ドイツ帝制期の製パン職人の運動
ドイツ帝制期の製パン職人の運動
−手工業的共同体との関連で−
鎗田英三
第1章はじめに
第2章1886年ハムブルク=アルトナスト 第1節ストの背景
1.工業化の影響 2.労働条件
3.職人運動のはじまり 4.マイスターの組織化の進展 第2節1886年スト
1.スト前史−ハムブルク職人の組織化−
2.ストの展開 3.ストの帰結
第3章1898年ハムブルク=アルトナスト 第1節ストの背景
1.経済的状況 2.1896年法の制定 3.マイスターの状況 4.職人運動の伸展 第2節1898年スト 1.ストの勃発 2.ストの経過 第3節ストの特徴
第4章1911年ハムブルク=アルトナスト 第1節20世紀の製パン業
1.経済的状況
46
2. 手yHW条T牛 第2節 1911年スト
第3節 職 人 と マ イ ス タ ー の 変 化 1. 職 人 運 動 の 変 化
2・ 7イスターの状況 3. "'7イスター後継者の組織化 第5章 お わ り に
第 1章 は じ め に
*f '11~ と経 i舟
ドイツ帝制期には,独占資本の形成により高度な工業化が進行した。それ により今迄支配的であった手工業は従属的存在と化した。多くの職種は工業 経営との競争で駆遂され,また存続していたとしても変化と適応を余儀なく
されたのである1)i手工業没落論」が日目えられたのはまさにこのような状況 のなかであった2)この19世紀後半の過程に対して「手工業没落論」の可否を 問う形でドイツだけでなくわが国でも幾つかの優れた経済的分析が行われて いる3)だがビスマルク・レジームなどの当時の社会構成を考える場合には,
そのような経済分析だけでは不十分であるのは言うまでもない。経済的構造 変化との関連で手工業の社会的変化をも問題にしなければなるまい。
では手工業の社会的側面とは具体的には何か。それに答えるために手工業 とは何かについて整理してみょっ。それは工業との比較で考‑察される。わが 国では資本金・従業者数の規準でもって,中小企業の定義がなされているが,
ドイツの場合はそれだけではない。たしかに,大まかには大規模経営=工業,
中小規模経営=手工業と見倣せよう。実際今迄の調査統計では,このような 基準が採用されていた4)だがそれ以外に生産・販売・労働様式での工業との 相違が重視される。すなわち生産では機械的様式ニ工業,手労働的生産様式
=手工業,販売では小売商の介在=工業,販売兼業=手工業,労働では手工 業でのマイスター・職人・徒弟関係と。さらに製パン業では小麦粉など原料 消費量もメルクマールとされる:)20世紀に入っても手工業会議所などへの寄 金問題で,工業か手工業かの判断がしばしば裁判所にまで持込まれた。判決
ドイツ帝制WJの製ノぐン職人の運動 47 ではそれらを総合的に勘案して判断が下された。この問題に立法的な結着を つけたのは. 1929年の手工業名簿 Handwerksrolle導 入 で あ っ た 。 そ れ は 自ら手工業者と認める者による登録制の立場をとったので、ある6)ここに手工 業を考える一つの鍵が存在するょっに思われる。手工業名簿への登録は,営 業の自由導入後のツンフトの再建形態である当該職種のインヌンクや地域の 手工業会議所への帰属を意味することになる。すなわち,そのような手工業的 組織への帰属が,手工業者の一つのメルクマールとなったのである。 そこで手 工業者とは,一般的には経営規模的に大半が10人以下の小経営に属し,機械 を導入してたとしても手労働による熟練を基礎とし,マイスター・職人・徒 弟という労働関係に依拠しつつ生産・販売を行い,インヌンクを中心に組織 的に行動する生産者ということができょう。だが生産・販売・経営規模の基 準はきわめて流動的で、あり,そこでとくに重要視されたのは手工業における 二重の共同体一経営内のマイスター‑職人一徒弟の経営内共同体とインヌン クによる組織的同一性(インヌンク共同体)ーである。手工業概念の社会的 側面とは,このような手工業的共同体を意味する。
本稿では,手工業的共同体が帝制期にどっ変化していったのかを考察して いくことを課題とする。そのような共同体の変化をひきおこす要因として,
まず工業化の影響をあげることができょう。さらに重要な要因として,職人 運動がある。本稿では前者に留意しながらも.f走者を対象として分析を進め ていきたい。具体的には,ハムブルク Hambutg=アルトナAltonaで1886 年. 1898年.1911年の3回にわたって行なわれた職人ストをとりあげてゆく
ことにする。 3回のストにおける経済的状況の変化などのストの背景,スト の内容,ストの結果職人・マイスターの関係がどう変化したのかなどの点を 比較対照させながら,手工業的共同体がどう変化していったかを考察してゆ きたい。
今迄の代表的研究である H. ヴインクラーの帝制1~J の手工業者の分析でも')
その経済的状況と手工業組織の指導層の動向にのみ限がむけられ,職人運動 などは一切分析されていない。本論では,今迄顧慮、されることのなかった職 人運動に 1,(~,点をあて,マイスターと職人の関係についてみてゆくが,資料的
48 経 営 と 経 消 に把握することの困難な一般的なマイスター・職人も可能な限り視野に入れ たい。それによって手工業者の帝制期社会構成における状態を考察する新た な手がかりが与えられょっ。さらにとくに19世紀後半以降のドイツ労働運動 史において殆んど考察の外におかれていた職人運動についても,一つの像を t是供することになろう。
(注)
1 ) W. Wernet, Handwerks‑und lndustriegeschichte, Styttgart 1963.
2) Karl Bucher, Die Entsstehung der lノolkswirtschajt, Tubingen 1908 (6Aufl.), S.187f. 3 )八林秀一「ドイツ中産層の歴史的把握をめぐってー「中産層」概念についての覚書一」
「専修経済学論集.!l13‑2号(1979)を参照せよ。
4 )帝制期の統計では就業者5人以下の経営を手工業としていた。 1925年の職業統計では 手工業種の就業者10人以下の全経営を手工業としたが, 1926年のアンケート調査では 100の手工業種の10人以下の経営を検討して手工業とした。拙稿ヴ'ァイマール期手 工業の経営構造J,一橋論議.!l72‑5号(1974)所収,を参照せよ。
5) Alfred Kaiser, Handwerk und lndustrie im deutsclzen Backergewerbe, Diss. Neu‑ wied 1933, ss. 3‑6.
6) Peter J ohn, Handwerks初mmernim Zwielicht, 700 Jahre Unternehmerinteressen im Gewand der Zunftidylle, Koln‑Frankfurt am Main 1979. Emil Grunberg, Der Mittelstand in der kapitalistischen Gesellschajt, Leipziq 1932, kap. II.
7) H. A. Winkler, Mittelstand, Demokratie und Nationalsozialismus, Koln 1972.
第2章 1886年ハムブルク=アルトナ ス卜 第l節 ス 卜 の 背 景
1. 工業化の影響
従来手工業のみ存在した製パン業でも19世紀に「貨幣経済はツンフト体制 をゆるがし,資本主義的生産様式はツンフト政策によってうちたてられた防 波堤をうちこわす?と指摘されている。ツンフトの自懐作用に加え工業化の 影響を受けることによって,深刻な状況がつまれてきたのである。
前者については,ツンフト規制による過剰な分業の結果生じる技術進歩の
ドイツ帝制期の製パン職人の運動 49 停滞があげられている。多くの都市では,朝食用のプレーチェンを生産する
白パン職Weiβbacker,ブFロートを生産する黒ノfン職Grobbacker,プレーツ ェルンや酵母を使用した菓子・ケーキに特化したロスベッカー Losbacker に分かれていた。このような「生産領域の分割は経済的調和をうみだすはず であった。だがそのょっな人為的な職業分割の当然の帰結として個々人の営 業活動は麻痩し,個々のツンフトは止むことのない分裂に陥ったのである。;
後者の工業化の影響として80年代迄は, 1)営業の自由の導入, 2)食生 活の転換が指摘できる。だがそれらはむしろ工業化の間接的・波及的影響と いうことができょう。
1 )では, まず1810年ノ¥/レテpンベルクの改革によって束・西プロイセン,
リトアニアでツンフト強制が廃止され, 自由に営業を営むことができるよう になった。 60年代になづてプロイセン以外の邦もそれに続き, 1869年の北ド イ、ソ連邦の営業条例 Gewerbeordnungで営業自由の体制jがドイツ全体に確 立した3)その結果経営の過剰が生じたとシユモラ一 Schr町mo
70年代以前の傾向をフプ。ロイ 表l 帝制期以前のマイスタ一.職人数 センを例として表1からみ
ると,マイスターの数(~
経営数)は増加の一途をた どっている。さらに1哉人の 数は3倍にも増加してるが,
そのことが経営数の増加と あわせて職人の独立を困難 にしていた。
表2をみると,帝制期に 入っても経営数の増加は続 くのである。だがそれ以上 の割合で就業者数も増加し ている。たしかに人口千人 当りの経営数は減少してお
年 マイスター 職 人 マ1の00イ職人ス人当タ数ーり 1816 18,133 7,118 39 1822 19,651 6,853 35 1825 20,223 7,287 36 1828 21,708 7,559 35 1831 21,217 8,049 38 1834 22,175 9,118 41 1837 23,437 10,452 44 1840 23,458 11 ,460 49 1843 24,257 12,385 51 1846 24,601 14,047 57 1849 24,391 15,266 62 1852 25,067 16,503 66 1855 25,229 17,559 69 1858 25,685 19,077 74 1861 26,186 20,801 79 1816 : 1861 100 : 144.4 100: 292.2 100 : 203
w. Badtke, Zur Entwicklung des Deutschen Backergewerbes, Jena 1906, S.106
50
表2 帝制期の製パン業の経営数・就業者数
経 営 と 経 i舟
年 人 仁l 経 営 数 の 数l経人営口当1) 此業者数 の人就口業千者人数当り 1875 42,775,234 79,252 539 139,034 3.20 1882 45,222,113 88,477 512 176,637 3.80 1895 51,770,284 103,958 498 261,916 5.00 1907 6 ,1720,529 119,499 516 333,601 5.40 1925 62,410,619 107,687 580 370,068 5.90 A. Kaiser, Handwerk und lnduslrie im deutschen Backergewerbe, Neuwied 1933, S. 104,114.
り,それをもって経営過剰論を批判するものもいるが,経営規模の拡大や生 産性の土井を考慮した場合,経営過剰の傾向にあると言えるであろう。
2 )について,食糧史の研究家トイテベルク Teutebergは 工 業 化 の も と で
「肉・脂肪・卵・とくに生野菜,果実,砂糖の消費が増加する一方で,パン
‑馬鈴薯・豆類への需要が低 下する?という食生活の変化 を指摘する。図1をみると,
この傾向が顕在化するのは20 世紀交である。むしろ19世 紀 の聞はパンの消費量は拡大傾 向にあった。注目すべきは,
小麦の生産が急増し,ライ麦 の生産が減少していることで 120 ある。これはライ麦による黒 100 パンから,ライ麦の割合の小
さいまたはライ麦を含まない 白パンへの転換を意味してい る。工業化による需要の変化 と経営数の増加による競争の 激化は,旧来のような製パン 業 内 で の 分 化 を 許 さ ず , 生 産
‑V U
一︐
41
一
変一 産一 生一 の一 麦一
J
﹄ 一
一 フ一
‑‑麦
︑ 一
︑‑ j
‑ ''
‑
TA‑図γ数指(
220 200 180 160
穀物総生産 140
60 4
1850/ 55/ 60/ 65/ 70/ 75/ 80/ 85/ 90/ 95/1900/ 05/ 10/ 54 59 64 69 74 79 84 89 94 99 04 09 13 H. Teuteberg, Zum Wandel der Nahrungsgew ohnheitencnter dem EinfluB der Industrialisier ung,付図より。
ドイツ帝市1]1明の製パン職人の運動 51 の多様化を強いることになったのであるO
しかしながら,工業化は他方で製パン業にとって有利な状況も作りだした。
それは,家庭でのパン焼き Hausbackereiの 減 少 で あ る 。 以 前 に は 需 要 の 会が家庭内で充足されていたが,中・大都市では殆んど姿を消すこととなっ た。その原因としては,都市化によって家が狭くなったり,建物が構造変化
したために家庭内でパンを焼くのが不可能となった点があげられている6)
以上のような諸要因のもとで1880年代に製ノfン業の経営はどう変化を遂げ たかを具体的に追ってみよう。まず経営数は増加しているものの, 90年代と 比較すると,その割合は小さい。つぎに表3から就業者数をみると,職人数は,
1875年から82年にかけて約2倍にと急増しており,経営数のそれ(17%)を はるかに凌いでいる。経営規模が拡大しているのである。事実表4をみると,
就業者1‑ 5人の小経営の割合は, 1.9%低 下 と ほ ぼ 旧 来 通 り だ が 1人経
表3 製パン業の就業者構成
営 業 主 ~ræ H 広でで' 職人・労働者
年 徒 弟 ιf〉3、 ~i十
数 % 数 % 数 %
1872 70,948 51.0 50,466 36.3 17,620 139,034 1882 74,220 42.5 761 0.4 99,659 57.1 174,640 1895 84,863 36.9 2,043 0.9 101,876 44.4 40,955 229,737 1907 103,310 37.6 3,208 1.1 126,175 45.9 42,425 275,118 1925 99,660 34.2 17,123 5.9 126,065 43.4 48,161 291,009 Kaiser, a. a. 0., S. 107
一
表4 製パン業(ケーキ製造業も含む)の経営規模
就業者数 経 営 数 就 業 者 数
(
で
2
乞) 1 8 7 5 % 1 8 8 2 % 1 8 9 5 % 1 8 7 5 % 1 8 8 2 % 1 8 9 5 %l人経営 34,283 47.9 26,422 33.0 19,315 20.26 34,383 26.5 26,442 15.15 19,315 7.3 2 31,160 38.9 34,792 36.4 57,257 32.8 62,000 23.7
51.0
37.0 73.5
69,761 126,732 3 ‑ 5 20,123 25.1 35,323 39.95 48.4 6 ‑10 506 0.7 2,037 2.6 5,283 5.5 14,219 8.14 36,790 14.1 11 ‑ 50 342 0.4 342 0.4 772 0.8 5,759 3.28
12.72052365N1 O 1 149 50 ‑ 6 13 43 0.04 1,202 0.68 4,3261 1. 6 13 39 0.04 1,202 0.68 3,4051 1.3
201‑500 4 9211 0.3
Badtke, a.α. 0., S. 162, 166.
52 経 営 と 経 済
営は15%も減少しているのである。これは前述の生産の多様化に対応した結 果と看倣すことができょう。
さらに 6‑50人規桜の経営が増え,そのなかでも50人以上経営が腕芽的に 出現しているのにも注目しておかねばなるまい。が,表4をみると従来の手 工業からすると大経営といえる10人以上の経営は355である。 1895年と較べ
ると,その割合はきわめて低く未だ例外的な存在といえよう。
表5 製パン業での動力利用
動経 営力 l凪 力 7)( 力 完J;: PML‑ 力、、 ス 屯 "XfL そ の 他 年
数 % 数 % 数 % 数 % 数 。/O/ 数 円/0/ 1875
1882 177 17 9.6 130 73.4 30 17.0
1895 669 100 15.0 232 34.7 320 47.8 17 2.5
1907 4,472 106 2.4 225 5.0 1,129 25.3 2,971 66.5 30 0.6 1925 46,508 101 0.2 50 0.1 931 2.0 ~5.343 97.5
Kaiser, a. a. 0., S. 119.
表5で動力利用の状況がわかるが, 1882年には動力経営は177とごく少数で あり,そのような大経営の中でも動力を導入しているのは限られている。動 力でも蒸気が7割をしめていることから,主としてノfン焼蒸気窯に利用され ているだけで,その他の機械の利用は殆んど無視できょう。それゆえ大経営は 存在していたもののこの時期には機械制生産に基づく大経営との競争は殆ん
ど問題にならなかったのである。
ハムブルクの場合をみると経営数は1875年の421から, 1882年の470へと 11.6%も増加している。また経営規模は就業者数4.6人から 5人へと増加
をみせており7)経営数の増加・経営規模の拡大という同様の傾向があらわれ ていた。
2. 労 働 条 件
この時期の労働条件を知る手段として,べーベル Bebelに よ る 製 パン 業 の労働条件に関する最初の実態調査報告書「ドイツ製ノfン業労働者の状態」
(1890年)8)があるので,これをみていこう。
まず調査の意義として次の5点に整理できょう:)1国会等での労働者保護
ドイツ帝制期の製パン職人の運動 53 提案のための実態調査の必要, 2.今迄の工業監督官Gewerbeinspektorや警 察の調査の不十分性, 3. i徒弟を含めた労働者の状態は,全労働者のうちで もっとも悲惨であり,世界のなかでも劣悪な部類に属する
1 ) 4
「帝国で毎日20万人が就業しているとすると,製ノfン業内での支配的な状態によって数 百万人の人々に無数の病原菌が伝染する危険が存在するか否かを明確にする のは間違いなく重要で、ある
l ) ;
という公衆衛生の立場, 5. K・マルクス Marx の1863年ロンドン製パン業の調査への「イギリス人の心臓だけでなく胃をも かき乱す; 2 )
という資本論の叙述との対照。以上の意義をふまえ,後述する自由労組系のドイツ製パン職人連盟 Ver‑ band der Backer und Backergenossen Deutschlands (以下職人連盟と略す) の協力で1889年秋に調査が実施された。調査自体は,およそ88,500経営のう ち663経営と僅かで、あるが,一定の傾向を読取ることはできょう。調査項目 は22項目にわたり,賃金に関しても調査されているが,整理・コメントは加 えられていない。このことは彼や当時の関心が,賃金よりもむしろ労働条件 に向けられていたことを示すものであろう。ここでは(イ)労働時間, (ロ)作業条 件,付職人の状況,い)それらの原因について整理してみよう。
付 ) 労 働 時 間
まず調査以外から当時の職人の一般的生活についてみておこぅ12)夜7時, 仕事が開始される。 3‑5時間かけて,精粉に湯・ミルク・酵母を混ぜ手足
で担ねる(生パンTeigの生産)。その後四半時間ほどの第一次発酵の間,粉袋 の上に身を横え休息した後, 10時頃から 3‑4時開発酵したパンの分割・計 量・整形にとりかかるのである。再び発酵させた後,深夜の1時半頃から 5 時まで, 200‑300oCの高温でパンを焼く。この時に焼かれるのは朝食用のプ
レーチェンである。 5時以降8時頃迄徒弟は焼上ったパンを配達し,職人は 昼・夕食用のブロートの生産を行なう。その後午前中いっぱい販売・注文生 産:清掃などをし,昼食をとって眠るのである。
このように職人・徒弟の労働はきわめて苛酷なものであった。表6をみる と,労働時間が12時間以下の経営は僅か23%にしかすぎず,全体の63%が14 時間以上にものぼっていた。当時の一般的な労働時間が10時間ということを
54
表6 製パン業の労働時間 (663経営) 労働時間 経 営 数 %
9時間 7 1.1 10 20 3.0 11 38 5.7 12 89 13.4 13‑15 322 48.6 16‑20 187 28.2 A. Bebe!, ZurLage der Arbelずerin
den Backereien, S. 169.
経 営 と 経 i汗 表7 製パン業での日・祭日労働(654経営)
労働時間 経 営 数 % O 18 2.8 4‑10 101 15.4 11‑13 227 34.7 14‑15 171 26.2 16‑20 137 20.9 Bebe!, a. a. 0., S. 170.
考えると15)非常に高い数字だ、ということがわかろう。
そのうえ「全く異常とも言うべき, とくに非難すべき慣行は, 日曜・祭日 労働である
J 6 )
と指摘されているように, 日曜日も休みではなかった。表7を みると, 日曜日でも半分以上の経営が14‑20時間就業しており,平日と同様 であった。祭日でも休みになるのは, クリスマス・フイングステン・オース ターの三日間しかなかったのである。( ロ ) 作 業 条 件
作業条件も劣悪なものであった。作業場の多くは地下室にあり,窓や換気 口がないため空気は悪く光が不足していた。職人達は「発汗が最高に高まる 温度とあらゆる種類の煙霧がいっぱいの空気の中て
J 7 )
働かざるをえなかったのである。また作業場は狭いつえに不潔で、あった。
職人や徒弟は住み込み (Logis)・賄(Kost)が強制されていたが,それらも ひどい状態であった。寝室は「囚人でさえ10m'の広さが与えられているのに,
製パン業労働者の場合は4‑ 5m'で、ある?)というように狭いうえ,窯の隣り にある場合も.多かった。ベッドを 1人ではなく,複数で共用している例もか なり見られたのである。
付 職 人 の 状 況
このような状況の帰結として,職人の精神的・肉体的荒廃が生じた。まず 肉体の面からみると,職人のJ擢病率が他と較べて高かった。徴兵検査での不 適格者にはパン職人がもっとも多いと言われたほどである。躍る病気として は 1位肺疾患 2位リューマチ 3位皮膚病が挙げられる。とくに肺結核
ドイツ帝制期の製ノ寸ン職人の運動 55 は多く,職業病ともよべるものであったC その原因として1"製ノfン業就業 者のかなりの部分が,肺病の主要伝染源を構成しているのは,肺病にかかっ た製パン業労働者の数の法外さからのみ生じるのではな""。作業場が結核菌 を繁殖させるのに好都合な状態になっているからて"ある了)と指摘されている。
精神的荒廃については,次のように叙述されている。「労働者は毎日, 日 曜日も平日も一年中非人間的で、長い労働時間就業している。その労働様式の 帰結として,どんな精神的交流も生じない。全ての教養手段に欠けているの だ。もし数時間ひまになったら,ひどい過重労働から回復するのに睡眠を貧 るか,賭けごとや洞などの刺激的・退廃的な楽しみに耽ける。これらの泥沼 から彼らは除々にしかはいだせないゴ)その結果製パン業労働者は精神的 弧立と組織の欠知の帰結として企業家の気げんや搾取に身を委ねている」)の である。
ではなぜそのような荒廃に身を委ねているのか。次の二点が指摘されてい る。 1.「反乱したり,反抗的な労働者をどんなときでも街頭にいる労働者 と代替できるほどの過剰な労働力の供給」,)2.貧しい生活に馴れた従順な 農村出身者が多いこと23)
(司それらの原因
では何故そのような製パン業の劣悪な状況がうまれたのか。それは「おそ らく精肉業を除けば製パン業企業家ほど成上りの,最低限の教養すらもちあ わせていない倣慢な職業人はないずと指摘されるようなマイスターの態度に 規定されているが,それ自身根本的には次のような「企業家層一般としての 利害と特殊製ノfン業的階級利害?)に基づいていたとされる。「大規模な分 業を行ない機械を装備した経営は,製パン業経営で年毎に発達している。大 部分の小規模な競争者は,存在の危機に陥る。そこでは労働・居住空間の改 良のために支出される一ペニヒさへ負担と感じられる,また,いかなる労働 時間の制限も企業家利潤の不当な市IJ限とみなされるゴ)またミュラ‑Muller
も営業の過剰から自らの存続を守るために生産費を低下させ.tY下げ・労働 時間の延長・無責任な徒弟の養成が行なわれたと指摘している27すなわち労 働条件や住込み・賄の劣悪化は,マイスターが工業化の彩容を職人や徒弟に
56 経 営 と 経 済
転嫁した結果だと看倣されている。べーベルは「人間的な労働条件」を獲得 するための展望として,職人が「企業家を攻めたてる状況と能力を獲得する のは残念ながら実現しましご)と悲観的であり,立法上の保護に期待をつな いだのである。
3. 職人運動のはじまり
ベーベルの叙述からもわかるように,職人運動の発生は他と較べかなり遅 かった。職人組織としてはすでに,中世以来からの兄弟団 Bruderschaften, 連盟 Vereineが存在していた。彼らは「職人期間を養成期間におけるマイ
スターへの短い過渡期
1 9 )
としてしか看倣してなかったので,確たる目的も持 たない親睦団体となっており,会員の誕生日や祭りにかこつけて大騒ぎをす るだけであった。 70年代に入り他職種で労働組合が結成されている状況でも,旧態依然であった。だが, 1870, 72, 74年とベルリン,フランクフルト,ハ ムブルクで相次ぎストライキが自然発生的に起った。しかし, 1874年ハムブ ルクのストの要求をみると[""マイスターによる,ナイフ・フォーク・スプ ーンの提供?)という類のかなり低次元のもので、あった。むしろ「現存の悲惨 な関係への大衆の突然芽生えた強い不満とマイスターによる労働者の希望の 厳しい拒否が突然勃発したストの原因だ」と述べられているように,いわば,
何の組織行動もない一種の暴動に近いものであった。
1880年代になってはじめて新たな形態での職人の組織化が進行した。ベル リン, ドレスデン,ハムブルクで専門連盟 Fachvereineが 設 立 さ れ た の で ある。それはマイスターに対して敵対的でなかったものの,職人の利害の保 護を中心課題とした点でー今迄の職人組織とは大きく異なっていた。)前述の ような労働条件の悪化のなかで,このよつな目的を掲げる専門連盟は各地に 普及し,さらに全国的統一の気運が生まれてきた。 83年にはベルリンにはじ めて各地から職人が結集し,翌84年ドレスデンで各地からの代表60名が疾病 金庫の統ーを決定した。そして1885年ベルリンの専門連盟の提唱によって,
ドイツ製ノfン職人会議 Kongresder Backergesellen Deutschlandsが 開 催 された。この会議の中心テーマは, ドイツ製パン職人連盟 Verbandder deutschen Backergesellen結成をめぐってであった。その結成は「労働時