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我が國民主化と教育課程

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我が國民主化と教育課程

 今日,我が国に於ける民主化の後退が問題にされている。第一次大戦後,独乙が当時として は最も民主的であると思われたワィマル憲法を制定し,民主化への道を進まんとしたが,あえ なく崩れ去った事実を想起する時,我々は我が国の民主化について,現状を検討し大いに反省 し民主化への一段の努力を払うべきである。我が国教峰岡に於ても,今次大戦後,民主教育が はなばなしく採り上げられたカ㍉今や,それは色あせた流行語に終っている観があるのはどう した事であろうか。我が国教育界の目下の一大急務は,かxる現状を反省し,民主化のための 教育をより一層推進することである。

 我が国民主化のための教育は種々の点から考察されねばならない。しかし,こ\ではその焦 点と考えられる点について,教育課程構成の面より論じてみたいと思う。

 戦前の1固い勢力の復活と整頭は,我が国民丈化に対して辞しい圧力を加え,これを押潰そう とするであろう。このような状況の中で,これに抵抗して我が国民主化を達成するためには,

民主化への強靱な意志と実行力をもった人間を育成しなければならない。即ち我が国社会の改 革をなしとげるにふさわしい強大な民主的バックボー》・を持った人間を育てなければならな い。アメリカ合衆国に於ても,1930年前後より特に民主化のための教育が強調されたが,そ れはすでに民主々義の基盤をもっている社会に於てのことであり,民主化工社会革命とも考え られる我が国の情勢下に於けるそれとは充分区別しなければならない。我が国は敗戦と共に大 きな社会革命の真只中におかれた。思うに,社会革命時の教育は,その革命達成1乞最も重大な 意味をもつ内容を採り上げ,これの徹底にあらゆる努力を集申する特異な教育が行われるべき であることは,教育史上に徴しても明かな事実である。(註])したがって,現在の我が国教 育は,社会革命時の特異な教育を包含するものと考えられるべきであり,民主革命遂行の能力 を育成するための特異な教育課程を用意すべきである。

 この小論丈は我が国祉会の民主革命に:最も重大な意味をもつ教育内容の選択とその組織につ いて究明せんとするものである。

 我が国民主革命のため特に要請される教育課程に就いて論ずるには,我が国に於ける民主革 命とは如伺なるものであるかを明かにしなけれぼならない。民主々義は世界史の展開過程に於 て,それぞれの時代にそれぞれの意味をもったようである。古くはギリシャ時代には民主々義

一13一

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は政治の一型態として,最も堕落した政治形態と考えられ,或は,近世に隔ては,立憲政治と V・う政治形態としてとりあげられ,更に現在では,民主・訓義は単なる政治の一型態ではなくて 経=済的,政治的,社会的,道徳的な原理であり,あらゆる生活の仕秀であると考えられてい

る。(註2) しかも,現在に於ても,同じ民主々義の名のもとに西と東の二つの世界が対立し それぞれ生活の原理やその仕方を異にするかのような趣きを示し,その二つの世界の間には冷 い戦いさえ行われている。このような事実は,民主々義は何んであるかを具体的に理解し実践 することを困難にしている。従って,我が国民主革命もその方向を見失V・がちとならざるをえ ない。我が国現下の社会革命の指導原理である民主々義とは何を意味するものであろうか。そ の意味を明瞭にするために先づ.民主々i義の本質について究明してみよう。

 西欧民主々義は個人の自由を特に強調するようである。勿論,その場合,個人とは自然人と しての個人ではなく社会国家の成員としての個人であると限定し,又,その自由は自然的,無 政府的自由でなく政治的,社会的自由であると限定する。しかし,根源的なものとして,先づ 個人をあげ,社会は彼等によってつくられるものであり,社会意志はその成員各個人の意志に よってつくられるもので,社会意志を成員各個人が作る℃とこそ真の政治的自由であるとす る。そうして,平等は単に自由の基礎としての消極的要素にすぎないとする。それに対して,

ソ連民主々義は共同体の自律とその中での個人の法律的並びに経済的平等を強調する。そうし て,西欧民主々義の謂う個人の自由は抽象的な,孤立的な個人の恣意にすぎない自由であって 真の自由でないとし,個人がその中の一分子として存在する全体,即ち,共同体の自律:こそ真 の自由であるとする。又,個人とはかしる共同体の中の一分子にすぎないとするのである。二 つρ世界の一つは,民主々i義の本質的なものとして,個人主義,自由主i義を強調し,他は社会 主義,平等主義を強調する。

 しかし,自由,平等,個人,社会というものをそれぞれ抽象的,先験的な絶体概念として互 に突きつけたならば,まことに,それは火と水のような矛盾したものとなるであろう。かくて 一つの世界は永遠の夢となり,強V・てこれを求めんとするならば,それは戦争による力の勝利 に解決を求めなければならないであろう。

 矢部貞治氏は,民主々義の本質は自由,平等,個人,社会等の概念に求めることは出来なV・

とし,それらは単に民主々義の諸要素にすぎないとする。民主・々義の本質はそれらの諸要素を 包摂し,且つ,それらにその所を得さしめ調和せしめるところの「人格の尊厳」であるとして いる。(註3)民主々義とは,「人格の尊厳」をあらゆる人間生活の領域に顧て如実に具現する

ことであると思う。この民主々義の本質の顕現のしかたは,その時の生活条件と憂虞の自覚の 段階によって種々の様相を呈するであろう。そこに現実に存在する民主々義は種々の特殊相を 示すことになる。封建的な色彩が残存している祉会条件のもとにあっては,「人格の尊厳」の ために個人の自由とか法律的平等とかが強く要求され,そこでの民主々義は個人の自由の色の 濃いものとなる。資本主義社会が欄熟して来ると,そうした社会の条件のもとでは「人格の尊 厳」のために社会の福祉や経=済的平等が強く要求され,そこでの民主々義は経済的平等や共同

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体の自律を強調するようになる。要するに,自由,平等,個人,社会は「入格の尊厳」という 民主々義の最高理念の具現をめぐって,それぞれの社会条件に即して強調され・そこに民主々 義の特殊相があらわれたと解すべきであろつ。

 さて,現代に於て,万人の「人格の尊厳」の具現が何によって妨げられてV・るのであろう か。この問題を解明してゆく所に我が国民主革命の真相を把握することができるであろう・現 代は大きな丈化史的変動の時代である。現代の巨大なテクノロジーと自由主義的資本主義経済 体制との結合より種々の矛盾が発生し,そこに「人格の尊厳」をふみにじるような事態を産み 出してV・る。即ち,ありあまるものの中で凍え餓える貧困が存在し,人間としての「最低限の 健康で:文化的な生活」すらも許されない人々が多数存在している。このような現象は,現代の 巨大なテクノロジーが前時代的な自由競争の精神や,独占私有の精神によって支配されている ために生じたものである。:文化の物質的側面の進歩に対して,精神的側面が旧態のま」停滞し 産業組織も政治や倫理もこれに追いついてゆけない状態である。かくて,資本主義機構の中で は人闇の商品化,物化が大がかりに行われ,人格の尊厳が無視されている。現代の巨大なテク ノロジーが現代の倫理や論理によって支配されす,前時代的倫理や論理によって支配されてv・

る所に現代社会の混乱があり,ゆわゆる善化停滞(Cu1加raHag)が存在する。か」る現代社会 の混乱一:文化的停滞は「人格の尊厳」を色槌せたものにしてしまってV・る。(註4、

 オルセン(Edward G. OlseD)は,「青年達が現代の貧困と大戦とは,技術の背後にある人 間の社会制度の束縛がわざわV・している事を悟るにあらざれば,彼等は依然知的には空疎で,

感惰的には破綻し,道徳的には無道徳となるであろう。」(註5) と,言っているが,この現 代の貧困こそは,国内的には階級対立を産み,国際的には世界大戦をもたらしたものである。

今日の国内的には階級対立の問題,国際的には平和の問題も,技術の背後にある社会制度の束 縛が産み出したものである。かくて吾々は次のようなことが明言できるであろう。即 ち技術の 背後にある人間がつくった社会制度の悪しき束縛を解き放ち,新しい倫理と論理によって,人 格の尊厳を実にするような社会制度を打ち出すことこそ現代の文化的停滞を解消する所以であ

り,国内的には階級対立の問題を,国際的には平和の問題を解決することであるQ

 要するに,我が国の民主革命とは,アメリカ的な,・イギリス的な,或はソ連的な民主々義を そのま』我が国に移植することではなく,世界史的な立場より,真の民主々義の本質を把握し その本質的なもの,即ち,人格の尊厳をあらゆる社会生活の中に実にしてゆくことであり,か つ・そうすることによって,現代丈代の停滞を解消し,階級二恩を消滅せしめ,或は,世界平 話の実現に貢献してゆく社会に現在の我々の社会を改造することを意味するものである。この ような社会改造をなしうる人間の育成こそ,我が国教育の根源的目標である。そうしてこの根 源的目標に直接効果のある教育内容の選択とその組織は,我が国昆主革命のための教育の焦点

と呼んでよいであろう。

〜15・一

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 然るに,我々教育者はか」る事態の申におかれながら,一体なにをなしたであろうか。ブルバ ッハー(John S・Brubacher)は「現代は困惑の時代であって,吾々はその中にある。科学とそ の生産物,急激な変化は多くの長V・間存在していた習慣や信念をくつがえしてしまった。かく て,多くの人々が不安と恐怖におそわれ,何を考え,何を信じ,どのような標準を支持し,ど んな価値を求めんとすべきであるかという事について困迷に陥っているような困難な社会問題 をもたらした。…… 吾々は多くの人々が人間の努力に対する信念を衷失し,人間の科学が生 産した世界を支配する人間の能力に対して疑問をもっている事を発見する。」(註6) と述べ ているが,まさに,我女はこのような事態に無知であったか,叉は,絶望に陥入っていたかの 何れかでなかったであろうか。

 テクノロジーのもたらした高度の分業は,専門的な能力をもった人間を必要とする。「スペ シャリズムは社会の遠心力を増大する」(註7)即ち,それは社会により一層の豊さと発展と をもたらす。この社会的要求に応じるために教育的努力は専門人の育成に集中された。その結 果教育はいわゆる断片人をつくる教育になってしまった。即ち.自らの専門は深めているが,

社会全体の聯関と,その聯関の中に置かれている自己の在り方とに対して無知な人語をつくる 教育になってしまった。一方,テクノロジーに於ける高度の分業化は,自給自足の時代とはち がって,却って,人間相互依存の広範囲の緊密化というi新しい人間関係を必要とする社会情勢を つくりあげている。断片人はこのような社会情勢の中に置かれながら,単に自己の専門的見地 からのみものを考え行動し,専門家である前に先づ一市民であることの重大さを忘れる。かし

る断片人こそ現代丈化の停滞に拍車をかける者である。

 米国に於て,か」る断片人に対する反省は,「一市民として適切に彼の義務を果すために,

個人は複雑な生活を一一つの全体として把握することが出来なければならない。」と,いうこと になり,「教育の目標はある特殊な職業の領域に於ても,かつ自由人,市民とV・う一般的な領 域に於ても共に熟練した者となるよう個人を準備することでなければならない。」(註8) と いう考えをうむに至った。前者の領域に対する教育を専門教育と呼び後者の領域に対する教育 を一般教育と呼んでいる。

 我々の社会は,「よらしむべし,知らしむべからす。」と,いうような封建的伝統を多分に 残存した社会であり,そうした環境は我々が主権者として,社会のにない手として立体的に行 動する経験や,社会の横のびうがりについての経験を乏しいものにした。戦後民主社会に変革 されたとは云へ,長い過去の伝統は我が国民が封建的習性から脱して,全体の中に,横の人間 関係の中に生きることを阻んでいる。その上,テクノロジーの波が我が国社会をひたし,我が 国の人々の断片人的性格はますます色濃いものになってゆかんとしている。勿論,明治以来欧 米丈化を大いに吸牧し,我が国民の思想と生活に大きな進歩があったことは事実であり,民主 社会についての理解も一応なされてV・たと言うことができるであろう。しかし,その民主々義

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についての思想と生活は,一般的には実は時代おくれの,ある特殊な民主々義のタ・fプについ てであって,市民的ヒエマニズム時代のものにすぎない。(註9)即ち]8.9世紀的資本主義社会 に於ける特殊な民主々義に関するものである。かxるタイプの民主々義が現代を支配せんとす る所に問題があり,この民主々義こそまさに断片人を産み出した母体である。今や,現代の科 学と技術は一個人の生活をも常時国境を越えて世界の国々と緊密にむすびつけてしまった。国

内問題は直ちに国際問題につながり.国際問題は叉直接に国内問題つながっている現代社会に 於ては,世界全体をみlbたす広い視野で,我々はものを考え行動するよう余儀なくされている。

 現代に於ける鴻化的停滞より産み出された国際社会の危機,国内社会の危機についての理解 をもち,これを解消せんとする熱意と能力とをもった人間をつくる教育,即ち,一般教育こそ 現代教育の最:重要事である。封建的断片人の性格を工8.9世紀重事本主義社会的断片人の性格と の二重性格を飛脚せしめる人間革命を通じて,我が国民主革命を完成せしめようとする我が国 の一一般教育はまことに困難な仕事であろう。けれども,我 々はこれをなさねぼならぬ。

 かΣる一般教育のプ・グラムが小学校より大学に到る学校教育はもとより,社会教育の領域 に於ても,充分用意されてこそ,我が国民主化は可能となるであろう。

 戦後我が国民主化をめざす教育が,新教育の名のもとにとりあげられ,かつ,実践された。

そうして,特にか』る意味をもつた教育内容として,初等,中等教育に於ては社会科が,大学 に於ては一般教育が採用されたかに見えたが,結局,みのらすして立枯れてしまったようであ る。教育学者,教育実践家のあるグループは,コア・カリキュラムを提唱し,前述した意味の 教育を推進せんと努力した。(註ユ0) しかし,これも今やその姿を消そうとしている。これは 我が国民主化の危機をものがたってV・るものではないだろうか。

 戦後,我が国教下界に姿をあらわした社会科教育は,現在,地理,歴史などについて基醍学 力の欠除しているとの理由から改訂され,地理的,歴目的学習の色彩を濃くし。本来それが教 育界にとりあげられた社会的意義を失わんとしてV・る。もともと,社会科は米国に於て,断片 人の追放をめざし,社会全体の視野に立って行動する国民をつくるためにとりあげられたもの である。アメリカ教育界は,アメリカをおそった第一次大戦後のデフレの波,それにつづくプ アシズムの嵐を契機として,断片人教育について深く反省し,その克服のため社会科を発展せ しめて行ったのである。現在,我が国に於て,社会科のみらならすあらゆる教科に於ける基礎 学力の不足を問題としているが,その基礎とはおしむねスリーアールズ(3鼠 S)的基礎学力 のようである。そこで問題は,現代教育に於ける基礎とは何であるかということである。アメ リカに於ては,「基礎的なものとは,民主社会に於て効果的に生活し参加するため,あらゆる 青少年に必要とされる所の概念,技能態度,理解及び思考方法である。」と,定義し,特にそ れは社会のにない手としての自己を自覚し,社会左民主的に発展せしめてゆく市民的能力であ るとし,そのような基礎能力こそ基礎の基礎であるとしている。この基礎能力を直接めざし,

一17一

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社会科をこえて一般教育運動が展開し,例えば中学教育に重ては,Core Ccurses,・Life−

 Ad}u3tment Educatlon, Cbmmon:Learn三ng, Unified Stud三es l等々の具体的カリキュラムと なって実践されていることが報告されてV・る。(註11)我が国に於ても,現代生活に於ける基 礎的なものについての充分な反省がなされて:さえいたならば,本来の社会的意義をますます発 揮してゆく社会科の成長がみられたであろうにと思う。

 アメリカに於ける一般教育のカリキュラムで最も代表的なものは,コア・カリキュラムであ る。かNる意味のコア・カリキュラムは第二次大戦前に非常な進歩を示していたが,戦争中一 時中断され,戦後より強力に推進されている。(註12)1936年の:N,E, Aの年報に於て,社 会科の重要性さが強調され,それは全学校カリキュラムの「コーア」であるとされ,(註13)

更に,翌年の年報に於ては社会科の重要さを強調し,古代に於ける修辞学,中世に於ける論理 学,近代に於ける古典語と数学と同じ位置におくべきだとし, ヴアジニア的なコア・カリキュ

ラムを重視している。(註14)

 我が国に立ても社会科の発展的方向に於てコア・カリキュラム運動が展開されπ。しかし,

それは民主化に直接こたえる一般教育運動と教科カリキュラムに対する反動としてのカリキュ ラム改造運動とが混合したような型に於てであった。(註15) 旧い教科カリキユムからなかな か脱出できない当時の実態では当然な教育運動であったとは思うが,そのためコア・カリキュ

ラムに対する致命的な誤解が生するようになった。即ち,コア・カリキュラム運動は,教科の 消滅をめざす全学校カリキュラム改造運動であると誤解され,そのためコア・カリキラムのも つ社会革新的意義が弱められた。我が国に於けるコア・カリキュラム運動は,全学校カリキュ ラムに曾て教科Q線をなくした三層四領域の構造をもつカリキュラム論となり,(註16)その構 造をもたなければコア・カリキュラムでないかの考え方になってしまった。

 思うに,近代に於けるカリキュラム構成の問題は二つのアポリヤに直面した。その一つは,

近代科学の発達分化にともない,その分化されて来る科学を次々と教科として組織し,つV・に 多数教科の並列ということから児童生徒のヂィスイγテグレーシヨγに直面したということで

ある。

 その二としては,教育上のリアリズムの主張は,現実社会に於ける有能な生活実践者の育成 に重点をおき,徒らに知識の貯蔵することのみをもって満足することができす,生活実践力を 養うためには,生活そのものを教育内容としてとりあげるべきだとし,生活による教育内容の 再編成はいかにすべきであるかという問題である。

 バアジニア案の系統をもつ我が国のコア・カリキュラムは,この二つのアポリヤを解決する ごとができるものとして我が国教育界に取上げられた。その結果,「コア」の社会革新的意味 が見失われ,唯,組織の「コア」的意味の強調に終った。

 しかし,「コア」を学校のあらゆる教育内容が関係づけられる中核,即ち教育内容の組織の 申核と解することは,グィン(J.Minor Gwynn)が指摘した如くfusion of subject matters

とcoreとを混同することとなる。(註17)「コア」を組織の中核と解釈し,教材のイγテグレー

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ショγに寄与する事を強調する理由は,それが「全能力を綜合的にはたらかせる人」の育成に 必須であるからであるとする。しかし,人格の・fγテグレーシ・γは必ず教材の・でγテグレー

ショγに依存するとは限ぎらなV・。イγテグヒーシヨソは全体的子供の成長との関係に於て,

個人内のものとして考えられるべきで,単に教材の統合や相関に於て考えられてはならなV・。

(註18)アメリカに於けるコア,カリキュラムは,もともと,教科組織への反動として,しか も,学校組織の一方法として全教科の消滅をめざして生れたものではなNρ。ハーリ・イス・ハア

ビィルもこのことを指摘し,アメリカに於けるコア,カリキュラムの起源を次のように述べて いる。即ち,「斗争的な,混乱した,急激に変化しつ\ある半民主的アメリ:カに於けるコアの 起源に対する一つの主な理由は記憶学習への反動ではなくて,協同生活のための教育に対する 必要性を訴えることであった。コアの起源はアメリカ民主的社会の諸種の市民に対する共通の 目的と共通の伝統の密着力あるコアを打ちたてる絶対的必要に依存しているもので,教科組織 への反動に依存している点は少なV・。」と。(註19)

 グウィソも謙虚のように述べている。即ち,「学校の最も重要な目的の一つは,生徒の社会 的連帯責任感の発達ということである。このことは多くの教育者達によって支持されているこ とである。この社会連帯責任を身につけることは,子供が自らの社会的な義務,関心,習慣及 び問題のようなことについて,単に個人的観点からのみでなく,社会的.国家的観点からこ煎.

を自覚するということである。このいわゆる衆会的統合(S(cial!rtegrat o飢を達成するため に・これらの教育者達はコア,カリキュラムを提案する。」と。(註2の同じようなことをマ ックナニイー(ChesteτT. Mcnerny)もその著「カリキュラム」の中でのべている。(註21)

これら要するに,アメリカに於けるコア,カリキュラム運動は,人間改造を通じて現代の丈化 的停滞により失われゆくアメリカ民主々義を反省し,アメリカ社会を民主的に再改造せんとす

る一大教育運動であるということができよう。

 米国は建国以来の民主々義の伝統をもつ国である故,より薪しい民主的社会を建設レざゆく 能力をもつた人間へと人間教育をなすことは我が国に比すれば容易なことであろう。それにも か\わらす,そのアメリカに於てすらアメリカ社会の民主的再建に直接効果ある教育内容の選 択とその組織,即ちコア,カリキュラムをもっている。民主々義の伝統をもたない我が国が,

現在なさんとしているような民主革命を真になしとげんとするためには,我が国民主化に直接 効果あるコア,カリキェラムを,米国教育者以上の熱意と努力をもってとりあげるべきである

と思う。

(1)ルネッサンス時代の革命精神はギリシャ,ローマの古典文学という教育内容に最も立需的に濾養    される故,この時代に於ては古典語が教育内容の中心酢地柾を爵めた。我が匡の明治維新の志   士の教育に於ては日本外史,水戸学が数育内容の中心的地位を占めた。このようなことをさす   のである。

(2) Policies For Ed犠caticn Ia Am∋rican D3mocracy

  Books The Education Of Free Men In American Demccracy ユ9乙6 P.103

一19一

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(3)矢部貞治著 民主々義の本質と価値 33頁一37頁

(4)この問題について詳しい研究は太田箋著近代教育とリヤリズム昭和24年参照さ治たい

(5) Edward G. Olsen and otkers:School and Community. 1945 P.28

      ロ(6) John S. Brubacher And Others:The Public Schocls And Spritual Values 1944 p.1

(7)Report Of The HarvardComlnittee:Genera1 Edncatien ln A Free Societyユ946 P.53

(8) Op. sit. P.54

(9)務台理作著第三ヒユマニズムと平和 昭和26年 1−36頁

   務台氏はこの著書の中で文化史的にルネッサンス以後の時代を区分して・

   (1)近代初期の貴族的ヒユマニズム  (2)近代市民社会の市民的ヒユマニズム    (3)十九世紀四十年代に始まる第3ヒユマニズム    としている。

(10)教育学者とは梅根悟氏(コア・カリキュラム昭和24年)石山脩平底(コア・カリキュラムの精    神昭和24年)等である。教育実践家とはコア・カリキュラム連盟の人々である.。

(U) Curri culum Revision Durling The Emergency.

   The School Reriew. 1951 Feb. PP.65−70

(12) OP. sit. P.66

(13) N.E. A.1936 Years Report:The Social Studies Curriculum

(14) N.E. A.】937 Years Report:The Improvement of Education

(15)この点については前掲の梅根氏及び石山氏の著書を参照しても明かである。

(16)コア・カリキ・ユラム連盟編,生活教育の前進 昭和26年に於て明かである。

(17)J.Minor, Gwynn;Curriculum Principles&Social Trellds l947 P.27

(18)この点について最も詳しい研究物は,Thomas H:opkinsの編著    Integration−its Meaning and ApPrlication,193ブである。

G9) Harris, Harvill;The Core Curriculum, Social Educaticn 1950 APril

(20)J.Minor, Gwynn;Curriculum Principles&Social Trends 1947 P.153

(21) Chester T. Mcherney;The Curriculum l953 P.23

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