ウィーン 古典派音楽 とカントの ﹁綜合判断﹂
武 笠 桃 子
一︑はじめに﹁ベートーヴェンの音楽はヘーゲル哲学そのものである︒しかし同時にこの音楽はヘーゲル哲学以上に真実でもある︒﹂︵
T. W . A do rn o, Be eth oven P hilo sop hie d er M usi k , 199 3
︶ 1
これは︑ドイツの哲学者であり︑音楽評論家としても活躍したテオドール・アドルノの言葉である︒アドルノは著書の中で︑ベートーヴェンの作品とヘーゲルの哲学を対比させつつ︑その同一性に着目し︑ベートーヴェンが︑その音楽作品のうちに込めた︑言葉では語り得ない哲学について緻密な分析と考察を行っている︒一九世紀以降︑度々︑音楽と哲学の同一性については指摘がなされてきたが︑一方でそれ以前の音楽と哲学の同一性についてはほとんど語られていなかった︒そもそも︑それまで音楽に関する記述自体︑限定的で消極的なものが多かったのである︒﹁標題音楽﹂のもとで︑表現の対象を﹁模倣﹂して﹁描出﹂することが目的であった一八世紀中頃
までは︑音楽は優れた芸術とは見做されていなかった︒しかし︑﹁模倣﹂の対立概念として﹁表出﹂概念が用いられはじめると︑表現の主体と対象の合一によって果たされる﹁絶対音楽﹂の芸術表現は︑あらゆる芸術の中で最も深淵
で崇高であるとされ︑哲学と深くかかわることとなったのである︒本論では︑これまで︑音楽と哲学の同一性に関する文脈ではあまり語られることのなかった
G.
W.
ライプニッツと
I .
カントの哲学を取り上げ︑
G. T.
ゲオルギアーデスの﹃音楽と言語﹄︵一九九四年
学と音楽の関係性を探っていきたい︒ ︶を手掛かりとしながら︑哲 2
二︑西洋音楽における三つの転換点
ゲオルギアーデスは︑著書﹃音楽と言語﹄の中で︑西洋音楽を主に次の三段階に分けて論じている︒
リーナ︵一五二五〜一五九四年︶︑
1
︑パレスト2
︑バロック時代︵一六〇〇〜一七五〇年︶︑3
︑ウィーン古典派である︒1
︑パレストリーナ︵一五二五〜一五九四年︶ゲオルギアーデスは︑﹁彼︵パレストリーナ︶とともに音楽は新しい段階に足を踏み入れた︒精神が音楽的素材を完全に支配し︑個々の音をしっかりと捉えた︒﹂︵前掲書︑九六頁︶と述べ︑パレストリーナを西洋近代音楽の契機と
して位置づけている︒パレストリーナ以前の音楽は︑大きく二種類に分類することが出来る︒一つは︑グレゴリオ聖歌︑もう一つは世俗音楽であるゲルマン民族の音楽である︒グレゴリオ聖歌は︑単声的な典礼聖歌であり︑典礼儀式と密接に結びついていたが︑一方ゲルマン民族の音楽は︑典礼聖歌とは何等関係なく発生した﹁音︵
K lan g
︵独︶︶﹂を基礎とする︑複合音として成立していた︒西洋音楽史上︑グレゴリオ聖歌に代表されるモノフォニー︵単旋律音楽︶様式から︑ポリフォニー︵多声音楽︶様式への転換は︑﹁単声的な典礼聖歌と︑複合音を基礎とする音楽との出会い﹂︵前掲書︑二〇二頁︶によって生じた︒さらに︑﹁修飾奏法︵Ko lo rier un g
︶﹂︵前掲書︑二〇二頁︶の導入によって即興的な修飾音を付けて演奏されるようになったが︑この修飾音は即興であることから分かるとおり︑﹁偶然の産物﹂︵前掲書︑二〇三頁︶にすぎなかった︒しかし︑﹁パレストリーナの音楽に至って︑一切の偶然性はすっかり排除しつくされた︒﹂︵前掲書︑二〇四頁︶の
である︒つまり具体的には︑﹁旋律の停滞はいっさい回避﹂され﹁不協和音の使用が少なくなり︑わざとらしい旋律法やリズム法も少なくなった﹂ので︑その結果︑パレストリーナの音楽は﹁従来の音楽よりも滑らかに聞こえる﹂よ
うになったのである︒パレストリーナは︑音楽史の中でも﹁対位法の巨匠﹂として知られ︑後世の音楽家たちもパレストリーナの作り出した対位法である﹁パレストリーナ様式﹂を学んだ︒
パレストリーナの音楽は︑﹁個々の要素はまるで生命のない物体のように︑外からの作用によってのみ動かされる︒﹂︵前掲書︑二一〇頁︶が︑この﹁外からの作用﹂こそが作曲者の作曲行為なのである︒つまり︑パレストリーナ
の音楽において︑はじめて作曲家によって﹁リズムや旋律や複合音の要素をなしている音が征服され︑支配されるに至った﹂︵前掲書︑八九頁︶のである︒作曲家が︑﹁個々の音を処理することが可能﹂となり︑﹁自分の欲するままに個々の音を結びつけることができる﹂ようになったことは︑﹁音素材があますところなく人間の意志に従属せしめられた﹂ことを意味する︒そして︑前述のとおり︑パレストリーナの音楽が﹁滑らか﹂であることは︑その音楽が人間精神にとって﹁自然的﹂であることを示している︒音を素材化した作曲家は︑音楽に﹁秩序﹂を与えることに成功するが︑この﹁秩序﹂が﹁自然的﹂に感じられるのは︑﹁精神的なもの︑すなわち自然的ならざるものが︑物質的素材
を完全に支配しつくすことができたことによる﹂︵前掲書︑九〇頁︶のであり︑人間の精神が﹁一般に﹁自然的﹂と呼びならわされているものの精神面への反映を創り出すことを可能にする装置﹂を獲得したことを示している︒ゲオ
ルギアーデスは︑パレストリーナの音楽の特徴を次のように述べている︒
﹁完全に澄みわたった水やまじりけのない結晶といった自然の奇蹟を思わせる︒それは決して﹁生命的﹂でも﹁有機的﹂でもなくて︑﹁自然的﹂なのである︒﹂︵前掲書︑二一〇頁︶
このことは︑元来︑人間精神とはなんら関係なく︑独立したものとして存在していた自然が︑人間の精神と関わり
をもつようになり︑一種の法則性を伴う存在として扱われるようになったと言うことも出きるのではないだろうか︒これは︑
J .
ケプラーやG.
ガリレイ︑
R.
デカルトに代表される一六世紀〜一七世紀の機械論的自然観とも深い関わ
りを持つ︒自然は︑外的作用を受けるが︑自然それ自体は機械論的であり︑すなわち無機的であり︑因果論的に存在しているのである︒
一六〇〇年代にはいって︑
2
︑バロック時代︵一六〇〇〜一七五〇年︶S. J .
バッハに代表されるバロック時代になると︑パレストリーナによって確立されたポリフォニー様式が更に︑﹁通奏低音﹂という伴奏形態を獲得する︒この通奏低音ポリフォニーは︑それまでのポリ
フォニー様式にはなかった﹁定められた方向に向かって進行を続けようとする意志や傾向﹂︵前掲書︑二一三頁︶を音楽に与えることとなる︒例えば︑
Trit on us
︵増四度︶という不協和音は︑中世までは﹁音楽の悪魔︵di ab olu s in m usic a
︶﹂として忌避されてきた︒それは︑この和声が声楽的に非常に音が取りにくく︑不安定な響きを伴い︑死や恐怖を連想させるからである︒しかし︑ゲオルギアーデスによれば︑バロック時代にあってはむしろ﹁自分自身のもとに安定することができず﹂︵前掲書︑二一四頁︶︑つまり不協和音であるがゆえに︑それを解決音へと導くような﹁前進的衝動﹂を見出され︑その傾向が積極的に取り入れられるようになったのだという︒それは︑﹁すべての和音が
唯一の目標である主和音をめざし︑この主和音が安定をもたらしうる唯一の和音となる︒﹂︵前掲書︑九〇頁︶ので︑主和音=解決という一つの目標に向かって︑個々の和音は有機的に︑生命体のように発展するのである︒その結果︑﹁個々の和音にはじまって作品全体に至るまで︑そこにあまねく見出されるのは部分と全体の相互関係﹂であり︑﹁個々の部分構造は︑全体を通じてその意味を獲得し︑逆に全体は個々の部分構造によってその意味を与えられ﹂た
のである︒このような音楽構造は︑バロック音楽の特徴である﹁有機性﹂を端的に表している︒ゲオルギアーデスは︑バロック音楽の特徴を次のように述べている︒
﹁通奏低音の音楽は﹁自然的﹂ではなくて︑﹁生命的﹂であるということができる︒つまりそれは有機体に似た性質を有するのである︒﹂︵前掲書︑二一九頁︶
つまり︑パレストリーナが確立した機械論的で︑因果論的な︑つまり外からの作用によって秩序付けられて発展するポリフォニーから︑内的な生命力を伴って︑有機的で︑目的論的な︑通奏低音ポリフォニーへと変化したのがバ
ロック時代なのである︒
ウィーン古典派音楽の特徴は︑バロック時代を象徴する通奏低音を放棄したことと︑ホモフォニー様式を生み出し
3
︑ウィーン古典派音楽たことである︒しかし︑最大の特徴は︑﹁音楽の連続性﹂を喪失したことにある︒パレストリーナから通奏低音の時代までの音楽が共通して持っていた︑音の連続的な横のつながりが失われたのである︒非連続的な︑縦の和音を重視
する様式への変化は︑音楽の様相を大きく変化させた︒ゲオルギアーデスは︑このことを︑﹁⁝非連続性の標識である︒ここには恒常的な生成変化の体験はない︒﹂︵前掲書︑二二六頁︶と指摘している︒和音が出現するとき︑その和音内の一音一音はそれぞれ独立して存在していると言える︒なぜならば︑ここで言う和音は︑﹁和声的ポリフォニーの示す連続的な流れ﹂ではなく︑﹁いわばそれぞれはっきりした実体としてとらえうるような部分構造の結合﹂で
あって︑﹁そのつど新しく生じる推進力﹂によって全体を構成しているのである︒﹁﹁因果律﹂にも﹁目的論﹂にも律せられることなく︑つねに自在自律のままに形成される﹂︵前掲書︑二三二頁︶古典派の音楽は︑﹁それを把握する自我の働き﹂︵前掲書︑二三三頁︶を通じてはじめてその意味を獲得する︒﹁音楽の連続性﹂の喪失は︑かつてパレストリーナが確立した音楽の秩序に相反する現象のようにもみえる︒しか
し︑ウィーン古典派の音楽は決して︑パレストリーナ以前の無秩序な音楽ではない︒﹁連続性﹂を失ってもなお︑音楽が秩序を保つことができるのは︑そこに﹁統覚﹂つまり﹁主観﹂による統一があるからだとゲオルギアーデスは主張する︒以上がゲオルギアーデスによる音楽区分である︒次節からは︑ここでゲオルギアーデスが指摘するこの転換につい
て︑哲学の側から論じてみたいと思う︒
三︑ライプニッツ哲学とバロック音楽
﹁音楽は霊魂︵
animi
︶が自らの計算︵num era re
︶を自覚せずに︵occ ult um
︶行う︑隠れた算術︵arit hm et ic ae
︶の実践︵ex er ci tium
︶である︒﹂︵クリスティアン・ゴールドバッハ宛書簡︑一七一二年四月一七日︶ 3
ライプニッツはここで︑音楽を算術に例えているが︑これは西洋音楽の伝統に基づくものである︒古代ギリシアにおいては︑ピュタゴラスが弦楽器を用いて︑音楽の数比的関係を導き出した︒このピュタゴラス学派の音楽論は︑長く西欧音楽の根底をなすこととなる︒前述の数比的関係から分かる通り︑﹁音楽﹂は数の学問であった︒古代ギリシアの伝統を受け継いだ古代ローマにおいても︑﹁自由七科﹂とよばれる教養の一つとして﹁音楽﹂
は位置づけられていたが︑これも数に関わる学問のうちであった︒﹁音楽﹂のもつ数的関係は︑﹁音楽﹂の確実性の証明となった︒それゆえ︑神の秩序を狂いなく表現出来ると考えられていた︒また︑﹁音楽﹂は︑われわれの耳に届く
ものだけでなく︑宇宙や人間存在の秩序そのものでもあった︒これらの秩序の調性が狂うことによって︑世界は乱れ︑人間は心身に不調を来すと考えられていたのである︒
ライプニッツにおいても︑音楽は数の学問であった︒つまり︑音楽は︑今日考えられているところの﹁芸術﹂などではなく︑数の調和に基づいた明晰・判明な学問であり︑合理性を保証できるものなのである︒ライプニッツは︑音楽がわたしたちの魂にもたらす快について以下のように述べている︒
﹁﹁魂の快︵
de s p lais irs de l espr it
︶により近い感官の快︵Le s p lais irs de s s en s
︶︵それはより純粋でより独立しているが︑︶は音楽における快︵ceux de l a m usiq ue
︶である﹂︵Text es i néd its d e L eib niz . G ru a. P . U . F ., 1948, p . 58 0
︶ 4
ここで︑﹁快﹂に関するライプニッツの言説を見ておこう︒ライプニッツは︑﹃形而上学叙説﹄二十四節﹁明晰ある
いは曖昧な認識︑判明あるいは混雑した認識︑十全な認識と直観的な認識あるいは推測的な認識とはどのようなものか︒名目的︑事象的︑原因的︑本質的定義について︒﹂の中で︑次のように述べている︒
﹁⁝じっさい私たちには︑なんの疑念もないままに詩だとか絵画の出来の良し悪しを﹁明晰に﹂認識することがしばしばある︒なぜそうなるかというと︑そこには﹁なにかわからないもの﹂があって︑それが私たちを満足さ せたり不快にしたりするからである︒﹂︵
G. W . L ei bniz, D isc ou rs d e m èta ph ysi qu e , 1686, § X XI V
︶ 5
ライプニッツはここで︑私たちは︑﹁なにかわからないもの﹂によって﹁快﹂・﹁不快﹂を受け取ることがあり︑またそのことに何の疑いも持たないことがしばしばあることを認めている︒このことは︑私たちが無意識のうちに感じ
るということ︑つまり︑知性認識を経ることのないわれわれの感官そのものの働きをライプニッツが評価しているといえる︒
だが︑ライプニッツの認識に関する基本的な理念は下記の通りである︒
﹁⁝判明な認識にもさまざまな度合がある︒というのも︑定義に含まれる諸概念それ自体が︑通常定義を要するような︑混雑して認識されるものだからである︒けれども︑定義あるいは判明な判断に含まれるすべてのもの
が︑原初的概念にいたるまで︑判明に知られるのであれば︑私はこのような認識を﹁十全な﹂認識とよぶ︒また︑ある概念に含まれている原初的要素のすべてを︑私の精神が一挙に判明に把握するとき︑私の精神は﹁直観的﹂認識をもつのであるが︑このようなことはきわめてまれで︑私たち人間の大部分の認識は混雑した認識あるいは﹁推測的な﹂認識にすぎないのである︒﹂︵
ibi d.
︶ライプニッツによれば︑﹁他のものからあるひとつのものを識別できたとしても︑それらの差異や特質がどこにあ
るのかをいえなければ︑その認識は﹁混雑﹂して﹂いるが︑﹁判明な認識﹂には︑﹁原初的概念にいたるまで判明に知られる﹂必要があるので︑現実的には︑﹁判明な判断﹂ということは人間にとっては﹁きわめてまれ﹂なのである︒
ここには︑ライプニッツの主知主義的側面が色濃く表されてはいる︒しかし︑判明ではないにせよ︑﹁ないかわからないもの﹂によって引き起こされる﹁快﹂・﹁不快﹂を否定することが出来ないライプニッツの二面性を窺い知ること
が出来る︒以上︑ライプニッツの哲学についてみてきたが︑ここからはバロック音楽について述べていきたい︒先述の通り︑
バロック音楽以前に︑パレストリーナが音楽に与えたものは﹁秩序﹂であった︒それまで︑個別的存在として世界に散らばっていた音を︑音楽理論のもとに秩序付けてまとめあげた功績はもとより︑そもそも︑その﹁まとめあげる﹂
という行為によって︑音楽を︑ただ単に自然に存在しているものではなくそれを﹁素材化する﹂ということに成功したのである︒この﹁作曲家﹂としての意識改革は︑その後の音楽理論や音楽を取り巻く環境を決定付けることとなっ
たのである︒これは︑自然の中にある音に対して︑外からの作用として作曲を行う︑という態度といえる︒続くバロック時代においては︑それまでに確立されていたポリフォニー様式に対して︑通奏低音を導入することに
よって︑偶然的に︑単体として成立する声部の集合体ではなく︑厳格な調性観に基づいて︑直前の和声の内部の力によって音楽の方向性を自らの内から紡ぎだしている︑と考えられるのである︒これについて︑ゲオルギアーデスはラ
イプニッツを引用して以下のように述べている︒
﹁︵バロック音楽は︶ライプニッツなどの言う﹁非絶対的必然性によって決定された意志﹂の考えに似たものと考えることもできよう︒﹂︵ゲオルギアーデス︑前掲書︑二二二頁︶
ここで言われている﹁非絶対的必然性によって決定された意志﹂とはなんであるか︒しばらくこの点について考察してみよう︒
ライプニッツは︑真理について次のように述べている︒
﹁真理にも二種がある︒推論の真理と事実の真理とである︒推論の真理は必然的なものであってその反対は不可能であり︑事実の真理は偶然的なものであってその反対も可能である︒﹂︵
G. W . Lei bniz,L a M on ado lo gie , 1714, § X X XII I
6︶﹁推論の真理﹂は︑論証可能であり︑絶対にそれ以外の方法では真理たりえないものを指す
は︑実際にはその方法で真理が存するが︑それ以外の可能性も開けているような真理のことである ︒一方︑﹁事実の真理﹂ 7
その答えは﹃形而上学叙説﹄十三節に述べられている︒ 真理﹂においては︑その他の方法にも可能性が開けていたにも関わらず︑﹁その事実﹂が真理足りえたのであろうか︒ ︒では︑﹁事実の 8
﹁あらゆる偶然的命題はべつなふうであるよりもこのようであるための根拠をもつこと︑あるいは︵同じことに
なるが︶偶然的命題はアプリオリにそれが﹁真理﹂である根拠をもっていること︑この根拠こそがこの命題を確実なものにする⁝これらの根拠は︑偶然性すなわちものの存在の原理に︑つまりは等しく可能なおおくのものの
なかでも最善であり︑またそう思われるものに︑基礎づけられているからである︒﹂︵
L.1686. § XIII
︶ここでいう﹁最善﹂とは︑﹁神﹂による最善観である︒神は︑﹁私たちが最善と思われるものを選択するよう定めて﹂いるが︑だからといって﹁けっしてそれを強いるわけではない﹂ので﹁そのおこないを違うしかたですることもでき
るし︑それを完全に中断することだってできる﹂のだという︒しかしながら︑人間にとっても神にとっても﹁偶然的真理﹂があらゆる可能性を孕むことは確かだが︑あらゆる可能性のなかから︑﹁神が自由に選択したもの﹂が﹁つね
に最善﹂であり︑人間も﹁神の意志を表現つまり模倣してゆけば善に向かうことになる﹂のである︒以上を踏まえて︑﹁非絶対的必然性によって決定された意志﹂とは︑それが神によって強いられたことではない点
では自発性があるが︑﹁最善﹂を選択するよう促されるという意味において前もって決定されているのである︒さらに︑ゲオルギアーデスはバロック音楽について下記のように論じる︒
﹁ライプニッツの﹁分析判断﹂とか︑述語を通じて言い表わされうるかぎりのものはすべて主語の中に潜勢的に含まれている︑というように形而上学的に規定された﹁主語﹂の概念を考えてもよいだろう︒﹂︵ゲオルギアーデス︑前掲書︑二二二頁︶
ライプニッツの﹁分析判断﹂についての基本的な考えは次の通りである︒
﹁さて揺るぎないのは︑あらゆる真の述語づけはそのなんらかの基礎をものの本性のうちにもつ︑ということで
ある︒そして命題が同一的でない場合︑つまり述語が主語のうちに表立っては含まれていない場合には︑述語は潜在的に含まれているはずで︑これこそが内
-
在︵in-es se
︶とよばれるのである︒こうして︑主語の項はつねの述語の項を含まなければならず︑だから完全に主語概念を理解している者ならば︑述語がその主語に帰属すると判断できることになる︒﹂︵
L.1686. § VIII
︶ライプニッツの言説に従うならば︑﹁述語概念﹂はあらかじめ﹁主語概念﹂に含まれているので︑﹁主語概念﹂をあ
ますところなく理解するならば︑つまり分析すれば︑それが真の判断となるのであり︑これこそが﹁分析判断﹂の内容である︒
ゲオルギアーデスは︑﹁曲の開始部がすでに曲全体をみずからのうちに内包しているかのよう﹂︵ゲオルギアーデス︑前掲書︑二二一頁︶であり︑﹁作曲という行為は︑このすでに潜在的に存在するものを活性化し︑これを時間軸の方向に投影することだ﹂と述べている︒バロック音楽について皆川達夫は︑﹁バロック音楽は︑ルネサンス音楽とも古典派の音楽とも異なり︑二つの対立
する中心ないし極の緊張関係から﹂︵皆川達夫﹃バロック音楽﹄講談社︑二〇〇六年︑五九頁
ポリフォニーであり︑同時にモノフォニーの要素も内蔵する﹂と指摘している︒つまり︑バロック音楽において︑横 ︶成っており︑﹁一種の 9
のつながりであるポリフォニーは︑ひとたび演奏が始まれはひとつの生命体のように﹁広い音域のなかをうねうねと波うちながら﹂流動していくが︑前音はそのあとにつづく音を常に導く︒︵それはあたかも﹁分析的﹂である︒︶そし
て︑モノフォニーの影響を受けることで﹁調性﹂による﹁垂直的な規定﹂を受け︑﹁部分と全体の相互関係﹂︵ゲオルギアーデス︑前掲書︑二一八頁︶を構成している︒皆川によると︑バロック音楽のこの特徴は︑﹁太陽光線がプリズ
ムを通って七色の光に分かれているように︑バロックの楽曲は縦と横との何重もの線に分光﹂︵皆川︑二〇〇六年︑五九頁︶していき︑﹁縦と横との精緻な音の網目﹂を形作っているのである︒
ここまで︑楽曲の構造的観点から見てきたが表現の観点にも触れておこう︒バロック時代の音楽は︑情緒説に基づく音楽観に則って︑﹁固有の情緒︵
A ffe kt
︶の表出を意図して作曲されている﹂︵皆川︑二〇〇六年︑六三頁︶のである︒ここでは︑﹁特定の旋律︑リズム︑和声︑調性など﹂の音楽技巧が︑それぞれの﹁情緒﹂に対して類型的に対応し︑模倣することを主眼としていた︒つまり︑アリストテレス以降の︑芸術における模倣概念が依然として大きな位置を占めていたのである︒ここでいう﹁情緒﹂は︑個人的・主観的な感情ではなく︑むしろ﹁客観的で類型的な人間感情﹂のことである︒それゆえ︑合理性︑客観性を備え持つ︑類型的で明快な音楽観は︑近代的な意味で︑創作活動
を主体的に行うような個人をまだ必要とはしていなかった︒以上が︑ライプニッツ哲学に基づくバロック音楽の考察である︒しかし︑十八世紀半ばから︑音楽は古典派の時代
を迎え︑それまでとはまったく異なる様相を呈することとなる︒
四︑ウィーン古典派音楽とカント哲学
﹁⁝およそ芸術の価値を︑それぞれの芸術による心的開発に従って評価し︑また判断力において認識のために合同する心的能力﹇構想力と悟性﹈の拡張に基準を求めるならば︑すべての芸術のうちで音楽は最低の⁝地位を占
めることになる︑音楽は感覚との遊びにすぎないからである︒﹂︵
I. K an t, Kr itik d er U rtei lsk raft , 1790, § 51
︶ 10
これは︑カントが﹃判断力批判﹄において音楽に言及した一節である︒カントによれば︑芸術には以下の三つの区分がある︒
1
︶言語芸術︱語り︑詩2
︶造形芸術︱彫刻︑建築︑絵画3
︶感覚の遊びの芸術︱音楽︑色彩芸術 の美しい戯れの技術﹂であり︑これは﹁美的芸術﹂つまり﹁芸術音楽﹂に分類されるものだという︒一方︑﹁感官﹂に3
つめの芸術に配された﹁音楽﹂について︑もし︑﹁反省﹂によってもたらされる感覚であるならば︑音楽は﹁感覚よってもたらされる感覚であるならば︑音楽は﹁単なる快適な感覚﹂をもたらす﹁快適感覚の戯れの技術﹂であるとし︑これは﹁快適な技術﹂にあたるとする︒だが︑﹁我々はこの特別な感覚の根底に存するものが感覚であるのか︑それと
も反省であるのかをはっきり決定することができない﹂とし︑いずれにせよ︑音楽には低い位置づけしか与えていない︒また︑西洋音楽の伝統である音楽と数学の類比関係については以下のように述べている︒
﹁数学そのものが︑音楽によって生じる感覚的刺激や感動にいささかも関与するものでないことは確実である︒数学は︑印象の結合ならびに交換において︑これらの印象の間に或る種の数的な比を成立せしめるに欠くことのできない必然的条件︵
co ndi tio sin e q ua n on
︶であるにすぎない︒﹂︵KdU . § 53
︶カントにとっては︑数学は音楽に数比を与える必然的条件にはなりえても︑かといって人間の感官に影響を与える
こととは何ら関係がないとしている︒このように︑カントの美学の中での音楽の位置づけは決して高いわけではない︒カントは︑﹃純粋理性批判﹄︵一七八一年︶の超越論的論理学の中で︑認識に関する根本的な立場を明らかにしている︒
我々の認識は心意識の二つの源泉から生じる︒第一の源泉は︑表象を受けとる能力︵印象に対する受容性
Re z- ep tiv ität
︶であり︑また第二の源泉は︑これらの表象によって対象を認識する能力︵﹇悟性﹈概念の自発性Sp on - ta ne itä t
︶である︒第一の能力によって我々に対象が与えられ︑また第二の能力によって対象がこれらの表象︵我々の心意識の単なる規定﹇意識内容﹈としての︶との関係において思惟される﹇考えられる﹈︒﹂︵I. K an t, Kr itik d er r ein enV er nu nft , 1781, B7 5
︶ 11
ここで示されたカントの認識論は︑受容性と自発性の二元論に基づくものである︒カントによれば︑われわれには︑﹁感性﹂と呼ばれる受容性︵
Re zep tiv itä t
︶の作用によって対象が与えられる︒この﹁感性﹂は︑対象からの触発 なしには︑成立し得ないものである︒しかし︑このア・ポステリオリ︵後天的︶な認識︵の一部︶に対して︑﹁悟性﹂と呼ばれる自発的な︵Sp ont an eität
︶作用によってア・プリオリ︵先天的︶な判断が可能となり︑﹁感性﹂と﹁悟性﹂の統合によってはじめて認識が可能となる︒これをカントは﹁綜合判断﹂と呼ぶ︒偶然的な経験の連続が︑意味を与える悟性の統一の力によって︑始めて一つの認識が成立するのである︒つまり︑カントの超越論的認識論は︑﹁内容
なき思惟は空虚であり︑また概念なき直観は盲目である︒﹂︵
KdrV .B75
︶という命題に集約される︒ライプニッツ哲学の中心的話題が﹁分析判断﹂であるならば︑カント哲学のそれは﹁綜合判断﹂なのである︒ここで︑﹁綜合﹂に関するカントの主張を見てみよう︒
﹁⁝多様なもの一般の結合は︑感官によっては決して我々のうちには現れ得ない︑従ってまた感性的直観の純粋形式のうちに同時に含まれているということもあり得ない︑結合は表象能力の自発性の作用だからである︒この
自発性は︑感性から区別せられるために︑悟性と呼ばれねばならない︒⁝我々はこのような悟性作用に︑綜合という一般的な名称を与えようと思う︒﹂︵
KdrV .B130
︶カントは︑﹁綜合﹂は﹁悟性﹂の作用であると主張する︒カントの認識論に即して言えば︑対象は感性によって私
たちに与えられるが︑﹁悟性﹂の作用である﹁綜合﹂の結果︑ある認識に至るのである︒つまり︑﹁我々が前もって結合しておいたのでなければ︑我々はこれを客観において結合されていると考えることはできない︒﹂︵
ibi d.
︶のである︒﹁形而上学がこれまで非常に不確かで矛盾の多い状態を続けてきた原因は︑哲学者達が⁝恐らく分析判断と綜合判断との区別にすら︑もっと早く思いつかなかったところにある︒﹂︵Kd rV. B1 9
︶という点で︑カントの﹁綜合判断は革新的 なものであった︒カントによれば︑﹁結合は対象のうちに存するのではない﹂︵KdrV .B134
︶のである︒つまり︑ライプニッツの﹁分析判断﹂のように︑いくら主語を分析したとしても︑主語のうちに述語を見出すことは出来ず︑唯一︑見出せるとすれば︑それはあらかじめ私たちの悟性の働きによって﹁綜合判断﹂がなされているからなのであるまず︑ウィーン古典派音楽の特徴として挙げられるのが︑ポリフォニー様式からホモフォニー様式への転換であ 関わっていることになるのだろうか︒ さて︑以上がカント哲学における﹁綜合判断﹂の概要であるが︑一体この思想がどのようにウィーン古典派音楽と ︒ 12
る︒前述の通り︑ポリフォニー様式が︑複数の旋律による多声音楽であるならば︑ホモフォニー様式は︑単旋律とそれを支える和音による和声音楽のことである︒複数の旋律によって︑横のつながりが強調されていたバロック音楽と
は異なり︑縦のつながりによって構成される和音の集合体であるウィーン古典派音楽においては︑バロック音楽のような旋律的連続性は失われる︒特に︑バロック音楽の最大の特徴であった﹁通奏低音﹂の放棄は大きな意味を持って
いる︒岩井宏之によれば︑﹁通奏低音﹂の名は︑﹁バス声部は休みなく一貫して演奏されたところ﹂︵岩井宏之﹃バッハからベートーヴェンまで﹄音楽之友社︑一九九九年︑四二頁
︶からきている︒それゆえ︑﹁通奏低音﹂の放棄に 13
よって﹁一貫して流れる声部﹂が失われ︑代わりに和声の充実化が図られたのである︒旋律的な横のつながりを失った音楽は︑もはや音楽がそれ自体の中に﹁主語概念﹂や﹁述語概念﹂を含むことはない︒この点についてゲオルギ
アーデスは︑﹁古典派の音楽の場合︑統一はバッハやパレストリーナの場合とは違って具象的な音楽の次元︑客観的な音楽事象の次元に存するのでなく︑対象︵つまり音楽︶一般から抽象された純精神的な領域で︑つまりわれわれの自我の自発性に属する領域︑換言すればいっさいの対象性を脱した綜合判断意識の統一の中で︑はじめて成立するのである︒﹂︵ゲオルギアーデス︑前掲書︑二三三頁︶と指摘している︒カントの言葉を引用するならば︑﹁あらゆる表象のうちで︑結合は︑客観によって与えられるような表象ではなくて︑主観自身によってのみ創られる唯一の表象﹂︵
KdrV .B130
︶なのである︒つまり︑ゲオルギアーデスによれば︑この﹁音楽構成の徹底した精神化﹂︵ゲオルギアーデス︑前掲書︑二三二頁︶が︑ウィーン古典派の特徴であり︑バロック音楽とウィーン音楽を明確に隔てる転換点なのである︒次に︑﹁表現﹂という観点から考えてみよう︒ウィーン古典派音楽においては︑﹁バロック時代の一楽章一主題の固定した情緒から︑複数主題による情緒の多様性の追求﹂︵岩井︑前掲書︑四六頁︶がなされ︑﹁主題それ自体の優越性
が重んじられるようになり︑表情豊かな主題が求められ︑それに伴ってホオフォニックな柔軟な和声処理法﹂が成立したのである︒十八世紀半ばから︑音楽は﹁創作の主体﹂が自らの個人的な﹁感情﹂︵
Em pfin dun g
︶を表出する︵Au sdr uc k
︶という手法をとるようになる︒Em pfin dun g
は︑主観の最も内面から生じるような感情であり︑バロック音楽における客観的で類型的な情念︵A ffe kt
︶とは全く異なっている︒ショーペンハウアーの言葉を借りるなら︑﹁音楽が表明しているものはけっして現象ではなく︑ひとえに内面的な本質﹂であり︑﹁個々の︑特定の喜びとか︑あれこれの悲哀とか︑苦痛とか︑驚愕とか︑歓喜とか︑愉快さとか︑心の安らぎとかを表現しているのでは﹂なく︑﹁音楽が表現しているのは喜びというもの︑悲哀というもの︑苦痛というもの︑驚愕というもの︑歓喜というもの︑愉快というもの︑心の安らぎというものそれ自体﹂︵
A.
ショーペンハウアー﹃意志と表象としての世界Ⅱ﹄五十二節
のは︑﹁純粋な真髄だけ﹂なのである︒ ︶であり︑それゆえ﹁以上のものの本質を﹂﹁動機をそのなかに入れずに表現﹂するのである︒そこで表現される 14
この近代的な意味での主観的美意識こそが︑﹁創作の主体﹂という概念を生み出し︑客観的な情念を描出するバロック音楽の表現から︑主観的な感情を表出する古典派音楽への転換をもたらしたのである
る点で︑時間的な制約を常に受けている︒この時間という概念に関するカントの言説はいかなるものであるか︒カン 最後に︑音楽の最大の特色についてもカントは新しい視座を与えている︒音楽は︑時間の中で表現されるものであ ︒ 15
トは︑超越論的感性論の中で︑﹁空間概念﹂と﹁時間概念﹂について論じている︒では︑この﹁時間概念﹂について考察してみようと思う︒
﹁現象において感覚と対応するところのものとを︑私は現象の質料︵
M ater ie
︶と名づける︒これに反して︑現象 の多様な内容を或る関係において整理するところのものは︑現象の形式︵Fo rm
︶と呼ばれる︒﹂︵KdrV .B34
︶ カントの認識論においては︑対象によるなんらかの触発によって﹁受容性の能力﹂=感性が感覚︵Em pfin dun g
︶を獲得するが︑この感覚に対応するものは﹁現象の質料︵M ater ie
︶﹂である︒この意味で︑﹁一切の現象の質料は︑なるほど我々にア・ポステリオリにのみ与えられ﹂るのである︒しかし︑与えられた感覚を﹁整理﹂するには︑あらかじめ︑つまり︑ア・ポステリオリに﹁感覚を受けいれるもの﹂として﹁現象の形式︵
M ater ie
︶﹂がわたしたちに備わっていなければならない︒つまりこの﹁形式﹂は︑﹁感覚から分離して﹂いるのである︒カントは次のように述べる︒
﹁感覚に属するものをいっさい含んでいない表象は︑純粋︵先験的意味において︶な表象と呼ばれる︒すると感性的直観一般の純粋形式は︑我々の心のうちにア・プリオリに見出され︑そして現象における一切の多様なもの
は︑この形式によって︑或る関係において直観せられるのである︒感性のかかる純粋形式はそれ自身︑純粋直観と呼ばれてよい︒﹂︵
KdrV .B35
︶時間に関するカントの考えは以下の通りである︒
ような何か或るものでもない︒ 或るものではない︑従ってまた物の直観を成立せしめる主観的条件をすべて除き去っても︑なおあとに残る
1
︶時間は︑それだけで存立する何か或るものではない︑また客観的規定としてものに付属しているような何か2
︶時間は内感の形式︱換言すれば︑我々自身と我々の内的状態との直観形式にほかならない︒3
︶時間は︑一切の現象一般のア・プリオリな形式的条件である︒︵
ibid .B50
︶この﹁純粋直観の形式﹂である時間概念は︑いったいどのようにウィーン古典派音楽に関係したのであろうか︒岩井宏之によると︑ハイドンが創り上げた古典派音楽の交響曲の枠組みは下記の通りである︒
第一楽章 アレグロ︑ソナタ形式第二楽章 アダージョ︑あるいはアンダンテ︑主題と変奏あるいは三部形式第三楽章 メヌエットとトリオ︑複合三部形式第四楽章 プレスト︑あるいはアレグロ︑ロンド形式あるいはソナタ形式︵岩井︑前掲書︑六〇頁︶
古典派音楽では︑バロック音楽にはなかったような︑自由な拍節構造という時間概念をもつ︒前述の交響曲の構造
はその典型的な例である︒第一楽章でアレグロで始まった﹁急﹂の音楽は︑第二楽章においてはいったん﹁緩﹂となり︑落ち着きを得たのち︑第三楽章は第四楽章の準備となる﹁躍動的な﹂音楽を奏で︑第四楽章に至っては﹁楽天的﹂で﹁快活な﹂音楽に集約されていく︒この活発なリズム感や休止を含む拍節による音楽の緩急・明暗は︑バロック音楽にはないものであった︒バロック音楽においては︑﹁音楽が︑すでにあらかじめ予定ずみの計画に応じたもの
を実現にもたらす﹂ので︑その音楽は﹁決定論的﹂であり︑また﹁分析的﹂であった︒︵ゲオルギアーデス︑前掲書︑二二一頁︶バロック音楽の時間の概念は︑世界の側に客観的に存在するもので︑人間が関与せざるとも存在可能な自律的概念であった︒しかし︑ウィーン古典派音楽にいたって初めて︑音楽の時間性が主観の側で意識されることとなる︒自由な拍節概念を伴う音楽に対して︑時間という感性の形式を人間の側が適応させることで初めて︑音楽の統一
が図られるのである︒これこそが︑カントが感性の形式として指摘する﹁純粋時間概念﹂なのである︒
五︑おわりに今回は︑バロック音楽からウィーン古典派音楽への移行期の意味を哲学的視点から論じてきた︒具体的には︑哲学
と音楽の関係をライプニッツからカントへ︑と︑バロック音楽からウィーン古典派音楽へ︑の照応関係として考察した︒バロック音楽の本質は本論で考察してきたように︑ライプニッツ哲学の﹁分析判断﹂に︑そしてまた︑ウィーン古典派音楽の本質はカント哲学の﹁綜合判断﹂に例えることが出来よう︒つまり︑バロック音楽からウィーン古典派音楽への移行は︑ライプニッツ哲学からカント哲学への移行と並行的構造を持っていると言えるのかもしれない︒今後の展望としては︑︵
価を与えたショーペンハウアーの音楽論︑ならびに︑︵
1
︶カント哲学を継承しながら︑カントが評価しなかった音楽について︑具体的に高い評観念論を音楽の中に組み込んだベートーヴェンの哲学との深い関わりを考察していきたい︒
2
︶カント哲学に実際に触れながら作曲活動を行い︑ドイツ註
︵
Theodor W. Adorno 1993. Beethoven: Philosophie der Musik: Fragmente und Texte. Frankfurt am Main: Shurkamp1︶︵︶︵
︵ ルノ﹃ベートーヴェン音楽の哲学﹄遺稿/邦訳大久保健治︑作品社︑一九九七年︶ T. アド 2︶
︵ G. T. ゲオルギアーデス﹃音楽と言語﹄木村敏訳︑講談社学術文庫︑一九九四年
︵ Patrice Bailhache. LEIPNIZ ET LA THEORIE DE LA MUSIQUE. Paris: Klincksieck, 1992. p. 1513︶
︵ Textes inédits de Leibniz. Grua. P. U. F. 1948, p. 5804︶ Gottfried W. Leibniz 1995Discours de métaphysique Suivi de Monadologie. Paris: Editions Gallimard 5︶︵︶︵
W.G. ライプニッツ
﹃形而上学叙説﹄橋本由美子監訳︑平凡社︑二〇一三年︶︵
Gottfried W. Leibniz 1995Discours de métaphysique Suivi de Monadologie. Paris: Editions Gallimard6︶︵︶︵
W.G. ライプニッツ
﹃モナドロジー﹄清水富雄︑竹田篤司︑飯塚勝久訳︑中央公論新社︑二〇〇五年︶︵
︵ 参照のこと︒ 律の充足理由律の関係については︑山本信﹃ライプニッツ哲学研究﹄東京大学出版会︑一九五三年︑第二章の的確な解釈を =7︶つまり︑定義と矛盾律によって成り立つ真理︒﹁わたしはわたしではない︒﹂︵矛盾律︶は理論的に成立しえない︒この矛盾
︵ こと︒ を参照︒また︑この﹁完足充足﹂概念については石黒ひで﹃ライプニッツの哲学﹄岩波書店︑一九八四年︑第五章を参照の –を渡ったことは確実なことを挙げ︑それを﹁完足概念﹂と関連づけている︒詳しくは﹃ライプニッツアルノー往復書簡﹄ 川を渡ったが︑ルビコン川を渡らないという可能性も十分含んでいることを指摘する︒その上で︑だが実際にはルビコン川 8︶ライプニッツは︑﹁ジュリアス・シーザーはルビコン川を渡る﹂という歴史的事実を例に挙げ︑実際にはシーザーはルビコン
︵ 9︶皆川達夫﹃バロック音楽﹄講談社学術文庫︑二〇〇六年 10I. Kant2009, Kritik der Urteilskraft, Meiner Felix Verlag GmbH︶︵︶︵
︵ I . カント﹃判断力批判﹄篠田英雄訳︑岩波文庫︑一九六四年︶ 11I. Kant 1998, Kritik der reinenVernunft: Koch, Neff&Oetinger&Co︶︵︶︵
︵ 九六一年︶ I . カント﹃純粋理性批判﹄篠田英雄訳︑岩波文庫︑一 黒崎政男﹁ドイツ観念論と十八世紀言語哲学◉記号論のカント転換点説﹂︵﹃講座ドイツ観念論 12︶カントにおいて︑綜合や結合がすべて悟性の側の力によることを︑十八世紀記号論の消滅という形で論じたものとしては︑
6問
題史的反省﹄廣松渉︑坂部恵︑加藤尚武︑弘文堂︑一九九〇年︶を参照のこと︒︵
13︶岩井宏之﹃クラシックのあゆみ
1 バロック古典派の音楽 バッハからベートーヴェンまで﹄音楽之友社︑一九九九年︵
︵ 14A. Schopenhauer 1986, Die Welt als Wille und Vorstellung, 1819: Sämtliche Werke. Band III.: Frankfurt an Mein: Suhrkamp ︶︵︶
︵東京女子大学大学院博士後期課程人間科学研究科在籍︶ 二〇〇五年︑第一章を参照のこと︒ Ausdruck﹁表現﹂︵︶﹂概念への転換については︑三浦信一郎﹃西洋音楽思想の近代︱西洋近代音楽思想の研究﹄︑三元社︑ 15AffektDarstellungEmpfindung︶バロック時代における﹁﹁情緒﹂︵︶の﹁描出﹂︵︶﹂概念から︑古典派における﹁﹁感情﹂︵︶の
キーワード音楽︑哲学︑ドイツ︑ドイツ観念論︑ライプニッツ︑カント