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Academic year: 2021

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(1)OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ. 研究ノート. 6世 紀 ロ シ ア の 所 領 構 造 1 一一山ブイゴロド村とその部落を例として一一ー. 細. 滋. 1 ). I はじめに. 陥, の試論J j わが国で は,時昌 太氏の「 封建制成 立期ロげ の農業構 造一一つ 設業構造全般の問題 賦役に関する論稿を除いて,農業構造に関連する論稿は皆無であど zばぬところであるので,本稿では,定住形態との関連で,伊藤氏も j を扱うことは筆者の J (5) (9.. て,その所領構造 先の論稿で言及している御料地プイゴロド村とその部溶を分析対象とし. l ;. 提示しようとす を明らかにしたい。一般的に所領構造を論じるのではなし個別的な例を 研究を地域史研究と結び るのは,浅野明氏も指摘しているように, ["個々の所領の多面的な (6) ,本稿では一般的 つけていく」という方法が有効であると考えるからである。したがって を明らかにするよ 問題にも言及するが,主要にはプイゴロド村とその部落の具体的な構造 めの準備的作業とし うに努め,ヱド稿での検討を通じて今後の所領構造・村落構造研究のた 。 5年 6 9 9, 1 (1) W歴史 1 2 世紀ロシ アの領主 直営地と 農民賦役 J W史学雑誌』第 世紀末 ‑16 5 1 (2) 石戸谷;重郎 r 。 年 7 7 9 1 , 号 6編第 8 8 伊藤氏が引用しているもの (3) ソビエト史学においても,農業技術に関する論稿は, eB,PycCKafl Ip .erT5 l .l 1 .$ A , ついては 住形態に ある。定 いようで 以降は,出ていな 0がある。 8 9 1 , 凡 l f u H e ω VII8eKaX. O~epllu ucmopuucellbCIIOZOpaCO l8XV‑X f H 8 戸' . e d の例と 巨大な村 な場合の は,極端 。伊藤氏 ) 8 2 ( 註 9ページ, (4) 伊藤,前掲論文, 5 して,このブイコ守口ド村を挙げている。 . H チホミロフは,この名称を,この村が当初小さな市であったことを想起 . )M 5 ( 2,crp. 6 9 .,1 muu. M ωe l 8 XVIcm f U C C O 1XOMHpOB,P . TI .H M させると考えている ( 0 1) 2 1 , 号 3 0 歴史学研究』第 5 r (6) 浅野明「わが国におけるロシア中世史研究の現段階 J 0 1 詑 ぺージ, 1 2 , 月 4 0 2年 8 9 1.

(2) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ 第 56 巻 第 1号. ‑418‑. 418. たい。 なお,本稿でブイゴロ1"1せとその部落を分析対象とした理由は,この村と部落とに関連 した史料が,所領構造を検討する際に必要と忠、われる要素を含んでいるからである。 さて,本稿で主要な史料となる COTHall は ,. r 土地所有者のために作成された,土地合. (1). 帳からの抜書記」である。土地台帳そのものについての議論もあるが,本稿では, COIHall を当時の所領の実態をある程度反映しているものとして利用したい。 地図 I モ ス ク ワ 侯 国. ラト. ペ 吋. ノ 今. ッォ;. 3 0 0 回 ・ 喧 圃 園 曲 剛.... k m. (R E F S m i t h,P刊 s a n tF a r m i l l gi nMuscovy ,. C a m b r i d g eU n i v e l s i t yl ' r e s s , 1 9 i i, px i i ) ¥a J lb H O r O淀 川 eB江a l ¥e H 1 1 H1 1X 0 3目 前c r B a パ ・ ! I , M ,1956( I ¥ anee‑Aφ3X,'1.I I ) , (7) A K l b l中eOl c r p .6 1 1 . H.アンピロゴフは C O I H a l lB b I n1 1 C bあるいは CO lHa HrpaMora を土地台帳. r .. あるいは検地帳に基づいて作成され,土地所有者から支払われるべき額に関する告 知のために土地所有者に交付されたもので,原本あるいは適当な写しがない場合, 個々の領主経済を研究するための貴重な史料であると捉えている ( r .H.A H n 1 1 . n o r o B , K1 1 3 y 4 e H 1 1 ω n e p e n 1 1 C H b l XM a r e p 1 1 a n o Bcryl ¥e HraMH‑H Cr o p 1 1 K a M 1 1 (HeKorOpb I e M erO I ¥ 1 1 4 e ‑ C K H e3aM 明 a H 1 1 H1 1Ha6mo l ¥e H 1 1 H ) . (BecmHuK. M ,O CK ω ,C K 0 2 0yHueepcumema) 1975 ,. N o . 4, crp.77)0 .MH J lO B ,Mero且onor削 eeKHenp06JleMeHcr041111KOBel ¥e Hl 1Hn 1 1 C U O B b l XK H H fC 0KOHue‑ (8) 凡 B .6 .BecenOBcKoro: J . (Hcmopu51CCCP),1978,. N o2 .J l .B . ミーロフはこの n U 1 1 1 1C 論稿において, C .6 . ゥーェセロフスキーの, ( c o l l i H o en 1 1 c b M O ) 体系の基礎に土地に K 0 4 1 1 H, 関する課税 躍があることを否定する見解に反論を加えている。なお, nUCl ¥ O B b l eK H 1 1rH B6yplKy a 3 1 1 o HI 1c r o p H o r p 仲間。 ( n p o 6 / l 例 b lucmo 制 u K o e e d e H U 5 1 )C 6 .! I , M.ー凡, 1936,crp.145‑186を参照されたい。. m. r ..

(3) 2 5. 片 5 0. 一 一 … 一. 同由時諮口や¥刈日)剖弔岬国議い俗. k m. 2 o. ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 郡 士 克 o ' l I i の中心. 一 一 一 一 一 一 河J I I. 一 一 AFH 由. ( 只 .E.BO, l ¥a p c K H H, HaceJleHUePoccuu s KOH ,ue XV I I‑ Ha日a f l eXV I I IseKa ( l . f UCCJleHHOCmb ,COCJlOsHO‑KJWCCOsblU cocmas,fX13MeU{eHUe). M.,1 9 7 7 ;CTp. 248‑249).. 地図 1 1 モスクワと周辺の郡. 一 一 一一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 …一 一一一 一. OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ v i ーとh.

(4) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ 420. 6巻 第 1号 第5. ‑420‑‑. I クォロク 郡・ノレ ヂ郡とそ の周辺の 郡 I 地図I. ト. 仲 ウ Z. 3j 郡. 3. 1. 2 ウォロク郡. )ン郡 ク1 :る. 。クリン. 1 1 . 0・ 9 1 ¥ 2 1. , .~.... ". 円. ・. 5. 7. ドミトロフ郡. 7 6:. ウォロコラムスク o. ァ 、 .. . . . 4 . 1 8・・・・・・・ ..••. 1 2 1 ' 9 .. 九九. 8 1 7 f . 2九. 。ルザ. 仰 < T (. 車 古 備. L. 郡. ︒ズヴュニプロド. モジャイスク郡. レ J ザ. ) e C l J. . コlレ"7スキー 3 ラムスキー . ) 2 ウォロク郡 スタン: 1 イス。デェテェム 1 =ヤユコ'7 5 ラホフ ι.6 セス}リンスキー 7 スタロウォロクスキー 4 リω 1 ヴィシュンキ 0 ヤロポルチ 1 8 ホヴアンスキー郷 :9 '7ェドロフスカヤ 1 2は御料地) 1 . ‑ 0 1 , と る よ に 6 3 2 . p T C 均 ∞ . 3 a K Y , i 間 c p a 1 i o B . E ド村(究 ゅプイゴロ 2 1 村 8 リニャニコ 7 ルザ郡 スタン: 3 ヴィシコフス者一 7 ロクノシスキー 7 ユーリエフ・ 2 ス キ ル マ ン ス キ ー 郷 :1 1 セストリンス者一 1 9 ラホ 7 1 ン及びホルワチ郷 スロボダー トヴェーリ郡 スタシ: 3 ミクリンスキー・スタ o仇 .c s a K Y ' i, i H K C p a 1 i O .B クリン郡 郷 : 1 コピトフスカヤ 3 ノーヴォエ村(只. E 9によると 1は御料地) 3 p2 r c れ.

(5) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ 4 2 1. ‑421ー. 1 6世紀ロジアの所領構造. I I プイゴロド村とその部落の沿革 ブイゴロド村はウォロク郡に位置しているが,このクォロク郡は隣接するノレグ郡と共に 当初クォロク分領侯国内あわ 1 4 9 4 年に 2つの部分に分裂したもので,地図 I I Iに見られ るように同名のスタンが前郡の隣接部分に 3つ存在している(リニヤニコフ,ラホフ,セ 0 1 7位紀の 20 年代にこの両郡にはヨ νフォ・ウォロコラムスキー修道院 ストリシスキー ). 領の全面積の約 4分の 3 (73.9~ぢ)が存在し,とりわけ/レグ部には 46 .45ぢ存在し,クォロ ク郡には 27"5% 存在し tいた。そして, 1 4 7 9 年創設のこの修道院の所領形成に際しては, 両郡の世銀領主,ワォロク分領侯(ノレず郡のイワシ・ボリソグィチ),後にはモスクワ大侯 が寄進者として登場している。 ところで,ブイゴロド村にはかなり多くの部落が腐しているが,それらの部落は, セス トリシエスキー・ヌタシ,ホグァンスキー・スタン,スタロワォロクスキー・スタシという 複数のスタン(郡の下部単位〉に属している。このよろな村と部落の存在形態については 後述するとして,まずはヨ νフォ・ワォロコラムスキー修道院領をはじめとする土地所有 関係を,ブイゴロド村の部落が腐している 3つのスタシについてみてみよう。 手掛りとなるのは,当修道院領の形成過程一寄進,購入,交換ー及びそれに伴う境界の 提示に関わる文替の検討である。とれにより前述の 3つのスタンには世俗の土地所有者= ( 1 0 ). 領主が相当数存在することを知ることができる。家系としては,メチョフ, ( 1 2 ). ( 1 3 ). ( 1 4 ). ( 1 1 ). トノレプジン,. ( 1 五 ( 1 6 ). ( 1 ' 7 ). マリニン,ビピコプ, )レジェブスキー,ホノレムスキー,スカメイニコフ,ポレツキー,フ ( 1 8 ). ( 1 9 ). オーミン,ェ νポフ,. ( 2 0 ). ( 2 1 ). ( 2 2 ). ( 2 3 ). ミジュエフ,ブノレ νロフ,ノ')レチェネフ,クロカチョフ,オラディ. (9 ) A .A .3HMHH,KpynHaflι φoda/lbHa5160m叩 :HaUι o ,uua! lb Ho‑.nO / lum 山. e C K a f l6 o pb6 a6月ひ. ι CUU ( KOHe ,u XV‑XVI6) M ,1977,c r p,1 8 70 ( 10 ) Aφ3X , 可 .I I ,必 6, 7, 3 1 3, 319, 3 3 0, 3 6 6。 ( 1 1 ) T ; 似 問 必 7, 1 4 2, 1 6 4,2 5 1, 302 。 ( 12 ) TaM加 島 必 9。 ( 13 ) TaMフ 問 必 1 9,1 0 4,2 3 2。 ( 14 ) TaM)ICe ,必 2 9, 1 4 2, 2 4 2, 2 5 0, 2 8 0, 3 0 2, 3 0 5, 3 2 , 1 3 2 7, 3 2 9。 ( 15 ) Ta.M ,~問 .Mì 36 0 ( 16 ) T a . M . ? l a, , i M .98, 116, 232。 ( 1 7 ) TaM)1偽 λ~.98 。 ( 18 ) TaM?lCe , 必9 90 ( 19 ) r . 仰 2児島 . M i . 9 9,2 3 10 ( 2 0 ) r.制御,必 1 1 3, 1 6 4, 2 5 6, ( 21 ) r . ω ?lCe ,. M i J26。 ( 2 2) TaM) ! C e ,λ , 6 . 15 5, 1 9 4, 1 9 7 ( 2 3 ) アωt . ? l C e ,必 1 5 5。 0.

(6) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ 4 2 2. 第5 6巻 第 1号. ‑422ー ( 2 4 ). ( 2 5 ). ( 2 6 ). ( 2 7 ). イシニプロホイ,エロプキン,ラキティン二ネリドフ,ベレクートブニリャプチコフ, ( 2 8 ). ( 2 9 ). 叩. ( 3 1 ). ν. ,~(33). ( 3 2 ). ャトコフ , V ーニー,ポーレフ,ジートフ,グレボフ,ホヴアシスキー侯,オボ V ンスキ ( 3 4 ). 、. 一侯の存在が線認できる;とれらの中には世襲領主!霞,ジェチ 二ボヤーノレヌキエ屑に属す i. る者という追いはあるが,いずれも世俗領主である。特徴的な点は,果、土に関する文書が 全く欠け℃いる点である。これは史料の性格にも関わる問題であお"この点については. ョνフォ・ワォロコラムスキー修道院に対するインムニテー}状の中に,一般的表現をと ( 3 7 ). ってではあるが,百人長,十人長への言及があり,その存在を全く否定してしまうことは できない。 貴族領,修道院領,封地の存在については,後述する イワシ三世がクォロク侯フヨー ドルとイワシに交換によって得た所領の代償として}グヱーリからブイゴロド郷とヨノレピ 郷を割いて与えた際の 1 4 9 7 年 7月付の証番中に,これらの郷にある貴族及び修道院の世銀 領及び購入地に関する裁判とダーニはブヨードノレとイワシの管轄となるが,貴族,ジェチ (お). ・ボヤーノレスキエ及び修道院は従来通り自己の所領を有する,とされていることからも明 らかであろう。 このように,ブイゴロド村の部落が属する 3つのスタシの土地所有関係として,黒土に TqM. 問Ko J58,2 5 4。 ( 2 5 ) . r ω 峨 必1 7 0。 ( 2 6 ) TqM~κt?, K o J5 , 1 1 5 2, 1 7 1。 ( 27 ) . r 制 問 必1 7 1,2 3 1。 ( 2 8 ) T a M. ~ιt?,必 186 。 ( 2 9 ) T a M. 峨 K o . 2 4 0。 ( 3 0) TaM. JIC ,e 必 2 5 9,3 5 4。 ( 3 1 ) T a M. . ' J la ,K o . . 3 4 3。 ( 3 2 ) . r 仰 J l a,K o J94,1 9 7。 a M. . J l C e ,K o J53,ホウ、アンスキー侯は,ホゥーァンスキー・スタンという名称から ( 3 3 ) T 判断して,このスタンと密接に結ぴついていたのではないだろうか。 ( 3 4 ) TaM.') 克 己 必2 0 7。 .A . ジミーンの前掲替は, 15世紀末一 16世紀のヨシフォ・ウォロコラム ( 3 5 ) なお, A スキー修道院領の社会構造をロシアの社会政治史及びイデオロギ一生活と密接に関 A .A .3HMHH,Y K a s .C O , . t ' crp. 6 ), 連させながら研究することを課題としており ( ここに挙げた家系の個々の人物について,修道院との関係,修道院への寄進も含め て,詳しく記述している。 ( 3 6 ) 現存史料が,結局ヨシフォ・ウォロコラムスキー修道院に関わるものはわミりであ り,関係がない場合には,史学!として残らない, という状況がある。 ( 37 ) 例えば, Aφ3Xパ.I I,必 3 0 2。 ( 3 8 ) 且yxoBHbleH1 l 0 r O B O p H b l erp a M O l b lBenHKHXHyI le.~bHbIX K I H 1 3 e i iXIV ‑XVIB B .M .‑ J I ., 1 9 5 0( , ' lanee‑nnr),No8 5。. ( 2 4 ).

(7) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ 1 6世紀ロ νアの所領構造. 423. ‑423ー. ついては不明確であるが,貴族領,修道院領,封地があったことが確認できるであるラ。 では, このよ 7な土地所有関係の中でプイゴロド村とその部落はとのよろな沿革をたど ったのであろうか。. 4 9 7 年 7月付のイワン三世の証書で,とこでは, ブイゴロドという名称の初見は,前述の 1 プイゴロド郷とコルピ郷を村,部落,荒蕪地,草地,草刈地,森林,猟場,野生蜜蜂房及. 0年 6月付の び金付属地共々与えよ39)となっている。とのブイコe ロド郷という表現は,日7 ( 4 0 ). ( 4 1 ). 勝本にも見られるが,一般的にはプイゴロド村となっている場合が多い。ブイゴロド郷と. I I プイゴロド村との関係を明示するものはない。ただ,クォダーノレスキーによると(地図 I 参照), 1 7世紀末から 1 8 世紀にブイゴロド村は村であると同時に郷でもあったとされている ( 4 2 ). こと,先のイワン三世の 1 4 9 7 年 7月付の証書中のブイゴロド郷とトグェーリとの境界を示 す際のブノレゴロドカ川, セストリ(ないしセストラ)川,チョーノレナヤ川等の共通の地名,. I I参照)等から判断する限り,両者が全く無関係であるとは考 プイゴロド村の位置(地図 I ,r プイゴロド村だけ(部落 えられない。この点で, ジミーンは「ブイゴロド村とその郷J ( 4 3 ). 郷」と表記し℃いる。本稿では,ブイゴロド村を含むブイゴロド郷が, この. を除いて). 1 4 9 7年 7月付のイワン三世の証書によってクォロク郡に編入されたと考える。 1 4 9 7年にク対ロク分館侠領となったブイゴロド郷は, 1 5 0 6年 4月頃のヴ才ロク侯フョー ( 4 4 ). ドノレの遺言状にもかかわらず,ワジーリ一三世のものとなり,この時点で御料地とされたよ うである。最大時には表 Iに示された付属村,部落及び新開地を有する大所領であったと 推定されるが,付属村,部落及び新開地を寄進,交換の代償とすることによコて所領規模 が縮少し, 1 5 7 9 年 7月 1 4日付の証書ではプイゴロド村はヨ νフォ・クォロコラムスキー修 ( 4 5 ). ( 4 6 ). 道統領とされている。が,後には再び御料地となるようである。ここでは, 1 6 世紀に限定 して,その変遷を表 Iの数字に対応させつつ示してみよう。 TaM /K X !, Aφ3X,'1. I I,必 3 5 3 Tω~ ? l C f ! ,. N o J28, 1 7 1, 1 7 8, 1 9 6, 2 5 0, 2 9 5, 3 0 2, 3 0 9, 3 6 90 丸 E .BO.l~apCKHH, Haceilellue Pocω u e KO, u l Ie XVII- lI a~aAe XVllleeKa(l . f u c A e l l l l o c " mb ,ιOC . i l 0 6 1 1 0 ‑KAaCC06 b t i icocma6 ,pa3Me / 1 le l l u e ) .M . .,1977, Clp 236。 ( 4 3 ) A .A 3HMHH,YKU3 CO, 吃c r p .1 8 1。 ( 4 4 ) 1 l 1 lf,. N o . 9 8。この逃言状では,ヨシフオ ウォロコラムスキー修逃院に寄進され ることになっていた。 ( 4 5 ) Aφ3Xパ.I I,必3 6 90 ( 4 6 ) 只 .E .BOJLapCKHH,YKa3 ω, 吃C T p .2 3 6. ( 3 9 ) ( 4 0 ) ( 41 ) ( 4 2 ). 0. ゎ. 刷. 0.

(8) 3 ( 2 ). 8. 3. 3. T l 1H n 0 4 . KOC. 日 開. OCTaW08. 日0 4 .5emeB. 68. 134. 267. 200 1,. 3 0. 1, 690 45. 1/61. in4qO8aτEanon'oOAwd'i'A イ. Aυ'A. ︐ ︒A. 唱. 2 0. 9. I ¥ e p .TapaCOBO. u q o dせ 'bau 勾toonwuAUtA A ' i ' i 唱A ' A 1 1 唱 ー の 4 のL 唱. 2 0. 1. Bに属す. H. 恥. 恥. N. 同 哨 朗 自 拙 附 仙 世 H 由叫. I ¥e p.λeSOHOBa. 6 0. 1 7 . 5. I ¥e p .OJlyHneeBo. 2 0. 5 9. I ¥e p .CMeT8HHHO. 且e p.606p080. n 0 4 .6yT8KoB. I ¥e p .YC08a. I ¥ e p .. l .eHHcosa. J l e p .6 opOB, l e B a. Bに属す. H. 且e p .P b l C K y H 0 8 0. I ¥e p .KYPKHH1 1 0 可.. 1. H. 1. 1. 且e p .XOpe88. 3y6KOB. I ¥e p .KyI ¥ H H 0 8 0. 日O 可.. I ¥e p .Kapn08CKa日. 1. 26. 考. Bに属す. 3. 8. 3. 3. 2. 7. 才 プ 森 林 等蔵 { c o x a ローク. 日0 ' 1 .KOHH凶 es. 81. Q , . 1 l l I 品 目 も. Kpe価耳目・. I ¥e p .Bo p O I I I I H a. ,. 2. I ¥e p .r Je T p O K 0 8 0. . r 0 ' 1 .OKCeU080. 26. 7. 75. 8 b l T H b l eH e B b l T H b l8 b I T H b l e H e 8 b r l 1 i b l e 領 主 の農 民 の 領直領地 主農保有地 民子 草 ¥ H J I I O 且H 1 ¥ 8 0 P b l 且. B O P b l JIl0l 干 草. I ¥e p .CTaUHMHp080. Ce, l O6yiiropol ¥. 集予喜名. 表 I ブイゴロド村とその部落及び新開地. OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ AFMAF. uqO qu︐ nu ︐ ︒ u︐ ︐ ︒. 訓告.

(9) z. , I le p .Ty6a1 0 B O. nwuAHV''A nL ﹃υntu ﹃υ. ︐ の. d a τ 屯 qυ. ︑ 戸 υqtuq. 内毛. 唱 i n︐ υnhuntABABAυ u 合U uaa‑aazaa‑‑ 内 内︽ υ 4. 2 5i. , I le p .C T p O M H . n b U O B f. h ー恥N. J I. H. Bに属す. 由直首ロや ¥UW向)出羽両凪議出附. ,. 7 . 5 5 6. , I le p .J I a 3 a p H K O B a. J I. J I. H. Bに属す Dに属す Bに属す. Cに属す Bに属す. ". Dに属す. ". Bに属す. ". Bに属す. H. , I le p .KpynHHo. 2 0. 7 . 5 7 . 5. , I l e p .OCTpOlKK ll I IO. 2 0. 6 0. , I le p . φ比1 H日O BnO 可.. 2 0. 2 0 7 . 5 7 . 5. , I le p .PenI lU ¥ O. , I le p .ny6poBKa. E p . A K 0 y 6 q b H I A H b H H H J K I O y B H O a 43 A. 3 0. 。. 4 0. 7 . 5. 40+90. ,Ilep.4的pll,lb~OBO. , I le p .~3bIKOBO. 25+30. 20+15. 7 . 5. 2 5. , I le p .KypbHHOlKK a. 7 0. 且e p .rO J l O B O B K O B O. 6 10. , I le p .CepKOBCKan. 1 2. ,. , I le p .6 e1 3 Hn y 6 p o o a. 2 5. 3 0. 1 2 . 5. 1 0. 6. 5 0. 1 5. 1 2 . 5. 2 2 . 5. 7 . 5. 3 0. 2 0. 景J 壬. A F N印. 4 a c r o eny6be , I le p .60 , l b l U O e. , I le p .M b l l l l K I I H O EP q a c T O El i Y 6 b e 33 , I le p .M e H b l 日o e. , I le p .口o n O B K I I H O. , I le p .naHHHO. , I le p.60p山 O B K a. 1 .5. 1 3. 9 . 5. 6epe30Ba列 2 8, I le p .K . n e T K a. の. ,. 4. オ ブ p e B b I T I l b ) eH e B b l T l l b l eB げb H H ' b l T H b l eH e B b l T H b l e領 玉 農 民 領 王 の │ 農 民 の K 森林等備 K a HB b l T b c . o x a ローク , I lB O p b l , < 1 1 0 . 且M 直 領 地 保 有 地 干 草 子 草 C I l B O p b l A同,IlH. , I le p.6ypoe. ︑ FυFnv︐ n・ 4049u. , I le p .KonaeBo. 集落名. OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ 叫a t e a e. aaτFDハOntoE aAτa告 a各 ABA‑A.

(10) 9uqusTFD 戸 dFkd"hd F h d h. η i o B A U d A U 1 A 9 quanTRUFO 戸 dp ﹁ υnhυρnvpnupnv h ︽ u pれ F k d h vpnu. e p . K H H o P q H . k m o B m C K T O K H O H 72 A. le p .YC K H p e B O 70 ! J J a 3 H H K H H O 7 1i l e p .3a6e. lH H O. p .n ( ) リ .T p o 中日同B 6 9 且e. 晶晶. 一一一ー. 7.5. 」ー』ー ー. 30. 18 3.5. 1 5. 5. 1 5 10. 1 5. L←. 一一一一. 1 1. Bに属す. Cに属す. 1. Bに属す. ". 1. Cに属す Bに属す. 1 1. Bに属す. 1 1. 1. H. H h山. 7.5. 1 1. H. 滋. naBJIHKο可日O~.. 8 20. 40 20 1 2 0 +1 , 0 0 0 20. 5. 50 20. 。. 7.5 1 .5 7.5 8.5 7.5 17.5 13 10 5. 3.5. 5. 20 30+10 10 12. 1. 10. 7.5 1 5 14 5. 1. 20. 1 0. 識問由州附. 67 i l e p .O n . XOBeu 日 。 可. 3 a x a p K O B 68 且e p .X a p l l T O H O B. オ ブ 民領王の農 民 の p e C T b H H ' e B b l T H b l e領 主 農 B b l T H b l eH e B b l T H b l eB b l T H b l eH 森 林 等備 考 K a 耳B b l T b c 草干 草C o x a ローク AO i ¥ H 直 領 地保 有 地 干 i l B O p b l i 11 0 且H ¥ B O P b l . Bに属す 25 10 I. ー恥 NG. i l e p .60 n . O T O B O i l e p .MHKyJl附O I l e p .J J e B o H o B日0弘 ! le p .KOpHH.~KOB nO 可 . i ¥ e p .n a H K H HnO~. i ¥ e p .nO~. 6 op o K i ¥e p .C y K o B a T H K i ¥ e p .K o c r e H o BnO~. ! le p .K 0 6 b l J 1 e i i60p ! le p .n y p b l W O BnO~.. E P . B I n l y o q P . K O B C K H I I 56 A. i l e p .CT a p o eH a c O B O i l e p .日 目B O B a p O B O i l e p ., 61 H H O B O i l e p .出yMHTHHO. 50 i l e p .r .IIa3a~OBO A T O H O P O B C K a 耳 5 1 e p .MHT 日H a. l e p .C T e n a H O B O 4 9i. 集落名. OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ A F M. ∞.

(11) ・ ︐. 作毛. υaaτP町リv. n n''n. . ︐. 一一一一一一一一一一一. J ¥K 刷。 c eJ¥ona A e p .CeAeJ¥H H' Ie . l b l H O A e p .Tpy6Hl A e p .n y 6 b l H H H O A e p .KypKOBO 且e p .rJ¥a 3 0 B O A e p .C T P O K O B O 且e p .raMHAOBO 只r H H O A e p .PeM A e p .T O n O p O B O A e p .OBCeeBO (81‑90の小計) 1 ‑ 9 0の総計) ( 8 0及び8. ハ υ 1 A 9 ﹃u a争 目 υιvntRυquAHv ooobnD06060δ060600nbAE. 6. 。. 6. 36 69. 33. t 1 9 3 ji. 90 4.5 7.5 6 12 10 17.5 1 0 1 0 1 5 1 5 107.5 36 197.5. 36. I. 4. 180 1 4 30 20 20 30 30 20 40 1 0 20 50 270 19+1/6 450 33+1 /6 ( 4 5 0 ). 70. 3. 89 1 3 4. 1 /2. 1/16 1 p y 6 .. 7 a J ¥ . 1/24 2. 2. 1. Dに属す. Bに属す. 1. 広陵諮口々︑向﹀当強議桜. 3 6 6 1. 25. 1 0. B冗x o p e B O 79 A e p .Ha J ¥ l ; B K H H O. 00+30. 1 4 0. 5 3 7 360 2, 804 1, 200 4, 050 1 5 0 ) ( 8 0 4 ) ( 4,. 1 5. 1 3 4. HepOHOBO 78 Aep ・HerJ1HBel ¥. 2 3 5 342. 20. 5 3 1. 1 0. 40 30. AFN叶. 日 e 明 p ••B レ a m i J l b 酬H U H M を H 含 0む) ( 77 A. 2 3 0 305. 1 5. 1 2 1 0. 民領主の農民の K p e C T b H H ‑ e B b l T H b l eB e B b l T H b l e領 主農 コ r フ森 林 等 備 考 B b l T H b l eH b l T H b l eH 草干 K a HB b l T b c 』ゆ且阿 直 領 地保 有 地干 o x a ローク A B O p b l A I 早 C B O P b l 』的Al Bに属す 1 5 6. (20‑76の小計) 0 ‑ 7 6の総計) (1及ぴ2. 76 Aep ・ k ド n o y r 3 a H 1 E 4 0 U B O O 関. 且e p .CTem 制O J lO. A e p .I 1B a H K o i l O. A e p .臥 刷 側U捌日明.. 集落名. 一一一一一一一一一一一一一一一 一 一. OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ ー恥ぬ可l.

(12) 5. i l e p .KYBWHHOBO ) ¥ e p .1 {0 C T l l l . ¥ b I H O. I le p .n.~e山KOBO. E 4 0 7 h A ︽d v a n ‑ ‑ p h d p仇v n S A X U A U J W A H V 'EAA ソ ムM a ︽J 唱 唱 v n w d A U d A U J V a u d n w d A W d n吋u v A吋d v n吋d v A H V O H υ A H V A H V. 註. 68. 101‑106の戸数と 106の B b l T b数は推定による。. 91‑106のl!e B b l T H b l eI l B O p b l欄は,ボブィリの戸である。. 48は,. M > .2 9 5の'.KynPHHoと同ーと仮定。. Aφ3X ,可.I I,. M > . l71, 178, 198, 295,309に基づく。. 91. 2+1/2 3+1/2. ?. 3/4. 710. 100. 5 0. 8. 30. 1 5. 112. 3 / 4. 1. 116. E. H. 1 /. 1 /. 1 /. J /. I D Iこ属す. 20. i. 1. 。. 1. l. 1 8 1+1/2. 3 / 4. 113 1. 2/3. 1 /2. 。 。. O i. ⑦ 80‑90では B b l T H b l eA O ) ¥ 1 I と H e B b I T H b l e0 1 1 0 ) ¥ 1 1の区分はない。. ⑥ 領 主 直 領 地 , 農 民 保 有 地 の 単 位 は デ シ ャ チ ー ナ( l l e C H T H H a ),千草の単位はコフ。ナー( K o n H a )で、ある。. 哨前 H h州. ある。. ⑤ 備 考 欄 の8 1ま,セストリンスキー・スタン, ' Cはスタロワォロコラムスキー・スタン, DIまホウ;ァンスキー・スタンで. ① ② ③ ④. le p .PyHOBO 1 0 7I. 5 5. 2. (91‑106の総計). 2. le p .口p O 山a J l O B O 1 0 5I. 1 0 6I le p .) j {y 4 K O B O 5. 5. 3. 3. 1111. 山K 0 M M 0 e p . 3 n a y H T M o H m 1 0 44. 1. 6. 1. 3 2. 凡e p .O H K y ) ¥ I 1H O B O. I le p .1 {0 P O C T b l J l e B a. 3 / 4. 戦師団訴. 凡e p .CTap l ¥ O B a. 4. 4. 1 5 20 2+114. 1 /. 018に属す. 。 。 。 。 。 。 。. 考. lhN∞ー. ?. 2+112. 6. I le p .K y B O K H H a. 6 3+112 4ト1 1 2. 6 1 6十 112. 1 1. 1 0 1+1 1 4. 7. 9. 1 5. 7. λ e p .MHXeeB口0 4 .. 1. 1. 1 1. 。. 2. ︐. ) ¥ e p .1 { 0 HI lp a T O B O. 8 3. 3 4. 凡e p .npOHHHO. 4. . l J .e p .C b l p o i inO 弘. ,. オ フ や p e C T b 冊j . 領王の B b l T H b l el Ie B b l T H b l eB b l T H b l eH e B b l T H b l e のK 森 林 等備 民 干 草 農干民草 主 農保有地 B O p b l A C K a sB b 汀b c I lB O p b l J ω且H . l I O I l H 領直領地 o x a ローク. ) ¥ e p .C T a H O K. 集落名. OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ A F N. ∞.

(13) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ. ①. ‑429ー. 1 6世紀ロ乙/アの所領機造. 4 2 9. l. 2‑7が1 5 4 3年 6月 9日,交換の代償としてヨ νフォ・ワォロコラムスキー修道院 ( 41 ). 領に。. ( 4 8 ). ②. 1543-44年の coma51 中に記載されているのは. 1 と 20'~90。. ③. 1 5 4 3 年頃, 8,2 4,4 4,4 9,5 2,7 0がヨ νフォ・クォロコラムスキー修道統領に。. ( 4 9 ). ( 5 0 ). ④. 1 5 4 6 ‑ 4 7年,封地とされていた 91‑106をブイゴロド村に編入。. ⑤ 1 5 6 2 年 9月2 1日,プイゴロド村のセストリンスキー・スタンにある部落 8‑14,2 0,. 2 1,2 4,4 0,4 2,4 3 ,4 6‑49,51~-55, 6 0,6 1,6 4,6 9,7 7,7 8,8 0,9 1 ' ‑ 9 6,9 8, 1 0 3 ‑ 1 0 4と,追加として 15‑19,2 2 , 32'~'34, 3 6 ‑ ' 3 9,6 2,6 3,7 1,7 2,7 5,7 6が , ( 5 1 ). 交換の代償としてヨ νフォ・クォロコラムスキー修道院館に。 ⑥. 1 5 6 4 年 7月1 1日にプイゴロド村のホグアンスキ ー・スタンの部落 3 1, 9 0,1 0 7がヨ l. 〈臼). νフォ・クォロコラムスキー修道院に与えられた。この時点でブイゴロド村に属す部 落 数 は お と な れ か つ て の 3分の l弱に減少し℃いる。 では,このような変遷をたどったプイゴロド村とその部落は,どのような構造をもって いたのであろうか。次にこの問題を,表 I及び表 Iを作成するに際して利用した史料に碁. ( 4 7 ) Aφ3Xパ.I I,必 1 7 1。なお,必.17 9,2 7 2,3 0 2 1こも言及があるが,. M i 17 . 9( 15 4 3 ‑ ‑ 4 4 年)ではヨシフォ・ウォロコラムスキーの小村オトチンチェヴォに属す部落とされ ており ,. M i . 2 7 2( 1 5 5 8年 3月1 7日付)では,イワン凶世がヨシフォ・ウォロコラム lyKHHO という 3つの部 スキー修道院に,交換によって得た OHly山 OBO,XpOMblfHHO,J 落と引換えに与えた 6つの部落とされ,必ω2( 1 5 6 3 年1 2月2 0日付)では,イワン 凶世がヨシフォ・ウォロコラムスキー修道院に,交換によって得た XPOMblfHHO と 刀y 則的という 2つの部落と森林の引換えに与えた 2つの部落と 4つの新開地とさ れている。. ( 4 8 ) . r ω{Jla, . M i 178。 ( 4 9 ) 7 i . 仰 2問.Mi J 8 0。 ( 5 0 ) . r ω {' ) J C e ,. M i J 9 8。この CUIHaHは , 1 0 3の農民イワンコ・エルモリン, 1 0 2の農民オ レシャ・ハリトノフ, 1 0 0の農民オントン・ネリドフに与えられている。 ( 5 1 ) TauJ / c e ,. M i . 2 9 5。前半部分の部落にある耕地面積 416% デシャチーナ,干草盤: . 3 6 0 1コプナー,森林而;J W155デシャチーナは,交換によって得た 2 つの村と 1 6倒の部落 にある耕地面積に等しいが,干草起については 1 7 8 1コプナー,森林面積については, 4 6 . 5デシャチーナ多い。超過分についても,修道院のものとなっているが,イワン 0 0デシャチーナを与えるよう命じ,その結果追加分として後半 四世は,j!!に耕地 2 0 3Y zデシャチーナ,千車 部分の部落が与えられた。後半部分の部務の耕地面積は 2 道は 1 3 2 0コプナー,戸数は 7 8戸(空の戸がさらに 3戸ある)で,余分のものも含め て修道院のものとなっている。これらの部洛は, . M i3 0 2では,ウォロク郡スタロウ オロコラムスキー・スタンのイリイツィノ村(表 Iの 7 7で,必初5 の時点では部落) とその部落とされている。. ( 5 2 ) TauJIa, . M i 3 0 9o.

(14) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ ‑430‑‑. 第 56巻 第 1号. 430. づいて検討することにしよう。. I I I ブイゴロド村とその部落の構造 村の構造,部落の構造,村と部落の結合の在り方という 1頃序で検討を加えたい。 (1) プイコ争ロド村の構造. ブイゴロド村については, 1543‑44年の COTH 仰 に 記 載 さ れ て い る 。 こ れ に よると, i. ブイゴロド村には,表 Iの 1に示されているもののほかに,教会が 2つ(ボゴヤグレニヤ ( 5 3 ). ・フリスタ,大天使 Eハイラ), 2つの教会の司祭の戸(計 2つ),補祭の戸, B b I I H b l e且B O p b l ( 5 4 ). の中に含まれているクリコーチニクの戸があれ 2人の司祭はそれぞれ一つの耕闘に(以 下,耕地を示す場合には一つの耕闘で表わす。従って耕地の合計は示された数字の 3倍 で表わされる) 8デ νャチーア(以下,且 e c . と略記)ずつの耕地(合計 1 6デ νャテーア〉. ( 5 3 ). TaM ? I C e ,. M i . l78では, BblIll b l eJ l .B O p b lとH e B b l TH b l CJ l .B O p b l の区別がされている。 s b ト. 1bには二重の意味があり,オブロークを課せられて,土地所有者から農民が得たうよ. 与地としての経済的意味と諜税対象としての経済的意味を持っているとされている ( r .礼 AHO 1 Is o r O B ,YIW3.. C O , 句c r p .6 3 ),この点は, Aφ3X,Y .I I,c r p .613で も f ; J / .l l j Jされ ており,前者の意味で使用されている例を史料の中に見い出すこともできる (TaM ,. M i3 0 3他)。では, HeBblIHble という場合は, どちらの意味で使用されているの ? I C e b l l H b l eJ l .B O p b l に対応する B b l lHb le 1 I 0 . UI 1 か , B b l l b から税を : ' ¥ : . 1 1 、う人々の;志月末で か 。 B 使用され, B b l TH b l Hが B b l l b の個々の経消に属す,あるいは利用されている地)',.とい b l l b に編成 う前者の意味から派生した形容詞であるとされていること, と同時に B l o s a p bp y c c K o r oH 3 b l K aX I‑XV I lB B . されているという意味も持っていることに i B b I n .3 .M.,1976,C T p .266,2 6 9 )から判断すると, H e B b l l H b l eは , B bl Ib には編成され ていない,あるいは B b l l b を持たないというこ通りの解決が可能となるように忠わ れる。もしも, 1546‑47年の COIHaH(Aφ3X,Y .I I,. M i198)中の { 6 0 6 b l J J b 6 e 3 0 a山 町I H oi1}が H e B b l l H b l eJ l .B O p b l に対応するものとすれば, H e B b l l H b l eは B b l T b を持たない, つまり地片を持たないという~~~ I 床になるのであるが, 6 0 6 b lJ lb とは記4 おされていな い。どちらの窓味に理解ーするかは,村内あるいは部落内の住民構成の理解にも大き な);~響を及ぽすが,本稿では, 4'1J断を保留しておきたい。 ( 5 4 ) 1 5 世紀後半から 16 世紀初めには,秋まき畑,春まき畑,休関地という記述と共に, 「 第 3の耕圏 j, r3司つの緋悶」という記述もあり,また r1つの耕留で J, r2つの 耕圏でも同じ、ずつ」という記述も見られ,この時期には一般に三間制が普及してい たようである ( A .1 l . .rOpCKI 1 i , 1 1 31 I C T O pl 11 3 eMne. le nl 1H B C eBepO‑ Bo C I O Y H O 1 i Pycl 1 XIV‑XVBeKOB. {MamepuaJ/bl noUιmopuua/lbCK020 X03flUιmea u KpeCmbflllCmea 丹 C6.I I I,M .,1959,C T p .1 7)。が,三園制とはいっても,当時のロシアにおい ては,耕地を 3 つの耕国に分割したものであって,複数の農民の耕地が混在してい るというものではなかった,という点に注目しなければならない(伊藤,前掲論文, 52ページ参J! n) 。 ( 5 5 ) 地桜単位で,約 1 1ヘクタール。 1543‑44年の COIHaH(Aφ3X, 叱 I I,. M i . l78)では, 80サージェン X30サージェンとされている。 1サージェン =2ω134mであるから 80 幽. c c c. ゎ.

(15) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ ‑431‑. 16世紀ロ乙/アの所領構造. 431. と100コプナーの干草を持ち, 補祭は 4, ne c . の耕地と 25コプアーの干草を持ち,. クリュ. ーチニクの耕地が 6, ne c . で干草が 20コプアー,ポ山ク包耕地が 3, ne c . と千草が 10: : 1 プナーある。さらに,村に関する記述の中には現れてこないが賦役を免除されたオブロー ク部港の記述中には,オブローク部落(表 Iの7 7 ) を与えられたブイゴロドのポセーリス キーたるステパンの息子ノレダクの名が見え,かれは, 1 時にプリカースチクと呼称されなが ら,種々の活動を行っており,無視するととができないにもかかわらず,クリューチニクの 戸が村内に存在しながら,ボセーリスキーの戸が存在しない点、が不思議である。また,こ れだけの村の規模と多数の付属する部落を擁しながら,領主館ないし所領の中心となるべ き施設の記載もない。 村内には領主直領地と農民保有地があり,後者は前者のほほ 2倍である〈表 I参照)。両 者の配置がとのようになっていたのかを示す史料はないが, 1546‑47年の c o τ H a 5 1 中の 「プイゴロド村の村民のもつ耕地 口OWeJIbHa513eMλ51"から大侯の耕地として 3チェ トグェ/レチ (2分の 3, nec 一細川 1 )ずつ没収し,その土地の代りに,村から追放された 農民の草地. rpaaa" 2s b l l b がかれら(村民一細 ) 11)に与え!られた」. との記述は,この問題と関連して重要であると忠われる。この場合,新たに領主直領地に 編入された部分は,それまで農民保有地を構成しており,その配置がどうであったのかと いう問題は,領主菌領地と農民保有地の配管,領主 i 自領地の耕地の在り方とも関連してく る。部溶には領主演領地が存在しなかったことと結びついて,領主直領地は村内のーケ所 に集中して存在し,かつ農民保有地も領主菌領地と並んでーケ所に集中していたのか(こ l. の場合,距離的にも近接し℃いたのか,距離的には隔っていたのか,の 2通りが考えられ る),領主砲領地はーケ所に集中していたが,農民保有地は各戸毎に分散し ていたのか,モ l. れとも逆に領主薗領地は!分散していて,農民保有地はーケ所に集中していたのか,あるい X2 134x30X2 . . 1 3 4ヰ 10929. . 49 (耐)で約1.1 ヘクタールである。次に出てくるコ 81 .9キログラム)に相当し, 1 馬車の積載量で プナーは,干草の束で 5プード ( あるが,草刈地の面積単位に転化し 1コプナー =0 1 デシャチーナに換算された ( LB . A6 paMoB 附, H eCKonbKO H 3 b I C K a H H HH 30 6 n a C I Hp y C C K O HM e r p O J I O r Hf I XV ‑XVI B B .( K o p o 6 b H,K o n H a,o6l Ka ) .< 刀fpo6/le.Mbtucmo'tH.u/C倒 的U 5 1 } .C6.X I,1963,crp.368)。 千草の量を表わす場合には, < B o n o K o B aS 1K o n H a }(一挙に曳きずって運搬できる干草 1コプナー)という言葉が使用されている。 ( 5 6 ) 日o n H H K . 農作業の監視人ではないかと捉えられている (AKTbI C O u a J I b H O‑3 K O H O MH' le C K o i IHCTOpHH CeBepo‑BOCrO' lH O HP y C H .T .1 ,M.,1952,e T p .753) 。 ( 5 7 ) A φ3X パ ・ I I , . A 6 1 9 8 . リ. ゎ. 剛.

(16) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ ‑‑432‑. 第5 6巻 第 1号. 432. は,領主菌領地も農民保有地も分散し℃いたのよ;8) また,村民に与えられた草地 2悶 Tb は従来から草地であったのか,. それとも没収された耕地 2Bb l Tbなのか。前者の場合,没. 収された耕地 2B b I T bは領主直領地に編入されたのであろうか。残念ながら, いずれも疑 問を提示するだけで,解答を与えるととはできない。以上の問は領主直領地の労働力の問 題とも関連するので,次にとの問題に移りたい。 領主直領地は村内に存在するが,その耕作には村民だけではなく,部港に居住する農民 も関わっており, 1543--44年の COIHa~ では「村内で大侯の耕地を耕作するべき村に属す ( 5 9 ). 部落」として表 Iの2 0 ' ‑ . 1 7 6の部洛が挙げられ℃いる。この点につい亡は表 Iの付属村ノミノレ ( 6 0 ). キノの場合も同様である。 一致しており. ( 表 I参照),. この際,農民の B b I I b数と領主直領地のデ νャチナ数とが. r かれら(村民と部溶民一細川 1 ) は大侯のブイゴロド村で,. . (e c . を 18bITbから 1且目。ずつ耕作する」という記述と符号している。したがって, 1 3 4J ( 6 2 ). 領主直領地の労働力としては村民及び部法民,つまり農民であり, 凶. 領主直領地の面積は. L. Tb編成 関連があるということになる。問問問且叫b I と HeBb 問 問 江 叫b Iの区. ( 5 8 ) 伊藤氏は直営地は,集合耕地の形態をとり,農民経営から分離された領主の 直接的自己経営の性格を強くもっていたということが出来よう J (伊燦,前掲論文、 62ページ)としているが, ζ の際,領主直領地の労働力構成を,その論拠の 1つと して挙げている。 ( 5 9 ) 耕地だけではなく,草刈地も存在していたのであるから,当然草刈地での労働力 も問題となるが,この点については全く触れられていない。農民が領主直領地にお いて行わなければならないニととして, 1! le c . にライ麦 2チェトウゃエルチ,燕麦 4チェトウホエルチを播種すること,自己の戸の堆肥を大侯の耕地(領主直領地)に 1! H! le c . につき 3 0コルイシカ(Iコルイシカは 4x4X 2n H! l b3 て,n l b は親指と人 差指を張った長さ)ずーっ運ぶことが挙げられている。 パ. 1 1 , . A G J78。 ( 6 0 ) Aφ3X ( 61 ) (naxaHl1 1 MH aB e J l J 1K O r OK H 5 1 3日 Bce ,~e H a6yeropo ! leC I OTpJ 1I u a I b可e I b l p e且e C5l!J1H b I , CB b lrHn o且e C 5 1rHHe}(TaM~正巴) ( 6 2 ) 領主直領地の労働力構成は,農奴制の成立の問題と関迷して,大きな論争点とな っているが,さし当って,石戸谷,前掲論文を参照されたい。 ( 6 3 ) B b I T bについては註5 3で既に言及したが,課程単位としての B b l Ibに限って,検討 を加えてみたい。['.H .アンピロゴフによると, 1 6 世紀半ばまで、 c o x a とB b l Ibは , 種々の土地範鴎に, ~p ち BbITb は御料地と黒土に, c o x aは封地一世襲領,修道院領, le c .に 教会領にそれぞれ適用された相似の課税単位で, 1 6 世紀前半の 8 b I T bは 6! 等しい不変の経営単位及び課税単位であったが, 1 6 世紀後半のはじめからイワン四 世の法典と関連して, c o x a との比率が新しい規則に基づいて(良質土 6a e c .,中質 le c .がそれぞれlB b l τ bに相当)決定されたという ( r .H .AHnl 1 ‑ 土 7a e c .,不良土 8! J 1 0 r O B,Y t <a 3 CO , 匂 cη.63. この点については, A . HI 1K J 1 T C KJ 1H ,K B o n p o c y 0 Mepax B ! lp e B H e l lPyCH ・( ) f { MJiJ 刀} 1894,必 4,C T p . 412も参照されたい )01543‑44 年の C O・ T H a 百 ( Aφ3X,4 .I I ,. A G . l78) も1546‑47年の C O I H a 5 1 (TaM.'JICe ,. A G . l98) も,いずれも, 農民の耕地は 1B b l T bにつき 6且e c . となっており,上の数値と一致している。しか.

(17) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ 1 6世紀ロ ν アの所領構造. 433. ‑433‑. 別がある点が気にかかるが, HeBbl'IH b l e 且B O p b l はいずれにせよ,領主直領地の労働力を 構成しないのであるから,この区別そのものは領主直領地の労働力の性格に影響を及ぼす ものではない。また,奴隷的非自由人の存在を明示する記述もないのであるから,領主直 領地の労働力としては, BbITb に編成された農民以外には考えられない。なお,村と部落 ( 6 4 ). の農民の間にはモの保有する耕地面積に迷いがあった。. ところで,先に触れた 1546‑47年の COTHa51によって新たに編入された部落も領主直領 地の耕作を義務づけられておより 1543年頃ヨ ν フォ・ワォロコラムヌキー修道院領となっ ( 6 6 ). た 6つの部絡のあとに,領主直領地の 9 i働力を補ろという意味をもっていたであろう。領 主直領地の増大と B b l 1 b数の増大とがこの場合には一致しないという状況が生じたはずで i. あるが,このような場合の領主菌領地の耕作の在り方を示しているのが付属村ノ勺レキノの し , 1546‑47年の C O T H a>lに見られるよっに,耕地の総而i f l ' ! と B b I I bの総数との問に le c .の関係が確かに成志しているものの,側々の部落の耕地面積 はほぼ 1BbIIh=6! とB b I I b数との間にはこの関係は成立していない。良質土,仁J f'l!司土,不良土という 区分を適用しでも, 1分な対応関係を窮うことはできない。したがって,総数では, 1B b I I b= 6! le c .の関係が配慮されているとしても,側々の音¥ 1 絡の B b l l b数を決定す する際には,部絡の耕地面 f ¥ ! 1が必ずしも 6の倍数(あるいは 7, 8の倍数)ではな いのであるから,別の要 l :!9が加わることになったのであろう。 ところで, C O I H a H では,側々の苦¥ 1 洛の 1 f o ]々の良氏名が記載されている場合でも, 農民の個々の戸の耕地面松+市長山, B b l l b数は記紋きれずに,部議単位で記載さ れているため,幾民の側々の戸が課税のための把探単位ーではないという印象を与える !者は側々の農民である。事実,村の農民から耕地が没収 のであるが,現実の税負 H される場合,また村を追放された農民に部務の耕地を与える場合には具体的な B b l . 2つの部洛に耕地を持つ農民も存在するのであるか 1 b数が示されている。また ら,部落ではなく,個々の燦民の戸を把娠することが要請されたであろう。 1 6世紀のロシアにおいては,それが耕地面積の把援という形をとることになった のである。この耕地面積を基礎とした課税単位 B b l l bが,既に:iA.べたように,領主 直領地の労働力編成に l 祭しても,またオブロークの支払いに!努しても適用されてい るのである。実際的には,端数計算:を行わなければならなかったであろうが。 ( 6 4 ) ブイゴロド村の場合,平均で 1戸当り村氏は 3,5 6Jle c .,昔日終氏は 2,, 3 3 a e c . パルキ a e c .,部落民は 29 9! le c . となっている。ちなみに, 1546‑47 ノ村の場合,村民は 3 6 ,,. ,,. 年にブイゴロド村に編入された封地では, 16備の部落の平均値は部溶民 1戸当り1.65 a e c .である。 ( 6 5 ) { 4 1 06 b l n HHXp 0 3 且 ,a n HB c n H K o r oK H H 3 1 1n H Cl ¥ b l BaCH J le i i 5pexoB C r o B a p H山 H ! le TeM ' Ib eXpeC' Ib l 1H I 1H y nOJleBy且a4epHarya a MHxaHnyC B a x H H b l M, an p H ‑ 6 0 1 1 p C K H MBn O M e C n H C a J lHH X Kc e,n y K5 y l o r o p o a y,anaxam 1 1 MB eJlH K O r OK H 5 1 3 5 1naWH5 I Bc e n eHa5yero・ poaeJ (Aφ3X, 4 .H, , , ¥ 6 198) 。 ( 6 6 ) 7ì仰,~κt?, , , ¥ 6 . 18 0。 ( 67 ) ヨシフォ・ウォロコラムスキー修道院領となった 6つの部落のうち 1つは 1543一 44の C O I H a 5 1に含まれていないので,他の 5つの部落についてみると耕地面積の 合計は 43 5 a e c .で 1B b l l b= 6且氏。とすると 7)1品川となる。ブイゴロド村に編入 ,.

(18) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ 第5 6巻 第 1号. ‑‑434‑. 場合である。この村では. 434. Bb lIb 数が 3 3 "7'6で,領主薗領地が 36ぇec. であるため,. 33%且ec・. につい℃は 1BblIb から 1 . : : ¥ e c . ずつ耕作し,残り 2号色且 e c . . については共同で耕作すると ( 6 8 ). され亡いる。これは,労働力の問題から離れて,領主直領地の耕作がどのように行われて いたのかという問題と関連しているし,先に触れた領主直領地の存在形態とも関わってい る。だが 21 ' } I l, L ¥e c . を共同で耕作するとはとういうことなのであろうか。また,前述のよ うに, BbITb編成と領主薗領地の面積との聞には何らかの関係が存在していたと考えられ るのであるが,その Bb I fb 編成が極めて人為的・機械的であるとすれば,農民が現実に ( 6 9 ). 耕作する領主自領地の面積はばらつきの多いものとならざるを得ない。 共問で耕作し得ること. 1B b I I b につき 1且e c . . と割り振られていること,これらをど. う整合的に捉えることができるのか。乙れもまた問題を提起するに止めておきたい。 (2) 部落の構造 ( 7 0 ). 1543‑44年の COrHaHでは,部落については農民保有地の面積と干草量に!関しては個々. の部落に関する記載があるものの,戸数に関しては全部落の合計となっており,個々の部 落でどうであったのかを知ることはできないが,部落の構成要素と考えられる草刈地と森 ( 7 1 ). 林に関する記載があるので,それから検討し℃いくととにしよう。 された部議の総 B b l l b数は 1 5 B b I I b てあるが,村内てぜの移動により 1%B b l l b の耕地 b l l b数は 1 4 0 B b I I b となる。一方直領地は,村 が減少している。したがって農民の B 内の j 呉氏の耕地 43X iB b I I bから 1B b l l b につき%!l. e c . ずつ編入したとすると 64: Y s ! l .e c . 増加し,合計 198: Y s ! l .e c . となり, B b l !b数 1 40よりも 5 8: Y s ! l .e c .だけ多くなる。この部 分については, 1543‑44年の c O I H a Hにはその名をみることができない表 Iの 8 ‑ 1 9の部洛が関わっていたのかもしれない。この 1 2 個の部落の耕地面積は : 8 7x i! l .e c .と なり 1B b ! Tb口 6! .e l c。とすると約 1 4 . .5B b I T bで , これらの部落が領主直領地の耕作 に関わったとしても,まだ余分が出てくる。 ( 6 8 ) B b l l e i i Bc e J J e H B! l .epCBHHX I p H Il ¥a l bT P HB b I I HC n o n y l p e T b ぬ B b I I H,aH aB b l l b .eCHTHHBn l o , n e,anaxawHMBc e i l eB e . n H K O l OK H日3 Hn a U l . X p e C l b 5 1 H C K H enaWHH n ow m ! 1 ' I l ¥ a l bweClb! .e l c日mH,I p Hl ¥ a r bIPH! l .e C H I H H b lcn o n y r p C I ' bIO,cB b l l Hn o! .e l C 5 1 I H H e, H HI p l aTPH! l .eCHTI 1H b l6e3nonylpemnaxamHM3 r O H O M 〆 } (Aφ3X,Y. I I,. M i J78)。 ( 6 9 ) 1546一: 4 7年の C O I H a H(r.制御". M i198) に基づいて,名部落の農民の戸数と B b I . I 'b数,村の農民の移転を考!志して,耕作すべき領主直領地の耕作面積を!l.e c .によっ て表わしてみると(この場合 1B b I I b につき 1! l .e c . という原則に基づいている), % , Y z , 1 $ , % , X i , % , Y e , ~2 となり,負担の大きさが著しく異なっている。こ のC OlHa H を与えられた農民の場合には,完成c., y z! .c l c ., y : i! .e l c .といずれもその負担が 大きい。 ( 7 0 ) r.制問~, . M i J78。 ( 7 1 ) R.E .F スミスは,農民経営に占める森林の役割jを大きく言引面している(R.E F .Smith,PeasantFarmingi nMUSCQvy,CambridgeUniversityPress,1977,p 2。 ). <.

(19) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ 1 6世紀ロ νアの所領矯)ja. 4 3 5. ‑435ー. プイゴロド村の部洛では,部落内に草刈場が全くなし他の部絡の草刈場へ出かけたり. 3と3 4 ),部落内に草刈場はあるが,他の草刈場にも出かけている場合(表 Iの3 6 ( 表 Iの3 ~38 , 5 3,6 2,7 8 ) も あ わ さ ら に 表 Iの62には,村民及び部落民(表 Iの6 2だけではな. く他の部落の人間も含めて〉が共同利用する草地が存在していた(上記の 6つの部落のう ち 3つはこの草地を利用し亡いたことが示されている)。森林については, 1 0個の部落に大 侯の伐採禁止林が存在し,そのうち 6つの部落の境界に大侯の伐採禁止林が位置してい ( 7 2 ). る 。 1546‑47 年の COIHa51 には,水域と森林の有無,森林がある場合にはその面積が, 農民の戸数,ボブィリの戸数(いずれの場合も農民名,ボブィリ名が示されている)と並 ( 7 3 ). んで記載されており, 1 5 6 2年 9月2 1日付の交換状においても,耕地面積,千草蚤と並んで, 森林の数とその総面積が記載されている。 1 5 6 4年 7月1 1臼付の証書においても,. 耕地面. 積,干草鐙と共に森林商積が記載されている。このように,耕地と共に草刈地と森林が, そして水域が部法(村につい℃も同様であるうが)にとっ亡重要な意義を持っていた。し たがって草刈地がない場合,あるいはあっても小規模という場合には,部港外にそれを求 めることになった。森林については,果して草刈地ほどの意義をもっていたのか,という 疑問も残るが (1546‑47 年の COτHaH)でも 1 6部落中 9部落には森林がない),伐採禁止林 の存在,森林の有無が問題とされていること等から判断して意味をもっていたと考えざる を得ない。 前述のような要業を持つ部法とはどういう単位であり,それらの要素(当然のことなが ら農民の戸,ボプィリの戸も含めて)はどのように結合し℃いたのであろうか。農民名, ( 7 6 ). ボプィリ名を記載している 1546‑47 年の CO' IH a51 にもう一度目を向けてみよう。 表 Iの9 7のコンドラトグ才部落の場合,コシドラート自身とかれの息子クゼムカの戸だ ( 17 ). けである。兄弟 2人で,あるいは母親と子供で 1つの戸という場合が 3例(表 Iの9 1,9 4, ( 7 8 ). 1 0 2 ),2つの部落に保有地を持つ場合が 2伊 l t(表 Iの93と101に弘 BbIτbずつ, 104と105に ( 7 2 ) Aφ3X パ ・ I I,J l G J980 ( 7 3 ) ア仰抑 J I G . 2 9 5。 ( 7 4) T a . u7 I c e ,J I G . 3 0 9。 ( 7 5 ) T a . M / I C e ,J I G . 19 8。. ,. ( 7 6 ) Ta . M. 加。. ( 7 7 ) ( 且e附 問. ω 0. 1 { 切 a' lOBO:BO 且 附 e. ca~!. I {OH江 叩 問 p 刷 a 釘 阿 刷1 ,BO 且 叫 e CblH ero Ky. 2 筑 花 幻1 沼 官j. (BOJ lBOpe MHxa 収 oJ la I 1cToMKaI'PI l" ¥ l l b ! ),(80, l lBOpe只HyW, l l al 1 J 1eHKaEPMOJ lH Hbl), ~BO J lBOpe Map 中aB, l l OBa3 J le' lbMH}(T a . u7ICe ) 。. ( 7 8 ).

(20) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ ‑436ー. 第5 ヨ 巻 第 1号. 436. 弘l l b l l bずつ。乙の場合,いずれもブイゴロド村から追放されて部落に移転させられた農 民である)ある。また,耕地を持たないボプィリの戸が 5つの部絡に 1戸ずつ存在してい る(表 I参照)。 表 Iの97のコシドラトグォ部絡の場合にはそこに戸を持つコンドラートとの関係の深さ をはっきりと示し℃いる。 jまた,新開地とされている部務にも,通常の部落にもそれらの 開拓者名との結びつきを述恕させるものが多♂したがって,部落の場合には戸と耕地の 配霞たついて距離的に近接していたと考えられる。ただ 2つの部経に耕地を持つという場 合には,戸と耕地との関係はどちらかの部落では薄くならざるを得ない。耕地を持たない ( 8 2 ). ボブ ィP賭の存在は何を意味するのか。かれらの部員きにおける位置はどうだったのか。ま e. た,戸と耕地が密接に結びついている(距離的にも)と考えられる部裕において,複数の 戸が存在する場合,それらの戸は同一部落にあって,とのような関係にあったのか。戸は 隣接し,耕地も隣接していたのか,それとも戸も耕地も対になって距離的に隔てられ℃い たのか。あるいは,戸は隣接しているが,耕地は別々の場所にあったのか。〕 ( 7 9 ) 01aBr o e Mecro 3 e M I 1 HJ la H O eMy 4 e r B e p r bB b l IHB n p o l l l a n o B eJ le peBHe,aJ lB O pB lp y r a H 4emcplb B b l IHJ l a H aBJ 1y I O l l l K H H O i i且epeBHe,H x o p o M a eMy H e i i6 b l J ln y c r,a J l aC H e Cl I 1 ふ {A BIOe MeCrO 3CMRI 1J la H O CMy 4 e r B e p T bB b l l H B npOHHHe J le p e ‑ 1 1 3C eJ B H e, aJ lp y r a H 01y J la H a可c r B e p r bB b ! THB K OpOCreJ le B e3 a i i M HlUe .A X O p O M b leMyC H e ‑ C I H1 1 3c e n a, ) (TaM?K巴 ) ( 8 0 ) H . .H.ウォローニンは,このような例の中に,下級官吏,大貴族の下人一猟犬番, 猟人等々ーを見い出すとしている ( H .H .B O P O H H H , .f( uemop 山 C e ; Lb C K O Z O nOC e ; L e I lU 5 1 / l b l l o i iPycu 凡 , 1 9 3 5 .c r p " 68), i f i e o d a ( 81)表I の 5, 24, 44, 5 9, 67, 68, 6 9, 75, 98等々。 ( 8 2 ) ボプィリの初j見は「ブスコフ年代記」の 1500年の条 (nCKOBCKHe j l e r O nl 1C H ・B b I n . , 1 M.一九, 1941 . Slavica‑Reprint,Nr 2. 1967.c r p .8 4 ) であり, 1 5 世紀後半の 新たな社会状況の中で現れてきたものである (6 ,n . rpCKOB ,f ( p e c m b f l l l el Ia P ycu cd p e B l l e i i 叫似 B J X 3 . M e l ldoXVIIe e K a M.一凡, 1 946,c r p " 734) 。現在,ボブィリについ てもまだー│分な検討を加えていないので,部務の構造を考察する際に不可欠の要素 としてボブィリ層の問題があるとの指摘に止め,今後の検討に期したい。 ( 8 3 ) 伊勝氏は,音1洛を「量的にも質的にも基本的集務単位を構成している」とした上 で,特質として 6点挙げているが,第 1点の定住形態について,飲居定住という点 を指摘し,第 2点 と し て 各 ジ エ レ ー ヴ ニ ャ は , 耕 地 , 牧 草 地 , 菜 園 等 の , 農 民 経営の再生産のための総ての要訟を備えた自己完結的経済細胞を構成していた J,つ まり「孤立農園という性格」を持っていた点を指摘している(伊藤,前掲論文, 53 ‑54ページ)。が,具体的な配置の問題には触れていない。この点、は r 集落の合体 化」の進行の際に関わってくるのではないだろうか。 1562年 9月2 1日付の交換状 (Aφ3X, 叱 I I,. M i2 9 5 )で , ヨシフォ・ウォロコラム スキー修退院予i fとなった部滋イリイツィノ(表 Iの7 7 ) が 1563年 12月20日付のイン ,必 302) では村とされている場合にも同様の問題が生じて ム ニ テ ー ト 状 (TaM?Ke くる。.

(21) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ 437. 1 6 t l t紀ロ νアの所領構造. ‑437‑. 部落についても,疑問の提示に止まらざるを得ない。. (3) ブイゴロド村とその部落との関係 この点に関連して, 現象的に気付く点は,第 11<:部落の寄進, 交換が行われているこ と,第 2に,オプローク部総,かつて封地であった部落をも含んでいること,第 3に,村 から部落への農民の移転が領主の意志によって行われ得ること,第 4に,賦役という形を とって村と部落とが結びつけられているという点である。 第 1の現象が生じ得るのは,部落の集会が村を構成するのではなく,村は村として存在 していて,部落は別個のものとして存在しながら同時に村に属すという形態をとっている からである。そのため,交換によって一つの部落をある村に属すものとする一方で,他の 村に腐していたもう一つの部落を交換の代償として別の領主に与えるということが他方で 可能となったのである。この点は,第 2の現象とも関連している。この点に関連して,触 れておかなければならないことは,既述のよろに,部落が複数のヌタンに属していたとい うよミである。 第 3の現象は,村と部落の前述のような存在形態にも拘らず,村とその部落は悶ーの所 領に腐すものとして,内部での労働力の編成替えが生じえることを示している。また,部 ( 8 4 ). 落から村内の耕地の耕作にやってきていた農民の存在が指摘されていることも,同一所領 に隠す村と部落という意識と通じるのではないだろうか。 この意識を否応なく生じさせることになったのが,第 4の現象である。賦役については 統に述べたように,その具体的な実行形態は明らかではないが,村内の領主障領地の耕作 に,村民だけではなく部港民も関与させられていた点ははっきりしている。領主直領地の 配霞いかんによっては,村民と部港民との関係を考察することも可能であろうが,いずれ にせよ,村含接点として村民と部落民とが結びつき得たことには変りないであろう。村に は教会もあり,交流の場としての役割も果していたであろう。 そして,このような関係にあった村と部落の把握を委任されていたのがクリューチユク とポセーリスキー(あるいはプリカースチク〉である。だが,ここでも村と部落という所 領構成に関連して,クリューチニクとポセ. ‑9スキーにはその役割において迷いがあるよ. うに思える。すなわち,クリューチニクの場合には,村がその活動範囲であり,ポセーリ スキーは,村と部落を含み,より広範な権限をもって近隣の穏々の所領との関係にも当っ. ( 8 4) < '1!O O Hn a X a, 1r y' 1e 町内lI a e 3, l ¥ O M日p l 1 印 刷 削11 1 3抑 制11 11 36 0 6p O B a . } (T . ω K o J 9 8 ) 。. 問.

(22) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ ‑438. 438. 第56巻 第 1号. ていたようである。この点をよく示し℃いるのが,かつ亡の封地をブイゴロド村に編入す ( 8 5 ). る際の「プイゴロドのプリカースチク J)レダクの f 交 苦 手jである。. 以上のように,村とその部落は, J.l1J伺のものとして存在しながら,同一所領に属してい ( 8 6 ). ることによっ L,村を接点として結びつくという構造をとっていたと考えられる。. I V おわりに ブイゴロド村とその部落の沿革と構造を検討してきたが,具体的な像を描くまでには至 らず,問題点を提示するに止まってしまった。本稿で提示した問題に取り組むためには, 史料的に,恵まれている 16世紀後半の修道院領,とりわけ本稿でも言及したヨ νフォ・クォ ロコラムスキー修道院領を分析しなければならないと考えている。芸評い当修道院領に関す る論稿も多く,まだ入手できてはいないが,近年当修道院の経済関係、の文書も刊行され℃ ( 8 7 ). し 、 る 。. と同時に,本稿では展開することができなかったが, 16世紀ロ ν アの農業構造の特徴を 史・資料に基づいて具体的に把握するととも要請されるであるう。所領構造・村落構造を 基礎において規定しているものとして農業構造を無視する. ζ とはできない。. 16 世紀ロ Vアの全般的状況の把握と併せ t以上の点を今後の課題としたい。. この CO'IH飢は, ブイゴロドのプリカースチカたるル夕、ク他 2名の記載台帳から の COIHa日 と な っ て い る (T . a .M ' ) / c e )。 (86) 村に隣接する部落が同一所領に属す場合,あるいはそういう現象が生じた場合,そ の音1落は村に吸収され,部落名は消滅することになったのであろうか。あるいはそ のままの状態が維持されたのであろうか。 (87 ) B o r4HHHble X035U 1 cIBeHHble KHHrH XVI8 . Y)KHHHO‑yMO J lo THble KHHrH V !OCH中0‑&γ nOKO J la MCKOro MOHaCTblpH 1590‑1600 r r " 8bI n " 1‑ 3 .M .一九, 1976 :BOI4HHHble XO・ 3目 前C1seHHbleKHHr 1 1X VI8. KHHrH l ¥eHe> KH b I XC60P08H 8b I nn arV !OC中 1 Io‑ Bo JIOKOnaMCKOrO I 1573‑1579 r r .,8 b l 口 . 1‑2. M .一凡, 1978. MOHaClblp5 (85).

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