的な「窓」だった。その同時性と直接性という“見か け”に,送り手も受け手も呆然と身を任せたが,それが長い時間をかけて,
社会と見えたものが,市場化され,遠近法を欠いた社会の表象,「社会」にす ぎなかったことに気づいたのである2)。
この60年の間,テレビがもっとも頻繁に視線を向けてきたのは,目の前で 激しく増殖する巨大都市「東京」であった。テレビの触手は東京という「有 機体」の器官 ・ 組織 ・ 細胞の各レベルに断層像影装置(scanner)を挿入し,
患部(diseased part)を探ってきた。東京の呼称が《東京 ・ トキヨ ・TOKYO》
などさまざまあるように,テレビの中の「東京論」も多様であり,多元的で あり続けた。この変遷の中には,テレビがテレビ自身を映す「自画像」的な 番組も含まれていた。テレビははじめから東京的なもののメタファとして受 容された。つまり,「東京論」と「メディア論」はテレビの出発点から相補的 な関係にあったのだ3)。
本稿は,テレビが再構成してきた「テレビの中の東京論」を,共時的かつ 通時的に概観すると同時に,「メガデータ ・ 東京」に向きあうという特異な経 験をしてきた日本のテレビについての試論でもある。
Ⅰ 映像アーカイブへの視線
1)「東京」がテレビの視界に入ってきた
「遠くのものをより近く,小さなものをより大きく見せる」,言うまでもな く,これがテレビジョンの語源的機能である。テレビは接近 ・ 拡大を限りな く欲望する機械であり,それを視聴者に遅滞なく接続 ・ 拡散するメディア(媒 体)である。
テレビの東京へのアプローチの変化は,東京という街の変化と相関関係に ある。
テレビ ・ ドキュメンタリーにかぎって言えば,初期の10年ほどは,カメラ の機能はサイレント映像にナレーションをつけるだけであり,NHK の「日本 の素顔」,「現代の映像」,日本テレビの「ノンフィクション劇場」などが戦後 復興,工業化,人口集中など目に見える変化(目覚ましい変化)を記録して いた。
60年代中期,東京オリンピックの前後に,フィルム映画の分野で技術革新 が起こった。今でこそあたり前だが,映像と音声の同期(synchronization)
が可能になり,その技術がテレビに移転し,東京という巨大な「有機体」の 生態観察,動態観察を可能にした。NHK の「ある人生」「人間列島」,TBS の「あなたは……」などのシリーズは,都市生活者の実態や“潜在する格差” などを主題として記録,再構成をすることで,単に東京に地方の人口が流入 するという外見だけではなく,移動する人口の内側から,同一集団,同一人 物の質的な変化を等身大で記録するようになった。いわばテレビの草創期(70 年代前半まで)に描かれた東京は,生身の人々を生き物のように飲み込むリ アルな「場所」として描かれていたのである。
次に,フィルムカメラに代わって小型ビデオカメラが登場し,対象への同 時進行的な中継機能を一段と高めたことによって,テレビは同時代の鏡のよ うに視聴者を反映し始めた。
この60年間は,テレビが《記録する行為》と《記録された映像》を一体化 し,同時性を獲得しつつ,放送の信憑性(reliability)を高める歴史でもあっ た。つまり,テレビは人々の信憑性にたいする果てしない欲望を満たす機械 として期待されてきた。テレビは,かろうじてジャーナリズムが求める真実 性,迫真性,即時性をその特質として維持することで視聴者を惹きつけてき たとも言える。
この過程で興味深いのは,映画の世界での革新的な動き(映像と音声の同 期=同時録音)が,さほどの時差を置かずテレビに採用されたことである。
これは,テレビ史における“事件”と言ってもよい。そして,テレビが対象 とする「東京論」にも画期的な変化が生じたことは前にも述べた。
この同時録音の技術は,1960年前後にフランスの映像人類学者ジャン ・ ルー シュと社会学者エドガール ・ モランの手で,「シネマ ・ ヴェリテ」(cinéma vérité)の方法として開発された。また,少し遅れて,アメリカではデビッ ド&アルバート ・ メイスルズ兄弟が「ダイレクト ・ シネマ」(direct cinema)
の手法を用い始めた。前者の「シネマ ・ ヴェリテ」は,パリ市民の日常や労 働者階級の意識などを同時録音でインタビューし,その映像作品を,被写体 となった男女と一緒に試写を行い,感想を述べ合う。その様子もまた記録し,
それをさらに制作者が論評するという幾重にも再帰的(reflexive)な映像編 集を試みた。これによって,映像の真実性=「作為なき映像」を手に入れる ことができたのである4)。また,後者の「ダイレクト ・ シネマ」は,同時録音 カメラを駆使して,人間の行動に密着し,迫真の映像を手に入れた。メイス ルズ兄弟は,ビートルズのアメリカ ・ ツアーに同行し,撮影時に彼らにマイ クを手渡し,「カチンコ」(映像と音を同期させる合図)を打たせたりした。
あえて,ハプニング的なショットやミス ・ ショットを残すことで,映像作品 のリアリティや信憑性を高めようとしたのである5)。
両者の共通点は,全編を通じて,対象を《映像》と《音声》だけで構成し,
ナレーションを一切つけないことであった。彼らは,ソビエトのジガ ・ ヴェ ルトフ(「カメラを持った男」1929)の後継者として,ありとあらゆる周囲の
人物,出来事,社会事象にカメラと録音機を向け,対象に肉薄した。この技 術と方法が,少し遅れてテレビに転用され,放送システムの双方向性(inter- activity),再帰性(reflexivity)を形成していったのである。
アメリカでは,公共テレビ(PBS 系)を舞台に,フレデリック ・ ワイズマ ン監督が,社会を構成するさまざまな組織の内部にカメラを持ち込み,そこ での内的な諸関係を発見するドキュメンタリー作品を制作し,それらをテレ ビの視聴者に手渡していた6)。
こうした流れと併行して,日本でも,テレビが始まって15年後の1960年代 後半になって,フランスのシネマ ・ ヴェリテやアメリカのダイレクト ・ シネ マの手法が意欲的に採用されるようになった。ただし,日本のテレビの場合 は,先行するラジオ放送の影響が強く,活字ベースの語り(narrative)から 自由ではなかった。だから,テレビ ・ ドキュメンタリーが映像と音声だけで 構成されることは希だった。その分だけ,日本のテレビ ・ ドキュメンタリー のナレーションは,映像と音声による真実性,迫真性,信憑性と拮抗するこ とが期待されたのである。
テレビは,映像人類学(ciné-anthropologie)の技法と思考法に支えられ て,東京の全体像とそこに住む人口の諸相に目を向けるようになった。あた かも有機物を腑分けするように,カメラと録音機がその全般にわたって生態 観察をしながら解剖を始めたのである。俗に言う「東京もの」は,全国の茶 の間,病院,学校,公民館,公衆浴場,食堂などに設置されたテレビジョン の前に,即席の「アームチェア人類学者」=視聴者を呼び集めた。テレビの 家庭への普及によって,1960年代,東京都民だけでなく地方在住者も,「大東 京」で展開される壮観(spectacle)に対する眼差しを共有するようになった。
それらを通時的に見れば,東京の生成をいくつかのエポックに区切って追 体験することができる。さらに,都市問題に対する共時的な関心を持つこと で,経済成長,市場競争,所得格差,階層分化など日本社会における形態変 化をそれとして観察することもできよう。しかし,生成と崩壊を繰り返す現 場としての東京は,「社会的に異質的な諸個人の,相対的に大きい ・ 密度のあ
る ・ 永続的な集落7)」として単純に定義したり,農村との二項対立で捉えたり することは難しい。東京はテレビ ・ ドキュメンタリーを通して撹拌された《場 所》,《空間》,《時間》として,テレビの中で絶えず再構成されてきたのであ る。
2)共時的な問題設定
21世紀に入り,メディアにおいて《貧困 ・ 格差》に関わる語彙が急増して いる。テレビ番組のタイトルが,そのまま社会のキーワード化することも珍 しくない。たとえば,「ワーキングプア」(06~07年),「セイフティネット ・ クライシス」(08~09年),「無縁社会」(10年),「サイレント ・ プア」(14年)
など,人間のあり方をめぐる《システム》の崩壊がそのまま流行語やキーワー ドになることは,従来の福祉番組や社会番組にはなかったことである。かつ ての共感に共苦が相互に浸透しつつ接近しているのである。
最近も,親の都合で戸籍を持てなかった子どもが,何十年ものあいだ無権 利状態に置かれてきたことを告白する衝撃的なニュースが流れた。このカミ ングアウトをきっかけに,「無戸籍者」という呼称が時代のキーワードとな り,同種の事例(思い当たる事例)が次々と発掘されるようになった8)。 同様に,「ブラック企業」,「ヘイトスピーチ」,「貧困女子」,「ランチメイト 症候群」,「子どもクライシス」などのキーワードが,都市における人間関係 の希薄化,個人の消失(消臭)傾向を的確に表現するようになり,語彙と現 実のもつれ合いがじょじょに臨界に達しつつある。これまで,東京を「場 所」,「空間」,「時間」の階層でとらえてきたが,「無場所」という概念を用い なければ捉え切れない事象が増えてきた。若者たちを「希望」と「絶望」に 引き裂く「希望格差社会」が,メディア情報空間の中で,底なしの「無縁化」
に向かっているようにも見える。
このようなダークサイドは,これまで日本経済の生成と崩壊の周期的な帰 結として説明されてきた。しかし,いま起きているプロセスは,そのレベル をはるかに超えている。上記のキーワードはいずれも,グローバル都市と化
した東京の中に《乱数》のように漂っている。同じような《滞留》や《漂流》
が世界に点在している。メディアはこの揺らぎを記録しながら,映像アーカ イブとして自らを増殖させている。それらは時間の経過とともに凝固してい く。その固まり方を見るには,「いま,ここ」にある具体的な問題系を共時的 に整理しておく必要がある。そこには,グローバル ・ シティとは具体的にど こを指すのか,それらはみな均質なのか,それぞれの成り立ちの相異はどこ にあるのか,という問いが設定されている9)。
映像アーカイブは膨大な記録と記憶の総体であり,社会的な語彙集であり,
同時に歴史 ・ 文化として可視化できる堆積層でもある。映像アーカイブの形 態は,あえて言えば,「逆円錐状」である。上平面の映像情報は,収録チャン ネルの増加とともに拡大を続けているが,下方に降りていくに従って,映像 情報の絶対量は減少し,保存手段を欠くものははじめから存在しない。ただ し,アーカイブの中の各々の映像群は相互引用関係にあり,複雑なタグで事 後的に結ばれている。
そこで,あらためてテレビ ・ ドキュメンタリーが蓄積してきた過去の番組 群を,いくつかの層(layer)に区切り,それらを後視的(retrospective)な 篩にかけ,現在の視点の揺らぎに選択的につなげていくという往復運動が必 要になる。
アーカイブ(保管庫)をアルケオロジー(考古学)のアナロジーでとらえ れば,アトランダムに記録 ・ 保存された映像といえども,考古学の「地層累 重の法則」に従って,おおむね時系列に収蔵されているので,ときにアーカ イブ内部における転形期の成層を水平にたどり(マッピングし),断層や褶曲 の痕跡を意識的に検索していけば,アーカイブ自体の編制(composition/
formation)がおのずと見えてくるはずである。
映像アーカイブの古層=テレビ以前の映像は,150年前からの写真,100年 前からのフィルムなどであり,モノクロかセピアが普通である。その上方に,
60年ほど前から,アナログ ・ テレビの映像群が折り重なるように堆積してい る。この層は,種々雑多,「混沌」を基調とし,草創期特有の技術革新と方法
的発見という特徴を持つ。そこでは,メディア史上の大小の初歩的な事件 ・ 事故 ・ 失敗の痕跡を見ることができる。おそらくテレビの最盛期を含む,考 古学で言う“切り合い構造”(同じ成層の中の新旧の錯綜)も見られるはずで ある。
今後,デジタル技術のさらなる開発で,大量の映像は前後 ・ 左右 ・ 上下に タグづけされ,PC 上にマッピングされていくだろう。映像のデジタル化は,
取材,編集だけでなく,アーカイブの編制にも大きな影響を及ぼすものと思 われる。映像アーカイブの利用者は,保管倉庫の階段を上下する「動作」
(action)から解放され,データベースの中を多方向に移動する「操作」
(operation)をすればよくなった。「東京のイメージ」は,そのような仮想空 間にかぎりなく浮遊しているのである。
3)新しい順から並べる
以上を要約すると,アーカイブのデータ化の革新的なスピード ・ アップに よって蓄積される内容は,皮肉なことに,《貧困 ・ 格差》という停滞のとめど ない拡散,反ユートピア(dystopia)を表現している。そこで,本稿は,《貧 困 ・ 格差のグローバル化》の確認からスタートし,《場所 ・ 空間 ・ 時間》に そった類型化のプロセスをたどることになる。
この作業は,「目的地に背を向けながら時間の中を進むというイメージ10)」で あり,ポール ・ ヴァレリーの「われわれは未来へと後ずさりしながら入って いく11)」のと類似の行為であり,レジスタンスに斃れた歴史家マルク ・ ブロッ クの「現在について考えることなくして過去を理解することは不可能である12)」 に通じる。
だが,目的地はその先まで延長されているかもしれない。東北は,東日本 大震災で壊滅的な打撃を受けた。しかも,福島第一原発の放射能事故は,3・11 以前への単純な復帰をほぼ不可能にした。見方によれば,地域社会は事故以 前から崩壊寸前だったのであり,ちりぢりになった人々が,元どおりに集ま る場所はすでに存続が危うかったのかもしれない。それゆえ,東京論の類型
に《無場所》を付け加えなければならない。
そこでまず,「貧困拡大社会」をキーワードに,新しいものから古いものに 向かって,アーカイブ編制を下降し,《東京》と《東京論》に関わる番組を 遡ってみた。
番組リスト① 2014年→2005年 2014・5・21 クローズアップ現代「戸籍のない子どもたち」
2014・4・3 ハートネット TV「シリーズ子どもクライシス⑶ある地域の挑戦」
2014・4・2 ハートネット TV「シリーズ子どもクライシス⑵失われゆく“居場所”」 2014・4・1 ハートネット TV「シリーズ子どもクライシス⑴追い詰められる母子」
2013・9・18 クローズアップ現代「拡大する“ブラック企業”~過酷な労働条件~」
2013・1・20 NHK スペシャル「漂流老人」
2012・9・24 ハートネット TV「シリーズ貧困拡大社会 行き場をなくした女性 たち」
2012・5・16 ハートネット TV「カキコミ!深層リサーチ 女性の貧困⑶ 2012・5・1 ハートネット TV「カキコミ!深層リサーチ 女性の貧困⑵ 2012・4・30 ハートネット TV「カキコミ!深層リサーチ 女性の貧困⑴ 2010・9・4 NHK スペシャル「消えた高齢者 ~“無縁社会”の闇~」
2010・4・3 NHK スペシャル「無縁社会~私たちはどう向き合うか~」
2010・1・31 NHK スペシャル「無縁社会~“無縁死”3万2千人の衝撃~」
2009・10・7 クローズアップ現代「“助けて”と言えない」」
2009・10・4 NHK スペシャル「セイフティネット ・ クライシス3 しのびよる 貧困 子どもを救えるか」
2009・2・16 NHK スペシャル「沸騰都市第8回 TOKYO 2009・1・17 ドキュメントにっぽんの現場「派遣切り」
2008・12・15 NHK スペシャル「セイフティネット ・ クライシス2 非正規労働者を守れるか」
2008・5・11 NHK スペシャル「セイフティネット ・ クライシス 日本の社会保 障が危ない」
2007・12・15 NHK スペシャル「ワーキングプアⅢ 解決への道」
2007・9・27 ドキュメント にっぽんの現場 “三畳一間”
2006・12・10 NHK スペシャル「ワーキングプアⅡ 努力すれば抜け出せますか」
2006・7・23 NHK スペシャル「ワーキングプアⅠ 働いても働いても豊かにな れない」
2005・4・2 NHK スペシャル「日本の,これから どう思いますか格差社会1」
2005・2・6 NHK スペシャル「巨大マネーが東京をねらう~オフィスビル投資 の舞台裏~」
2005・2・5 NHK スペシャル「フリーター漂流~モノ作りの現場で~」
この表が教えるところは,モノ作りの現場の崩壊によって人々が漂流を開 始したことである。従って,これらの番組群に共通しているのは,《貧困 ・ 格 差の拡大》というテーマが,グローバル化の下で,国境を超え,いつでも,
どこでも(つまり,時 ・ 場所を問わず)出現するようになったことである。
特に都心近接低開発 ・ 低所得地域=インナーシティ(inner city)において致 命的な現れかたをする。経済学者ジョゼフ ・ スティグリッツは,世界銀行が 世界60カ国の貧困層に「自分たちが置かれている状況」を尋ねたところ,収 入の乏しさだけではなく,「不安 ・ 無力感 ・ 疎外感」にも悩まされていると答 えた,という13)。まさにインナーシティで,この停滞した感情が再生産されて いたのである。
それを加速,助長するのが,資本の越境を前提とする二国間や多国間の自 由貿易協定である。ことに,グローバル化の中で《利潤追求》と《生命維持》
が比較され,後者が切り捨てられるケースが顕著になっている。
どこにでも起こりうる例をあげれば,南ア ・ ヨハネスバーグにおけるエイ ズの感染爆発は,アメリカとの二国間協定(FTA)を結んだことによってか えって激しくなった。アメリカが協定に従ってエイズ薬の特許権を主張した ため,ジェネリック薬が使えなくなったからである。NHK スペシャル「21 世紀の潮流 アフリカ ・ ゼロ年 感染爆発が止まらない ~南アフリカ 届 かないエイズ薬~」が放送されたのは2005年7月。まさにNHK スペシャル
「日本の,これから どう思いますか格差社会」(05年4月),同「ワーキング プアⅠ~Ⅲ」(06年7月~07年12月)などの放送時期と重なる。アメリカの
「サブプライム ・ ローン危機」がピークに達したのは06年末からであった。さ
らに,同「セイフティネット ・ クライシス」(08年5月~09年10月),同「無 縁社会」(10年1月~9月)のちょうど中間に,08年9月15日の「リーマン ショック」が位置している。これらの放送日の近接は偶然ではない。
グローバルに起きている貧困 ・ 格差は,アフリカの都市にも,ニューヨー クにも,日本の地域社会にも,そして東京にも拡散している。その行き先に,
荒涼たる“無縁社会”の闇が広がっていることが容易に想像できる。
戦後の東京は,急速な膨張ベクトルの中で,《無秩序》をベースにしなが ら,それでも区画ごとの歴史 ・ 文化的な背景や住民の所得格差を反映して一 定の濃淡を保って発展してきた。しかし,最近のグローバル化の波は,東京 の無秩序に,《無方向性》と《無場所性》をつけ加え,さらに複雑な都市構造 を付加しつつある。それをもたらすのはバブル期のキーワード《速度 ・ 拡散》
とは対照的な《滞留 ・ 漂流》である。かつては,東京の下町に集中していた インナーシティが,都心の各所に見えにくい形ではあるが確実に飛散してい る。あるいは,都市と農村という二項対立では説明できない「郊外」的な要 素―複製された大小の消費装置の連なりをもつ都市形態―がグローバリゼー ションの中で「ジェネリック ・ シティ(無印都市)」として増殖しているので ある14)。
Ⅱ 「場所」としての東京
「場所」の定義
ここで「場所」とはローカリティの強い土地のことを意味する。場所とし ての東京というとき,それと対になるのが地方のローカリティである。この 段階では,二地点間に固有名の個人または集団の往来が見られる。「出稼ぎ 者」は,その言葉の通り故郷に送金したり,盆暮れに帰郷したりするテンポ ラリーな往還者である。しかし,その臨時性は,都市と地方の関係の流動化 が前提であった。
1)古い順から並べる
そこで,あらためて東京に関する番組を古い順にアーカイブ検索をしてみ ると,流動から離散,そして無縁化の流れが見えてくる。
① 1950~60年代:東京は,戦後の復興から成長経済にシフトした「場所」
として描かれる。東京オリンピックの建設ラッシュがヒトとモノを東 京に集めた。
② 70年前後:過密化する東京と過疎化する東北が一対の「場所」として,
動態観察の対象となる。高島平団地などの集合住宅の建設が始まる。
③ 70年代中頃~80年代中頃:東京の人口がおよそ1150万で安定。分母が 安定したことで,東京は「空間」として統計的な把握の対象になる。
都心の区部に880万,多摩ニュータウンなどの郊外団地や郡部に270万 がほぼ定着する。
④ 80年代後半~90年代後半:東京を動かす主語は「時間」,バブルとその 崩壊がほぼ同時に起こった。「東京マネー」が都心一等地を地上げし,
そこにポストモダン建築が林立する。その余波が地方に及び,各地に 同じようなリゾート開発がブームとなる。
⑤ そして,21世紀:グローバル化に加えて,放射能被曝した東京は,「無 場所」あるいは「ディストピア」と化す。
これらの内,⑤は,「ワーキングプア」,「セイフティネット ・ クライシス」,
「無縁社会」などで既述したので,これ以降は,東京を意識化 ・ 対象化した① から④までの番組(流動から離散まで)を,NHK アーカイブスの「NHK ク ロニクル」などから検索した結果を示す。
番組リスト② 1950~60年代 1958・6・1 日本の素顔「ガード下の東京」
1959・10・11 日本の素顔「川に映った東京」
1960・11・13 日本の素顔「上野」
1962・1・10 日本縦断「東京」
1962・10・13 現代の記録「流入人口」
1963・6・23 東京オリンピックを世界の人々に 1963・7・1 特集(イタリア賞参加)「TOKYO」
1963・12・7 現代の記録「新都市誕生」
1965・12・3 現代の映像「33 ・3分の1」(団地)
1956年の経済白書は「もはや戦後ではない」と書いた。その意味は,敗戦 後の復興がマイナスからプラスへの激変であったのに対して,これからは,
新たな経済政策がなければ成長は望めない,というものであった。
東京は,64年の東京オリンピックを目ざして新たな変化の時期を迎えよう としていた。ところが,NHK 最初のテレビ ・ ドキュメンタリー日本の素顔 は,戦後の焼け跡の名残を映し,まだ,占領が続いているかのような風景を バックにアメリカ人を随所に登場させていた。「ガード下の東京」(58・6・1)
は,国鉄のガード下に仮設の英会話教室,キャバレーなどがひしめく様子を 記録しているが,付随的にアメリカ人教師や米兵の姿を映しだしている。同 じシリーズ「青い目の子供達」(58・4・20)は,米兵と日本女性との間に生ま れたいわゆる「混血児」問題がテーマだが,そこにはキャバレーで酔う米兵 たちに花を売り歩く少年の姿が描かれている。
アメリカの圧倒的な力に“陵辱”された東京は,オリンピックを機に自立 したと言われているが,映像で見る限り,以前にも増して,他者=外人の目 に“迎合”するかのように見える。東京の街は,世界からの視線に耐えるよ うに改造されて行く。オリンピックの前年63年に制作された「東京オリンピッ クを世界の人々に」は,テレビが世界6億人の視聴者に向けて「多元同時結 合」するために,最新の機材や中継技術を動員する様子を誇ってみせた。視 聴者は,この放送を通じて東京に注がれる世界の目を意識化していったはず だ。そのラストコメントは,「世界は,オリンピック競技だけでなく,日本の 本当の姿を見ることになる」と締めくくっていた。
同じ年の特集「TOKYO」(63・7・1)は,イタリア賞参加を意識してか,ミ
ケランジェロ ・ アントニオーニ監督を思わせる“都会の孤独”をテーマにし たアヴァンギャルドなつくりになっている。しかし,この頃のテレビの制作 者たちは,無意識のうちに自らを《欧米の他者》として表出するという倒錯 したオリエンタリズムに囚われていたように見える。
65年,東京の人口は1000万を超えた。
現代の映像「33 ・3分の1」(65・12・3)は,団地の当選発表会のシーンで 始まる。地方から東京にやってきた人々は,子どもも増えて手狭になった住 居を変えるために,われ勝ちに郊外団地の募集に応じた。番組のタイトルは,
このときの当選確率が100人中3人だったことに由来する。そこで,カメラと マイクが3人の当選者に密着した。三者三様の以前の住環境を紹介しながら,
新生活への移行を追うが,新たな悩みも見えてくる。家賃の倍増,通勤距離 の延長,子どもの保育園探しなど,いまと変わらぬ困難が待ち構えている。
しかし,ラストシーンは,明るい音楽と楽天的なナレーションで締めくく られる。「毎朝7時,人々は団地から駅まで,起伏の多い20分の坂道を急ぐ。
駅から1時間半もかかって,ようやく東京駅に着く。だが,この人たちには,
ともかくも我が家がある。昭和40年暮れの日本では,こうした“幸福物語” さえ,まだ100人のうちわずか3人のものでしかないのである」。これからも 経済成長の恩恵に与ることを誰も疑っていなかった時代である。
同じ65年に TBS は新しいスタイルのドキュメンタリー「あなたは……」を シリーズで放送した。取材者(女子学生)は,町ゆく人にアトランダムにイ ンタビューを試みる。いわば日本版のシネマ ・ ヴェリテの試みであった。「あ なたにとって,幸せとは何ですか?」という形而上的な問いと「昨日あなた は何を食べましたか?」という形而下的な問いが,被取材者に向けて矢継ぎ 早に発せられる。さんざん相手を言語ゲームに引きずり込んだ挙句,「あなた は誰ですか?」と紋切り型の質問を投げかける。サラリーマンは言葉に窮し て黙ってしまう。その沈黙が限度に達したころあいに,電車がホームに滑り 込んでくる。彼は満員電車に飛び乗り,すし詰めの中に体を押し込む動作を 見せる。これが答えである。この人は,もしかしたら33 ・3分の1の確率で,
郊外団地を手に入れた幸運を噛みしめるサラリーマンの一人だったのかもし れない。
テレビは,こうした市民生活の細部や意識の内部にまで分け入り,その映 像記録の集積として,東京という巨大都市を活写しながら,一方で,東京を あたかも得体の知れない生きものを観察するように「東京論」を展開していっ た。このメディア構造は,東京を描く本人もまたテレビ局の一員であり,サ ラリーマンとしての悲哀も喜びも抱えながら,同時に他者の集合体としての 東京を描き出していた。
2)東京と東北の位置
1970年前後,東京の人口は,1150万前後で推移している。区部では,約880 万でほぼ飽和状態に達し,残りの増加分270万を西の郡部で吸収していた。西 新宿一帯は,70年前は武蔵野の風景が広がり15),都民の飲料水を供給する淀橋 浄水場があった。都は,これを売却し,副都心として再開発しようとした。
副都心は人口を吸収する地帯ではなく,あくまでも西郊の労働人口を遅滞 なく都心のオフィス街に輸送するためのターミナル機能を期待された。
特集ドキュメンタリー「新宿~都市と人間に関するリポート~」(70・11・
3)は,全編を通じて,不思議なナレーショを繰り返す。番組冒頭部分,「村 を出る。街を離れる。そして人々は街に集まる」。二度目は,これに続けて
「昭和45年(70年)この街に何があったか。街は誰がつくるのか。街とは何 か」と,ターミナル地点新宿で起こりつつある出来事に関心を寄せていく。
このリフレインの合間に,さまざまな登場人物や都市計画が軋みを上げなが ら挿入される。登場人物は,集団就職列車に乗ってきた中学卒業生,家出少 年,戦後闇市の親分,学生運動家,機動隊員,歌舞伎町自衛団,都市計画の 推進者,都市工学のデザイナーなど。
こうした登場人物の欲望を満たすように,人間があたかも水槽の中を遊弋 する魚のようにデザインされる。新宿駅の設計に,人間工学が何の疑いもな く応用されている。
仕事帰りのサラリーマンや学校帰りの学生たちは,しかし“人間交差点” として設計された新宿駅を格好の待ち合わせ場所に選んでしまう。人々は,
魚のようにはすれ違わず,駅のコンコースに滞留する,警察官が移動を促す が,かえって反発を招き,そもそもの設計思想が見抜かれてしまう。若者た ちはただちに新宿駅西口を「通路」ではなく「広場」として占拠し,「西口 フォークゲリラ」を出現させた。警察は彼らをデモ規制の名目で排除するの ではなく,「道路交通法違反」を適用した。
都電歌舞伎町駅の撤去,歩行者天国の導入,京王プラザホテルの竣工式な ど,変化してやまない新宿副都心のビルの谷間に,一人の老婆が半地下の旧 防空壕に暮らしている。立ち退きを求められているが,ここで一生を終えた いと言う。彼女は2・26事件の年,1936年に青森県津軽から上京してきた。こ の場所で,子どもを育て,戦争にとられ,自身もここで空襲を受けた。最近,
貯めた金で自分の墓を買った。東北という「場所」の磁場が,この半地下に 根を張っている。
新宿駅は通路(passage)であり,広場(plaza)ではないという人間工学 的な設計思想は,あえなく拒絶され,やがて新宿駅構内の騒擾事件に発展す る。新しい副都心に選ばれた新宿は,東北が排出する諸変化の受け皿として の「場所」になる。番組中,浮かれ騒ぐ群衆をバックに新宿の日本一が列挙 される。「駅の乗降客,学生の数,デパートの売上,アパートの数,ホテルの 数,飲み屋の数,ケンカの数,家出少年の数,救急車の出動回数,ゴミの量,
東口駅前の土地の値段」。それらは「捨て場」の構成要素に他ならない。
ラストシーンは路上に溢れる学生たちと通行人の群れ。例の風変わりなナ レーションが繰り返される。「人々はまた新しい街に集まる。街はふくれ上が る。街は空にのび,地下にもぐり,また新しい街をつぎたす。街とは何か。
街は誰がつくるのか」。
このころの東京はまだ「場所」として,その対極に東北を持っていた。ド キュメンタリー「新宿」の制作者は,3年前に東北を舞台とするドキュメン
タリー「和賀郡和賀町~1967年 ・ 夏~」(67・11・1)をつくっていた。典型 的な人口流出の地域である。奥羽山系の山ふところにある農村の「ひと夏の 記録」のために,複数のカメラが使用された。その直接的な理由は,東京へ の出稼ぎ者,集団就職者がお盆休みで一斉に帰郷するため,この時期に村の 年間行事(成人式,老人会,終戦記念日,ブラジル移民の壮行会など)が集 中する様を記録するためであった。場所の圧縮と時間の拡張,それに編集プ ロセスが加わって,夏のひととき生者と死者が出会い混じり合う不思議な番 組である。
見えてくるのは,全国総合開発計画(第二次構造改革事業)という国策で,
農業の大規模化,機械化が急速に進み,食管制度に守られて生産者米価は跳 ね上がり,農協には余剰米が山積みとなり,地域の貯蓄が嵩む。しかし,農 家の次三男に仕事はなく,出稼ぎ以外の道は閉ざされている。人口移動が村 をつぶし,町をつくるリアルな構図。8月15日の盆踊り。その合間に戦争中 の忌まわしい記憶が語られる。東北の兵士は中国戦線から南方の激戦地に転 戦し苦労を重ねた。捕虜の虐待,人肉食の告白が続く。
こうした大河ドキュメンタリーの手法が明らかにしたのは,この村が戦前 ・ 戦後を通してずっと「帝都」東京の後背地として,労働力と食糧を供給して きた具体的な「場所」であり,悪く言えば「用地」だったということだ。「和 賀郡和賀町」は「新宿」と一対の「場所」として東京論の原型を成していた ということができる。
3)東京に食い込んだ地方
70年代前半のテレビは,東京の中にくい込んだ地方の風景を,幻視するか のように切り取ろうとするが,そこに出現したのは徹底した「無場所性」で ある。
このころ,マクドナルド1号店が銀座にオープン。ハンバーガー一個80円,
一日の売上100万円を記録(71年)。東京23区が排出するゴミは一日1300トン,
当時もっとも高層だった霞が関ビルが13日で満杯になる計算(71年)。国税
庁,土地の最高路線価を発表,1位は東京新宿のパーラー高野前,一坪540万 円(72年)。NHK カラーテレビの受信契約数が白黒テレビを超える(72年)。
農地の宅地並み課税が始まる(73年)。経済企画庁は「庭付き一戸建て住宅は 夢」と指摘(73年)。便乗値上げ,トイレットペーパーの買い占め,狂乱物価
(73年)etc.
番組リスト③ 1970年代初頭
1970・11・3 ★特集ドキュメンタリー「新宿~都市と人間に関するリポート~」
1971・6・4 現代の記録 東京0番地 1973・1・8 新日本紀行 東京 ・ 山川草木
(★印は,エポック ・ メイキングな番組である。以下同様)
現代の記録「東京0番地」(71・6・4)は,銀座からわずか4キロ,東京湾に 隣接する一風変わったコミューンのいまを記録した。戦後,無一物になった 人々がここで身を寄せ合い,「農耕会」という名の開拓団を作って暮らしてき た。高度成長の過程で,なんども立ち退きを迫られたが,その度に団結して 住み着いてきた。新宿が副都心として,東京のアメーバー的な増殖の最前線 だとすれば,ここは後退に後退を重ねてきた人々の終の棲家となった。住所 は「江東区塩見一丁目無番地」。時間が止まり,空間ですらもない,しかし,
まぎれもない日本の戦後が凝縮した「場所」である。ここも,ドキュメンタ リー「新宿」に登場した老婆の防空壕と同じ紛れもない人間の「場所」なの である。都は再開発用地とするために彼らに立ち退きを迫っている。番組は,
ここが「場所」から「空間」に変わる直前の時間を記録していた。
新日本紀行「東京 ・ 山川草木」(73・1・8)は,上記二本とは趣を異にして,
東京の喧騒の中にあえて「沈黙」を求めて旅に出るという野心的な番組であっ た。
皇居前広場の玉砂利をバックに,こんなナレーションがつく。「都会の不思 議な沈黙に,しばらくは浸っていましたが,私たちは沈黙が通る道を探して,
東京を歩いてみようと考えました」。
次のシーンは日本初の高層住宅,高島平高層団地である。その谷間で,青 森県出身の歌手三上寛が「東京だよおっかさん」を絶叫する。「そりゃあ俺 だって叫んでみたさ。助けてくれとも叫んでもみたさ。三文判を握り締め,
並んでもらった給料袋……」。集団就職,金の卵,永山則夫による連続射殺事 件を連想させる。歌のバックの映像は,これから廃棄されていく大量の都電 が並ぶ車庫に変わる。次に,カメラは,前述「東京0番地」にそっくりなバ ラック建ての区域に入り込む。「ここは,都会のスクラップが築いた町です。
一人ひとりがその半生に深い物語を秘めているのに,もう多くを語らなくなっ た無言のまちです」。新旧交代の谷間を通り過ぎるうちに,まず「沈黙」や
「無言」が都会の片隅にひっそりと暮らす人々のものであることが分かり,や がて,交差する高速道路やそびえ立つ東京タワーが人工の「山川草木」であっ たことに気づくころ,都会の喧騒が地鳴りのようによみがえり,「沈黙」(純 粋持続)が跡形もなく消えていく。これは,都市の「創造的破壊」の映像化 であった16)。
この番組のファーストカットは,3・11以後すっかり有名になった東京電力 の本社ビルである。当時すでに,福島第一原発1号機が稼働二年目,2号機 以下は完成間際だった。東電は,40年前には東京の活力のシンボルだったの である。この映像に映る日比谷の東電ビルに,対極の「場所」福島の匂いは まったく感じられない。
Ⅲ 「空間」としての東京
1)定点観測
72年の田中角栄首相の日本列島改造論を梃子に建設ブームが起こり,景気 が上向き始めた矢先,73年10月6日の第4次中東戦争の勃発とともに石油価 格が暴騰,欧米先進工業国は減速経済に舵をきったが,日本は省エネにつと め半導体部門に活路を見出した。経済の成長神話は容易には崩れなかった。
しかし,仔細に見ると人々は起伏のある都市生活を送っていたことが分かる。
このころのドキュメンタリーは,東京を大きなフィールドに見立て,その 細部を定点観測するものが多かった。細部を見ていけば,景気の動向や政策 の変化に翻弄される庶民の姿を捉えることができるという共通認識があった。
番組リスト④ 1970年代中頃 1973・6・29 ドキュメンタリー「老人危険地図」
1973・7・27 ドキュメンタリー「本牧コンテナヤードA5」
1974・11・13 ★特集ドキュメンタリー「メッシュマップ東京」
1975・3・28 ドキュメンタリー「最後の集団就職列車~岩手県岩手郡西根ほか~」
1975・4・11 ドキュメンタリー「安楽死志願」
1975・7・11 ドキュメンタリー「みみずのたわごと」(環状8号線)
1975・12・5 ドキュメンタリー「近隣騒音」
上記の番組群の上に,ひとつの「東京論」が構想された。特集ドキュメン タリー「メッシュマップ東京」(74・11・13)である。
この時期,東京の人口は1150~60万人でほぼ安定していた。人口の「分母」
が安定化したことで,東京の中で起きる現象を「空間」の中で数量化するこ とが可能になった。メディアは,生活者の様態を統計的に把握する行政の視 線にも注目するようになった。当然のことながら,東京の住民と行政の相互 関係にも取材範囲を広げていった。
「メッシュマップ東京」の前後にどのような番組があったのか,そこに使わ れた言葉(ナレーションと登場人物の語り)をピックアップしてみた。
「老人危険地図」(73・6・29):一人暮らしの老人の家が火元であった。家屋 消失後まもなく,老人はホーム入所を断って,行方を告げずここを去った。
消防署は,危険な老人世帯の分布を調査した。豪邸に,91歳のおばあさんが 一人で住んでいた。(その独白)「いまの首相は,なんだか新潟の人だそうで すね,存じませんけど。私のかかりつけの医者はね,田園調布の中央病院。
そこのお医者が,お注射をなんだか知らないけど,ここへちょっとして,そ して帰りますよ。そういう人が,たまーにいらっしゃるね」。決して孤独を訴
えたりしない。消防署は,老人に着目して危険地図をつくる。
「安楽死志願」(75・4・11):「私はいまが死にどきと思います」,こんな書き 出しで始まるショッキングな,しかし,たしかな字体で書かれた老人の手紙 が私たちのところに届きました。(その老婆の言葉)「(生活保護費は)死に金 でしょ?だって,お釣りがこないもの。みんなの税金でしょ。……ただ一列 一隊に生きろって言わないで,生きたいか死にたいか選択の自由,それが本 当の慈悲だと思います」。
「近隣騒音」(75・12・5):行政に寄せられる苦情のうち最も多いのは隣近所 の騒音である。その件数は,東京の都心より西の郊外に行くにつれて多くな る。静かなところほど小さな音が耳につくのである。……都心を追われた町 工場が,東京湾の六号埋立地に移転した。(工場主)「ここなら誰にも文句を 言われない,ばんばんやるぞ」。(そのとき,羽田を飛び立ったジェット機の 轟音が頭上に鳴り響いた)。(工場主)「まいったなあ」。騒音をもっと大きな 音で消してしまう。ここでは「近隣騒音」という言葉だけは消えた。
以上の番組を見るかぎり,このころの東京は,先進諸国が安定経済に転じ たのとは対照的に,経済成長路線をやめられない国の首都として,人々の生 活はどんどん細分化していくが,その反面,構造的な弱者を膨大に生み出し,
それを抱え込みつつあるように見えた。テレビは,そうした細部の日常を克 明に記録していた。
資産家の老婆の存在は,もはや貧富の尺度を外れ,消防的視点からもっぱ らカウントされる。/ 安楽死を願う老婆に,近所の人は冷淡だ。いきおい テレビ局に投書し,取材を受ける。どこかうれしそうで,女学校時代に習っ た英語が口をついて出る。「死にたい」という人の表情ではない。/ 隣のピ アノが「騒音」に聞こえて殺人事件が起こった。静かな環境を手に入れるの に対価を払った人たち同士は,互いに無関心だが利害には妥協がない。隣家 の物音は容易に殺意に変わる。テレビの取材が入ると,ひたすら「あの音が 私を殺す」と訴えるが,けして隣人の名を口にすることはない。
これらのエピソードは,本来なら都市の喧騒のなかに埋没してしまう話ば
かりだ。しかし,テレビはどんな微細なものでも可視化してしまう。クロー ズアップされた東京の素顔は,じつに貧相でなおかつ饒舌であった。
2)レインボーカラーの東京地図
以上のような細部の集積の上に特集「メッシュマップ東京」がある。この 番組は,国政,都政を問わず,さまざまな行政が自らの課題にそって集めた データを,とりあえずその目的を離れてニュートラルなデータとしてかき集 めた。それらは,東京の地図上に1キロ四方のメッシュ(網)をかけ,統計 値をレインボーカラーで色分けしたデータ ・ マップである。番組制作者は,
それらのメッシュマップを重ね合わせることで,行政が描くのとは別の東京 の姿を発見できると考えた。「網目の中の現実」は,意外な東京の素顔を隠し ていた。
メッシュマップは,火災に関するもの10種類,騒音や大気汚染など公害に 関するもの3種類,木造アパートの分布,マンションの分布など,土地建物,
都市計画に関するもの40種類,緑地の分布,救急病院の分布,人口に関する もの,産業に関するものなど40種類以上。
東京都首都整備局が発行した人口分布図は,500メートル四方のメッシュが かけられていた。その中に100人単位の数字が記入されていた。それを人口密 集地域の「赤」から過疎地域の「紫」まで色分けする。取材班は,この地図 を手がかりに東京の街を歩く。
東京でもっとも人口密度が高いのは,台東区清川2丁目の1万4000人。こ こは通称山谷,日雇い労働者の「寄せ場」である。カメラはドヤ街に入り込 み,3回にわたって日雇い労働者の生活を記録する。行くたびに店の値札の 数字が跳ね上がっていた。
次に人口密度が高い高島平団地では,当然ながら出生率が高いが,反面,
自殺率も高い。カメラは,消防署に陣取り,時々刻々に入ってくる人びとの 119番の悲鳴を記録し続ける。取材者は,東京都の人口が1150万で平衡してい ることの意味,生と死の不謹慎な均衡を描き出してしまう。
次に取材班は工事現場の死亡事故のリストを手に入れる。その半数が転落 事故であった。それをもとに東京の地図の上に独自のメッシュマップを作製 した。すると,高い数字を表す赤とそれに近い色の分布が,何本かのカーブ した線を浮かび上がらせた。それは地下鉄,高速道路,湾岸道路の建設現場 とぴたりと重なっていた。高度成長と死者数の一致である。
霊柩車がゆっくりと走ってくる。そこに三味線の悲しげな音がかぶさる。
「死者の出身地は,岩手県,北上山系の谷あいの村である。契約期間7ヶ月,
契約年月日4月27日,死亡年月日7月25日。後に妻と5人の子どもが残され た」。この男性は,東京に出てきてわずか3ヶ月で死亡した。泣きくれる妻の カットの次に,丸の内のオフィス街の移動ショット(「東京山川草木」の映像 に似る)が続く。「かつて労働災害の中で建設現場の占める割合は,他の産業 に比べてけっして高くはなかった。だが,いま死亡者の半分は,建設現場の 事故が原因である。そして,死亡者の多くが出稼ぎ農民である」。複数のメッ シュマップを取材者が独自に重ね合わせた結果見えてきた出稼ぎ者の軌跡で あった。
ある日,取材班は中央線高尾駅の始発に同乗する。一人の男性に話しかけ る。明治神宮の掃除を13年間しているという。その前の仕事を尋ねると,「田 舎で百姓やっていた。百姓じゃあ食えないからこっちに出てきたわけだ。最 初は出稼ぎ」。男性はここで言葉を切った。おそらく故郷への仕送りが滞るよ うになり,帰ることもできず東京に住みついたのであろう。
経験の浅い出稼ぎ者は工事現場で死に,生き延びた出稼ぎ者は東京の片隅 でひっそりと暮していた。
東京の街では日々なにごとかが起きているが,当然だがそのすべてを見る ことはできない。もはや伝統的な地番の匂いを消しつつある街。そこで,取 材者がなにごとかを発見しようとすれば,聞き込みや偶然のチャンスに身を 任せるしかなくなる。「メッシュマップ東京」は,どんなにあがいても消すこ とができないカメラやマイクの恣意性を,せめて数値化された「空間」の中 で排除し,新たなリアリティを手に入れようとした番組である。行政の目に
さらされ管理され「空間化」された東京が,取材者にこの方法を取らせたの である。
Ⅳ 「時間」としての東京
1)東京マネーが走り抜ける
1980年代前半,景気回復に合わせて首都圏の人口は増加に転じた。特に,
後半はバブル経済も手伝って70万人以上の純流入があった。
1985年,日本を含むG5は,アメリカの対日貿易赤字を解消するために,
実質的な円高 ・ ドル安の誘導を行った。いわゆるプラザ合意である。円高は 日本に米国資産の買いあさりや海外旅行ブームをもたらした。同時に,日本 政府は経済構造調整研究会を設置し,経常収支の対米不均衡を是正し,同時 に国民生活の質を向上させるために,「内需拡大」,「市場開放」,「金融の自由 化」などを柱とする経済政策を採用した。
そのために,東京では土地が投機の対象となり,マネーが町並みを激しく 変えていった。世界中から,著名なデザイナーがやってきて,東京の土地の 記憶を無視したポストモダン建築やインテリアをあちこちにばら撒いていっ た。大正,昭和のモダニズムは“引用して消費する対象”とみなされ,豪華 な新築の外壁や内装をめまぐるしく変えた。「世の中は三日見ぬ間に桜かな」
という江戸の俳句は,バブル期には,「三日見ぬ間の東京」と詠みかえられ た。
やがて,東京マネーは日本列島のすみずみまで溢れ出た。87年には,リゾー ト法(総合保養地整備法)が制定され,それまで厳しかった農山漁村開発の 規制が緩和された。東京のディベロッパーたちは,コンピューターのパラメー ターを微調整するだけでスキー場,ゴルフ場,リゾート ・ ホテルなどを全国 に乱立させた。その際,「日本でただ一つの」というキャッチコピーのもと で,画一的な大量生産(フォーディズム)ではなく「少量多品種」が売りと なった。確かに,同じものは二つとないが,全体としては同じような印象を
与えるデザインが溢れた。地方自治体は,第三セクターを立ち上げて,一斉 に“ふるさとの風景”を売りに出した。規制緩和,内需拡大の受け皿が公共 事業だけという構図はいまも変わらない。
番組リスト⑤ 80年代後半~90年前後
1985・7・7 NHK 特集「カメラが追ったニッポン24時間~世界の写真家は何を 見たか~」
1985・12・20 NHK 特集「新宿歌舞伎町~何が街を変えるのか~」
1987・11・13 NHK 特集「トウキョウ ・ トライアングル~世界の金融マンが集まる街~」(兜町 ・ 大手町 ・ 日比谷)
1988・2・1 NHK 特集「追跡 原野商法 全国シンジケート」
1988・3・24 教育テレビスペシャル「日本 ・ その心とかたち 第9集 東京 ・ 変 わりゆく都市」
1988・12・13 ETV8「東京 ・ 近代都市計画の100年」
1989・3・12 NHK 特集「東京百年物語」
1989・11・19 ★ NHK スペシャル「Tokyo スピード~21世紀デザイン都市~」
1990・7・28 NHK スペシャル「日本リゾート列島~ふるさとの風景が変るとき~」
1991・6・15 NHK スペシャル「日本列島縦断 今,ムラが買われている」
80年代後半から90年前後,テレビが東京を描く指標は「時間」,「スピード」
であった。デザイナーたちの合言葉は「トウキョウ ・ スピードについていけ るか」であった。
1889年に日本初の都市計画といわれる「東京市区改正条例」が施行されて から100年間,東京は明治の帝都改造,関東大震災後の復興計画,東京大空襲 後の戦後復興,そして東京オリンピック前の都市機能の大改造などを経験し た。そして100年目は東京マネーが走り抜けた跡に,奇抜な建造物やデザイン が CG 画像のように出現した。100年間の近代化のスピードと,バブル期の膨 張スピードが激しく交差し,瞬間的なスピードがピークに達したのである。
当時,「電脳都市東京」という言葉がもてはやされた。
NHK スペシャル「Tokyo スピード~21世紀デザイン都市~」(89・11・19)