本州北端における異系統土器の派及と展開
序
縄文社会において'文化の動向は土器型式に強‑反映する特徴がある。
コ,,、ユ:ティの思惟、社会的なアィディソティティ、或いは生活の様式
などの諸要素が複合して投影されていて'文化の構造を考える上で指倭
になることも明白である。
縄文時代晩期の東北地方の(縄文)文化を「亀ケ岡文化」と呼び、亀
ケ岡文化の内容を考古学的に最も特徴づける遺物のひとつが亀ケ岡式土
器である。それを古い順に大洞B式からA、式まで分類していることは周
知のとおりである。いわば大洞〃式はこの地方での最後の縄文土器とい
う訳である。これに直接後続するものが砂沢式である。つまり'後者は
この地方の最初の弥生土器となる。
大洞〃式と砂沢式の関係は、かつて砂沢式を正式の地方差とされたこ
ともあった。今日では概ね上記のとおりに年代差とされるようになった
が、今なお型式の細別分類が明確になっているとはいいがたい。事実上'
両者を分けることは縄文か、弥生かを規定することになり、時代区分の
問題として歴史の構成に関わる問題に発展する。 鈴木克彦
日本史の発展にはい‑つかの大きな変革の画期が存在する。縄文時代
から弥生時代への変遷も、狩猟採集の生活から稲作農耕の生活に転換す
る歴史的な〝事件″のひとつに数えられる。
稲作農耕の生産形態を、ベースに金属器などを持つ弥生文化は朝鮮半島
から北部九州に伝わり'次第に西から東へ波紋の如‑拡がり'やがて本
州の北端まで拡大席巻することは、青森県垂柳遺跡の水田跡の存在によっ
て理解することができる。しかし、この過程は日本列島の各々の地方に
ょって一律ではな‑、弥生文化の波及並びに受容の様相及びその展開に
地方差がある。日本列島の地方差を連繋させるためには、土器型式を中
心とする編年体系の確立によって行うのもひとつの方法である。
小論では、弥生文化の北進する過程の一端を、日本列島北の一地方で
あるがゆえ'ともすればカヤの外に置かれがちな本州北端の〝最後の縄
文文化″である亀ケ岡文化の終末期の様相を通して考えてみたい。
最後は新たな開始と表裏一体の関係にあり、極めて連続的である。そ
の間の実態を明らかにすることが、小論の主なる目的である。
f異系統土器について
文化が変化'変容する際には'異質な系統(異系統)の文化(異文化)
の摂取や影響にょる場合と'伝統的な文化を白から段階的に変化させて
ゆ‑場合とがある。その変化の度合は'前者の場合衝撃的で大き‑'後者
の場合連続的でゆるやかであることが多い。前者のそれは今風にいえばカ
ルチャー・ショックということになろう。しかし'これらを文化の現象と
して把える場合'両者が複雑にからみあっていて選り分けることが容易で
ない。亀ケ岡文化の終末期の様相は'実にこのことをよ‑反映している。
日本の縄文文化において異文化とは'人種'言語の違う民族の渡来に
ょってもたらされたもので'縄文晩期終末に北部九州から出土する朝鮮
無文土器がある。日本の弥生土器は縄文土器よりこの無文土器の系譜杏
引き'その土器の製作技法が強‑影響して遠賀川式の弥生土器が成立し
たとされる。渡来人による異文化を吸収して'北部九州の縄文晩期終莱
の山の寺式で成立した在地縄文土器との複合的土器組成を持つ最初の棉
作文化が、次第に生産の基盤を確立しながら縄文土器の組成をかえ'朝
鮮半島南部に由来する社会の基本要素を保有して遠賀川式土器を形成し
た(家板祥多一八九七)。このように日本の稲作農耕は'朝鮮半島南
部から渡来者の移住による異文化の導入によって開始された。この点に'
日本史上における弥生前期の社会的な特質がある。
西日本の弥生前期の土器を総称して呼ぶ遠賀川式土器(工楽善通一
九八七)は'板村Ⅱ式の段階に入って西日本全体(太平洋側では伊勢湾
沿岸'日本海側では奥丹後半島あたり)に分布する。その分布(文化) 圏の成立が物語るものは'西日本の弥生化の席巻完了であり(家根'前
掲)'縄文土器の要素を欠き縄文的集団関係を打破し再編成する動きと
して最初の到着地(北部九州)をこえて農耕を拡大する弥生文化の東方
波及を示す(後藤直1r九八六)ものであった。当然'この過程で西日
本の各地で水田が営まれた。前期末から中期にかけては'農耕社会を母
胎に環溝集落や青銅器を副葬する棄棺墓などが造られ'政治的社会が形
成された。しかし'「一見斉一性を保ってみえる遠賀川式土器の持つ細
かな地域差や、墓制における地域差にも'その受容の過程が必ずしも一
様でなかった」(家根前掲)。そして'この土器は前期中頃には関東'
北陸地方へと東進Ltついには東北の北部(青森県)にまで北進した(佐原真一八九六'工楽前掲)0
その出土地は'筆者の調査で東北地方では一帯にわたる四五ヶ所'う
ち東北々部では秋田県一二ヶ所'岩手県三ヶ所'青森県一八ヶ所に及び'
青森県に最も多いのが特徴である(註‑)0
その土器の性格から考えて'秋田県や青森県のような本州北端に多‑
みられること自体問題になると思うが'これに係る様々な問題を考える
前に少し研究史についてふれてお‑ことが必要ではないかと思う。
この種の土器が東北地方に出土することを初めて紹介したのは'宮城
県研形困貝塚から出土した類例を'遠賀川A型として縄文を使用する点
を除けばそれに著し‑類似Lt弥生式東方への発展は遠賀川系土器の姿
相を持って行われていると明記した'杉原荘介氏である(杉原一九三
六)。桝形囲貝塚を発掘し研形(囲)式を設定した山内清男氏は'それに
刷毛目があることから弥生式風と述べるに留まった(山内一九三二)0
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伊東信雄氏は杉原氏の所見を受け'宮城県南小泉遺跡出土の類例を紹介(伊東7九五〇)すると共に'秋田県の志藤沢式に刷毛目があること
を示し(伊東一九六〇)'桝形開式に伴う遠賀川式や籾痕土器'宮城
県金山町河原囲出土の磨製石剣などに基づいて'積極的に「東北地方の
縄文式文化は大洞〃式を最後として'弥生式の文化に移った(伊東l
九五〇)という考えを予言的に開陳した。以来'この伊東説が東北の弥
生文化論のベースとなって研究をリードしてきたことはよく知られてい
る。江坂輝弥氏もまた'青森県東南部の大洞A式に伴存する粗製土器(逮
賀川系)が桝形囲式に伴う粗製土器に類似するものであることを紹介した(江坂一九五七)。少し下って中村五郎氏'児玉準氏らは東北の弥生式
を'関西地方(畿内)や北陸地方などの弥生式と関連づけて把えていた(中村一九七六'1九八二'児玉l九七五)。特に'福島県では烏内
遺跡など古手の弥生式の発見や類例の紹介がなされたLt秋田県の志藤沢
遺跡、宇津ノ台遺跡の発掘でも良好なる資料が明らかになった(文献略)0
しかし'一九三六年の杉原氏の論考をみて以来、この種の土器が再び
西日本の遠賀川系統の土器であることが明白にされるのは、1九八二午
の青森県立郷土館開催による特別展「弥生時代の青森」に出品した青森
県南郷村松石橋遺跡から出土したとされる被寵壷型土器(鈴木克彦一
九八三'市川金丸、木村鉄次郎一九八四)が遠賀川系の土器であると
指摘されたことによる。この間、青森県をはじめ各地でこの種の類例が
資料紹介等に報告されていたが(青森県分は表Ⅰの文献参照'他は省略'
福島県で木葉文など畿内‑様式の土器が存在することや'中村五郎氏に
ょる編年的な研究の中でこの種の問題が取り上げられた以外に具体的に 論じられることはなかった。
このように東北地方を舞台にした弥生文化の形成に対し'稲作文化杏
中心に弥生編年の問題を通して論じた泰斗と呼ぶべき伊東信雄氏を除い
て'主として東北弥生文化の中に異系統な土器を兄い出し'それを広範
囲な土器の移入の仕業と考えた中村'児玉両氏の取り扱った土器には'
地域性と年代に違いがある。しかし'これがして東北の異系統な土器の
地域と年代差に基づ‑実態を浮き彫りにされているといえる。つまり、
中村氏のそれは'主として木葉文の土器'水神平式の条痕文土器を出土
する東北の南端である福島県の様相'児玉氏の方は斜格子文'ハケメな
どに代表される日本海に位する秋田県の様相を明らかにしたものといえ
ると思う。これに近年佐原真氏や工楽善通氏らによって明らかにされた
遠賀川系土器と東北々端の青森県の様相を加えることによって'元来異
文化の移入によって開始された弥生文化の本州北方に対する伝播の問題
がかなり具体的に明らかにされることになろう。
東北地方から出土する遠賀川系土器について'佐原真氏は次のように
規定した(佐原一九八六'八七)。その土器が'西日本の前期弥生土
器に似ていることから'西日本から運ばれて来た遠賀川式土器とそれ杏
模倣して地元で作られた土器とをあわせて「遠賀川系土器」と総称し'
これが砂沢式と共にみいだされることから、この遠賀川系土器は砂沢式
の構成要素のひとつで'亀ケ岡系と遠賀川系との「合いの子」(折衷土
器)の三者によって砂沢式が構成されるtというものである。この所請
は'砂沢式の性格を考える上で極めて重要な指摘であるといえるが'逮
賀川系'折衷の土器は砂沢式に共伴する別物でないとするところに特敬
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