* 中央大学法科大学院教授
不確実性構造を反映した民事訴訟の 確率過程モデル
大 野 薫
*Ⅰ は じ め に
Ⅱ 確率過程モデル
Ⅲ モンテカルロ・シミュレーション
Ⅳ お わ り に
Ⅰ は じ め に
民事訴訟は,不確実性の構造という観点からみると,徐々に不確実性を減らしてゆく プロセスであるといえる。通常,訴訟開始時には極めて高い不確実性が存在し,原告も 被告も弁護士も裁判官も,いつどのような終局を迎えるのか明確に予測することはでき ない。しかし当初の極めて高い不確実性は,主張・立証活動等を通して減少してゆき,
やがて判決に至るに十分なレベルまで減少する。そしてその過程に,和解や放棄・取下 げといった当事者間の選択肢が内在し,それらの発生確率と経済的価値は不確実性の状 況と共に変化する。
Landes[ 1971 ]による先駆的な研究以来,訴訟を投資機会と類似するものとして,
経済学の観点から分析することが精力的に行われてきた
1)。この分野の基本的な分析モ
デルでは,訴訟の当事者は,期待利益と期待費用を比較して,訴えの提起や和解などの
意思決定を合理的に行うと仮定される。期待利益は,勝訴の確率とその際の賠償額が掛
け合わされ,それを適切な金利で割り引いた現在価値として計算される。意思決定の基
準が期待値 (確率加重平均) なので,期待利益の不確実性 (リスク) を反映する確率分布
のばらつき具合 (分散) は直接的に考慮されず
2),さらに訴訟の当事者は通常リスク中 立的であると仮定されるので,その意思決定に分散は影響しない。たとえば,10%の確 率で賠償金 1 億円が期待される場合と,100%の確率で 1 千万円の賠償金が期待される 場合は,共に期待値は 1 千万円になるが,リスク中立的な意思決定者はリスクを考慮し ないので,大きな不確実性を伴う前者と確実な後者のどちらも,等しい価値を持つ選択 肢と見なす。また,このモデルでは訴訟提起前の将来予想に基づいて固定的に意思決定 がなされるので,訴訟の進行と共に明らかになる新たな情報に応じて当初の決定を変更 する柔軟性は存在せず,たとえ期待利益がマイナスでも訴訟を提起する原告がいるとい う現実の事象を直接的に分析できない。
上記の期待値の計算手法はファイナンスでは割引現在価値 (DCF) 法
3)と呼ばれ,幅 広い評価に用いられるが,オプションのように将来のキャッシュフローが不確実性に直 接影響を受け,期待値に対してばらつきが非対称になる場合には評価できないという限 界がある。ファイナンスでいうオプションとは,所有者に,決められた量の資産を,決 められた日 (もしくはそれ以前) に,予め合意した価格で,買うか売る権利を与える契約 である。義務ではなく,自分が不利な場合は権利を放棄すればよい。コール・オプショ ンは所有者に買う権利を与え,プット・オプションは売る権利を与える。
オプション行使日の損益 (ペイオフ) は具体例でみるとわかりやすい。ここで,株価 が現在 680 円の
A社株を原資産とする,満期 6 ヶ月,行使価格 700 円のヨーロピアン・
コール・オプション
4)を考える。オプションの価格は現在 5 円である。このオプション は時価 680 円の
A社株を 700 円で買う権利なので,今行使しても損失を被るだけだが,6 ヶ 月後の満期日には株価が 700 円以上に上がっている可能性がある。仮に 6 ヵ月後の株価 が 750 円になっていたら,オプションを行使して 700 円で
A社株を購入し,即座に市 場で売却して 750 円の代金を受け取ることで,オプション購入費を引いた正味で 45 円 の利益が得られる。逆に株価が行使価格を下回っていたら,時価よりも高い価格で株式 を購入してわざわざ損失を被る義務はなく,行使する権利を放棄すればよい。損失はオ プション購入費の 5 円だけに限定できる (図 1 参照) 。すなわち,損失が出る場合は行使 せず,利益が出る場合だけ行使するという構造がキャッシュフローの非対称性を生み,
一般に不確実性 (ボラティリティ) が大きいとオプションの価値は高くなる。DCF 法に よる分析は対称性を仮定しているので,オプションの評価はできない。
オプションの満期日における株価とペイオフの関係は簡単に把握できるが,問題は満
期 日 前 の オ プ ショ ン 価 値 の 推 定 で あ る。こ こ で の ブ レー ク ス ルー は,Black
and Scholes[1973]によるオプション評価モデルによってもたらされた
5)。ブラック・ショー
ルズ (BS ) モデルは,無配当株式に対するヨーロピアン・オプションの価値を評価す る解析解モデルで,その導出には株式リターンの「動き」に,以下の確率微分方程式に 従う確率過程
6)が想定される。
dS(t)
――S(t)
=μdt+σdz (1.1)
S(t)
は
t時における株価で,左辺は瞬間的な株式リターンを表す。右辺第一項はドリフ ト項と呼ばれ瞬間的な期待収益率を表し,第二項は拡散項と呼ばれ不確実性を表す。σ は拡散係数,dz はブラウン運動による増分である。BS モデルではドリフト係数
μと拡 散係数σが定数なので,オプション期間を通して期待収益率とボラティリティ (変動率)
が変わらないと仮定されているのが分かる。これは短期の株式オプションの評価におい ては妥当な仮定といえるが,長期にわたるオプションの評価には向かない。たとえば,
成長著しいスタートアップ企業は通常高い成長率とリスクを伴うが,倒産せずに長期に 渡って存続したなら,やがて成長率もリスクも成熟企業のレベルに収束してゆくだろう。
この場合,ドリフト係数も拡散係数も時間の経過と共に低下する。
DCF 法では将来のキャッシュフローが固定的に見積もられるのに対して,BS モデル に代表されるオプション評価法では,将来のキャッシュフロー自体が不確実性をもつも のとして確率分布的に表現され,その中で選択肢の価値が評価される。言い換えると,
期待値分析では直接的に考慮されない不確実性に焦点を当てることで,DCF 法では不 可能な選択肢の価値評価が可能になる。
BS モデルは株式オプションの評価モデルであるが,同様の手法はより複雑な企業の 事業プロジェクトの評価にも応用され,リアル・オプション
7)分析と呼ばれる。事業プ ロジェクトには,取り巻く状況によって事業の拡大や縮小,撤退といった様々な経営陣 の選択肢が存在するが,これらのオプションの価値は,情報が明らかになるに連れて変
図 1 満期日の株価とコール・オプション保有の損益
-40-30 -20-101020304050600
670 680 690 700 710 720 730 740 750 760 770 損
益 円
行使日の株価(円)
化する不確実性によって大きく左右される。特に,競争的な研究・開発プロジェクト,
パテント,スタートアップ企業などの将来キャッシュフローには,それぞれ特徴的な不 確実性構造があり,それらを想定したリアル・オプション分析モデルが開発されている
8)。 近年,法と経済学の分野でも,訴えの提起や和解を,リアル・オプションと捉えて分 析する試みが行われている。最初にリアル・オプション評価を訴訟の分析に応用したの は
Cornell[1990]で,シンプルな決定木モデルを用いて訴訟プロセスに内在するオプショ ンに価値があることを示し,DCF 法による分析では説明が困難な,期待値がマイナス の訴訟を提起する原告のインセンティブについて考察した。とはいえ,論文の目的が訴 訟に内在するオプションの正確な価値推定ではなく,それらのオプションが訴訟を提起 するインセンティブに及ぼす影響に関して全般的な洞察を提供することにあったので,
本格的な訴訟オプションの評価モデルは提案されていない。
ファイナンス分野におけるリアル・オプション分析の応用研究は 20 世紀末から急速 に進展し,様々な分析対象に対して特徴的な不確実性構造を前提とした評価モデルが構 築された。その成果を受け,Grundfest
and Huang[2006]は,企業の競争的な研究・開発プロジェクトに内在するオプションと,訴訟に内在するオプションの類似性に注目 し,和解の価値を推定する解析解モデルを提示した。しかしながら,訴訟プロセスを新 たな情報が得られる前と後の二期間に分けて分析するモデルであり,和解は基本的にい つでも可能という実際の状況に照らすと,実用的な分析には限定的である。
訴訟の経済学的な分析における大多数のモデルは,一期間や二期間を想定した極めて 抽象化されたもので,学術的な考察には優れているものの,実際の民事訴訟におけるダ イナミックな複雑性が損なわれている感は否めない。民事訴訟は,判決に向けて不確実 性を解消してゆきながら,その過程で明らかになる新たな情報に応じて当事者たちの様々 な思惑と意思決定が交差するプロセスである。この不確実性構造の世界を,数ステップ の時間区分や,通常の二項モデル及び
BSモデルが仮定するボラティリティが一定の確 率過程で十分に捉える事は難しく,時間と共に不確実性のパラメータが変化する,より 柔軟な構造を想定することが望ましい。
民事訴訟のファイナンス的評価において,これまでそのようなモデルは構築されてい ないが,連続時間リアル・オプションモデルの民事訴訟評価への応用は,酒井[2006]
による研究が特筆される。酒井は,当事者の主張・立証活動,裁判所の心証など,訴訟 の結果に複合的に影響を与える不確実性要因を集約するものとして,プロウバティブ・
レベルという仮想の概念を想定し,それを以下の確率過程でモデル化した。
dP(t)
――P(t)
=μdt+ηdw (1.2)
ここで,P(t) は時点
tにおけるプロウバティブ・レベル,μ はドリフト率,η は拡散率,
dw
はウィナー過程の増分で,基本的にプロウバティブ・レベルの変動プロセスは,BS モデルが想定する無配当株式リターンの確率過程 (式 1.1) と同一である。
そしてプロウバティブ・レベルの値を基に和解や判決などの訴訟の終了条件を設定し,
モンテカルロ・シミュレーション
9)で分析した。本格的なパラメータの推定は行ってい ないが,実際の民事訴訟データとの比較で,概ね良好な結果を得ている。折しも,我が 国は司法制度改革の一環として裁判の迅速化に取り組んでおり,時間軸に沿って訴訟が どのように終了するのかを示したことは,民事訴訟の分析に興味深い方向性を示すもの であったが,簡単な数値例に留まり,その後の追加的な研究は行われていない。
酒井のモデルでは,プロウバティブ・レベルの動きを描写する確率過程の拡散係数が 一定 (すなわち不確実性の大きさが訴訟を通して変わらない) と仮定されるので,不確実性 が減少してゆくという民事訴訟プロセスの特徴的な構造的側面が捉えられていない。ま た,プロウバティブ・レベルは裁判所の心証に似た概念で裁判の終了判定に直結するも のであるが,ドリフト係数が一定なので,時間の経過と共にその期待値が限りなく増加 し続けるという,モデル化としての難点もある。
繰り返すと,民事訴訟は,不確実性を減らしてゆくプロセスといえる。費用,証拠の
内容,裁判所の心証,賠償額といった意思決定に影響を与える様々な不確実性は,当初
極めて高いが,主張・立証活動等を通して減少してゆき,やがて判決に至る。そしてそ
のプロセスの中に,和解や放棄・取下げといった当事者が持つオプションが存在し,そ
れらの価値は変化する不確実性と共に変動する。本稿の目的は,民事訴訟のリアル・オ
プション分析の枠組みとなる,逓減的な不確実性構造が反映可能な,より現実的な連続
時間確率過程モデルを構築することである。加えて,和解と放棄・取下げの判定に確定
的な基準ではなく,発生確率的なモデルを構築する。確率過程モデルに終了判定モデル
を組み合わせることにより,実際の民事訴訟データを用いたパラメータのフィッティン
グ推定が可能になり,観察が困難な民事訴訟に内在する不確実性構造の分析に,有用な
知見が得られることが期待される。
Ⅱ 確率過程モデル
1 .主観的トライアル・インディケーター・モデル
原告,被告,裁判官などの裁判関係者が,民事訴訟プロセスにおける不確実性下の意 思決定のベースとする総合的な情報の指標として,主観的トライアル・インディケー ター
10)という概念を仮定する。これは訴訟の終了形態にダイレクトに影響を及ぼす直 接観察できない心理的な仮想概念で,主観的な勝訴確率,あるいは裁判所の心証のよう なものであるが,裁判関係者が共有するという特徴がある。
主観的トライアル・インディケーターは
ψで表記し,0 ~ 100 の値を取るように設定 する。0 は原告の主張に全く根拠がなく,100 は原告の主張が 100%正しい完全勝訴の 状態といえ,ψ の水準が判決や和解などの意思決定に直接的に影響を及ぼす。評価の際 には
ψを勝訴確率と同様なものとみなして期待訴訟価値を計算するが,あくまで主観 的なものであり,公理的確率要件も満たさない。ψ は民事訴訟の不確実性構造を分析す るために有用な概念であり,ψ の動きを描写するために確率過程としてモデル化する。
ψ の変動プロセスは,以下の確率微分方程式に従うと仮定する。
dψ(t)
―――
ψ(t) =θ(t)dt+σ(t)dz
1(2.1)
ドリフト係数
θ(t)は
ψの
t時における期待成長率,拡散係数
σ(t)は
t時のボラティリティ,
dz1
はブラウン運動の増分である。式 1.1 の
BSモデルにおいてはドリフト率と拡散率が 一定であるが,このモデルではドリフト率と拡散率の双方が時間と共に変化する。
⑴ ψ の期待値の推移
ψ の期待値 (
ψ¯ ) の推移はどのようなものになるだろうか。通常の訴訟で原告が多額 の費用と労力をかけてまで訴訟を提起するのは,勝てる見込みが高い時だろう。したがっ て
ψ¯
(t)は訴訟プロセスの進行と共に上昇してゆくと予想されるが,一定の増加率で上 昇し続けると仮定すると,100 を超えてしまうという概念上の難点がある。そもそも証 拠に疑義を挟む余地があるから訴訟にまで発展するのであり,高い不確実性を伴う主張・
立証活動の初期は
ψ¯
(t)が徐々に上昇し,情報が蓄積されるにつれて上昇率を高め,や
がて不確実性の減少を伴いながら上昇率が低下して徐々に飽和レベルに収束してゆくと
考えるのが妥当であろう。そこで
ψ¯
(t)のモデル化には
S字型のロジスティック関数を 用い,ドリフト係数 (θ ) の動きに以下の確率微分方程式を仮定する
11)。
dθ(t)=λ[θ
¯
(t)-θ(t)]dt+η(t)dz2(2.2)
θ
は平均回帰プロセスに従い,t 時における期待平均値は
θ¯
(t)である。予期せぬ変動で 乖離した値が戻ろうとする
θ¯
(t)は
ψ¯
(t)の導関数 (dψ ¯
/dt) であり,時間と共に変化する。
ψ
¯
(t)はスケール変換されたロジスティック関数
N(t)に従う
12)。
ψ
¯
(t)=α[N(t)-N0]+ψ
0(2.3)
N(t)= K
―――――――
1+ (K/N
0-1)
e-ξt(2.4)
N0
は初期値,K は飽和値,ξ は増加係数,t は時間であり,α は,ψ ¯
(t)を初期値 (ψ
0) と 最終値 (ψ
e) の範囲にスケール変換する。
α= ψe-ψ0
―――K-N0
(2.5)
本稿のモンテカルロ・シミュレーション・モデルでは,K = 100,N
0= 1 に設定し,ま たシミュレーションのための離散モデルにおいては,時間幅 (Δt ) による曲線誤差を少 なくするために,θ ¯
(t)の値は数値的に求めた。
図 2
と
図 3は,ψ の期待推移の具体例である。
図 2は通常の期待値がプラスの訴訟の 例で,ψ
0を 50,ψ
eを 80,ξ を 5 に設定している。
図 3は勝つ見込みのない期待値がマ イナスの訴訟の例で,ψ
0を 30,ψ
eを 1,ξ を 8 に設定している。
図 4
は,異なるパラメータ値による
ψの期待推移を表している。ドリフト率が一定の モデルと比べて,様々な訴訟見通しの表現が可能であることが見てとれる。
図 2 期待値がプラスの訴訟の例
40 50 60 70 80
0.00 0.25 0.50 0.75 1.00 1.25 1.50 1.75 2.00 2.25 2.50 2.75 3.00
ψ
経過時間(年)
ξ=5, ψe=80
⑵ θ の平均回帰プロセス
ψ のドリフト係数 (θ) は平均回帰プロセス
λ[θ¯
(t)-θ(t)]dtに従う。
λは平均回帰速度で,
t
時点において,不確実性による予期せぬ変動で期待値
θ¯
(t)から乖離した
θ(t)が,どれ だけ速く期待値に収束しようとするのかを表す。ln(2)/λ はその半減期で,この時点に おいて当初の乖離幅が半分になることが期待される。
これも図でみるとわかりやすい。
図 5は平均回帰プロセスによるドリフト推移の具体 例で,どのように現在の値 ( 50%) から長期平均の 5%に回帰してゆくのか,二つの回 帰速度で例示している。破線曲線の半減期は 0.5 年 (回帰速度は 1.39) で,実線曲線の半 減期は 2 年 (回帰速度は 0.35 ) である。どちらも徐々に長期平均に近づいてゆくが,回 帰速度が速い前者の方が,早く長期平均に収束する。また,半減期において,乖離幅は 当初の半分になる。なお,図には示していないが,長期平均が現在の値よりも高い場合 は上下反転した曲線になり,上方に収束する。
図 5
では,平均回帰の概念をわかりやすく図示するために長期平均が一定の例を提示
図 3 期待値がマイナスの訴訟の例
図 4 異なるパラメータ値によるψの期待推移 05
1015 2025 3035
0.00 0.25 0.50 0.75 1.00 1.25 1.50 1.75 2.00 2.25 2.50 2.75 3.00
ψ
経過時間(年)
ξ=8, ψe=1
20 30 40 50 60 70 80
0.00 0.25 0.50 0.75 1.00 1.25 1.50 1.75 2.00 2.25 2.50 2.75 3.00
ψ
経過時間(年)
ξ=1, ψe=80 ξ=3, ψe=80 ξ=5, ψe=80 ξ=7, ψe=80 ξ=9, ψe=80 ξ=11, ψe=80 ξ=13, ψe=80 ξ=0 ξ=1, ψe=20 ξ=3, ψe=20 ξ=5, ψe=20 ξ=7, ψe=20 ξ=9, ψe=20 ξ=11, ψe=20 ξ=13, ψe=20
したが,本稿のモデルでは,一定の長期平均ではなく,時間と共に変化する
θ¯
(t)に回帰 するので,よりダイナミックなプロセスになる。
平均回帰性は普遍的にみられる統計現象であるが,θ の平均回帰速度に影響を及ぼす 民事訴訟に特徴的な要因として,当事者双方の主張・立証活動の努力があげられる。原 告,被告とも,想定したよりも不利な方向に向かっていると感じれば,挽回しようと追 加の努力を払うだろう。さらに費用を掛けて新たな証拠を集めようとしたり,代理人弁 護士もより多くの時間と労力を費やしたりするかもしれない。それら当事者双方の努力 が,民事訴訟プロセスにおける平均回帰性をもたらす力になり,回帰速度に反映される と考えられる。
⑶ ψ 及び
θの不確実性
平均回帰性は,期待値から大きく乖離した時に,より顕著に発揮される。そして乖離 をもたらす予期せぬ変動は,期待に織り込まれていなかった「サプライズ」情報によっ てもたらされる。そのサプライズによる変動のモデル化が拡散項である。サプライズは ランダムに現れ,通常そのインパクトは正規分布をなすと仮定される。小さなインパク トの発生確率は高く,インパクトが大きくなるにつれて発生確率は低くなる。
民事訴訟プロセスでは,当初の高い不確実性が徐々に減少してゆくと考えられるので,
不確実性分布の大きさを表す拡散係数は一定ではなく,時間の関数であると仮定する。
すなわち,ψ の予期せぬ変動
σ(t)と,θ の予期せぬ変動
η(t)は,共に平均回帰プロセス に従い,σ(t) は一定の長期平均
σ¯ に,
η(t)はゼロに収束する。
dσ(t)=κ1
[σ ¯-
σ(t)]dt(2.6)
図 5 半減期が 0.5 年と 2 年の平均回帰の例
0%
10%
20%
30%
40%
50%
0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10(年)
半減期=0.5年 半減期=2.0年 長期平均=5%
dη(t)=-κ2η(t)dt
(2.7)
ここで,κ
1と
κ2は回帰速度である。また,dz
1と
dz2はブラウン運動の増分で,両者は 瞬間的相関係数
ρで関連している。
dz1dz2
=ρ
12dt(2.8)
図 6
は,σ(t) と
η(t)の平均回帰の例である。κ
1は 1.39 (半減期は 0.5 年) で,σ(t) は初期 値の 60%から長期平均の 10%に収束している。κ
2は 2.77 (半減期は 0.25 年) で,η(t) は 初期値の 50%から 0 に収束している。回帰速度が速い
η(t)の方が,σ(t) よりも早く長期 平均に収束するのが見てとれる。
図 7
は,半減期が 0.5 年の場合の,異なる長期平均における
σ(t)の推移を描いている。
上方に収束する二つの線は,当初の値より長期平均が高い場合の例で,不確実性が時間 と共に増大してゆく。
図 6 σ(t)とη(t)の平均回帰の例
図 7 異なる長期平均におけるσ(t)の推移 0%
10%
20%
30%
40%
50%
60%
70%
0.0 0.5 1.0 1.5 2.0 2.5 3.0 3.5 4.0 4.5 5.0
経過時間(年)
σ(t) η(t)
10%
30%
50%
70%
90%
0.0 0.5 1.0 1.5 2.0 2.5 3.0 3.5 4.0 4.5 5.0
経過時間(年)
⑷ ψ のサンプル・パス
図 8
は,式 2.1 による不確実性を伴う
ψの時間的推移 (サンプル・パス) の例示である。
ここでは 13 のサンプル・パスを描いているが,それぞれがランダムな不確実性の影響 で様々な経路を辿っている。モンテカルロ・シミュレーションでは,このようなサンプ ル・パスを何万,何十万と発生させて分析を行う。
2 .費用モデル
訴訟プロセスを通して発生する費用にも不確実性があり,当事者の意思決定に大きな 影響を及ぼす。費用はおおまかに,①着手金その他の訴訟提起費用,②経費,③成功報 酬と三つに分けることができる。訴訟提起費用に関しての不確実性は少なく,また成功 報酬は裁判の結果によるが,経費には無視できない時間的な不確実性が伴う。そこで,
経費を以下のようにモデル化する。
C(t)=LA
[F+γ(t)] (2.9)
C
は経費,L
Aは訴額,F は固定経費率,
γ(t)は
t時における変動経費率である。すなわち,
t
時に発生する経費は訴額と経費率の積で,経費率は固定の部分と変動の部分に分けら れる。固定部分は予め期待される最低限の経費率で,それに予期せぬ出費による変動が 加わる。γ(t) は裁判がどのように進行するのかに依存し,その不確実性は当初高く,訴 訟プロセスが進むにつれて,徐々に減少してくと考えられる。そこで,γ(t) は平均回帰 を伴う以下の確率微分方程式に従うと仮定する。
図 8 ψのサンプル・パス
0 20 40 60 80 100 120
0.00 0.25 0.50 0.75 1.00 1.25 1.50 1.75 2.00 2.25 2.50 2.75 3.00
ψ
経過時間(年)
dγ(t)=κ3
[γ
¯-γ(t)]dt+φ(t)dz3+(2.10)
κ3
は平均回帰速度,γ
¯は長期平均,φ
(t)は拡散係数である。γ(t) は正の値しか取らない ので,dz
3+は折り畳み標準正規分布に従う正の変量としてモデル化する (図 9 参照) 。 変動経費率の予期せぬ変動も,やがて一定のレベルに収束する。
dφ(t)=κ4[φ¯-φ(t)]dt
(2.11)
また,γ の予期せぬ変動と,ψ 及び
θの予期せぬ変動との相関関係も許容する。
dz1dz3
=ρ
13dt(2.12)
dz2dz3
=ρ
23dt(2.13)
3 .終了判定モデル
モデル内での訴訟プロセスの終了は,ψ のレベルに応じて,①原告勝訴 (認容,認諾) ,
②和解,③放棄・取下げ,④敗訴 (棄却,却下) の 4 つに分けて判定を行う。
⑴ 勝訴と敗訴の閾値
ψ が上昇し,勝訴閾値を超えたら勝訴として終了する。同様に,ψ が下落し,敗訴閾 値を割り込んだら,敗訴として終了する。例えば,勝訴閾値が 85 なら,ψ が 85 を超え ると勝訴判決が下される。
図 9 折り畳み標準正規乱数による分布例
-4.0 -3.0 -2.0 -1.0 0.0 1.0 2.0 3.0 4.0
⑵ 和解モデル
和解は当事者達の利害と思惑が絡み合う,複雑な交渉の結果である。どのように両者 が合意に到達するのかを分析するには,おそらくゲーム理論的なアプローチが有効だろ う。しかしながら本稿の目的は不確実性構造を反映した民事訴訟分析の確率過程モデル の構築にあり,そのベースとなる
ψは原告と被告を別々に扱っていないので,ここで は
ψ値との関係で和解がどのように発生するのかを考察し,単純なモデル化を行う。
まず,和解は訴訟が終結を迎えるまでいつでも行えるが,原告,被告共に,自分が不 利な状況になるにつれ,和解するインセンティブは徐々に強くなるだろう。相対的なイ ンセンティブの変化でみれば,自分が有利な状況にある時よりも,不利な状況に進んで いる時の方が,和解へのインセンティブの増分が大きくなると考えられる。したがって,
和解確率は判決を下すに十分な水準 (勝訴閾値か敗訴閾値) に
ψが達する直前が最大で,
それらの閾値から離れるにつれ,指数関数的に減衰すると仮定する。
図 10
は,和解可能な
ψの範囲が敗訴閾値の 20 から勝訴閾値の 80 までの間で,和解 最大確率は 85%,最小確率は 15%と設定した場合の,いくつかの減衰率の例である。
なお,ここでの確率は年率で示している。つまり,そのような状況が 1 年間続いたら,
所与の
ψ値で,どれだけ和解が発生するかという確率である。確率が 100%以上の場合 は,1 年未満で全てが和解する。
⑶ 放棄・取下げモデル
和解モデルと同様にインセンティブの観点で考察すると,原告の放棄・取下げへのイ ンセンティブは,ψ が下落し,敗訴の可能性が高まるにつれ,増加する。被告が応じる インセンティブは
ψの下落と共に低下するだろうが,相対的な増分で考えると,初め
図 10 異なる減衰率による和解確率曲線
0%
10%
20%
30%
40%
50%
60%
70%
80%
90%
20 30 40 50 60 70 80
和 解 確 率 年
ψ
減衰率=5%
減衰率=10%
減衰率=15%
減衰率=20%
減衰率=25%
のうちは原告の増分の方が大きいだろう。しかし
ψが大きく下落し,敗訴の可能性が 高まると,被告が応じないインセンティブの増分が大きくなり,放棄・取下げ確率はそ れ以上大きくならないと考えられる。そこで,ψ が放棄・取下げ考慮閾値以下に下落す ると放棄・取下げの可能性が発生し,その確率は
ψの下落と共に上限 (最大確率) にな るまで上昇し,その後上限に留まるというシンプルなモデルを仮定する。
図 11は,放棄・
取下げ考慮閾値を 45,最大確率を 75%とした場合の,異なる増加率による放棄・取下 げ確率曲線を表している。なお,放棄・取下げ考慮閾値以下になった場合,最初に和解 の可能性をチェックし,次に放棄・取下げを考慮する。
Ⅲ モンテカルロ・シミュレーション
本節では,前節で構築したモデルに基づいて,コンピュータによるモンテカルロ・シ ミュレーションを行う。
モンテカルロ・シミュレーションでは,以下の離散化式を用いた。
ψ(t+Δt)=ψ(t)e
(3.1)
θ(t+Δt)=e-λΔtθ(t)+(1-e-λΔt)θ
¯
(t)+√
│││―1-e 2λ
-2λΔt η(t)ε2(3.2)
γ(t+Δt)=e-κ3Δtγ(t)+(1-e-κ3Δt)γ¯+
√
│││1-e
―――2κ
-2K44Δtφ(t)ε3+(3.3)
ここで,σ(t)=e
-κ1tσ0+(1-e-κ1t)σ¯ (3.4)
{[θ(t)-―σ(t)22 ]Δt+σ(t)√│∆tε1}
図 11 異なる増加率による放棄・取下げ確率曲線
0%
10%
20%
30%
40%
50%
60%
70%
80%
20 25 30 35 40 45 50
放 棄
・ 取 下 げ 確 率 年
ψ
増加率=1%
増加率=2%
増加率=3%
増加率=4%
増加率=5%
η(t)=e-κ2tη0
(3.5)
φ(t)=e-κ4tφ0+(1-e-κ4t)φ¯
(3.6)
であり,ε
1と
ε2は標準正規分布に従う乱数,ε
3+は折り畳み標準正規分布に従う正の乱 数を表す。
なお,シミュレーション・パラメータによっては,乱数の影響で
ψが 0 から 100 の 範 囲 に 収 ま ら な い 事 も 起 こ り 得 る が,Lord, Koekkoek, and
van Dijk[ 2010 ]や Andersen[ 2008 ]がシンプルなFull Truncation schemeで良好な推定結果を得ている ことから,本稿のシミュレーションでも同様のアルゴリズムを用いた。
シミュレーション期間は訴訟開始時から 5 年間とし,全体を 150 の期間に区切った。
1 期間当たりの長さは約 12 日間になる。いわば 150 期間モデルで,毎期終了判定を行い,
5 年で終結しない場合は「時間切れ」とした。また,サンプル・パスの数は 10 万とした。
なお,一様乱数は
L’Ecuyer[ 1999 ]のMRG32k3aで生成し,標準正規乱数への変換に
は
Moro[1995]のインバース法アルゴリズムを用いた。手順としては,最初に裁判所データを用いて費用モデル以外のパラメータを推定し,
次にパラメータを事前設定した費用モデルを加えて,簡単に訴訟価値の評価を試みた。
1 .裁判データを用いたパラメータ値の推定
表 1
は,平成 30 年度の裁判所司法統計の全地方裁判所第一審通常訴訟既済事件全体 のデータから,パラメータのフィッティング用に,モデル終了判定カテゴリーと審理期 間の割合を抽出したものである。司法統計データの「終局区分」の内,モデル終了判定 カテゴリーの “ 勝訴 ” には「認容」と「認諾」を含め,“ 敗訴 ” には「棄却」と「却下」
を含めて,割合を計算した。「決定」,「命令」,「その他」はモデルの終了判定カテゴリー にないので,最適化の基準には含めなかった。
表 1 のデータ全体を基準として,データとモデル予測値の乖離の二乗の総和 (残差平
方和) を最小化するように,複数のランダム初期点を用いた一般化簡約勾配法でパラメー
タの最適化を行った。しかしながら,これだけ多くの変数では局所最適解に陥る可能性
が高く,何より乱数によるモンテカルロ・シミュレーションでは計算の度に結果が変わ
り,信頼できる最適化は難しい。そこでいくつかの重要な変数については,事前にデー
タや考察からある程度妥当と思える数値に設定した。
訴訟開始時には原告・被告どちらが有利か分からないため,ψ の初期値は 50 とした。
また,
表 1から勝訴と敗訴の比率は 85.63:14.37 で,和解もこの比率で勝訴的和解と敗 訴的和解に分けられると仮定し,加えて放棄・取下げを敗訴的終了に含めると,勝訴的 終了と敗訴的終了の比率は約 72.36 と 27.64 となる。そこで期待
ψの最終値は 72.36 と した。加えて,令和元年に公表された最高裁判所「裁判の迅速化に係る検証に関する報 告書」 (第 8 回) によると,平成 30 年度の平均審理期間は約 9.1 月なので,ロジスティッ ク関数の増加係数 (
ξ)は,その時点で
ψのレベルがほぼ 9 合目に達する,9.0 とした。
乱数間の相関係数については全て 0 とした。
表 2
はパラメータ値をまとめている。左側の最初の三つ (ψ
0,ξ,ψ
e) が事前設定した もので,それ以外はデータを基準にした最適化による推定値である。
図 12
と
図 13は,
表 2のパラメータ値によるシミュレーション結果である。
図 12は終 了区分で,実際の裁判データに対してモデルは非常に良好なフィットを得ている。なお,
シミュレーションでは 5 年で終了しなかった「時間切れ」のケースが約 2.5%あったが,
終了区分の割合計算では除外した。
図 13は審理期間で,ここでも平均審理期間だけで は窺い知れない終了時期の分布をモデルは上手く捉えている。
誤差を伴う最適化なので,パラメータの値が全体最適解ではなく,局所最適解でさえ ない可能性も高いが,それでもなお全体的なフィッティングが極めて良好であるのは,
表 2 パラメータ値
ψ
初期値(
ψ0) 50.00
σの平均回帰半減期 0.54 年
増加係数(ξ) 9.00 原告勝訴閾値 81.57
期待
ψ最終値(ψ
e) 72.36 和解確率上限 173.35%
和解確率下限 32.02%
θ
の平均回帰半減期 0.88 年 和解確率減衰率 17.04%
θ
の拡散係数初期値(η
0) 34.93% 放棄・取下げ考慮閾値 30.41
η
の平均回帰半減期 0.14 年 放棄・取下げ確率増加率 7.83%
ψ
の拡散係数初期値(
σ0) 155.06% 放棄・取下げ確率最大値 58.84%
ψ
の拡散係数長期平均(
σ¯) 15.80% 原告敗訴閾値 8.93
表 1 終了判定カテゴリーと審理期間のフィッティング用データ
終了判定カテゴリー 勝訴 和解 放棄・取下げ 敗訴
38.26% 39.82% 15.50% 6.42%
審理期間 0.5 年以下 0.5 ~ 1 年 1 ~ 2 年 2 ~ 3 年 3 ~ 5 年 5 年超 55.27% 19.91% 18.04% 4.92% 1.65% 0.21%
(出所)平成 30 年度司法統計データより筆者作成
本稿で構築した確率過程モデルの構造が民事訴訟データの重要部分をある程度捉える事 に成功している証左といえよう。もちろん,最適化の結果はパラメータ値の組み合わせ に敏感に依存しており,本稿のような複雑な最適化問題では,全体的な残差平方和の値 が少し変わっただけで個々のパラメータ値が少なからず動くこともあり得るが,本質的 な構造的傾向が大きく変わる可能性は少ないだろう。
図 14
は,データから推定したパラメータ値による
σと
ηの時間的な推移を描いている。
図 14 データから推定したパラメータ値によるσとηの時間的推移 図 12 終了区分のフィッティング結果
0%
5%
10%
15%
20%
25%
30%
35%
40%
45%
勝訴 和解 放棄・取下げ 敗訴
データ モデル
図 13 審理期間のフィッティング結果
0%
10%
20%
30%
40%
50%
60%
0.5年以下 0.5~1年 1~2年 2~3年 3~5年 5年超
データ モデル
0%
20%
40%
60%
80%
100%
120%
140%
160%
0.0 0.5 1.0 1.5 2.0 2.5 3.0 3.5 4.0 4.5 5.0
経過時間(年)
σ η
σ
と
ηは共に
ψの不確実性構造を特徴付けるものあり,ψ の拡散係数初期値 (
σ0) が 155.06%から長期平均 (σ ¯ ) 15.80%に収束し,θ の拡散係数初期値 (
η0) が 34.93%から 0 に収束するという結果は,明確に逓減的な不確実性構造を示している。また,σ の平 均回帰半減期が 0.54 年で,η の平均回帰半減期が 0.14 年という値も現実的なものとなっ ている。ψ は仮想概念なので直接的な証拠とはならないものの,民事訴訟には逓減的な 不確実性構造があることを示唆しているとはいえよう。
2 .訴訟の価値評価の数値例
ここまでのモデルに費用モデルを加えれば,民事訴訟の正味現在価値 (
NPV) を計算 することができる。ここでは分析例として,費用モデルにある程度妥当と思えるパラメー タ値を設定した計算結果を提示する。
表 3は,事前設定した費用モデルのパラメータ値 である。
なお,訴訟価値 (L
V) の計算において,「時間切れ」の場合は
LV(t)=ψ(t)/100×LAとし て算入し,また勝訴判決と和解の場合は, (旧) 日本弁護士連合会報酬等基準に基づいて,
LV(t)
に対して成功報酬が払われるとした。
これらを基に,サンプル ・ パス数 10 万で原告の立場から費用を控除した正味キャッシュ フローの現在価値 (割引率 3%) を計算し,それを 100 回繰り返した平均値を,原告側 の訴訟の
NPV推定値とした。その結果,訴訟の
NPVは 362.11 万円と推定された。原 告が支払った総費用の現在価値は 156.10 万円で,訴訟提起費用 55 万円に加えて,経費 の現在価値が 41.01 万円,弁護士への成功報酬の現在価値が 60.09 万円だった。
表 3 費用モデルのパラメータ値
訴額(L
A) 1,000 万円 平均回帰半減期 0.50(年)
訴訟提起費用(含む着手金) 55 万円 拡散係数初期値(φ
0) 5.00%(年)
固定経費率(
F) 1.00%(年) 拡散係数長期平均(φ
¯) 0.50%(年)
変動経費率初期値(γ
0) 2.00%(年) 拡散係数平均回帰半減期 0.25 年
長期平均(γ
¯) 0.50%(年)
図 15
は,サンプル ・ パス数 10 万で推定した,訴訟の
NPV分布である。正規分布と は異なる複雑な形状で,民事訴訟の価値が,単純な期待値 (平均値) と分散による分析 では捉えきれない,込み入った意思決定を反映している可能性を示している。
図 15 訴訟のNPV分布
0.000 0.005 0.010 0.015 0.020 0.025
-159 -60 39 138 238 337 436 535 634 733 相
対 度 数
(万円)
本稿で構築した確率過程モデルは,民事訴訟に内在する様々な選択肢を評価するリア ル・オプション分析の枠組みとなる。本稿ではオプション評価は行わないが,例えば放 棄・取下げが不可能な場合の
NPVは 354.71 万円であり,前出の放棄・取下げが可能な 場合の 362.11 万円と比較すると,放棄・取下げオプションには価値があることが示唆 される。さらに踏み込んだ分析については,稿を改めて報告したい。
Ⅳ お わ り に
本稿では,民事訴訟に内在する特徴的な不確実性構造を反映できる確率過程モデルを 構築した。加えて,終了判定モデルと費用モデルを構築し,それらを組み合わせること によって,実際の裁判データを用いたパラメータのフィッティングが可能になり,訴訟 価値の分布も複雑な意思決定を反映する形で推定できた。平成 30 年度の司法統計デー タを用いたフィッティングは極めて良好で,その結果,推定されたパラメータ値から,
民事訴訟に内在する不確実性構造が逓減的であることが示唆された。モンテカルロ・シ ミュレーションによる数値解なので十分な最適化精度が得られている確証はないものの,
民事訴訟の分析において新たな可能性を示すものであるとはいえよう。
不確実性の構造はオプション評価において極めて重要である。より現実的な不確実性
構造を反映した確率過程モデルの構築によって,従来の単純な二項モデルや二期間モデ
ルでは分析が困難な,和解や取下げといった経路依存的オプションの経済的評価がより
正確に行えるようになり,訴訟戦略の分析にも有用な知見が得られることが期待される。
もちろん,パラメータの推定誤差や民事訴訟におけるリスク中立評価の問題で,絶対的 な価値評価に全般の信頼を置くことはできないが,相対的な比較評価は可能であろう。
コンスタントに狂う時計では,経過時間を正しく測定することができないが,同じ時計 で 2 回計った場合は,経過時間が長い方が確信を持って長いと判断できる。
とはいえ,本稿では確率過程モデルの構築と,簡単なパラメータのフィッティング及 び分析に留まっており,モデルの有効性にはさらなる検証が必要なことは言うまでもな い。また,民事訴訟に内在するオプションは交渉がからむ極めて複雑なものなので,確 率過程モデルだけでなく,その分析には新たな切り口も必要になるだろう。
注
1 ) この分野の概観には,シャベル[2010]を参照されたい。
2 ) 期待値のばらつき具合は,将来キャッシュフローの現在価値を計算する際に,割引率の大きさ によって間接的に反映される。
3 ) 費用も含めた将来キャッシュフローの現在価値を純現在価値(NPV)という。純現在価値は正 味現在価値とも呼ばれる。
4 ) ヨーロピアン・オプションはオプションの満期日にしか行使できないが,アメリカン・プショ ンは満期日までいつでも行使できる。この二つの基本的なタイプの他に,ほぼ考え得る限りの「エ キゾティック・オプション」が存在する。
5 ) 同時期に発表されたMerton[ 1973 ]もオプション評価理論の確立に多大な貢献をもたらし,
1997 年,ショールズとマートンにノーベル経済学賞が授与された。ブラックは 1995 年に他界し ていた。
6 ) 確率過程とは,時間の経過に伴って偶然的に変動する現象の数学的モデルをいう。ブラウン運 動のモデルが有名だが,株価や為替の変動など,金融商品のモデル化にも広く使われている。
7 ) 一般的に,市場で取引されるオプションが金融オプションと呼ばれるのに対して,実物資産や 事業プロジェクトに内在するオプションはリアル・オプションと呼ばれる。
8 ) 例えば,研究開発プロジェクトのリアル・オプション分析はSchwartz and Moon[ 2000a],
Miltersen and Schwartz[2004],パテント評価はSchwartz [2004],スタートアップ企業の評価 はSchwartz and Moon[ 2000b,2001 ],リアル・オプション分析全般はTrigeorgis[ 1996 ],
Schwartz and Trigeorgis[2001]等を参照されたい。
9 ) モンテカルロ・シミュレーションは,乱数を用いてコンピュータで膨大な計算を繰り返すこと によって,確率的事象をシミュレートする手法である。リアル・オプション分析のモンテカルロ・
シミュレーションについては,大野[2013]を参照されたい。
10) 酒井[2006]のプロウバティブ・レベルと基本的に同じ概念であるが,定義が若干異なるのと,
P(t)は確率の表記と混同しやすいので,主観的トライアル・インディケーターという用語を用い る。
11) θ¯(t)ではなく一定のθ¯なら,Schwartz and Moon[2000b]と同じ構造のモデルになる。
12) ロジスティック関数はロジスティック方程式の解で,生物個体数がどのように限定された環境 下で増殖するかを表す数理モデルとして開発されたが,現在では売上高や市場シェアがどのよう に飽和レベルに達するのかといったモデル化にも幅広く用いられている。
〈参考文献〉
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酒井雅弘[ 2006 ]「複数の不確実性を考慮した民事訴訟の価値評価」,法と経済学会,第 4 回全 国大会研究発表論文梗概集,51–86 ページ。
スティーブン・シャベル[2010](田中亘,飯田高訳)『法と経済学』(日本経済新聞社)。
This article develops a stochastic simulation approach to analyze civil lawsuits in Japan, reflecting the underlying uncertainty structure. I formulated the stochastic model in continuous time and implemented a discrete time approximation with decision models in the Monte Carlo simulation framework. I then estimated model parameters from actual court data by least squares optimization. Finally, with a stochastic cost model, I estimated the probability distribution of the average civil lawsuit value.
●Summary