Title
ウィリアム・クラーク卿手書き文書(マニュスクリプツ)(1640~1664)への手引き(翻訳)
Author(s)
松谷, 好明Citation
聖学院大学総合研究所紀要, No.29, 2004.3 : 244-275URL
http://serve.seigakuin-univ.ac.jp/reps/modules/xoonips/de tail.php?item_id=4146Rights
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244
ウ ィ リ ア ム
・ ク ラ
l
ク 卿 手 書 き 文 書 ( 一 六
Ol
四 一六六四)への手引き(翻訳)松 谷 好
明
訳
訳者による序
聖学院大学図書館が所蔵するマイクロフィルムの中で︑近代イングランド史に関する限り最も貴重なものは︑本紀要
の前号で紹介したいわゆる﹁トマソン・コレクション﹂
であ
るが
︑ それ に次
︑ぐ もの がこ の
﹁ウ ィリ アム
・ク ラ
lク卿手
書き文書﹂(略称︑クラ1ク文書)
であ
る︒
一七
世紀
中葉
︑
イングランドが内戦︑﹁革命﹂︑共和制︑王政復古という大
変動を経ているとき︑議会および軍の中枢にあった人々の近くにあり︑単に秘書官として義務を果たしたというだけで
なく︑膨大な文書︑手紙︑記録を筆写︑メモ︑速記し︑後世に残した人物︑それがウィリアム・クラi
クで あっ た︒ クラ lクが残した手書き文書や書物︑文書のコレクションは︑後述のような過程を経て今日に至っているが︑
その
﹀つ
ちの手書き文書は︑ようやく一九世紀中葉になって整理が進み︑目録が作成されるとともに︑文書の一部が編集され︑
一八九一年(第一部)と一八九四年(第二部)にわω
自己
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から出
版されたファl
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編の
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円高 ヨえ 巧口
EB OR EU 3である︒この
一九九二年︑ウl
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ッチ
(当
︒︒
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nF
) による新しい序文を付して同毛色田町ぢユ
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ごUS
尋から一巻本として再 一九世紀末に刊行されるに至った︒
それ
が︑
本は
︑
(郎)口語訳では
( m )
口語訳では
(国 )口 語訳 では
(凶)口語訳では
(四)口語訳では
(凶)口語訳では
(凶)口語訳では
(凶)口語訳では
(凶)口語訳では
(印)口語訳では
(国 )口 語訳 では
(凶)口語訳では
(問)口語訳では
(旧)口語訳では
(問)口語訳では
(問)口語訳では
(出 )口 語訳 では
(邸)口語訳では
(邸)口語訳では
(即 )口 語訳 では
(別)口語訳では
(問)口語訳では
(間 )口 語訳 では
﹁あ なた がた
︑﹂ は欠 落す る︒
﹁快 く﹂ とな る︒
﹁僕 であ れ﹂ とな る︒
﹁それに相当する報いを︑それぞれ主から受けるであろう﹂
﹁そしてあなたがた﹂は欠落する︒
﹁僕 たち
﹂と なる
︒
﹁彼らとあなたがたとの主﹂となる︒
﹁兄 弟た ちよ
﹂は 欠落 する
︒
﹁神 の武 具で
﹂と なる
︒
﹁支配と︑権威と︑やみの世の主権者﹂となる︒
﹁天 上に いる
﹂と なる
︒
﹁よく抵抗し︑完全に勝ち抜いて堅く立ちうるために︑神の武具を身につけなさい﹂
﹁正 義﹂ とな る︒
﹁救
﹂と なる
︒
﹁絶えず祈と願いをし︑どんな時でも御霊によって祈り︑そのために目をさましてうむことがなく﹂
﹁大胆に﹂は﹁福音の奥義を﹂の前に置かれる︒
﹁この福音のための使節であり︑そして鎖につながれているのであるが︑﹂となる︒
﹁し かし
﹂は 欠落 する
︒
﹁主にあって忠実に仕えている愛する兄弟テキコが﹂となる︒
﹁わたしたちの主イエス・キリスト﹂となる︒
﹁変 わら ない 真実
﹂と なる
︒
﹁恵 み﹂ とな る︒
﹁ア ァメ ン﹂ は欠 落す る︒
とな る︒
とな る︒
とな る︒
ジョン・ロック著『エペソ人への手紙注解』
243
版さ れた
︒
かくして一九世紀末に刊行されたファlス編の﹃クラl
ク文 書﹄
の中に︑イングランド史上有名な︑いわゆる
ニ! 討論
﹂
の記録が含まれていたため︑二
O
世紀にはウィリアム・クラlクの残した手書き文書の存在が広く知られるようになり︑またイギリスの専門家による解読︑研究が続けられてきた︒しかし︑その作業は今日でもなお進行中であ
り︑クラlク文書については未開拓の分野が多いと言わなければならない︒
とこ ろで
︑
一九九九年︑聖学院大学出版会から︑大津麦・瀧谷浩訳﹃デモクラシーにおける討論の生誕││ピュ1リ
タン革命におけるパトニ1討論﹄が出版された︒訳者らが底本として用いたのは︑ウッドハウス
( ﹀ ・
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︒︒ 号室 お) 編のn
暗号 同窓 口町
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││ 回︒
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である(忌ω
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ファ!ス編﹃クラ)︒ウッドハウス編のこの書物の中に︑l
ク文書﹄から﹁パトニ!
討論
﹂
そこで﹃デモクラシーにおける討論﹄大津麦氏
の訳 者の 一人
︑
が抜き出され︑第一部として納められている︒
は︑訳者序論として︑﹁ピューリタン革命における﹃パトニ1討論﹄│ーその背景と政治思想的意義﹂と題する卓越し た論 文を 書き
︑
について背景と意義を簡潔︑的確に描いその中でウィリアム・クラlクその人と彼の
﹁ク ラ! ク文 書﹂ てい る︒
その序論の1
﹁ク
lク文書のについて﹂の末尾に︑大津麦氏はその節の結論として次のように記している︒ラ
とこ ろで
︑ ファ
lスやウッドハウスの手によって刊行されたのは︑四七巻のうち﹁パト
﹁ク ラ! ク文 書﹂
ー討論﹂を含む一巻に過ぎなかった︒その意味で︑一九七九年のエイルマ!の編になる
﹁ク
ラ
lク文書﹂全
体を覆い尽くすマイクロフィルム版の刊行は︑近年における大きな業績であると言って良い︒また︑継続的
に行われてきたクラ!クの速記の解読作業はE・サムズによる画期的な仕事を受け継いだオックスフォード
﹁パ
ト
ウィリアム・クラーク卿手書き文書への手引き
2 4 5
大学ニュ1・カレッジのF・マクドナルドによって精力的に遂行されており︑今や︑
﹁ク
iラ
ク文 書﹂ の全 貌がようやく明らかにされようとしている︒こうした貴重な研究成果が従来のピューリタン革命史をどのよ
24 6
うに修正していくのか︑今後の行方が大いに期待されているところとき守えよう︒(同書一一頁)﹂こに言及されている﹁マイクロフィルム版﹂
の﹁クラ!ク文書﹂こそ︑本小論の冒頭に紹介した﹁ウィリアム・
クラ1ク卿手書き文書﹂そのものである︒﹂のマイクロフィルム版は︑ハ1
ヴェスタ
1
・マイクロフォーム出版社
( 田 町 凶
同4
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目︒
5
同 ︒
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︼己
記片
山片
山︒
ロ
ω円片品)
から一九七九年に刊行された︒編集指導に当たったのは︑当時オックスフォ
l
ド大学セント・ピ1タ!ズ・カレッジ学長で︑
E d
月間
口件
︒号
m ︒
DZ B 一同
45 cc o巳 甘え 山o
︒a
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ニ 定 ︒'H Aw g( HS N)
ョの編者と
しても知られるエイルマ
1
の(
・開
・﹀
三B
q)
であ った
︒ 使用手引きとして
E
盟
ペ ヨ ロ
E EC RWO冨
85
包古 宮尽 き
EHGE3
という四五頁からなる小冊子を発行した︒それが以下に
ハlヴェスタ!社は︑マイクロフィルム版刊行に当たり︑
そ の 訳出する﹃ウィリアム・クラ
lク卿手書き文書(一六四
O
ー一六六四)への手引き﹄である︒この小冊子は︑著者が
B . p .
とだけあって著者不明の序文と︑
1 . 編集者
G・E・エイルマーによる序論︑
II
エ
ツク・サムズによる﹁ウィリアム・クラlク卿の速記﹂という小論︑
E .
内容と照合表とから成るが︑
﹂こ では
Hを除
いて訳出する︒なお︑エイルマーによる序論には詳細な注が付されているが︑一般には必ずしも必要ではないと思われ
るので省略することとした︒
序 文
ウィリアム・クラlク手書き文書
3 2 0 2 一 一 一 冨 ヨ
OE﹃
5
z g c ω
三 三
O ω )
は ︑
一七世紀イングランドで個人が
行った歴史的一次資料の収集の中で︑現存している最も重要なものの一つである︒それらの文書は︑
一七 世
紀中葉の英国史の主要な分野について資料となるものを多数集めたユニークなものである︒
G・E
・エ イル マ
l教
授( の・ 開・
KP UL Bq )
E・エイルマ!教授(前・ヨ1ク大学歴史学教授︑現・オックスフォード大学セント・ピ1タ1ズ・カレッジ学長)
ウィリアム・クラーク卿手書き文書への手引き
この小冊子は︑︽オックスフォード大学ウl
スタ
1・カレッジ所蔵ウィリアム・クラ1ク手書き文書(一六四
O
ー 一
六六四年)︾のハ1ヴェスタl・プレス・マイクロフィルム版に添えるために作成された︒含まれるのは︑
[I ]G
・
トよ
山ヲ
ハ出
︑
ウィリアム・クラ1ク卿とその文書を紹介する書き下ろしの長い序文と︑
[ H
] 卓越した暗号解読者︑
エリ ッ
ク・サムズ博士(ロ戸尽
‑ w ∞
m H B ω )
による︑クラ!クの﹁秘密の記述﹂方法への手引き[本翻訳では省略]︑
およ び︑ [ E ]
マイクロフィルム版の内容を読者に紹介する詳しい手引き︑
であ る︒ クラlクの速記を最近解読したものを付して︑このようなマイクロフィルムの形でコレクションを公刊することは︑
極めて重要な内戦期のこの古文書を︑学者︑研究者が容易に利用できるようにする初めての試みである︒
エイ ルマ
l教
授が指摘する通り︑﹁これらの文書がすでに大いに用いられてきたことが︑それらの歴史的価値と永遠的な魅力を証し
247
する
︒ しか し︑
コレクションの資料と潜在的なさまざまな用法が利用され尽くしたとは︑到底言いがたい︒:::むし
ろ︑将来の歴史家たちが︑彼らの先人たちの仕事を一層良いものとし︑新しい探究のさまざまな分野を全面的に切り開
く基礎が提供されているのである﹂︒
2 4 8
本マイクロフィルム版は︑オックスフォード大学ウ1
スタ
1・カレッジ図書館のウィリアム・クラlク文書全部を含
む︒編集者[エイルマ
i ]
と発行者[スピアズ]は︑この版の製作︑
およ び︑
その準備期間中のご援助とご好意につき︑
ウl
スタ
1・カレッジの学長︑
フエ ロ
l︑研究者諸氏の親切な許可に対し︑心から御礼申し上げる︒本企画が始まった
当時ウ!スタ1・カレッジの副図書館長であられたリチャlド・セイス博士(巴円
‑ E
岳山 三ω a B )
が ︑
その完成を待た
ずに逝去されたことは︑まことに残念である︒編集者と発行者は︑現在︑同図書館の館長であられるレスリ1
・モ ンゴ メリ1女史[富町ω﹃
ωr
qζ
︒ ロ 仲 間
︒ 日 σ弓
]に 対し
︑
そのご援助と熱意すべてのゆえに︑特に感謝の意を表する︒現在の編
集者が一九六七年︑ウ!スタ!・カレッジ図書館でクラlク手書き文書の仕事に初めて手をつけたとき︑彼はウィリア
ム・クラiクとその手書き文書について︑モンゴメリl女史よりももっと知っていただろう︒それが[現時点の]一九
七七年には︑全く逆になっている︒
編集者と出版者はまた︑エディンパラのスコットランド国立図書館手書き文書部長に︑4/7
巻(
﹀を
・
8
・ ∞‑HH)
の
複製を︑財務府(チェッカーズ)・トラストに︑4/8巻
( n F 2 5 2
冨
ω ‑
a N )
の複製を︑親切にご許可くださったこ
とに対し︑御礼申し上げたい︒
R. B.
[だれであるか不明]
序
回間
G・E
・エ イル マ
l [編集責任者]
[ 1 ]
ウィリアム・クラiク小伝
この諸文書のコレクションに責任のある人は︑彼自身︑政治的革命期の特徴をよく現している︒ウィリアム・クラ1
ク(一六二三頃ー一六六六)そこで育ち︑教育を受けた
lま
ロンドンで生まれたか︑あるいは︑幼くして首都に来て︑
かし た︒ 彼は
︑ 一六四六年︑法学院幹部の一人の引きで︑特別扱いによりイナ1・テンプル法学院に入学を認められた
よ﹀
つで
︑
(当時スコットランドにいて不在だったが)弁護士になった︒しかし︑彼の経歴は︑弁護士とし
一六 五三 年︑
てのものではなかった︒クラlクに特徴的だった︑自分を目立たなくする慎重さ
l
それは多分︑彼自身よりももっと偉大で︑もっと献身的だった人々に対して︑彼をかくも見事な秘書とし︑
﹁や り手
﹂
としたものの一部だっただろう
ーーのため︑クラ1クが二三︑四歳までどのようにして生計を立てていたのか︑確かなことは何も分からない︒しかし︑
彼が富裕で余裕のある背景の出身でなかったことだけは︑明らかである︒そういう家庭であれば︑学業を終えた息子た
ちの生活の面倒を見ていたであろう︒はっきり分かっているのは︑多分一六四五年のあるときから︑一六四六年の間は
間違 いな く︑
そして一六四七年の春に
l│
‑イングランド史の重大な時期ーークラ1クは軍の秘書官の一人だった︒
前の何年間か︑議会の事務局で働いていたかもしれない︒彼自身の文書の中に︑
一六 四 O
│四一年の庶民院議事録草稿 の一 部や
︑
その他の議会文書が含まれているからである︒
一六 四
0
年代後半に︑やはり軍の秘書 一六四
0
年代 初め の︑ 官の 一人 で︑
それ以前︑庶民院の補助書記
( d E q ' o q w )
の一人だったジョン・ラッシュワlスが︑先輩の同僚であ
そ の
ウィリアム・クラ」ク卿手書き文書への手引き
249
るとともに一種のパトロンであったこと││クラ1クは後に︑重要性と政治的責任の点で彼を追い越すに至るがーーに
は︑幾分証拠がある︒
2 5
0一六四七年から一六五
O
年まで︑クラ1クは議会軍の将官(岳めの82包( )匝
83 )
付き秘書官の一人︑特に(多分︑
彼の速記の技術のためであろう)軍評議会合Z旨・
5
可nE
R‑
‑)
の秘書だった︒この評議会は︑一六四七年五月まで︑
更に一六四八年一月以降︑実際上︑士官会議(任︒ngR
ロ ぇ
︒ 出
83 )だった︒しかし︑一六四七年の後半の七ヶ月か
そこらの聞の特別な期間は︑軍の総評会議(己屈のgqm‑ngR
口)
で︑それには二名の選出された下士官と︑他の二名
して いた
︒
の選出された兵卒││有名なアジテ1タ
1 2
住吉gg)ないしエイジェントsmgg)││も︑それぞれの連隊から参加 一六四九年︑従来︑騎兵隊中将で副司令官だったオリヴァl・クロムウェルが︑大将︑総司令官としてアイ
ルランドにいったとき︑クラlクはイングランドに留まり︑共和国の総司令官(わさSE2ZEのgq
包)
であるトマ
ス・フェアファックス卿(dgsgZEE
正良 )
の第二軍事秘書官に事実上なった︒フェアファックス自身の政治的な
動機は︑謎である︒王政復古後に彼は︑自己の無実を証明するため︑クロムウェルやアイアトンといった︑より有能で
より冷酷な人々によって操られた政治的愚か者として自らを描いた︒一六四七│四九年については︑これ(プラス︑断
続的 な病 気︑
および︑幾分虚弱体質の人だったという事実)は真実かもしれないが︑
しか し︑
それは真実の全体ではな
かった︒国王殺しに対する彼の不支持は本物であり︑また︑共和国への忠誠の宣誓を行うこと︑あるいは︑メンバーと
して選出された︑共和国の新しい国務会議に参加すること︑
を拒 否は した が︑
フェアファックスは︑イングランドの共
和制が成立した最初の一年と三ヶ月の問︑それに仕え続けた︒共和国政府が︑スコットランド人に対する先制攻撃につ
いて
︑
一六四八年に起こっていたような︑王党派││スコットランド側による侵入の再来の機先を制することを決めた
ときになって初めて︑フェアファックスは︑
一六
O
五年夏︑司令官を辞任したのだった︒そのときまでにはクロムウエルはイングランドに戻っており︑フェアファックスを継いで大将︑共和国総司令官の地位に就いた︒そのときクラlク
は︑難なくクロムウェルに仕えることに転じたように思われる︒もしクラlクがフェアファックス・自身のように︑クロ
エンゲ1ジメントクラ!クは︑忠誠誓約[クムウェルに仕えるのを止めていなければ││そういうことはまずないように思われる││︑
ロムウェル政府への服従誓約]を受け入れたに違いない︒実際︑彼の印刷本のコレクションから︑クラlクが国王処刑
の際︑断頭台に上がっていて︑恐らくチャールズが語ることをメモしていた証拠がある︒いずれにしても︑クラ1ク
は︑クロムウェルと遠征軍に同行して北上し︑ダンバ!の戦いとエディンバラ占領の場にいた︒しかし︑クロムウェル
が一六五一年夏︑チャールズHとスコットランドー│騎士党[王党派]のイングランド遠征軍を追って再び南下したと き︑クラlクが後に残されたことは︑クラ1クの将来の経歴と運命にとって決定的だった︒というのは︑彼はその頃︑
スコットランドで指揮をとっていた代々の上級士官たちの秘書官となったからである︒クラ
lクは明らかに︑その前
一六 五
O
年秋︑上級士官の一団(チャールズ・フリlトウッラ ン プ
ド ︑
n F
包gE2
言︒︒仏とジョージ・マンク︑︒g a o z
︒口付を含む)が︑残部議会の軍委員会委員長に手紙を書き︑そ
年
スコットランドを離れようと試みていた︒すなわち︑
の中で彼らは︑アイルランドでの任に就こうとしていたと言われる年下の方のリチャlド・ディlン
( 担 ︒
Fm q
己 ロ
g D
ゆ)
を継 いで
︑
クラlクが秘書官となる[そしてロンドンに戻る]申請を支持していた︒この職を得るのに失敗したため︑
クラlクの経歴全体は︑スコットランドに基礎を置くことになったのである︒一六五九│六
O
年の冬まで︑事実上︑一六五一年八月│九月︑
スコットランドに残されていた臨時代理の最高司令官は︑職業軍人で元・王党派のジョ!
ジ・マンク︑当時クロムウェルの軍需中将(砲兵隊)︑だった︒九月三日ウ1スタ1においてイングランドに侵攻した
王党軍が敗北して間もなく︑少将ジョン・ランバ!ト
( ﹄ ︒
FD CB σ2
円)と︑年上の方の少将リチャ1ド・ディ1ン
( 目 ︒
F mw
﹃ 門 田 口
g S F o
巳門 目︒ 吋) がマ ンク に合 流し た︒ ラン パ
1
トは
︑ その秋アイルランドで死んだへンリ
1・アイアトン
g
弓町立︒ロ)を別にすれば︑議会││共和国側の司令官たちの中で最も知的に優れた人物であり︑ディ( 国 1ンはすでにある時期︑提督すなわち海軍司令官として勤めていたことがあった︒この強力な軍の三人体制(全員明らかに少将とし
ウィリアム・クラーク卿手書き文書への手引き
2 5
Iて平等の地位にあった)は︑たちまちスコットランド征服を完了した︒八年後の状況とは異なり︑
あつれきlトとマンクの聞に乳繰や対抗の痕跡はない︒それでもマンクは︑ ﹂の時には︑ランパ
一六五二年の初め︑無期限の病気休暇に入った︒こ
252
れは︑本当に具合が悪かったのか︑それとも唯一の最高指揮権が与えられないことに対する不満の︑一種の心身症によ
るものか︑疑問が持たれるゆえんである︒実際︑その後間もなく︑ランパ1トはイン︑グランドに呼び戻された︒狙い
は︑ランパlトがアイアトンの後を継いでアイルランドの最高司令官になることだった︒副総督(円︒三口
3 c q )
で は よ︑
A
っ こ ま
of
カ竺
7カその地位は︑クロムウェルが三年間総督
( U
口 ︒
E
55
件 ︒ 同)を勤め終えたとき︑同時に廃止されたからである︒残部議会の文民政治家たちによる︑この一文惜しみの
( 唱 ︒ ロ
ロ 山 下 白
急 ωめ)反軍的動きは︑彼らーーならびにイングラ
ンド共和国ーーに︑いたく代価を支払わせることになった︒ディ1
ンは 当時
︑
一六五二年三月から翌年三月までスコ
ットランドにおける唯一の最高司令官として残っていた︒一六五三年三月︑今度はディ!ンが呼び戻された︒連合州
(昨日
5C Eg
円四
H 4 2 Z 2 ω )
︑す なわ ち︑
オランダ共和国のカルヴァン主義者仲間とイングランド共和国が行う海戦[第一
次英蘭戦争]において︑再び海軍の指揮を執るためである︒同じ理由で︑マンクも間もなく病気休暇から呼び戻され︑
海上の任務に就かされた︑
か︑ ある いは
︑
そうするように誘われた︒これら二人[ディlンとマンク]は︑英蘭両国抗
争の後期の段階におけるイングランドの勝利に対し︑少なくともロパlト・ブレイク[問︒
Z 1
巴件
︒
5 8 '
忌勾クロムウェルの下で王党派︑
オラ ンダ
︑
スペインと闘った提督]と同じくらい称賛に値する︒そのときまでにディ1
ンは
︑ 人の英雄が戦闘で死ぬのに遭遇していた︒スコットランドにおける彼の後継者︑従ってクラ!クの次の主人︑は︑その
地に駐留していた先任の大佐だった︒彼は︑臨時代理の最高司令官の地位を享受していただけで︑将官に昇進はさせら
れなかった︒これも文民のけちの例で︑またまた不幸な結果をもたらした︒この新しい司令官はロパ!ト・リルバ1ル
( 問 ︒
σ0
2
ロ
FZ HJ
口 ︒ )
で︑ 彼は
︑
かの有名な平等派の指導者﹁自由民に生まれたジョン﹂(司
2 g s τ
﹃ ロ
)
の兄だった︒彼
の家族は︑ダラム州の小ジエントリーに属し︑母方で宮廷とつながりがあった
(ご くわ ずか だっ た)
︒
一六四九年秋ロ
パートは︑弟ジョンを反逆罪の裁判から免れさせる作戦の一部として︑ジョンに彼の部下のうち最も強い者らを付けて
アメリカに移住させる手はずを整えているところだったらしいが︑うまくいかなかった︒
[ロ
パ
lト・]リルパ1
ンは 勤勉で誠実な士官だったが︑正式の権威[将官の地位]を欠いていたためか︑あるいは︑その権威をうまく扱う戦術的
理解力を欠いていたためかで︑一六五三年末から一六五ハイランドに基地を置く親王党派・反イングランドの反乱が︑
四年初めにますます深刻になっていった︒一六五三年四月庶民院残部議会の支配が終わってその間イングランドでは︑
いた︒後を継いだのは︑ほとんど軍人からなる国務会議
まず
︑円
︒え の
OD qm w‑
としてのクロムウェルで︑彼は新しい︑
(昨
日耳
打︒
ロロ
色︒
同
ω E
Z )
を率いていた︒次に七月からは︑指名議会︑ないし︑Hべアボ1
ンズ
H
議会
︑
一二月からはクロ
ムウェルの護国卿制である︒護国卿制の主要な設計者はランパlトだった︒海戦終結後︑再び半ば引退していたマンク
スコットランドにおける指揮を再開させたのは︑護国卿としてのオリバ1・クロムウェルだっ た︒不幸な前任者とは全く対照的にマンクは︑単に総司令官としてだけではなく︑護国卿自身を除けばブリテン島興で をようやく説得して︑
ただ一人の︑正規の最高司令官(わさ
E E
gq
'︒
包)としてーーかくして︑フリ
1トウッドやランパlトらの同時代人の
頭を飛び越して︑││スコットランドにやってきた︒
ウィリアム・クラ1クが秘書官にとどまっていた限り︑彼はマンクに仕えて働いた︒従って︑クラ1クの経歴の中で
最長の勤務は︑一六五四年春から一六五九│六
O
年冬 まで
︑
スコットランドにおいてマンクの下にいたときである︒そ
れに伴い︑手書き文章の大半はこの時期のものである︒マンクの最初の仕事は︑ハイランド遠征を成功させ︑ミドルト
ンiグレンケルン蜂起(昨日月冨広告
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包口問)をうまく終わらせることだった︒一六五五年スコットランドは新しい文民政府の下に置かれた︒スコットランドの世論の少なくとも一部をなだめる試みの一部として国務会議議長
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門)にブログヒル卿ロバ1ト・ボイル( 問 ︒
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耳目
1︒ p 円︒ 三回
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が就いたのである︒
かく して
︑ 一年 余の
間マンクは︑もちろん国務会議の一員であったが︑考えられる限りこの上なく友好的に︑プログヒルと権力を共有した︒
ウィリアム・クラーク卿手書き文書への手引き
2 5 3
その後一六五六年ブログヒルは︑護国卿第二議会の議席に就くため︑
を辞任しなかったが︑再び戻ることはなかった︒そこでマンクがもう一度︑ スコットランドを離れた︒彼は︑国務会議の議長
デ フ ァ ク ト
(事実上の)軍事的支配スコットランドの
2 5 4
者であるだけでなく︑この世の統治における最重要人物となったのである︒国の統治者ーー一種の未公認の大守ーーと
して
︑
マンクの第一の関心は常に安全保障だったが︑それは︑クロムウェル護国卿体制に具体化されているイギリスの
スコットランドが受け入れることを意味していた︒最高司令官[マンク]や彼の秘書官[クラlク]がスコツ
支配 を︑
トランド国民
l 彼らの中で自発的な︑まして熱心な協力者はほとんどいなかったーーをどう考えていたかは︑推測のl
域を出ない︒スコットランド人が現状
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門官︒)の下でおとなしくしていることへの称賛が︑われわれが見いだせ
る親スコットランド感情に最も近いもの︑だろう︒
一六五九年の政治的混迷が︑
マン ク︑ ひいてはクラ1クを︑イングランドの出来事の渦中に引き戻した︒︑一部の歴
史家たちは︑早くも一六五九年夏にはマンクが隠れ王党派になっていたことを何とか証明しようとしてきたが︑実際に
は彼は︑リチャ1ド・クロムウェルの護国卿体制の崩壊と︑共和制によるその代替││再び長期議会(もともとは一六
四
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年一一月に選出された)の残部議会の下でのーーとを受け入れた︒イングランド軍が五ヶ月前に回復していたまさにその議会を︑
一六 五九 年一
O
月に二度目に解散させた後に初めて︑マンクは︑合法的な文民統治を回復するために︑自分の軍を南下させ︑介入することに決めた︒こうした事態の展開がマンクを︑かつての同僚ランバ1トとの対崎に導
いたのである︒ランバ1
トは
︑
スコットランド軍の南進を阻止すべく︑大軍を率いて北上した︒しかし︑クラ1
クは
︑
再び戦闘の場にいあわせることはなかった︒ランパlト軍が雲散霧消してしまったからである︒また︑フェアフアツク
スが引退生活から復帰し︑
ロバ
lト・リルパlンおよびロバ1ト・オl
ヴァ 1トンに対決して︑ヨークシャ1をマンク
に取りも戻す手助けをした︒
ロパ
1ト・リルパ
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ンは この とき
︑
一六五四年スコットランドから呼び戻されて以来ずっ
と維持してきたヨlクでの任務に当たることになっていたのであるが︒
ロバ
lト・オl
ヴァ
1トンの方は︑東ヨ1
クシ
ャ1出身の共和主義者で︑一度はマンクにより反クロ今エルの陰謀家として糾弾され︑その結果︑軍から罷免されて
し当 た(一六五五│九年)が︑共和国が一六五九年夏リチャ!ド・クロムウェルの護国卿体制を再び継いだとき︑
ハル の
司令官(︒︒話口︒吋)としての任務に復帰させられたのだった︒われわれが知るかぎり︑クラ
i
クは一六六O
年二 月の 問︑
イングランドに南進するマンクに同行し︑マンクがロンドンに入り︑もう一度回復された残部議会(一二月末からは再
度名目上の政府となったが)と交渉を開始したとき︑彼に随行していた︒この段階においてさえ︑マンクやクラ1ク
が︑国王の帰還に向けて積極的に動くという意味で王党派だったかどうかは分からない︒よりありそうなのは︑彼らは
事態の推移と共に動いたことである︒王政復古への直接の前ぶれは︑残部議会に対するマンクの憤激と︑一一年以上も
前のプライド粛清以来庶民院から排除されていた議員たちの中で︑召集できる生存者全員の再登院を残部議会に認めさ
せることにした彼の決断だった︒マンクは今や総司令官︑兼︑三国における軍の唯一の最高司令官となり︑アイルラン
ドとスコットランドの部隊も彼の指揮下に入れられていた︒かくしてクラ!クは︑今や︑そうした立場にあるマンクの
主席秘書官となったのである︒
王政復古についての彼自身の見解がどのようなものであったにしても︑クラ1
クは
︑
その主人同様︑国王帰還後︑手
厚く報いられた︒彼は︑新たに設けられた軍務秘書官
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竿巧 m q )
のポストに就いた︒このポストは︑
一九 世
紀に戦争遂行政府秘書職となるまで存続したもので︑二人の国務大臣のポストよりは明らかに劣るが︑しかし︑統括す
べき軍がある場合には︑軍政上重要であった︒クラ1クは︑死ぬまでこの職を保持した︒かつてはクロムウェル軍や王
党軍であった連隊が二つを除きすべて︑
一六 六
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六一年の間に給与を支払われて解体されたため︑
その 職は
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年代と︑特に一六九0
年代の︽ウィリアム戦争︾の期間だけ︑かなり重要なものになったにすぎない︒皮肉なことに︑クラ1クの早すぎる死をもたらしたのは︑マンクへの彼の傾倒とともに︑まさにこの新たに見いだされた彼の王
党主義
( 5 3 ‑ 2 B )
だっ た︒
一六六一年の戴冠記念叙勲でナイト爵に叙された︒
クラ
l
クは
︑
マンク自身の公爵位︑ガ
ウィリアム・クラーク卿手書き文書への手引き
2 5 5
ータl勲位︑幾つもの政府要職︑ありあまるほどの金と土地の贈与と比べれば︑そのときまでにクラ1クがなってい
た︑緊要な︽官房長︾
(岳
民色
︒
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に対する報酬としては過剰というわけではなかった︒
2 56
第二次英蘭戦争(一六六四│七)は︑イギリス側の侵略の明瞭な結果だった︒マンク自身は︑大抵の優れた職業軍人
同様︑決して戦争屋ではなかったが︑いったん戦争となると︑海軍司令官としての彼の信望と経験が︑直ちに︑再び求 めら れた
︒
そこでクラl
クは
︑
一六六六年の血なまぐさい会戦の一つの問︑旗艦の甲板で提督の側にいたとき︑オラン
ダ側の砲撃で片足を吹き飛ばされるに至った︒彼は数日間生死をさまよったあと亡くなり︑ハリッチ教会(出
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︒甘 口R F)
に埋葬された︒そこには︑彼の墓碑名が今でも見て取れる︒享年わずか四三歳だった︒記録上では︑
一六 四 八年の遅い時期に結婚し(妻ドロシ!︑彼女の旧姓はヒリアlド)︑幸せに暮らしていたが︑彼より長生きした子供は
一六六一年まで生まれなかった︒その子は︑回復された王政とクラlクの新しい責任の輝きの中で宿された︑と言える︒
実のところ彼の妻は︑
一六
﹂五
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年代の間ずっと︑南部にとどまっていたようである︒一六四八年の﹁親愛なるピリlとし てで あれ
︑ 一六 六
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年代の﹁ウィリアム卿﹂としてであれ︑後世にとってのクラ1クの真の重要性は︑当時の数々の大きな出来事に参与していた人としてではなく︑記録者・収集者としてであった︒
[ 2 ]
ジョージ・クラlク小伝
ウィリアム・クラlクの息子で相続人のジョージ(一六六一ー一七三六)は︑そうなるのを人は予想していたかもし
れないが︑父と比べてもっとありきたりの人で︑
その 上︑
その経歴も文書ではるかによく確かめることができる︒更
に︑父とは異なり︑老年になって自伝を書き︑それが彼の他の書き物と共に今日まで残っているため︑彼本人とその生 涯についてのわれわれの知識を増やしてくれる︒オックスフォードのプレズノlズ・カレッジで教育を受け︑
その 後︑