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(1)

一問題の提起−ふたつの研究硯点︵その一︶ 

近代イギリスにおける社会改良ないし社会政策の展開−十九世紀はじめいらいのエ場立漁労働者保護政許の  

発展から二十せ紅いらいの生汚保護=社会保障政策の前進にいたる1は︑イギリス資本制そのものの発展段脂に  

おうじてふたつの局面を経過してきているとはいえ︑それを社会政繁の理念史としてとらえようとするぼあい︑わ  

れわれはこのくにに特有なひとつの圧倒的なドクトリンー1﹁砂利主義﹂−の支配という事実に気づく・であろ  

うも功利主義は周知のようにジェリミィ・ベンクムとジョン・スチュアート・ノミルというふたつの嶺をもつのであ  

るが︑しかし功利主義の山脈は︑じつはおおくの論者のかんがえがちなように︑ミルをもって平地に接するのでは  

なぐ︑功利主義はけっしてかならずしも︑かつてのステイ⁚クラフL﹁∴‖‖1﹁マンチェスクァ・スクール﹂とともに  

死んでしまったのでほない0ベンタミズムの時期を仙八二五年から一八七〇年度でだといったダイシイ自身が︑じつ  

︵1︶  

ほベンクマイトであった︒十九世紀の八十年代にはいってからにわかに展開しはじめて今日につゞく﹁イギリス社 ノ一  二五   ジョン・ラスキンの社会政策思想︵序説の一︶   一間題の提起1ふたつの研究視点︵そのこ  三 予備知識の整理   ジョ 

二 間題の提起−ふたつの研究視点︵その二︶  

四 タヌキソとアダム●ス︑︑︑ス   身  

(2)

第二十大巻 第二号  三ハ  

金主義﹂の基本理念を︑その視い争たるおおくのフェビアンたち︵ショォからコールにいたるまで︶の労作を中心に  

すこしくわしく吟味してみるなら︑すぐにこのことが明際となるであろう︒−たとえば︑フエビア︼∵スムの価値  

︵2︶  

論は︑ユーティリティの理論いがいのなにものでもなかった︒またたとえば︑功利主義はその忠実な祖述者レズリ   

ィ・ステイーグンから﹁ブルームスベリ・サークル﹂ へと継承ざれて︑ケインズにつながつている︒だからロンド  

ン=ケムブリジ的合理主義の経済政策と︑フチビ7ン社会主義の社会改発とのあいだにほ︑じつほ根本的紅ほあい  

対立する関係ではなく︑むしろ補完的な関係がなりた.っている沌・−−−これほ簡単にいえば︑ベンクムにおける﹁安  

全﹂と﹁平等﹂との論理的矛盾を峯理した結果として︑−あるいは︑ケインズにならってもっとくわしく表現す  

かならば︑ロック‖‖‖ヒューム的な個人の自然権とルソォ=ベイリィ=ベンクム的な社会的平等との不思議な統こ  

︵3︶ 

を論理的にときほぐした結具としで﹁蔓−功利主薬がかえつてその本来の同月としての〝レイショナリスム″をとり  

もどしたことをいみし︑その点からいえば﹁旧自由主義﹂はかえって功利主薬のゆがんだ通用にほかならなかっ  

︵4︶  

た︒チェスクトンのいわゆる﹁ヴィクトリアン・コムブラマイズ﹂ とは︑まさにこのことであった︒もちろん︑こ  

のゆがんだ通用 −フーロソフィカル・ラディカリズム ー を必穿とし︑また可能にしたということ自体に︑十八  

世紀末から十九世紀のはじめ紅かけての︑イギリス・ブルジョアジィの進夢的な性格とその勢力の殿盛ぶりを如実  

払うかがうことができるし︑またやがてこのゆがみを修正せぎるをえなくなったという点に︑十九世紀末のイギリ  

ス・ブルジョアジィの不安と背悩と保守性の成長とをうかがうこ七ができる︒   

功利主義がこのように︑そのデフォルメされた形態−へ 

は︑功利主薬白身にとってほ本来不幸なことでなければならなかった︒︑だが︑﹁最大多数の放火寮福﹂というスロ  

ーガンほど︑弾力性に富む概念はない︒それはちよきどその雛型卜してのリカアドウの賃金理論が︑あるときには   

(3)

わかるように︑政策原理としての﹁ヴィクトリアン・サイショナリズム﹂l功利主謹もまた﹁ヤーヌスわ頭し的な  

相反する二間性をもち︑はじめにはマンチェスタア主蛮の支柱として﹁−ニー・プア・Pオ﹂をささえ︑しかし後  

にはいわゆる﹁下からの﹂ ︵ミドル・クラセズの手による︶社会改良の根本原理トトホブハウスのいわゆるLi軍  

︵6︶   ︵5︶  

邑・SOCia−ism−  として︑依然ヴアヮッドでありつゞけることができたといえよう︒われわれはこの転進の橋  

渡しを直線に実践の面で鐙当したふたりの代表的なウイットネスとして︑ロバアト・オウニンとフランシス︒プレイ  

コンビネーション・ロー.ス スを想起することができる︵﹁団結禁止法﹂疲廃運動の立役者プレイスは熱心なべンクマイトでありマルサシアン  

︵7︶  

であった︒こゝでオウニンをあげることにほ二見問題があるようにみえるが︑その解答は決定的であり︑ベンタん ︵ 8︶  

とオウニンとは実践の上でこそ正反対であったが︑思想的にはベンクム白身はオウニンを尊敬し︑またがウニンの思      ︵ 9︶  憩の板心は経験と合理性と﹁万人の最大畳の牽福﹂とをおもんずる功利主義そのものにほかならなかったこ︒そ  

してまた︑ミルの個人的転回も︑このような三周おおきなこ阪思想の転回の発癌的縮図であったことはいうまで  

もない︒い亨﹂の転進の動力がなに′であったかがわれわれの問題となるのだが︑ともかく功利主嚢の弾力性のゆえ  

瞥−そ︑十九世紀のおわりがちかずくにつれ︑アイルランド土地問題や都市のスラム術問雷が衆目の注視しはじめ  

るころとなるや︑社会改革者たち・1その大部分はミルの後継者であったーーJは︑レッセ・フエール紅枚別を告げ  

ながらも︑個人主義を棄てることなく︑そうかといって大儀の諸思想に軍機をうはわれるこ.となく︵庵つともフラ  

ンス革命の進歩の精神ほゴドゥィンをつうじて︑ま七ドイツ歴史主義ははやくからメインの箆棒学をつうじて︑と  

もにとくべつなイギリス歴史主義を形成し︑これが間接にイギリス社会主義を促進する媒剤となるのであるが︶︑  

﹁社会主我jの立場からの︑しかも資本主義の枠内での︑﹁あたらしい自由﹂kついておおいに語ることができ︑  

二七   ジョン●ヲキスソの社会政策思想︵序艶のこ   レッセ・フエールと労働運動否定と  

(4)

二八  第二十大巻 第一亨  

ウエルフエア また政治家は福祉や労働党の綱領についてたゞちにかんがえることができ︑やがて社会保障=福祉国家をなんの苦  インカム‖メインナナ■ンス  もなくノ﹁所得維持﹂の問題忙集約することができたのであった︒このようなものとしての功利主義−−個人と社会  

ゐ併立とその有磯的結合1こそがオールド・リベラリズムとょユウ・リベラリズムとの最大公約数にほかならな       ︵ 10︶  \いこと軋︑L・T・ホブハウスの﹁自由主義﹂の古典的規定がもつとも雄弁に物語っているところである︒まこと  

︵11︶  

音・lりティ  ウ完フ;       に﹁功利﹂とは﹁福祉﹂そのものにほかならない︵W・L・デイヴィドスン︶︒こうしてイギリスにおける近代社  

会政策概念−;s︒Cialre−︒rm︸u﹂はイギリス蝉有の功利主義にきそ.つ仇られており︑そのゆえにそれが普通の  

社会政策論でとりあつかわれるドイツ講.璽派的社会改発概念1=S︒Zia官︼itik︒﹀− とことなるのも︑当然なので  

ある︵ちなみ紅︑わがくにの社会政策論は︑ドイツから輸入されたためか︑いままでもっばら十九牡紀後半ドイツ  

的社会政策概念の分析とそれをもちいてのイギリス社会政常の解明をこころみてきた食め︑一方では比較研究の成  

︵望  黒をあげながら︑他方でほ稜々の混乱とゆきずまりとをしめしていることは注目にあたいしよう︒︶︒ところでい  

ま︑イギリス社会政策の根本原理としての功利主薬のくわしい分析は別の楓会をもつとして︑このような功利主義  

の論理的発展︑いいかえればをのネガティヴな放任主義の面の棄却から︑そのポジティヴな社会改良原理としての  

確立への旋由はどのようにしておこなわれたか︒まず第一賢しの旋回を根本において必然的私らしめたものほ︑い  

うまでもなくイギリス市民社会の下部構造の変化︑つまりイギリ入籍国主鶉の爛熟とゆきづまり︑そしてそこから  ︑ヴィジョンスケア センス  発生・戯大した具体的・心理的不安感の解決の碧苧十ホブハウスのいわゆる期待から不安への転回と処澄への待  

望にほかならないが︑この点のあとづけほ社会経済史的研究の周知の課題となる︒   

だが第二匹■このことは偲会政策の理念史の上でも︑またじゅうぶんの反間をもつほずである︒それをとりあえず  

エユー・プア・Pl  

セレフ∴ルプチヤⅥティ  一般的に表現するなら︑かっての﹁自助﹂と﹁慈善﹂と﹁新政餐洪﹂の三位一体観から︑貧民・失業者自身の﹁自   

(5)

跡﹂の権利を尊重サるかんがえかたへの移行であるといえよう︒この移行をつらぬくヴィクトリア由白  

そ︑個人kおける功利主薬原理打発露なのであつた︒だが︑もつと掘りさげてかんがえてみょう︒すで誓︑ル匿お ¢  

いてほ功利主義ほ表の変容をうけたといわれる︒しかしそれは︑ヘド一芸ムやレヅセ・フよールの寛服への努力が  

みとめられたかぎり払おいての変容であった︒そしてまた︑ミルの清勅の中心期とフェビアンたちの前進開始との  

あいだには︑二十数年の停滞期がある9いったい︑ミルを変容せしめた思想史上のモメントはなにか︒変容された  

ミノんは庵にになっキのか︒また†ルと八十年代のイギワス社会主義の新展開とのあいだのギャップをうずめさせた  

モメントほなになのか︒ミルを勤拝させたのが理想主義思潮であり︑そこからジンテーゼとしての↓あたらしいベ  

ンクミズム﹂が展開したとするから︑ここには︑イギワス社会政策の理念兜の︑またひろくイギリス社会思想史のう  

︵13︶ 

∨ えでの︑興味のある日已完了的な一課馬が︑よこたわっているといえる︒すなわちそこにほ︑ふるくほシャフツベ  

リ対ロック︑ハチスン対マンドゲィル︑スミス対ベンクムまたゴドゥィン対バーク=マルサス︑といつたイギリス  

盲来の伝統的問題の尾が︑姿をかえて揺曳しているようにみえる︒スコットランド的利他心かイングランド的利己  

心かという問題ほ︑ここでほあたらしい社会史の段階にささえられつつも︑功利主義とそれへの批判者丁理想主  

撃との対立というかたちで︑自足的に展開される︒放任主義としての功利主義が隣利を謳歌し︑みずからを経済  

学の教義と等置せしめ︑しかも他方社会政策の理論が隊済学者たちの仕寄の〟分野であったか.ぎりにおいて︑専門  

の学薯のしめす社会放棄論とはとりもなおさず︑異口同音に︑マルサス的救貪胡と紡績工場主的工場立法反対論︑  

要するに社会政備否定論そのむのにほかなちなかつた︒ペンクミズムへの其の批判者がむしろ原則として添律学  

者や経済学潜のあいだからではなくかえって文学者や評論家や宗教家や哲学者尤どのあいだからうまれた理由は︑  

ここにあった︒ここでほわれわれは︑ジョン・ラスキンをトマス・カーライルやジョン・ヘンリィ・ニふーマンや  二九   汐jン・ラスキンの社会政策思想︵序説のこ  

(6)

三〇  第二十大巻 第二号  

ウォルタァ・ペイタァやマシュウ・アーノルドやチャールズ・ディケンズなどの名前と一緒に︑かんがえること  

︵14︶  

ができる︒これらの功利主義の異端者たちのなかでほとく紅カーライルとラスキンがひかっている︒しかしひとり  

直接にふかくミルの君臨する経済学や社会敵策の諸理論にまで踏みこみ︑孤軍替斗をしたのほ︑カーライルよりも  

むしをフスキンであ1た︒ラスキンの辛刺をきわめる功利主義批判も︑その展開の当時1六十年代−▲において  

はいまだ牛革にたちむかうかまきりか︑あるいは水葦庭たちむかう﹁ラ・マンチアの騎士﹂のようにもみえたにち  

がいなく︑おおくのラ・スキンヘの冷笑のなかでも︑功利主義者たちの柴躊の息英な整理着であり▲コーンヒル・マガ  

ジンの編集者︵一八七山年から八二年まで︶であり︑ 

︵15︶  

のレズリィ・ステイーヴンのラスキン批判は︑象徽的ないみをもてていた︒そして︑晩年のラスキンは︑このよう  

な思想上の不遇にくぁえて︑個人的な問題のなやみもあって︑失意から︑いな︑しかしもっと重要な理由から︑多  

作であるにかかわらず体系朝理論構成をおこなうことができず︑チトピアン・ソシア㌢スト︑エレミア的予貫者と  

しての風貌をますますふかめてゆくこととなる︵ひとがこの段階でのラス針ンをドン・キホトテとよぶなら︑われ  

われはラスキンのなかでふたがのドン・キホーテを区別しなければならないことを注意しょう︶︒それにもかかわ  

らず実際においては︑ラスキ・ンの壮年期の無数の講演や著作は︑意外にもあのトマス・ディクスン ー ﹃時と潮﹄       ︵ 16︶  の諸寄簡の宛名とされたコルク工﹂−−に象徴されているところの勤勉で有能なおおくのイギリスの熟練労働者たち  

にふかい感動をあたえ︑′それによってかれらを﹁社会主義﹂者にまでふるいたたせていったし︑あるいはまたかれ  

︵17︶  

豊試術批評清動をつうじて展心的イギリス・ブルジョアジィにマンチェスクー主義の限界をさとらせたし︑さらに  

冒の最眉のものに盈の序文ぬし・めされた社会改良の処方箋ほけ一つして感傷的ではないどころ郁︑その爵のイギリ  

ス社会改良の具体的内容を︑まったくふしぎにも︑はっきりと予示していた︒じつにこの点に社会政宋思想家とし   

(7)

功利主義にたいするもっともはげしい批判考ブスキンが︑やはり社会改良に嵩献することができたのは︑・なぜか︒  

われわれはこの謎をとかなければならない︒ラスキンの﹁経済思想の再建﹂についての貢献はかれの存命中すで  

に︑完八四年以降のあら⊥写うな﹁社会主観﹂の再興とともに俄攣プレイスされはじめ︑ズ八五年墓病  

の床から担きあが\つたばかりのラスキンほ当時第誹線のおおくの社会主義者や進歩的経済学穿たちからの記念すべ  

︵18︶  

き共同メッセージをうけたが︑この年こそあゝ︑皮肉ばもラスキンが頭脳の健全な括劾を永久にうしない生ける屍      ︵ 19︶  と化した年虻ほかならなかったのである︒   

いま筆者は︑近代イギリス社会政策理念の板心を功利主義にもとめ︑その功利主義の変容−︑科ガティヴな社会  

政策理念からポジティヴなそれへの旋回−のモメットとなった思想の代表としてカーライ′ルとラスキン︑しかし  

なかんずくラスキン︑を理解したいとかんがえる︒ひとたびは社会改良主義とともに復興され︑やがて近代理論の  

受配ととも妃ふたたびたんなる芸術批評家としての地佗に追いやられたラスキンを︑ここに社会思想家︑社会政策  

思想家としての正当な地佗にひきもどし︑しかしかれをなんらかの主鶴的意図をもって賞揚するのではなく︑あく  

までも客観的にその古典としての地位のもつ重賞ないみをみきわめねばならないのである︒  

︵1︶ A●≠Dicey.㌣ざ:芸q︹督責許重訂こ紆頃訂莞−苫㌣ pp・禁Tよ亘 CP Earnest Ba寡er一旬註賢已叫ざ妄g恕言出守  

g訂記札⁚−∞畠こやーかH.U.E●﹀ p﹂∽ド  

︵2︶ L苫評璧こ慧安登こ☆h訂計詳毒−∞00PにおけるレヨオのE誓訂ngeぎー完にかんする説明をみよ︵pワー甲1−べ︶︒  

︵3︶ l・宰・河童nβ\慧忘騒乱やヽ菅野芦ごぎ&−遠か・1i and誓なお︑デイブィドスソは功利主義のなか紅ロックの  

伝統のあることをみとめている︵声L.Daユds書.苫琵琶邑↓ポ旨g記芸向長訂記札⁚罫こ達家温宣ヂ計真也富罫冒  

三脚   汐ヨソ・ラスキンの社会政策思想︵序説の一︶   てのラスキンの存在理由があると同時にその謎がある︒イギリス社会改良の基本理念は功利立番であるの聖 ナ  

(8)

第二十六巻 第二号   

いまだ顕然たるものがある︒﹄︵註軋: p・−べ心・傍点ほ引用者︶  

︵7︶ Gra訂m尋al訂︶ 叫ぎト軋甘長句Y受へ謁七訂c亀︸−∞▲芦 p﹂監・  

︵8︶ Cf◆C●R.Fay﹀ト軋盲亀さ叫卜乱暴ヽ冨≠訂h≦誌訂缶温むC芸≠R︑ジー¢望/p・誓・  

す︶ 森戸辰男﹃オクよン︑モリス﹄昭13︑二二−二六貢︒  

︵10︶ L●T●HObF吉Se︶ 息Y・C芦−paSSi芦  

︵11︶・声LDaく・dsOヂ 尽● 已: pp・争1釘   旨ゝh.らき︑㌣ H◆亡●L・V p・かこ︒  

︵4︶ n・牒・CFestert︒nuゴ訂言誉§倉b訂卜旨・賢声H・亡ト C首・Ⅰ∵ゴの≦︒t︒rian C︒mpr︒mise and−t脇  

Eロ巾ヨi認.ご  

︵5︶ LT.HOb那喜リト誉芸詳畢−¢−−﹀H・U・L:p・H㌶・  

︵6︶ 功利主義のすぐれた紹介者デイダイドスソは︑こういっている︒﹃ユテ.ィリタリアソ︒ラディカルたちにたいして︑   

イギリスは巨大な負債を負うている︒かれらの見解ほ十九世紀の大部分を支配し︑その結果学校でも心理学研究と倫理  

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ  論議がさかんとなり実際政治面ではそれまで夢想だもされなかったはど広範囲の社会改良︑保攣皿法が︑関心事とされ  〜Lll︑1111111︑︑︑︑︑︑︑︑︑   ヽヽヽヽヽヽヽ  るようになった︒その利益ほ今日も感ぜられるところである︒かれらをうどかした精神はなお活動しており︑現在進行  

している社会○政治活動の方向も大部分はかれらの規定したものである︒時はうつり︑修正はやむをえないけれど︑功   

利主義者たちを特徴ずけているす右どい正義感︑貧民や被抑圧者への不断に清濁な同情︑人間福祉への熱情等ほ︑なお  

︵12︶ 筆者は︑社会政築の本質にかんして論ずるぺつの機会をもちたいとおもう︒とこではとりあえず︑せっかくの戦后の  ︶   社会政策論争も︑つぎの諸点をあきらかにしていないことを指摘しておきたい︒芸諷者は︑経済政罪が資本制国家の生  

産力政策であるのにたいして︑社会政策がそれとならんで一般に資本制生産関係の創出・拡大・維持のための資本制国   

(9)

たい︒  

ジョンヱフスキンの社会政策思想︵序説のご   政策の一部門をとおし七あらわれる︶と︑回生活保穫政撃という二本の脚をもつととを理解せず︑三そのため︑まず   社会政策の形成期︵原始蓄積細︶において︑労働関係の創出とならんで窮民対篤として重要ないみをもつ生活保護の展   開︵たとえばイギリスの﹁救貧法﹂五官年の歴史︶を無視してしまいやすい︒いいかえれば︑この時期における資本制   生産関係の創出という︑社会傲策の包括的な性格が無視されて⊥ま㌻︒四さらに論者ほ∵般に近代資本制の発展期の社   会政策の特質1−社会政策の経済政箱︵放任主義︶ への従属七局部化︑生活傑びの無視と工場立法の披行的展開1か   らその危機段階匿おける特質 − 社会政策における︑資本制生産関係維持という一般的本質の顕現︑そのための社会改発   の墓要化と︑かつでの包招性の再興︒労働立法とならぶ生活保護︵社会保険ないし社会保障︶ の前進︑さらた中産階級   の維持策や治安立法の強化−−を︑じゆうぶん区別することができず︑狭義の労働立法のみにとらわれた十九世紀的社   会政策概念をもちいて︑あたらしい段階の社会政策を無理に説明しようとする結果︑たとえば社会保障をじゅうぶん訳   明できず︑それを﹁社会事業学﹂にゆずったりすること紅なる︒社会心理政策︵政策としてのマス︒コ︑︑\ニーケーレヨ   ン︶についても同断︒五これほ︑おもうに︑社会政魔論者がその典拠を﹁資本論﹂にかぎり︑資本論の豊富な歴史的叙述   に眩惑され︑かえって﹁資本論﹂から真に歴史の発展に即した社会政餞の本質理論をまなびと㌃ことを﹁・おこたってい るからにはかならない︒  

︵13︶ フふイほ﹁イギリス社会主義﹂のこの停滞期の存在理由を︑社会史的にくわしく説明している︒C.R●﹃ay.阜邑.†  

pp・ゃだT上野コ.  

︵14︶ Cf・G・戸 C訂st已昌﹀町歌札・なおもちろんこれらのひとびと同志にも小ろいろ対立があった︒このなかでラスキンと   

直接の関係のあったのほアーノルドだが︑ラスキンをきらった理由やかれの独特の文化哲学については︑別にかんがえ  家の政策であることをじゅうぷん把握せず︑二したがりてそれが何直掛の労働関係政策  ︵それは労働力政罪とい  

三三   

(10)

第二十大巻 第二号  三田  

︵15︶ ト邑ieStep訂n∵︵Mr・R戻kin㌦R采ent竜三ingモ㍉買春きこ昏蜃乱暴 l仁訂−讐Pこのなかでステイーグンほ︑  

たとえば︑︑︑ルの﹃商品需要は労働需要でない﹄という命題紅たいするラスキンの批判を︑anine童どab︼Q per諾rSモだ  

といつている︒  

︵16︶ TF︒maS Di望n︵−00∽丁00○︶ほサンダアランドのひとで︑琴南級の労働者の代表であるとされ︑ラスキンにとりまさに   

希望どおりの人物だった︒かれについての詳細ほ 謬設計き1訂・⊆⁝y Edi−1芦宣・雲IH・中のクックの序  

文のなかの説明︵pp﹂賃鼓i−−雲首︶を魂よ︒  

︵17︶ ラスキンがおおくの熟練労働者だけでなく︑一部の良心的なイギリス・ブルジョアジィにも感銘をあたえたことは︑   

ジョガも指摘している︒c†E.R.㌘ase︸ 叫誉加嘗ぎ?亀虫警苫算ぎ払呂& LOnd㌻−芸︵雲th 喜i≡  

Appendi¢漂﹀・nCどding G・甲Shaw︑s twO SFOrt認SayS.︶﹀ p.崇∽.  

︵ほ︶ このメッセージの署名者には︑つぎのようなひと・びとの名前もふくまれていた一声1.AsE蔓 C.芦 野st旨−OV H.   

S・﹃︒書きEをe骨La乱︒yeこ・MacCu芦A・L句errごl・戸Symes︐﹃∵P∵頭a膏r・このメッセージにいわく︑  

﹃われわれのうち経済社会問題につき特別研究したものたちは︑貴殿にたいし︑つぎのような諸点︑とく軋その原理の   

実践について︑貴殿の労作の価値をふかく感銘していることを︑ご報告したいとおもいます︒すなわち︑ポリティカル   

.ェコ′︑︑︑ィは︑それが人間の噂厳と道徳的運命とをおもんずるときにのみはじめて国民の生活や労働にかんする健全   

な法則を供与しうるものであるというとと︒また︑民衆や諸国民にとつて︑完全な人間生活を発展させる紅あたっての   

富の賢明な使用ほ︑その生産や苗穂よりも比戟にならぬはどずっと重要であり︑それのみが後者紅たいしていやしくも   

なんらかの重要ないみをあたえうるということっまた︑義務を立派紅はたすことほ︑権利を厳格に行使するこ上よりも   

もつと真にただしいことなのであり︑競争ではなくて助力に︑自己主張ではなく尊厳にこそ︑生命のカがあるのだとい   

ぅこと︒﹄︵知覧訂軋わ︼さ蒜少ぎl・舛≦Ⅰ・C︒︒kVs一己岩du旨鼠pp◆Cチc鼓.︶   

(11)

年のラスキンの棉神分裂症ぬついての資料を︑一九〇〇竺月二十七日附の聖賢村落賢已︑箋邑掲載の㌦文  

ニT訂㌻te苧.JOぎR房粁−n⁚誉.R宏kinVs七−3ね読品.㌘scき監b︸Himse−て︑︵H・なる署名あり︶ に求めている︒  

︶        問題の線越→ふた 

以上が筆意のラスキン研究の第二視点︑﹀いわばラ欠キンの思想研究上のイギリス社会思想史上での自己未了的な  

課題認識であるものとすれば︑ 

ンの社会思想の本質をあ計らかにするということでなければならないであろう︒周知のようにラスキシはカーーアイ  

ルを終生の師とし︑しかもカーライルはゲーテとの文通やフリートリ㌣大王研究をつうじて︑ドイツ思想への傾倒  

潜であった︒ドイツ特有のローマン思想・神■嘩主義・父権主轟・復首主義は︑ぜずフサートリヒ大王の︑やがてゲ  

ィルヘルム︼せ=ビスマルクの社会政究理念の基礎となり︑歴史学派ないし諦観派社会主義に結晶するのだが︑この  

系譜はもちろんイギリスにおけか理想婁寓の系譜とは似て非なものといねねばならないだろう︒これほスコッ下ラ  

ンド的倫理主義とプロイセン的倫理主義のちがいの画題となる︒しかしそれにもかかわらず︑座薬革命後の資本制  

国家の基本的矛盾にほ︑けっきよく発進国︑後進国の区別ほありえない︒したがつ三党段階における資本制社会  

改良の具体的方策には本館上なんらの分岐もありえない︒ただこの具体的方策を直接にだれが︑どのように︑押七  

すすめるかというところに︑資本制の国ごとの類型におうずる社会政篤胤想の新型または特質が︑うかびでるにす  

ぎない︒それは襲する忙﹁上から﹂のものか︑﹁下から﹂・のものかのどちちかなのである︒﹁上から﹂の社会政策  

琴念をもつとも輿型的忙しめしたのはドイツの講螢派社会主義であるから︑筆者は便宜上﹁上から﹂の社会政策息  三五   ジョン●ラスキンの社会改発思想︵序説のこ   ㍍∵ こ.≡ニこ=二=ご≠.ミ⁝︑・︑:ご︑⁚︑︑こ二ご︑︑ミ︑ミ・:︑三︑︑ミ・一主■一三二︒・て●・芋⁚⁚︒一・りニ√ h一.︑・左⁚∴  

(12)

第二十大巻 第二号  三六  

想をすべてこの名前で呼びたいとおもう︒それにたいして︑他方︑﹁下から﹂の社会政繁思想についてほ︑これは  

﹁下から﹂といつても資本制国衆では労働者の要求が完全紅とおるはずはなく︑それの実現は中産階級の規模とそ  

の協力如何にかかっているし︑蜜元生清保護賓求の細緻的な展開も﹁鮫にむしろプチ・ブルジョアジィおよび熟練  

労働者のカに鼠つことがおおい︒だから真に﹁下から﹂の社会改発の英現なるものは︑帝国主義戦争の終了直后の労働  ヽヽヽヽ  運動の昂揚期にわずかに管見されるのみで︑一般にほつねに表見的に﹁下から﹂の︑すなわちミドル・クラセズ=  

プチ.ブルジョアジィの推進する︑盛会政寛があるのみである︒そしてそれほ︑イギリス功利主艶の社会政策理念  

に︑典型的紅結実している︒−−だから︑′近代払おいては︑あらゆるフィランスロ′ビスト︑あらゆるロマンテイカ  

ァは︑こといやしくも政策間閣にかんしてなんらかの建議をなすかぎヶ︑たちまち﹁歴史派﹂化︑▲﹁講壇派﹂化︑  

そしてついには﹁帝国主義者﹂︑化せざるをえないという事実に︑われわれはじゅうぶん注意しなければならないで  

あろう︒この認識のうえにたってのちあらためて近代ドイツ紅おける﹁ドイツ・マンチェスクァ派﹂の異種性・外  

来低・暫時性と︑歴史主義・講硬派社会主義の隊越性︑后者のドイツ的伝統とのふかい結合︑之いう点に后進国ド  

︵2︶  

イツの社会改発思想の類型をみいだすことができるとするならば︑イギリスにおける近代資本制の確立はマンチエ  ヽヽヽヽ  スタ沢の支配のうちに︑そしてそのおそまきの危轡についての自己認識の端緒はこのマンチェスクー派を攻撃する  

イギリス的歴史主義の陰徴な展開のうらにみいだされることがアナロガスにかんがえられてよい︒イギリスに戊歴  

史主義ほあつた︒しかし︑イギリス歴史豊覇の展開の除徴性ほそのはじ計りから特徴的である︒すなわらそれは︑  

︵3︶  

﹁フランス革命の鬼子﹂ ︵バアカブ︶∴どしてほじめてイギリスに紹介され﹂しかも劇応バークとゴドゥィンの双方  

を︑ふたりの対立紅かゝわらず︑ゆるがしたけれど︑また他方でほイギリス固有の歴史主義の新芽ともいうべきも  

のがアダム・スミスの..﹃国富論﹄のなかには揺曳していたけれど︑マルサスの人口論やリカアドヵの磋済学の超歴   

(13)

史的性格はこれらを屏息させてしまい︑その后も余喘をたもちつづけえたのはコント=ダーク′イン=㌧ス︒ヘンオブの  

︵4︶  

︑︑︑  進化論というとりでのなかにいたからだといえる︒さらにヘンリィ.・メインの歴史法学やジェイムズ・ステイーヴ  

︵5︶  

ンのデモクラシⅠ批判がようやくドイツ的系譜を紹介したばあいにもそれほはじめからベンクムの法学や政治学を  

ゆすぶろうとこころみ︑これによつて従来の歴史主義匿∵履の異端性〜いわば﹁経済外﹂的性格を増加させ︑さい  

ごに歴史主義がかろうじて経済学ゝのなかにとりいれられたと㌢には︑すでに功利主義そのものによつて換骨準胎さ  

れてフチビアー﹁スム.に吸収されてゆく︒このようにイギリスの歴史主義はほなほだめぐまれない経過をたどるのだ  

けれど︑とれはドイツ歴史主義のすぐれて経済的な性格と︑対腰的だといわなければならない︒だから︑ワチャー  

ド・ジョーンズやクリフ・レズリィの経済学にたいするヴィクJリアンたちめ親末な待遇に︑ふしぎはない︒   

とこ・ろでそのぼあい︑われわれほほたしてなんらかのいみでラスキンを歴史主養老と凡て瀧定することができる  

か︒それぞれちがった角度からであるが︑この間題にとりくんだのは1・K・イングラムとハインリヒ・ヴェンテ  

ィヒであつた︒このふたりの登場の時期とそのラスキン評価の仕方とは︑それらがともにその后のラスキン評価史  

ヽ   の基数となったことからかんがえて︑注目にあたいする︒  

︵6︶   

ファビアン社会主義の前進開始のあと数年の余裕をもってあらわれたイングラ.ムの﹃経済学史﹄ 八八八年︶   

ほ︑経済学をソシオロジイの一部門と解し︑がつそれは実証的道徳の研究のもとに従属すべきものとみるのだが︑  

この癖ほマルクスやエンゲルスの名前も︑リカアドオ派社翠玉義者のひとりの名前をも︑あげていない点︑また盲  

典派経済学と﹁歴史学派﹂のふたつだけを対置させ︑か 

る︒その酢あいかれは﹁歴史学派﹂聖輿祖にコントを癒え︑この学派のなか紅じつほ官典的﹁自然的自由の制嘗に 

対するあらゆる社会改良思想を盛りこもうとしたのであつた︒イングラムほイギリスにおけるrl歴史学派﹂の系譜  

一二七   ジョソ・ラスキンの社会政策思想︵序説のこ  

(14)

三八   第二十大巻 第二骨  をたどることを︑まずジョーンズおよびケアンズ▲からはじめ︑︑カーライル︑ラスキン︑バジョットとたどり︑クエリ   

フ●レズウィにおいて基盤の確立をみとめ︑さいごにW・S・ジよヴ′ォンズやA・トインビィについてのべること   

をもっておわっている︒たとえばリカアドウについても﹁経済人﹂の抽象いが■いになにものをも1価値論の㌦断   

片をすら1読みとりえなかったイングラムにとつて︑歴史主諒の経済学への導入こそ経済学の黎明であった︒しか   

し注意すべきことほ︑イングラムこの態度ほじっはそのまゝ︑当時のイギリス・ブルジョアジィのあたらしい態度      ︵ 7︶   なのであったということである︒ド・クィンシィとイングラムとのあいだのリカアドウ評価のひらきは︑ふたりの   

生きた時代牒あいだの断層をしめしている︒イングラムがコン下とドイツ歴史学派とのむすびつけのうちにあたら   

しい動向をまなびとろうとしたのでもわかるとおり︑イギリス・ブルジョアジィほ︒ハリ・コミューンのあらしに無   

関心でありえず︑ことに新興ドイツ帝国の軽々の政策︑わけてもずイツ儒蟹沢社会主轟の別個すべき展儲は︑大陸   

葵芸姦の解焉剤として有効にみえ︑すでに危機感におそわれつつあったイ軒リス・ブルジョアジィを感銘させた   

にちがいなく︑これによってついに﹁進化﹂と﹁笑談主轟﹂の憲ックたる四十年代末から八十年代はじめ紅かけ ︵ 8︶  ての甘さしい安定期ほピリオドをうたれることとなる︒ス八周年にでたジョン・レイの買物﹃現代の社会主義﹄   

はあたらしい感覚粧た?て大陸社会主義のすさまじいうごきをつたえた兜駆的労作であつたが︑そのなかでは講喀   

液が=T㌃s邑a−i巴訪▲邑t訂C訂ir︸−としてはじめてまとまった紹介をされた︒ところでインクラムは﹁歴史学派﹂   

の名のもとに︑社会学的・歴史的視点から︑あたらしい経済学の洋々たる動向を鳥撤する一方︑富の﹁カタラクテ    −  

ィックエとしての盲輿派の本質を暴露し︑かつ﹁歴史学派﹂の名によってイギリスの資本主義の鳩たらしい段階   

貯おぅずるイギリス的社会改良理念が存直しているということをかなり明確紅指摘することができたとほいえ︑か  

か れはまずな粒よりも社会改良の科学的な︑社会史的な意味とその実践との陳腐な況同からまぬがれることができず︑   

(15)

えってイギリスにおけるフランス・ドイツ的なものに志向の眼をむけるにとどまったのであった︒   

こうして︑イングラムにょつてほじめてラスキンほ経済学史上の正式の増佗をあたえられたが︑そのとき古典派  

︵9︶  

批判者としてのラスキンは﹁鮭史主義者﹂︑じつほコント主義者として理解されていた︒だがじっは︑ラ︑スキンほ  

暮 どあらゆる憤激をもってくりかえし﹁進歩﹂主義者たることを否定したヴィクトリアンはなかったのである︒進化  

主義自身の立場からいえば︑それはがんらいむしろ功利主事と一層よく親和しうるもの︑であることは︑ミルのばあ      ︵10︶  

いについてもうかがもれるし ︵ミルほ宗教的・政治的専制骨定論薯としてのコントを始ったのにすぎない︶︑﹁最  

大多数の最大牽福﹂という概念の内容そのものが︑本来のところ︑歴史的にナビくのである︒だからイングラム  

の線でラスキンを理解して満足することは︑緒典としてはイギリスにおける詩壇派社会主義者としての中期ラスキ  

ンの地佗をつかんだことになるとしても︵この点はわれわれののちにあきらかにしたい点である︶︑ラスキンの背  

骨たる反功利主義的な由を︑イギリス社会改良理念の背骨たる功利主義そのもの・に解消させるという矛盾をおかす  

こと紅なるだけでなく︑講噂派社会主義そのものの客観的・科学的解明を断念する紅ひとしいこととなる︒われわ  

れは︑17スキンの忠実な伝記作家たち︑全集編集者たちをはじめ︑イギリス﹁社会主義﹂の前進からラスキンの死  

の前后にかけて続々あらわれたラスキン評価の諸労作が︑じつはほとんどみなもうしあわせたように︑イングラム  

の晩に沿うていたという事実に︑おどろかされぎるをえない︒たとえばラスキン仝衆の編集者のひとりE・T・ク  

ックはラスキンの経蹄学問係Ⅵ労作をあつめたこの欝十七巻への序文においで︑イングラムのラスキン評価の態度  

︵⊥1︶  

をもっともおもんじて長文の引用をしているし︑フレデリッ㌃人リスンは︑/ラスキンはみずからそれとしらず無  

三九   クコン・ラスキンの社会政閑思想︵序説の一︶   さらにま  コント︶ から区別することができなかつたため︑   に  おけるイギリス  

イギリス功利主義のポジティヴな悪童をつかむことができず︑か   の  ︵功利童嚢︶  をドイツ・フランス的なもの  イツ歴史学酵と  

(16)

第二十大巻 第二号  

磨  

四〇  

謀の大柴をたてた社会学薯だといい︵ミル=コントの往復啓簡ほ英証哲学〃社会学が古典的金権主義とまったく別  ライフ  

︵12︶  

ものであることをしめしている︑ 

心魂﹂の生産ないし﹁人間の生命の最高水準における倍増﹂という経済庶勧の目的こそは科学としての﹁社会学﹂  

︵13︶  

や披術としての﹁社会進歩﹂が必須としているところの大切な仮設目様にはかならないといっているし︑ゲツデス  ︵14 はもっとすすんで生物学的見地からラスキンを賞揚している︑等々︒   

ドイツ詩境派とラスキンとの関係を︑たんに社会経済思想の暫からだけでなく︑芸術の暫をもあわせて︑二鱒掘  

︵15︶  

りさげた考察をほたしたのは︑ハインリヒ・ヴェンティヒであつた︒ヴェンティヒはその著﹃経済と芸術﹄にぶい  

て︑歴史学派が近代的社会政策の体系のなかへ ﹁倫理的パ寸ス﹂をもらこおことによって︑ほじめて社会政策その   . 

ものな本来的に可能なものとした点︑そしてその中心舞台がどこよりもすぐれてドイツであつた点を︑誇りをもっ  

てみとめつつ︑しかも﹁社会改質学会﹂の建設薯たちの理念の板心がすでに六十年代のほじめにカーライルとラ 

スキンとによつて根本的にはあきらか軋されていたものであることを是認し︑こうしてかれの実術運動およぴ﹁美  

術的祇会政策の根太発給﹂︵e莞ei讐邑ic訂丁訂OTiの粁∈計t駒eWe邑ic訂りS︒Nia︼p︒≡ik︶ の吊関取の始発舞台をむし  

ろイギリスにとつている︒ヴュンティヒにとつてほ 

呼応し七︑資本制社会の末期的な耽美性を救いうる 

体系なのであつた︒ヴェンティヒはまたごの観点から︑ドイツ講壊派あ巨頭が芸術の問題をゼづとりあっかつたか  

︵16︶  

に注意をむけている︒かれによればグスづフ・シ言ラァは︑つと町一八大五年︑せっかく直観的に倫理的なもの  

︵17︶  

とならんで畜術的なものへの潜眼をもし臥しながら︑そしてシラァの﹃人間の耽実約数育﹄への刻明な批判におい  

て︑むしろゲーテを援用しつつぼとんどドイツの古典的理想主義の熱情をもつて﹁芸術の人間的・︑道徳的内容への   

(17)

のがし︑かえって︑ゲーテは.﹃ファウスト﹄第二部にえがかれたオイポリオンの姿をかりてバイロンを諷刺し︑バ  

イロン的近代芸術が現代人の心をもはやみたしえないことを暗示したのだ︑とかんがえるにいたった︒こうしてシ  

チ竿ラァが孟ハ芸術の意義を否定⊥て心ら′い︑﹁芸術﹂は社会政繁の論議から消え︑ひとりもつぱら﹁倫理﹂だけ  

が支配権をにぎるにいたったのである︒フォン・!フィチュケヘの周知の反駁論文kおいて︑シ三ラアはすで紅 

現したヴエンディヒの労作が︑山九〇九年にかゝれていることは︑歴史的興味を添える︵かれが金井延博士との交 −   芸術の犠牲匿おいて有効な社会故貸を強行サベき克とを主醸する允め︑日常の装飾やおしゃれの手だて︑娯楽など  といったものは︑普通ひとりでにできあがるものだと断言してはばからなくなっていた︒ところが皮肉にもこのあ  いだにイギ具ではその富はただしい芸術の昂揚によ?て︑きよめられ高められていた︒1こうしで︑シ⁝ラ  アの蚤大な過失と︑カーライル︑ラスキン︑モリスの有効な努力とが︑本来できあがっていたはずのイギリス.ド  イツ相互補短の歴史を︑だいなしにしてしまったのだ︑とヴェンティヒはかんがえる︒富だけではない︑つい些芸縮  までが! ドイツ人としてのインフェリオリティ・コムプレックスとそれからの脱出の努力をこのはぅに率直に表  

渉をつうじ︑また寛京帝国大尊での講義をつうじて︑産業革命後の日本の思想界におおきな影響をあたえたのも︑       ︵18︶  

ゆえなき﹂とではない︶︒ともあれヴエンディヒの功績は︑ドイツ詩境派社会主義に欠けていたものをラスキンや  

モリス忙みいだすことによって︑かえって講壇派社会主義一般︑ないし社会政策の父権的・人道主義的理念類禦  

を明確に規定することができ︑それによつて十九世紀イギリス翠想主義の実践の諦観派社会主義としての本質を︑  

間覆にあきらかにした点に︑あるといわねばならないであろう︒   そこでラスキンをカーニライルとともにイングラム的意味払おいてもヴェンティヒ的意味においても近代資本制国  四一   ジョン○ラスキンの社会政策思想︵序説の一︶   理論的軽蔑﹂に反対しながら︑練兵においては超に︑ゲーテの実践匿おいてしめされていた古典的芸術の藩  

(18)

第二十六巻 第二号  四二  

家の上からの改良翠念=講壇派社会主義の・放流に据えをことが可能であるとするなら︑そして講硬派的社会改良こ  

そドイツだけでなくわがくにの社会改良の支配的理念であってきたとすれば︑かれらを古典▼亡して研究すること  

は︑たんに文学上のあるい鱒芸術思想上の興味をよぶだけでなく︑社会思想史探究の上でも豆したより此るかに  

云空費な意味をもつものであることが︑しられるであろう︒つとに社会主義者M・カウフマンがカエフイルやラスキ  

︵19︶  

ンの本質を規定するにあたつて﹁イギリスにおける講藤沢社会主義者﹂という表現をもちいたのは︑もしラスキン  

の全体を評価するつもりであかなら正確ではないけれども︑中期の社会改良ブランの提示者としてのラスキンを把  

握しており︑それはたん・にプリンススミス一・派が﹁ドイツにおけるマンチェスクァ派﹂であったことの甚がえし︑の  

アナロジィという以上の重要な意味をもつものノといわねばならない︒だがまたラ欠キンをたんにシュモラァと同じ  

意味で講壇派であったと割りきってしまうの.では︑ラスキン㌣フスキンたるゆえんはみうしなわれてしまうこと  

は︑いうまでもない︒   

ゎれわれがラスキンの社会思想の本質をあきらかにしようとするばあい︑まヂ妄でほ︑かれの特質はユトピイ  

ン・ブシアリストたるところにあつたということほたしか紅かれの晩年についていえるとしても︑それだけではか  

れの思想家としての類型の本質をしめすことにはならず︑またラスキンがカーライルとともに社会改良のロマンテ  

︵20︶  

イカアでありレアクシオーチトであったとする把撞の仕方︵たとえほゲィルブ≠ント︶はかれとシスモンデイとの  

小ブルジョア的復官主童・古典主義につい七の斬似点をしめすうえでじゅうぶんするどいものがあるとしても︑そ  

れだけでは中期ラスキンの社会改良の意外に現実的な処方箋に限を閉じることになるだけでなく︑﹁P−マン主義﹂  

とぃうごとばの社会史的・理論的意味を︑文学史の上でのあいまいな用法に解消することによって講壇派的社会改  

良一.般の本質にも徹しえないものであり︑さらにこのような解釈.によってはラスキンが功利主義を批判しっづける   

(19)

をあたえたという事実に沢をふさぐこととなり︑けつきよくイギリス的社会改良の異義直別選しえないこと匿もな  

︵21︶  

るといケことに︑注意しなければなるまい︒しかし同時に他方では︑それだけのことをじゅうぶんみさだめたうえ  

で﹂さら紅ラ矢車ンがどういうとくべつな諦蟹沢であったかという点︑‖いいかえれば︑講壇派の義解型のなかか  

ら︑かれ特有の異常な社会的良心のゆえに︑どのようにしてかれがみずから敢えて;ピアン・ブロフェヅトへと  

転進していったかという点︑をみきわめねばならないであろう︒   

筆者はこの序説では︑およそ以上のようなふたつの基本視点から︑盲典としてのラスキンの社会思想を︑その内  

瀞構造︵それを本論の対象としたい︶からで軋なく︑むしろ外部との接触をたどって︑吟味したいとかんがえる︒  

ところでラスキンとイギリス功利主義との対決は︑首典派経済学着金体にたいするラスキンの批判と論争を中心と  

して︑考察することができるであろデ︒とくにここではアダム・スミスおよび1・S・ミルとラスキンとの対立が  

重襲ないみをもつ︒さてまた︑ラスキンが〟方では講壇派社会主義潜・父権的復古主事者として︑しかし他方では  

︑なによりも′山偶のパ/−スナ‖ソティとして︑どのような特質をしめしたかは︑かれをその師カーライルとくらべるこ  

とによって︑もっともよくあきむかにされるであろう︒  

二l︶ その例としてラスキン白身があげられる︒その逆に︑いか紅﹁社会主義者﹂をもって任じてノいても︑﹁功利主義者﹂  

であろうとすればあたりまえの社会改良主義に帰潜せざるをえないことの例として︑C・D・H︒コールをあげよう︒  

現代の良心的ベンタマイーをもつて自任するコールは︑フェビアン協会の講増派化︵=ぎmt訂c訂i㌧︑︶にたいして絶  

えず警告を発し︑﹁民衆にいでて民衆にかえる﹂ことを至上のモッF−としているが︑かれの多元的社会主義もけっき  

よく先進資本制国家の貴族化した労働者の立場から抜けきれないでいる︵参照︑拙稿書評︑﹁G・D︒H・コール﹃社  讐ニ   ジョン●ラスキンの社会政策思慮︵序説のこ   こ︿とによってかえって功利主事そのものを﹁ゲイクト←ソγ的妥協しから解放し︑あたらしい社会改良の前進の  

(20)

合理論々集﹄﹂本論叢二五巻一言号︶︒  

︵2︶ この点︑ドイツ人であ㌢ながらイギリス的社会改良を礼讃し︑その宣伝につとめためずらしい例として︑C.ざ   

Seぎー軍Gae⁝nilN・Z§箕Qざ遅乱筆L苫Nl明−冨・をみよ◇当然︑英訳もでた︒かれほ﹁ドイツ社会政策学   

会﹂ ︵とく竺八九〇年秋の大会︶で講壇派を向うにまわして孤軍欝斗し︑イギリスのゆきかたを弁辞している︒   

一ゴ二こぎ︑丁︑ト・ミ︑ミ︑ミニ1⁝こ︑︑・′⁚ミミ・・︑\予ニーゞ=∴∵∴′二・∴﹂⁝−⊥一−J−⁝−.  

︵3︶ 謬rker一色へ芦V p.−告︑  

︵4︶ Cr・註斡一pp.−全デー一念.  

︵5︶ Cご評㌣ニ写−念−−いー.  

︵6︶ J・戸Ⅰ壱am−ゝ短を宮でく蟄註賢む如誉宝卓Edinburg=∞芦  

︵7︶ Cf・→・D合incey﹀C冨甘乳蓋Qヽ書的責家書§蟹缶♪−∞ぶE琵琶鼓Ed.U軍営1誓  

︵8︶ J︒Fn Rae﹀ CQ温恥S営⊇ミ哲c≠Q訂S︐どndOn−00芦  

︵9︶ 筆者もまた︑独力でそうかんがえたことがある︵﹁ジョン・ラスキンと経済学﹂︑本論攣三彗㌻三合併号所載︶︒   

今からみるとすこぶる幼稚なものであるけれどへ筆者自身︑のまずしいかんがえの発展をみていたゞくため︑参照された  ︒  

︵10︶ 参照︑ミル言伝﹄︑西本訳︑岩波文膵︑二五〇−二重責︒  

︵11︶ 知監託送V∽−苫1ざぎl・舛≦IC︒○打︑sHnt芦pp.Cく−雪i.  

︵空 言d〜書Ha昇◇臼こbぎ詳鼓ぶ1昌dO⁝已君wY◇r=苫ドEn等F己enO−1芸芝Sの1−m∽・写買−声  

︵13︶ l・A・H︒bs︒ヒ︸bぎ評点き診へ乱酔首§きどndO:笠−写00T夢  

︵警 句atりicGeddes﹀ヽ忌適評鼓ざ昏b彗3草−00岸p.声    第二十六巻 第二号  四四  

(21)

lニ予備知識の整理   

われわれはラスキンの社会経済思想を研究するにあたって︑.すでに豊富な盟料をもっている︒まず︑H ラスキ   

四五   ジョン・ラスキンの社会政策思想︵序説のこ   ︵15︶ H乳ロ=CF宅aentig﹀ 登鼠scぎヽh更ヾ説きへ己㌣Jenp−苫¢・l・困a冨e︼・C邑号音中R宏打in︵S・か一声︶・  ︵16︶ 尋a昌tig︺.声争Q: S・た一声  ∴L−ノ・÷ ∴⁝・ニこ幸二一⁚.︑・さ︑さチ︑︑ミ・︑ミ︑∴︑1・・︑︑・亨へ︑︑︑︑︑・⁝・むト・≒︑ミ︑⁚:﹁=︑︑︑︑︑こ︑・手ぎ︑ミニ︑\ご・ミミご.︑ミ   

︑1︑い︑−ぎ︑︑.で\こ︑二=三︑︑⁚︑・︑︑︑︑︑ト︑︑=ゞ・︑︑千こ⁚︑.ミ︑こ︑≡・︑⁝︑︑﹂ニノ二・≡ごい二−・−⁚hごご t⁚・=三・∴∵い・⁚−   

思考がその店二八七四−五年のジスモラァの論争文献..SQ⁝註g亀G㌻道風首g完熟∽恕へ富§諷詠︑吉家鼠手   

許首童︑のなかにもでているとヴュソティヒはいい︑さらにシュモラァ以外に芸術の経済にたいする意義を論じたひと   

としてF●ノイマンとCトキンダ7マンとをあげている︒  

︵18︶ 参照︑河合栄治郎選集第九﹃明治思想史の断面﹄︑三五一︑:豆七頁︒  

トI一′︑.■′=⁚ご⁝=・⁚†=工主⁚・⁚ミニ⁚二ご・ご=て−・㌻二ぎ︑ゝ⁝︑こ︑ミ1ざ︑こ手ミ︑ミ・享︑零︑ミ︑.︑こ︑・∵ご二=ニ・  

可 Bd.S.か拍ふr.  

︵20︶ RObeユヨーb岩ndtu b首hざぎ計註碧海軋町一さ罫簑き努鼠眉苛騒乱言 St已tga三︼やぶドA邑コ・−や山芦 S・㌫−小P  

︵21︶ この点︑大河内一男教授もラスキンを﹃ローマン的社会改良主義者とでもよぶべきもの﹄といつておられる︵同教授  

﹁歴史主義と社会改良﹂︑経済評論︑昭和二七年十一月号︶︒なお教授ほローマン主義と歴史主義とを発展系列において  

とらえむれず︑併列的にながめようとされ︑そのためローマン主義の前近代的特質をみのがしていられるのでほあるま   

いか︒マルクスやレーニンが﹁ローマン派経済学﹂という用語を近代に生かしたのはそれぞれの批判の仕事のために必   

要であったけれど︑ラス′キンのすべでをこの用語で律し去ることには問題がある︒  

(22)

第二十大巻 第号  四六  

ン白身の遜大な労作は︑ふたとおりの全集︵イギリスおよぴアメリカ︶︑とくにE・T︒クックおよぴアレグザン  

︵1︶  

ダァ・ウユダァバーン兵編の完璧な全集︵いわゆる﹁ライブラリ・エディション﹂︶三十九巻となってのこされてい  

て︑これさえあれば諸原著の他の諸版を参照したり引用出典を探弄する苦カをしたりする必要はほとんどないよう  

に配慮されており︵とくにその第十七巻は経済学関係のものをあつめていて骨革また最終巻ほ精密きわまる総索  

引にな?ている︶︑⇔ さらにT・1・ナイスおよび1・P・スマアト共振の宜純なラスキン・ビブリオグラフィ  

人2︶  二巻は︑ふるくてちよっと具合がわるいが︑笠原でわれわれを満足させる︒これに仝集欝十七巻への序で︑クックの  

あげるものや︑クエンネルの雷物のおわりの日録で︑だいたい用がたりよう︒   

囲伝記についてもラ〜スキンはすくなくとも二人の忠実で有能なバイオグラフア ︵W・G・コリンダウッドとE・  

Tlクセク︶にめぐまれていたほか︑ 

おびただしい数にのぼろう︒しかしかれらほラスキンの敬虔な使徒であったばかりでなしかれら自身がグ.ィク 

リァン・ムッドをもつてラ芸ンをとりあつかつ︑たから︑敢えてラスキ′ンの私生活の微妙な問題にたちいっ 

をくわえることをせず︑かれの思想の発展に富大な影響をもったと想像され㌃かれの対両親・対婦人関係にまつわ  

る心意問題ほひさしくヴェールにつつまれたままになっていた︺ しかしこの点もさいきんのアドミラル・サア・ウ  

ィリアム・ジェイムズやピイクァ・ク£ンネルの努力によってあたらしい資料が追加発表され︑おおむねあきらか  

︵3︶  

にされるにいたったといえる︑︒  

由 ラスキン諌価にかんする労作についてもまた︑歯科は盈的にほおお▼′い︒われわれはまずウヰリアム・スマ一  

寸の﹁ラ▲スキン・nプラト・−ンの使徒﹂という解釈を皮切りに︑ゲツデス︑ギピンズ︑︵リスン︑ホブスン︑ペンス  

y︑J・M−・ロバートスン︑シふルツェゲヴァニ/ッツ︑シゼランヌ︑ニッケルト︑それからさきのイングラムやヴ   

(23)

エッチィヒやさらにクックもいれ︑またこぁほか有名無名の内外の紹介論文などをいれると︑ラスキンの死の前後  

にかけて簸数のラスキン評価に模することができるのだが︵くわしくは文献目録参照︶︑これらにおける﹁ラスキン  

粍あたらしい社会学薯﹂という解釈め公式のもつ意味についてはすで紅のべたとおりである︒さて︑あたらしいベ   

ンクマイトとしてのフェビアンたちがカーライルやラスキンの講蟹派兵を本能的にきらつたのは当然であるが︑し  

かしたまたまその代表が社会改良の実践において奇しくもテスキンとの一致点をみいだtておどろき︑感激1∵ア  

スキンの宣伝にのりだしたとしても︑べつにふしぎはない︒それはバアナアド・ショ寸であった︒﹁ラスキン=社  

会主義轟音1オリ・イ的ポルシ£ヴ三エというショォ一流の逆説的見解は︑社箪鱒主主義︵プチ・ブルジョアジ  

ィ︶がポルシェヴィ√スムに敬意を表し操守勢力とのあたらしい斗い軋おい︑て着実監削進するようにみえた際の解釈  

としては︑さもあるべき℃とであった︒初期の河上康博士の﹁ラスキン・=社会主義のヘラルド﹂という解釈もあき  

らかにショォのながれを汲むものであるが︑もちろん後期の博士にょってラスキンやスマ︑アトは︑﹃初賦社会問題  

管見﹄や﹃貧乏物語﹄ととも紅抹殺される運命濫おかれていた︒日本にほじめていわゆる近代経済学が紹介された   

ときにあらわれた大熊信行博士の﹁ラスキン誹審美衰﹂という解釈も︑ユー鮒−クでするどい分析をし超されながら︑  

けっきよ︑く功利主義の立場にたってユトピアン・ソシプリストとしてのラスキンだけをかんがえ 

おい評価となり︑社会改良奉としてのラスキンのプラクテイカビワティとその重要な意味に気づかれず︑ラスキン  

抹殺紅一疲買ったものといえるであろう︒大熊博士の労作は日本におけるラスキン研究にとどめをさしたかのよう  

把みえたにもかかわらず︑日本における詩境派的社食改良のかたい地盤はラスキンを棄てておくほずがなく︑やが  

て近代いぜんの日本風想・東洋思想の復興と全体会義の展開は︑﹁ラスキンい痕分思想家﹂という解釈をもたらし  

たがヽ この解釈ほ前むきにも︵ユトピアン・ソシプリスト︶後むきにも︵苗代・中世的父権主鶉濱︑ロマンテイカ  

四七   ジョソ・ラスキンの社会政策思想︵序説のこ  

(24)

第二十六巻 第二号  四八  

っ︶かんがえられるとしてそれだけでほ社会史的︑普た社会思想史的硯点をあたええないから︑ラスキン吟味  

︵4︶  

の武器としてじゆうぶんに堪えうるものとはいえないであろう︒   

いじょうのように︑多彩なラスキン評価の歴史はじつはそれ自身ひとつの思想兜であり︑また社会史なのだとい  

㌧えるが︑これをみとおすにいたる視点は︑いままであたえられていなかったといってよい︒その点では︑前述のク   

ェンネルのさいきんの労作は︑′直接にはラスキンのパアスナリティにかんする研究なのではあるけれど︑われわれ  

の課題についてもおおくの暗示をあた 

の思想劇放でなく社会政覚思想だけを知るためにも︑ラスキン白身の公開労作だけでなく︑第一にかれと同時代の  

ゲィクーリナンたちとの交渉をつうじてかれを理解せねばならず︑そのためにはすくなくとも1・A・フルード︑  

J・S∵︑︑ル︑カーライル夫妻︑ウィリアム︒モリス︑オクタグィア・ヒル︑トマス・ディクスンなどといつたひ  

とびとの労作・書簡ないし伝記や︑瞥時の新聞雑誌の記事︵ラスキンベの批判︑ラスヰンのそれらへの投稿とその  

反響︶.に注意する必要があり︑第二に多作なかれの攣からもれる日々Hの私的記録や無数のひとびとの無数のコレス  

ポンデンス ︵とくに父とのそれが畳襲︶が大切な盟料だが︑これらほさいわいに必要な大部分を前記の全盛やクッ  

ク︑‖コリンダウッドの伝記紅おいてみることができる︒   

いずれにせよこのように取り揃えられた資料があるからには︑あたらしいラスキン評価もその水準からほじめら  

れなければな首ない︒   

いま筆者はこの序説においてラスキンの伝記や著作の状況︑各署審の紹介などについての一校的な説明をかく余\も  

裕をもたない︒ラスキンの伝記についてひととおりの心得のあるほど一のひとはみな︑かれの生涯︵㌦八一九I﹁九  

〇〇︶がちようど山八六〇年というかれの一生のまんなかの年を頓にしてふたつの活動期にわかれており︑H 前   

参照

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