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開拓地農業経営の展開過程 −鈴原地区調査報告−

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

開拓地農業経営の展開過程 −鈴原地区調査報告−

著者 宮下 福太郎

雑誌名 奈良学芸大学紀要

6

2

ページ 129‑146

発行年 1957‑01‑31

その他のタイトル The process of development of the farm

management on the reclaimed lands. −Report on the research of Suzuhara district−

URL http://hdl.handle.net/10105/4946

(2)

開拓地農業経営の展開過程

一鈴原地区調香報告一 宮 下 福 太 郎(農業経済学教室)

(昭和31年10月31日受理)

Fukutaro MIYASI王ITA:The process of development of the farm management

on the reclaimedlands.

−Report on the research of Suzuhara district−

ま  え が  き

人類全体から見れば,わずか110余人の小さい人間集団が未墾地に入植して営農に励みつつあ るということは,まさに比喩のとおり大海における早粟粒にすぎないことかも知れない。しかし 終戦後わが国土の末開拓地にばら播かれたこの畢粟粒にも誓うべき各集団の生成発展史は,農地 改革という印象的な大事業と共に現代人に記憶されてよい。最初の農耕社会が嘗って農耕の法を 発見した人々の定住によって形成されたように,そしてその後の村が未墾の土地に鍬を入れるこ とによって,或は湖海を干拓して誕生したように,いままた戦後の開拓農村が新しい村の歴史を

● ●

創造しつつある。大ゲサにいえば,<歴史は真空地点で作られる>のである。ここに報告しよう とする鈴原地区もまたそうしたコロニーの一つである。それは極めてささやかな生活史の一断章 にすぎないが,敗戦という歴史的事実が生んだ,否生まざるを得なかった産物であり,それだけ に絶対的生活を耐えてきた人々の生活記録である。とはいえ主題に忠実であるためには到底紙数 が許さない。また本稿で取扱うべきもののうち若干は既に拙稿「奈良県における開拓農家の経営 経済的調査研究一鎗原地区調査報告−」(「奈良学芸大学紀要」第5巻第2号(昭30)所収,以下の記述 で「前報」という。)に収められている。しかしそこでは開拓農家の経営経済を究明することに主眼 がおかれ,開拓の長期性という特徴即ち開拓の時間的要素或は開拓過程の問題は故意に無視され てきた。それは農地開拓において長期性の問題が重要性を持たないという理由からではなくて,

全く紙数の制約によるものである。ここで前報での約束を果したい。従って本稿は前報の続篇と もいうべきものであり,併読していただければ幸いである。

私見によれば開拓地農業経営の形成展開過程は,地区全体の趨勢の把握と類型的開拓農家経営 の個別的調査分析との二つの方法によってたしかめられる。しかし最初の入植者がこの地区に鍬 を入れた昭和22年から数えて今年は足掛け10年になる。この間の記録を克明に残している農家を 見出すことは不可能であり,また農家が丹念に記憶を辿るとしても充分に正確を期することは難 かしい。それにもかかわらず調査農家各位は極めて好意的で,トマトの出荷に追われながらも古

● ●

いメモを探り出し,慎重に過去の記憶を呼び戻しつつ調査に協力して下さった。また奈良県経済 部管理課から快よく資料の御提示を得た。慎んで謝意を表する。

(3)

(130) 宮 下 福 太 郎

I 開拓計画の展開

1開拓建設事業計画の進展

鈴原地区の開拓事業は「緊急開拓農地開発事業委託要楓」に基づいて奈良県が事業実施計画を 樹立し,昭和23年度に新規地区として農林大臣の承認を得たので,国営代行県営建設工事として 県が国の委託をうけ,全額国費をもって開拓に必要な基本施設の工事を施行した。

即ち建設工事は昭和23年から5ケ年計画をもって着手され,第1表にみるような経過を辿って 漸く昭和29年度に完了したが,その間諸資材及び労賃の価格変動などのために年々事業量及び費

(1)

用が変更せられた。(その詳細については奈良県経済部管理課「昭和25〜29各年度 鎗原地区代 行開墾建設工事変更設計書」をみられたい。)

第1表 建設工事並びに附帯工事経過表

(備考)本表は奈良県管理課「鈴鹿地区開拓実績調査台帳」より取纏めたものである。

戦後の,殊にインフレーシ∵ヨン㍉Fにおける国家財政の視点から吟味すれば,開拓事業において そう多くを国家資金に期待することの困難さが領けるのであるが,事実建設工事の遅延は国家財 政や資材調達の面で制約されるところが大きかった。矛盾を恐れずにいえば,開拓事業の基礎と なる建設事業ならびに農地造成の過程は,所要の条件(即ち土地,労伐力,資本)さえ整えば時 間的要素を捨象し得るし,かつそうあることが時間的要素を捨象し得ない開拓農業経営の形成発 展を促進することになるが,この地区の場合にも建設工事においては国家資金が最大の除路とし て作用したことは否めない事実である。

(21

さて開墾建設事業の内容及び実績は上掲第1表のとおりで,地区外幹線道路は地区の東南部に 隣接する都祁村字並松で県道初瀬〜名張線に達し(昭和23年度),西北へは天理市福住町へ延びて 県道天理市丹波市〜伊賀上野線と連絡している(昭和26年及び27年度)。地区内道路は昭和29年 度に至って漸く完成した。

なおこの建設工事は一切入植者の労力で充当せられ,入植者はその報潮を生活資金なり開拓資 金に充てたのである。

2 開墾計画の進展

この地区及び調査農家における開墾進度(即ち年次別開墾面積)を表示すると第2表のごとく である。なお本稿で調査農家A・B・U……etc.の記号は,前報で調査の対象として選んだ農家

と同一農家である。

(4)

第2表 年度別開墾実績表(昭和30年末現在)

(備考)1・木表の地区計は奈良県管理課「昭和30年度開拓地営農実績調査表」による。また個別貴家の 実鰐は聴取調査によった。

2.農家Bが購入した水田は当然開墾実績から除外してある。

3.なは地区の現在耕地面積は,田45反,畑213反,計258反で,開墾実績240反との差18反は地 区外の耕地を買取乃至は賃借しているものである。

4.調査当時は機械開墾未了の為.その実績は本表に含めていない。

(3)

開墾の方法は昨年までほ専ら人力開墾であったため能率はいずれの農家も高くないが,しかし 堅実に行われ,昨年実施された農地法第71条の規定による売渡した土地等の検査(いわゆる成功 検査)には地区で3戸の農家がマークされただけでその他の農家は問題がなかった。

なお本年に入ってブル十一ザ一による機械開墾の方式が採用され,既墾地約2町歩を含めた約 10町歩が開墾され,水田9町8反,畑2反が造成された。これで地区の開墾は完了し,後は新築 地の補修作業が残っているだけである。

ここで開墾の進捗を阻害した要因を考えると,その最も大きな原因は入植者の大半が海外引揚 者であり,その他の者も戦災,復員,離村等の理由で入植したから,入植後3,4年は生活資金

にも窮し,止むを得ず出稼労仇に従事したためである。次にいえることは土地配分が遅れたため に入植者が自分の土地を確定できなかったことである。更に入植地には,一部の旧土地所有者が

(4)

立木を伐採搬出した外はなお地区の大部分に立木があったことである。

尤も開墾実績を開墾された面積によって測定することが正しいか否かの問題が指摘されるであ ろう。単位面積当りの土地生産力は厳密にいえばいずれの耕地についてみても同一であり得ない から,かりに投下し得る資本が一定であるとすれば−入植当初においてはこの仮定が真実に近 い場合が多い−土地を集約的に利用するか粗放的に利用するかほ個々の立地条件に応じて決定 されなければならない。従って開墾の実績は各農家の生産的資源一一土地・労仇力・資本・企業 者能力−との関連において批判されるべきであろう。(これについては前報第2節以下を参照

されたい。)

(5)

(132) 宮 下 福 太 郎

ついでに入植当時の状況について簡単に触れておこう。入植初年度の昭和22年5月,21世帯(

内3世帯が家族移住で他は単身移住)が現山辺高校(山辺郡都祁村,地区より約1km)に仮寓し,

(5)

ここを基地として地区内で立木のない場所を選んで共同開墾を始めた。開墾に従事しない者は近 傍農家の農作業,山林労仇,土木工事等の日雇労務に従事し,出稼収入を生活資金に充てた。

(6)

この間の経済は一切共同を建前としたが同年7月中旬から個人経済に切替えられ,共同開墾にも 終止符がうたれた。その日以降は日直制で1人が留守居を勤め,他の者は自由に出稼ぎなり開墾 を始めたが,ただこの年の作付及び収穫は共同で行われた。かくして同年11月下旬に個人住宅の 建築が始まり,12月中旬18戸が現地に入植,東に翌年1月初旬3戸が入った。

3 土地配分問題

個人に対する土地配分の問題は自営農創設上一つの重要な問題である。従って配分計画の合理 性が強調されねばならないが,しかし事実問題として未墾地買収が実測面積に基づいて為された ものではなく,後目確定測量の結果若干の誤差を生ずるのほ当然であり,しかもこの地区のよう に入植者が貫収以前から開墾に着手した場合には,計画どおりの配分は不可能である。

いまこの地区の土地配分計画をみれば,耕地527反,その他140.3反,合計667.3反であり,入 植者1戸当りの営農規模は,耕地19反,その他6.5反,計25.5反となっている。これに対して入 植者に配分された土地面積は第3表にみるごとく,耕地344.5反,その他264.7反,計609.2反で 計算上58.1反の余裕があることになるが,これは上述した土地面積の実測減と更に38.2反が当初

(7)

計画されて示なかった地元増反農家(都祁村4戸)及び団体(鎗原開拓農業協同組合)に売渡さ れたので実際には余裕がなくなった。

土地は昭和24年2月1日及び同年11月2日の2回に亘って売渡されたが,純粋入植農家に対し

(β〕

ては平均1戸当り22.2反,地元増反農家に対しては1戸当り4.6反となる。

土地価格は反当270円であるから,価格についてはそれ程問題がない。

第3表 土地の管理及び処分

(備考)本表は奈良県管理課「鈴原地区開拓実清濁査台帳」による。

4 入植計画の進展

まず入植並びに離脱戸数をみると第4表が示すとおりで,入植後7戸の農家が離脱したが,い

(6)

ずれも補充せられて現在戸数は当初の計画どおり27戸(全部助成入植)である。この地区の土地 配分面積を考えるとまず27戸という数字は極限倍だといえよう。人口収容対策として無暗に多く の農家を入植せしめなかった点は,経営規模からみて成功への一因となった。離脱理由は三重県 に入植している兄を持ってその開拓地に入植した者1,もともと親元が入植に反対していたため 開拓を断念した者2,養子縁組3,その他1である。

次に入植農家の構成状況を一瞥しよう。この集団の強味は清洲開拓の経験者を主体としている

(9)

ことである。更にその他の入植者も一,二の例外はあるが殆んどが農林業を営んでいた者であり,

しかも同郷(前住地別では3者に区分されているが,いずれも本県吉野郡十津川村出身)である

(10)

から分村的色彩が濃厚である。いうまでもなく開拓者としての適格条件は,不擁不屈の精神力と すぐれた経営能力の持主であること,そしてできうれば可及的多くの開拓資本を所有することが 望ましいが,しかし実際には充分な手持資金を持って入植しうる農家は極めて少いし,これが開 拓の進展を阻む大きな原因の一つとなっていることは衆知のことである。この地区では満洲開拓 の体験から比較的このハンディキャップを克服して成績をあげてきた。

要するに入植計画に関する限り入植戸数ほほほ適正であり,入植者の素質もすぐれていると断 言できる。

第4表 入植並びに離脱戸数

1入 植 戸 数i 離 脱 戸 数i 年度 末戸 数 昭 22 年 度[    21

晴 23 年 度 昭 24 年 度 昭 25 年 度

(備考)1.本表は聴取調査による。   2・調査対象は現在入植中の貴家である。

5 開拓資金問題

最後に開拓資金について簡単に叙述したい。開拓資本は国家資本と自己資本とに大別しうるが 先ず地区全体の状況を国家資本の側面に於いて捉え,次に個別調査に於いて自己資本の側面を分 析する。

(7)

(134) 宮 下 福 太 郎

国家資金は,(1)開墾建設事業に対する事業費 佗)開墾に対する補助金 8)住宅建設,家畜導入,

その他営農推進の為の補助金,融資金等に分かれるが,このうち(1)については前掲第1表に記 載されているので説明の要はない。佗)及びβ)については,第6表並びに第7表を一覧原いたい。

補助金のうち住宅補助は昭和22年度入植者21戸に対して1戸当り 4,500円が,昭和23年度入植 者5戸及び昭和24年度入植者1戸に対しては1戸当り54,000円が支給された。(但し昭和22年入植 者については補助金以夕柚こ1戸当りユ0,500円の住宅融資があり,昭和23年度以降の入植者に対しては融資がな い。)土壌改良事業補助とは,開拓地酸性土壌改良事業として新聖地1町歩当り炭酸カルシウム 肥料4屯及び熔成燐肥0.5屯が現物で補助(国障私,県費も)されるものである。融資金のうち,

開拓者資金は長期営農資金(純資金及び特殊融資金),中期営農資金(特殊融資金),住宅資金並 びに共同施設資金等に分れ,このうち特殊融資とは肥料,家畜,農薬,農機具等の現物を融資す るもので,必ずしも入植者にとって必要不可欠な物資が提供されるとは限らないが,一方消費部 面に流用される弊害が防がれるのと直接経営部面に投下されるのでその効果は少くない。

上に述べた補助金及び融資金が入植者の農業経営並びに開拓生活の展開に役立ったことはいう までもない。しかしこれらの公共的投資の経済的効果についてはあらゆる見地から分析検討され ねばならず,いまただちに答えることはできない。また各々の種目についても色々と問題を含ん でいるが詳述する余裕がないので割愛する。

第6表 年次別補助金交付額一覧表(昭和30年度末現在)

(備考)1.本表は夫々次の台帳より集計したr

(1)奈良県管理課「開墾作業地区別年度別補助金交付台帳」位)及び(3洞「入植者住宅建設実績地 区別台帳」(4)同「電気導入施設補助金交付台帳」(5)同「土壌改良事業資材導入補助金台帳」

2.*1機械開墾補助,*ゴジェーン台風による災害補助(被補助4戸),*3ルース台風による災害補助

(被補助4戸),*4電気導入補助金は鈴原地区と隣接の高塚地区との合計額が46万円(国・県補 助金合計)である。従って46万円×昔を鈴原地区の補助観とした0

3.土壌改良補助金は記載した金額に相当する現物(炭カル,熔燐)が交付された。因みに昭和31 年度は217,545円(炭カル38屯,熔燐4.0屯)である。

4.平均1戸当り補助額は147,036円となる。

(8)

第7衷 年次別融資金貸付額一覧表(昭和30年度末現在貸付額)

(備考〕工.本表は夫々次の台帳より集計した。

(1)奈良県管理課「開拓者資金貸付台帳」(2滴「災害対策資金貸付台帳」(3洞「農林漁業資 金貸付台帳」性)同「営農振興資金貸付台帳」

2.長期営農資金の額は純資金と特殊融資金の合計額である。

3.平均1戸当り融資額は昭和30年度末現在で184,884円であるp

4・なお昭和31年度には機械開墾による農地造成の為180万札畜舎建設用として56万円の農林漁 業資金が貸付けられたp

次に個人における資金問題について簡単に触れたい。(1)上述の公共的投融資が個人に交付乃至 は融資された状況をみると第8表の如くである。紙数が許さぬので二例をあげるにとどめ説明は 省略する。

第8表 調査農家における補助金・融資金一覧表(昭和30年度末現在)

莞年度慨年度腰年度 i由 墾

:−.・

農!監董住  宅 塾_資_金_

長  期営農資金 庁「 ̄一朗 ̄

営農資金 農  林 逸選旦垂 営  農 匝畢澄螢 災害資金

(9)

宮 下 福 太 郎

(備考)1.本表は聴取調査による。

2.農家Eは昭和24年継承入植し,前任者の既得分を引継いだ。

3.土地改良補助,特殊融資で受けた現物は集計上貨幣価格に換算した。

4.なお入植当時の自己資金は農家Aが5千円(他に親元より33万円の援助あり),農家Eが5 万円である。

(2)次にこれらの資金が如何に経営並びに生活部面に投下されたかの過程であるが,これにつ いては専ら固定資本財に対する資金の投下に焦点を絞って表示する。(第9衰及び後掲第14表参 照)これも(1)にならって二例にとどめる。

第9表 住宅・農舎建設及び大農磯臭への資金投下状況

(10)

培土プラウ

ハ   ロ   ーー・

カールチベ ーター

各11台.5 4,000円

荷車(1)

3,600円 自転車(1)

10,000円

からすき(1)

1,800円 電動機兢7 900円

精米機 精麦機 製粉機 押麦機

人力脱穀機

(1)

2,000円

(備考)1.本表は聴取調査による。

2.農家Eは昭和24年継承入植し,前任者の財産権を引継いだ。

3.昭和25年度購入の電動機はその後買却し,昭和29年新品を購入した。

4.共有の施設,機具の価格は当然購入価額を所有者数で除した。

ここに全部を掲載し得なかったが調査農家10戸の資金投下状態から次の如く要約することがで きる。

1)当然のことであるが,自己手持資金や親元援助の多い入植者程経営発展上恵まれた位置に あることが実証される。2)資金の投下方法は入植者によって異り,そのことが後述する農業経 営分化への岐路となっている。3)補助金,融資金だけでは到底必要を充足し得ないので,手持 資金のない場合は今一歩というところで希望する対象を獲得することが不可能となる。(勿諭そう でない場合もあるが。)4)しかし各種固定資本財の調達が凡ね進みつつあるのは,これらの資金 に負うところが多い。5)最後に経営者能力の優劣が資金投下面に反映して,投資の経済的効果 に著しい差異を生ぜしめている事実を蛇足ながら附記しておく。

(註)(1)断るまでもないが建設事業に着手した当時はインフレーションの昂進期であり,同一年度内にあ っても価格の変動が顕著なので,年度毎の事業費を集計してみてもその意味は極めて小さい。こ

れを修正する唯一の方法は物価指数によって計算しなおすことであるが適当な指数を欠く。また このことは貨幣価値変動期における投資の経済的効果軸足の基本問題と関連することなので,玉 では触れない。

佗〕尤も地区外道路は新たに建設されたのではなく,従前村道として存していたものを拡張整備した のである。

(3)人力開墾か椒械開墾かの問題は一見極めて明瞭なようであるが,前者が常に後者に劣るとほ限ら ない。緊急開拓事業者手当時は機械開墾の技術的拙劣,開墾機械の非能率,開墾業者の不誠実,

機械油の欠乏等々のために機械開墾の成鰐は一般に不良であった。しかし現在はこれらの惑条件 がかなり改善されたので,機械開墾がすぐれていることはいうまでもない。

仙 大部分の旧地主が立木を伐採しなかったのは,入植者の脱落を計算に入れていたようである。入 植者の強い要求で昭和27年末迄には大部分が伐採されたが,中には昭和29年に至って漸く伐採さ れたのもあるという。

(5)買収以前のことであるから当然個人に対する土地配分が行われておらず,邑然共同開墾の形をと らざるをえなかった。しかしかかる事情の有無に拘らず入植当初においては共同開墾を中心とす る全部的協同経営と脇間生活から出発することが望ましい。

(6)単独入植者と家族入植者とが混在したので必要分配をめぐって多少のトラブルが生じた。それ程 困窮の程度が甚しかったというのが真実であろう。しかしこのような理由で全部的協同組林が急 速に個人経営,個人生活へ移行したとすれば,その為に個々の入樺者がどれほどプラスを招来し たか或はマイナスであったかは疑問である。

(7)地元増反については若干の説明を要する。当初未墾地買収計画に対して土地所有者から異議申立

(11)

(138) 宮 下 福 太 郎

があり,それに対して県で貴収後余裕地が生ずれば再配分するとの条件を附したので所有者が買 収に応じたようである。従ってこの4戸は入植者とは全然関係がなく,土地も拓かれていない状 態で全く帳簿上の地元増反者である。

(8)奈良県における入植地区の土地配分面積は,1戸当り最大が曽爾地区の3町歩,最小が五条二見地 区の4反歩で,県平均では1町7反歩である。一万既存農家における平均耕作面積は4.8反で,全国 平均8.2反,近畿平均6.1反に比して零細であることからして,入植地における土地配分面積1町7 反歩(但しこの場合耕地以外の土地をも含むことに注意)は一応適正であると県ではみているが,

有畜経営化には多少の無理がある。勿論入植地の附近に自由に採草できる牧野があれば問超は別 であるが。(現実にはかかる牧野は求められない場合が多い。)

(9)奈良県全体についてみれば,入植者のうち約半数が農業未経験者であったため,開拓営農推進に 多大の困難をきたした。

(1q 満洲引揚者はかつて十津川村分村計画に基づいて渡滴した人達であり,この地区へ入植後も母村 十津川村から物心両面の援助がなされているようである。

II 開拓農業縫営の展開

広く農地開拓論の主要問題がどこにあるかといえば,誰しも開拓地農業経営論にあることを指 摘するであろう。開拓の成否が入植者の農業経営並びに開拓生活の発展として具現化することを 考えれば当然のことである。そこでこの節では開拓農業経営がいかに組織され展開してきたかを 概説する。その方法として耕種,養畜の各部門別に地区全体としての発展傾向と個別的調査農家

のそれとを叙述する方針であったが,紙数の都合で後者は調査結果を掲げるにとどめた。

1耕種部門における展開

先ず地区全体としての作物作付面積は第10表が示すように上述の開墾面積の拡張と併行して順 調に増加してきた。まず気付くことは水稲作にかなり重点がおかれ,陸稲の栽培と相侯って食糧 自給の体制をととのえ,営農形成の推進力たらしめていることである。飯米確保が開拓農家の生 活を安定に導く主要条件であることは疑いないが,入植当初から水稲作を始められる開拓地は極 めて稀である。此処でも地区内で水田が造成されたのは開墾第4年目の昭和25年で,既にそれ以 前から水田作が可能な理由は,地区外(福住町小野味及び井之市)の水田或は荒廃田を賃借し得 たからである。稲類の占める比率は年々作付面積の35%前後(昭和30年度は28%)を示し,これ に麦現を加えるときほ実に50%前後(昭和30年度は42%)にものぼり,米麦作に重点がおかれて いる。昭和28年度に水稲作が減少し陸稲が増加したのは,一方では小作地の返還があり他方陸稲 の奨励が為されたからである。しかしその後地区内の水田が増加したので再び水稲のクエイナが 高まった。麦類は殆んど大部分が秋播の小麦と裸麦で,開墾初期には前者が後者より遥かに多く 作付けられたが年々その差が縮小しつつある。商品作物としての豆類は比重が大きく,また何よ りも工芸作物の飛躍的な増加が目立つ。そのうち菜種は暫く措き,茶の栽培と杉・桧・礫等の苗 木育成に力を入れているようである。福住茶は古くから同じく大和高原の田原茶,吉野河岸の大 淀茶と共に名を知られているが,茶の先進地に位置するこの地区がこれを採り入れたのは当然で ある。苗木の育成は昭和28年から始められたがかなりの販売収益をあげたので引続き行われてい

(12)

る。(委託育成の形をとっているものもある。)なお昭和29年には10戸の農家が煙草作を導入した が冷害のため成績不良だったので翌年から放棄した例もある。工芸作物に対して果樹の貧弱なの が気になるが,これは適地果樹を見出せないこと,入植者の関心が果楢にまで及ばぬこと従って 管理が不充分である等があげられる。

いも類では開墾当初作り易いことと初夏には食膳にのぼるとの理由から馬鈴薯に重点をおいた が,その後家畜導入によるイモゾルの利用などから昭和27年を契期として甘藷が延びてきた。琉 莞類の延び悩みは上記煙草作の犠牲によるはか飼料作への転換も影響している。しかし抑制疏菜 の栽培に重点をおいているので将来幾分は拡張されるものと思われる。(以上については,前報 第3節の1を参照されたい。)

第10表 年次別作物作付面積の発展状況

這諒二」竺再22年1昭23可暗24年!昭25年l晒26年

水    稲 陸    稲

雑  こ  く  類

3反[15反i  …反

計    1 4.11  1

23珂 33反

155

(3)

昭27年l昭28年l昭29年l昭30年

35 j 44

 ̄1i 3

竺」_49

61  4:   6

50 j  40 j  41j  58

二号喜2日

:耳亡忘

「√「 ̄ ̄ ̄ ̄r

寸二〔

23i  23

一一一一

∴  −、

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41 14l 12

1

恋 ̄ ̄雷「悪

48薫蓬

(備考)1.本表において昭和25年度以降の面積は,奈良県管理課「昭和25−30各年度開拓地営農実績調査 表」によったが疑問の点は地区で調査の上訂正した。

2.昭和24年以前の数字は聴取調査によったが,昭和23年と昭和24年は正確な数字が出なかった。

3.()内の数字は収穫皆無面積である。

次に作物栽培の発展としてi主日すべきことは,寛11表でみるように反当収量の増大である。現 在は作付初年度に比して麦類では約2〜3倍,いも類では甘藷が10倍,馬鈴薯が5倍で,周辺熟 畑地の反収と比肩し得るまでになっている。作付初年度及び第2年度において反収が異常に低い のは土質が劣悪な上に全く肥料を施さず,酋そのものも悪く(十津川村から運んだ),その上開墾 の遅延で作付時期が遅れたこと,更に猪害なども加わってみじめな結果を示した。疏菜(大′恨,

かぼちゃ等)も若干作付けられたが収獲皆無に近い状態だったという。昭和23年には水田に対し てのみ肥料の配給があり,畑は相変らず無肥料であったので農家の中には十津川村の親元から肥

(13)

(140) 宮 下 福 太 郎

料を運んだものもあり,また闇肥料を購入して多少は畑地へも施肥したようである。

その後耕作技術の習熟,労仇集約化,土性改良即ち化学肥料並びに堆厩肥の増投による土地生 産力の増大によって収量が著しく増加したが,殊に肥料効果が反収増加に顕著な伐きをした。

要するに耕種部門は,作付面積の拡張,反当収量増大,栽培作物多角化等を通じて先ず順調に 発展してきたということができる。

第11衷 主要作物別反当収量の発展状況

(備考)本表は奈良県管理課「昭和25−30各年度開拓地営蔑実綴調査表」によったが疑問の点は現地で調査 の上訂正した。

次に個別的調査分折に入る方針であったが前に断ったような次第で調査の結果だけを掲載する。

(第12表参照)なお紙面の制約上6戸の農家を割愛した。

第12未 調査農家における年次別作付状況(単位=反〕

13.9

(14)

(備考)1.本表は聴取調査によった。

2.昭和22年は協同経営のため,個人の作付はない。

2 養育部門における展開

家畜飼養を伴わない開拓地農業経営が如何に経営運営上多大の困難を招来しているかは多くの 事例が示すところである。しかし第1には資金難から,第2には飼料問題が絡みあっていずこの 開拓地においても家畜の導入は阻まれている。かかる現実のもとで如何なる発展過程を辿ったか

を概観する。

先ず地区全体についてみれば第13表のとおりである。当初は上述の理由から大家畜の飼養はみ

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(142) 宮 下 福 太 郎

られず比較的導入し易い中家畜がとり入れられた。昭和23年に乳牛の牡皆が全く厩肥生産を目的 として導入された事実は苦肉の策とはいえ考えさせられる問題である。昭和24年に至って始めて 役牛が入り,また鶏が飼育されるに至った。その後経営内部の増殖なども手伝って順調に発展し てきたが,昭和29年に至って乳牛が導入されたことは酪農経営への先鞭をつけたものとして注目 される。一般に中家畜に見るべきものはないが,昭和29年から豚が漸く延びようとする傾向にあ る。その反面鶏は昭和28年を頂点として激減している。殊に昭和30年は役牛横並びに鶏が乳牛及 び隊に切替えられた。この地区では既に述べたように早くから水稲作がとり入れられたから,稲 藁が家畜部門に廻され,また飼料作物の作付も既存農家と違って行い易く,東に現在のところ利 用価値が低いとほ云え平坦部では得難い採草地を持っているなど,かなり飼料問題を容易に導く 条件に恵まれている。しかし本年2月1日現在における大家畜飼養の状況をみると,役牛及び乳 牛を飼養する農家は6戸,役牛のみが8戸,乳牛のみは3戸で,10戸は大家畜を飼養していない。

更にこの10戸の内で中家畜を飼育している農家は5戸(最高4頭,最低1頭)で,残りの5戸は 無畜型(所謂2〜3羽養鶏)である。

要するに一応順調に発展しつつあると思われる家畜飼養も,なお22%の農家が大家畜を飼育せ ず,また15%が中家畜をも持たない無畜農家であることは,開拓農業経営の在り方として考えね ばならぬ問題である。今後自己資金蓄積と自給飼料の強化を践ってこの部門の拡充と無畜農家の

解消に努めるべきであろう。

第t3衷 年次別飼養家畜の発展状況

(備考)本表において昭和22−24年の数字は聴取により,昭和25年以降は「昭和25−30各年度開拓地営農 実盾調査」による。

次に調査農家における飼養家畜の変遷についても耕種部門にならって次表を掲げるに留める。

(16)

第14未 調査農家における飼養家畜の変遷(昭和30年度末現在)

昭23年i昭24年 昭25年 嘱26年l情27年 昭28年 暗29年 昭 30 年

l

十。8月入植)ぼ鵠

役牛(ちら)→

山羊1

鶏  5 1 ̄÷l役射1:与

「「・∴ ̄

l l 1 4

0 OT  O

牛仔牛役か乳鶏

(備考)1.本表は聴取調査による。

2.飼養頭羽数は年度末の状況を示す。

3.矢印は同一の家畜をあらわす。

4.共有の家畜の価格は当然購入価街を所有者数で除した。

5.農家A及びEは,個人の資金投下の記述と関連があるので特に価格を示した。

6.農家Aの場合:半1役牛交換(差引0)−*2役牛交換(追金3,00C円),*3雛を購入 7.農家Eの場合:*4個人所有となる(追金25,00C円〕

最後に加工部門についてみなければならないが,前報でも触れたように現状では見るべきもの がない。近い将来製茶加工事業を企図しているほか,この部門の拡充を考慮中である。

3 農業経営形態の分化

農林省農地局計画部経済課編「開拓地農業地域別営農類型」(昭和27年12月)によれば,この地 区を包合する奈良東部地区は「主穀,茶を主とし,畜産を加味した経営」組織の樹立を目標とし ている。その構想は耕地14反(普通畑10反,果砲園2反,茶園2反)薪炭林5反,採草地3反で,

普通畑作物としては,夏作に陸稲3反,甘藷3反,大豆2反,胡瓜,南瓜その他疏菜各1反,冬 作は小麦,裸麦各2反,大麦4反,馬鈴薯,えんどう,大根各1反となっている。家畜部門では 役牛及び山羊各1頭,鶏20羽を飼養,農産加工部門は製茶80貫を計画している。勿論これはどこ

までも「類型」であって,現実の営農形態は地区の自然的並びに社会経済的諸条件の異るに従い,

また入植者の資質により異るわけであるからこれにこだわる必要はなく,一応のメルクマールと みてよい。

さてこの地区も上述の混同経営を目標として出発した。そして地区全体としてみれば「主穀・

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(144) 宮 下 福 太 郎

茶・畜産」経営形態に発展してきた。しかし個別的分析で明らかにされたように農家間にほ経営 形態の分化が認められる。いまのところ主畜経営はみられず,主穀経営と混同経営がほぼ相半ば する。

更に注意すべきことは,単に経営形態が分化したというだけでなく階層分化が目立ちつつある ということである。即ち相対的ではあるが耕種部門においても,養畜部門においても規模の大い さが,また農家の資産額においてもその区分が伺われる。将来加工部門が加われば農家間の隔差 が一層明瞭になるであろう。

III 開拓農家生活の展開

最後に開拓農家生活の展開を簡単に眺めたい。というのほ,このこともまた開拓農業経営の展 開と並んで開拓発展の指標となるからである。

ところで戦後の開拓政策が農業内部の生産力拡充という点から出発したのではなくて,戦災者 や復員,引揚者等の帰農を目的としている関係から外延的耕境の拡延を強いられたのであり,そ こに色々と困難な問題が生じた。多くの場合旧地主は開拓政策に反対の態度を示したし,地元農 民は入植者に対して好意的ではなかった。彼等は何らかの形で既得権を失うことが多かったから。

それともう一つには未墾地が余りにも劣悪だったから,開拓について疑問乃至は軽侮の念さえ抱 いたに違いない。この地区の人々も入植当時を回顧して「招かれざる客」であったことを意識し たという。しかし入植者と地元農民との長い間の誠意が通じあって,今では非常に協調性を見出

している。

さて,入植者にとって緊急の問題は住宅であるが,入植当時は建築資材の入手難や入植者の経 済事情等の為に粗末な組立式の簡易建築であった。しかしその後数年の問に修理,改築或は増築 されて漸く住生活の充実へと近づきつつある。尤もその規模や諸材料は種々雑多で,中にはかな り立派な建物もあるが,その反面仮住宅の城を脱し得ないものもある。建坪は稀に20坪をこえる ものもあるが,一般には10坪乃至15坪程度で既存の農家にくらペると貧弱なのは止むを得ない。

農舎ほ多くの農家が建てているが,畜舎や鶏舎になると少く,また堆肥舎では約半数の農家がこ れを有するが,サイロでは地区全体でわずかに3基である。飲料水には恵まれているのでこれに ついては不便を感じていない。住宅に附随した重要問題はいうまでもなく電燈であるが,昭和26 年度から山村電気導入施設補助の途が講ぜられると共に,同年国庫及び県費の補助をうけて電気 導入を実施した。(その為電動機の使用が可能になり,労肋面でも多くの利便を斎したことはいう

までもない。)

食生活については既に述べたように早くから食糧自給の体制をとった為に,現在では特に困難 な問題はみられないが,入植初年度は主食にも事欠き全く惨めな状態だったという。当時は共同 炊事であったが,バケツ一杯の容量に米2合位の割合なので重湯とも何ともつかぬものだったら しく,顔が映ったと聞かされたが,これは決して誇張でなく私がかつて歩いた数地区の開拓地で も実見したことである。幸いにもこの地区は水稲作が可能であり,陸稲の栽培と相侯って比較的 短期間に食糧問題を好転せしめた。近年乳牛の導入と共に牛乳の自家消費もみられ動物性蛋白の 摂取による食生活の改善に目覚めつつある。

衣生活について,また保健衛生,家庭管理,保育等については特に問題となる点は見出されな

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い。唯,附言しておきたいことは,今年入植者の研修を目的にした公民館(その中に鈴原開拓農 業協同組合事務所を併置)が建設されたことである。今後は技術研修,経営改善或は生活改善の センターとして活用されねばならない。

以上述べたように,開拓農家生活もまた順調に進展してきたといえよう。しかし何といっても 多くのノ、ソディキャップを背負っている人達である。従って真実考えねほならぬ問題は寧ろ今後 にあると云える。

あ  と  が  き

以上の諸節で鈴原地区の生成発展過程即ち開墾が如何に進められ,農業経営が如何に形成され,

開拓農村が如何に建設されたかを概説した。しかし紙数の制約から幾つかの問題を残す結果とな った。いずれ機会を得て補足したい。唯一つ開拓農村組織の問題としてネグレクt L得ない開拓 農業協同組合(以下開農協という)について簡単に附記したい。いう迄もなく開拓農村の中核と なるべきものは開農協であり,従って開農協の堅実な組織道営こそ開拓農村を健全ならしめる挺 子となるからである。しかしここで原理的な問題を採りあげる意思はないし,またその必要もな

い。ただ鈴原開農協の概要を述べるにとどめる。

この地区では入植後程なく鈴原開拓帰農組合(所謂任意申合せ組合)が結成されたが,それは 主として県との連絡機関にすぎなかった。その後昭和23年6月,農業協同組合法(昭和22.11.19法律 第132号)に基づいて,鈴原開拓農業協同組合(非出資組合)を設立したが,当時入植者は開墾作業 や建設工事その他の出稼に寧日なき状態であったから,組合の健全な育成発展には多くを期待し 得なかった。その上経済的に低位にある開拓農民が,しかも小人数で組織した開農協が当然経済 的基盤の弱い組合にならざるを得ないというノ、ソディキャップをも背負っていた。しかし入植者 の地縁的,血縁的関係が濃厚なことから組合員としての自覚と責任が高まり,かつ県所管課の指 導並びに地元農協(福住農業協同組合)の絶えざる協力もあずかって漸次組合組織も整い,その 活動も軌道に乗り始めた。即ち昭和28年8月には出資組合に改組して組織体制を確立し,道営も 合理化しつつある。さて本論記述の諸問題について開農協が常に主導的な役割を果してきたとは いえないが,しかし相互扶助と相互責任を基底とする組合精神に基づいて事業が推進せしめられ たことは否めない。めぼしいものを拾うと疏菜の共同出荷で,昭和25年以降市場対策として共販 体制に力を入れ,かなり効果をあげた。交通機関の発達,道路網の拡延等ほ市場への経済的距離 を短縮し,この地区から大阪市場へはトラック使で約2時間を要するにすぎない。ただ牛乳の搬 出は隣村の都祁酪農協同組合に対して行われ,漸くその緒についた程度である。また組合は製米

・製麦・製粉・押麦等の食料品加工施設を設けており生活面での協同にも力を入れているが,将 来製茶の加工事業にも大きな役割を果すことと思われる。なお鈴原開農協は上級連合体組織であ

る奈良県開拓農業協同組合連合会(因みにその会長は調査農家Bである)に加入している。

私は前報でこの地区が県下でも優れた開拓地の一一つであると述べた。その後もいくつかの新し い開拓村を見聞して一層その感を深くした。しかしそれは開拓農村を比較してのことであって既 存農村わけても果樹・花井その他特産物の収入で裕福な農村と対比すれば,なお道は遠く,かつ

険しい。しかも開拓農業経営は漸く地につき始めたとはいうものの多額の借入金を背負っており,

昭和27年度以降償還期に入り本年は1戸当り48,613円の償還額となっている。この金額は或る時

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(146)       宮 下 福 太 郎

期迄は年々累増するであろうし,今後その償還には個々の農家の努力と開農協の適切な指導が望 ましい。一方世界の農林水産事情は全般的な過剰生産と価格低落の傾向を示し,これが為本年4 月6日,「新農山漁村建設総合対策要綱」が閣議で決定せられ既に事業実施の段階に至った。国 内農業の競争性今後一段とはげしくなるであろう。開拓地農業にとっても今迄に劣らぬ厳しい道 であることを覚悟せねばならない。

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