徳川時代の長崎警備と正保4年(1647)
のポルトガル使節船事件
松竹秀雄
第1章序説
第2章沖の両御番所等の整備 第3章正保4年ポルトガル使節船事件 第1節ポルトガル使節船入港まで
第2節ポルトガル使節船に対する長崎湾口封鎖 第4章結び
第1童 序 説
徳川幕府は,戦国時代の群雄割拠から織田信長による天下布武未完の後の 豊臣秀吉天下統一を引継いだ政権であって,各領国の防備は勿論その領主の 責任に於て行われ 将軍直轄の天領は京都所司代・大坂城代などのはか各地
に奉行を置いて治めさせた。
長崎の場合,天正15年(1587)に秀吉がイエズス会より長崎・浦上・茂木 を没収し,翌16年(1588)鍋島直茂をして長崎旧教会領の代官に任じ,文禄 元年(1592)に長崎奉行を置いて寺沢広高を任命し,同年村山等安を長崎代 官とした。
慶長5年(1600)の関ヶ原役の後も寺沢・村山のまま推移したが,慶長8 年(1603)家康が征夷大将軍となって奉行が小笠原一庵に代って以来,幕府 任命の奉行が数年交替で幕末まで勤める。一方,代官は村山斬罪の後,末次 平蔵に代り,延宝4年(1676)に4代平蔵茂朝が密貿易発覚して隠岐に流さ れた後は,代官事務は町年寄が代行した。
初期の鍋島・寺沢の頃は軍政官的性格が強かったが,徳川時代の長崎奉行 はポルトガル・唐・オランダの貿易を監督するとともに,諸外国の動静を探 り,事あるときは将軍の名のもとに諸侯に号令する権限を与えられていたが,
主たるものは貿易の管理であり,その役得として毎年御調物の名目で輸入し た商品を原価で買上げる特権をもち,この特権を利用してその商品を京阪地 方に送って巨利を博することもあったとし、う。
寛永
9
年(16 3 2 )
の竹中采女正までは奉行1
人で勤め,寛永1 0
年(16 3 3 )
から奉行2
人となり,寛永1 4
(16 3 7 )
の島原の乱の当年まではポルトガル船 の入出航に合わせて6
月頃に長崎到着,1 0
月頃の出帆後に奉行の本拠地に戻 るといったものであったが,島原の乱後は年中在勤となり,始めて与力5
騎・同心
2 0
人が幕府からつけられた。これは寛文5
年(16 6 5 )
に与力1 0
騎・同 心3 0
人となり,貞享4
年(16 8 7 )
に奉行3
人制となり,但し2
人在勤・1
人 上府となった年,与力・同心制は廃止され,代りに奉行自らがそれらを召抱 えることとなり御役米を以て給人1 0
人‑下役3 0
人扶持となった。与力は寄騎ともいい,文官でありながら武官の役目も帯び,概ね将軍直属 の旗本から任命され,治安に当ると共に札間・裁判・使節その他の緊要な事 件の処理に当り,同心は与力を補佐する武官でもあり文官でもあるという内 容の下級武士の警官・吏員であり,長崎では与力・同心ともに外国人の監視 及び彼等の荷物の保護,船舶への荷揚げ・積込みの立会い, というような仕 事が多かったので,武士にふさわしくない職務と考えて不満をもち,奉行と の聞に摩擦を生じ,後年廃止されたと
L
、ぅ。何れにしても長崎の治安体系は奉行を頂点とする都市長崎自体の警察力 と,それを補うものとして近隣諸藩の軍団の派遣とであったが,非常時に際 する近隣諸藩の応援も徳川幕府の最初からきまっていたわけではない。島原 の乱は寛永
1 4
年( 6 3 7 ) 1 0
月に勃発し翌日年2
月末に終るのであるが,1 4
年7
月に入港したポルトガルのガレオタ船6
隻は,乱勃発の直前の9
月中旬0637
・1 1
・上旬)に長崎を出航しようとした。ところが禁教による金鍔次 兵衛事件にからんで,出航直前の船中から長崎の役人によって逮捕された教 弟のデュアルテ・コレアは大村の牢獄に送られ,そこでマカオの耶蘇会宛に徳川時代の長崎警備と正保
4
年(64
7)のボルトカール使節船事件2 4 9
長文の島原一撲報告書を書く。その中の一節に,
I
長崎の市は皇帝(将軍) に直属し,皇帝が特に重要視していた土地だったので,各地からの兵が警備 に駈けつけていた。中でも筑後からは,叛徒が長崎市中に潜入することを恐 れて4
万余の兵を繰出して長崎市の周囲の警備にあたった。・・・・・・長崎では2
人の奉行が協議を重ねた上,1 6 3 8
年1
月2 0
日,島原に向けて出発した。その ために当大村藩に対して雑兵8 0 0
人と,長崎の河口を警備するための大船4
般を提供するようにと要求して来た」)とあり,通航一覧に,I
奉行出陣中は肥 前国久島城主大村丹後守純信,長崎を警備せり……長崎の港を守る」とある。これによって,島原の乱勃発までは寛永
1 0
年(16 3 3 ) 2
月の鎖国令の「異 国船申分これ有りて江戸へ言上の間番船の事,前々の如く大村方へ申越す可 き之事J
という番船規定以外,天領長崎自体に警備体制は敷かれてなかった こと,そして寛永1 6
年(16 3 9 ) 7
月下旬に長崎入港したガレオット船も「大 村領の大きな船3
隻に見張られた」)とあって,大村藩による警備が実施され たことがわかる。なお,船着場としての奉行所(西役所)西側の海岸「大波 止」は,文禄の頃から石垣を築き番所を建てていたが,寛永の始め頃,船手 の町々から下役を出して異国船が入港する都度,ここから奉行所に注進する こととなっていた。大村藩は長崎港の警備のほか,寛 永
1 3
年(16 3 6 )
に長崎湾内の戸町と(西彼杵半島)外目地域の福田・三!
重・神浦・瀬戸‑中浦‑面高の
7ヶ
し,正保元年(1
6 4 4 )
更に式見‑黒 崎‑池島・松島・江島・平島・崎戸・大島‑吹切の
9
ヶ所に番所を設 け,合せて「外海1 6
ヶ所番」と称し た。そのほか長崎に関するキリシタン 牢番‑唐船番等の警備動員数を「異
国船就渡海浦番・船番並塩焼拘・因人請取渡・龍番人数帳」)によって正保
4
年(16 4 7 )
まで示せば次の通りである。大村藩の長崎関係警備延人数
延人数 主 要 件 名 ( 人 数 順 ) 寛永
91 3
,1 8 1
人│オランダ人牢番,同長崎渡し1 0 1 2
,4 7 8 1
伴天連いるまん牢番,同長崎渡し1 1 1 1 7
,1 7 0 1
長崎唐船番(1
万),向上件,大坂送り鉛呼子まで1 2 I 4
,4 1 9 I
長崎唐船番,伴天連いるまん牢番,同長崎受渡し,唐人受取‑牢番
1 3 1 2
,13 5 7 1
南蛮人種追放警備(1.2
万), 外 海 番 (7
ヵ所始る。0 . 7
万)1 4 1 4
,16 3 3 1
有馬ー撲に付き戸町浦詰( 2 . 7
万,但翌3
月4
日迄),外目番,唐船長崎送り,見送り
1 5 1 2 4
,3 2 8 1
外海番,長崎唐船有馬送り,長崎唐船番1 6 1 2
,10 9 5 1
外海番(瀬戸大番所なる),かれうた船番( 0 . 6
万)1 7 I 1 7
,1 0 5 I
外海番,かれうた船・出島南蛮人番( 0 . 6
万),三重岳狼姻番(始る),奉行不在時長崎番
1 8 I 1 8
,0 5 3
外海番(福田大番所なる)1 9 I 2 8
,6 6 6 I
外海番,狼姻番,南蛮人受取・牢番,座礁唐船引き2 0 I 2 7
,4 7 9 I
外海番,狼畑番,南蛮人受渡・牢番,大坂送り塩硝・鉛平戸まで
正保
1 I 5 4
,0 7 6 I
外海番06
ヵ所番所となり,崎戸大番所なる),長崎唐船番,唐・南蛮人受取牢番,大坂送り塩硝鉛平戸まで
2 1 6 7
,3 8 6 1
外海番( 5 . 8
万),唐人受渡・牢番,南蛮人牢番,大坂送り塩 硝平戸まで,狼姻番3 1 4 2
,4 7 0 1
外海番,狼姻番,大坂送塩硝平戸まで,座礁唐蘭船引き4 1 1 1 3
,1 6 6 1
外海番,長崎陸手番( 3 . 9
万),南蛮船番( 3 . 1
万),南蛮人牢番,大坂送り塩硝平戸まで
第 2 章 沖 の 両 御 番 所 等 の 整 備
島原の乱終結後,松平伊豆守は長崎に立寄った折諸所を見分して,異国船 監視のため(長崎の南西端)野母の日野山(ー名・権現山)に遠見番所と峰 火番所を建てさせ,異国船を見かけ次第に長崎奉行所に注進させることと,
長崎から近国に急を告げる狼煙をあげさせることとして,長崎の斧山(現‑
峰火山)に峰火所をつくった。日野山の勤務態様としては,領主寺沢兵庫守 により「野母・樺島両村より(百姓)
4
人づっ2 0
交代勤番す。高治2
年(16 5 9 )
徳川時代の長崎警備と正保
4
年(16 4 7 )
のボルトカ更に遠見番及び附属水夫を置く」)というもので,長崎村中川郷の峰火番所は
「長崎・山里・測三村の人民交替勤番す
j )
で、あった。後に慶安元年(16 4 8 )
この地が長崎代官預りとなって,翌2
年専任の遠見番1 0
人・飛船の水主1 0
人 に強化された。寛永
1 6
年(16 3 9 )
ポルトガル人入国禁止の第5
次鎖国令の年には(肥後国 主)細川忠利・ (天草領主)山崎家治・ (島原城主)高力忠房に,毎年かわ るがわる長崎港へ御用船2
般づつを出すべt
と命令が下り,その内容は,半 年は肥後,半年は島原・天草というものであったが8
ヶ月を肥後から2
般 出し4ヶ月島原より 1般差出しと変更になり,享保5年(1720)以後は「肥 後一手にて年中2
般づっ差出し,4 0
挺立船1
般. 2 0
挺立船l
般,合せ2
般」となった。
更に海防のための陸上施設として,西泊と戸町に番所を設置する。これは 寛永
1 7
年(16 4 0 )
のポルトガル使節団長崎受難事件の後である。出島移転直 前の1 6 4 1
年4
月4
日の平戸オランダ商館日記によれば,I
肥後・有馬・大村 の領主は,その領地に留まり,絶えず帆船を監視するよう皇帝(将軍)から 命令された。即ちポルトガル人が,そのガレオット船で今後日本を攻撃しよ うと試みることも起り得るからである。またそうでなくとも,彼等と同様我 々(オランダ人)によりこれが行われるかもしれないからである。即ち我々 が既に味わった侮辱のために復讐を試みるのではないかと,彼等は明らかに 恐れているのである」。通航一覧に,
I
寛永1 7
庚辰年,筑前国主松平(黒田)右衛門佐忠之に長崎 の藩鎮を命ぜられ(此事,諸記1 8
年とあれども,続黒田家譜に載る2
月8
日 の奉書をもて考ふるに,1 7
年とするもの是なるに似たり,よってしばらく続 武家盛衰記にしたがう),明年8
月,西泊,戸町両所に番所を設けてこれを 守る。これ御禁制の南蛮船強いて渡来せば,打沈めんがためなり,同1 9
壬午 年,肥前国佐嘉城主鍋島信濃守勝茂にも命ぜられ,忠之と隔年に守衛す。勝 茂はまた領内深堀にも番所を置き,家人をして勤番せしむ」とあり,また続 けて「寛永1 7
年南蛮船入津……すずれ石にて焼沈められ候,同年松平筑前守では御番所も無之について,番人等船に指置かれ候事(続武家盛衰記)Jと あって,西泊・戸町両御番所の始まりが寛永
1 7
年か1 8
年かに疑義が出されて いる。寛永1 9
年3
月,幕府から鍋島勝茂に対し,r
・・…・去々年以来彼表番の 儀,松平(黒田)筑前守へ仰付げられ候。当年の儀は手寄に候間,其方へ仰 付けられ候。それ故早々御暇仰付けられ候」ともある。ここで問題となる続黒田家譜に載る 2月 8日の奉書とは下記である。
一筆令啓候,かれうた船渡海の儀就御停止,異国船着岸之時分にも候 之間,其元被差置候,被得其意,当年者参観無用となす可く候。恐憧謹
0 0
2
月8
日松平右衛門佐殿
阿部対馬守重次 阿部豊後守忠秋 松平伊豆守信綱
通航一覧のこの奉書の説明には,
r
寛永1 8
辛巳年,忠之台命をうけ,はじめ て長崎の藩鎮となり,即当番をつとめ給う。此年は参観の年なれども,長崎 守禦のため参観に及ばざる由,江戸より宰臣の奉書来り,その旨に随て在国 せらる。奉書の詞に云」とあって,この方では明らかに寛永1 8
年(16 4
1)の2
月8
日であり,r
続佐賀藩の総合研究」でも,奉書は寛永1 8
年のこととし ており,佐賀藩に対する指令を寛永19
年3
月29
日,参府中の鍋島勝茂の帰国 に際し,福岡藩との交代を命じ,r
自然かれうた船来着候ハ, (姫路城主)松 平下総守・(大目付・宗門改役)井上筑後守・(島原城主)高力掻津守・(長 崎奉行・当時在勤)馬場三郎左衛門・ (向上・当時在府)柘植平右衛門仰せ 付けられ候条,致相談……」発せられる下知に従うべしとされたとある。前記 2月 8日付の令書は,同文で異国船渡来の航路に当る五島盛利・大村 純信にも発せられており,諸書はすべてこれを寛永
1 8
年としている。従って 西泊‑戸町両御番所の警備責任は,福岡藩が寛永1 8
年(16 4
1)から,佐賀藩2 5 3
が翌
1 9
年から,即ち西暦の奇数年が 福岡藩偶数年が佐賀藩である。長崎き,
オランダ商館日記によれば
1 6 4 1
年1 0
領主が予報通り上使筑後殿及び奉行
‑・・・・・スヒップ船コニンギンネに行
後は肥前の大領主鍋島様が奉行三郎 左衛門殿と多数の武士を随えて商館 長を訪問した」とある。但し,長崎 これを観覧して約1時間の後帰 った」とあり,
1 6 4 2
年1 0
月7
日,I
午は未だ番所の建物はなく,稲佐に繋 船して勤番したといい,
月
2
日, [""夕刻の2
時 間 前 , 博 多 の長 崎 表 御 備 向 付 書 付 控 弘 化 年 九 月 記 佐 賀 藩 編 園 153
1│8 警備を命ぜられた初年の寛永
1 8
年に7 8
平右衛門殿と共に島(出島)に来,
徳 川 時 代 の 長 崎 警 備 と 正 保4年(1647)のボルトカール使節船事件
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翌年の佐賀 藩 も 近 傍 の 自 領 に 駐 し て い た と い
つ。
西泊及び戸町の両御番所は,俗に
(戸町御番所)
千人番所と称せられるように相当な る人数が詰めていて,三奈木黒田家 文書の絵図にみる詰所も数多い。但 し こ の 建 物 に つ い て は , 寛 永
2 0
年 正 保2
年(16 4 5 )
(1
6 4 3 )
西泊に,(女 神)
(西泊御番所)
(神 崎)
それぞれ仮りの陣屋を作っ たものの, [""定小屋はなく,当番の 年 か り に し つ ら い て そ の 舎 は こ ぼ (黒田続家譜6)J程度のも 戸町に,
沖 の 両 御 番 所
また次年の当番より舎を作りて士卒を置く
ので,慶安元年(1
6 4 8 )
に幕府は両藩に命じて沖両御番所に定小屋(各2 0
軒) この経費負担をめぐって 以後協議して修理改築に当らせたが,ち,
を普請させ,
中期以降両藩の間に微妙な対立関係を生じたとL、う。
1 6 4 3
年5
月2 8
日の長崎 オランダ商館日記に,r
正午頃,博多の領主が大部分は大型である早船1 4
般 と,クーパィ船3 " ‑ ' 4
般で当長崎に来て,ポルトガル人・スペイン人その他 の襲来に備えるため,湾の入口とこれに面した所に,約8 0 0 " ‑ ' 9 0 0
の兵を配置 し,ーは兵士で陸上「 ーは水兵と船員で海上に置き,出入の船舶を監視す2
3
ることにした。このことはポルトガル人の追放以来,日本全国の海岸で危険 と思われる所で行われ,長崎は諸国の領主の交代勤務するところである。...
・・この領主は黒田右衛門佐様と称し,筑前博多の王であり, 日本の最大かっ 富裕な領主の一人で,年収
2 0 0
万ドカットを超えている。右領主は夕刻の2
" ‑ ' 3
時間前,船を悉く率いて長崎湾を去った」とあって,8 0 0 " ‑ ' 9 0 0
の兵の配 置に拘らず建物の記載がないのは,寛永2 0
年(16 4 3 )
には未だ定小屋はなか ったらしいことを証し,また藩主は,異国船来航の期間中長崎に駐在したも のでないこともこれでわかる。警備用の重兵器については,福岡藩が寛永
1 8
年5
月1 4
日大坂において石火 矢1 0
挺・大筒2 0
挺・合薬2 1 2
貫5 0 0
目・玉1 5 0 0
斤を幕府から受取り,翌1 9
年佐 賀藩は公儀石火矢等を黒田藩から受取西泊御番所
った。但し,石火矢は幕府から貸与あ ったものの,石火矢台はなく,承応
2
年(16 5 3 )
に「石火矢台所附之事」として(平戸)松浦肥前守の警備たる大 多尾など
7
ヶ所に取付けたとある。因 みに両御番所の建物数等は次の通りで ある。( 1 )
西泊御番所(長崎代官地,関!村) 惣外輪廻2 2 1
間4
尺4
寸( 4 0 3 . 1 5 m )
,坪数3 8 7 0
坪 (12793nl)軒数
1 9 r 2
軒 番 頭 ・ 鉄 砲 大 頭~
3
軒 足 軽 頭徳川時代の長崎警備と正保
4
年(16 4 7 )
のポルトカ'ル使節船事件2 5 5
5
軒 足 軽 1軒 遠 見 番2
軒 表 裏 の 木 戸 番2
軒 水 主3
軒 石 火 矢 玉 薬 蔵 l軒 石 火 矢 台 並 小 屋道 具 入
( 2 )
戸町御番所(大村領)惣外輪廻
1 9 0
間( 3 4 5 . 4 5 m)
, 坪 数2 8 4 0
津 坪( 9 3 8 8
rrf)軒 数
1 9 r 2
軒 番 頭 鉄 地 大 頭4
軒 足 軽 頭4
軒 足 軽2
軒 役 人2
軒 表 裏 の 木 戸 番1
軒 水 主3
軒 石 火 矢 玉 薬 蔵 l軒 石 火 矢 台 並 小 屋道具入
なお,長崎警備に関する福岡黒田
戸町御番所 藩への下命について,最初は老中で
は長崎に近い肥後細川氏にとの意見があったが,上意により黒田氏に決した といい,また隔年交替の鍋島藩についても薩摩島津氏に長崎御用の内意があ った, というが,福岡県史の「柳営秘録
J I
葉 隠 聞 書 」 等 に よ っ て , 長 崎 へ の地理的条件とそれによる負担能力及び関ヶ原での東西加担その他による両 藩の反目を考慮、し,これを常に競合関係に置いて幕府に対抗できる政治・経 済的潜在力の分散・減退という説をといりたい。両藩の「西泊‑戸町両御番 所,黒田・鍋島家人数大略之覚」による人員配置と,それを作図して示せば 次頁の通りである。4月
司島!
長崎警備の人的構成
福 岡 藩 佐 賀 藩
4~9 月 蘭船帰帆後 4~9 月 蘭船帰帆後 石 品
人 人 人 人 石
番
~n
中老l2 2 2
,1000~500大組頭l 鉄砲大頭
馬 廻 頭
大 組 侍
2
鉄 砲 頭
8 4 8 2
400~200石火矢役
2 1 4 4 5 0
船 奉 行目 付
2 2 5 0
足 軽
1 2 0 8 0 1 1 0 9 0
船~n 4 4
2 2 0
余 水 主3 0 0 1 5 0
総人数(1)
9 0 0
余7 0 0
余8 0 0
余4 0 0
余深堀(定詰)
( 2 ) 5 0 0
余6
,0 0 0
〔注
J
(1) 総人数には又者を含む, [""年々少々の増減η有之」。大番 900人余在勤
加 番
( 2 )
深堀には本藩より番頭1
,足軽等を付す,r
崎陽群談』第一,「長崎警護誌資料」による。
9/20頃 4Jl 加番 9/20頃
700人余在勤 1加番引
大 番
L‑一一一一一ー一 E加 番 引 800人 余 在 勤 400人余在勤
深場巴の「定詰jが 勤 め た
¥
¥¥深掘勢を含む
※原則として4月の交代から,北西の季節風を受けてオランダ船が出帆する 9月
2 0
日頃までを「大番」と称し,1 0 0 0
人内外が在勤。オランダ船の帆影が見えなくな ると,奉行の差配によりかなりの人数を減らして翌年3月に至る。 4月から非番 となるが, [""加番」と称して残留し,オランダ船帰帆を見送って「加番引」とな り全員帰国する。但し鍋島藩の場合は長崎近郊の支藩深堀の邑に「定詰」を課し ているので「加番」はこれが勤めて,佐賀地方の兵は4
月交代後全員引きあげた。なお,藩主は江戸参観を免ぜられたとはいっても,当番の年はその期間中 長崎に詰めていたわけではなく,
I
忠之,始めは当番の年,度々長崎に行っ て守禦の所を按察せられしかども,遠路海陸の往来人馬の労も甚しければ,別儀なき時は
3
度にて然るべきよし江戸において宰臣の内意を受けられ,3
月末徳川時代の長崎警備と正保
4
年(16 4 7 )
のボルトカそれより後は当番の年
4
月交替に初めて行きて察し7
月紅夷船来りてまた 行き 9月紅夷船の帰るときまた行きて察し,紅夷船港を出るを見て帰り給 う。なお家老1人残し置いて…云々」とあり,黒田藩で、はそのため肥前国時 津(長崎郊外・大村湾岸)を「筑前より長崎へ通う途中にあり,長崎渡海の 船場にて,彼地(長崎)に近き所なれば,……大村丹後守領分たるにより…...彼方へその旨をことわり,日頃望のままに領掌せられ
J
として,そこに小 屋(小館)を建築して常時人を置き,乗馬3
頭を備えている。また,警備の勤務につき佐賀藩の人数には支藩たる深堀勢を含むもので,
深堀は寛永
2 0
年(16 4 3 ) 4
月に佐賀藩によって定められた深堀山上と高島の 遠見の番,その後の正保元年(16 4 4 )
に新たに定められた香焼島‑沖島・伊 王島・高島・脇津の5
ヶ所の遠見番所の勤務のほかに,当番年,即ち西暦偶 数年には佐賀藩内割当人数を出さねばならぬ二本建であって,しかも「大番」にも相当割合の人数を出し,
I
加番」は深堀勢の定詰ということで,深堀の 負担は極めて大きかった。なお,後にオランダ船・唐船の長崎入港は伊王島と松島の間に一旦停止す ることとなって(待島という俗称が松島に変ったと伝えられる)行ったが,
深堀と香焼島の聞の水道も通航可能であった。もともと深堀は,外国船の通 路に当っていて,佐賀領内の有力貿易港であった。慶長
1 4
年・同1 7
年・同1 8
年の鍋島勝茂のルソン国王との往復書簡から,長崎のポルトガル貿易にあず かることの出来なかった鍋島藩が,深堀を利用してスペイン(呂宋島)との 貿易を行なったことが知られる。深堀の水道の警備については佐賀藩深堀勢がこれを守る, ということのほ かに,帆船時代の操船術から次のような理由によって,異国船も伊王島と松 島の聞を通るということに定まって行ったものであろう。
1 8 0 4
年のクルーゼ ンステルンの世界周航記に,I
……野母崎から長崎湾の入口までの海岸は特 に航海に危険である。…・・・九州の地が見えてのち,直ちに野母崎に針路を向 け,海岸に沿うて航行したが,この航路をとると,風が凪ぐため,また月の 初めや満月の際は激しい潮の流れのために,岩礁にふれる危険があるばかり でなく,北緯3 2
度4 0
分の所にある入口をほんとの港口と誤りやすい。この入口も勿論長崎に通ずるのであるが,この水路はまだ正確に調査されてないの で,必ずしも安全を保し難いのである」とある。
第 3 章 正 保 4 年ポルトガル使節船事件
さて,このようにして長崎の警備は正保
3
年(16 4 6 )
までに,野母崎の遠 見番所と長崎の峰火山,及び大村藩による港内警備と肥後・島原からの御用 船提供,福岡・佐賀両藩の隔年交替による西泊と戸町両番所の警備,それか ら佐賀藩による香焼島・沖島・伊王島・高島・脇津の5
ヶ所の遠見番所とい う態勢が整っていた。そのような時期に,正保4
年(16 4 7 )
の事件が起るの である。第1節 ポルトガル使節船入港まで
寛永
1 7
年(16 4 0 )
のポルトガル使節団長崎受難事件の後,マカオに辿り着 いた1 3
人の報告をきいて,マカオの評議会がポルトガル国王に報告のため1
船を急行させたことは前に述べたが,この年1 6 4 0
年1 2
月1
日,ポルトガルはスペインからの独立を宣言した。
スペインは,
1 6 3 0
年にオランダがブラジルを占領したため,ブラジル奪回 に大軍を派遣するとの口実でポルトガルにブラジル遠征費の巨額な戦費負担 を強い,またリスボンにおける貿易干渉があってポルトガルは反溌していた。そして
1 6 4 0
年,バルセロナの課税・新兵徴募などに抗議するカタローニアの 反乱に乗じて,スペインからの独立に進んだものである。但し,独立宣言は 独立達成とは異る。独立を維持し,最終的にスペイン側にこれを認めさせる までに,それから28年間の戦いとなって行く。その間ポルトガル側はオラン ダによって,前年6
月からのオランダとジョホール連合軍により,マラッカ は1 6 4 1
年1
月に陥落する。ポルトガル側はスペインと雌雄を決して独立したわけではなく,スペイン の弱体代をはかるフランス側の煽動によって革命気運があおり立てられたの であるが,それでも独立宣言後,下層階級と官僚の大部分は新王ジョアン
4
世を支持したものの,貴族の多くは旗臓を鮮明にせず,ブルジョアジーの大 部分は独立運動には参加しないで,一団の貴族がリスボンの王宮を襲い,マ徳川時代の長崎警備と正保
4
年(16 4 7 )
のボルトカソレ使節船事件2 5 9
ントゥア公妃を逮捕して,プラガンサ公ドン・ジョアンが戴冠しジョアン
4
世を宣言した突然、の事情に驚いているありさまであった。また聖職者もイエ ズス会はジョアン4
世を支持したが,他の修道会及び宗教裁判所はそうでも なかった。何れにせよ新王ジョアンは,その弱い基盤の上に立ち,本国経済 の苦境に悩まされ,ヨーロッパ外交では思った程の成果を挙げ得ず, しかし 大規模なスペインの侵略には国内の6
つの戦闘で勝利してこれを阻止し,少しづ、つ進み始めた。
このような情勢下に
1 6 4 1
年(寛永1 8 )
ポルトガルはオランダに独立承認を 求め,同年6
月12
日に批准書交換後1ヶ年を経て一切の敵対行為を中止する
ことを定めた1 0
年間休戦条約を結んだ。そしてこの条約締結の報は1 6 4 2
年2
月14
日にパタピアに伝わり,同批准の報は同1 0
月2日にバタピアに着き,総
督は同月7
日にこれを公布した。1642
年4
月17
日(寛永19 . 3 . 1 8 )
パタビアを出帆したタイオワン行きのオ ランダ船カッペラ号は,I
途中マカオ市に寄り,アントニオ・フィァリョ・フェレイラというポルトガル貴族を上陸せしむることを命じたり。同人はポ ルトガルの新王ドン・ジョアン
4
世より該地を確実に国王の治下に帰せしむ ることを託せられ,この目的のためイギリスを経由し,イギリス船にてパン タンに着き,同所より(安全保証の下に)パタビアに来たりしが,その航海 は切なる願いにより,一般の利益ならびにポルトガル国の安全,特に敵なる スペイン国の破滅のため,総督およびインド参事会の許したる所なり。マカ オは附近のマニラより容易にスペイン王の治下に置くことを得べきが故に,この方法によりてこれを妨害せるなり」とあり,またポルトガルとの1
0
年休 戦条約についてのバタピア総督から幕府への書簡に対し,長崎オランダ商館 日記は,I
オランダ人が今まで常に害心のある人と罵っていたポルトガル人 を助けることになったについて,日本の大官たちは驚いて,或はオランダ人 を捕縛し,または国外に追放する命令を発するに至るであろうと言われた由 伝えた。・・・・・・(商館長弁明)1 0
年間の休戦については,彼等と衷心から友と なり信仰を一つにしたと考えてはならぬ。単に同国王のスペイン人との戦争 を激励し,ポルトガルの背叛によってスペインの勢力が減じ,我等が戦勝を収めることを期待したからであることなどの事情を述べ
J
,また「この国(ポ ルトガル)は王の死後スペインに併合されて重税に苦んでいたが,今回独立 戦争を起し,わが国(オランダ)とフランスの援助を求め,協力してスペイ ンと戦うことになったのであり,我々はスペインを憎んで戦力を失うに至ら せるために1 2
年の休戦条約を結んだのであることを説明した」とあるなど,度々幕府は商館に質問している。なお,
1 6 4 3
年1 0
月1 6
日(寛永2 0 . 9 . 4 )
のオ ランダ商館日記に,I
通詞らが奉行の命をうけて来館,再びポルトガル人と 戦争をするに至った原因を尋ね,……商館長が真相を述べたところ,奉行は 満足した」とあり,同年1 2
月1 4
日(寛永2 0 . 1
1.4 )
の同日記にも,I
ポルトガ ル国王を援助するために派遣した2 0
隻の船は,同国で悪い待遇をうけ,これ をきいたわがオランダ国君オランジ公及び最高官憲は憤慨して復讐すること になった0 ・・・・・・セイロン・ゴア・インド海岸その他,ポルトガル人の居住地 に派遣されていた使節も到る処で虐待を受けて,パタビアに帰った。ポルト ガル人はまた諸所でオランダ人の不利を謀り,非道を働いたので,我等は再 び敵となったのである」とある。このようにポルトガルのスペイン勢力離脱をみて,オランダはスペイン占 領下の基隆を
1 6 4 1
年8
月に攻め,1 6 4 2
年8
月にこれを奪取したが,ポルトガ ル本国のオランダとの和平条約に拘らず,ヨーロッパでもアジアでもポルト ガル・オランダ両国間に和平条約と戦争がちぐはぐに行われ,特に貿易に於 ては抗争はそのまま続行されていた。このような時期にポルトガル新王は,
1 6 3 9
年以前に巨額な利潤を得ていた 日本貿易の再開を求めることを計画し,日本への使節を運ぶために2
隻のガ レオン船を派遣するに決したのであった。なお,この当時(帆船時代)のポ ルトガルから南アフリカ喜望峰までの航路は,ヴァスコ・ダ・ガマとペドロ・アルヴァレス・ガブラルの航海図にみるように,南下するに当ってアフリ カ大陸西南端から南西に針路をとり南東貿易風を帆に受け,南アメリカ東部 を南流するブラジル海流に乗って限りなくブラジル近くまで帆走し,やがて 西から東へ吹く貿易風反流と,南西から北又は北東へ流れるフォークランド 海流に乗って喜望峰に直航し,復航のボルトガ、ルへは最短距離の帆走であっ
徳川時代の長崎警備と正保
4
年(64
7)のボルトカV
レ使節船事件た。またアフリカ東 部からインド聞は,
5
月から1 0
月までは 南西の季節風.1 0
月 から5
月までは北東 の季節風の所謂ヒッ パルスの風によって 往復するもので, リ スボン発航は概ね3
月から4
月にかけてウァスコ・ダ・ガマとベドロ・
アルヴァレス・カブラルの航海
2 6 1
80.
2000&.. • ~
~
("fゴ・ヨ守子
e
,ュそn他による}
也、,.'
であり
9
月にはインドに到着。逆コースはインドから1
月末に出航し,夏 の盛りにリスボンに到着するという航海であった。日本への派遣の経過を略記すれば次の通りである。
1 6 4 2
年6
月 対日措置陳情のマカオ使節団(団長は前記,アントニオ・フィ ァリョ・フェレイラ).マカオ発リスボンへ。1 6 4 3
年5
月9日 オランダのパタビア総督は,出島商館長にポルトガル特使
派遣の噂を報じ,その貿易再開閉止を命ず。1 6 4 3
年1 2
月 マカオの陳情を受けたポルトガル新政府は,新王の即位を報じ,日本との親交を結び併せて通商再開を求めることし,多年インド地方で 功労のあったカピタンのゴンサロ・デ・シケイラ・デ・ソイザを大使に 任命した。
1 6 4 4
年2
月5 2
ポルトガル大使はサント アンドレーに乗船し,僚船サン ト‑アントニオと共にリスボン発。但し. 1 1
月ジャワ近海で暴風に遭い,サント・アントニオはゴアに向い,サント・アンドレーはパタビアに入 港。 ………・・・……一…………(越年)
1 6 4 5
年6
月 サント・アンドレーのポルトガル大使,マカオ着1 6 4 5
年6
月9日 ポルトガル大使とマカオ市会と,国王指令の布教に関して
譲歩すべからずの条議に意見合わず,打合せのためゴア向け出航。1 6 4 5
年6
月19
日 オランダのパタピア総督は,出島商館長にポルトガル特使派遣と経過を知らせ,反対計略を期す。
1 6 4 5
年8
月2 2
日 オランダ船メールマンがパタピア・タイオワン経由長崎入 港。翌日,通詞にポルトガル使節がパタビアに近いバンタン市にいると 知らせる。1 6 4 5
年9
月7
日 オランダ船ヒュルデ・ハンス長崎入港。ポルトガル使節の マカオ経由日本派遣状況を長崎奉行に詳細に報告す。1 6 4 5
年1 2
月末 ポルトガル大使, ゴア着。 ・・・・・・…一一....................(越年)1 6 4 6
年4
月3 0
日 ポルトガル大使,大ガレオン船サン・ジョアンに乗船。サント・アンドレーと
2
船ゴア発。1 6 4 6
年7
月2 5
日 ポルトガル2
船マカオ入港。1 6 4 6
年8
月1 1
日 ポルトガル2
船マカオ出航。但し,琉球附近で逆風に遭い,マカオに引返す(大使一行はマカオ上陸。顛末を快速船でゴア総督に報 告す)。 …・…・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・……・……(越年)
1 6 4 6
年8
月1 3
日 オランダ船2
隻シャムから長崎入港。ポルトガル人の噂として,ポルトガル
2
船日本へ向ったことを報ず。1 6 4 6
年8
月2 8
日 オランダ船バタビアからタイオワン経由のデン・ザルム号 長崎入港。インド参事会の書簡を以て日本貿易再開のため,ゴアからポ ルトガル大使派遣のことを長崎奉行に報告。1 6 4 7
年4
月7
日 ゴア総督,小船でマカオに1 2
,0 0 0
パタカの現金と必需品を 送る。この船は6
月2 5
日にマカオ着(長崎オランダ商館日記第2
輯,3 2 6
頁)。1 6 4 7
年7
月8
日 ポルトガル大使一行,マカオ発。1 6 4 7
年7
月2 6
日(正保4 . 6 . 2 4 )
朝,ポルトガル船2
隻,長崎の伊王島沖に 着き碇泊。※長崎名勝図絵
( 2 0 8
頁)に「湊の外」スズレ(西泊)の前,とあるが.C . R . Boxer
もa r r i v e don t h e 2 6 t h o f t h e same month o f f t h e I s l a n d o f H o r s e s i n s i g h t o f Nagasaque
,a p o r t o f J a p a n .
一"とあり,その注にI s l a n do f H o r s e s
はIl
ha d o s C a v a l l o s
," i n J a p a n e s e I o ‑ j i m a
(伊王島)とある。c a v a l o
はポルトガ ル語で馬の意であり。ポルトガル人は伊王島を「馬の島」と呼んでいた。徳川時代の長崎警備と正保
4
年(16 4 7 )
のボルトカソレ使節船事件2 6 3
│邦暦│
正保4年 6月25日 前日と同じくポルトガル2船は伊王島沖に碇泊。
(オランダ商館日記)
9
時頃2
名及び通詞を集めて,次のことを奉行 に願わせた。ガレヤン船2
隻 は 港 の 入 口 に 碇 泊 し て い る が 一 双 方 の 安全を保証するため,書簡4
通と公爵旗とを持ったオランダ人1
人を深 堀のボンジョイ(役人)の所に遣わして,オランダ船が通過する際に公 爵旗を掲げて停船させ,書簡を渡すよう取計し、方を奉行に願わせ,承認 を受けて,上士1人と通詞庄助を派遣した。またフロイト船ウィッテ・パールドにはひそかに漁船に託して書簡を送り,緊急、の際ポルトガル船 に対する行動について通知した。
6
月2 6
日 正午過ぎ,ポルトガル船は立派な日本船に導かれて湾の中程に碇 泊したが,通詞らが国旗と椅上の十字架を下させ,後甲板の聖像は帆布 で包ませた。その後,儀大夫殿が(奉行)三郎左衛門殿の第2
の書記官 と共に弓鎗及び銃を飾り立てた早船に乗って,両ガレオン船に行き,奉 行の名で安着を祝し,船員一同は高声に3回歓声を発し,大砲7発を放 った。彼等は何事も順調であると考え,彼等のためにどんな鍋が煮られ ているか知らない。今日,肥前から
50
,000
人到着した。攻撃に参加する船は5
,000
般で,兵士
1 0 0
,000
余を両船のまわりに集めるという噂である。ポルトガル船 は各砲2 6
門を備え,乗組員約2 0 0
であり,奉行は大砲弾薬及び舵を陸上 に運ばせようとしたが,使船であるからと断られ,免除した。但し,犬 が多ければ兎は死ぬのであり,大使も随員も死を免がれぬであろう。第
2
節 ポルトガル使節船に対する長崎湾口封鎖通航一覧巻
1 8 6
によれば,I
正保4
丁亥年6
月2 4
日,異国の軍艦2
般長崎に 渡来し,硫黄島(伊王島)と松島との間に繋れり。長崎奉行馬場三郎左衛門,検使を出して渡来の故を尋ねるに,ポルトガル国より使船の由を申す。同
2 6
日,港内身投岩の前に入津せしめ,その後( 2 7
日), (島原城主)高力掻津守 忠房・ (豊後府内城主)日根野織部正吉明,三郎左衛門と相議して,再び使 を達わし,御国法により滞船中武器等を渡すべき旨を命ずれども(国主よりの使者にて候間,商人の如くその品々をおろすことなるまじき由にて)肯わ ず,よって江戸に注進し(※
7
月1 0
日江戸着),かつ筑前・肥前をはじめ近 国の人数を招く,時に筑前は御備場当番たるにより,まず番船等の事を命ず。かの国主松平(黒田)筑前守忠之は(海路にて)
6
月2 8
日の晩時津に着船,それより陸路にあがり同夜長崎に着して奉行等に会談し,もし黒船乗取るべ しとの台命下らば,一手にて乗取らんとその備えをなす」とある。なお,ポ ルトガル使節船に対する日本側の通詞に,元マカオで長崎との貿易で活躍し ていた知日家の「アントニオ・カルパリョ」のいたことがソウザの日本渡航 記に記され,
C . R . B o x e r
もそう記し,長崎市史にはこれを「名村八左衛門 か」としている。入港後のことを諸書にみてみよう。
│長崎オランダ商館日記│
正保 4
年(邦暦に直して記す6
月2 9
日は月末日)6月27日 今日は前記の早船がポルトガル船に 3回行き,初め 2回は 15'""'‑'16 人が船に上ったが,第3回には司令が 2'""'‑'3人の外は断った。そして往 復の際,祝砲の代りにラッパと同時に
3
回の戚声を発した。彼等はまた 我等(オランダ)の国旗の訴えるのを見て,午後から国旗を掲げ,それを許された。
6
月2 8
日 通詞らが今日はl
回だけ船に行った。湾の入口は木材を打込んで 閉鎖され,九州、│からは1 0 0
,000
人の兵を集めようとしていると噂される。6
月2 9
日 夜半,博多の領主が着いて,三郎左衛門殿及び他の領主たちと朝6
時まで協議した後,港外に出た。肥後の領主も来たので,事変は今夜 か明朝から始まるであろうと考えて,市民は妻子家財を山奥に送り,ま た家の屋根に水槽を上げ,水をかけている。7
月1
日 早船がガレヤン船に行って,舵と帆と弾薬の陸掲げを求めたが,断られた。奉行が,江戸からの飛脚の着くまでは何事も起らぬゆえ安堵 するように告示を出した。
乙名が,我等の(オランダ)船を今よりも奥の方に移す許可を願わぬ かと尋ねたので,願は出さぬが,我等の船は入港と同時に舵と火薬・鉛
徳川時代の長崎警備と正保
4
年(16 4 7 )
のポルトガル使節船事件2 6 5
等を皆出すので自ら守ることは出来ず,陛下の保護,即ち奉行の保護に 一任する外はないので奉行の命があればそれに従うと答えた。‑
7
月2
日 シナ使節船(鄭成功の請援使船)は2
隻共,天が明ける前,神崎 まで出て,最初の機会に出帆しようとしている。ポルトガルの副司令船も食料品の供給を受けた。‑
7
月3
日 オランダ船は入港の際,祝砲を発せぬよう命ぜられたが,これは 市民が,ポルトガル船が市を砲撃するものと思わせぬためであるという。長崎には九州の領主たちが三郎左衛門殿と計って
1 0 0
,0 0 0
以上の兵と 大砲3 0 0
門・船2
,0 0 0
般を集めているが,湾外では普通の船に楼を組み,屋台を作ったもの数般があるだけで,湾の入口は開いたまま,自由に通 航が出来る・...
7月 6日 夕刻,奉行は通詞2人を遣わして,オランダ船入港の際には通詞 またはボンジョイ(役人)の命に従うよう伝える書簡を認め,これを持 った通詞を代る代る港外に留め置くよう伝えた。これは入口を塞ぐから である。‑一
│通航一覧
I
(巻186. 68‑‑‑‑‑73頁)7
月5
日 近国の諸勢,長崎へ大形馳集り候て, (奉行)馬場三郎左衛門殿 被仰聞候は,今度黒船御乗取りなされ候につき,各々存じ寄りの手行 も候は,遠慮、なく申上ぐ可しの旨仰せ渡され候,……然るところに寺 沢兵庫頭殿家老並河太左衛門進み出で申上げ候は,・・・・・・かの黒船走り 出で候瀬戸口に,大綱を幾筋も張りなされ候ては如何ござ候や,黒船 走り罷り出で候時,この綱に帆なと懸り候はば,その内に乗取り申す ため,たよりにもなり申すべきゃと申上げ候えば,立花左近将監殿家 老十時三弥……もっともに存じ奉り候と申上げ………7
月6
日 長崎瀬戸口に大綱をお張りなさるべき由,お触れこれ有り候こと。7
月7
日 大綱出来につき,川口高鉾に大綱張らせ申す由,平野弥次右衛門,政所(奉行所)へ罷り出中上げ候こと。
7
月9日
(細川肥後守の老臣)長岡勘解由,政所へ召し寄せられ, (豊後府内城主)織部殿仰せ渡され候は,………黒船焼討なさる儀もこれ有る べく候,焼草の用意ひそかに仕置くべきの旨仰せ渡され候こと。
7
月10
日 (細川肥後守の老臣)長岡監物儀長崎へ着船,政所へ罷出候 ...船橋などの御さんだんなどは御座無きや,と申上げれば,三郎左衛 門殿仰せられ候は,船橋と申す儀聞き及びは仕り候えども,ついに見申 したる儀これなく,如何様にこしらえ候も存せず,如何, とあれば監物 申上げ候は,大船をひしと並べ,その上に角木をしき並べ,その上に大 板を並べ,かすがし、にて堅め申し候えば,この上を馬を乗り通り候てもせいろう
苦しからず,又は船栖楼を揚げ,彼の船を見下し候ように仕り候。これ を船橋とも船積とも申し候。土用も過ぎ候えば風替り,彼の船順風に任 せ走り出し候を,大綱などにて止め申す儀成り申すべきや,右船橋にて は黒船なにほど走り出したく存じ候とも通り申す儀なるまじき旨申し上 げ候えば,ご三人衆仰せられ候は,さてもたしかなる手行かな,この上 の手行これ有るまじく,尤も至極なる儀と………然、れども,船橋こしら え候大船材木等にわかには当所にこれ有るまじく候,この障り如何と,
……御急用のことに候えば,近国の船を寄せ,材木は当町海辺の町家を 崩し用い,御舟相済み候上にて町家作事は………同日,政所より普請に 馴れたる足軽頭両人差出すべき旨申し来り…・…・・立合讃談仕り候こと。
7
月1 4
目 黒船のかかりたる所より1 2 " ‑ '1 3
町沖の神崎という所の出口,幅こうざき4
町余の所を船にて仕切………船数合せて1 5 0
般を出し,先ず大綱にてこ 通り張り切り,一方は山の根をまとい,一方は大岩に巻きつけ,その後 を船いかだにて仕切けり。7
月1 6
日 未明に船橋出来(この瀬戸2 2 3
間)。 一番備え 長岡勘解由……鉄砲7 0 挺‑弓 2 0
張 二番備え 長岡監物 …・ーか2 0
挺三番備え 清田石見 一・・ーか
1 0 0
挺 四番備え 細川刑部 一一・・か7 0
挺 御 船 手 頭 村 上 七 左 衛 門 …合せ