分散的相互作用の探求 : スターロゴの世界への案 内
その他のタイトル Explorations in Distributed Interactions : Invitations to StarLogo World
著者 雨宮 俊彦
雑誌名 関西大学社会学部紀要
巻 29
号 1
ページ 23‑158
発行年 1997‑05‑25
URL http://hdl.handle.net/10112/00022482
分散的相互作用の探求
ースターロゴの世界への案内—
雨 宮 俊 彦
Explorations in Distributed Interactions: Invitations to StarLogo World.
Toshihiko AMEMIYA
Abstract
StarlDgo, a parallel and advanced version of IDgo, is a tool to explore the phenomena of emergence of order from local interactions in decentralized system. In the micro‑叩 『Idof StarlDgo、turtlesas agents interact with each other and also with patches as environment (embodied as some kind of cellular automata). An important characteristic of Starlogo is the active role played切theenvironment In the first part of the article, the author's frame for the under‑ standings of the emergence from interactions is presented. It is a frame to classify the various kinds of interactions, from distributed interactions to joint interactions, and from direct interactions to environment‑mediated‑interactions. In the next part of the article, distributed construction ism, that is a backbone idea of StarlDgo projects, is presented. Finally StarlDgo as a computer language and typical Sta心goprograms are introduced and annotated in some detail.
Key Words: StarLogo, Decentralized System, Distributed Constructionism, Cellular Automata, Agents, Emergence, Environment‑Mediated‑Emergence, Self‑Organization, Interaction, Spontaneous Order, Artifacts, Cultural Scaffolding
抄 録
スターロゴは,並列版のロゴで,脱中心的システムにおける局所的相互作用からの秩序の創発を探 求するためのツールである。スターロゴのミクロ世界では,セルラー・オートマタのパッチ環境のう えで,エージェントとしてのタートルが,互いに,また環境と相互作用する。スターロゴの重要な特 徴のひとつは,環境がアクテイプな役割をしめすことである。論文の前半では,相互作用からの創発 についての著者の立場が提示された。これは,相互作用を分散的なものと連結的なもの,直接的なも のと環境媒介的なものにわけ,種々のクイプの相互作用からの創発を総合的にとらえていこうとする ものである。論文の後半では,スターロゴの背景にある分散的構成主義のかんがえが紹介され,スタ ーロゴ言語と典型的なプロジェクトについて解説された。
キーワード:スターロゴ,脱中心的システム,分散的構成主義,セルラー・オートマク.ェージェン ト,創発.環境媒介的創発.自己組織化,相互作用,自成的秩序.人工物.文化的足場
本論文の5.タートルグラフィックスと7.タートルダイナミックスは関西大学社会学部四年生の水谷聡秀氏 の協力によるものです。氏の協力にこころから感謝いたします。付録は, MIT Media LaboratoryのEpis‑ temology and Leamig Groupの資料を翻訳したものです。翻訳出版の許可とスターロゴの開発にたいして,同
グループと代表のMitchelResnick教授に感謝の意を表します。本論文にかんする連絡は,[email protected]ansai
‑u. ac. jp宛にしてください。
目 次 1. 相互作用からの創発
2. 分散的相互作用の基礎 3. 環境媒介的相互作用からの創発 4. 分散的構成主義とスターロゴの世界 5. タートル・グラフィックス 6. パッチ・ダイナミックス 7. タートル・ダイナミックス 8. タートル・パッチ・ダイナミックス
付録.スターロゴ・レファレンス 1. インタフェース・レファレンス 2. コマンド・レファレンス
本論文は,ふたつの部分からなっている。 1から3までが,相互作用からの創発にかんする 著者の立場と理論の概要の提示である。 4以降がスターロゴの紹介である。
スターロゴは,パパートが開発したロゴのあとをうけて,おなじく MITメディア・ラポの認 識論・学習グループとその代表者レズニックが開発した,並列版のロゴである。スターロゴを つかうと,粘菌の群体形成,白蟻の巣作り,鳥や魚の群形成,交通渋滞,捕食者・被捕食者の 人ロダイナミズム,すみわけ,ライフゲーム,野火,など,種々の現象が局所的な相互作用か ら創発するようすを,ごく簡単にプログラムして探求することができる。スターロゴは,研究 用のツールであるとともに,ロゴとおなじく,教育用のツールとしてデザインされている。レ ズニックの本には,高校生がスターロゴで,種々の現象を探求しているようすがいきいきと描 かれている (Resnick,M. 1994)。ロゴがアルゴリズム的思考を理解するためのツールであると
したら,スターロゴは脱中心的な思考,逼在する相互作用からたちあらわれる秩序のしくみを 理解するためのツールである。スターロゴという名前は,スターリスプやスター Cなどと同様,
コネクション・マシンにインプリメントされた並列版ロゴという意味とのことである(スター ロゴは,最初コネクション・マシン用に開発された)。同時に,レズニックの本の序文のエピソ ードからすると,スターには星の意味もあるらしい。子どものころのレズニックが,星座の名 前をきいて,星のない間の空間はどうなっているのかとおもったというエピソードである。だ から,スターには,たくさんの要索という意味と,焦点化し,中心化する思考にたいする,疑 問符という意味もふくまれているのかもしれない。スターロゴのプログラムは,インターネッ
トをつうじて,スターロゴのユーザー・グループに登録すれば,関連する文書とともにダウン ロードできる。インターネットのアドレスは, http://www.media.mit.edu/‑starlogo/である。
現在提供されている,スターロゴは,Macintosh版のみで,version2が1997年6月1日にリリー スされている。本論文の紹介は, Macintosh版のversion2にもとづいている。
当初の予定では,本論文は,相互作用からの創発にかんする著者の立場と理論の展開を中心
にし,スターロゴについては,他のシミュレータの紹介とともに,すべてを付録でおこなう予 定だった。しかし,予定していた内容の相互作用からの創発にかんする記述の準備が締め切り に間にあわず,また,本論,付録ともに分量が膨大になることが判明したため,目次のような 構成に変更した。スターロゴは研究,教育の双方の観点からみて魅力的なツールであり,また,
相互作用からの創発をうんぬんするうえで探求ツールがなくては意味をなさないので,スター ロゴの紹介が中心で著者の理論はその前書きというような構成にした。このため,著者の立場 と理論の提示は,要点だけにきりつめたものになっていて,理解しにくい部分があるかもしれ ない。著者の立場と理論については,今後,何回かにわけて,より具体的に詳述する予定であ る。また,世論やポス形成など,社会的相互作用にかんして,スターロゴをつかったシミュレ ーションも予定していたが,今回の論文にはまにあわなかった。これについても,機会をあら ためて報告したい。
1. 相互作用からの創発
1. 1. 正当化設計主議と選択主羮
人間には,雑多でふたしかな現実にたいして,無垢で確実な源泉,たしかなよりどころとな るものをどこかにもとめたいという,根深い傾向があるらしい。プラトンは,イデアという理 念の世界を発案して,これこそ,ふたしかで影のような現実にたいし,真の知識の源泉だとと なえた。デカルトは,うまれながらにそなわった単純で判明な観念への判断能力こそ,確かな 知識の根拠だと主張した。一方,ロックなどの経験主義者は,イデアや生得的観念を拒絶し,
タプラ・ラサに刻印される外界からの情報やセンスデータこそ知識の源泉だと主張した。プラ トンやデカルトなどの合理主義者とロックなどの経験主義者は,対極的な立場にたつようにみ える。しかし,確実で正しい知識を,知識のえられる源泉や,知識を導出する手続きによって 正当化できると信じているという点では,おなじである。こういった,知識観をポパーは正当 化主義とよび,合理主義者と経験主義者を,正当化主義のコインの両面のようなものであると 指摘した (Popper,K, R. 1~68) 。
20世紀の認識論のもっとも重要な達成のひとつは,知識の正当化主義のプログラムをつきつ めて,その破産を確認したことである。今世紀前半における知識の正当化主義のもっとも明確 で強力なプログラムは,数学における公理主義と哲学における論理実証主義である。
数学における公理主義は,公理から正しいことが保証されるような命題のみが導き出せるよ うな公理系が構築できることを証明しようとした。しかし,この数学者にとっての「究極の精 神健康プロジェクト」は,算術が可能な程度に豊かな公理系にたいしては達成不可能であるこ
とが,ゲーデルによって証明されてしまった (Smithson,M. 1989)。
一方,論理実証主義では,数学や論理学の命題はわれわれのとりきめによって真であるが(規
約主義),経験的命題の意味,真偽はその検証条件によってあたえられる(検証主義)と主張し た。規約主義と検証主義,そのどちらも,その後の分析哲学の進展をつうじて否定されていく。
その過程は,飯田(1989)に論証をおさえながら,分析哲学の専門家でないものにもわかりやす く記述されている。ごくおおざっぱにいえば,規約によって真といっても,規約をなぜ適用す るかの規約やまたその規約といった事態になるし,検証といっても,知識をはためいている布 地,現実をその下の地形とすれば,実際に検証しとめることができるのは,何力所かのきわだ った点にすぎないし,知識の布地の縦糸,横糸には分析的命題と経験的命題が連続的にいりま
じっていて両者を分けることなどできない (Quine1953)というようなことである。
こうした否定の運動の結果,クワインなどの分析哲学の主流派が,今世紀後半に到達した知 識は,文脈に依拠したプラグマティズム,ある種漠とした全体主義といったところのようだ。
これは,正当化主義という知的運動を,認識論と言語哲学における厳密な論証をつうじて,そ の帰結までおいつめた過程としてはきわめて重要である。しかし,わたしのかんがえでは,そ の到達した地点自体は,さほど重視するにたらないものである。正当化主義にかわる知的運動 のスタートになるようなものではない。
知識の正当化主義は,純粋な認識論や言語哲学の領城にとどまらず,社会科学の領域にもふ かい影をおとしている。ハイエクは,認識論における知識の正当化主義,とくに合理主義と平 行的な社会科学の立場として,経済学における計画経済論,社会学における社会契約論,法学 における法実証主義をまとめて構成主義 (Constructivism)として位置づけ,徹底的な批判を 展開してきた(Hayek,F. A. 1952, 1982)。(経験論に対応するのは,各個人別々の功利計算を,
基礎デークとして社会のルールを正当化できるとかんがえた,ベンサム流の功利主義だろう。)
構成主義とは,「われわれの「理性」が,明晰判明に真であると認識される観念から,一定の 手続きに従って構成したものだけを真であると受け入れ,それに従って社会を変革していこう
とする立場である。」(渡辺1996.p.6)。社会契約論は,暗黙のルールの共有に依拠することなし に,個人間の意識的判断で社会のルールを最初からたちあげられると錯覚している。法実証主 義もやはり,共有された暗黙のルールに依拠し明文化されうる自然法の存在をみとめず,一定 の手続きにしたがって制定されさえすればすべて一律に法だとして認定してしまう。社会契約 論と法実証主義のプログラムは,厳密に追求すれば,論理実証主義における規約主義の場合と おなじアポリアに逢着するだろう。計画経済論は,経済運営に必要な知識がすぺて明示的に記 号化でき中央で集中管理できるという前提をおいている。このかんがえは,第一に,状況から きりはなして記号化できる情報を過大に評価し現場の暗黙知の役割をみおとしている (Polanyi, M. 1962.)。第二にかりに情報を状況からきりはなして記号化し集中できたとして も,計画と指令のために必要な計算量が容易に組み合わせ論的な爆発をおこし,処理不能にな ることをみおとしている(塩沢1990, 1997)。計画経済論は,ローカルな現場の暗黙知の重要性 と,計算の複雑さが中央処理では手におえないことをみおとしたため,まともに実施できるも
のではない。
社会契約論,法実証主義,計画経済論,これらは,純粋の認識論の場合とちがって,たんな る知的な過ちにとどまらず,社会的に重大な結果をもたらしてきた。ハイエクによれば,これ らのおもいあがった思想によって,社会を変革しようとするこころみの結果,人間の社会にと って大切な自生的秩序が浸食され,多くの悲惨がもたらされた。社会契約論は集団が伝統的に うけついできた規範への尊敬を浸食し,法実証主義はシュミットの場合にあきらかなように,
自然法というかんがえをないがしろにした結果,最終的にはナチによる虐殺と非道を正当化す ることになった。計画経済論は自生的秩序としての市場を破壊する。社会主義は,計画経済論,
法実証主義,社会契約論をくみあわせた最強の自生的秩序破壊装置である。 20世紀後半のわれ われは,ソビエト,毛沢東の中国,ポルポトのカンボジアなどに,それがなにをもたらしたか を眼にしている。
ハイエクが社会契約論,法実証主義,計画経済論などをまとめて,構成主義(Constructivism) とよんだのは,社会の自生的秩序をないがしろにし,合理主義的理論を確かなものとおもいあ がり,それにもとづいて社会を構成しようとするからである。この構成主義という言葉は,社 会思想については適当かもしれないが,ピアジェなどの認識論者のいう構成主義 (Con‑ structionism)という言葉のつかいかたとまぎらわしい。ピアジェなどが構成主義というのは,
大人による子供への教え込み中心のかんがえを否定して,子供自身が環境と相互作用しつつ,
認識を構成していくことの一義性を強調してのことである。だから,ピアジェなどのいう構成 主義はいうなら子供という有機体による自成的秩序の構成のことであり,合理主義者による子 供や社会の勝手な構成ではない。
ハイエクの構成主義は,ピアジェなどの構成主義にくらべれば,まだ,あまり一般的ではな い。だから,混乱をふせぐために,ハイエクのConstructivismについては,意訳して,設計主 義とする。また,ハイエクのConstructivismもふくめて,正当化主義にもとづく政策一般を設 計主義とよぶ。設計主義を,これがもとづく認識論的な正当化主義もふくめてさすときには,
ややぎこちない用語になるが正当化設計主義とよぶことにする。
正当化主義にかわる立場は,選択主義である。この立場は,正当化主義にかわるものとして ポパーが提唱した。ポパーはヒュームの帰納批判を承認し,帰納の正当化が不可能であること をみとめ,知識の正当化主義の路線をすてた。かわって,われわれには,誤った仮説を除去し,
真理に近づくことができるだけだという,知識の選択主義の立場をとった。この立場は,進化 の自然選択説とパラレルであり,ポパーは後に,進化的知識論を提案するようになる(Popper, K, R. 1972)。
正当化主義と選択主義の対立は,基本的である。両者は正しさが何によるのかの方向がちょ うど逆方向をむいている。正当化主義では,正しさの根拠が前提におかれる。正しい前提から は,つねに正しい結果がでてくる。正しい教えにしたがえば,まちがうはずはない。だから,
かりに,まちがった,あるいは,不都合な結果がえられたとしたら,妨害や,偏見による汚染,
陰謀があったからということになる。正しさを達成しようとする努力は,自由な批判的議論や 事実にもとづく検証ではなく,もっぱら偏見や汚染からの妨害の除去におかれる。偏見や汚染 を除去すれば,無垢の真実,絶対的な真理があらわれる。これにたいし,選択主義では前提の 正しさは結果から遡及的に,間接的に確証できるだけである。ポパーが偽の逆転送で指摘して いるように,結論があやまったなら,前提にあやまりがあることは確実にいえる。しかし,正 しい結論がえられたとしても,前提が正しいとはかぎらない。だから,確証は,つねに,ここ までについてはという限定がつく。成功してきた理論でも,新しいテストで失敗がしめされる かもしれない。逆に,とっぴもないとおもえた理論が,新しいテスト結果にてらせば,有望な 候補としてうかびあがってくるということもある。
以上,認識論の観点から,正当化主義と選択主義を対比させ,正当化主義的知識観にもとづ く設計主義の問題点を指摘した。ここでとりあえず正当化設計主義と選択主義とよんだ対立は,
認識論の領域における基礎づけ主義と可謬主義,経済の領域における計画経済と市場経済,政 治の領域における権威主義と民主主義,都市デザインの領域におけるトップダウンのデザイン と参加とフィードバックのデザイン (Alexander,C. 1965), 等々,多くの領域における重要な 諸対立と対応している。これらの対立は,それぞれの領域における固有の事情もあり,一枚岩 のものではないが,基本には,共通の認識論的対立がある。わたしのかんがえでは,計画経済,
権威主義,都市のトップダウン的なデザインなどの根底には,無知への無知 (Smithson, M.
1989), あるいは無知の否認がある。これにたいし,ひとりの認識主体や設計者の無知を自覚す るところからでてくるのは,可謬性の自覚にもとづく選択主義であり,市場経済,民主主義,
参加とフィードバックのデザインなどは,それぞれの領城における選択主義的認識論の立場に たった実践である。(ローチは,自由社会の根幹をなす柱として,自由言論・自由科学,民主主 義,市場経済の三者をあげて, とくに自由言論・自由科学の重要性を指摘し,最近の人道や人 権という立場からの言論抑圧に警鐘をならしている (Rauch,J. 1993)。認識論を根底においた
ローチの政策論は,選択主義の立場にたつものである。)
この節では,ひろい範囲にわたる諸問題を,正当化設計主義と選択主義の対比として,やや 乱暴にくくって論じた。これは,うえにのぺたように,ひろい範囲にわたる政策的,デザイン 的な諸問題の根底に認識論的対立があることを指摘したかったからである。両者を政策的にひ とくくりにして,計画をいっさい排したレッセ・フェール政策を主張しようというわけではな い。この点をあきらかにするため,以下では,まず第一に,設計主義と選択主義が共存しえな いものではなく,選択主義がベースになれば共存が可能であり,必要でもあることを指摘する。
そして,第二に,選択主義にもとづく政策的介入についてのぺる。
まず第一に,わたしは,計画経済や権威主義, トップダウンのデザインなど,設計主義を,
すべて,有害だとか,不必要だとか,いっているわけではない。限られた領域ではこれらの活
動は有益であり,必要不可欠である。サイモン (1981)は,市場をパン生地に,会社や政府機 関などの階層的な組織をプドウ粒にみなせば,市場経済はブドウパンのようなものだといった。
この比喩をかりれば,設計主義の活動がプドウ粒,選択主義にもとづく活動がパン生地である。
わたしが,主張しようとするのは,あまりにプドウ粒をおおきくしたり,メインにしたりしよ うとすると,認識論的理由から,政策として破綻をきたすということである。選択主義にもと づく活動からなるパン生地をベースにすべきであって,設計主義のプドウ粒をベースにすべき ではない。正当化設計主義が有効なのは,知識の管理が可能な,かぎられた領域においてのみ であり,ひろい領域の活動は選択主義を原理とせざるをえない。たとえば,科学の領域でも,
ある学者なり学派が,プドウ粒として,ある理論を正当化主義的に信奉し,理論擁護の活動に 邁進することは,自然なことだし,科学者のコミュニティーが選択主義を保持しているかぎり
において,有益である。ある理論の妥当性を,種々の巽論にてらしてチェックするには,その 強力な代弁者が必要だし, もし,その理論があやまっていたり無効なら,科学者集団の批判的 議論や事実による検証をつうじて,最終的には,除去されることが期待されるからである。こ れにたいし,科学者のコミュニティー全体が,ある理論への正当化主義的コミットメントを与 儀なくされ,自由な批判が抑圧されたら(たとえば,かつてのソヴィエトにおけるルイセンコ 主義の場合など),選択主義的な修正がきく余地がなくなる。そうすると,その理論は,アプリ オリに正しいという保証はないので,結果として,科学は真理にちかづく活動であることをや めることになる。プドウ粒が全体を領して,生地としての選択主義というよりどころを消去し てしまったのである。
また第二に,選択主義の立場では,全体にわたる設計主義的な計画は放棄するが,すべてを,
あるがままにするというわけではない。政策的にいえば,ブドウ粒が計画されるのにたいし,
パン生地は熟成される。選択主義にもとづく活動の産物は,計画することはできない。可能な のは,選択の諸基準の重みづけへのバイアス,選択の基準となるフィードバック情報提供の回 路の導入など,選択の諸環境への介入である。選択の基準は多重であり,また選択の環境も多 重的である。介入の結果としての選択には,よいものもあれば,そうでないものもある。
たとえば,テレビ番組などの場合,政府なり中央テレビ局なりの意志決定主体がきめた番組 だけを放映したとすれば,これは,設計主義的な番組決定である。これにたいし,視聴率など によって,多数の番組のなかから,継続する番組と廃止される番組が決まったとすれば,これ は,選択主義的な番組決定である。周知のように,視聴率の高い番組がかならずしも良質な番 組ではなく,視聴率の低い番組にも良質な番組がある。視聴率だけにもとづく番組決定は,か ならずしも最良の結果をもたらさない。番組決定には,選択主義ではなく,設計主義を適用す べきなのだろうか。そうはならない。問題は,選択主義ではなく,一面的で短期的,局所的な 基準による選択である。一面性を修正するには,スポシサーの支持も選択の基準にするとか,
視聴率の数字だけではなくその内容や番組批評も選択の基準とすることなどがかんがえられ
る。短期性を修正するには,長期間つづいた番組には有利なバイアスをかけるとか,教育への 影響を考慮した評価をするなどがかんがえられる。局所性を修正するには,個々の番組だけで はなく局全体への評価や,テレビ文化そのものへの評価,あるいはある国の文化への評価,等々 に,当該番組がどう影響するかを評価するような方法を導入するなどがかんがえられる。以上 は, とりあえずの例としてのべただけだが,選択主義といっても,選択の基準は一面的,短期 的,局所的でなくともよい。どの基準が有効かは,これも選択主義的にきめるしかないが,ど のような選択の基準を導入するか(たんなるフィードバック情報として提示され,間接的に選 択に影響する場合もふくむ)には,種々のレペルの政策的介入がありうる。これにたいし,番 組全体を設計主義的に決定すると,決定主体の認識の地平にとどまった番組の提供をくりかえ すだけにおわってしまいがちで,真の創意工夫やおもいがけない新しさの創出が阻害されるこ
とになる。
経済活動の場合でも,企業の短期的な利益追求による環境への負荷,外部経済に生ずる長期 的なマイナスを制御するためには,計画経済は有効な代替案にはならない。おおきな規模の計 画経済は,内部経済的に不効率だが,これはかならずしも,外部経済にマイナスを生じないこ とにはつながらない(たとえば,旧社会主義国における環境汚染)。部分的な計画は必要として も,経済活動全体としては,環境税などの選択へのバイアス,選択への長期的基準の導入とい った選択主義的政策を様々に導入していくしかないだろう。番組の場合とおなじく,問題は,
選択を設計におきかえるのではなく,選択の基準を,一面的,短期的,局所的なものから,ょ り多面的,長期的,全域的なものをどうとりこんだものにするかである。
選択主義にもとづく活動では,さまざまな基準による選択がありうる。ここで,どの基準に よる選択が妥当かも,選択主義的に選択されうる。選択主義では正しさの根拠を,前提ではな く結果にもとめるので,複数の選択の基準を競わせ選択するというように,個々の誤りや不適 応によるチェックを前提へ,前提へと送っていくことが自然にできる。選択主義そのものが妥 当かも,種々の領域における選択主義と正当化設計主義の結果から選択できる。これにたいし,
認識論における正当化主義で,複数の正当化を競わせるとしたら,純粋な正当化主義ではなく,
選択主義をベースにしたことになる。正当化主義は正しいとすれば,前提から,一気にすぺて の結果へむかって正しさが伝搬され,全体として正しいことになる。これに対し,選択主義で は,つねに部分的には,より間違いのすくない,より不適応でないような選択が可能だが,全 体的な正しさや適応性が保証されたような選択には,より近づけるとしても達成はできない。
正当化主義は少数の前提の正しさを拠点に,選択主義は多数の結果の比較を拠点にする。正当 化主義の認識論に依拠した設計主義が中心化の心性に,選択主義の認識論と政策がより分散化 した心性にむすびつくのはこの事実による。正当化設計主義が野心的だがやや危ないのにたい し,選択主義はより平凡で着実である。本節の前半でのべたように,認識論としても,社会理 論としても,全体的な正当化設計主義を確立しようとするこころみの破産は,すでに確認され
ている。正当化設計主義と中心化のモメントは,分散的,選択主義的に形成される全体的秩序 をおきかえるものとしてではなく,その重要な部分を構成するものとして,選択主義の枠組み のなかに適切に位置づけられる必要がある。
われわれがまだその全容を理解しきれていないような,生物や生態系といったおそろしく複 雑で適応的な秩序は,設計主義的に形成されたものではない。どこにも設計者やデザイナーは いない。これらの秩序は,漸進的変化の蓄積により,また,ある秩序が別の領城へ転用される ことにより(外適応),あるいは,ことなった領域の秩序の共生により,選択主義的に形成され たものである (Clark,A. 1989)。人間の言語や文化といった自生的秩序についても,設計者や デザイナーはいない。正当化設計主義は,文字の文化とともにはじまった。明示的な記号の組 み合わせによって秩序を構成しようという,まったくあたらしい営みである。これは基本的に は,自然や文化の自生的秩序のうえに成立した明示的な記号によって,文化やときには自然を 構成してしまおうとする逆立ちした営みである。この逆立ちした営みは,プラトンからはじま って, 18世紀フランスの理工科学校を源泉とする社会設計のかんがえのあたりで最高潮に達し た (Hayek,F. A. 1952)。正当化設計主義は,かぎられた領域についてはめざましい達成をし めしたが,よりひろい領域に適用しようとすると,すでにのべたように,惨惰たる結果におわ った。 20世紀の後半になって,われわれは,正当化設計主義になぜ限界があるのかの理論的な うらづけもある程度知るようになり,無知への無知から,いくらかは適切に距離をとれるよう になった。要するに,われわれが明示的な記号をつうじて把握しうることには限界があり,世 界の複雑さを完全に制御下におくことはできないのである。しかし,選択主義的な秩序形成は,
すべてを完全に把握,制御できないにしても,神秘の技でないとしたら,おおよそどのように してなされるのだろうか。 トライアル・アンド・エラーからの学習,変異と選択という自然選 択がその答えだろうか。
1. 2. 相互作用からの創発
ポパーやハイエクは,正当化設計主義とたたかって,選択主義を擁護し定式化した先駆者で ある。かれらの選択主義を古典的選択主義とよぶことにする。わたしのかんがえでは,古典的 選択主義の弱点は,何が選択されるべく提供されるかについての明示的な理論にとぽしいこと である。ポパーは,仮説がどう構成されるかについては,心理学の問題だとしてわきにおしや る。機械的試行錯誤,方向性のある試行錯誤,洞察,これらの関連や違いについては,きくべ きなにもかたらない。同様に,ハイエクの自生的秩序についても,家族,言語,慣習,自然法,
市場とその輪郭はえがかれても,神秘的,超越的な存在にとどまる。ハイエクによる設計主義 のおもいあがりについての批判はまさに的確である。しかし,かれは,自生的秩序のあいだの 矛盾やダイナミズムについては,あまりかたらない。ハイエクの思想が,自由主義と保守主義,
市場主義と伝統主義の間での両義的な印象をあたえるとしたら,歴史をつうじて展開してきた
自生的秩序についてかたる語彙と正確な描像を欠いているためだろうとおもう。ポパーやハイ エクの知の僭称への警戒と知的なごまかしへのきびしい批判,自生秩序への謙虚さ,これは,
かれらの美徳である。われわれは,彼らに,知的なモラルと謙虚さをまなばなくてはならない。
しかし,仮説形成や自生秩序について,彼らをこえて分析をすすめる必要がないということに はならない。
仮説形成や自生的秩序は,ある種の創発される秩序であり,これまでは,ほとんど分析不可 能な存在だった。エラン・ヴィータルとでもよぶしかなかった。しかし,今日では,こうした 創発される秩序についても,ツールをつかって,分析していく糸口がえられつつある。ここで のキーワードは,相互作用からのあたらしい秩序の創発である。ここでの分析は,かつての正 当化設計主義のような,知的に構成した秩序を自然や社会におしつけるような傲慢なものでは ない。ツールをつかってモデルをはしらせてみた結果を,自然や社会の結果と比較し,生成さ れる秩序のしくみをかいまみようとするより謙虚ないとなみである。ここから,自然や社会で の生成される秩序への介入の指針がでてくることもあるだろうが,あくまで,介入にとどまり,
かつての正当化設計主義にもとづく社会計画のような暴力的なものではありえない。(このよう な創発の明示的分析をとりこんだ選択主義における,自成的秩序にたいする謙虚さをしめして いるよい例が,ゲルマンによる複雑さの深度のおおきな秩序としての熱帯生態系や文化的多様 性保護の議論である (Gell‑Mann,M 1994))。こうした相互作用からの秩序の創発の分析も射 程にいれた,あたらしい選択主義を,相互作用的選択主義とよぶことにする。
相互作用的選択主義の立場の研究者の例として,カウフマンとエーデルマンをあげることが できる。カウフマンは,情報科学の立場から複雑適応系としての生命のしくみを定式化しよう
としている(Kaufman,S. 1993, 1995)。古典的な自然選択説では,選択される形質はランダム な変異でしかなかった。これにたいし,カウフマンは,選択されるべき形質は,ランダムなも のではなく,要素間の相互作用から自己組織化されるものであることを,プーリアンネットを モデルにして例示しようとしている。こうした方向での研究は,ランダムな変異X選択という 古典的選択説を,相互作用からの創発x選択という相互作用的選択主義の方向に路線変更しう るものである。一方,生物学と心理学のはざまの領域で,選択主義を宣言し推進しているのが エーデルマンである (Edelman,G, E. 1990, 1992)。エーデルマンのとなえるニューラル・ダ ーウィニズムは,選択を基本にして,脳科学の領域における相互作用からの創発について,独 自のみとうしをしめそうとしている。人間科学と社会科学の領域では,相互作用的選択主義の 立場にたつアプローチは,まだ定式化,展開されていないようである。相互作用的選択主義か らのアプローチが,人間科学と社会科学の領域での現象への理解をすすめるうえで非常に重要 で,その定式化のためには,情報科学や生物学,脳科学などにおける達成を参照しつつ,枠組 みをさらに展開する必要があるというのが,著者の主張である。
相互作用からの秩序の創発をかんがえるとき,無視できないのが,サンタフェ研究所を中心
とする複雑適応系のグループの研究である。バクの自己組織的臨界現象の研究(Bak,P. 1996), カウフマンのプーリアンネット (Kaufman,S. 1995), ラングトンのカオスの淵の生命 (Lan‑ gton, C. 1992), ホランドの相互作用するエージェントからの創発 (Holland,J, H. 1995)など
と,これまで分析のおよばなかったような秩序形成のしくみの一端に,解明の手がつけられよ うとしつつある。彼らは,砂山や地震といった物理現象から,免疫や脳,生態系といった生命 現象,経済,都市現象などの社会現象,これら種々の複雑適応系をとうしての一般理論が可能 だとかんがえている。個別の諸領域でのプレークスルーなしに,一般理論が間近でもあるかの ようにいうのは,新しい科学的アプローチ成立のときにつきものの,過大評価,楽観的すぎる かんがえである。しかし,ホーガンが (Horgan,J. 1995)いうように,複適応系を,かつての 一般システム理論やカタストロフィーの理論と同列にみたら,過小評価のあやまちになるとわ たしはおもう。複適応系の研究は,カタストロフィーの理論のようなトムを中心とした点での 展開ではなく,はるかに前線がひろがった面での展開だし,一般システム理論がどちらかとい えば諸科学の成果を一般化するといった二次的な整理が中心だったのにたいし,複雑適応系の 研究ではツールをともなってより一次的な成果をもたらしつつある。複雑適応系の研究は,自 然や社会研究のあたらしいパラダイムの出発点になるりうるものだと,わたしは評価している。
経済学者のクルーグマンは,複雑適応系のアプローチについてこういっている。「社会科学者は 往々にして,物理学や生物学の概念を取り入れようとする人々に対して懐疑的であるが,それ にはそれなりの理由がある。社会進化論からシステム・ダイナミックスに至るまで,科学の概 念を導入しようとする試みは,惨憎たる結果に終わってきたからである。しかし,今回ばかり は状況が違うようである。つまり,学問の分野を超えた,真に興味をそそられる動きが現れ,
経済学もその一翼を担っているのである。 (Krugman,P. 1996) p. ii」わたしは,この見通し は基本的に妥当だろうとおもう。
複雑適応系の研究に問題があるとしたら,ひとつは人工生命の研究にままみられるように,
研究対象の深い理解につながらないファンシーで表面的なシミュレーションにおわってしまう ことである。もうひとつは,セルラー・オートマタや,プーリアン・ネットは複雑適応系の研 究の基礎的ツールとしてかかせない重要でなものあるが,理論を構築する基盤としてはやや狭 すぎるということである。セルラー・オートマタや,プーリアン・ネットは,ファンシーで表 面的なシミュレーションにくらべると一般性のある論点を確立できるという強みがあるが,相 互作用からの創発という現象の探求しやすいテストケースとしてのみ位置づけるべきである。
わたしのかんがえでは,複雑適応系の研究者のなかで,相互作用からの創発について, もっと も一般性のある出発点となるとおもわれる立場を提案しているのはホランドである。彼は,複 数のエージェントが相互作用して,秩序を生成する複雑適応系の基本的な特性として図1にし めすような四つの特性と三つのメカニズムがあると指摘している (Holland,J, H. 1995)。
複合,非線形性,フロー,多様性の四つが複雑適応系のしめす特性である。まず,複合