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蘭・唐貿易制限政策と蘭・唐貿易船からの抜荷

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蘭・唐貿易制限政策と蘭・唐貿易船からの抜荷

重 藤 威 夫

目 次

一、朱印船貿易基地としての長崎 二、蘭・唐貿易船からの抜荷 三、幕府の蘭・唐貿易制限政策

一 朱印船貿易基地としての長崎

 朱印船貿易は主として、民間から御朱印船商人たちによって営まれたが、西南地方、そ のほとんど全部は九州であるが、九州各藩の大名たちによっても経営された。そのほか少 数ではあるが、長崎、平戸、大阪の武士たちや中国人、欧州人も含まれている。

 御朱印船商人及び外国人の中で、朱印船を渡海させた隻数の多いもの、つまりその当時 にあって第一流の商人達は、次のようになる。数字は渡船船数、括孤は居住地を示す。(1)

    角倉了意及び与一(京都)・………・…・16

    末吉孫左衛門(大 阪)………・…・・12

    李    且(シナ人・平戸)………12

    茶屋四郎次郎(京 都)………ll     船本弥七郎(長 崎)………11

    木屋弥三左衛門(堺)・・…………・………10

    末次平蔵(長崎)………10

    ヤン・ヨースチン(下人・長崎)…………10

    五官(シナ人)………8

    三浦按針(英国人)………7

    カ ラ セ ス(欧州人)………7

    西  類子(堺)………6

    荒木宗太郎(長 崎)………6

   平野藤次郎(京 都)………5

   林三官(シナ人)………5

   華      宇(長  崎)………5

    ゴンサルベス(スペイン人・長崎)…5

(2)

68

 朱印船貿易家(我国の民問の商人のほか大名、武士、外国人を含む)105野中、70%

は、1−2隻の船を派遣したのにすぎなかったので、上記の人たちは当時一流の朱印船貿 易家であったということができる。

 民間貿易家のほかに、大名による朱印船貿易を行われた。地理的関係から九州の大名に よって、ほとんどすべてを占められている。渡航船数の多い順にならべると次のようにな る。②

    島津忠恒(薩摩)………8

    松 浦 鎮 信(平 戸)………7

    有馬晴信(有馬)………7

    鍋 島 勝 茂(佐 賀)………3

    亀井薙矩(因幡)………3

    加 藤 清 正(肥 後)………3

    五島玄稚(五島)………2     竹中正重(豊後)………2     松倉重政(島原)………1     細川忠興(小倉)………1

       37

 朱印船の派遣船数は、1604年置慶長9)から、1635年(寛永12)にいたる32年間に356 隻に上っている。年平均11隻余になっている。そのうち大名派遣の分は37隻である。その

うち島津、松浦、有馬の三大名で、約60名を占めて居り、彼等の旺盛な企業心を示してい

る。

 大名の朱印船は、2、3の例外をのぞき、1611年(慶長16)を以て終っていることが、

その特色である。その理由は、幕府のキリシタンに対する禁教政策への遠慮から出たもの であろう。③

 1612年9,月1日(慶長17.8.6)に、幕府は始めて、キリシタン禁教令を出した。その年 度であるが右の禁教令に先立って、朱印船貿易家として有力な大名であった有馬晴信に切 腹を命じた事件がある。(4)晴信の切腹事件は、キリシタンであることが、その直接の原 因ではなく、かって長崎奉行の手下であった岡本大八という人物に欺かれた一種の汚職事 件によるものである。岡本大八は慶長17年3月に火刑に処せられた。岡本もキリシタンの 一人であった。岡本大八事件が、家康を禁教にふみきらせる一因になった。有馬晴信は 1582年(天正10)に少年使節をローマに派遣したキリシタン三大名の一人として有名であ る。ほかの二人は大友宗麟と大村純忠とである。{5)

 キリシタン大名有馬晴信に対して幕府が死罪を命じたことは、ほかの大名たちを震え上

らしめたであろう。

(3)

 天主教国との貿易を継続する以上、宣教師たちの潜入と布教拡大とを防ぐことは困難で ある。禁教を徹底させようとすれば、貿易を禁止或は制限しなければならなくなる。した がって幕府が禁教政策に踏みきった以上、大名たちが朱印船の派遣を遠慮するようになる のは、やむをえない成行であろう。

 家康は岡本大八の処刑を機会に、キリシタン禁令を発して、,幕府の直轄領江戸、大阪、

京、長崎にある天主教会堂の破壊、布教禁止、宣教師の追放にふみきった。大八処刑の翌 年1614年1月31日(慶長工8、12、22)に、家康は南禅寺金地院の僧、崇伝に命じて、キリ シタン禁教およびバテレン追放令を起草させた。これは「斬罪、炮烙の刑を用いても禁止 する」という有名な慶長禁令であった。⑥

 1614年11月(慶長19,10)には、キリシタンの大追放が行われ、我国のキリシタン148 名がマカオとマニラに向けて、長崎から出発した。そのなかには元キリシタン大名であっ た高山右近や内藤徳庵(幼名、如安、丹波亀山の城主)とその妹ジユリァも含まれてい

た。(7)

 幕府が外国船の入港、貿易を長崎に限り、日本人の海外渡航と帰国を禁止する鎖国令を 発したのは、1635年(寛永12)である。

 朱印船はすべて、長崎を基地として出航した。帰航する時も、長崎に帰帆した。(8)長 崎がその基地となった理由は次の三をあげることができる。

 (1)日本列島から、南西諸島やシナ大陸に地理的に最も近い距離にあること。

 (2)長崎は我国のほかの諸港に先がけて、はやくも1571年(元亀2)から、ポルトガル の貿易船に対して、定航船の入港を認めていたこと。

 1570年(元亀元年)に、良港を探し求めて福田に滞在していたポルトガルのイエズス会 のメルシオール・デ・ブイゲレイド(Merchior de Figuereido)神父は、福田がポルト ガル船の停泊に危険なのを知った。そこで彼はポルトガル船の船海士らと海岸伝いに南下 して調査し、安全に大船が停泊される良港を調査した。そして長崎が良港であることを 発見した。彼は貿易港を福田から長崎に移すために、大村純忠と交渉し、翌1571年

(元亀2)の定航船から長崎に入港することに定められた。(g)この年を以て長崎の開港 第1年とすべきであろう。

 定航船というのは、毎年ほぼきまった季節に来航する貿易船を意味する。その当時の外 国からの貿易船は、毎年夏の7、8月(太陽暦)の候、南西の季節風にのって入港し、そ のまま4ケ月か半年ほど停泊して、その年の11,月か12月始めごろ、冬の北東季節風にのっ て帰国する。(1①朱印船の場合も同様である。

 (3)これは前二者に比べて、優るとも劣ることはない理由と考えられるが、つまりその 当時、遠洋航海に熟練した優秀な航海士が長崎に住んでいたということである。交通不便 な当時にあっては、おそらく長崎だけにしか見出されなかったであろう。

 朱印船が南洋の海域に渡航しはじめた当時には、初の間は日本人航海士で、この方面の

(4)

70

水域に明るい者や遠洋航海の技術を身につけた者は見出されなかった。したがって、幕府 も日本人航海士が航海術が未熟で、たびたび難船したことを知って、とくに欧州人パイロ ットを雇うべき一ことを命じたことがあった。朱印船は、ポルトガル、イスパニヤ、オラン ダ、イギリス、シナなどの外国人パイロットをたびたび傭入れた。(11)

 長崎には早くから、ポルトガルの貿易船が入港していた関係で、ポルトガル人の航海士 から遠洋航海の技術の伝習をうける船乗たちがあらわれたことは、当然の成行であった。

 長崎の池田与右衛門は、ポルトガル人の航海士でありまた日本在住の朱印船貿易家マヌ エル・ゴンサルヴエス(Manoel Gonsalvez又はGonsalves)に遠洋航海術を学び、1618 年目元和4)に、「元和航海記」を著わした。彼はゴンサルヴエスの船に便乗して、1616 年からルソンに渡航し、欧州風の遠洋航海術の伝受をうけ、ポルトガルの按針問答(航海 術書)を翻訳したものを骨子とし、自らも工夫研究した分をつけ加えて、「子孫のたあに

これを記録し、後人の添削を待たんのみ」あわせて「日本人が、この門戸に入る道のため に」前記の航海記を出版したのである。(12)

 元和航海記には、緯度をはかり、船の位置を知るために、全円儀(Astorlabio太陽観 測機)の使用法を記している。つまり全円儀によって、太陽の位置を測定し、その角度を 測って後、航海暦によって検索し、加減して、緯:度を算定し、船の位置を決定した。夜間 は北斗七星などの恒星を観測して位置を決定したので、星座表がのせてある。また羅針盤 の図がのせてあるので、遠洋航海には欠くことのできない同器を使用していたと考えら れる。また海深を測るために、鉛錘打水法などが記してある。(鋤

 南方への渡航に欠くことのできない航海図として、南蛮系の航海図が使用された。その 当時使用された航海図が6枚現存している。その図法はすべてポルトガルの航海士が使用

した海図を基本としている。中にはラテン語又はポルトガル語を記入したものをそのまま 使用し、これに日本仮名を書加えたものもある。用紙はすべて羊皮紙であって、ポルトガ ル船によって輸入されたものである。

 南蛮航海図は東京の国立博物館や、朱印船貿易家の子孫である大阪の末吉家や、伊勢松 坂町の角屋家などに保存されている。長崎県立長崎図書館にも所蔵されている。これには 漢字と片仮名で、地名を註してある。この国は1713年(正徳3)に長崎の聖堂学頭とな り、西川如見と共に当時我国で第一流の天文学者であった野臥拙の家に伝えられたもので

ある。(1の

 以上、見て来たように、当時の長崎には、優秀な熟練した日本人遠洋航海士を生むべき 独特の社会的・歴史的諸条件がつくられていたのである。したがって、朱印船貿易の基地

となったことは、その基地としての社会的要求に最もよく適合するものであった。

二 蘭・唐貿易船からの抜荷

鎖国の下にあった江戸時代における開港場は、長崎だけに限られていたが、長崎港を中

(5)

心として、莫大な件数に及ぶ抜荷(密貿易)が行われた。

 鎖国時代、,長崎奉行所はかなり厳重な取締をしていたのにもかかわらず、かなりの抜荷 が多かったことは、長崎奉行所の犯科帳⑮が、よくこれを示している。1666年(寛文6)

から、186ア年(慶応3)にいたる200年にわたる犯科帳の中で、犯罪件数は大風8、400件 くらいになるが、そのうち大凡30パーセントの2,500件くらいが抜荷である。α6>厳重な 監督にもかかわらず、検挙されたものだけでも、これくらいの数に上るから、未検挙の分 を合せると、莫大な件数に上るであろう。鎖国時代に密輸入品の売買による利益が巨大で あったために、厳しい刑罰にもかかわらず、おびただしい数の町人たちが抜荷のたあに暗 躍している。町人のほかには、例外的に少数のオランダ通詞や唐通事が、その役職上の地 位を利用して、オランダ人や唐人と共謀して、抜荷を行った場合もある。町人たちも外国 人と共謀して、抜荷を行った場合も多い。  ・

 1859年(安政6)6月の開港とともに、多数の外国船が来航するようになったが、時は 幕末動乱期で、近代の中央集権国家体制が、でき上るまでの過渡期である。長崎奉行所の 鎖国時代の監視組織では、きわめて不充分であったことは当然である。

 開港された後は、長崎港における外国商船からの税金徴収、輸出入事務などの海事関係 事項は、俵物役所を湊会所と改称して、そこで長崎奉行が取扱うことになった。㈲ 1863 年(文久3)8月目運上所と改称され、現在の税関事務を取扱った。明治維新以後は、外 務局とも称され、大蔵省に所属した。1873年(明治6年1月)に、長崎税関と改称された。

 弘化、嘉永、安政の15年間を通じて、1年間に唐船4−8隻、オランダ船1隻位の入港 を取扱っていた役所が、急に激増した外国船の入港に応ずるだけの近代組織への改組をい そいでなしえなかったのは、やむをえなかった。しかも幕末動乱期で、幕府の運命がはな はだ危かった時代に、幕府政治の末端であり、その上地理的に遠隔の地にあった長崎奉行 所としては、その方策に迷い、なすすべを知らなかったであろう。文久元年(1861)6月 から同年9,月までの4ケ月の聞に長崎に入港した外国商船の数は46隻(1鋤に上っている。

さらに1869年(明治2)には、横浜、兵庫、長崎の各港に入港した商船数は次のようにな っている。㈲

  峻別英米蘭舞戸北独逸その他計

  横浜 338 126 15 31 13 97 18 638   兵庫 195 103 7 5 6 24 3 343   長崎 196 46 14 2 7 28 2 295

 監視体制の手薄に乗じて、幕末から明治初年にかけて、密貿易が多く行われたことは〜

長崎奉行所の犯科帳によって知ることができる。開港した安政6年(1859)7月から{慶

応3年(1867)10月まで約7ケ年半(文久2年9月から3年2,月までの記録欠)の犯罪件

数861件中、抜荷に関するものが361件あって、その42パーセントを占めている。これは約

200年間にわたる犯科帳全体の大凡の平均数30パーセントをかなり上まわる数である。⑳

(6)

ワ2

  年間唐船4−8隻、オランダ船1隻位の入港を取扱っていた時代には、監視もかなり 行届いたであろうが、開港後急に、外国船が毎月平均20隻余を入港するようになってから は、当時、銅、俵物の貿易独占権iの喪失などの打撃により斜陽化しつつあった長崎奉行所 の力では、きわめて不充分な監視しかできなかったであろう。密貿易業者にとっては容易 にえがたい好機会であった。彼等は西洋人やシナ人と共謀して、さかんに密貿易に暗躍し た。犯科帳に記録された分は、まことに氷山の一角にしかすぎなかったであろう。

 長崎奉行犯科帳にあらわれた密輸出入事件は、すべて個人的な小規模のものにすぎなか ったが、組織的な大規模のものは、幕藩体制下に、薩摩藩が大藩としての資本力と政治力 とを利用して行った密輸入事件である。

 薩摩藩は1609年(慶長14)に、島津家久が琉球を征服してから後、琉球との貿易を幕府 から公認されていた。しかるに他方において、琉球は清国王朝から冊封使をうけ、清国に 対して朝貢貿易をつづけていたので、薩摩へは琉球を通して、唐物が多く輸入されてい た。江戸時代に琉球国産物といわれたのは、この唐物のことである。(21>

 唐物つまり琉球を通じて清国からの輸入品では、幕府の公認をえて薩摩藩が輸入したも のであるが、幕府の初からの方針は、薩摩藩だけの消費にあてるべき物資に限ると定め、

藩外へ移出して販売することを認めていなかった。

 しかしこのような禁令は守られるはずはなかった。当時世人から珍重され貴重品視され た唐物は、上方で売さばけば巨大な利益があった。さつま藩が黙って引下る筈はなかっ た。多数の唐物が、上方に出まわったことは、当然考えられるであろう。抜荷が横行した であろう。幕府はこの傾向を防止できないと察したと考えられるが、ついに1689年置元禄 2)にいたって、白糸と紗綾の2品に限って、境外への移出を承認した。このとき同藩は 京都の一商人を上方での問屋に定めた。

 しかし、この制限令は守られなかった。右の制限品目以外の唐物が、幕府の目をくぐっ て、上方地方に多数出まわった。幕府が再三禁令をくりかえさねばならなかったことが、

この事実を物語っている。

 さつま藩は右の2品目以外の藩外販売を幕府に願出たが、容易に許されなかった。しか し、ついに1810年(文化7)になって、同藩は長崎会所での貿易に割込むことを幕府から 許された。つまり、琉球産物(唐物)を長崎会所で売さばくことを許されたことを意味す

る。さらに1825年(文政8)までには、公認の貿易外目はしだいに増加して、ついに24 品目となり・、貿易金額は一ケ年銀額1,720貫目、金にして28,660両を限って、貿易をなす とを幕府から承認された。1836年(天保7)にはさらに20ケ年経続の公認をとりつけた。

24品目のなかには、薄紙、五色唐紙、鉛、羊毛織、駆通、どんす、べつ甲、爪、てぐす、

竜脳、棚砂、沈香、辰砂、茶碗薬、蒼じゅつ、大黄、甘草、山帰来、桂枝などがある。⑳  右の制限金額をこえる金額の貿易が密貿易になるのであるが、さつま藩は幕末にいたる

まで、制限高をはるかにこえる密貿易を行ってきた。また右の公認品目以外の唐物を輸入

(7)

し、販売することも密貿易になることは勿論であるが、さつま藩は公認品目以外の唐物を 長崎で多量に売さばいた。

 このことは長崎会所の貿易に大きな打撃を与えずにはおかなかった。長崎会所は独占的 な貿易利益は巨大であったが、次にのべるように、幕府によって一年間の貿易金額に制限 をうけていた。しかるにさつま藩によって、唐物輸入や俵物輸出の密貿易が横行したので は、市場を撹乱され、長崎会所の財政に大打撃を与えることは明かである。幕府はさつま 藩に抜荷取締を、たびたび厳命したが、さらに効果はなかった。藩自体が能動的に抜荷を 行っていたのであるから、幕府創建の時代と異り、次第に幕府が弱体化し、地方の大藩に 対して威令が行われにくくなりつつあった時代に、幕府の抜荷取締の命令が、実際上に効 果をあげる筈はなかった。もっともさつま藩も、幕府の厳命に対して、表面上は恐入りま した。抜荷は厳重に取締りますと応答し、殊勝な態度を示していた。面従腹当の政策をと っていた。1816年(文化13)に、幕府から抜荷取締を厳令されたときなどは、表面上は謹 慎を装いながら、逆に長崎貿易の件は、さちに3ケ年の延長を願い、それを認めさせた。

つまり表面上の口頭や態度では、服従する様子を見甘ながら、実質的には自己の利益を手 中にするというような徹底した実利主義政策をとっていた。

三幕府の蘭・唐貿易制限政策

 幕府がとって来た貿易制限政策は、抜荷がさかんに行われたことの最も有力な原因と考 えられるので、この制限政策について考察しなければならない。幕府体制下にあって、平 和な時代が、約300年間つづいたことによって、国民一般とくに当時の支配階級であった 将軍家、大名、武士階級ならびに富裕な町人たちの生活程度は向上し、したがって生活欲 望は増大せざるをえなかった。

 それに伴って、奢歯並や生活必需品えの需要は増加した。その当時、オランダ人や唐人 たちによってはるばる海外から運ばれてきた珍奇な物品や毛織物、絹織物、薬品類、染料 用樹木、べつ甲、ガラス製品、たもと時計などは、世人の垂灘のまとであった。したがっ て生活程度の向上と生活欲望の増加に伴い、時代の経過と共に海外との貿易は次第にさか んになるべきはずのものであった。しかるに1715年(正徳5)の新石白石の正徳の新令以 後、きびしく貿易額に制限が加えられ、次第に時代の経過と共にそれが強化されて、行っ たことは、まさに時代の進歩・発展に逆行するものであった。世人の生活向上の進運に対 して、深い矛盾を生ぜざるをえなかった。したがって、その矛盾あるいはその間の空隙を うめるために、抜荷がさかんに行われたことは、まさに自然の成行であった。

 徳川幕府の、唐・蘭貿易制限政策により、長崎に一年越に入港しうる唐・溢血の隻数は 制限されていたが、それでも1688年(元禄元)には、唐船70隻、1698年(元禄11)には、

唐船80隻とし、定高銀6,000貫目のほか、2,000貫の代物替(俵物・諸色)が許された。

 俵物というのは、海産物であり、俵で包装するので、俵物と称されるようになったこと

(8)

ワ4

は明かであろう。いりこ、ほしあわび、ふかのひれの類の海産物である。

 諸色というのは、こんぶ、するめ、鶏冠草、萩苓、寒天、五倍子、しょうのう、ほしえ び、ほし瀬貝、いたら貝、しいたけ、和人参、かつおぶしなどである。

 オランダ船は、1701年(元禄14)からは、4−5隻に限られた。この時代が、唐・蘭貿 易の最もはなやかな時代であった。

 その後は貿易制限政策が一そう強化された。我国内の銅の産出額の減少を憂えた新井白 石はよって、銅の輸出を制限する目的から、1715年(正徳5)に、いわゆる正徳の新令が 公布、実施された。

 正徳新令によれば、唐船30隻、その商額を銀高6,000貫目、その内、銅によって支払う 高を300万斤に限り、オランダ船は、2隻、その商額を銀高3,000貫目、そのうち銅によっ て支払う高を150万斤と定めた。

 1717年(享保2)には、中国人の請願によって、唐船の数を10隻増加し、商額も2,000 貫目を増加して、8,000貫目とした。しかし我国の銅の産出額は、その後憂うべき状態を 示したので、1720年(享保5)からは、再び唐船30隻、商額平銀4,000貫目、有余売額を 700貫に減じた。

 有余売というのは一定の貿易取引制限銀高以上に取引される荷物(銀口過上の荷物とも いわれる)の売買のことをいうのである。しかし、1715年の正徳の新令によれば、その取       くちぶね

引高には制限がある。早船(寧波船・南京船など)は、銀30貫まで、俵物・諸色の代物替 が認められている。なおそれを超過する荷物があれば、この分は、定高口つまり、制限銀        おくぶね

高のなかに、おし入れて買取られる。ただ奥船(トンキン船・広東船など)の超過荷物

(過上荷物)は、銀30貫に限らず、代物替ですべて買取ることに定められた。有余売は、

1728年(享保13)からは、雑物替と称された。囲 要するに、有余売又は雑物替というの は、一定の制限貿易銀高を超過する分の代物替のことである。

 1720年(享保5)から後は、次第に貿易額を減じ、1742年(寛保2)には商売半減の令 を発して、唐船10隻、商額銅150万斤、オランダ船は定額銀550貫目、脇荷物50貫目、銅60 万斤に減じた。しかも唐船には、翌1743年(寛保3)に、定額外に銀1,000貫目に相当す

る代物替を許した。

 1790年(寛政2)には、オランダ船は1隻とし、その商額を450貫目、脇荷物60貫目、

そのほか八朔進物、献上物、御用物などを合せて、銀700貫目の輸入を許し、銅の輸出高 を60万斤とした。

 1765年(明和2)に、唐船は10隻から13隻に増加されたが、1791年(寛政3)には、唐 船3隻を減じて、10隻、定高2,740貫に定められた。

 1715年(正徳5)のいわゆる正徳の新令によって、貿易制限の根本政策は定められた が、その即しばしば、貿易船の隻数や貿易取引額の変更が行われた。それを列挙すれば、

次のようになる。⑳

(9)

  1717年置享保2)……中国船貿易額。船10隻、銀2,000貫を増加し、船数40、貿易額       8,000貫とする。

  1719年(享保4)……中国船30隻、新銀(享保丁銀)4,000貫とする。 (翌年から実       施)

  1720年(享保5)……オランダ船、新金25,000両、銅1,000,000斤とする。 (翌年か       ら実施)

  1736年(元文元)……中国船25隻とする1   1740年(元文5)……中国船20隻とする。

  1742年(寛保2)……中国船の定額を半減し、銅1,500,000斤。他に有余売5割増。

      額外荷物5割〜10割増。オランダ船、定額550貫、脇荷物50       貫、銅600,000斤などとする。(寛保4年から実施)

  1746年(延享3)……オランダ船2隻、銀800貫、脇荷物100貫、銅1,100,000斤など       計1,250貫。中国船10隻、銅1,500,000斤とする。

  1749年(寛延2)……中国船15隻。高額4,050貫。別に有余売、遣用売を許可し、毎       丸心274貫、銅100,000斤とする。

  1764年(明和元)……オランダ船は交易銅800,000斤とする。中国船は13隻、銀3,510       貫、額外銀310貫900目とし、銅200,000斤を減少する。 (翌年       実施)

  1765年(明和2)……中国船13隻とする。

  1790年(寛政2)……オランダ船1隻、銀700貫、銅600,000斤とする。

  1791年(寛政3)……中国船10隻、銀2,740貫とする。

 以上に述べて来た貿易制限政策は、次表の中国船、オランダ船入港隻数表飼 によって 知ることができる。

寛永14年(1637)

  15年(1638)

  16年(1639)

  17年(1640)

  18年(1641)

  19年(1642)

  20年(1643)

正保元年(1644)

  2年(1645)

  3年(1646)

中国船オランダ船来航隻数

中国船 64

93 74 97 34 34 54 76 54

オラン ダ 船

 9  5  5  8  7  5

  4年(1647)

慶安元年(1648)

  2年(1649)

  3年(1650)

  4年(1651)

承応元年(1652)

  2年(1653)

  3年(1654)

明暦元年(1655)

  2年(1656)

中国船

 20  59  70  40  50  56

タ2

 45  57

オラン

ダ 船

 4

 6

 7

 7

 8

 9

 5

 4

 4

 8

(10)

ワ6

  3年(1657)

万治元年(1658)

  2年(1659)

  3年・r(1660)

寛文元年(1661)

  2年(1662)

  3年(1663)

  4年(1664)

  5年(1665)

  6年(1666)

  7年(1667)

  8年(1668)

  9年(1669)

  10年(1670)

  11年(1671)

  12年(1672)

延宝元年(1673)

  2年(1674)

  3年(1675)

  4年(1676)

  5年(1677)

  6年(1678)

  7年(1679)

  8年(1680)

天和元年(1681)

  2年(1682)

  3年(1683)

貞享元年(1684)

  2年(1685)

  3年(1686)

  4年(1687)

元禄元年(1688)

  2年(1689)

  3年(1690)

  4年(1691)

  5年(1692)

  6年(1693)

  7年(1694)

  8年(1695)

  9年(1696)

  10年(1697)

39 43 60 45 39 42 29 38 36 37 33 43 38 36 38 43 20 22 29 24 29 26 33 29 9 26 27 24 73 84 115 117 70 70 70 70 70 70 60 70 70

11 10 8 5 11

8 6 8 12

7 8 9 5 6 7 7 6 6 4 4 3 3 4 4 4 4 3 5 4 4 3 3 4

1 3 4 5 4 5 4 6

  11年(1698)

  12年(1699)

  13年(1700)

  14年(1701)

  15年(1702)

  16年(1703)

宝永元年(1704)

  2年(1705)

  3年(1706)

  4年(1707)

  5年(1708)

  6年(1709)

  7年(1710)

正徳元年(1711)

  2年(1712)

  3年(1713)

  4年(1714)

  5年(1715)

享保元年(1716)

  2年(1717)

  3年(1718)

  4年(1719)

  5年(1720)

  6年(1721)

  7年(1722)

  8年(1723)

  9年(1724)

  10年(1725)

  11年(1726)

  12年(1727)

  13年(1728)

  14年(1729)

  15年(1730)

  16年(1731)

  17年(1732)

  18年(1733)

  19年(1734)

  20年(ヱ735)

天文元年(1736)

  2年(1737)

  3年(1738)

67 69 53 56 80 80 80 80 80 80 59 54 57 57 59 40 51 7 7 43 40 27 26 33 33 34 13 30 43 22 22 31 38 38 36 28 31 29 16 5 5

7

5

5

4

4

4

4

4

5

4

3

4

4

4

4

3

3

2

3

2

2

0

2

3

2

2

1

2

2

2

2

2

2

1

2

2

2

1

2

2

2

(11)

  4年(1739)

  5年(1740)

寛保元年(1741)

  2年(1742)

  3年(1743)

延享元年(1744)

  2年(1745)

  3年(1746)

  4年(1747)

寛延元年(1748)

  2年(1749)

  3年(1750)

宝暦元年(1751)

  2年(1752)

  3年(1753)

  4年(1754)

  5年(1755)

  6年(1756)

  7年(1757)

  8年(1758)

  9年(1759)

  10年(1760)

  ll年(1761)

  12年(1762)

  13年(1763)

明和元年(1764)

  2年(1765)

  3年(1766)

  4年(1767)

  5年(1768)

  6年(1769)

  7年(1770)

  8年(1771)

安永元年(1772)

  2年(1773)

  3年(1774)

  4年(1775)

  5年(1776)

  6年(1777)

  7年(1778)

  8年(1779)

20 25 14 15 15 20 20 10 10 12 13 10 1 15 15 24 12 7 12 14 18 12 12 15 13 14 12 12 12 19 13 13 12 13 13 12 12 12 12 12 12

2 2 2 2 2 2 3 3 3 2 3 3 3 2 2 2 2 2 2 1 2 2 2 2 3 2 1 1 1 1 2

1

2 2 2 1 1 2 2 2 2

  9年く1780)

天明元年(1781)

  2年(1782)

  3年(1783)

  4年(1784)

  5年(1785)

  6年(1786)

  7年(1787)

  8年(1788)

寛政元年(1789)

  2年(1790)

  3年(1791)

  4年(1792)

  5年(1793)

  6年(1794)

  7年(1795)

  8年(1796)

  9年(1797)

  10年(1798)

  11年(1799)

  12年(1800)

享和元年(1801)

  2年(1802)

  3年(1803)

文化元年(1804)

  2年(1805)

  3年(1806)

  4年(1807)

  5年(1808)

  6年(1809)

  7年(1810)

  8年(1811)

  9年(1812)

  10年(1813)

  11年(1814)

  12年(1815)

  13年(1816)

  14年(1817)

文政元年(1818)

  2年(1819)

  3年(1820)

12 13 1 13 13 13 13 13 13 13 9 10 10 10 10 10 5 10

9 3 9 15 11

8 12 12 5 7 12 10 11 11 11 13 7 10 14 6 5 12

8

2 1

0

1 1 1 1 2 2 2 1

0

1 1 1 1

0

1 1 1 1 1 2 1 2 1 2 2 0

1

0 0 0 2 1

0

0

2

2

2

2

(12)

78

  4年(1821)

  5年(1822)

  6年(1823)

  7年(1824)

  8年(1825)

  9年(1826)

  10年(1827)

  ll年(1828)

  12年(1829)

天保元年(1830)

  2年(1831)

  3年(1832)

  4年(1833)

  5年(1834)

  6年(1835)

  7年(1836)

  8年(1837)

  9年(1838)

  10年(1839)

7 0 7 7 8 10 10 8 8 8 3 9 5 8 8 7 9 4 10

2 0 2 2 2 2 2 1

2 2 2 2 1 1 1 1 1 1

  11年(1840)

  12年(1841)

  13年(1842)

  14年(1843)

弘化元年(1844)

  2年(1845)

  3年(1846)

  4年(1847)

嘉永元年(1848)

  2年(1849)

  3年(1850)

  4年頃1851)

  5年(1852)

  6年(1853)

安政元年(1854)

  2年(1855)

  3年(1856)

  4年(1857)

  5年(1858)

4 8 4 8 8 7 8 4 5 7 5 4 4 0 2 5

1

4 3

1

0 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 2 2 2 0

 以上の中国船、オランダ船来航隻数表を通覧すると、1688年(元禄元)から、1703年

(元禄16)にいたる元禄時代及びそれに引つづく、1704年(宝永元)から、1710年(宝永 6)にいたる宝永時代を最盛期として、幕府の貿易制限政策により、次第に入港隻数が減 少していった過程が明かである。

 1688年(元禄元)には、唐船70隻、1698年(元禄11)には同80隻の唐船の入港が許され ていたのであるが、1715年(正徳5)の正徳新令によって、唐船の入港は30隻に制限され

るようになった。さらに商額にも前述のように制限(銀高6,000貫目、その内銅で支払高 300万斤)が加えられたので、隻数が30隻未満の場合でも、商額の方で制限額に達すれ

ば、それ以後はその年度内には、唐船の入港はできないことになるわけである。

 オランダ船は、1701年(元禄14)からは、年間4−5隻に限られていたが、1715年(正 徳5)の正徳新令によって、2隻に制限され、さらに商額にも前述のように制限(銀高 3,000貫目、その内銅で支払高150万斤)を加えられた。

 正徳の新令が施行された1715年(正徳5)と翌年の1716年(正徳6)に、唐船の入港

隻数が、何れも7隻に激減しているのは注目すべき現象である。それまでは、元禄元年か

ら宝永及び正徳4年忌いたる期間、つまり1688年から、1714年にいたる27年間に、唐船の

入港隻数は、70隻から80隻を数える年が最も多く、少いときで50隻以下になったことは稀

であった。ただし1708年(宝永5)からは59隻に制限された。(26)17工3年(正徳3)に40

隻になったことが一回あるだけである。1688年(元禄元)に117隻になったことがあるー

(13)

が、これは例外的に多い。

 その前年の1714年(正徳4)には、51隻が入港している。1715年(正徳5)とその翌年 のニケ年に唐船の入港隻数が、急に7隻に激減した理由は、貿易制限令の影響によるもの である。

 幕府は正徳5年1月11日付けの23ケ条から成る新令を、長崎奉行大岡清相に通連にする ために、大目付仙石丹波守と使者石河三右衛門とを、そのほか3名の随行員と共に長崎に 派遣した。彼らが長崎に到着したのは、同年2月23日であった。

 長崎奉行大岡清相は、唐船の長崎出港をひきとめておき、大陸の各地から来る船が出揃 うのを待って、上使が到着した翌月の5日に、かれらを奉行所に呼出して、令書を読みき かせ、連署の請証文をとりたてた。新令を承諾した唐船は、3月9日から7月26日まで に、47隻が出航し、同年には新に7隻が入港したが、この7隻から新令の実行にうつっ た。⑳

 1715年(正徳5)の入港隻数が、前記の「中国船、オランダ船入港隻数」表で7隻とい うのは、新令実施後の7隻を意味すると考えられる。

 長崎市史通交貿易編東洋諸国部、387ページに上れば「正徳5年(1715)に入港した

〔唐〕船数は20隻あったが、無信牌の船は13隻に及んだ」と書かれている。無信牌の船13 隻は積戻しを命ぜられたことは当然であろう。

 同年中に長崎奉行大岡清相から出航を命ぜられた47集と、これらの積戻船の13隻とが、

どのような関係にあるのか不明であるが、幕府は信牌のない唐船の貿易を厳重に禁止する 政策をとったことが看取される。

 新令を実施した翌年の1716年(享保元)にも入津の船数は、26隻あったが、無信牌のた め積戻を命ぜられた船は、19隻に及んでいる。したがって「中国船オランダ船来船隻数」

表では、その年の入港隻数は7隻になっている。

 これらの多数の積戻船が生じた理由は、豊春制度が創始された1715年(正徳5)以来、

日なお浅く、交通、通信が極めて不便であった時代のたあ、その制度を知らないで入港し た船が多かったことによるものであろう。

 これらの多数の積戻船が、帰帆するとき、長崎港外や遠くは天草沖、五島沖などで積荷 を処分するために密貿易(追肴又は出買、抜買ともいわれる)が、さかんに行われた。⑳  また貿易制限令を知っていた唐船主のなかには、はじめから長崎に入港しないで、主と して九州の各地方の海岸で、日本人の密貿易業者と共謀して、抜荷をなすものが多数生じ た。この種の密貿易は、積戻船による場合と同様に、正徳の新令以前から、多数行われて いたが、貿易制限令によって、とくに助長された傾向が見られる。長崎奉行所犯科帳がこ れを物語っている。

 無信牌のため一枚全部が積戻しを命ぜられた場合による沖買もあったが、 「白石私記」

(通船一覧巻166)(長崎市史通交貿易編、東洋諸国部p207)によれば、唐船一隻当の貿易

(14)

80

定額は銀160貫目位にすぎなかったので、正規の貿易船でも、帰帆のとさに、売残った積 荷を、沖合で処分することもあったことが書かれている。そのわけは、はじめから制限高 以上の貨物壷積んで来て、抜荷によって、より多くの利益をあげようとした船主たちが多 かったからであろう。

 幕府の根本政策として正徳の新令は、始の間は万世不易の法律とする考であったが、

1716年、すなわち正徳6 年4月(同年6,月22日に享保と改元)に、4代将軍家継が死去 し、吉宗が紀州家から入って将軍家をついだ。彼はすべて前代を否定し、祖法に復するの をその施策の方針とした。したがって、前代の家宣や家継時代の政策は改廃したものが多 かった。例えば、1717年、享保2年3月には、将軍の代替りごとに出される武家諸法度の ようなものも、新井白石が苦心して作り上げたものを一挙にして廃止し、天和年度のも の、すなわち綱吉時代のものに復旧することにした。この場合、この条文はどこが悪いと いうのではなく、要するに、全体の調子を好まなかったらしい。彼は家宣以来、急速に進 んできた幕府政治の京都化、公家化が気に入らなかった。彼は幕府の政治が、それによっ て繁文褥令化を増し、いちじるしく形式化しているように考えた。服制、儀式そのほかい ろいろと煩雑な制度が生じている。万事に簡素を尚ぶ吉宗の気質に合わなかった。⑳

飼τ

ワた新井白石も、ユ716年(享保元)に、吉宗によって、幕府での役職を罷免されたの で、正徳の新令も廃止しようとの議があった。しかし長崎貿易の制限については、新井白 石の改革をすべて否定し去った吉宗も、自ら親しく裁決して、旧に従って励行する方針を

声明した。(30)

 吉宗が貿易制限令についてだけは、新井白石の政策を継承しなければならなかったこと は、我国からの金・銀・銅の流出ということは、そのまま放任すれば、幕藩体制を根底か ら、ゆりうごかすような国家的大問題であって、たんに吉宗の白石に対する個人的な好悪 というような問題をはるかに越えた重大問題であったからである。

 新井白石が調べたところによると、次のように莫大な数量の金、銀、銅が長崎を通じて 海外に流出した。61)

 a l648年(慶安元)から、1708年置宝永5)までの間    金………2,397,600両余

   銀・・…・……374,200貫余,

 b l663年(寛文3)から、1707年(宝永4)までの間    銅……1,114,498,700斤

 これらの数量は、1601年(慶長6)以後、10ア年間に、我国で産出された金の4分の1、

銀の4分の3が、海外に流出したことを示している。

 正徳の新令は存続に決定したが、制限令実施の結果、積戻を命ぜられる唐船が多数生じ

た。また長崎に入港しないで、九州の各地方の海岸に出没して、抜荷をなす唐船が増加し

た。そのために密貿易がさかんになり、交通や通信連絡が極あて不便な時代のたあに、取

(15)

締がはなはだ困難であった。

 正徳の新令が施行される以前においても、正常な取引を終った後に帰帆する唐船から、

残り荷を長崎港外で、ひそかに沖嘉しようとする抜買人が多かったことは、犯科帳がよく 物語っている。残り荷であるから、格安に入手できた筈である。奉行所の監視の目をくぐ って、伊王島沖、香焼島沖、野母沖、樺島沖、遠くは五島沖、天草沖などで、帰帆する唐 船に、ひそかに舟を漕ぎよせて、唐荷物を格安に買取り、一掴千金を夢みる者が多かっ た。ほとんどすべて唐船からの抜買であるが、例外的には、1711年(正徳元)に、高言島 沖で、帰帆のオランダ船から抜買した例が一件ある。(鋤 オランダ船が少いのは、入港隻 数が、年平均4−5隻くちいに限られていたからで弟る。

 犯科帳に記録されたものは、氷山の一角にすぎないと考えられるのが、・1687年(貞享 4)から、は じまり、元禄(1688−1703),、宝永(1704−171g)を経て、正徳の新令が施 行された1715年(正徳5)にいたるまで、帰帆唐船からの沖買による抜荷事件の記録が多 数散見する。正徳の新令が実施された直後の享保時代に入ってからは、貿易制限令が実施 されたことによって、さらに沖買による抜荷の犯罪件数が大幅に増加したことを犯科帳は 示している。これはさきに述べたように、貿易制限令によって、幕府から積戻しを命ぜら た唐船が多くなったことによるものである。     、

 このような沖買による抜荷の増加の傾向に対して、長崎奉行所では放任できないので、

1716年(享保元)には、長崎港外の木鉢浦に、唐船見送番所を置き、唐船の帰帆のときに は、はるか沖合まで尾行して、積戻船の抜荷を監視させた。(33 1716年(享保元)から、

172r年(享保6)にかeて、沖買による抜荷の件数が、とくに多くなっている。

 1718年(享保3)には、幕府は渡辺外記を九州各地に派遣して、沿岸に漂着した唐船の 破壊を、各地方の大名に命じている。圃 このことは何を意味するかというと、唐船が九 州の各地の海岸に出没して、抜荷を行ったことを意味するものであろう。万一、監視の役 人に発見された場合には、漂流船であると称して、逃れようとしたものであろう。正徳の 新令以来、貿易制限に対抗する手段として、とくにこの種の密貿易船が多くなったことが

考えられ・る。

 次の犯科帳が示す諸事例は、このことを裏書きしているものと解される。

 長門の国の海岸に唐荷物を積んだ船が、漂着したり、筑前の船が下関辺で抜荷を行った 疑をもたれたり、若松沖や平戸の沖で唐船から抜買をしたことは、その付近の海に唐船が 出没したことを物語るものである。

 (1)正徳4年(1714)6月4日に、毛利右京太夫の領内である長州〔長門〕大坪村の浜

に、唐荷物を積んだ無人船が1艘漂着した。そこで見張の役人をつけておいたところ、讃

岐の塩飽の船頭3名が尋ねてきた。役人がこの3名を召捕って長崎に護送してきた。厳重

に取調べたところ・荷主は逃亡して行方が知れないと言う。右の3名は抜軍には関係がな

いことは明かになったが、怪しい者に船を貸したことは不届であるかち、江戸幕府へ罪状

(16)

82

を具申し、量刑の伺をたてた。江戸幕府からの下知により、享保元年(1n6)12月26日付 で、五島へ流罪に処した。㈲

 これは長門町で唐船からの抜買があったことを推量させる事件である。

 (2)享保元年(1716)夏に、筑前の黒崎から出帆し、下関へ向つた船に、怪しい事があ って、抜荷の疑がもたれた。そこでその船に乗組んでいた筑前の町人や船頭たち6名を筑 前の領内に預けておき、翌享保2年(1717)4月に長崎に護送して、入牢を申付けた。そ の後度々彼らを厳重に取調べたが疑わしいことがなかったので、7月12日に釈放し、松平

肥前守に預けた。(36>

 この事件は筑前の海岸で、抜買が行われていたことを暗に示すのものである。このこと は、次の事件によって、決定的となる。

 (3)享保2年(1717)に、長崎の無宿人2名と大阪の無宿人1名、計3名が、松平肥前 守の領海である若松沖で召捕られ、長崎に護送されてきた。厳重に取調べたとごろ、沖買 の罪を犯した旨を自白したので、同年10月26日に入牢を申付げた。この3入は翌年3月21

日付で、鼻をそぎ、追放に処せられた。67)

 この事件は、若松沖に唐船が抜荷のために出没していたことを証明するものであろう。

 (4)享保2年(1717)に、肥後の無宿人と讃岐の無宿入の2名が、小.笠原右近将監の 領内の藍島で、召捕られ、長崎に護送されてきた。同年10月26−日に入牢を申付けた。厳重 に取調べととろ、 ヤ戸沖で、沖買の罪を犯した旨が明白になった。この2人は翌年3月21

日付で鼻そぎ、追放に処せられた。68)

 平戸はかつての貿易港であったが、16諮年(寛永12)に、鎖国命の実施とともに閉鎖さ れた。翌年長崎の出島の完成と共に、平戸在住のボルト腔ガル商人はすべて出島に移 され た。したがって、平戸の近海に唐船が近よることは禁制であることは勿論である。この事 件は、平戸沖近海に唐船が出没していたことを物語っている。

 以下事例をあげることは、省略する。

 要するに、正徳の新令による貿易制度制限政策の結果は密貿易が盛んとなり、その取締 がきわめて困難であった。それと同時に、唐人屋敷の唐商たちから、制限解除を嘆願して 来たので、1717年(享保2)には、唐船の定数30隻に10隻を増加して、40隻を承認した。

したがって、貿易額を2,000貫目増加して、8,000貫目とした。

 なお信牌の制度すなわち唐船に与える貿易免状の制度は、1715年(正徳5)の正徳の新 令によって規定されたが、それは長崎開港まで存続した。これは密貿易船を取締る目的で あることは明白である。

 1717年(享保2)に、貿易制限緩和の現象が一時見られたが、それは2ケ年しかつづか ず、年とともに制限政策はきびしくなる一方であった。

 この傾向に対して、決定的な意味をもつのは1742年(寛保2)の貿易半減令であった。

この年以後は唐船の入港隻数は毎年平均10隻内外であり、幕末期には4−5隻位に減少し

(17)

た。

 1742年(寛保2)の貿易半減命が発せられた理由は、長崎への廻銅(渡銅)額の減少で あった。国内の銀の生産は、元禄宝永期を最高として、次第に下降した。当時長崎廻しの 銅の主産地は阿仁、別子、尾鳴沢、白銀などの諸山であった。幕府はこの御用銅を手に入 れるために、諸藩の鋳銭に対して制限を加え、1ア38年(元文3)には、再び大阪に銀座に さらに銅座を加え、諸国の銅の売買を一切禁止して、すべて銅座に集めることにした。こ の銅座から樟銅を長崎会所にまわすことにした。このような手段を構じても、なお廻銅は 不足し、そのために次第に貿易額を減少して、1742年(寛保2)の貿易半減令を発せざる えなくならた。(39 この半減令により、銅の輸出額を2,100,000斤に定めた。その内訳は 唐船1,500,000斤とオランダ船600,000庁である。

 その後も銅不足がつづき、逐年銅の輸出額を減少した。  (1969,5,5)

(註)

 1.

2.

3.

4.

5.

6.

7.

8.

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10。

11.

12.

13.

14.

15.

16.

17.

岩生成一、朱印船貿易史の研究、p.185 川島元次郎、朱印船貿易史、p.187−576 岩生、同上書、p.185

岩生、  〃 P.190

岩生、鎖国(日本の歴史第14巻)、p.170 片岡弥吉、浦上四番崩れ、p.18 岩生、鎖国、p.177

箭内健次、長崎、p.47 片岡、同上書、p.22 片岡、 〃 P.23 岩生、朱印船貿易史、p.164 片岡弥吉、長崎の殉教者、p.75 箭内、同上書p.17

古賀十二郎、長崎開港史、p.1−10 重藤威夫、長崎居留地、p.57 川島、同上書、p.149 岩生、同上書、p.154 川島、同上書、p.104 岩生、同上書、p.155−163

古賀十二郎、長崎洋学史上、p.248−55 川島、同上書、p.115−6

森永種夫編、犯科帳、11巻

重藤威夫、長崎居留地と外国商人、p.151

大日本古文書、幕末外国関係文書⑳、P.32

(18)

84

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19.

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24.

25。

26.

27.

28.

29.

30.

31.

32.

33.

34.

35.

36.

37.

38.

39.

Paske Smith, Western Barbarians in Japan and Formosa, p.340−41 山口和雄、幕末外交史、p,29

山口・ 〃 P・30 重藤、同上書、p.153

山脇悌二郎、長崎の唐人貿易、p.266 山脇、 〃 p.268

長崎市史、通交貿易編東洋諸国部、p.394、山脇、同上書、 p.142、151 箭内同一ヒ書、p.126

箭内、 〃 P.197−200 山脇、 〃 p.144

長崎市史、通交貿易編東洋諸国部、p.387山脇、同上書p.140−1 長崎市役所編、長崎と海外文化p.94

奈良本辰也、町人の実力(日本の歴史、17巻)p.158 長崎と海外文化p.94

奈良本、同上書p.86 奈良本、  〃 〃

森永種夫編、犯科帳第1巻p.140 長崎と海外文化p。94

   !ノ      〃

犯科帳第ユ巻p,156

 〃    〃   P.159  〃    〃   p.165

 !ノ        〃         〃

箭内、同上書、p.127−8

参照

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