は じ め に
本論文の目的は,先の論文2)に記した「英才型の集中システムだけでなく,
個の底上げ型の分散システムによって全体としてよ!り!良!く!なる」という可能 性を見出すにいたった考え方を示すことにある。もう少しわかりやすい表現 するならば,精緻な分析結果を伝達する研究論文と,広く伝播することを目 的とした『ためしてガッテン』のようなテレビ番組との比較からの考察とい うことになる。この考え方のみを切り出し説明するのは,自律分散型
SCM
1)本論文の1〜4は以下の発表に加筆修正をしたものである。
弘津真澄「流通させる知識(モデル)の評価」日本商業学会九州部会,2004年 3月30日(熊本学園大学 本館4階 第2会議室)。
2)弘津真澄「可変価格取引システム −自律分散型SCMシステムの拡張−」『商 学論叢』51巻1号,2006年6月,91〜114頁。
集中システムと分散システム
1)―― 底上げの効用 ――
弘 津 真 澄
目 次 はじめに
1.ある「情報の定義」という仮説
2.仮説演繹を行う前提と,ここで扱うことの身近な例 3.仮想状況における全体効用の算出
4.「英才」と「底上げ」を比較するための思考実験 5.類似する現象 −帰納的な補足として−
おわりに
−233−
( 1 )
以外の問題にも適用可能な汎用性があるからである。また本論文の特徴は,
問題・知識・データという言葉を使い分け,非常に狭義の「情報の定義」を 使用しているところにある。
そこで1〜4において,狭義の情報という仮説から,「英才型の集中シス テムだけでなく,個の底上げ型の分散システムによって全体としてよ!り!良!く! なる」ということを,思考実験をもとに演繹的に説明する。5において,こ の現象に類するものを列挙する。数は十分ではないかもしれないが,帰納的 な補足すると同時に汎用性を示す。
1.ある「情報の定義」という仮説
ここで使用する「情報の定義」は,非常に狭義のものである。この情報は,
問題と知識とデータの3つが組み合わされることによって生成される(図表 1−1参照)。いずれかひとつがなくても情報は生成されない(図表1−2 参照)。これは次世代サプライチェーン3)を考察する際に,情報流を中心とし た流通観を説明するために,補助線として使用したものである。これらの説 明は,そこで行っているため詳細は省略する。
この情報(=☆)は,価値を示し,効用を示している。ただし,この価値
(効用)は貨幣によって翻訳された価格とは異なる。このことが,可変価格 取引システムのアイデアの源流の1つともなっている。この情報の定義と,
問題・知識・データを分けて認識することは,マクドノウ4)由来のものであ る。ただし,問題とデータの間に知識を位置づけ問題・情報・知識・データ を1モジュールにまとめたのは,オリジナルである。この情報の定義の有用 3)弘津真澄「次世代SCMにおける情報活用戦略」『次世代流通サプライチェー ン −ITマーチャンダイジング革命−』中央経済社,2001年11月15日,268〜282 頁。
4) A.M.マクドノウ(松田武彦他訳)『情報の経済学と経営システム』好学社,1966
年,72〜78頁(Adrian M. McDonough, Information Economics and Management Sys- tems, McGraw-Hill, 1963, pp.70‐76)。
−234−
( 2 )
性や他の定義との比較については,過去にまとめたもの5)を参照されたい。
ここでは仮説としている「情報の定義」であるが,この情報については机 上で実験し知覚することが可能である6)。また,再現性がある。であるので,
仮説とはいうものの底堅いものであると信じている。
2.仮説演繹を行う前提と,ここで扱うことの身近な例
ここでは,図表1−2に示される②と④の差,そして④の場合でも同一目 的に複数の代替知識がある状況のみを取り扱う。①のようにデータが欠落す る場合や,③のように問題が欠落する場合は想定しない。これは話を単純化
5)弘津真澄「情報とは」『基礎的情報学』共立出版,2000年4月25日,1〜13頁。
6)同書,1頁。
図表1−1 問題・知識・データと狭義の情報
図表1−2 情報が生成される場合と,されない場合
集中システムと分散システム(弘津) −235−
( 3 )
させるためである。これによって,情報を生成させようとしている知識の受 容能力や活用能力のみが情報生成に影響を与えることになる。
知識の受容能力や活用能力の差によって②と④の差が現れる現象は,よく 見かけられる。というのも,知識やデータの活用は,問題を前提としている。
また,データについては社内のネットワークやインターネットを通じて,こ れまでアクセス不可能であったものが可能になっている現状があるからであ る。
このような状況にぴったりな,身近な事例を次に示めそう。
図表2−1 ブローカ・桂変法とBMI
難易度 精 度
!
1 ブローカ・桂変法
標準体重=[身長(cm)−100]×0.9(kg) 低 低
!
2 BMI(body mass index)
標準体重=身長(m)2×22 高 高
自分が太っているかどうかということを簡単に知る方法に,
!
1ブローカ・桂変法と
!
2BMI(body mass index)という方法がある(図表2−1参照)。 これらの計算を誰もが一度はしたことがあることだろう。この意味で,誰も が問題は持ち合わせていることになる。また,ここで使用するデータは自分 自身の体重と身長である(体重は計算で使用しないが,標準体重との比較で 使用することになる)。ということでデータもそろっている。そこに代替可 能な知識が2つあるという状況である。これら2つの計算方法には,次のような特徴がある。まず,計算式を見て わかるとおり,BMIのほうが身長を二乗しなければいけないため,暗算や 筆算で行おうとすると少し面倒である。電子計算機がない場合は,敬遠した くなる方法である。BMIと比較してブローカ・桂変法は計算が容易である。
このように使用に際しての難易度に差がある。次に,精度の差である。ブロー
−236−
( 4 )
カ・桂変法は,BMIと異なり,身長が高すぎたり低すぎたりする人に対し ては誤差が大きくなるという問題点がある。
このように使用に際して,難易度と精度に差があるため,対象者の状況や 能力に応じて使用される知識が異なることになる。自分自身がこの知識を選 択し使用する場合は,自分の状況に応じて使用することになる。このときほ とんど無意識に選択することだろう。しかし,他人にこのような知識を伝達 し使用させる場合は別である。伝達しようとする相手の状況を観察,予測,
あるいは推察して知識を選択するはずである。
この事例では伝達する知識が単純なものであるので相手の理解能力や受容 能力は考慮する必要はない。後は,活用能力として相手が電子計算機を持っ ているかどうかである。例えば,インターネットを介してホームページを見 ている人に対して標準体重との比較をさせる場合であれば,電子計算機であ るパソコンを目の前に座っているので,迷うことなく
BMI
が選択されるこ とになる。また,何らかの講演をしている最中に,聴衆に短時間で自己診断 をしてもらう,という状況を想定した場合はどうだろうか。この状況では,たぶんブローカ・桂変法が選ばれることになるだろう。
この選択の手順は次の2段階で行われる。まず,伝達する対象者や対象範 囲の決定である。次に,さまざまな意味での容易さと精度を考慮し,代替知 識の中から伝達する知識を選択する。
そして先の例が示すように,伝達される知識は,必ずしも精度の高いもの が選択されるわけではない。また電子計算機(電卓でも可)やプリントされ た数表やグラフのように活用能力を底上げするものがあれば,精度の高い知 識をより多くの人が利用できるようになる。そして底上げの範囲が広ければ 最終的なアウトプットである効用(=情報・価値)の合計もその広さに応じ て上がるという現象も起こる。このことを使用して,「英才型の集中システ ムだけでなく,個の底上げ型の分散システムによって全体としてよ
!
り
!
良
!
く
!
な 集中システムと分散システム(弘津) −237−
( 5 )
る」という可能性を説明しようというのである。
3.仮想状況における全体効用の算出
ここでは,知識から得られる効用(=情報・価値)に仮の数値を当てはめ 考察する。
少し脇にそれるが,「知識から得られる」というのはここでの前提条件に そった表現になっているだけである。というのも本来であれば,知識だけで は情報は生成されず効用(=情報・価値)もない。しかし問題とデータは既 にあることを前提にしているため,残りの知識が与えられることで効用
(=情報・価値)が得られるのである。
ここで,代替知識として
K1,K2,K3
の3つがあるとする。そしてその 各々の代替知識を1回活用することで得られる効用を単位効用とする。その 単位効用をそれぞれ,0.5,0.6,0.7とする(図表3−1を参照)。これらの 数値は,1以下の小数で表現する必要性はない。図表3−1 代替知識と,その単位効用 代替知識 単位効用
K1 0.5
K2 0.6
K3 0.7
ただし,同じテータをもとに何種類かの回帰分析(線形,対数線形,ロジ スティックなど)を行った場合,そのとき算出される決定係数はこの単位効 用として使用可能であると考える7)。回帰分析によって作成され数式の精度 を示す指標が,決定係数である。この精度に比例して単位効用が得られると
7)弘津真澄・金川一夫・羽藤憲一「企業活動と成果の関連付けのための重回帰分 析の利用 −情報利用者に応じたモデルの選択について−」『第4回日本管理会計 学会全国大会研究報告要旨集』,1994年9月30日(中央大学駿河台記念館 第2 会場302号室),18〜19頁。
−238−
( 6 )
考えられる。以上のことから,ここでは決定係数に類似した数値を単位効用 の仮の数値として採用した。
ここで伝達する対象者(伝達範囲)は,図表3−2に示される潜在的な伝 達対象者から選択され決定されるものとする。この潜在的な伝達対象者は7 人である。この7人は,知識の受容能力あるいは活用能力によって3つに分 けられるものとする。左の3人は
K1
のみ。中央の3人はK1
とK2。右の1
人はK1,K2,K3
のすべてを受容・活用可能である。先にも記した前提であるが,伝達する対象として選択された人々は,問題 もデータも既に持っているものとする。実際に伝達対象範囲を決定する際に は,この問題の所有状況が一番のキーとなるはずである。そこで,問題とデー タを既に持っていることとすれば,知識の伝達のみが条件となる。もし知識 とデータを持っていなければ,双方を伝達することになる。しかし,ここで は話を簡単にするため,ここまで考慮しない。
伝達範囲として,ここでは3つのパターンで考察する(図表3−3から図 図表3−2 潜在的な伝達対象者
集中システムと分散システム(弘津) −239−
( 7 )
表3−5を参照)。1つめが全員,2つめが右の4人,3つめが右の1人の み,というものである。この伝達範囲の3つのパターに対して
K1,K2,K3
を伝達した場合に,全体効用がいくらになるかを計算しているのが,図表図表3−3 伝達範囲を全員にした場合
−240−
( 8 )
3−3から図表3−5である。ここで全体効用とは,知識を使用して得られ た単位効用に,その単位効用が生成された回数を掛け合わせたものである。
この回数についても話を単純に(図として示しやすく)するため,回数を人 図表3−4 伝達範囲を右から5人とした場合
集中システムと分散システム(弘津) −241−
( 9 )
数に置きえて,単位効用×人数で,ここでは進めていく。
図表3−5 伝達範囲を右の1人とした場合
−242−
( 10 )
図表3−6 伝達知識・伝達範囲の全体効用 伝達範囲
伝達知識
K1 3.5 2.0 0.5
K2 2.4 2.4 0.6
K3 0.7 0.7 0.7
まず,図表3−3は伝達範囲を全員に決定した場合である。K1を伝達す ると,全員が活用可能である(図中では星印がついている)。そこで全体効 用は,単位効用の0.5と星印の付いた人数の7とを掛け,3.5ということにな る。同様にして,K2を伝達すると2.4,K3を伝達すると0.7となる。次に,
伝達範囲を右の4人に決定した場合が図表3−4で,伝達範囲を右の1人に 決定した場合が図表3−5である。
以上のように,3パターンの伝達範囲に対して3つの代替知識を伝達した 場合の全体効用(図表3−3〜図表3−5)をまとめたものが図表3−6で ある。図表3−6中の網掛けをしていない部分が,各パターン内で全体効用 が最大なったところである。ある分野の専門家に伝達する場合には精緻化が 志向され,より広く伝達する場合には伝達のしやすさが志向されることがわ かる。最初に示した,研究論文とテレビ番組のように,である。
4.「英才」と「底上げ」を比較するための思考実験
ここでは無重力状態とも呼べる単位効用の状況を想定し,そこに「英才 型」と「底上げ型」の変化を与えると,全体効用にどのような変化が起こる かという思考実験を行う。
まず,ここで想定した無重力状態とも呼べる状況である。先の全体効用の 集中システムと分散システム(弘津) −243−
( 11 )
算出では,単位効用と人数を掛けることで,結果として全体効用が算出され た。ここでは逆に,全体効用が0.5となる,各人数(範囲)の単位効用を逆 算した。これをグラフに示したものが図表4−1である。この場合,範囲と しての人数が決まれば,その人数に応じた代替知識があることを前提として いる。そうすると逆算をしたので当たり前であるが,どの人数(範囲)を選 択しても,全体効用は0.5となる。
このように作成された図表4−1の左のグラフに「英才型」と「底上げ 型」の変化を与えると,図表4−1の右のグラフはどのように変化するかと いうことを比較する。
まず,「英才型」である。これは単位効用の高い知識を利用できる人数を 増やすということになる。図表4−1の右のグラフでいうならば,このグラ フを右に移動することになる。この右に移動したグラフと,その結果として 全体効用がどのように変化したかを点線で記したグラフが,図表4−2であ る。
次ぎに,「底上げ型」である。これはすべての人数の場合において利用可 図表4−1 全体効用0.5の場合の単位効
−244−
( 12 )
能な知識の単位効用を高めるということになる。図表4−1の右のグラフで いうならば,このグラフを上に移動することになる。この上に移動したグラ フと,その結果として全体効用がどのように変化したかを点線で記したグラ フが,図表4−3である。
図表4−2 「英才型」の移動と変化
図表4−3 「底上げ型」の移動と変化
集中システムと分散システム(弘津) −245−
( 13 )
このように作成された図表4−2と図表4−3をあわせて,「英才型」と
「底上げ型」の比較をしやすくしたものが図表4−4である。
図表4−4を見てわかるように,「英才型」と「底上げ型」の双方に全体 効用を上昇させる可能性がある。このように「英才型の集中システムだけで なく,個の底上げ型の分散システムによって全体としてよ
!
り
!
良
!
く
!
なる」とい う可能性が十分あったのである。これと似たことを,坂村氏は次のように表 現している。「要素技術型とインフラ型に優劣があるわけではない8)」。この 記事によると,「英才型」に相当する要素技術型とは半導体や液晶といった 個別の分野での技術革新のことで,「底上げ型」に相当するインフラ型は銀 行や鉄道など社会や産業のあり方そのものを変えてしまうものでインター ネットも含まれる。
ただし,長い時間の中で風雨にさらされることを前提に考えると「底上げ 型」のほうが有利になるはずである。というのも「英才型」で育成された少
8)坂村健「ユビキタス時代が到来」『日本経済新聞』2006年06月26日,A03頁(第 二部)。
図表4−4 「英才型」と「底上げ型」の比較
−246−
( 14 )
数あるいは集中システムの中心が何らかの原因で消滅するか異常になった場 合に,影響が大きい。その点「底上げ型」の分散システムであれば,どこか 一部が消滅したとしても,全体への影響はほとんどない。
ということは,長期的には「底上げ型」を志向することになるが,短期的 には「英才型」と「底上げ型」のどちらが容易かということで政策が決定さ れることなる。先に記した坂村氏は次のように続けている。「今後は意識し てインフラ型のイノベーションを起こせるように教育などの整備を進めるべ きだ9)」。これからすると「底上げ型」の政策のほうが,今後,容易あるいは 開発余地が大きいと考えていると思われる。これはユビキタスコンピュー ティングや
RFID(Radio Frequency Identification)や IC
タグに通ずる。ここで先の論文についてである。先の論文では,自律分散型
SCM
システ ムの拡張として可変価格取引システムを取り入れた。可変価格としてよく登 場するものはオークションタイプのものである。これには多くの人(先の論 文ではエージェントという表現になる)が集まるオークション市場という集 中型のシステムを必要とする。これまでの言葉で表現すると「英才型」とい うことになる。先の論文で提案した可変価格取引システムは,各人(エー ジェント)が勝手に売価を決定する。ただし,その売価が固定ではなく条件 によって変動するものにしてある。各人(エージェント)が行う価格決定の アウトプットを固定的なものとせず可変的なものに変えるという「底上げ 型」の変更をしてみたのである。5.類似する現象 −帰納的な補足として−
ここまで,仮説演繹で思考実験を行ってきた。どれもが仮想上のことであ る。現実にこのような「英才型」と「底上げ型」の双方が出てくることがあ るのか。また,これらを選択することがあるのか。…ということを記し帰納
9)同新聞。
集中システムと分散システム(弘津) −247−
( 15 )
的な補足にする。それと同時に,この考えの汎用性を示す。簡単に言うと,
研究書と『ためしてガッテン』のようなテレビ番組との対比に相当するもの を,書き並べるということだ。ここでは,『ザ・ゴール』,『利己的な遺伝子』,
『変革の世紀』,『文明論の概略』の4つの記述と,日本商業学会における2 つの話を取り上げる。
まず,サプライチェーンの元祖ともいえるエリヤフ・ゴールドラットの
『ザ・ゴール』にある記述である。
『ザ・ゴール』出版後,博士(エリヤフ・ゴールドラット)はあることに 気づき頭を悩ませ始めた。多くの読者から,工場で本の通り実行したら,す ばらしい成果が出たという手紙が寄せられたからである。OPT(画期的な生 産スケジューリング法とそのスケジューリングソフトの名称)によるスケ ジューリング法を単純化して人の手で行うストーリーになっているが,これ はあくまでも博士が
OPT
の原理を一般の人に分かりやすく解説するための ものだった。博士は,現実の工場ではスケジューリングが複雑すぎるため,OPT
のようなソフトを使わなければならないと考えていたのである。とこ ろが何千万円もするソフトを買わなくても,その原理を人の手で実行すれば 同じ効果が出ることが明らかになってくると,OPTをこれ以上売り続ける ことに疑問を持ち始めたのだった10)。筆者自身は,この現象の原因について,次のように記している。理解でき るまでにしばらく時間がかかったが,結局,簡単な結論に達した。ソフトウェ アを導入することに努力が集中してしまい,もたらされる変化にどう対応す べきかまで神経が十分に回らなかったのである。根本的なコンセプト,評価 基準,作業手順などの変化に対応できなかったのだ11)。
10)エリヤフ・ゴールドラット著・三本木亮訳・稲垣公夫解説『ザ・ゴール』ダイ ヤモンド社,2001年5月17日,546頁(一部補足)。
11)同書,525頁。
−248−
( 16 )
本論文の表現でいうならば,精度は高いが複雑な知識に相当するものが,
OPT
というソフト。そして,精度は低いが単純な知識に相当するものが,『ザ・ゴール』という本である。このソフトを導入した企業は「英才型」を 行い,この本を読み工場でその通り実行し成果を出した企業は「底上げ型」
を行った,ということになる。この場合,「底上げ型」のほうがよい成果を 収めた,というのだ。
次に『利己的な遺伝子〈増補新装版〉12)』にある記述である。
『利己的な遺伝子』は,一般向けに書かれたものであるにもかかわらず,
生物学に独自の貢献を果たしたという意味で異例の本である。さらに,その 貢献自体も異例なものである。デイヴィッド・ラックの古典『ロビンの生 活』(これもまた一般向けに書かれた本でありながら独自の貢献を果たし た)とちがって,『利己的な遺伝子』は新しい事実を何一つ報告していない。
何らかの新しい数学的モデルを含んでいるわけでもない ―― そもそも数学が まったく含まれていない。それが提供しているのは,一つの新しい世界観な のである13)。
ここでは,生物学に独自の貢献を果たした通常の書物は,精度は高いが複 雑な知識,「英才型」に相当する。しかし『利己的な遺伝子』はそうではな かった。それにもかかわらず,個体中心から遺伝子中心の新しい世界観へ多 くの人々を導いた。いわゆるパラダイムシフトをさせたのである。これは,
ここでの「底上げ型」に相当する。
そして,『変革の世紀』の「情報革命が組織を変える ―― 崩れゆくピラミッ ド組織 ――14)」にある記述である。
12)リチャード・ドーキンス著・日高敏隆他訳『利己的な遺伝子〈増補新装版〉』紀 伊国屋書店,2006年5月5日。
13)ジョン・メイナード・スミス「遺伝子とミーム」,リチャード・ドーキンス著・
日高敏隆他訳,前掲書,522頁(『ロンドン・レビュー・オブ・ブックス』1982年2 月号『延長された表現型』の書評からの抜粋)。
集中システムと分散システム(弘津) −249−
( 17 )
ここでは,アメリカ軍,フォード社,オルフェウス室内管弦楽団,バック マン・ラボラトリーズ社の例が登場する。「英才型」である集中システムの 象徴としてのアメリカ軍とフォード社,「底上げ型」である分散システムの 象徴としてオルフェウス室内管弦楽団とバックマン・ラボラトリーズ社,が 対比されている。オルフェウス室内管弦楽団は文鎮型組織をさらに進めた指 揮者なしのオーケストラであり,バックマン・ラボラトリーズ社はインター ネットのネットニュース(NNTP)をフォーラムとして多用する会社である。
対比されるアメリカ軍とフォード社は,「英才型」の典型であるピラミッド 組織を変革し「底上げ型」の変革を模索する。
アメリカ軍では,軍事用情報ネットワークの「戦術インターネット」で各 兵士を情報の面で底上げし,一兵卒までリーダーとしての力を求める。その 一方で,上官から部下への「命令の鎖」と呼ばれる上意下達のシステムを改 め,トップに集中していた権限が組織全体に散らばる。組織図も,これまで 整然としていた樹形図ではなく,いろんな線が入り乱れたものになる。これ とよく似たものが,親企業を中心とした系列取引にも見られる。最近では図 表5−1に示されるように,取引構造のメッシュ化が進でいる15)。
フォード社では,これまでのピラミッド型の組織をひっくり返し,社長の 命令を下へ下へと伝えるだけの中間管理職の仕事をなくそうとする。そして,
これまで上司の言葉しか届かなかった製造現場に,インターネット経由で消 費者の要望が続々と寄せられる。情報ネットワークによる「底上げ」である。
この製造現場で行われる光景は,まさにトヨタのカイゼンである。
ここから書籍にある記述に替わって,日本商業学会における2つの話であ る。これらは,どちらも聞いた話を書き記しているため,正確ではないかも
14)水越伸・NHKスペシャル変革の世紀プロジェクト『変革の世紀』日本放送出版 協会,2002年11月30日,104‐186頁。
15)ものづくり研究会「ゼミナール モノ作り中小企業論⑦」『日本経済新聞』2006 年9月12日,32頁。
−250−
( 18 )
しれない。しかし,主旨は合っているはずである。
1つめの話である。これはある先生の講演16)における ウォルマート・チ ア に関する部分である。 ウォルマート・チア とは17),ウォルマートの 社員総会・株主総会の最後に行われる「ウォルマート!」という社名の大合 唱である。そして最後に「誰がナンバーワンだ!」と問われると,「ウォル マート!」と答えず,「カスタマー!」と大合唱(ここで講演の聴衆は感心 する)。これを側で見ていた
MBA
の学生が,この様子に対して否定的な発 言をして受け入れられないという態度をとった(ここで講演の聴衆は笑う)16)日本商業学会第52回全国大会『日本社会の変革と流通・マーケティング』(2002 年,早稲田大学)。
17) http://www.izumiya-ri.co.jp/soken/backnum/back-00.html(米倉誠一郎「21世紀の経 営革命の構造」(季刊『イズミヤ総研』第47号より抜粋)) ウォルマート・チア の様子のみの参照で,MBAの学生の話とこの資料は何の関係もない。
図表5−1 取引構造の変化
(出所)ものづくり研究会「ゼミナール モノ作り中小企業論⑦」『日本経済新聞』2006年 9月12日,32頁(小田宏信『現代日本の機械工業集積』古今書院,2005年3月25 日を参考に作図されたもの)。
集中システムと分散システム(弘津) −251−
( 19 )
というのである。これは,「英才型」の
MBA
学生と「底上げ型」のウォル マート社員との間にある,文化的な隔たりを示している。これに似たことが,先日ダイエー社長を辞任した樋口氏の言葉からもうか がえる。樋口氏はもともと製造業の経験が長かった人である。「小売業は,
製造業のように1つのボタンをグッと押せばヒット商品が生まれて大成功す るというものでなく,たくさんあるボタンをみんなが正しく押さなければ機 能しないビジネスだと思います18)」とインタビューの中で答えている。小売 業は「英才型」では成果を上げにくい業種なのかもしれない。
2つめの話である。これは2人の先生の質疑と応答19)である。一方では,
消費者が賢くなってきているので製造業者は大変だといい,もう一方は,そ れでも消費者は製造業者よりも劣るというのである。その場では結論に至ら なかったように記憶している。
一見,食い違っている意見のように思える現象であるが,「英才型」の製 造業者と「底上げ型」の消費者の一面のみを取り上げているにすぎない。こ こでの考え方によると,何の矛盾もなく,双方とも正しい。先に記した坂村 氏の「優劣はない」という意見と同様である。ただし最近では,Web2.020)の
「集合知の利用」に代表されるように,この「底上げ型」の勢いが増してい る。中には「インターネットにおいては,コンシューマーが持つ影響力の量 的な大きさというのが決定的な要因になりつつある21)」,「ときには買手が作 り手のライバルにもなる時代22)」という記述が見られるようになってきた。
18)『日経ビジネス』2006年9月4日号,7頁。(辞任するダイエー樋口社長が語る
「小売りの壁」)。
19)日本商業学会の関西九州合同部会(2001年1月13,14日関西・九州連合部会広 島ガーデンパレス)。
20) http://japan.cnet.com/column/web20/story/0,2000055933,20090039,00.htm(Tim O’Reilly
「Web2.0」)。
21) http://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/0609/04/news002_3.html(「Web2.0とSOA の遠いようで近い関係(3/4) 技術はコンシューマーからやってくる」)。
22)『日本経済新聞』2006年6月23日,1頁。
−252−
( 20 )
最後に,『文明論の概略』にある記述である。そこには「文明は,一人の みについて論ずべからず,全国の有様に就いて見るべきものなり23)(非常に 秀れた有智有徳の人が住んでいるからといって,その国は文明の国かという と,そうはいかない。ある少数の人は智徳が卓越しているかもしれないけれ ど,全体を集めてみればあまり智徳の水準は高くないということもある。あ くまでも全体において見なければならない24))」とある。これもここで扱っ た現象を著している。
お わ り に
まず,仮説演繹の根っことなる「情報の定義」とその底堅さについての確 認を行った。次に,仮説演繹を行う前提として知識の移転のみを考えるとい うことと,さらに身近な例として標準体重を計算する2つの方法を比較し,
ここで扱う問題を簡単に示した。そして,仮想状況において全体効用を算出 すると同時に,これをもとに「英才型」と「底上げ型」を比較するための思 考実験を行った。これによって,「英才型の集中システムだけでなく,個の 底上げ型の分散システムによって全体としてよ
!
り
!
良
!
く
!
なる」という可能性を 見出すにいたった考え方を示すことができたと考える。最後にこの仮説演繹 による思考実験を帰納的に補足する,と同時に汎用性を示した。そのために
『ザ・ゴール』,『利己的な遺伝子』,『変革の世紀』,そして『文明論の概略』
の4つの記述と,日本商業学会における2つの話とを,類似する現象として 記した。
ただし,ここで取り上げた問題に付随する,分権と集権は対立概念ではな く同時に満たすことが可能であること。そして,その方法としての「クラス
23)福沢諭吉『文明論の概略』岩波書店(岩波文庫),1995年3月16日,75頁。
24)丸山真男『「文明論の概略」を読む 中』岩波書店(岩波新書),1986年3月27 日,9頁。
集中システムと分散システム(弘津) −253−
( 21 )
分け」「隠蔽と信頼」については記していない。また,歴史の中で分権と集 権は振り子のように行き来していることも説明していない。また,技術革新 やモジュール化との関係も記していない。これらについては,今後の課題で ある。
(2006年9月20日提出)
参 考 文 献
A.M.マクドノウ(松田武彦他訳)『情報の経済学と経営システム』好学社,1966年
(Adrian M. McDonough, Information Economics and Management Systems, McGraw- Hill, 1963)。
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