奈良時代の文化と情報
著者 メシェリャコフ アレキサンダー N.
会議概要(会議名, 開催地, 会期, 主催 者等)
会議名: 日文研フォーラム, 開催地: 国際交流基金 京都支部, 会期: 1997年1月21日, 主催者: 国際日 本文化研究センター
ページ 1‑20
発行年 1997‑12‑25 その他の言語のタイ
トル
Information and culture in Nara Japan
シリーズ 日文研フォーラム ; 92
URL http://doi.org/10.15055/00005708
第92回 日 文 研 フ ォ ー ラ ム
■
奈良時代の文化 と情報
InformationandCultureinNaraJapan
■
ア レキ サ ンダ ーN.メ シ ェ リャコ フ
AlexanderN.Meshcheryakov
国 際 日本 文 化 研 究 セ ン タ ー
日文研フォーラムは︑国際日本文化研究センターの創設にあたり︑
一九八七年に開設された事業の一つであります︒その主な目的は海外
の日本研究者と日本の研究者との交流を促進することにあります︒
研究という人間の営みは︑フォーマルな活動のみで成り立っている
わけではなく︑たまたま顔を出した会や︑お茶を飲みながらの議論や
情報交換などが貴重な契機になることがしばしばあります︒このフォー
ラムはそのような契機を生み出すことを願い︑様々な研究者が自由な
テーマで話が出来るように︑文字どおりインフォーマルな﹁広場﹂を
提供しようとするものです︒
このフォーラムの報告書の公刊を機として︑皆様の日文研フォーラ
ムへのご理解が深まりますことを祈念いたしております︒
国際日本文化研究センター
所長河合隼雄
● テ ー マ ●
奈 良 時代 の文 化 と情 報
InformationandCultureinNaraJapan
● 発 表 者 ●
ア レ キ サ ン ダ ーN.メ シ ェ リ ャ コ フ AlexanderN.Meshcheryakov
ロ シ ァ 科 学 ア カ デ ミ ー 東 洋 学 研 究 所 教 授 Prof.,InstltuteofOrlentalStudies,RussianAcadernyofSclences
国 際 日本 文 化 研 究 セ ン タ ー 来 訪 研 究 員 VisitlngReseatcher,Int'lResearchCerlterforJapaneseStudles
1997年1月21日(火)
発表者紹介
ア レ キ サ ン ダ ーN.メ シ ェ リ ャ コ フ AlexanderN.Meshcheryakov
ロ シ ア 科 学 ア カ デ ミー 東 洋 学 研 究 所 教 授 Prof.,InstituteofOrientalStudies,RussianAcademyofSciences
国 際 日 本 文 化 研 究 セ ン タ ー 来 訪 研 究 員 VisitingResearcher,Int'lResearchCenterforJapaneseStudies
1951年 1973年 1976一 現 在 1979 1992
ロ シ ア ・モ ス ク ワ市 生 まれ
モ ス ク ワ 国立 大 学 ア ジ ア ・ア フ リカ諸 国 学 部 卒 業 ロシ ア科 学 ア カ デ ミー東 洋 学 研 究 所
歴 史 修 士 学 位 獲 得 歴 史 博 士 学 位 獲得 主 な著 書:
古 代 日本 の神 仏 習合 ナ ウカ社1987.
古 代 日本 の 文化 と文 書 ナ ウカ社1991.
古 事 記 ロ シア語 訳(下 巻)、 シ ャル社1994.
日本 霊 異 記 ロ シア 語 訳 ギ ペ リオ ン社1995.
紫 式 部 日記 ロ シア 語 訳 ギ ペ リオ ン社1996.
日 本書 紀 ロ シア語 訳 ギペ リオ ン社199乳
問題の提起
現代社会というのは情報社会だとだれにも思われていて︑そして誇りにもされ
ていることは︑ある意味では否定できないでしょう︒なぜならといいますと︑情
報なしで現代社会の存在は絶対あり得ません︒けれども︑現代人の自慢の︽情報
︾は現代だけに適用・限定されるのでしょうか︒古代︑中世も情報の流通.交換
が勿論︑行われていました︒ただ︑時代によっては︑'その特徴がだいぶ違って︑
それぞれの特質が見られるのが事実です︒環境と環境に対する考え方︑生活様式︑
習慣︑宗教︑農業・産業の発展︑国内政治︑国際情勢等々の広い意味での文化生
業の影響を受けながら︑時代別の情報の流通.交換の有り様は特徴づけられてい
ます︒
情報は一定の手段によって伝えられています︒古代社会にとっては身振り︑音
楽︑絵︑口︑文字などがそれです︒人間︑げoヨ○の9窟①⇒ωができた時に︑口と身振
りしかなかったが︑だんだん進歩しながら偉大な発明をして︑情報を伝える新し
い技術手段を使うようになりました︒それとともに情報のインフラスタラクチャ
もできました︒そのなかに楽器︑文字︑文房具︑乗り物︑道路︑などがあります︒
人間社会と情報とは︑切ってもきれない関係にあります︒古代にしても︑現代
にしても︑情報の流通なしで人間の社会自体が存在しえないといっても過言では
ありません︒早く︑間違いなく情報を相手に届けられるのは社会の充実した進歩︑
発展の大きな前提です︒情報の面で遅れている国・社会は︑全面的に遅れるほか
はありません︒その理由はいろいろあると考えられます︒たとえば︑人口の少な
い領域が広すぎると︑空間・スペースそのものが信号の伝達に大きな障害となり
ます︒ロシアは広い国土︑豊富な資源があっても︑情報のインフラスタクチャは︑
時代を問わず完成していなかったため︑国家・国民の同質性がなかなか達成でき
ず︑大きな問題を発生させたというのはその典型的な実例でしょう︒物理学の空
間といっても︑人間社会もそうであるが︑遠ければ遠いほど︑信号が弱くなって︑
誤解︑ゆがめることも多くなります︒同じロシアであっても︑地域性がいまでも
非常に目立っている承知のようです︒
奈良時代前後の文化というのは︑今の日本文化と多くの点でいちじるしく違い
ますが︑やはり両方ともおなじく日本文化です︒いや︑奈良時代の文化は︑現代
日本文化のはじまりだといってもいいでしょう︒情報としても︑なおさらです︒
奈良時代には︑情報(とくに文字情報)に対する日本人の考え方が形成しはじめ
られていて︑そしてそのいくつかのパターンはそれ以降もよくみられています︒
そのなかのひとつは︑その時に文字が普及され︑情報の流通︑文化全体がいちじ
るしく変更されたのは︑とくに重要な意義をもつものでしょう︒それらにかかわ
る諸問題は山のように多く︑私の知識と能力を大幅に越えていますが︑歴史学の
一般観点を変えながらその諸問題をとりあげて︑少しでも解明させるのが本発表
の目的です︒今日はこの場を借りてとくに文字文化の情報に集中したいと思いま
(図1)情報理論による通信系
情 報 源
メッセージ
送 信 器
通信路
送信信号受信信号
受 信 器
メッセージ 先
行
ノ イ ズ 源
す︒情報理論によると︑情報伝達は図1のように行われています︒
一番分かりやすい例を挙げると︑ラジオです︒情報源はアナウンサーで︑送信
器はマイクとラジオ送信機です︒マイク前のアナウンサーは声のメッセージを出
して︑電磁気の波に変えさせて︑送信信号となります︒その信号は通信路︑すな
わち空気を通じてトランジスター受信器まで伝えて︑また人間の声に変えて︑行
先の聞き手に聞こえます︒これは通信系といいます︒もし天気のせいで雑音が入っ
たら︑天気はノイズ源と見なされています︒
この情報理論を歴史学に利用すれば︑どうなるのでしょうか︒もちろん︑その
ままで使用できませんが︑一応の改正をしなければなりません︒送信器と受信器
(ラジオ︑テレビ︑電話︑コンピュータ等)のようなものは︑前世紀と今世紀に発
明されたもので︑そのまま奈良時代に適用できません︒ノイズ源としても︑また
同じです︒古代文字情報にはノイズがまったくないとはいえないのですが︑きわ
めて少ないと思われています︒文書が雨に降られて︑文字も薄くなって︑よく見
えなくなった︑または戦争などで文書の情報が届けられなかったぐらいの特殊な
例に限られています(違った意味で情報をとらえるケースは別の問題︑受信器の
人間に内蔵されたノイズ源の問題として見たい)︒そういたしますと︑歴史学情報
(図2)歴史学情報理論の通信系
情 報 源
メ ッ セ
ー ジ
通 信 路
行 先
理論からみれば︑情報の通信系が図2のようになります︒
それでは奈良時代︑律令国家に当たっての情報源︑行先︑
はなんのことでしょうかと考えなければなりません︒ 通信路︑メッセージ
情報源と行先
律令国家というのは︑いわゆる中央主権国家なので︑タテの要素が極めて強かっ
たのです︒ですから情報をも支配手段の一つとして使用していました︒地方に対
して命令文書(メッセージ)を出して国家を統治していました︒平城宮にはいろ
いろな役所がおかれましたが︑話をより分かりやすくするため︑平城宮において
の諸役所を総役所と呼びたいと思います︒そ
の総役所は情報理論の情報源に当たっていま
す(図3)︒
その命令文書の行先はどこだったのでしょ
うか︒総役所の下には国府︑郡衙が︑里(郷)
がおかれました︒総役所が送っていたメッセー
ジの直接の行先は国府でした︒国府はそのメッ
セージを受けて︑そのメッセージのうえで︑
総役所の命令を具体化して︑文書を作成して︑
さらに下の方︑郡衙にメッセージを送ります︒
郡衙もまたその下の里にメッセージを送るこ
とになっています︒
(図3)奈 良 時 代 に お け る 情 報 源 と 行 先
総 役 所
つ\
甌]區 圃
郡 衙
國禽
郡 衙
回 團 國/り\
けれども上から下へ命令の文書を送るだけではなくて︑下から上の方へ報告す
ることもあったので︑場合によっては情報源と行先は逆になります︒それによっ
てフィードバック(コミュニケーション)が行われていました︒
通信路
現代通信路というのは︑主にケーブルや空気や道路となっています︒昔は︑も
ちろんケーブルのようなものはまったくありませんでした︒空気を通すものは人
間の声︑または人間の目に見られるもの以外はなにもありませんでした︒律令国
家には烽のネットワークが整備されましたが︑それによって送信できるメッセー
ジの内容は極めて限られていました︒だから少しでも遠いところの場合︑ロコミ
か文字を記したモノを運ぶほかはありませんでした︒情報(命令文書と報告文書)
の交流に一番関心したのは総役所でしたので︑道路の築造に大きな力を入れてい
ました︒その前にも地域ごとに自然に成り立ってきた道路がもちろんありました
が︑全国的なネットワークは存在しませんでした(古代道路の最新研究としては
吉川古弘文館の﹁古代を考える﹂シリーズの木下良編﹁古代道路﹂を参照)︒当時︑
日本列島を﹁統一国家﹂の単位で取り上げたのはまず第一に中央政府でしたから︑
道路のネットワークも政府の指導で築造するようになりました︒その目的は地域
と地域を結ぶよりも平城宮(情報源)と地域(行先)を結ぶことでした︒
道路ネットワークの築造によってすくなくとも三つの問題を解決することがで
きました︒すなわち︑軍隊の移動︑物資の輸送︑通信(情報)の伝達です︒今日
までに現物運送︑軍隊の移動を中心に道路の研究が進んできましたが︑今になっ
て千田稔教授が指摘されましたように情報の面も検討の的となっています(﹁古代
の情報ネット﹂︒滋賀県立大学人間文化シンポジウム︒平成八年十一月三日)︒道
路の通信路としての機能を考慮しないと︑古代道路の本来的な意義も把握できな
いと歴史学会の大きな動きとして見ていただきたいのです︒
奈良時代の律令国家はいくつかの膨大なプロジェクトを実行できましたが︑そ
のなかでも道路ネットワークを築造︑整備するのは︑おそらく一番おおきなひと
つでした︒中央集権国家の存在そのものが道路の全国的なネットワークなしでは
全然ありえないと思ってもいいでしょう︒ですから大化二年(六四六)の総合的
な改革の計画でもある﹁改新の詔﹂のなかでは駅馬︑伝馬のシステムがきわめて
重視されていました︒その具体的な実施は少しあとになったかもしれませんが︑
改革派の考え方をよく表しています︒
駅馬の制度は七道を中心にしていましたが︑基本的には三十里(一六キロ)ご
とに一駅を設け︑公使が乗る駅馬を置いていました︒七道を大・中・小と区別し
て二十頭︑十頭︑五頭を置きました︒大路は京と太宰府を結ぶ山陽道(外交の重