特設<道徳>の実践的展開
長崎大学学芸学部・教育学教室
序
嚢に「道徳教育実施要綱」に引続いて「学習指導要領道徳編」が公示せられ,賛否批判の道 徳教育論争の裡に一応の結論を得て之が実施を見ることとなった。然し道徳教育は古来教育の 中心問題として取扱われたものであるが,必ずしも其の成果を牧め得たとは云えない。それ程 この問題は本来教育上至難な問題として取り残されているものとも云える。従って,特に今日 今後の嬉しい世代に於ては単に一片の公示によって之が解決を期得し得る程容易な問題では・な い。偏に今後の肉付けと共に不断の研究改善を必要とする。我々教室員はこのような意図の一 端として,学生指導の一指針とするために共同研究を計画し,薮に其の結果を報告する事とな った。勿論本研究がそのま長適切な指針を与え得るものと自負しているものではない。大方の 御叱正を得れば幸である。
尚本研究報告は本学部道徳教育研究委員会の依嘱により教育学教室の共同研究として提出し たものである。
本研究の構成は次の如くである。第一項(増田)は明治以降現在に至るまでの道徳教育の沿 革を史的に考察し,特設く道徳〉を出現せしめるに至った諸事情,歴史的諸背景の究明に資せ んとしたものである。第二項(熊谷)は特設く道徳〉の目標及び性格を広く倫理学的地盤から 基礎付け的に考察しつつ,同時にその問題点を明らかにして今後の改善の為の一つの方向を示 唆しようとしたものである。第三項(小松)はそれの具体的展開に際して考慮すべき方法論的 な拠点を明確にすると共に,特に道徳指導における直接指導に関して触れた。従って第四項
(吉村)は道徳指導のより具体的な展開に関する諸視点を,特に生活指導を中心として示した ものである。
教育学教室 内 山 克 己
附記・「改訂小学校学習指導;要領とその解説」(文部省初等教育誹,初等教育資料,昭33.10,363頁)に「今
後は,学習指導要領に準拠し,右の指導書を手がかりとして実践が期待されることとなった」と述べら
れている。つまり特設く道徳〉は以上二つに拠って行う事が決定されたというのである。本研究が,従
ってそれらを中心として取り上げたのはこの事に由るのである。
:第 一 特設く道徳〉の歴i史的背景
(一) 明治初年国民道徳の方針は,先ず皇道主義が方向づけるかに見えた。元年の皇漢所規 則,2年の大学規則,府県施政順序,3年の宣教師心得(1)等に「漢土,西洋ノ離層皇道ノ羽 翼タルコト」(2),「皇道テ尊ミ国体テ弁ズル」は「皇国ノ目的学務ノ先務ト謂ウベ:シ」(3)と あり,「専ラ書学素読算術テ習ハシメ…時々講談テ以テ国体時勢テ弁へ忠孝ノ道ラ知ルベキ様 教諭シ…」(4)等とある所からもそれは明らかであろう。新旧並存の世惜を考え,復古的では あり乍ら一面徳川打倒,尊王開国を叫んで明治維新を招来して来た皇道主義であった事を思え ば,それが混沌時代の方針の目印とされたというのも蓋し自然の勢であったとも考えられる。
然しかかる方針も決定的とはならなかった。
それは明治5年学制前後の功利主義的個人主義的西洋道徳・倫理に基く言わば「立身治産 主義」にとって替られる事となったからである。周知の如く5年前後は徴兵令,学制,地租改 正等種々の開明策が矢つぎ早に発せられ,先進諸国の文物を移入し乍ら近代化への一歩を踏出 そうとした時期であった。此処に所謂福沢等の洋学全盛時代を到来せしめ,且つ先の皇道主義 を急転せしめた理由があった。所で立身主義という個人主義的功利主i義的色彩をもった此の方 針が広く採用流布された事は,学制当初の「被仰出書」の趣旨や「半里省は竹橋にあり,文部 郷は三田にあり」(5)と言われた福沢への評言,各県告諭(6)等に徴して明瞭であり,叉5年以 降道徳教育を主として担当する科目として出現するに至った修身科の内容が殆んど西洋直訳の ものであった事からも判るであろう。無論以上の方針は一部(西村茂樹)の「一モ忠孝仁義ノ 事二及ブ者ナシ」(7)という批判を受けなかった訳でなく,「日本固有の道徳書を用いて,修身 を授けた」という向もないではなかった(8)が,大体に干てそれは10年代迄貫かれ実践されて 来たのである。
さて以上のように推移して来た道徳教育も10年代に入って叉もや儒教主義復興という一つの 転機を迎える事になる。12年の教育大旨,14年小学校教育心得,15年の幼学綱要に明示される 通りである。それらによれば「一時西洋ノ所長テ取り日新ノ効テ奏スト錐モ其流弊仁義忠孝テ 後ニシ徒心洋風是競フニ於テハ…君臣父子ノ大義テ知ラザルニ至ラソ…是我邦教学ノ本意二非 ザル也」(9)「幼少ノ始ニ…忠孝ノ大義テ第一二脳髄二感覚セシメソ事テ要ス」σ。)「民国智 識才芸テ務玉本テ棄テテ末二 リ単二仁義忠孝ノ何物タルテ知ラザルニ至ラγトス云々」(11),
「教員タルモノハ殊二道徳ノ教育二力テ用ヒ生徒テシテ皇室二忠ニシテ国家テ愛シ父母二孝ニ シテ云々」(12)等とある。先の西村の言葉でも判るように,一応其伏線が敷かれていたもの の,立身治産主義から仁義忠孝主義,忠君愛国主義への此の急転は心ある人には全く瞠目すべ き事であったに相違ない。福沢諭吉の如きは「徳育如何」「極端論」等の評論で驚く許りでな く痛嘆し,教育の進歩を妨げ,忠孝愛国に腸現せしめるものとして痛烈な批判すら行った(13)
(後年の鎌田栄吉もその1人)(14)。而も尚当局は以上の計画に併せて14年従来の修身科を教 科目の先頭に掲げる許りか,その教授時数を;噌回してその強化を図ったのである(15)。此の点
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先の所謂智育偏重,徳育軽視下の時代,儒教主義を放棄,批判しσ6),修身科を部分的に設置 するのみか,教科目中第6番目に置いていた事(17)とにらみ併せると,その豹変の状全く端悦 すべからざるものがあったと評する外はない。
かかる方針の豹変を来たしたのは一つには幕末以来の儒教主義えの郷愁があったからとも考 えられるが,より直接駒には14。5年前後,日本近代化の準備工作が一応終った際採られたデ フレ政策を期に不景気が到来し,農民暴動,自由民権運動等各種社会運動の激化を招いたから だとも考えられる(18)。詰り仁義忠孝,忠君愛国の服従倫理を説く道徳教育は三等に対処し,
之等を防止する為の当局の対症療法であったとも考えられるのである。此の事は諸書の屡々言 及する所であるが(19)尚福沢の論文「儒教主義の成跡甚だ恐るべし」にも「今の論者が儒教主 義を思い付きたるは…政談喋々も跡を絶つ事ならんとの見込なる可し」(2。)と指摘されてある 所でもある。13年当局が洋学派的民権派的色彩をもつ修身教科書の取締と禁止を命じたのもそ の意味に受取ってよいだろう。
斯様にして当局は幾つかの曲折を経乍ら仁義忠孝,忠君愛国中心の道徳教育の線を強め,国 民的教化の統一(21)を図って行ったのであるが,それでも禽且その問題は解決せず,その方針 は確定的なものとはならなかった(22)。18年(叉は20年)の徳富二三の一文「第19世紀日本の 青年及其教育」「新日本之青年」(23)翌年の小崎弘道の一文「政教三論」(24)でも其事が察せ
られるが,20年前後に元田永孚の儒教主義的徳育論(25),杉浦重剛の物理応用の所謂理学宗に よる道徳論(26),加藤:弘之の四宗教主義による徳育論(27),西村茂樹の折衷的儒教申心的徳育 論(28),能勢栄の倫理学主義言勺徳育論(29)等(3。)の提唱提案があった事からも窺えるであろ
う。このように世情は先の時期を経た後迄も徳育に関し種々の提議主張があり論争があって喧 しかったのであるが,それが以上の形に於て現われて来たのは18・9年頃欧化主義の影響があ ったからだと言わねばなるまい。
所で為政者達がかかる徳育の混乱という重大問題を見逃す筈がなかった事は言う迄もない。
それは23年地方長官会議で論議の的になった許りでなく,宮中,内閣(31)を挙げて問題どされ るに至った。以上の事柄は彼等為政者達の眼には国民の精神「四分五裂して麻の如くに乱れ」
「孝悌忠信の道は地を払って空し」く,国民「其の準拠すべき所に迷って居る」(32)憂慮すべ き事態として映ったからである。かかる事情を発端として明治天皇より徳育一本化をめざした 教育的箴言編纂の命が時の総理山県有朋,文相芳川顕正に下り,法制局長官井上毅,侍講元田 永孚二者協力の下にそれが立案作成される事となった(33)。無論先の叙述でも暗示されている
ように其間箴言起草を続って意見の対立等問題がなかったのではなく,別に中村正直の立案と 推定される全部省の草案があったが之は採択されず,叉勅語や其草案をめぐって閣員間,丈相
・元田聞に一部意見の相違対立があるという一幕もあったのであるが(34),とも角そういう過
程を経乍らも教育勅語の形をとった教育的箴言は起草され,成立し,先の徳育混乱の状態は牧
拾され,その終止符が打たれる事となったのである。所でこのようにして成立した勅語がいか
なる道徳教育の方針を掲げ,如何なる道徳的理想像を下弓てていたか,此処で言わずして明ら
かであろう。それが仁義忠孝の儒教的・イデオロギを基礎とし,忠良なる臣民,忠臣孝子をその 理想像としていた事は周知の通りである。無論勅語は以上の仁義忠孝一本槍でなくて,所謂古 今東西に施して膠らない一般的徳目,博愛・公益;。世務・国憲・国法といった社会道徳をも含 んでいた事は此際見落すべきでないであろう。然しそれにも拘らず勅語全体の基調は何として も儒教主義にあったと言わざるを得ず,そのねらいがそこにあった事は当事者であった吉川も 後年明言した如く(35)事実であり,否み得ない所であった。
以上のように見て来ると明治初年以来道徳教育の方針は,欧化主義にゆれ,儒教主義にゆれ るという風に大分迂余曲折があった事が判ると同時に,欧化主義と衝突又は妥 乏し乍ら仁義忠 孝の儒教主義,忠君愛国主義が漸次確立強化されて行った事も判る。そのように曲折し,迂回
して行き,又行かざるを得なかったのは先に掲げた種々の社会事情が其の背後にあったからで あり,更に言えば,開国後日も気い後進国日本が欧米列強に伍して行く為に国内政治・経済・
軍備の近代化を急速に図らねばならず,それと共に自国の独立,隣接近域の保全,保障を期す る為に急激に軍事。国力増進を目指して精神的統一を図らねばならず(36),先進諸国の如く前 近代的要素を整理する暇もあらばこそ待ったなしに早急にそういう体制を作って行かねばなら なかったという社会1青山がそのバックにあったからだと考えられる。富国強兵策があらゆる政 策に貫徹されざるを得なかった所以である。
(二)所で以上の勅語は当面の徳育混乱の事態を拾牧すると同時に,更に爾後終戦迄の道徳 教育の確固たる指針ともなったのである。先ず明治末年迄の情勢から瞥見しよう。明治末年迄 勅語の路線が堅持された事は23年以後43年迄の種々の文章を集めた「教育勅語漢発関係資料 集」中「教育勅語奉体交書」(37)の如実に語る所であるが,23。4年頃から全国各地に勅語奉読 会なるものが盛んに起され(38),爾後の修身科が内容をすべて勅語の中に求めるに至った事に
も明示されよう。叉その一例として33年修身教科書調査委員会が設置され,37年国定修身教科 書が出されて儒教主義的国家主義鳥道徳が強調された事などが挙げられよう。23年福沢が従来 の立場を解消して「修身要領」の中で臣民道を説き,39年石川啄木が「雲は天才である」に於 て「十幾年の間身を教篇勅語の御前に捧げ,口に忠信孝悌の語を繰返す事正に一千万遍」(39)
の校長を描写しているのも亦其の意味に解していいであろう。このような情勢と併行して当局 は従来の方針を堅持する痴りか,他面国力の増進が第一次・第二次大陸進出(日清。日露戦 争)の敢行という形で現われるに従い.それを転機として従来にも増して軍国主義的国家主義 的色彩を道徳教育の上に添加しさえしたのであった。35年国木田独歩が「酒中日記」の主人公 をして「教場に於ては国家の干城たる軍人を崇拝すべく7才より13・4才迄の児童に教訓せよ と時代は命令して居るのである」(4。)と言わしめ,38年の二部省訓令が「忠君愛国ノ精神ハ我 国体ノ精華ニシテ国民ノ特長ナリ」と強調した如くである。此の傾向は叉明治末年駐在武官で あったハウスホーファーかその著「大日本」の中で鋭く看破した所でもあった(4り。無論かか る道徳教育方針の強化は世論の全面的賛同を得た訳でなく,内村鑑三の不敬事件,熊本英学校 長奥村禎次郎の舌禍事件に象徴されるように勅語を続るキリ入ト教界側の批判の如きがあり
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(42),殊に軍国主義・国家主義一色に塗りつぶされた上記教育に対する幼い子供の抵抗を始め として(43),基督教社会主義者安部磯雄の間接的批判(44),幸徳秋水等社会主義陣営の痛烈な 皮撃(45)の如きもの迄あったのであるが,当局為政者達は之等の動きに対して井上哲次郎の基 督教攻撃(46)に見る如く或は之と対決し,39年世人が戒筋令と呼んだ社会主義防遇の三部省 訓令(47)に見るように或は之を防止して,その制圧に努めたのであった。尚此の問,日露戦争 後の我国産業経済の急激な発達に伴い,又半世紀に亘る憂国的緊張の疲労と弛緩によって生じ た個人主義,社会主義の蓬頭(48)があり,「忠告愛国思想の欠乏」(49)も見られるという一幕 があり,之に対し「国家主義に衰亡の兆」(5。)ありと見た当局が「戊申詔書」の漢発等によっ て之が防止に努めた事も見落してはならぬであろう。先の戒筋令が又その意を含むものであっ た事は勿論である。かく細部を見て来ると当局のそれも随分風当りの激しいものである事が判 るが,叉それ丈それ等を通して当局が例の方針の維持に腐心した様が想起される。
所でかかる方針が大正時代に入っても尚殆んどその儘の形で踏襲された事は言う迄もない。
それは,明治中期以来の懸案であった学制改革を一挙に解決すべく6年から設けられた臨時教 育会議での寺内首相の開会挨拶「此時二際シ・…・・一層教育テ盛ニシテ国体ノ精華テ宣揚シテ以 テ皇猷テ翼賛シ奉ラネバナラヌ…国民教育ノ要ハ…護国ノ精神二富メル忠良ナル臣民テ育成7・
ルト云フコトが本旨デアラウ」(51)に明示され,尚同会議に於ける委員達の決議。建議や発言
「国民道徳教育ノ徹底テ期シ児童ノ道徳的信念ヲ輩固ニシ殊二帝国臣民タルノ根基テ養フ…」
「教育二関スル勅語ノ聖旨テ十分二体得セシメ殊二国体ノ観念テ輩固ニシ云々」「忠君愛国ノ 志操ノ酒養ニー層力テ致スコト」(52)等に明瞭であり,更に10年より末年にかけて屡々なされ た歴代文相の所謂思想善導の訓示r数年来我国民中或ハ矯激ナル主張二二スルモノアリ,或ハ 二三ナル思想ナル思想二二スルモノアリ…学校二於ヶル教育トシテハ…修身教授二二テ国民道 徳ノ徹底テ図り…現代思想ノ公平ナル批判ヲ 与ヘルコトが最:モ必要デアリマス。」(53)等にも 明白であろう。大正年代に至って尚且このように従来の基本線が墨守されただけではなく,再 び重ねて強調されざるを得なかったのは,実は次に述べるような新生面が種々の面に於て展開
して来たからであった。
周知のように大正期に見られた顕著な社会現象の一つは所謂新しい思想の店頭,社会運動の 頻発であった。第一次大戦に際しての我国の中立国としての経済的利益,参戦国としての政治 的利益の上に生れた民主主義思想の流行(54),更に其経済的好況の陽のあたらぬ場所に発生し た労働者農民解放の思想・運動の盛上り,労働者の二二の歩みとロシヤ革命の刺戟の上に成立 した共産主義思想の出発等がそれである。叉之等の新局面は8年流行の「平和節」(55)にも偲 ばれるように伝統的軍国主義に対する反感もあり,デモクラシー擁i護・軍教反対・社会科学研 究等諸種の学生社会運動も伴ったのである。かかる動きは為政者層には上記既定の方針を否定 へ し,それを足許から崩す一つの危機とも見られたのであって,彼等がそれを黙視する筈もなか
った事は言うを侯たない。当局が以上のような方針を強調したのもかく繰返し捲返し襲来する
思想的危機を乗切る為の策であったと見てよいだろう。要路者達の手によって末年「国民精神
作興二関スル詔書」が換発され,治安維持二等が公布されたのも亦同じ意に取ってよい。
所で教育界は如何なる動きを示したか。実を言えば教育界自体も以上の動向に樟しその例外 ではなかったのである。上記の動向,殊に好況,民主主義の流行を土台として所謂大正期の官 製反対の新教育・自由教育運動が膨灘として全国に起った事は周知の通りであるが,実はその 運動に即応しつつ道徳教育・修身科教育を批判する声も教育界に勃々として生じていた事を此 の際忘るべきであるまい。大正初年の沢柳政太郎の小学校低学年に於ける修身科教授廃止論
(56)を始めとして,修身教育全廃論,一部廃止論,時間減少論(57)が唱えられた如きそれであ り,10年前後野村芳兵衛の教育方法の改造を目指した生活修身論(58),小原国芳,佐々木秀一 の児童本位の立場に立つ修身科内容批判(59),大島正徳の軍国主義的修身教科書批判(60)が叫 ばれた如きそれである(例えば沢柳の成城小学校,小原の玉川学・園の如く之等の一部は実践に 移された)。之等が何れも児重本位の立場からの教育内容,方法に亘る改造論であった事は言
う迄もないが,之も先の諸事情を考え,殊に教育界に於ける児童中心主義思想の流行の背景が あった事を考えると当然出づべくして出た批判であったと見うるし,従来一指だも触れ得なか った修身教育であった所を見ると甚だ括目すべき動向であったと見る事も出来るであろう。然 しそれにしてもそれが全国教育界の大勢を左右するに至らず,遂に忠君愛国の伝統的道徳教育 の厚き壁を打破る迄には至らなかったようである。志垣寛が言うように教材は国定教科書に縛 られていたし,教育の目的も忠良なる臣民の育成という事で固められていたの(61)が実状であ ったからである。教育勅語を中心とする教育的伝統にはそれ叉強靱なものがあった。
(尤も此期に於ける当局の方針が先の一本調子でなかったという例もない訳ではなく,大隈首相の如く国 民教育上の今日最緊最要点は自由独立の大檎神を酒養するにあると言い,中橋文相の如く忠君愛国は教育主 義は至極結構なるも教育の第一義は先ず完全なる人を造るにあると言った如きもある。之も一面先の時勢の 反映とも見られるが,それも当局の既定の方針を転換せしめるには至らなかったのである)(63)
下って昭和時代にもなると,国民道徳論争にも終止符が打たれ,以上の方針は確固不動のも のとなった許りか,更に一段と強化され,遂には狂信性をさえ帯びるに至り,修身科を始め各科 に皇道主義的・軍国主義的色彩が徹底的に滲透して行った。道徳教育の方針がかく強化され,
狂信性さえ帯びるに至ったのは昭和初年以来殊に6年の満州事変勃発以後の日本の騒然たる国 情がその背景にあったからであった。周知のように昭和6年より我国は準戦時制下に入り,12 年の日華事変を経,18年の太平洋戦争に突入するにつれ戦時体制色を濃くして行ったが,かか
る社会体制の動向が以上の方針を一段と強化徹底せしめた理由であったと考えられる。一方満 州事変勃発以前の昭和初期にも数度の恐慌の襲来による労働者農民の生活不安の発生,それに 基づく争議の頻発,左翼運動の活弘化等があるといった物情ただならぬものがあり,それが叉 以上の方針の強化に拍車をかけていたとも考えられる。以上の世相と二二って道徳教育の方向 が一段ときびしさを加えて行った事は次の事を列挙する丈で充分想像せられよう。「堅実なる 思想涌養に関する」訓令(3年),文部省専門学務局学生課の設置(同年),同課の学生部へ の昇格(4年),同部の思想局への昇格(9年),こういつた学生思想対策をめざした一連の
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動き,更に国体明徴,国民精神作興,国力培養を主旨とした教化総動員に関する訓令の公布
(4年),国体観念,国民精神の研究,徹底を使命とした国民精神文化研究所の設置(7年),
「国体の本義に疑惑を生ぜしめる如き」所謂天皇機関説問題化に対し「刻下の急務は実に建国 の大義に基き日本精神を作興」するにありとする国体明徴に関する文部省の訓令(10年),そ の裏付けとしての「国体観念・日本精神を根本として学問・教育刷新の方途を議し」「国礎を 培養し国民を錬成すべき独自の学問,教育の発展」を期した教学刷薪評議会の設置(同年),
軍人丈相の出現(12年忌首相兼摂文相,13年荒木文相),肇国の大理想を顕彰し東亜新秩序の 建設・国民精神の昂揚を目的とした国民精神総動員の実施(14年),教育「勅語の聖旨を奉体
し,皇国の道に則って国民の基礎的錬成をなし皇運を扶翼」(64)する事を以て本義とした国民 学校令の公布(16年)等の一連の動き。之等を裏書する国民道徳,天皇の崇拝,国の強さを強 調する教育の傾向を看破した例の「須恵村一日本の村落社会」の著者エソブリー(昭和10年よ
り1年余に亘り同村に滞在)の言葉(65),「3年の時支那事変が慮った。ある時どの学課が一 番好きかとたずねられ…図画と答えたが,先生は意外だという表情でr修身が一番好きになら なくてはならぬ』と仰言った。当時の修身は…忠君愛国美談集でした。4年になった春,私達 は教育勅語の暗諦という一大課題を言渡された…」という或女教師の回想(66),「小生が…女 子師範に在任したのは昭和15年より…満3年間で国を挙げて国家主義運動に狂奔している真最 中であり…このような雰囲気に包まれていましたので我々教育者は声をからして国民精神の作 興を叫び続けました」という某老教師の追憶(67)「小学校教育を考えてみても,学校生活の一 切が軍隊生活の模型…とでもいうべき生活の中で成長したのであり,教科書なども…日本神話 や忠義を題材としたものや…軍国主義を駆恥した題材を豊富に与えられ,これが更に忠君愛国 的な或は二宮金次郎的な道徳的徳目主義に立脚した『修身』,神国日本史観,皇室中心史観の
『国史』と相侯って純真無垢な我々を軍国主義思想,臣民道徳思想の鋳型にはめこんで行った のである。…而も戦局の推移と比例して学校教育も急速に軍隊の縮図の度含を深め,遂には…
学力さえも十分につけ得ず,唯『一億一心』『挙国一致』『撃ちてし止まむ』等々のス・一ガ ソをお題目のように唱える事によって勝利への幻想を真正面に信じさせられて来た…」という 一青年教師の追憶(68)等々。之等によって昭和時代の教育,道徳教育の方針,傾向が奈辺にあ ったか窺い知る事が出来るであろう。(無論昭和初年の暗い世相を・ミックにして上記教育方針・道徳教 育を批判し否定するような所謂プロレタリア教育運動も果敢に展開された(69)のであって,此の点を考える
と例の教育的伝統も全然無疵のものであったと考える事は出来ないのであるが,然しその運動も当局の弾圧 により命脈の永いものでなかった事は周知の通りである。)
以上が戦前の道徳教育の推移の概要である。このように見て来れば,戦前の道徳教育のスロ
ーガγたる忠臣孝子。忠君愛国・忠良なる臣民の道徳的理想像が幾多の曲折を見乍ら漸次確立
されて来,其後多くの反撃を受け乍らもその度毎に強化され,遂には狂信性をさえ帯びるに至
った事が判るのである。戦後の道徳教育の流れは,言わばか玉る問題をはらむ戦前のそれが何
等かの形で清算され,改造の手が加えられて行く過程だとも見る事が出来よう。その意を含み
乍ら次に戦後道徳教育の史的概観をしよう。
(三)終戦後,道徳教育の方針が当局によって自覚され始めたのは21年頃からだと考えられ る。それ迄は爾後の方針の胎動を見乍らも若干の混迷,混乱があったようである。それは20年 9月の回忌省の「新日本建設ノ教育方針」に「今後ノ教育ハ益々国体ノ護持二高目ルト共二軍 国的思想及施策テ払拭シ平和国家ノ建;設テ目途トシテ…国民ノ教養テ深メ科学的思考力ラ養ヒ 平和愛好ノ念テ篤クシ…,世界ノ進運二貢献スルモノタラシメγトシテ居ル」(7c)とあり,十 月前田素話の教員養成学校長,地方視学官に対する訓示の一節に「吾人はこ玉に改めて教育勅 語を謹照し…心の整備を行わねばならぬと存じます。教育勅語は我々におさとし遊ばされて我 々が忠良なる国民となる事と相並んでよき人間となるべき事をお示しになって居ります。然る に近年教育がこの問題を等閑に附した事が最近道義頽廃の原因にもなっていると思うのであり ます。」とある所からも其の事が窺えるであろう。当時は戦後の虚脱,渥蘇蜜にあり,指導者 層の意識も主権在民は国体と相容れず,民主主義は復古にあるべし(71)というのが一般であ り,勅語の完全排除が23年に至って始めて実現した所等を見ると,以上の民主化,平和国家と 国体護持,勅語尊重の並存同居が叫ばれたのも左程奇異な事ではなかった。叉此の事は上記戦 前のそれが充分清算されず,勅語の遣毒尚未だ根深いものがある事を思わせるに充分である。
然しか玉る状態は其時の形では永くは続かなかった。
それは同年10月より連合軍総司令部より教職追放令,国家神道の禁止と共に修身・歴史。地 理の授業停止が指令せられて,先ず教育に於ける民主化への一段階として修身科も含めたその 国家主義的色彩の排除が行われ,更に翌年3月第一次米国教育使節団の来朝によって服従倫理 を専ら説いた従来の修身科の弊が指摘され,民主主義的倫理をこそ教うべしと質草されたから であった。
21年から22年にかけて道徳教育が当局によって本格的にとりあげられ始めたのは以上の事情 に基く。 (筒此処で占領軍の対日教育管理策のねらいが製麺にあり,叉それを日本の側で如何に受取めた か問題とせねばなるまいが,唯此処では前者の初期のねらいが日本の非軍事化,民主化にあり,後者の対応 の仕方には保守的国体陰嚢的なものから,肯定的立場,批判的摂取迄種々あったと丈言って置けばいいだろ
う(72)・)かくて当局は以上の路線に基づき教育全面の改革に手をつけると共に道徳教育の面 でも手を初めて行った。21年5月発表の「公民科教育案」,10月の「国民学校公民科教師用 書」の発行がそれである。前者では従来の修身科,公民科を統含一本化して公民科とし,それ によって爾後の道徳教育が行われて行く旨の方針が明らかにされ,後者でに従来の修身科の観 念主義,徳目主義に陥った弊等が反省されると共に,新公民科のねらいが自由と公正を愛する 国民の育成にある事が明らかにされ,その指導の方法としては実践指導の生活指導と自治訓 練,知的指導の説話講義,討議法,調査,研究等が採用される事が述べられている。二等によ っても此の公民科による道徳教育が従来の修身二等によるそれと如何に類を異にするものであ ったか想像出来るであろう。成程前者(方針一)に伝統の尊重を謳い道徳の基礎を教育勅語に 求めている点があった事は見落してならぬし,後者に社会学的観点に欠ける弊があった事も亦
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逸してならぬ(73)としても,生活指導,自治訓練等を含んだ此の公民科教育は道徳教育史上新 生面を開く注目すべきものであったのである。
然し減上も一時期の事であった。之迄公民科で行って来た道徳教育は蚕22年より(今迄の地 理,歴史,修身,公民が分忘していた分野を新しい教材観で再編した)社会科で担当する事と なったからである。此の事は既に先の使飾団報告書要旨でも「修身は今迄とは異った解釈が下 され…なくてはならぬ。平等を促す礼儀作法,民主政治の強調精神及び日常生活における理想 的技術精神,これらは皆広義の修身である。これらは民主的学校の各種の計画及び諸活動の中 に発展させ,かつ実行されなくてはならない。地理及び歴史科の教科書は神話として認め,そ
うして従前より一層客観的な見解が教科書や参考書の中に現われるよう書直す必要があろう」
と示唆され,上記公民科教師用書「まえがき」でも「今後は道徳教育は公民科を含む社会科と b
いうような学科の一部となるように研究されるであろう」と暗示されていた所であった。所で 此の社会科が目指していたねらいは何であったか,同年「学習指導要領社会科篇」の示すよう に,それは青少年達の入権意識の昂揚,人間性と社会生活の理解,社会的経験の深化,社会進 展への協力等を期待するものであった。一言に言えば社会生活を理解し,その進展に自発的に 寄与しうるような自主的,社会的な子供を形成して行く事がねらいであったと言ってよかろ う。此処に新しい道徳教育の行き方と意欲が感得せられるのであるが,之も同年3月公布され た一大教育宣言一審育基本法が「個人の尊厳を重んじ真理と平和を希求する人間」「人格の完 成」を謳っていた事と考え併せると蓋し当然の事であったとも考えられる。然し社会科発足当 初のこの科を続る諸批判でも判るように,其当初から学校教育内で此の科が如何に位置ずけら れ,叉此の科内に於ける知的指導と生活指導が如何に関連ずけられているか,叉日本のきびしい 終戦後の現実がどれ程此の科で受けとめられているか等該科には多くの問題が残されていた。
ともあれ以上のようにして終戦以来道徳に関する教育は公民科,社会科,生活指導其の他に於 て,民主的道徳の教育という形で行われ,漸次その軌道をすべり出して行ったのであるが,当 初は道徳教育に関する関心は左程迄高くないのが実情であった。
道徳教育への関心が一般に高まったのは天野丈相が修身科復活を叫んだ25年頃からであっ た。それは同年11月記者会見,全国教育長会議に於ける血相の談話,「今迄の修身科は教訓的で 専門化する傾向もあって好ましくない。然し戦後の社会科も歴史や地理が入って雑然としてい て道徳的な重点がない。社会科は社会道徳に適切だが,個人道徳には不十分だ。社会科を発展 させ整理して人生論や思想問題を主とする教科,詰り新しい修身科を特設するのが望ましい」
(74)と云ったのを指すが,之は言わば終戦後隠約の中に出ていた指導者も含め一般の声の集約 的表現であり,且後に続出する修身科復活論の先駆的布石であったと見る事が出来よう。所で 伺故「もと修身科は不必要だと考えていた」(7 )丈相が此処で新に修身科復活の必要を感じた
のであろうか。それは一つには文相自身も理由づけているように修身科復活の要求が民間に胎
動し始めていたからだと考えられる。例えば孝行,従順を説く修身の必要を農村で特に待望し
ている如き(76),埼玉県福原中学校の「道徳教育に関する父兄の考え方調査」が明示する結果
の如き(77),叉当時の新聞紙の投書欄で屡々見掛けられた「どうも比頃の子供は生意気に反抗 するようになった」「日常のしつけがなっていない」「社会科は一体何をしているのか」等々 といった言葉(78)がそれである。一口に修身修活と言っても昔のそれでない事は確かであり,
その復活を望む声も多元的であり,又都市と農村とでは其様相を異にしようから一概に律せら れないとしても,何等かの形でその復活を望んでいる事は之でも推察出来よう。此処を見ても 戦前の修身教育への郷愁が断たれず,叉それが清算されずに残っている事が看取される。文相 が復活,特設を提起したのも二等の声に応える意味であったろう。25年と言えば旧官僚,旧軍 人等の戦争犯罪人の追放解除が行われ,朝鮮事変の勃発,警察予備隊令の公布によって再軍備 が始められた多事の年であり、又対日講和,日米安全保障条約調印の前年でもあった。か鼠る 時勢が丈相をして叉あの発言をせしめたと見てよいだろうか。同年8月吉田首相が丈政審議会 で「日本を速かに列国の一員に加えたい。そのためには真の愛国心と,国家の中心となる健全 なる精神の所有者を育成する事が必要だ」(79)と語っている所から察すれば,天野文相の以上 の提唱は之等の事柄と無関係であったとも思われぬ。叉此の点を考えると政府が望んでいる修 身復活の要請と国民大衆の望んでいるそれとは必ずしも同じ内容,同じ根拠から発していると 言われない点も出て来るのである。以上の線が漸次強化されて行く事は後述する通りである
コ り
が,此の間に於て,次に述べる如き注目すべき「道徳教育の手引要綱」が当局の手により発表 されているので,此処で暫くその事に言及して置こう。
此の要綱が発喪されたのは26年4月の事であるが,それが出て来た経過から先ず語らねばな るまい。というのは其の事によって天野丈相の先の方針に対する社会の反響も若干察知出来よ うからである。さて上記丈相の発言は後述の国民実践要領問題と同様活濃な世論を惹起したの であるが,為に文相は教育課程審議会に「道徳教育の振興如何」に関して諮問を発した(26年
1月)。所が審議会の答申(同月)は意外にも文相の意に反して過去の修身科に類似した独立 教科を新設する事は望ましくないと断じ,道徳教育は飽迄教育全面で行うべき旨を表明したも のであった。此処で一応天野構想が日本の知性によって必ずしも好意を以て迎えられていなか った事を記憶に止めて置くべきであろう。(¢ヒの事は修身科復活に賛成したのは毎日のみで,朝日・読 売共に否定的であったという当時の新聞社説の傾向からも推察される)(8D)尚叉答申には次の如き方策 も同時に具申されていた。その要点を挙げると,1.各教科の内容, 方法を道徳教育の立場から再 検討する。2。特別教育活動の再検討。3.道徳教育振興の為の手引書作成。4.道徳教育は開発的 方法で行う等である。こ鼠で先ず第一の応急策として当局は手引書の作成に手をつけた。この
ようにして完成されたのが前記要綱であったのである。前記の所で要綱の言わんとする所の大 体は察知されるが,尚その一端を紹介すれば:大略次の如きものである。1.従来の修身科教育は 内容方法共に大きな過誤を犯していた。2.今日の道徳教育は目的・内容共に民主主義的なもの にせねばならぬ。指導の方法も生活内容を重視すべきである。3.道徳教育を主とした教科を特 設する可否は一概に言えぬが,現在その教科を置いた場合は従来の修身科の性格に帰って行く 危険性が多分にある。4。新教育も実施の面で徹底を欠く憾みがあり,多くの批判も招いている
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が,之も結局教師の努力に侯つほかない。5.道徳教育は学校教育の全面で行うのが適当であ る。但し社会科を始めとする各教科の学習や特別教育活動が夫々どのような意味で,叉どのよ うな面で道徳教育に寄与する事が出来るかを明らかにする事が肝要である。6.憲湛,教育基本 法に人格の完成,個人の価値の尊厳が謳われている以上,道徳教育に於ても個人の人格,人権 を何よりまして尊ぶという事が根本とならぬばならぬ。7。道徳的習慣,心情,判断が結ばれて 始めて道徳的行動が生まれる。かくしてそれは先の天野構想を否定すると共に,従前の民主的 道徳教育の方針を再確認したものである事が明らかである。この意味でそれは文部当局の道徳 教育策としては注目すべきものであったと言わねばならない。
リ ロ コ り
同年末文部当局は「社会科指導要領の改訂」,「学習指導要領一般篇改訂版」を出して(之 は先の審譲会答申に基いて発表した文部省の具体策の中にあったものである)道徳教育は社会科を始 め全教科で行う事,その道徳教育は民主的なものでなければならぬ旨を再び強調し確認した。
(筒此の間天野文柞の「三民実践要領」案が発表されて再び各方面に物議をかもし,多くの世論の非難を浴 びて沙汰止みになった事は周知の通りである(a1)。之も亦吉田首相の重要政策の一つとしていた愛匡心,道 義の高揚と無関係の事でなかったと見るべきだろう。)しかし以上の括目すべき方針も遂には一時的 な事柄として終るかに見えた。というのは之を足許から崩して解消するような傾向が其後目立 って来たからである。
それは岡野清豪が文相に就任した27年頃からであった。即ち文相は就任早々(8月)修身科 の復活,歴史科の独立を言明し,更に同年12月には先の教育課程審議会のメンバーを入替えて 同会に「社会科の改善,とくに地理,歴史,道徳教育について」の諮問を発するに至った。天 野丈相の修身科復活の前例もさる事乍ら,之が先の手引要綱の方針が決定されてから一年も経 ていない時の事柄であった事は注目せねばな:らぬであろう。翌8年の国会で教育勅語は千古の 真理をもっていると言い,愛国心の振起,歴史,地理と共に漢交,剣道の復活をすら言明して いる:文相であってみれば,それも当然の事であったとも考えられる。然し岡野三相の以上の意 図は二言明丈に終り,その実現迄には至らなかった。前記諮問の答申は次の二藍文相の時にな
されたからである(28年8月)。
その答申によれば,「戦後にあたらしく……設けられた社会科は学校によってかならずしも よくいっていない点があるが,元来日本の民主主i義の育成に対して重要な教育的役割をになう ものであり,その基本的なねらいは正しいのであるから,今後之を青て鼠行かなければならな いが,その場合,基本的人権の尊重を中心とする民主的道徳の育成,地理や歴史の基本的知識 の重視,政治・経済・社会などの面における教育をおろそかにしてはならない」とあるから,
少くとも薮における道徳教育は26年の答申と大差ないものであった事が判る。それにしても同
年6月の第16国会で大達丈相が教育内容を改めて愛国を振い起す教育をしたい,教育勅語の内
容をなしている徳目は,保存し履行して行かなければならぬと言っている所を見れば大分奇異
に感ぜられる所であるが,答申案がこの線によって押切られず,26年の基本線で踏止り得たの
は蓋し社会科問題協議会等一部反対の動きがあったからであろう。然し問題はそれ丈で済まな
かった。というのはこれが中央教育審議会,丈部省によって変改の手が加えられ,多少の変更
り り ロ コ
を見たからである。例えば三部省は答申中「基本的人権の尊重を中心とする民主的道徳の育
り り り ロ リ コ リ り
成」とある箇所を抹殺して,「社会公共のためにつくすべき個人の立場や役割を自覚し,国を 愛する心情を養う」 (傍点筆者)という字句で代えている如きは特に注目せらるべきであろ う。之は本質的に重大な変更であると云うべきであるが,之も感応の10月に行われた有名な池 田,ロバートソγ会談やこの頃頻りに使われ出した言葉,即ち愛国心,教育勅語に象徴せられ る時勢の然らしめる所でもあったろう。之に対し前記社会科問題協議会等の反論が叉繰返され た事は言う迄もない。道徳教育問題はこのようにして本格的に推移して行ったのである。
其の後道徳教育問題は続く歴代丈相によって提起されたが,その特設はいつれも完全実於に は至らず,32年松永文相時代再び提唱され,翌33年3月15日教育審議会の答申によって道徳の 時間特設について正式決定がなされた。之に並行して教育内容が「教材等調査概究会,道徳小 委員会」で審議され,遂に同月19日「道徳教育実施要綱」として発表されるに至ったのであ
る,
(増 田 史 郎 亮)
註 (1)明治3年3月神砥官よりの達,宣教師心得には「皇国の大道を照明にし…皇祖の大教を尊信し…
身を以て天下衆庶の先導たらん事を志願すべし云々」とある。
(2)明治元年9月 「皇漢所規則」
(3)明治2年6月 「大学窺則」
(4) 明治2年2月 「府県施政順序」中「小学校ヲ設クルコト」
(5)石河 幹明著 「福沢諭吉伝」 第二巻 180頁,昭和7年 岩波書店 (6)国民精神文化研究所 「日本教育史資料書」 第5輯86頁〜120頁 昭和12年
(7)西村 茂樹著 「往事録」 34頁 明治38年。「日本弘道会創立紀事」 33頁 明治31年 (8)江木 千之稿 「本邦徳育の沿革」「教育五十年史」 大正11年 民:友社所管 指3頁 (9) 明治12年半 「教学大旨」
(10)上掲 「教学大旨」 小学条目=二件 (ll) 明治15年 「幼学綱要」
(12) 明治14年 「小学校教員心得」
(13) 「福沢全集」 第九巻 230頁〜281頁 「儒教の成跡甚だ謝るべし」。「続福沢全集」 第1巻 ユ39頁 「極端論」。同第3巻 551頁 「教育方針変化の結果」。「教育勅語塩付関係資料 集」 第二巻 3頁〜24頁 「徳育如何」「徳育余論」 昭和15年 竜吟社
(14) 「鎌田栄吉全集」 第二巻 343頁 (15) 明治14年 「小学校教則綱領」
(16)明治5年小学校師導場設立建言の一節。被仰出書 (17)明治5年 学制 修身口授の項
(18)玉城 肇稿 「現代道徳教育論の史的背景」「現代道徳教育講座」1 所牧 48頁 1957年
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岩崎書店
(工9)例えば海後宗臣稿 「国民教化についての一考察」「立川昇藏君迫悼記念論文集」所牧32頁 昭和12年の如き:其の一一例である。
(20)前掲 「福沢全集」 第九巻280頁
(21)海後 宗高著 「日本近代学校史」 U8頁 昭和U年 成美堂
(22) 玉城 肇著 「近代日本教育史」 8頁 昭和26年忌刀江書院
(23)明濃20年 「新日本之青年」(18年・第19世紀日本の青年及其教育の題下に記述せしものを文章 化せしもの)昭和5年改造社発行 「現代日本文学全集」 第四編に所牧
小崎 弘道著 「政教新論」 殊に同書ll頁 明榔9年
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明治17年 明治20年 明治20年 明治20年 明治23年 前掲書
元田 杉浦 加藤 西村 能勢
永孚稿 重剛著 弘之著 茂樹著 白痴
「教育勅語感発関係資料集」
前掲書勅語換発関係資料集 前掲勅語瞬発関係資料集
4月 「教育時論」
前掲勅語漢画関係資料集 第二巻 431頁〜445頁 「教育勅語漢発関係書簡」
家永 三郎稿 「教育勅語成立の回想史跡考察」 同氏「日本居想史の詫問題」 1948年所牧。
江木 千之稿 「教育勅語の漢発」前掲「教育五十年史」髄虫158頁。前掲芳刀1顕正 「教育勅 語御下賜事情」等参照
前掲芳川顕正 「教育勅語御下賜事情」後半
宮本 又次著 「日本経済史詳話」 327頁 昭和21年 前掲書勅語換発関係贅料集 第二巻 47王頁〜671頁
長崎県教育会話 「長崎県教育史」 下巻 9頁〜10頁 前掲資料集 537頁〜549頁 徳性潤 養の一方案
「石川啄木全集」 第一巻 6頁 昭和3年忌改造社 国木田独歩 改造文庫 「少年の悲哀」所載 26頁
ハウスホーファー 「大日本」 上巻若井林一訳108頁〜166頁 昭和17年洛陽書院 藤原喜代藏著
中 勘助作 安部 磯雄著 平野義太郎著 明泊24年11月 明治39年6月 宮川 透著
「国教論」
「日本教育原論」
「徳育方法案」
「日本道徳論」
「徳育鎮定論」
第二巻 25頁〜394頁
第二巻 452頁 大正5年教育勅語発布二関スノし山県有明談話筆記 第二巻 457頁 芳川 顕正 r教育勅語御下賜事情」,明治45年
「明冶教育思想史」 232頁〜266頁 明治42年富山房
「銀の匙」 岩波文庫 141頁〜144頁
「地上の理想国 端西」 前掲「現代日本文学全集」社会文学集 168頁〜170頁
「反戦運動の人 々」 45頁〜47頁 1955年 青木書店
「教育時論」 272号 井上哲汝出稿 「宗教と教育の衝突」
「近代日本思想の構造」 173頁 東大出版部
(49)徳富 蘇峯著 「時務一家言」 大正2年 前掲「現代日本文学全集」 第四編 145頁〜147頁
(50)河合栄治郎全集U r日本に於ける国家社会主i義的傾向」 215頁 昭和28年 社会思想研究会
(51) 臨時教育会議速記録第一分冊
(52) 臨時教育会議教育改善決議事項参照
(53)大正11年地方長官会議に於ける中橋文相の訓示,この他10年中橋文相,12年岡野文相,13年江木 文相の訓示参照
(54)前掲宮川透著 「近代日本思想の構造」 174頁 赤松克麿著 「日本社会運動史」 140頁 昭和27年 岩波新書
(55)藤沢 衛彦著 「流行歌百年愛」 377頁 昭和26年 第一出版祉
(56)沢柳全集 456頁〜462頁大正3年,小原国芳著 「日本の新学校」 492頁〜496頁 昭和5年
(57) 藤原喜代藏著 「明治大正昭和教育思想学説入物史」 第三巻 599頁〜600頁 昭和18年 :東亜 政経社
(58) 前掲藤原喜代藏著 教育思想学説人物史 第三巻 610頁
(59)小原 国芳 「修身教授革新論」 大正9年 昭和32年改訂版 45頁 148頁〜149頁237頁〜
238頁。藤i原喜代藏著前掲 思想学説人物史 第三巻 605頁〜607頁
(60)大正]2年11月 「教育評論」 大島正徳稿 「小学校修身教科書の大改訂を促す」
(61)志垣 寛著 「教育太平記」 65頁 洋々社
(63)海後勝雄,広岡亮藏編 「近代教育史」 第二巻 357頁,366頁 昭和29年誠文堂
(64)文部省 「学制七十年史」 昭和17年 171頁
(65)エンブリー著 植村元覚訳 「日本の村落社会一須恵村」 73頁〜74頁 昭和30年 関書院
(66) 「教育技術」 1953年8月号所載犬田れい子稿 「義務教育の三世代一昭和の教育」
(67) 「わが生涯の哀歓一教育生活の思出を語る」 下 144頁 昭和29年新教育研究社
(68) 「私の義務教育時代に憶う」 唐沢富太郎著 「日本人の履歴書」 204頁〜206頁 昭和32年 読売新聞挫
(69)文部省学生部 「プロレタリア教育の教材」 昭和9年特に11・12頁26・27頁
(70)20年9月15日 朝日新聞
(71)小川 太郎編 「国民のための道徳教育」 1958年法律文化社 172頁
(72)岩波 「日本資本主義詩座」 第二巻 「占領下の教育政策」等参照
(73) 「教育学研究」 十五巻 第5号 30頁
(74) 「戦後教育史の断面」 169頁 昭和32年 国土社
(75)夕刊読売25年11月7日
(76)福武直,塚本哲入著 「日本農民の社会的性格」 130頁 1949年 有斐閣
(77) 「道徳教育」 創刊号 27年3月
(78)前掲「戦後教育史の一断面」 163頁
(79)25年8月29日 東京日々
(80)25・11・8 毎日。25・]2・] 朝日。25・12。9 読売
(81)前掲「道徳教育」 創刊号
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第二 特設く道徳〉の性格に就いての管見
(一) 「要領道徳編」の目指すもの。
特設く道徳〉が如何なる道徳教育を目標としているかはr学習指導要領道徳編』 (以下単に
「要領」と略す)及びr小学咬道徳指導書』によって明らかである。その詳細は直接それらの ものに譲らざるを得ないが,要するに「要領」に掲げられた目標は「ひっきょう人間尊重の精 神を基調とし」てそれに「国民的自覚」 (教育課程審議去答申,別紙二「道徳教育の基本的方 針」の一節)①を加味したものであり,又「新しい道徳」の立場を堅持して徒らに高遠なる理 想を追わず,「正常な」「基本的に必要なことがら」と「日常的,社会常識的な基盤の上で自 他敬愛の人間尊重の精神」②を強調するものである以上,それは明らかにヒューマニズムの方 向を指向していると見て差支えないであろう。故に上掲書もそれが特に教育基本法,憲法及び 国連憲章の精神に基くものである事を述べている③。この点に関する限り我々はそれに対して 何一つ追加すべきものを持たない。それは道徳は本来ヒューマニズムの基盤の上に成る筈のも のであるからである。
然るにそれにも拘らず敢て藪に提出せんとする一つの問題は,成程確かに「人間尊重の精 神」と云い,ヒューマニズムと云ってはいるが,それらのものの本質をそれが果して如何なる 地盤の上に於て,如何に解しているかという事である。この点の解明こそは,一般に,早る条 件付で「ヒューマニズム」と言明する事以上にそのものの「実体」を知る上に鞭て重要な事だ と考えられるからである。但し本稿ではヒューマニズムの歴史的探求というが如き大きな問題 を取り上げる余裕はないので,便宜上次のような仕方によってそれを試みる事とした。
(二)基礎的考察一ヒューマニズムを中心に「心情の倫理」と「適応の倫理」とを経緯として。
1,ヒューマニズムに就いて。先ず最初に「ヒューマニズム」の原初的な意味をM・ハイデッ ガーに従って探求したいと思う。ハイデッガーによればヒューマニズムが明確にか写る名の下 に追求され始めたのはローマ共和制時代であって,それは本来ホモ・フマヌ入(Der homo hu・
manus)の本質概念としてホモ・バルバルス(Der homo barbarus)に対立する意味を持 ち,而してホモ・フマヌスとは「・一マ人としての諸徳を高め且つギリシャ人から受け継いだ パィディア(教養)を身につけた人達」の事を云った,そしてこの「粗野から救い出して洗練 さに導く」(eruditio et institutio in bonas arts.)事としての「パ・fデ・でア」がローマ人 によって「フマニタ入」(humanitas)と訳されたので,こ鼠からヒューマニズムとは本質的 に「・一マ的性格が後期ギリシャ的教養と合体する事に発する特殊なローマ的現象」 (ei霊e spezifisch r6mishe Erscheinung, der aus der Begegnung des R6mertums mit der Bildung des spゑten Griechentums entspringt.)と見る事が出来るというのである。斯くヒューマニ ズムとは本来ローマ精神を介してのギリシャ的教養に関わり,従って爾後それが歴皮的に幾変 遷したとしても常に一定の仕方でギリシャ精神に還帰する試みに対して命名されたものである
コ リ リ リ り
事は疑いない。かくてハ・イデッガーも言葉のこの段階までの解明に於てヒェーマニズムをば一
の