• 検索結果がありません。

1.『薔薇の名前』と清貧論争

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "1.『薔薇の名前』と清貧論争"

Copied!
17
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

『薔薇の名前』の権利論

高橋隆雄

Abstract

Inonesceneofthebestsellingnovel〃jVbmed巴ZZajFDsawritten byfamousltalianphilosophemUmbertEco,thecharactersinthe

novelengagedheatedlymApostolicPovertyControversybThe issueoftheargumentwaswhetherJesusandtheApostleshad

proprietyovertheirbelongingsWhenwereadthenovelwithin

thebackgroundofthehistoryofhumanrightstheory)e、9.,within thecontextofMtmaJRI写ノウts〃eomesJ〃eirOnごmand

Dev'巴ノロpmenAwrittenbyRTuck,wecanfindthatatthedawnof

humanrightstheorysuchacontroversyinthelateMiddleAges

playedacrucialrole.

1.『薔薇の名前』と清貧論争

1981年にイタリアの小説部門で最高のストレーガ賞を受賞した

『薔薇の名前」(原著刊行1980年。邦訳は河島英昭訳、東京創元社 1990年)は、イタリアの哲学者であるウンベルト・エーコの著作であ

る。映画にもなったので観た人も多いだろう。中世末の北イタリアの

修道院を舞台にして、皇帝とローマ教皇の世俗レベルでの争い、それ

を神学上の教義に移して繰り広げられる清貧論争、異端審問、複雑怪

奇な構造と謎に満ちた文書館、そして連続殺人とその謎解きは、神学 上のまた現実の迷宮へと読者を誘ってやまない。本稿では、「薔薇の

名前」に登場する清貧論争を権利概念の誕生史の中で捉えなおしてみ たい。近代における権利の源泉を中世の論争の中に求めるような捉え 方は、欧米とは異なりわが国では広まっていないだろうから、言及し

.l‐

(2)

てみる価値があると考えられる。

物語の背景にあるのは、一方ではアヴイニヨンの教皇ヨハネス22 世(在位1316-34)と神聖ローマ帝国皇帝ルートヴイヒ(1287- 1347)との聖と俗の対立、他方では教皇とフランシスコ修道会の教 義上の対立という二重の対立関係である。さらに、敵の敵は友とでも いうように、皇帝側とフランシスカンが手を握ることで、関係はより 複雑なものになっていた。

1322年、ペルージヤの総会でフランシスコ修道会の総長チエゼー ナのミケーレは、厳格主義派(スピリトウアーリ。「精霊派」とも訳 される)の請願を受け入れて、キリストの清貧、すなわち、キリスト や使徒たちは衣服やパンを所有していたのではなく使用していたに すぎない、を信仰の真理として認めるにいたった。教皇ヨハネス22 世は、すでに厳格主義者をすべて異端と断じていたため、フランシス コ会の決議を異端的行為と断罪した(1322)。それに対して、教皇と対 立するルートヴイヒが出した宣言(1324)では、ペルージヤの決議を取 り入れ、自ら実践したこともない清貧を賞賛し、教皇を平和の敵、そ して異端とまで呼んで非難する。教皇はミケーレを再三アヴイニョン に召喚しようとする。ミケーレもフランシスコ修道会総長として教皇 の同意をとりつける必要から、アヴイニョンヘ出頭せんとしていた。

この機会を利用して、教皇はミケーレを罠に落としいれ異端の罪をき せて審問にかけるであろうと、多くの人々は懸念していた。

こうした状況のもとで、小説「薔薇の名前』によれば、皇帝使節団 と教皇使節団との予備会談を設定し、来るべきアヴイニョンでの会談 におけるミケーレの発言内容を検討するとともに、ミケーレたちの身 の安全を確保する任務を負ったのが、イギリス人のフランシスカン、

バスカヴィルのウィリアムだった。「バスカヴィル」という言葉でコ ナン・ドイルの短編「バスカヴイルの犬」が容易に連想されるように、

ウイリアムはその短編の主人公である探偵シャーロック・ホームズの ような優れた洞察力をもつ切れ者だった。

-2‐

(3)

予備会談が成功すれば、ウィリアムは皇帝派神学者を代表してアヴ イニョンで見解を述べることになっていた。彼はロジヤー.ベーコン の弟子で、オッカムのウィリアムの友人を自称しており、神学上の立 場もそれに近かった。彼に従っていたのはベネデイクト会の見習い修

道士アドツであり、「薔薇の名前」はアドソが最晩年に書いた手記の

体裁をとっている。

小説によれば、1327年、ウイリアムとアドソは北イタリアのテイ レニア海近くの山上にあるベネデイクト修道会の僧院を訪れる。皇帝 と組むフランシスコ修道会と教皇側に立つドミニコ修道会とが対立 する中で、どちらの派でもないベネデイクト会の僧院が会談の場とし て選ばれたのであった。ここで教皇側使節団(この一員には名高い異

端審問官ベルナール・ギーが含まれている)と、皇帝を後ろ盾とする

フランシスコ側の使節団(ミケーレを含む)との会談が開かれること になっていた。教皇側は、何とかこの予備会談を失敗させようと考え ていた。小説は、この山上の修道院での7日間を描いている。

ウイリアムたちが到着してまもなく僧院では次々に殺人事件が起

きる。被害者たちは『黙示録」の記述に従ったかのような仕方で殺さ

れていった。ウィリアムは持ち前の推理力を発揮し、事件の鍵は文書

館にあると見抜き、最後には犯人を突き止める。殺人事件の原因は、

アリストテレスの「詩学」中の、笑いを誘う傾向を善良な力の一つと みなしている未公開の箇所にかんしてのことだった。しかし、ベルナ

ール・ギーは、ウィリアムが解決の糸口を見出す前に、元異端の修道

士2名と、修道士に身を売りにきた農民の娘を捕らえ殺人犯にしたて あげるとともに、予備会談を異端審問の場へと切り替えてしまう。あ

われにも、アドソの生涯唯一の女性であるその娘も、まったくの濡れ 衣でありながら、異端として処刑されることになる。

ここで言及されている異端とは、ドルチーノ修道士を首謀者とする

もので、使徒団と称した。これはフランシスコ会の流れを引いており、

ヴァルド派その他の異端を糾合していた。使徒団は清貧を訴え、「全

-3‐

(4)

ての汚れた聖職者に死を」と主張し、山岳地帯で教皇側の正統軍(異 端鎮圧の十字軍)と戦った。それについてはダンテ「神曲」第28歌 で同情的につづられている。1305年、異例の寒さと飢餓でドルチー ノ派は撤退し、その後も抗戦したが、ついに1307年、首謀者が捕え られ処刑された。ここからもわかるように、清貧を掲げるフランシス コ会の教義は、急進化すれば異端になりかねないものであった。

この異端審問を口実にして会談そのものも破綻へと追い込まれて しまった。フランシスコ会の流れを汲み清貧を主張し急進化した異端 にかんする審問の後では、もはや清貧論争はすべて異端論争に結びつ けられてしまうからであった。厳格主義派の指導者であるウベルティ ーノは、身の危険を感じて翌日の払暁に僧院から逃れていった。結局、

ミケーレはこの予備会談の破綻直後に、自説の弁護のために教皇の許 へ赴いたのであった。小説の筋を離れ、史実によれば、翌年、異端者 扱いをされたミケーレは身に危険が迫ったことを知り、同じく1327 年に異端審問を受けるためアヴィニョンを訪れていたオッカムのウ イリアムたちとともに、アヴイニョンから逃亡するにいたる。そして、

ピサにおいて皇帝派から迎え入れられ、公然と教皇を批判しはじめる。

しかし、やがて皇帝の勢いの衰えと、ミケーレとは別の人物をフラン シスコ会の総長に擁立した教皇側の策謀の前に次第に影響力を失っ ていく。付記すれば、ミケーレがアヴイニョンに赴いた同じ年に、ド ミニコ会のマイスター・エックハルトも教皇庁で異端審問を受け、審 理の期間中に死亡している。

さて、その予備会談であるが、論争の最大のテーマは、キリストや 使徒たちの清貧をめぐるもの、すなわち彼らは所有権をもっていたか 否かということであった。小説という虚構の中での論争ではあるが、

エーコはその内容を、当時の議論に即して登場人物たちに次のように 語らせている。

まずは1322年のペルージヤの総会で決議されたことが述べられる。

つまり「キリストが完全な生き方の手本を示すために、また使徒たち

-4‐

(5)

がその教えを実践するために、所有の理由にせよ統率の理由にせよ、

一切の財産を持たなかったことを確認し、また正典の文章からさまざ まにそれが論証できるとして、この精神こそ|ま正統なカトリック信仰 の根拠であると決議した。」(下巻133頁)。また、1317年に発布さ れた憲章では、ヨハネス22世自身が、こうしたことを聖なる精神に かなったことと論評していたことが述べられる。

さらに、ウベルテイーノの語るところでは、いわゆる「私有財産」

の所有についていえば、『マタイによる福音書」では、裁判に訴えて 汝の下着を取ろうとする者があれば上着をも与えよとあり、「ルカに よる福音書」では、キリストが自分の身辺から一切の所有権と支配権 を取り払い、同じことを使徒たちにも課している。さらに「マタイに よる福音書」では、ペテロが主に向かって主に従うために自分たちは 一切の物を捨てたと記されている。たしかにキリストと使徒たちは衣 服やパンや魚をもっていたが、これらを所有したのではなく使用した

のであり、彼らの絶対的な清貧は損なわれていないのである。

それに対して、反対側はこう論じた(下巻138-139頁)。使徒たち はユダヤの地に農地を所有していたし、所有権なしに生きるという使 徒たちの誓いも、人間が生きるために不可欠で必要なものには及ばな いのであり、ペテロが一切の事物を捨てたといったときにも所有権を 放棄したとまではいってない。アダムは事物の支配権と所有権をおっ ていた。物的財産の所有のもととなる人間の権利は、全て王の法律に よって規定されている。キリストは、死すべき人間として、受胎の瞬 間から一切の地上の財産の所有者であり、神としては、父から宇宙万 物の支配権を託されていた。キリストは衣服や食物、信者たちの寄進 と寄付による金銭の所有者であり、貧しかったとしても所有権をもた なかったからではなく、その収益を受け取らなかったからである。

ウイリアムは、これが教義上だけでなく政治を巻き込む大問題であ ることを、アドソに次のように説明する。「しかし問題は、キリスト が清貧であったかどうかではない、教会が清貧であるべきかどうかな

-5‐

(6)

のだ。そして清貧とは、宮殿を所有するか所有しないかではなく、俗 世の事物に法を定める権利を保持するか放棄するかを意味している のだ。」(下巻144頁)

フランシスコ修道会の主張する清貧が正しければ、キリストも使徒 たちも、そして教皇も所有権をもたないことになる。そしてそれは、

俗世の事柄に法を定める権利を教皇がもたないことを意味する。つま り、「カエサルのものはカエサルに」であり、俗世のことは皇帝にま かせるべきということになる。このような理由で、教皇はフランシス カンの教義を否定するにいたり、皇帝側は、けっして自ら実践できな い清貧の主張に肩入れしたのであった。

ただし、キリストや使徒たちの所有権が問われていることからわか るように、清貧論争はその政治的な帰結とは別に、権利という問題を めぐる脈絡でも重要な意義をもっている。それについては以下の章で 考察してみよう。

2.タックの著作との出会い

清貧論争と権利論の関係を知ったのは、リチャード・タックの著作 によってである。(Rnlck,jWZ[maJRZ写hZs〃eoz9jes・mheirOI2I萱m

andDevB/OpmemCambridgeUniversityPress,1979).

私とその著作との出会いについて少しばかり述べてみよう。当時

(1993~1995)、私はオックスフォード大学客員研究員として、授業 やゼミに出るほか、キーブルカレッジのJグリフイン教授(,I化Zノ

Beingの著者として有名であった)の部屋で、月に1度、倫理学関係

の短いペーパーを提出し、それにもとづいて2時間ほど質疑応答の時 間をもっていただいていた。教授の部屋は赤レンガのカレッジの建物 の2階にあり、広さは現在の私の研究室の優に3倍はあった。それに 小さなキッチンが裏側についていた。驚いたのはそれだけではなかっ た。オックスフォードでは1年を3期に分けており、教員はそのうち のひとつの学期を休むことができた。たとえば1年目の第3学期と2

-6‐

(7)

年曰の最初の学期を休暇にすると、夏休みを含めて8ヶ月くらいの長 期休暇となる。ほとんどの教授は、その間に論文や著書の執筆に励む。

授業のコマ数も委員会等の仕事も少なく、うらやましいかぎりの研究 環境であった。また、著作を刊行するに際しては、あらかじめ時間を かけて同僚たちに原稿をチェックしてもらう慣習があった。グリフイ ン教授の新著の場合、原稿完成から刊行までに1年かかった。多くの 本の「謝辞」には実に多くの同僚たちの名前が列挙されているが、そ れはこのような事情を示している。

グリフィン教授は私と同様に、ヴィトゲンシュダイン研究、それも 初期の「論理哲学論考」研究から倫理学に進むという経歴をもってい た。それゆえ倫理学の手法も分析的であり、自然法や理性の原理、ま た功利の原理も十分な正当化なしには前提しない立場であった。

ヴイトゲンシュダイン流に倫理学を扱うとき、「事実を述べること と評価することは言語ゲームが異なる」というように、事実と評価の

「言語ゲーム」の相違という仕方で論じていくのはひとつの方向であ

るが、私はその道をとらなかった。というのは、「言語ゲーム」とい

う概念にとって本質的なことは「規則に従う」ことであるが、それで は倫理や道徳の原理の成立や支持、変遷を捉えがたいからである。倫 理学原理を既知の規貝Ⅱとして前提し、その規貝Iに従うことを考えてい くのは、倫理学原理の応用といえる。一見すると、「規則に従う」こ とを本質とすることが倫理学原理の応用ならば、そうしたことは「応 用倫理学」にとって相応しく思われる。しかし、本来の応用倫理学と は既存の倫理学原理の応用・適用に尽きるわけではない。応用倫理学 は、従来の倫理学原理の変更やパラダイム変化さえ視野に納めるべき なのである。当時の私は環境倫理学に強い関心をもっていたが、この 応用倫理学の領域においては、「権利」、「責任」、「自由」といった倫 理学上の重要概念にかんするパラダイム転換が主張されていたので ある。

そのようなわけで、倫理学を研究するに当たって私がヴイトゲンシ

-7‐

(8)

1ダインから受け継いだことは、人々の1慣習的実践(practice)が、倫 理学原理を含め、種々の規則を成立させ、支え、変更していくという 点であった。ヴィトゲンシュダイン自身、言語ゲームの変遷について

も触れているように、私のような考えは彼の考えに反してはいないが、

もはやそこから一定の距離を置く立場である。また、正統といえるヴ イトゲンシュダイン研究は、当時すでに原著の注釈への注釈という段 階に到達し、スコラ化の様相を呈しており、それ以上の展開は望めそ うになかった。こうした状況は、自分の書いたものを研究せずに、自 分と同じように独立した思索をしてほしいといった、彼自身の言葉に

も反していた。

教授との質疑応答についてであるが、たいしたワープロ専用機もな い時代であり、それさえもたない私は、毎回、メモリー機能つきタイ プライターという優れものを友人から借りてペーパーを作成した。あ

らかじめ打ち込んだ文字を1行分しかないディスプレイで覗いて入 念にチェックし、修正してからボタンを押すと、タンタカタンタンタ

ンと、小気味よいタイプの音が部屋に響き、一気にA4用紙何枚かの 原稿が完成する。1ヶ月ほどかけて思索したことが一気に打ち出され

るのは、爽快ではあるが少々寂しくもあった。

2年近く滞在した中で提出したペーパーの主要テーマのひとつが 権利にかんするものであった。当時の私の考えは、倫理学の原理や原 則は超歴史的な普遍性をもたず、ヴィトゲンシュダインがいうような

’慣習的実践にもとづいており、権利についても同様に、教義や理l性、

人間本性よりもⅢ慣習的実践が権利概念を支えているというものであ った。グリフイン教授の立場もこれに近いものであったが、私ほど徹 底してはいなかったので、「私はあなたの説に80%賛成です」としば

しばいわれた。私たちの意見が合わなくなる点を典型的に示すのは、

「古代のエジプトにおける奴隷の扱いを基本的人権の侵害として批

判できるか」との問いへの回答であった。私の答えは、古代エジプト

には権利にかんする1慣習的実践がなかったという理由から「ノー」で

-8‐

(9)

あり、基本的人権を、人間であるかぎり時代や文化を超えて誰でもが 平等にもつ権利であるとする教授の答えは「イエス」であった。もち ろん当時は、ピラミッド建設がある種の失業対策事業であったなどと いう説は知られていなかった。

後には多少の柔軟さを加え、ある種の道徳や倫理の原理が普遍性に 近い特徴をもつことを認めるようになったにしても、1慣習的実践が倫

理や道徳の中心にあるというのは今でも基本的には変わりがない。そ して、この考えが、オックスフォード滞在中に、日本思想においては、

概して、歴史的に持続する制度を価値あるものとみなしたり、1慣習的 実践を重視したりしてきたことの確認から、自分のうちに深く潜む日 本的なるものの自覚へと導いていったのである。

あるとき、西欧の権利概念の'慣習的実践は16世紀から17世紀に かけて誕生したと、近代の権利にかんする歴史の本の多くが述べてい ることをペーパーに書いたところ、権利にかんする実践であれば、も っと前の時代に着目すべきだとの指摘をうけた。それではローマ時代 ですかと尋ねると、ローマ時代には、近代から現在にいたるまで理解 されているような本来の権利概念はなく、そこからかなり下って中世 末にそれが見られるということであった。われわれが知っている権利 概念については、中世の末から本格的な論争が始まった。すなわち多 くの思想家によって議論され、近世ではそれが社会的支持を得ること で制度として具現化したというのである。そのときに紹介されたのが タックの著作だった。

さっそくその日の夕方遅く、オックスフォードの中心部にあるブラ ックウェル書店に行き、店員に書名を告げると、「ああ、あの古典と なっている本ですね」といって、何層にもフロアがあるだだっ広い店 内を探してもってきてくれた。タックの著作は刊行してから十数年で すでに標準的なテキストになっていたのである(注1)。そこには清 貧論争が権利概念にとって重要なエポックをなすことが述べられて

いた。そして、帰国後数年して「薔薇の名前」の翻訳を読んだとき、

-9‐

(10)

タックが権利論の脈絡で叙述する清貧論争がそこに活写されている ことに気づいたのであった。

3.自然法と使徒的清貧

タックの著作では、ローマ時代から近代にいたる権利概念の広範な

歴史が述べられているが、本稿では「薔薇の名前』で登場した清貧論

争とのかかわりに主眼を置いて、彼の叙述を追ってみることにする。

タックによれば、最初の近代的と呼べる権利の理論は12世紀のロ ーマ法の注釈学派に見出される。ここでは全ての権利は「要求する権

禾Ⅱ(claimrights)」である(注2)。つまり、すべての権利は、その主 張者のために他の人々がある仕方で行為することを要求する。そして、

所有権とは、ある物への支配を世界中に対して要求することにほかな らない。タックは、この立場では権利と義務が相互に含意されており、

いわゆる受動的権利の理論であるという。受動的権禾|」をもつとは、子 どもが父親に養育される権利をもつように、誰かに何かを与えられる、

あるいは許される権利をもつということである。それに対して、能動

的権禾|」をもつとは、何かを自分自身でする権利をもつことであり、個

人の主権や自由が中心概念となる。

トマス・アクイナス(1225(4)-1274)においても権利の`思想が見出せ るように思われるとタックは述べる。

「われわれは物体を二つの仕方で考察することができる。一つはその

本`性に関してであり、それは人間の力の範囲内にはなく、全てのもの が従うところの神的力の内にのみある。他方はその使用に関してであ る。そしてここでは人はもろもろの物体に対して、自然的所有権

(naturaldominium)をもつ。というのは、人は理'性と意志によって 物体を自分自身のために使用できるからである。」(「神学大全」

2ae,66.1,R・'Illck,pl9)

‐10‐

(11)

しかし、自然的所有権という表現が用いられていても、トマスが主 張するのは本来の自然権の理論ではない。というのは、トマスは次の ようにも述べるからである。

「あるものが自然法(iusnaturale)に従っているといわれるのは二通 りの場合である。一つには、自然がそれへとわれわれを傾けるとき。

たとえば、他の人を害するな、のように。もう一つは、自然がその反 対を命じないとき。そこでわれわれは、人は自然法の下では裸である といえる。なぜならば、彼は自然からいかなる衣類も受け取っておら ず、衣類は彼自らが発明したのであるから。このようにして「すべて のものの共通の所有や全ての人の平等な自由」は自然法に従っている。

というのは、所有と奴隷の境遇との区別は自然の産物ではなく、人間 の生活の利便のために人間的理由によって作られたからである。」

(『神学大全」2ae,945,R'Ihlck,pl9)

これによれば、奴隷制は少なくとも自然の命令に反していない。ま た、私的所有も共有もいずれも自然の命令に反していない。それらは 時代とともに変わりうるものとしてあったといえる。トマスでは、自 然権理論の本質であるところの、権利を自然の人、自然状態の人に帰 属させることをしていないのである。

トマスのこうした考えは当時の神学上の重要な事柄と関係してい た。つまり、自然的所有権は、当時彼の属していたドミニコ修道会と 対立していたフランシスコ修道会で主張されていた、使徒的清貧

(apostolicpoverty)に疑いを投げかけるものとしてあった。これに関

しては、13世紀の後半から14世紀の半ばにいたる長い論争の歴史が ある。この論争が重要なのは、中世後期の自然権理論はここから生じ てくるからである。そしてここに「薔薇の名前」との接点がある。

13世紀後半のフランシスコ修道会の指導者たちは使徒的清貧の体 系的理論を展開することで、彼らの日常生活に必要な品を、それに対

‐11‐

(12)

する所有権をもつことなしに使用しようとした。

彼らの擁護者である教皇ニコラス3世は、1279年の教書で次のよ

うに述べる。

人と物質の5つの関係として、所有権(proprietas),占有権 (possesio),用益権(usuffuctas),使用権(iusutendi)、そして単なる使 用(simplexususfacti)がある。はじめの4つは行為者の意のままにあ

るものを処分しうる権禾|」であり、フランシスカンには利用できないが、

最後の5番目は、商売したり誰かにあげたりするものではなく、単に あるものを消費するだけであるので、彼らももつことができる。

これで彼らの修道会は物質(商品)交換のネットワークの外に踏み 出すことができ、真正の使徒的清貧を主張できることになる。

このようなフランシスカンの教義の主要な理論的説明は、フランシ

スコ会士ドウンス・スコトウス(1266?-1308)によって与えられる。こ

れは14世紀の始めの10年のことであった。

「自然あるいは神の法によって、罪のない状態においては個別的所有 権はなく、まさに、すべてのものは共有されている。.・・・・この

ことの一つの理由は、正しい理`性に従った物の使用は、それが調和と 平和な交友関係、そして必要な暮らしの手段に導くかぎりにおいて許

されているので、罪なき状態においては、個別的所有なしの共通の使 用は全ての人にとって、個別的所有より価値がある。というのは、だ れも他人の必要な物を取りはしないし、暴力によって守ることもなく、

はじめに占有の必要を感じた人は必要とするかぎりの間それを使用 できるからである。」(QuaestrDnesmZjbmmS色nta施皿、,l52

nck,p21の英訳による。)

罪なき状態においてはすべてのものは共有されている。それに対し て、個別的所有物は必然的に私的であり、交換されうるし他人からし ばしば暴力によって守られるものである。それは罪なき状態にではな

‐12‐

(13)

く、社会生活とともにある。近代の社会契約論では、社会を形成する 以前の人間の状態を「自然状態」と呼ぶことになるが、中世という脈 絡において、社会形成以前の状態とは、アダムとイヴの堕罪以前の状 態にほかならない。それゆえ、人間が自然状態で権利を有するかどう かという、権禾I」に関わる基本的問題は、堕罪以前の人間が権利を有し ていたかどうかということとして問われている。

フランシスカンのような立場によれば、所有権はもともと人間には 属していないものである。つまり、人間が本来自然にもつ権利とは考 えられていない。所有権は、堕罪後の人間にとってのみ価値があるの である。また、トマスでは、上述のように、所有権は、「汝殺すなか れ」のように自然がそれへとわれわれを傾けさせるものではないが、

自然に反してもいない。その意味では、共有についても同様のことが

いえて、所有も奴隷も人間の生活の利便のために作られた制度である。

ただし、いずれの立場でも、所有権が本来の意味での自然権であるこ とは否定されている。

14世紀初頭のフランシスカンは、使徒たちの清貧に映し出されて いるような、自然で罪のない生活を送っているとみなされていた。た だし、上述のように、この教義を信じるものの中には急進化するもの

も出現し、彼らは異端の烙印を押されていく。

1320年代になると、教皇側は一転してフランシスカンに敵対する 方向へ向かう。というのは、フランシスカンの理論は、ある人々が罪

のない仕方で生活できるならば、それはすべての人々にとっても可能

なはずであるということを導くことになるからである。つまり、問題 はフランシスコ会修道士にとどまらず、すべての聖職者、とくに教皇

にも及ぶと予想されるからであり、こうした急進主義への傾向を見越

して、ヨハネス22世は清貧擁護の立場から撤退するのである。

1322年のペルージヤの総会決議と、それへの教皇からの批判につ いては上述した。それ以後、皇帝も巻き込み聖俗入り乱れての清貧論 争が展開されていく様子については、「薔薇の名前』で活写されてい

‐13‐

(14)

た。

「薔薇の名前」の舞台であった1327年から2年後の1329年に、

ヨハネス22世は教書を発布する。ここには後の権利の理論にとって きわめて重要なことが述べられている。

すなわち、教書は大胆にも、地上の物事に対する神の所有権(支配 権)は、所有物に対する人の所有権(支配権)と概念的に同じである とする。それゆえ、イヴの生まれる前のアダムはこの世のものに対し て、交換する相手がいないにせよ所有権をもっていたということにな る。所有は人にとって自然なものであり、神的な法によって支えられ ている。個人が所有権をもつということは、社会的関係の特徴ではな く、人間に関係する基本的事実であり、この上に社会的・政治的関係 が立てられるのである。かくして、所有は人の道徳的世界の全領域へ と広がることとなる。これは、強力な個人主義的政治理論へと通じる 考えである。

オッカムはこれに異を唱えるが成功しない。時代の趨勢はむしろ反 フランシスカンの方向へと進んでいくことになる。タックは、ヨハネ ス22世の教書以後の所有権理論について述べているが、本稿はその 詳細を追う場ではないので、ごく手短に触れてみるだけにしよう。

14世紀前半からのフランシスカンへの攻撃は、急進的な自然権理 論にまで導くことになる。単に個人的な使用のみがなされ、交換や取 引の可能性がないところにおいても、所有権は存在する。所有権は、

法が所有や交換を認める以前から、歴史のはじめから存在していたと される。神は交換する相手が存在しなくてもこの世界を所有していた のと同様に、人もはじめから所有権をもっていた。そして自分自身の 自由さえ所有物とみなされ、交換可能・譲渡可能なものとされるにい たる。タックによれば、1350年から1450年にかけての100年間は、

後の1590年から1670年にかけての80年間と並ぶ、権利論の大活動 期である。

このような考えは、16世紀前半までには支配的なものとなってい

‐14‐

(15)

ったが、こうした説の根底には、ヨハネス22世の教書にも現れてい るように、人間の自由を強調し、神と人とを同化するような企てがあ ったため、16世紀に生じたプロテスタント運動によって批判される ことになる。そして、それに加えて、権禾Uは法によって認められたも のであるとするルネッサンス時代の傾向や、新しい形態の中世スコラ 主義の復活もあって、この説は弱められていくが、16世紀の末にな って再建されることになる。それは、この時期にポルトガルとオラン ダで、新しい世代が中世後期の説を復活させ、近代の権利の理論を構 築し始めるからである。たとえばポルトガル人のモリナ(Luisde Molina)は1592年の著作で次のように述べる。自分の所有物を使用 する、食物を食べる、自分の服を着る、自分の果樹から果物を採る、

自分の家の中や公道を歩くといった、本来人がもっているところの能 力は権利にほかならい。そして、そうした能力が妨げられたときに傷 つくのであるから、自由意志を与えられているものだけが権利を有す る。また、物乞いする権禾|」と、施しを与えられる権利とは異なり、前 者が本来の能動的権利とされる。ここでは福祉よりも自由が重視され ているのである。

自由の重視という姿勢は、人は自分自身の自由の所有者であり、自 由を手放し自らを奴隷にすることができるといった奴隷制の擁護へ といたる。この奴隷制擁護論は、全国民が奴隷になることの正当化に も使用できる。それゆえ、現代の権利論者とは異なり、自然権理論の 主張者の中には、奴隷制擁護論を絶対主義の擁護論として展開するも のも現れることになる(注3)。

以上のような複雑な過程を伴い、17世紀にいたり、グロテイウス、

ホッブズ、ロック等が登場するとともに、権禾Uの理論にかんする'慣習 的実践は定着していったのである。

おわりに

本稿では「薔薇の名前」の清貧論争を権利の理論史の脈絡で捉えな

‐15‐

(16)

おしてみた。詳しく調べたわけではないので推測にとどまるが、エー コはタックの著作をおそらく読んでいなかったと思う。その理由は、

二つの著作の刊行年が1年しか違わないこと、そして何よりも、ヨハ

ネス22世の教書について「薔薇の名前」ではまったく触れていない

からである。しかし、こうしたことは、エーコの伝記作者や詮索好き な人を除けば、どうでもよいことかもしれない。

もう-点述べておきたい。本稿は「「薔薇の名前」の権利論」であ るが、じつは「薔薇の名前」が何を意味するのかということ白体が謎

となっている。Wikipedia「薔薇の名前」にもあるように、「薔薇」

を小説中で唯一名前のない、アドソの一夜の恋人とする単純な説から、

薔薇は実在するが「薔薇」という名前は実在するかという普遍論争の 問題にかかわるとする解釈まである。

それと似たことは「権禾|」」についてもいえる。「権利」、とくに個人 の自由を核とする権利の概念は、人間の歴史が始まって以来存在して いたが、人間は中世末から近代にかけてそれを見出すことで、権利を もつことをまさに「人間」にとって本質的なこととみなしたのだろう か。それとも、権利の実質は人々が日常日々に行い、交流し、感じ、

考え、判断することにあり、「権禾|」」とはそうした実質によって支え られている名前にすぎず、その内容も歴史や文化の相違を許容し、人 間であっても権利を有しない時代があったと考えるべきなのだろう か。そしてこれは、私とグリフィン教授の争点でもあった。

1.タックよりも新しい研究では、たとえばBTierneyは、12~13

世紀の教会法学者の中にすでに、近代の自然権に近いsubjective

rightsと、神が与えた道徳的義務であるobjectiverightsの首尾一貫

した区別があると主張している。(01.Nederman,“HumanRights,,,

inMwD左tmnazyofo坊eHStozyofoJt/Daa(ed

-16‐

(17)

MC・Horowitz),vol3,p、1015)

2.C1aimrightという概念は、「PはXをする権利をもつ」という 表現の多義性を解明したWNHohfbldの著作(1919)によって用いら れた。彼によれば、その表現は次の4つの用法を有している。①「P はXしない義務(duty)をもたない」。これは「特権(privilege)」と呼べ る。T・ホッブスの自然権(あらゆる人はあらゆるものに権利をもつ)

は、この特権であるとしばしばいわれている。②「Q(あるいは誰で

も)PにXさせる義務がある」。これはclaimrightと呼ばれる。こ

こには能動的な助力から消極的な自由にいたるまでの濃淡がある。③

「私は自由にこのタイプライターを売ったり誰かにあげたりする権 利をもつ」のように、能力や力と関係する用法。この権禾|」の行使は法 的関係に変化を与えるという結果をもたらす。④力の欠如と関係する 用法もあり、これは法的変化から免れていることを示す。憲法上保障 された特権や要求する権利は、この意味を含む場合がある。つまり、

私はXしない義務をもたない、あるいは、他の人びとは私にXさせる 義務をもつだけでなく、誰もその状況を変更する力をもたないという

場合である。(以上の解説については次を参照。JWaldron,

Introductionto〃eoz2jes㎡R妙Z&(eCLJWaldron),Oxfbrd

Unl984)

3.たとえばホッブズは自然権を基盤に置きながら、絶対王政を許容 する理論を立てている。また、ここで付言すると、人間は奴隷になる 自由、すなわち自由を完全に放棄する自由をもちうるかという議論は、

けっして過去の遺物ではない。それは、現代においては、安楽死や尊 厳死の議論において、人は死ぬ権禾1」をもつことができるか、つまり利 益を得る主体が消滅するような権利行使は矛盾しているのではない か、という仕方で登場してきている。

‐17‐

参照

関連したドキュメント

また、チベット仏教系統のものとしては、フランスのド ルド ーニュにニン マ派の Dilgo Khyentse Rinpoche

ところで,労働者派遣契約のもとで派遣料金と引き換えに派遣元が派遣先に販売するものは何だ

「派遣会社と顧客(ユーザー会社)との取引では,売買対象は派遣会社が購入したままの

名の下に、アプリオリとアポステリオリの対を分析性と綜合性の対に解消しようとする論理実証主義の  

身体主義にもとづく,主格の認知意味論 69

 本件は、東京地判平成27年判決と異なり、臨時株主総会での定款変更と定

日本の伝統文化 (総合学習、 道徳、 図工) … 10件 環境 (総合学習、 家庭科) ……… 8件 昔の道具 (3年生社会科) ……… 5件.

機会を奪われただけでなく (「派遣切り」)