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唯物史観と「プラン」問題

唯物史観と「プラン」問題

有賀定彦

51

は し が き

マルクス主義は神学ではない。レーニンは,−マルクスの理論についてつぎ のようにいう。「われわれはマルクスの理論を,けっしてなにか完成され

た,不可侵のものとは考えていない0その反対に,この理論は,社会主義者 が生活に立ちおくれたくないならば,こんごさらにあらゆる方向に前進させ

° ° ° °

なければならない一つの科学のかなめ石をおいたにすぎないと・われわれは 確信している。」(レーニン「われわれの綱領」邦訳『レーニン全集』第4巻 226ページ)マルクス主義にとって,永遠にして絶対的な完成された理論と

いうものは存在しない。それは唯物史観にしても例外ではありえない0本稿 では,唯物史観を経済学批判体系のプラン問題とのかかわりにおいて・若干 の問題を考えてみたい。

1.唯物史観の定式

マルクスは『経済学批判序言』で,唯物史観への到達の速をふり返り・つ ぎのようにいう。

「私を悩ました疑問の解決のために企てた最初の仕事は・ヘーゲルの法哲学の批判的 検討であって,その仕事の序説は,1844年にパリで発行された『独仏年誌』に掲載され た。私の研究の到達した結果は次のことだった0すなわち・法的諸関係ならびに同家諸 形態は,それ自体からも,またいわゆる人間精神の一般的発展からも理解されうるもの ではなく.むしろ物質的な諸生活関係に根ざしているものであって・これらの諸生活関 係の総体をヘーゲルは,18世紀のイギリス人およびフランス人の先例にならって・『市 民杜剣という名のもとに総括しているのであるが・しかしこの市民社会の鵬閻ま経 済学のうちに求められなければならない,ということであった1)0」

(2)

そ し て , 乙 の 唯 物 論 に た っ た 世 界 観 を , マ ル ク ス は つ ぎ の よ う に 五 つ の 部 分にわけで定式化する。

(1)  下 部 構 造 と 上 部 構 造 と の 関 係 。 経 済 的 構 造 と , 法 律 的 お よ び 政 治 的 上 部構造ならびにそれに対応する社会的諸意識形態との関係。

「人聞は,彼らの生活の社会的生産において,一定の,必然的な,彼らの立志から独 立した諸関係、に,すなわち,彼らの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸 関係にはいる。乙れらの生産諸関係、の総体は,社会の経済的措造を形成する。乙れが実 在的土台であり,その上に一つの法律的および政治的上部構造がそびえ立ち,そしてそ れに一定の社会的諸意識形態が対応する。物質的生活の生産様式が,社会的,政治的お よび精神的生活過程一般を制約する。人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく,

彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである2)oJ

(2)  生産諸力と生産諸関係との矛盾。破局=社会変革の時期。

「社会の物質的生産諸力は,その発展のある段階で,それらがそれまでその内部で運 動してきた既存の生産諸関係と,あるいはそれの法律的表現にすぎないものである所有 諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は,生産諸力の発展諸形態からその桓桔 lと一変する。そのときに社会草命の時期が始まる。経済的基礎の変化とともに,巨大な 上部構造全体が,あるいは徐々に,あるいは急激にくつがえる3)oJ

(3)  社 会 変 革 の 時 期 に お け る , 物 質 的 な 客 観 的 諸 条 件 と 人 間 の 諸 怠 識 形 態 との関係。

「とのような諸変草の考察にあたっては,経済的生産諸条件における物質的な自然科 学的に正確に確認できる変草と,それで人IlDが乙の街突を意識するようになり,乙れと たたかつて決着をつけるところの法律的な,政治的な,宗教的な,芸術的または哲学的 な諸形態,簡単にいえばイデオロギー諸形態とをつねに区別しなければならない。ある 個人がなんであるかをその個人が自分自身をなんと考えているかによって判断しないの と同様に,乙のような変草の時期をその時期の意識から判断するととはできないのであ って,むしろこの意識を物質的生活の諸矛盾から,社会的生産諸力と生産諸関係、とのあ いだに現存する街突から説明しなければならない心。J

(4)  一つの社会構成の没落と生産諸力との関係。

「一つの社会構成は,それが生産諸力にとって十分の余地をもち,この生産諸力がす べて発展しきるまでは,けっして没落するものではなく,新しい,さらに高度の生産諸

(3)

唯物史観と「プラン」問題 53  関係、は,その物質的存在条件が古い社会自体の胎内で帰化されてしまうまでは.けっし て古いものにとって代わることはない。それだから,人聞はつねに,自分が解決しうる 課題だけを自分に提起する。なぜならば,もっと詳しく考察してみると,課題そのもの は,その解決の物質的諸条件がすでに存在しているか,またはすくなくとも生まれつつ ある場合にだけ発生する乙とが,つねに見られるであろうからだめ。J

(5)  人聞社会の前史としての,これまでの経済的社会構成の諸時期。

「大づかみにいって,アジア的,古代的,封建的および近代プJレジョア的生産様式が 経済的社会構成のあいつぐ諸時期として表示されうる。フ勺レジョア的生産諸関係は,社 会的生産過程の最後の敵対的形態で、ある。敵対的というのは,個人的敵対という怠味で はなく,諸個人の社会的生活諸条件から生じてくる敵対という意味である。しかしブ ルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力ば,同時にとの敵対の解決のための物 質的諸条件をもっくりだす。したがってこの社会構成でもって人間社会の前史は終わ 6)oJ

だが,乙の唯物史観の定式も,細かく検討すると明確でない概念や論点が みられるD またこの定式を,その後の資本主義の歩み,さらl1917年から始 まる社会主義への移行といった現実の世界の歴史と照らして考察するなら ば,この定式を,マルクスの『経済学批判序言』での文言をそのまま踏襲し て祖述するという方法では,現実の人類史の解明は困難となるo マルクスは

『経済学批判への序説』において r人間の解剖は,猿の解剖のための一つ の鍵である7)Jとも「フツレジョア経済は古代その他の経済への鍵を提供す 8)Jともいっている。また18683月25日付エンゲノレスあての手紙でもマ

Jレクスはつぎのようにいう。 r人類史においても事情は古生物学におけるの と同じようなものだ。鼻先にある事物でも,原理上,一種の判断力の欠如に よって,最もすぐれた頭脳にさえ見えないのだ。その後,時代が変わってか ら,人々は,まえには見えなかったものが至ると乙ろでまだその痕跡を示し ている,ということを不思議だと思う9)oJ乙のマルクスの事物の認識につ いての考え方は,マルクス自身がのべた学説にも適用されるのではなかろう か。マルクスの時代にあっては明確に把握できなかったこと,また「問題」

になりえなかったことも,その後の世界の歩みにつれ,顕在化し,認識しう

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る場合がありうるのではなかろうか。唯物史観を現代の視点からみなおすと いう作業もその一つである。

生産諸力と生産諸関係との矛盾のとらえ方,経済的構造とは何か,経済的 構造と国家との関係,これに関連して市民社会の理解のしかた,一つの社会 構成の没落と生産諸力との関係,資本主義の最も発達した国より社会主義へ の移行がおこなわれず,資本主義の遅れた国,あるいは後進国や植民地とい う国から社会主義への移行がおこなわれたが,こういった世界史の歩みは,

唯物史観の定式からどのように説明しうるのか等々D そして,乙のような諸 問題をみるとき,唯物史観は経済学批判体系の構築にあたって,どのように して「導きの糸」となりうるのか,という作業が提起される。つぎに,乙う いった問題を考えてみよう。

1)  K. Marx, Vorwort ZUr Kritik der Politischen  Okonomie, Werke 13, S.  8. 

邦訳『マノレクス・エンゲノレス全集』第136ページ。

2)  K. Marx, a.a.O., SS.  8.........9.邦訳『前掲書J6ページ。

3)  K.  Marx, a.a.O., S.  9.邦訳『前掲書.16.........7ページ。

4)  K.  Marx, a.a.O., S.  9.邦訳『前掲吉j7ページ。

5)  K. Marx, a.a.O., S.  9.邦訳『前掲書J7ページ。

6)  K. Marxα.a.O., S.9.邦訳『前掲書j7ページ。

7)  K.  Marx, Einleitung  Zur  Kritik  der Politischenθkonomie, Werke 13, S.  636.邦 訳

r m j

掲 書J632ページ。

8)  K. Marx, a.a.O., S.  636.邦訳『前掲書J632ページ。

9)  Briefwechsel z:wischen M arx und Engels, 29. M arx an Engels25MarZ Werke 32, S.  51.邦訳『マノレクス・エンゲ、jレス全集』第3243ページ。

2.  生産諸力と生産諸関係との矛盾

生産諸力と生産諸関係、との相互関係において,マノレクスは r物質的生産

諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係」と規定し,歴史発展の原動力 を生産諸力におく。

(5)

唯物史観と「プラン」問題 55  すでに『哲学の貧困』において,マルクスはつぎのようにいっている。

「社会的諸関係は生産諸力に密接に結びついている。あらたな生産諸力を獲得する乙 とによって,人間は彼らの生産様式を変える。そしてまた生産様式を,彼らの生活の資 を獲得する仕方を,変えることによって,彼らは彼らのあらゆる社会的関係を変える。

手回し挽臼は諸君l乙封建領主を支配者とする社会を与え,蒸気挽臼は諸君に,産業資 本家を支配者とする社会を与えるであろう。

だが,彼らの物質的生産力に照応して社会的諸関係を確立するその同じ人間が,彼 らの社会的諸関係!C照応して諸原理,諸観念,諸カテゴリーをもまた生みだすのであ l)oJ

また「資本論』第一版の序文においてもマルクスはいう。

「資本主義的生産の自然法則から生ずる社会的な敵対関係、の発展度の高低が,それ自 体として問題になるのではない。乙の法則そのもの,鉄の必然J性をもって作用し自分を つらぬくこの傾向,乙れが問題なのである。産業の発展のより目い国は,その発毘のよ

り低い国に,ただこの国自身の未来の盗を示しているだけである幻。」

「手回し挽臼は諸君に,封建領主を文配者とする社会を与え,蒸気挽臼は 諸君に,産業資本家を文配者とする社会を与えるだろう」という論理は,

「産業の発展のより高い国は,その発展のより低い国に,ただこの国自身の 未来の姿を示しているだけである」という論理,すなわち

r

進んだ国の現

在は,後れた国の未来である」という論理につながってゆくoそれは,生産 力の発展に照応する「経済的社会構成の発展を一つの自然史的過程と考え 3)Jことであり,人類の歴史を必然性でとらえる考えであるo したがっ て,経済的社会構成は,アジア的,古代的,封建的および近代的生f2Ì~1.:k へて共産主義へ到達する「必然」のプロセスとしてえがかれるO このこと は,世界史としての経済的社会構成の継起の抽象でありながら,唯物火観の 定式をそのままみるならば,あたかも一つの社会がそれぞれの歴史的発展段 階において,つぎつぎにとる姿として描写されることになるo それは, r 産党宣言』にみられるように,資本主義の最も発達した国から「共産主義草 命」がおこるという「先進国草命論」へと帰結してゆく。

だが,これまでの歩みをみるかぎり資本主義から社会主義への移行は,資

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本主義の発達した国からはみられず,資本主義の遅れた国であったり,後進 国や植民地の状態におかれていた国々においてみられる。そこでは. r生産

諸関係は生産諸力に照応する」とのテーゼを単純に適用することはできな い。乙のように現実の世界をみるとき,生産諸力と生産諸関係、との関係、の考 察は, r経済学批判序言』での唯物史観の定式をさらに展開する必要がある。

「労働」の概念は r社会的諸関係、」のなかにおかれて「生産」の概念と なる。 r労働対象」と「労働手段」は「生産手段」の内容となるO そして,

乙の生産手段をだれが所有しているかという「生産手段の所有関係」が,生 産にさいして「人と人」とがとり結ぶ「生産関係」となる。乙の生産関係に よる人間の労働は,いつの時代にあっても必要労働と剰余労働に分割され,

剰余労働は生産手段の所有者がこれを手に入れる。そして,生産手段の私 的所有者が剰余労働を手にいれることが「搾取」であり r階 級 」 の 経 済 的内容をなす。経済における「搾収・被搾取Jの階級関係は,政治におけ る「支配・被支配」の関係の土台である。資本主義以前の社会にあっては,

必要労働と剰余労働の分割,それを土台とする日常的社会生活,さらに政治 的上部構造は,いわば透明]な関係として存立する。資本主義以前の社会にあ っては r搾取・:被搾取」の階級関係は,政治における「支配・~Jl支配」の 関係lこストレートにつながる世界をなすことが,だれの自にもはっきり見え る。だが資本主義社会にあっては r人と人との関係」が「ものとものとの 関係」に転化する物象化の構造をとることによって,階級関係、は,人々の目 l乙倒錯した世界として映ずる4) 。生産過程における搾取関係は,三位一体の 世界である「市民社会」においては,あたかも人々はみな自由であり平等で あるかのごとき認識をなす倒錯の場に転化する口つまり,前資本主義社会に おける「人と人との基底的関係」が「血」と「地」であるのにたいし,資本 主義社会においては「商品」と「貨幣」が「人と人との基底的関係、」をなし ている。

マルクスは『経済学批判要綱j r貨幣にかんする立」において,人類史を つぎの三段階にわけていうD

「人格的依存関係〈最初はまったく自然生的)は最初の社会形態であり,そこでは人

(7)

唯物史観と「プランJ問題 57  問の生産性はごく小和四でまた孤立した地点でだけ発展する。物的依存性のうえにきず かれた人格的独立性は第二の大きな形態であり,そ乙で一般的な社会的物質代謝,普逼 的な対外諸関係,全面的な欲望,そして普遍的な力能といった体制がはじめて形成され る。諸個人の普遍的な発展のうえに,また諸個人の社会的力能としての彼らの共有的・

社会的な生産性を従属させることのうえにきずかれた自由な個性は,第三の段階であ る。第二段階は第三段階の諸条件をつくりだす。したがって家父長的な状態私古代の 状態(同じく封建的な状態)も,商業,著{多,貨幣,交換価値の発展とともに崩壊し,

乙れらと同一歩調で近代社会が成長する5)oJ

ここでマルクスは,人類史の第一段階としては,人格的依存関係の社会と して前資本主義社会を,第二段階には,物的依存関係の社会として近代市民 社会が形成される資本主義社会を,そして第三の段階として,自由な人格の 共同体としての共産主義社会をみているo そして,第二段階から第三段階へ の移行には I一般的な社会的物質代謝,普通的な対外諸関係,全面的な欲 望,そして普遍的な力能といった体制」の形成のうえにきずかれる「諸個人 の普通的な発展」が条件とされている。このことは,第二段階から第三段階 への移行は,普遍的性質のものであることを意味するoその経済的基礎をな すもの,それは,資本主義の全世界的発展であるとマルクスはみる。唯物史 観の定式がそこでいわれる[経済学批判序言』においてマルクスはいう。「私 はブルジョア経済の体制をこういう順序で,すなわち,資本・土地所有・賃 労働,国家・外国貿易・世界市場という順序で考察するD はじめの三項目で は,私は近代フツレジョア社会が分かれている三つの大きな階級の経済的諸生 活条件を研究する。その他の三項目のあいだの関連は一見して明らかであ 6)oJつまり,資本にはじまり世界市場で終る経済学の体系が,乙の「普 遍」を解き明す理論体系であり,いわゆる「プラン問題」がとれである。

乙の作業をなすにあたって困難な点の一つは,マjレクスが「生産力」のと らえ方についていっている文言にある。すでに『哲学の貧困』においても,

「経済学的諸カテゴリーは,社会的生産諸関係、の理論的表現,その抽象であ るにすぎないの」というD このように「生産力」それ自体を経済学の対象か らはずすということは,生産諸力lと生産諸関係、が照応するというテーゼから

(8)

みちびかれるo生産諸力はその発展のプロセスで,それぞれの発展段階に照 応する生産諸関係をとるのだから,資本主義社会の解明にあたっては,生産 諸力は生産諸関係、との関係においてのみ,乙れを経済学の対象とするという 論理となる。だが,乙のマルクスの論理をそのまま踏襲してもよいものだろ うか。唯物史観のテーゼからするならば,社会主義的生産諸関係は資本主義 的生産諸関係、より,より高い生産諸力に照応することになるのだが,現実は その通りではない。そしてまた,生産力についてのマルクスのこの論理は,

使用価値を経済学の対象からのぞくという論理と同ーの系譜をなす。

マルクスは『経済学批判』においてつぎのようにいう。 r使用価値である ということは,商品にとって必要な前提であると思われるが,商品であると いうことは,使用価値にとって無関係な規定であるように思われる。経済的 形態規定にたいして乙のように無関係な場合の使用価値は,すなわち使用価 値としての使用価値は,経済学の考察範囲外にあるO 使用価値がこの範囲内 にはいってくるのは,使用価値そのものが形態規定である場合だけである。

直接には使用価値は,一定の経済的関係である交換価値があらわされる素材 的土台である8)oJまた『資本論Jl巻第1=4i 

r

商品」においても

r

ろいろな商品のいろいろな使用価値は,一つの独自な学科である商品学の材 料を提供する9)JというO すなわち,使用価値にあってもマルクスは,それ を独自の経済学的範時とみることはせず,交換価値との関係、においてのみ経 済学の対象とするにすぎない。

乙のようにして,マルクスの権威から,伝統的なマルクス経済学にあって は,使用価値一兵体的有用労働一兵体的有用労働の総括としての社会的分業 一生産諸力という系譜は,経済学の対象として不当に低くとりあっかわれて きたのであるo だが,現代における「公害」で問われているものは「使用価 値」の「質」であり,生産力の「質」ではないのだろうか。また r競争」

の論理においても,その上向の論理の次元では,伎用価値をいれて考える乙 とが現実的課題の解明に役立つのではなかろうか10)。すなわち,経済学の より上向の次元では

r

伎用価値J

r

社会的分業J,さらに「生産諸力」

なる概念仏経済学的範時としてとりあげてよいのではなかろうか。

(9)

唯物史観と「プランJ問題 59  唯 物 史 観 の 定 式 で , マ ル ク ス は i生 産 諸 関 係 の 総 体 」 を 社 会 の 「 経 済 的 構 造 」 と し て と ら え る 。 だ が , 乙 の 「 経 済 的 構 造 」 を i生 産 諸 力 と 生 産 諸 関係、との矛盾」の統一の場としてとらえられないか。それは,経済的構造の 生 産 諸 関 係 の 側 面 を 示 す も の を 「 市 民 社 会 」 と し , 生 産 諸 力 の 側 面 を 示 す も の を 「 国 民 経 済 」 と す る こ と で あ る 。 こ の よ う に 「 市 民 社 会 」 と 「 国 民 経 済 」 と い う こ つ の 範 鴎 を 経 済 的 構 造 の 内 在 的 矛 盾 と し て と ら え る こ と に よ り , 資 本 に は じ ま り 世 界 市 場 で 終 る 経 済 学 批 判 体 系 の 構 築 に あ た っ て , 国 家 か ら 外 国 貿 易 へ の 理 論 化 に 一 歩 前 進 が え ら れ る の で は な か ろ う か 。

1)  K. Marx, Das Elend der Philosophie, Werke 4, S.  130.邦訳『マルクス・

エンゲjレス全集』第4133'""134ページ。

2)  Marx, Vorwort Zur ersten Auflage, Werke 23, S. 12邦訳『前掲全集j 23a9ページ。

3)  K. Marx, a.  a. 0., S. 16.邦訳『前掲書j10ページ。

4) 物象化の論理については,有賀定彦「疎外・物象化・物神性J(本問要一郎・古 川哲編『資本論と現代』第三章)を参照されたい。

5)  K. Marx, Grundrisse  der  Kritik  der  Politischen  Okonomie (Rohentιτ f) SS.  75'""76.高木幸二郎監訳第一分冊79ページ。

6)  K. Marx, Vorwort zur  Kritik  der  Politischen Okonomie, Werke 13, S.7.  邦訳『マルクス・エンゲJレス全集jf$13さ5 ページ。

7)  K. Marx, Das Elend der Philosophie, Werke 4, S. 130.邦訳『前掲全集』

4133ページ。

8)  K. Marx, ZU7Kritik der  Politischen Okonomie, Werke 13, S. 16.邦訳

『前掲全集』第1314ページ。

9)  K. Marx, Das KitalBd. 1. Werke 23, S. 50.邦訳『前掲全集』第23 a48ページ。

10)  乙の点については,中野雄策 rr資本論』の具体化をめぐるいくつかの論点ーコ ーガン (KoraHA.M.)の問題提起一Jr山口経済学雑誌j第四巻第178'""80 ージ参照。

(10)

3.  市民社会と国民経済

乙乙で「市民社会」と「国民経済」という概念ならひ1乙相互の関係につい てのべようo

マルクスは『経済学批判序説』の「経済学批判体系プラン」で,市民社会 と国家の関係についてふれ r国家の形態でのプノレジョア社会の総括。」と 規定するo 乙乙のフツレジョア社会は市民社会と同義とみられるものの,マル

クスにおける市民社会の概念は多義的に用いられているo

初期マルクスから後期マルクスへの接点をなし,その後のマルクスの学説 のいわば原点をなす『ドイツ・イデオロギー』にあっては,市民社会の概念 は,つぎのような二様の系譜からなるO その一つは,歴史貫通的な混沌と した未分化の概念、である「交通形態」であって,それはスミスの「商業社 J,へーゲルの「欲求の体系」と同次元の意味をもっD そして,この「交 通形態」の概念は,さらに『哲学の貧困j

r

賃労働と資本』から『共産党 宣言Jにいたって,生産手段の所有関係、にもとづく「生産諸関係」という概 念と,唯物史観の定式がうちだされた『経済学批判序言』における

r

社会

の実在的土台」となっている「生産諸関係の総体」としての「経済的構造」

という概念とに分化するO そして, もう一つの系譜は rフソレジョア社会」

としてのそれであって,近代においてブソレジョアジーに担われて形成される 歴史段階的なそれであり,いわゆる「資本主義社会」と同義語である2)。こ のようなマルクスにおける「市民社会」概念の検討からいえることは,マル クスには,乙れが「市民社会」の概念だという,確同とした一つの概念規定 はないということD したがって,わたくしたちが「市民社会」という概念を 用いる場合には,各人はそれの明確な概念規定をなさねばならない,という 乙とである。そしてまた,唯物史観の定式にみるかぎり,生産諸力と生産諸 関係という概念は,すでに考察したように対応するものであって,きりはな された関係にはない。このような考察から,プランでいう「国家で総括され る市民社会」とは「経済的構造」を志味し,その経済的構造を「生産諸関係、

の総体」としてだけではなく,生産諸関係と生産諸力との矛盾の統一体とし

(11)

唯物史観と「プランJ問題 61  てとらえ,経済的構造の生産諸関係の側面を示すものが「市民社会」であ

り,生産諸力の側面を示すものが「国民経済」であるとするo

資本主義とは,高度に発達した商品生産社会であるoそこでは生産諸関係 は,商品経済の作用によって物象化されて現われる。諸資本間の競争をつう ずる剰余価値の利潤への転化は,資本と賃労働という人と人との関係から生 みだされた剰余価値を隠蔽し,資本という「もの」のすべての部分が一様に 利潤の源泉として現象するという倒錯視を生みだす。さらに商業資本も,平 均利潤率の形成に参加することにより,産業資本がすでに受けとった利潤の 一部を商業利潤として手にいれ,あたかも販売価格と購買価格との差のよう に倒錯して現象する。利子生み資本にあっては,資本は,たんなる「もの」

として現われ,利子はとの「もの」の自然的属性であるかのように自に映ず る。地代にしても,それは剰余価値の一部の転化であるにもかかわらず,あ たかも土地所有そのものの自然的属性であるかのような倒錯視を生みだす。

賃金においても,必要労働と剰余労働の関係、は隠蔽され,賃金はあたかも労 働の対価であるかのように倒錯して現われるD このようにして,資本一利潤

・利子,土地一地代,労働一労賃という三位一体の物象化の世界が完成す

乙の三位一体の支配する世界,それが物質的日常生活の場である「市民社 会」である。それは「ものともの」との関係の自立化と倒錯化をつうずる「人 と人」との関係、の再生産の場であり,いわば社会的諸関係、の倒錯化の共同体 である。生産関係、における搾取=階級関係、は,市民社会では物象化され隠蔽 されて,そこでは人々はあたかも自由であり平等であるかのように現象す る。このようにして,市民社会が国家の形態に総括されることによって,国 家の実体は階級性であるのに,人々の自にはあたかも公共性として映る。

と乙ろで1"ものともの」との再生産をつうずる「人と人」との再生産 は,資本主義にあっては1"所有」のうえに成立する。それは,生産手段の 所有であり,生産の結果の所有であり,労働力商品の所有である。そして,

乙の「所有の秩序」が維持されるかぎり,つまり法の下での平等と契約の自 由と等価交換とが再生産されるかぎり,剰余価値の再生産は継続される。こ

(12)

のような「市民社会」の「所有」を権力によって保証するもの,それが「公 共の秩序」の維持者としての国家であるo 国家は,剰余価値の再生産を保証 するものとして,プノレジョアジーの「所有」を保証するものであるにもかか わらず i所有一般」の形式をとることによって,あたかも「国民全体」の 利益,民族の利益の保護者という外観をとる。そして,民族が市民となり国 民となる乙とによって,国家が現実の日常生活を営む人々にとっての「普 遍」となる民族国家が成立する。このようにして,資本主義のナショナリズ ムは生産諸関係→市民社会→国家という系譜のうえに成立するo原始的蓄積 期にまず絶対主義の民族統一国家として成立した資本主義は,一方で「内に 向つての国家」として市民社会を構築していった。そして他方での,外国貿 易・国際分業・世界市場へという資本主義の発展は il乙向つての国家」

として,他民族抑圧のナショナリズムを生みだしていった。

経済的構造の生産諸力の側面をなすのが国民経済であるo それは,市民社 会の「素材的な担い手」をなし,社会的分業の国民的体系であり,一国資本 主義の生産諸力の再生産構造であるo資本主義における生産力の発展は,た えざる競争のもとに資本の有機的構成を高度化し,資本の蓄積運動をすすめ てゆくo だがこの過程は,社会的分業の展開の過程であり,それは工業と農 業を基軸に展開していった。そして,社会的分業の展開は,商品の展開とし て現われる。だが,商品にはもともと国境はないし,社会的分業にしても,

資本と労働力の移動の不自由がないかぎり,国民的障壁は存しない。つま i生産力」はインターナショナJレな性格をもっo そして資本主義のイン ターナショナリズムは,まず商品の「普遍性」として現われる。乙のように して,外国貿易は,資本・土地所有・賃労働,国家・外国貿易という順序で はなく,資本・土地所有・賃労働,国民経済・外国貿易という筋道をとおっ て論理的に位置づけられるo

「プラン」にいう「国家」のとらえ方について,それは iブルジョア社 会」として,総括された「国家」そのものであり,その「経済的構造」なの であり,それは「国民経済」であるとする考え方がある。また i市民社 Ji国民経済Jとしてとらえる考え方もあるoだが,私があえて「経済

(13)

唯物史観と「プランJ問題 63 

的構造」を市民社会と国民経済とにわけで考えたのは,そうすることによっ て,資本主義の「生ける姿」をとらえる乙とができるので、はないか,という ことである。その点を以下若干あげてみようo(1)市民社会は生産諸関係の物 象化の世界であるのに,国民経済は生産諸力の体系化された場であることo

(2)生産諸関係は国家によって総括されてしまうのに,生産諸力は国家が総括 してしまうことはできないこと。 (3)そうでありながら,生産諸力と生産諸関 係との矛盾はまず一国資本主義の内在矛盾として展開することo(4)一国資本 主義の矛盾は,生産諸力の発展の結果が国境を乙えてでてゆく乙とによっ て,矛盾を他国に転嫁することにより,自国の生産諸関係の物象化たる市民 社会を維持できることo(5)(4)によって,他民族抑圧と自国の「民主主義J (=フツレジョア民主主義)とが共存しうる乙と。すなわち,ナショナリズム とインターナショナリズムとが共存しうることoすなわち,国家はあくまで も権力構造としての国家であり,経済的構造のうえに笠え立つ。

r

経済学批

判序説』で,マルクスのいっている「国家」の項をみても「国家の形態での ブツレジョア社会の総括。それ自身にたいする関係、のなかで考察されたそれ。

『不生産的』諸階級。租税ロ国{氏。公信用。人口。植民地。国外移民的。」

と指摘しており,国家の経済的構造,あるいは国民経済という発想ではな

、。

このようにして,資本主義にあっては,生産諸力と生産諸関係、との矛盾は,

国民経済と市民社会との矛盾として,また資本主義のインターナショナリズ ムとナショナリズムとの矛盾として現われるD 資本主義国家は,もともとこ の矛盾した性格のうえに立脚するものである。 r内に向って」の国家は,

自由主義時代にあっては,国民経済には自由競争を,そして市民社会には総 括者として現われたが,現代においては,市民社会のみならず国民経済をも 総括せんとしているD そして

r

外に向って」の国家は,外国貿易・国際分 業・世界市場に「国民的利益」の保証人として経済外的強制力の担い手とし て姿をみせる。

国家・外国貿易・世界市場へのプロセスは,一国資本主義の矛盾の世界市 場への転嫁のプロセスであり,生j豆諸力と生産諸関係との矛盾の世界的規模

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での展開である。つぎに乙れを考察しよう。

1) K. Marx, Einleitung  Zur Kritik  der Politischen Okonomie, Werke 13, S.  639邦訳『マルクス・エンゲルス全集』第13635ページ。

2) 乙の点については,有賀定彦「市民社会と唯物史観(1)J r下関商経論集』第16 3号,を参照されたい。

3)  K.  Marx, Einleitung Zur Kritik  der Politischen Okonomie, Werke 13, S.  639邦訳『マルクス・エンゲJレス全集』第13635ページ。

4.  生産諸力と生産諸関係との矛盾の世界的展開

マルクスの資本主義にたいする歴史観を示す主要文献の一つは,エンゲノレ ス と の 共 著 に な る 『 共 産 党 宣 言 』 で あ る 。 乙 の 『 共 産 党 宣 言 』 を つ ら ぬ く 一 つ の 発 想 は , 資 本 主 義 の 発 展ζlと も な っ て , 全 世 界 が 資 本 の く び き の も と に おかれるという乙とであるo マルクス・エンゲ、ノレスは,つぎのようにいうO

「フツレジョアジーは,世界市場の開発をつうじて,あらゆる国々の生産と消費を全世 界的なものにした。産業の足もとから国民的な基盤をとりさって,反動家どもをいたく 嘆かせた。古来の民族的な諸産業は滅ぼされてしまい,なおも日々に滅ぼされてゆく。

……昔の地方的,また国民的な自給自足や閉鎖に代わって,諸国民の全面的な交通,そ の全面的な依存関係が現われてくるl)oJ

「ブルジョアジーは,あらゆる生産用具を急速に改善することによって,あらゆる国 を,もっとも未開な固までも,文明にひきとむ。彼らの商品の安い価格は,どんな万里 の長城をもうちくずし,未開人のどんな頑固な外国人ぎらいをも降伏させずにはおかな い重砲である。ブルジョアジーは,あらゆる国民に,滅亡したくなければブルジョアジ ーの生産様式をとりいれるよう強制する。あらゆる国民l乙いわゆる文明を自国にとり いれるよう,つまりブルジョアになるよう強制する。一言でいえば,フ'ルジョアジーは,

自分の姿に似せて一つの世界をつくりだす2¥J

「フツレジョアジーは,農村を都市の支配に従わせた。彼らは巨大な都市をつくりだし た。都市の人口を農村の人口にくらべて格段に増加させ,こうして人口のかなりの部分 を農村生活の愚昧から救いだした。プノレジョアジーは,農村を都市に依存させたよう

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唯物史観と「プランJ間百 65  lと,また未開国や半未開国を文明国l乙農民国をフツレジョア国に,東洋を西洋l乙,依存 させた3)oJ

「諸民族が国々に分かれて対立している状態は,プJレジョアジーが発展するにつれ て,また貿易の自由がうちたてられ,世界市場が生まれ,工業生産やそれに照応する生 活諸関係が一様化するにつれて,今日すでにしだいに消滅しつつある心。j

うえの諸命題からうかがえる乙とは,マルクスにとっては,全世界におけ る資本と労働の矛盾の展開が第一義的であり,民族や国家の差異は,資本主 義の発展につれて次第に消滅してゆくべき性質のものとされていた。フソレジ ョアジーとプロレタリアートとの矛盾が,全世界的規模で純化してゆくとい うのが,マルクスにとって資本主義の発展法則であった。そして,乙のよう な資本主義の発展のプロセスは I資本の偉大な文明化作用5〉」が全世界に 展開し,また資本主義的生産様式が非資本主義的生産様式を自己に包摂して ゆく過程としてとらえた。乙乙でも,すでにのべたように I進んだ国の現 在は,後れた国の未来である」というマルクスの歴史観を,資本主義の世界 史の歩みにおいてみることができる。

もっとも,こういったからといって,マルクスが「一国」の迩命をまった く考えなかったということではない。 r共産党宣言』ー「フツレジョアとプロ レタリア」において Iフソレジョアジーにたいするプロレタリアートの闘争 は,内容上ではないが,形式上ははじめは一国的である。どの国のプロレタ

リアートも,当然,まずもって自分の国のフツレジョアジーをかたづけなけれ ばならない的」というo

だが,そうであっても,マルクスにとって主要な関心はそこにあったので はなく,やはり資本の全世界支配にあったとみてよい。いま引用した『宣 言』の一国的闘争の論理にしても I形式上は」とわざわざことわり吉きを つけているo r共産党宣言』二「プロレタリアと共産主義者」ではその内容 にふれ I共産主義者が他のプロレタリア諸党と異なるのは,ただ次の一点 においてであるo共産主義者は,一方では,プロレタリアのさまざまな一国 的闘争において,国の別にかかわらないプロレタリアート全体の共通の利益 を強調し,主張するo他方では,プロレタリアートとブルジョアジーとの関

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争が経過するさまざまな発展段階において,つねに運動全体の利益を代表す 7)Jとのべ iマ ル ク ス 主 義 」 と は 「 国 際 主 義 」 に ほ か な ら な い と い う

「原理」を提起しているO マルクスにとっての「一国草命」とはあくまで形 式上のことがらであり,それは「世界草命」の一部分としてのみ生じうるも のにすぎなかった。

しかも唯物史観に結実するマルクスの歴史観からするならば,生産諸力と 生産諸関係との矛盾は,まず生産諸力の発達した先進国から爆発すべき性質 のものであった。そして「社会平命」もそれに照応するはずのものでなけれ ばならない。だからして r共産党宣言』の発想にもとづく世界草命は,エ ンゲjレスが『共産主義の原理』で説明しているように,すべての先進国で同 時的に起こる「世界草命」であった。 r共産主義の原理』でエンゲノレスは,

「乙の革命は,ただ一国だけに単独に起こりうるだろうか?Jとの問いに,

つぎのように答える。

「いや,起こりえない。大工業は世界市場をつくりだして,すでに地球上のすべての 人民,とりわけ文明国の人民壱たがいに結びつけているので,ど乙の国の人民も,よそ の固に起こった乙とに依存している。さらに,大工業は,フソレジョアジーとプロレタリ アートとを,すでに社会の二つの決定的な階級にし,またとの階級のあいだの闘争を,

現在のおもな闘争にした。乙の点で大工業は,文明諸国における社会の発展を,すでに 均等にしてしまっている。だから,共産主義草命は,けっしてただ一国だけのものでな く,すべての文明国で,いいかえると,すくなくとも, イギリス, アメリカ, フラン ドイツで,同時に起乙る草命となるであろう。乙の草命は,これらの国々で,どの 国が他よりも発達した工業,より大きな富,また生産力のより大きな量をもつかにした がって,急激に,あるいは緩慢に発展するであろう。だから,乙の草命を遂行するの ドイツではもっとも絞慢でもっとも困難であり,イギリスではもっとも急獄でもっ とも容易だろう。それは,世界の他の国々にも同じようにいちじるしい反作用をおよぼ し,それらの国々のこれまでの発展様式をまったく一変させ,非常に促進させるだろ う。それは一つの世界草命であり, したがって世界的な地盤で起乙るだろう8¥J

そして,乙れら先進国の革命が原動力となって,後進国や植民地の諸民族 の解放はそれに依存して遂行されるというのが,マルクスの世界革命の構想 であった。 iポーランドはポーランドで解放されるのでなく,イギリスで解

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唯物史観と「プランj問題 67 

9)

放されるのである 」という発言は,乙の乙とをあらわしている。いうまで もなく,当時,資本主義世界の中心はイギリスだった。

だが,その後の資本主義の世界的発展は r共産党宣言』のえがくよう に,資本と労働との関係の直線的な世界的展開ではなかった。資本蓄積の一 般的法則は,一国内において富と貧困の蓄積を生みだし,工業と農業との不 均等発展をもたらした。資本主義を発展させるこの法則の展開は,世界的規 模における富国と貧困,工業国と農業国との格差を生みだしていった。フツレ ジョア世界は,このようにして工業国と農業国との不均等発展・対立として出 現した。そして,乙のような世界が形成される過程は,資本主義がみずから の運動のプロセスで,一国内においてのみではなく,世界的規模において も,非資本主義地域をつぎつぎと自己の運動のもとに包摂してゆくプロセス でもあった。このようにして資本主義は,みずからの運動をつうじて,各国 の資本主義や非資本主義地域との「有機的連関」をっくりだしていった。乙 の世界的な規模における有機的連関が「世界資本主義」の内容をなす。それ 19世紀中葉にあっては,商品流通によって形成される「世界市場J, 20  世紀初頭においては,資本輸出と植民地体制の「世界経済J,そして現代で は体制維持の「世界経済体制」である。そして,このような「有機的述関」

の一環としてのみ一国資本主義はもとより後進国も存立しうるo したがっ て,世界資本主義のこの「有機的連関」が,資本みずからの論理の貫徹にも とづいて断ち切られるところに,世界資本主義の「破局」が生まれるのであ り,世界資本主義の体系より離脱する一国の変草の物的契機が存在するo れは,資本主義の矛盾転稼のメカニズムに終止符をうつものであり,物象化 の実体を白目の下に現わすことであった。 19世紀中葉では「世界恐慌」が,

20世紀前半では「世界戦争」がそれであった。マルクスの経済学批判体系の プランの最終項が,さきに引用した『経済学批判序言』では「世界市場J また『経済学批判序説』でも「世界市場と恐慌10)Jとなっているのは,乙 のことを示す。

外国貿易や国際分業によって,先進国と「関係」をもっ後れた国々は二つ の運命をたどった。一つは「発展」の途であり,他の一つは「停滞Jの途で

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