︿
記
念
講
演
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呼応としての御遠忌史
真宗連合学会という権威ある学会での講演という機 縁を与えられまして、誠に身に余る光栄と思っており ます。歳こそ相応に取ってまいりましたが、未だ学成 らず、才薄く、未熟な私ごとき者がこういう場で講演 するということは、実は思ってもみなかったことでご ざいます。はたしてその責に応えられるようなお話が できるかどうか、たいへん心許なく思っております。 本日、﹁呼応としての御遠忌史﹂というテ l マ を 出 させていただきました。このことに思い至ったのは、 最近のことでございます。 一 昨 年 ︵ 二OO
五年︶にな りますか、大谷派名古屋教区から、御遠忌の歴史が今 まで語られていないから、御遠忌を迎えるにあたって 呼応としての御遠忌史 大谷大学名誉教授大
桑
斉
の準備作業として、御遠忌の歴史を語って欲しいとい う依頼を受けたわけです。それで昨年︵一一OO
六 年 ︶ の今頃、名古屋教区でごく粗削りなお話をさせていた だくことがありました。それを機会としまして、御遠 忌の歴史そのものが知られていない、あるいは語られ ていないということは、かなり大きな問題ではないか ということを思いました。また、大谷大学でもそのテ ーマでお話する機会を得ることができました。そうい うことが機縁となりまして、私自身から問題が発した というよりも、教団・大学、そういった所からの呼び かけによって、御遠忌の歴史というものに手を染める こととなった次第です。したがいまして、今回のテ l 二 五 五呼応としての御遠忌史 マの成り立ちそのものが、まさに呼応として始まって いるということを改めて思っております。 御遠忌の歴史がこれまで語られたことがなかった。 おそらく今回が初めてであろうと思います。何ぶん、 史料収集から始めていかねばならないということで、 ようやくその一部を成したにすぎません。しかも、た いへん粗削りな状態でございます。本当は問題になり そ う な 事 柄 を 、 一つ一つ掘り起こして深めていかねば ならないわけですが、とてもそれだけの力も余裕もご ざいません。今回もまた非常に粗削りな形で、大きな 一つの見通しをお伝えすることができれば、また何か と ご 教 一 不 を い た だ け れ ば 幸 い と 思 っ て お り ま す 。 それから、お断りを予め申し上げておかねばなりま せんが、御遠忌の歴史と申しましでも、私がようやく 見通しを持ち得たのは、大谷派に関してのみであると 言ってもいいかと思います。そこで今回は、大谷派を 中心としまして、各派につきましてはほんの少ししか 申し上げることができないということでお許しいただ きたい、この点を予めお断り申しておきます。もう 二五六 っ 、 ﹁ 御 遠 忌 ﹂ と い う 漢 字 を ﹁ ご え ん き ﹂ と 読 む の か 、 ﹁ごおんき﹂と読むのか、このこと自体も両論がござ います。大谷派では﹁ごえんき﹂と申しておりますの で、これも大谷派の慣例にしたがって﹁ごえんき﹂と 読んでまいります。これについてはまた後で問題にし ますが、これも予めお断りしておきます。 御遠忌の歴史がこれまで通史として語られたことが なかったということは、御遠忌というものがいっ、 U
、
かにして始まったかということ自体が、そもそも問題 にされてこなかったことを意味しております。御遠忌 がいっ、どのようにして始まったかということが語ら れておりません。真宗関係、仏教関係のいろんな辞典 を検索してみましでも、﹁御遠忌﹂という項目はあり ま す が 、 いかにして始まったかということにほ い つ 、 とんど触れられていません。ということは、﹁御遠忌﹂ ということが﹁始まりの物語﹂を持っていないという ことです。そのことは、とりもなおさず御遠忌が特定 の﹁始まり﹂を持つものではない、始めからあった、 あるべき時からあるようになされてきた、このように暗黙の語りがなされてきたということを意味していま す。つまり、御遠忌を仮に﹁五十年ごとの祖師忌﹂と 申しておきますと、親鷺聖人御遠忌は五十回忌に始ま り、百回忌、百五十回忌、二百回忌と連綿と続いてき たと、このように我々は何となく思っております。し かしながら、はたして本当にそうなのでしょうか。歴 史研究と言いますのは、そのような物事の﹁始まり﹂ ということを解明するということが一つの課題です。 そ し て 、 ﹁ 始 ま り ﹂ に は 多 く の 場 合 、 さまざまに神話 的な語りがなされています。そのような神話的な語り を解体して、そして実態を確かめていくということが 一つの作業になるわけです。ところが、御遠忌に関し ては﹁始まりの神話﹂すら無い、全く何も無いという 状態です。そこで、改めて﹁始まり﹂ということを解 明 し よ う と 考 え て ま い り ま す と 、 い っ た い 、 ﹁ 始 ま り ﹂ が何であったのかということが改めて問われることに なります。そして特定の﹁始まり﹂を持つ歴史的な出 来事が、その後歴史の中でどのように展開していった か。こういうことが問題になるわけです。御遠忌がい 呼応としての御遠忌史 つ始まり、それはいかなる意図や目的を持っていたの か。その目的や意図はその後どうなったのか。こうい うことを問うていくのが御遠忌の歴史になろうかと思 い ま す 。 そのように、問いを発するということは特定の視座 を持つということであります。そこで御遠忌を問、つ視 座として、﹁呼応﹂という言葉を挙げてみました。﹁呼 応﹂という言葉は、﹁呼びかけ﹂と﹁応え﹂です。根 源的には弥陀からの呼びかけと、それに応えていく 我々衆生、弥陀と私たちの聞の呼応関係ということが 一番の根底にあることは申すまでもありません。それ を明らかにされた宗祖親驚聖人の呼びかけ、その門徒 たる我々がそれにどう応えていったか。その宗祖と 我々の応答のという縦の関係、それを越えて横の方か ら、つまり社会・国家、そういった所から我々真宗門 徒に対して、あるいは真宗教団に対して、さまざまな ﹁呼びかけ﹂がなされてまいります。そういう縦と横 の呼応関係、それをふまえて御遠忌の歴史というもの を見ていくことになろうかと思います。特にその中で、 五 七
呼応としての御遠忌史 私たちと弥陀の本願との縦の呼応関係、それが根底に はありますが、縦の呼応関係が横の関係の中にどのよ うに表れてくるか。こういうことを見ていくことにな ろうかと思います。弥陀の本願と私たち自身との応答 ということは表面には出にくいわけですが、 そ 、 つ い う ものを念頭に置きながら、あるいは根底に据えながら、 社会あるいは国家、別の言い方をすれば世俗世界、こ ういう所と教団との応答ということに中心を置いて見 ていきたいと思います。
一
一
百
五
十
回
忌
ま
で
1﹁
始
ま
り
﹂
の
前
そこで本題に入ります。最初に二百五十回忌までの 状態を検討いたします。宗祖五十回忌に相当する応長 元年という年には全く痕跡がございません。ただし、 ﹂の前年に覚如上人が鏡の御影を修復されまして、そ してこの年にはこの鏡の御影を奉じて越前へ下向し、 そして大町如導の前で﹃教行信証﹂を講じておられま す。あるいはまた、同じ応長元年は如信上人十三回忌 五 J¥ に当たりまして、覚如上人が関東に下向して法要を執 行されています。ということは、五十回忌こそは執行 されてはおりませんけれども、五十回忌が節目の年で あるという意識があったように思われます。五十回忌 はそのようなことで、意識はされたけれども法要が執 行された形跡はありません。 その次の百回忌に当たります年にも全く何も痕跡が ございません。この時期に﹃存覚一期記﹄という記録 が存在しますが、この百回忌の年の康安元年には﹁存 覚 一 期 記 ﹄ の中には何も痕跡が見えておりません。し たがいまして百回忌はほとんど意識されていない、 こう言ってよいかと思います。その次の百五十回忌、 応永十八年という年に当たりますが、この年にも何の 痕跡もございません。 つまり、百五十回忌までは全く 痕跡が無いということです。 そして二百回忌の年、寛正二年︵一四六一年︶です が、この年に初めて痕跡が出てまいります。﹃本願寺 通 紀 ﹄ ’ ﹂ ふ み 、 寛正二年十一月、宗祖二百回忌、修一七日仏事、僧 侶 合 二 十 六 人 鮮 明 岬 という記事が出ております。この﹃本願寺通紀﹄の記 事は、実は﹃紫雲殿由縁記﹄という史料に依っている わけです。現在は新町正面にあります本願寺派の金宝 寺の由緒書が﹃紫雲殿由縁記﹄というものです。非常 に古い歴史を持つお寺でして、元来は泰澄大師に帰依 していた寺であると、こう伝えるお寺です。 この﹃紫雲殿由縁記﹄は﹃真宗全書河﹄に収録され ておりますが、その寛正二年の条に、 親驚法師二百回之年忌、蓮如公思慮、仏事ノ思召 立有之ニツキ、関東門弟中ニ勧進、巡回ノ義兼栄 公ニ深ク頼有、早速承諾有テ、 四 月 四 日 京 都 出 立 、 八月二十三日ニ帰京、為謝礼正信偶文ノ中、本願 名 号 正 定 業 ヨ リ 七 言 八 句 染 去 、 ン テ 給 之 ト 云 々 ︵ 中 略︶明照大僧都、法印明蓮律師ノ恩顧ニテ親鷲大 法師二百回忌、十一月十七日ノ仏事供養、導師蓮 如公、同十一月十七日大谷本願寺仏寺供養有之、 両日導師明照法印勤之、折節雪深キ仲冬ニテ関東 ヨリ僧俗合テ七人登ル、其外参集ノ僧侶都合二十 呼応としての御遠忌史 六人、当院師資並六院請待ニテ参拝セリ、二十八 日群集、男女老少凡五六十人モアルヘシト云々 とあります。金宝寺の住職が関東へ勧化に巡っている という記事が出てまいります。そして十一月に七ヶ目、 本願寺で仏事を行った。関東から七人の参詣があった。 こういう記事が出てくるわけです。﹃本願寺通紀﹄ の 記事は、実はこの﹃紫雲殿由縁記﹄によって書かれて いる記事です。それならば、﹁紫雲殿由縁記﹄という ものが信用できるかということになりますと、これを 裏付ける史料が全く存在しません。﹃紫雲殿由縁記﹄ は孤立した史料です。﹃紫雲殿由縁記﹂そのものは、 寛永十五年︵一六三八年︶に収録されたという奥書を 持っております。しかしながら現存いたしますものは、 それから百年あまり後の延享四年︵一七四七年︶とい う年に修正増補されているものです。おそらく全体は この延享の成立ではないかと思われます。寛永でした ら江戸のかなり早い時期です。その時期に書かれたと いうことで信じたくなるわけですが、どうにもこれを 傍証することができない。あるいは蓮如上人のさまざ 五 九
呼応としての御遠忌史 まな記録を見てまいりましでも、一一百回忌が行われた という痕跡が全くありません。 全く無いというとちょっと間違いかもしれません。 実はただ一つ痕跡があります。それは、蓮如上人とた いへん仲が良かった一休和尚、この一休和尚が大谷の 二百回忌にお詣りをして詠んだ歌であるというものが 伝わっています。 襟巻きの し、 てコ の 法
V
あ は つ 天 た 下 か ー そ な う り な 里坊
主 これがいろんな本に引かれていまして、あたかも一休 の自作であるような感じを受けるわけですが、、 .
3 , − ・ ν ィ ナ ム いこの歌がどこから始まるのか調べてもなかなかわか らない。ようやく私がみつけましたのは明治になって 出版された﹃一休道歌評註﹄という書物です。その中 で出てくるのが初めてではないかと思います。 ですか ら、江戸時代からこういうことが一言われているようで す。江戸期になりますと御遠忌が始まっていますので、 そうすると二百回忌は当然勤まっているという前提で、 こういう一休の歌が作られたのではないかと、このよ 二 六 O うに私は考えております。 ただしこの寛正二年という年は、蓮如伝の中では重 要な年です。﹁御文始めの御文﹂が書かれる年です。 あるいは、この年に安城の御影を修復されています。 また、堅田の本福寺の記録によりますと、この年初め て親鷺聖人との連座の寿像を下されています。したが いまして、どうも蓮如上人には何か節目の意識があっ たのではないかという感じがします。時あたかも寛正 の大飢鐘の最中で、ここで御文を書き始められたとい うことはたいへん有名な話でございます。この寛正 年が奇しくも二百回忌の年に当たっています。しかし ながら一一百回忌が修されたということはどこにも言わ れていないようです。 その次の二百五十回忌が永正八年という年に当たり ます。これもやはり﹁紫雲殿由縁記﹄ の記事です。永 正 八 年 の 条 に 、 十一月御正忌ト申、今年二百五十回忌ノ節トイヘ トモ、関東ヨリ僧俗ニテ九人上洛、其他遠近都合 坊主分五十八人、 一家衆共也、其外参詣、二十六七八ノ三日間ハ御影堂満々タリ、山科ノ一郷貴坊 建立己後ノ賑ナリ、委寺号其名別記 という一言葉が出てまいります。しかしながら、これま た孤立した史料であります。これを裏付けるものが全 く存在しない。この時期に関しては﹃本願寺作法之次 第﹄、あるいは﹁山科御坊之事井其時代事﹄︵﹁真宗史 料集成﹄第二巻︶という実悟の記録が存在します。し かしその故実書の中には永正八年に一一百五十回忌が勤 まったということがどこにも見えておりません。そう いう法要の故実を記した記録の中に御遠忌の記録が出 てこないということはちょっと考え難い。したがって、 この永正八年の﹁紫雲殿由縁記﹂もまた裏付けること が で き な い わ け で す 。 このようにして、二百五十回忌までは御遠忌が執行 されたという確証が得られません。
三百回忌||始まり
御遠忌については最近の安藤弥氏の研究︵﹁親驚 呼応としての御遠忌史 百回忌の歴史的意義﹂真宗教学研究訂 二OO
六 ︶ が ありまして、そこでは、二百五十回忌までは行われて いないということは、御遠忌が﹁連綿と行われてきた という漠然とした思い込みに再認識を迫るもの﹂であ ると、こういう結論が述べられています。私流にこれ を言い換えますと、﹁始まり﹂を持たない、最初から 連綿と続いてきたというように思い込まれてきた御遠 己 む と い う も の が 、 実 は 歴 史 的 な 産 物 で あ る 、 一 定 の 日 的のもとに始められたということである、この確認を 改めて我々に迫ってくる、こういうことを意味するで あ ろ う と 思 い ま す 。 それから、これも安藤氏の研究によるわけですが、 こ の 一 一 百 五 十 回 忌 の 時 期 、 一 五00
年 代 、 つ ま り 十 六 世紀、他の宗派で御遠忌が行われていたかということ について、これも我々は、当然、弘法大師なり、伝教 大師なり、あるいは日蓮上人なり、御遠忌があったよ うに思っているわけです。ところが、これまたほとん ど痕跡が無い。禅宗の寺院で二百回忌、百五十回忌と いったものが極めて例外的に行われているだけである。 ム ノ 、呼応としての御遠忌史 こういうことが明らかにされています。したがいまし て、十六世紀までの日本の仏教界では、御遠忌という もの自体が一般化していない。何も真宗教団だけがし て い な か っ た わ け で は な く 、 日本仏教全体において御 遠忌というものが勤められていない。そうしますと、 十六世紀段階までに御遠忌がなされなかったというこ とはいったいどういうことを意味するのかということ が問題になります。それを安藤氏は親鷲を﹁開山聖人﹂ と位置付けた本願寺教団という宗派・教団の成立、そ の完成がやがて親鷲コ一百回忌というものとして出てく る で あ ろ う と 述 べ て い ま す 。 つ ま り 、 一 人 の 宗 祖 に よ る一つの宗派の形成ということが明確に認識されるよ うになって初めて、宗祖の御遠忌というものが行われ るようになると、このように領解されます。教団の形 成と御遠忌が密接に関連する。したがいまして、明確 な教団形成を行っていない日本仏教の諸派においては、 宗祖の御遠忌というものが行われないのがむしろ当た り前、こう考えてよいと思います。宗派の形成という ことと御遠忌とが密接な関わりを持つのだと、こうい ム ノ 、 う指摘であろうかと思われます。先に、﹁始まり﹂が 何であったかと聞いましたが、教団成立が﹁始まり﹂ であり、教団が﹁始まり﹂を持たない自明のことであ れば、御遠忌も﹁始まり﹂を持つことがないとされた こ と に な り ま す 。 どこにも御遠忌がないというそういう中で、十六世 紀 の 後 半 、 一五六一年︵永禄四年︶に親驚聖人三百回 忌法要が執行されます。まさしく画期的な意味を持つ ているわけです。真宗における御遠忌の﹁始まり﹂で あるとともに、日本仏教における御遠忌の﹁始まり﹂ であると、こう言ってもよいと思います。その二年前 の永禄四年に、本願寺は門跡に成っております。そう しますと、この御遠忌の﹁始まり﹂ということと﹁門 跡成り﹂ということが不可分の関係において考えられ ねばなりません。しかしながら、本願寺が門跡に成る ということはいったいどういうことなのか。本願寺が 門跡に成る、おそらく宗祖の精神からすればあり得な いようなことが起こっているわけです。それをどのよ うに理解すればよいのか。私は、これだと納得させら
れるような研究に未だ接しておりません。御遠忌が宗 派の確立と関係して始まる。それはたいへんよくわか るのですが、﹁門跡成り﹂ということと関係して始ま ってくるとするならば、宗派形成・﹁門跡成り﹂・御遠 忌、この三つの出来事が、もっと密接な関連性におい てとらえられるような研究がなされる必要があろうか と思います。私自身も今はまだそこまでとうてい到達 し て お り ま せ ん 。 一つ重要な宿題として残しておりま す その最初の御遠忌、三百回忌。その法要の具体的内 容はかなり明らかに知ることができるわけです。これ は﹁今古独語﹄︵﹁真宗史料集成﹄第二巻︶という書物 の中に詳しく出てまいります。﹁今古独語﹄は蓮如上 人の孫に当たります光教寺顕誓が著した書物です。必 要な部分だけ拾い読みをしてまいります。 抑開山聖人三百年忌、永禄四年辛西年ニ当リ給フ、 コレニ由テ、諸国御門弟御一門一家ソノ外坊主衆 参洛、但シ三月ノ比、引上ラレ、勤修アルヘキ由、 年内ヨリソノ沙汰コレアリ、兼テハマ夕、今師上 呼応としての御遠忌史 人禁裏ヨリ門跡ニナシ申サル ということで、﹁開山聖人三百年忌﹂は三月に引き上 げられて執行されることになった。そして、 御仏事ノ儀式、当分御門跡ニナシ申サレ候ト申シ、 院 家 各 々 出 頭 、 コ ト サ ラ 御 遠 忌 避 遁 ノ 御 事 ナ レ ハ 、 他宗ノ衆参詣モアルヘシ、先聖道ノ衣裳シカルヘ キ由ニテ、法服納袈裟用意アリ、青蓮院門跡ノ出 世松泉院法印ニ御談合ト云々 他宗の衆の参詣があるであろうから聖道門の衣装を着 用するということになる。そこで青蓮院門跡の松泉院 法印と相談をして、ここに改めて法服納袈裟という装 束が着用されるようになってきます。 その次に法事の差定が書いてあります。﹁日中三部 経一巻ッ、伽陀アリ、読諦ノ後マツ導師礼盤ニ向ヒ 礼、其後十四行偏ヲ始メ行道﹂。このあたりが現在と 違うようです。﹁次ニ漢音ノ阿弥陀経念仏廻向ナリ、 導師ハ御堂衆﹂と。そこに導師の名前が連ねてありま して、その後に﹁内陣行道ノ衆ハ、御門主・本宗寺・願 証寺・顕証寺・教行寺・慈敬寺・常楽寺並ニ御堂衆ナ ム ノ、
呼応としての御遠忌史 リ﹂と。以下、省略いたしますが、﹁南ノ座敷﹂、﹁着 座 ノ 衆 ﹂ 、 院 家 、 ﹁ ソ ノ 外 一 家 衆 ﹂ 、 ﹁ 末 座 ニ 候 セ ラ ル 、 坊官衆モ白袈裟裳付衣ニテ﹂とあります。そして﹁衣 裳ハ、行道衆、法服金欄柄袈裟﹂である。このように 日中の法要は三部経の読諦と行道から始まってくる。 しかも、御堂衆が導師を務める。あるいは御堂衆と一 家衆とが行道を行、っ。現在では考えられないような状 態で法要が始まってくるわけです。さらに重要なこと は 、 日 中 に は ﹁ 式 文 ﹄ の拝読がございません。﹃今古 独語﹄には﹃式文﹄、﹁報恩講式﹄がいつ拝読されたか ということは実は書いてないわけです。ところが他に 記録がございます。蓮加上人のお子さんであります順 興寺実従の﹁私心記﹄︵﹃真宗史料集成﹄第三巻︶、と いう書物にこの法要の次第が書いてございます。それ を見ますと、﹃報恩講式﹄は逮夜において持読をされ ています。御遠忌を報恩講の延長線上に考えるならば、 ﹃式文﹄は日中に拝読されるべきではないのか。それ が逮夜に拝読され、日中は﹁報思講式﹄ で は な く 専 ら 行道と、こういう形になってまいります。 つ 宇 品 hり 、 予 ﹂ 一 一 六 四 こにおきまして、単に装束だけではなくて御遠忌その ものが聖道門のあり方でもって勤められる。そして ﹃ 報 思 議 式 ﹄ の 拝 読 が 中 心 か ら 外 れ て い く 。 忘れましたが、結願日中におきましては﹃報恩講式﹄ が拝読されます。全く拝読されないわけではありませ 一 つ 一 一 一 日 い んが、どちらかと言えば、そういう点では通常の報恩 講とは違うようなやり方で勤まっていることになるわ け で す 。 こ の よ う に コ 一 百 回 忌 の 御 遠 忌 と い う も の が 、 極 め て 聖道門的な色彩の強い、そういう法要次第として始め られていった。やはり、これはその二年前に本願寺が 門跡に成っているということと関わっている。 つ ま り 門跡寺院の法要であるということで、全て諸式、門跡 寺院の法要の次第に準ずる形で行われている。最初の 御遠忌が聖道門の形式で始まってくるということは、 やはりたいへん重要な意味合いを持っていたのではな いかと思います。そのことがきっかけになりまして、 や が て こ の 御 遠 忌 が あ っ た 永 禄 四 年 か ら ゴ 一 十 五 年 ほ ど 後 に な り ま す が 、 一五九五年︵文禄四年︶という年か
ら、豊臣政権が作り上げた大仏殿で大仏千僧会という ものが始まってきます。新たに設定された新儀八宗と 呼ばれる日本仏教の八つの宗派、 つまり、真言・天 ム口・律・禅、そして日蓮党・浄土宗・遊行衆、そして 一向衆というこの八つの宗派が大仏千僧会を毎月交代 で勤めるということなる。豊臣政権が公認した新しい 日本仏教の八つの宗派、その中の一つとして一向宗と いうものが公認されるということになるのです。 で す から十六世紀の後半の﹁門跡成り﹂から御遠忌、大仏 千僧会という過程をたどりまして、本願寺あるいは真 宗というものが一向宗という形でもって世に公認の宗 派になる。言い換えれば、宗派・教団の形成、これは あくまで教団内部の問題として展開してきましたが、 その宗派形成というものが、今度は外部から宗派とし て公認されるという動きと呼応する、こういう形にな って展開していったということになります。御遠忌と いうものが始まった時から、これは親驚・真宗という ものとちょっと違う別の要素、あるいは外部的な契機 と一言ってもよいかもしれませんが、そういうものを抱 呼応としての御遠忌史 え込んだものとして御遠忌というものが始まってきて いる。このことは現代に至るまで問題がずっと続いて いると思いますので、﹁始まり﹂がそういうものであ ったということを確認しておく必要があろうかと思い ま す 。 本願寺以外の真宗各本山での御遠忌というものはど うだつたか。これはまだ私は十分に調べきれていませ んが、専修寺は同じ永禄四年の十月に三百回忌を勤め ております。この段階で専修寺は門跡ではございませ ん。それから十三年ほど遅れた天正二年に門跡に成つ ております。御遠忌が先行して、後から門跡に成ると、 こういう形をとっております。 ですから本願寺の場合 も、何も門跡に成ったから御遠忌が始まったというよ うに、そこに因果関係があるということではないのか もしれません。因果関係があるかないかは分かりませ ん。たまたまの偶然であったかもしれないわけです。 各派がどのような三百回忌というものを行っているの か、あるいは行わないのか、こういったことを考えて いかねばならないと思います。 二 六 五
呼応としての御遠忌史 それから御遠忌の内部的な問題として、先ほどから 申しましたように導師は御堂衆が務めています。御堂 衆の力が非常に大きいということは、 いったい何を意 味しているのでしょうか。教団編成の原理から申すな らば、それまで本願寺教団の中心部に存在していたの いわばこれは親族集団です。本願寺の は 一 家 衆 で す 。 構造というものを比べていって、 一番比べやすいのは 徳川幕府であろうと思います。本願寺の一門・一家衆 というのは、徳川幕府でいうならば、水戸・尾張・紀 州の御三家に当たる。あるいはそれ以外の松平家を称 する一門に当たる。そういう親族集団が二家衆として 存在する。それでは御堂衆とは何であろうかと考えま すと、それは徳川幕府でいうならば譜代・旗本衆では ないか。したがいまして一二百回忌の御遠忌において御 堂衆が大きな力を持つということは、徳川幕府の創業 期におきまして松平一門よりも譜代・旗本衆が非常に 大きな力を発揮したあり方とほぼ同じような形なので はないだろうか。徳川幕府の場合は、その譜代ならび に一門の他に外様大名が各藩を形成して徳川幕府に従 一 一 ム ハ ム ハ うわけですが、それが各地の一般末寺、特に有力な多 数の末寺を従えたような大寺院はそういう外様大名に 当るということになるであろう。親族集団、譜代家臣 団、さらには外様衆、つまり主従制と家父長制という 両方の相互補完関係による教団構造、こういうものが 示されたのが三百回忌の御遠忌の装束ならびに座位と いう問題である。座位の問題は詳しく申し上げません が、それが参詣者誰の目にも明らかなような装束と座 る位置によってそのことが示されている。こういうこ とがコ一百回忌の持っていた意味ではないのかというよ うに思っているわけです。 つまり御遠忌というものは、 教団編成原理からの帰結であるにしても、それが内部 的に必然的であったと同時に、その教団編成原理とい うものを内外に誇示していく機会、外側の呼びかけに 応じて内部編成の原理をビジュアルに示したものとし であった。そして三百回忌において御遠忌というもの が始まってきた。あるいは国家社会からの呼びかけに 応答して始まった御遠忌である。祖師忌という意味で は報恩講の延長線上に位置しながら、それとは違う異
質の応答として御遠忌が始まった。しかしながら、御 遠忌が祖師忌であるかぎり、どこまでも信心の問題を 根底に据えて、外部社会からの呼びかけに応答しなけ ればなりません。異質な契機を内包しつつ信心で応答 するという課題が、三百回忌御遠忌の﹁始まり﹂から課 題としであったわけです。それが現代に至るまで御遠 忌の課題として存在し続けてきたということであろう と、このように私は思います。 ともあれ三百回忌御遠忌は空前の大法要でありまし た 。 ﹃ 耶 蘇 会 士 日 本 通 信 ﹂ の中に、人々が大坂へ群衆 し、開門と同時に雪崩れ込んで押し潰されて死ぬ者も いたという記事はたいへん有名です。この記事は、本 願寺が﹁毎年甚だ盛んなる祭を行ひ﹂とあって、報恩 講を指しているようですが、永禄四年八月の書簡です から、一二百回御遠忌を指しているのだろうと考えられ ます。そのような大盛況というものが伝えられる一方 で、実悟の﹃山科御坊之事井其時代事﹄ の中には、京 都の人々の噂として﹁本願寺にハ門跡になられたると て、袈裟をかけて二家衆魚をくハれ候事、 一 ’ ﹂ 、 、 ‘ 、 A ↑﹄ノ U , 刀 呼応としての御遠忌史 なる大罪のものも本願寺の坊主のゆるさるれハ仏に成 とて、住ことを申に、これを後生の御免許と申て、後生 をゆるさるれハ、仏になる﹂、と、こういう皮肉な噂 が京の雀によって暁かれると記されている。内部的に は非常に熱狂的な御遠忌が勤まっていきましたけれど も 一方でそれを冷ややかに見ている京雀の日もある。 こういう内部的熱狂と外部からどこか皮肉な目で見ら れるということ、それが現代の御遠忌まで続いている のではないかということも思わないわけではございま せ ん 。 コ一百回忌では未だ﹁御遠忌﹂とは呼ばれていません。 史料の上は﹁御年忌﹂、あるいは﹁御忌﹂です。大谷 大学図書館に東本願寺の家老であった粟津家の記録が 所蔵されていますが、その中に﹃聖人三百年御忌之 記﹄という題名を持つものがあります。ここでは﹁御 忌﹂と呼ばれています。冒頭に﹁三百御年忌 ノ﹂と書かれています。この乗賢という人は御堂衆筆 乗 賢 頭の光徳寺乗賢です。私はこのヲ一一百年御忌之記﹂は 乗賢の手控え、自筆のものであろうと思います。これ 二 六 七
呼応としての御遠忌史 を粟津家の粟津右近が筆写したものもございます。原 本と筆写した二本が粟津家記録の中に残されている。 こ の 乗 賢 が 書 い た も の で は 、 ﹁ 三 百 御 年 忌 ﹂ 、 あ る い は ﹁御忌﹂と言われている。﹁御忌﹂と﹁御遠忌﹂との 区別は後でもう少し申し上げますけれども、この段階 ではまだ﹁御遠忌﹂とは呼ばれていない。 その乗賢の記録の中に少し注意しなければならない と思うことがあります。史料の中に﹁子時永禄四年 月ヘ御引上候事先例也﹂という言葉が出てきます。御 遠忌を三月に引き上げて勤めるという先例があったと いうことになり、御遠忌というのは三百回忌が初めて ではないことになります。あるいは二百五十回忌があ ったのかもしれない、こう思わせるような記録です。 ﹂ れ 以 上 は 追 求 で き ま せ ん が 、 乗 賢 の 手 控 え と い う 、 こういう記録があるということを紹介するだけにして お き ま す 。 二 六 八
江戸の御遠忌||展開
コ 一 百 回 忌 が 終 わ り ま す と 、 そ の 次 の 三 百 五 十 回 忌 は もう江戸期に入ってまいります。慶長十六年という年 になります。この三百五十回忌、慶長十六年の御遠忌 につきましては、本願寺派には非常に詳細な記録が残 されています。これは﹃本願寺通紀﹄にも載っていま すが、﹃本願寺史料集成﹄というシリーズの﹁慶長日 記﹄の中に﹁高祖聖人三百五十年忌日次記﹄という書 物が収められています。そこに詳しく差定が載ってお ります。どういう勤めがなされたか、そこに譲ります カ 王 一方の大谷派の御遠忌は極めて簡略な記録しかな い わ け で す 。 そ れ が ﹁ 御 堂 日 記 ﹄ です。これは﹃続真 宗大系﹄第十六巻に﹁重要日記抜書﹂として入ってい るものですが、そこでは﹁三月十八日より十昼夜﹂、 そしてどうも不思議なのですが、満座ではない三月 十六日に﹁行道両門様院家衆七人﹂とあって、二十六 日に満座のような行道が行われている。どうも行道は﹂の時一回だけだったらしい。東本願寺の創立聞もな い時期です。そういうことから、こういう簡略なとい うか、少し異例の形式の御遠忌であったのか、そこの 所はまだ明らかにしておりませんけれども、西本願寺 との違いがこの辺りから出てきています。 それから﹃紫雲殿由縁記﹂でございますが、この中 にちょっと面白い記事が載っておりましたので紹介を させていただきます。﹁六十余州エ前年御遠忌知シ触 ヲ出シテ、御仏事ノ中ニ裏方エ帰服スルヤ、表方エ随 フヤト事詮議セス、広ク事ヲ執行ス﹂と。これは本願 寺派の本願寺から、東へ付くか、西へ付くか、裏方へ付 くか、表に付くかと、そういう事は詮議しないで全て の末寺へ広く知らせを出したわけです。ところが、 ﹁裏方ニモ又賢才有之、同時ニ計ヒシカ﹂、東の方で も同じことをやったという。そこで﹁日中ニハ表方エ 出仕シ、又逮夜ニハ裏方エ出勤シテ総法中一准ナラ ス﹂と、末寺の衆には両方へ参詣する者がいたという わけです。﹁表方ハ御真影ノ御威徳ニテ参詣ス、裏方 ハ帰服申テ参詣ス﹂と、東の方へ帰服しながら、御真 呼応としての御遠忌史 影を慕って西へも参詣する者があったとしています。 ﹁門徒ノ男女尚々爾リ、中ニ関東方ハ十ニ七八ハ裏方 エ帰ス、此誠二将軍ノ御威勢ナリ﹂と、このように東 へ付いたのは将軍家の威勢であるというふうな皮肉な 言い方をしている記事がございます。東西分派という ことにこの御遠忌が関係している、あるいは御遠忌を きっかけにして東へ付くか西へ付くかということがは っきりしてきたということも、あるいはあったのでは ないか、こういうようなこともこの史料からうかがう ことができるかと思います。三百五十回忌では、やは り三百回忌と同じように、西本願寺では逮夜が﹃式 文 ﹄ 拝 読 ・ ﹃ 正 信 偶 ﹄ 和 讃 、 日 中 は ﹁ 三 部 経 ﹄ 、 ﹃ 漢 音 阿 弥 陀 経 ﹂ で行道、そして結願日中に﹁報恩講式﹂拝読 と、三百回忌のあり方が踏襲されております。 このように江戸の御遠忌が始まっていきますが、そ の後江戸時代には六回の御遠忌があるわけです。寛文 元年の四百回忌、正徳元年の四百五十回忌、五百回忌 五百五十回忌が文化八年、幕末の文久 元年に六百回忌。この逐一の法要次第、そういった事 が 宝 暦 十 一 年 、 二 六 九
呼 応 と し て の 御 遠 忌 史 を明らかにして検討していかねばならないわけです。 大谷大学の粟津家記録の中には四百年忌の記録その他 が残されています。それから本願寺派の方では、 や は り﹁高祖聖人四百年忌日記﹄というものが残っている ょうです。昨年の本願寺史料研究所の展示の中に、御 遠忌の記録が全て袋入りになって、 ガラスケ l スに収 められていました。それを、外から見た限りでは、文 化八年の五百五十回忌、ここから﹁大遠忌﹂という言 葉が使われているようでございます。なぜ文化八年か らそういう言葉が使われてくるのか。文化八年という ﹂とが何か意味を持つのかどうか、この辺りのことも 考え直してみる必要があるのではないかと思っていま すが、まだはたし切れておりません。 法要次第はそのようなことですが、 いったいどれく らいの出仕者がいたのか見てみますと、﹃本願寺史﹄ によりますと、﹁総坊主衆三千人﹂と言っております。 大谷派の方ではそういうデ
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タがありませんけれども、 先ほど挙げた粟津家の記録の中で四百凶忌の人数を計 算してみますと、 やはり二千人に及ぶ坊主衆が出仕を 七。
しているようです。結願日中では﹁飛槍四百八人、鈍色 六百十三人、色袈裟七百六十五人、墨袈裟六十三人﹂ と、このように坊主衆が出仕しています。したがって、 ほとんど外陣まで埋められまして、参詣は廊下の所に 矢来を組んでそこに張り出し座席を作って参詣してい るという状態だったようです。現在でも、 はたして 千人三千人の僧侶出仕があるのかどうか、ちょっと私 は良くわかかりませんが、非常に盛大な法要であった ということだけは間違いないようです。 江戸時代の御遠忌についてさらに調べておかねばな らないのは、そういう御遠忌の費用がどうなったかと いうことです。現在ですと、 一般の門末から言えば御 遠忌と一吉守えば懇志と、こうなるのが普通です。このよ うな御遠忌即懇志ということはいったいいつから始ま ったのか。これも江戸時代であろうと思うのですけれ ども、その記録を私はまだ確認していません。これも 確かめておかねばならないことだろうと思います。本 願寺の財政というものが一般的な日常的な財政がどう なっていたかということから、 明らかにしていかねばなりません。基本的には申物の冥加金、すなわち寺 口万・本尊、あるいは寺格の昇進、そういった免許の冥 加金というものが財政の主力であったのだろうと思い ます。御遠忌の場合でも特定の造営が行われ、募財が 行われるということがあったでしょうけれども、やは り基本は寺格の昇進ということではなかったでしょう か。御遠忌の案内状などを見ておりますと、本年新た に飛槍になった者は別に届け出よというようなことが 書 い て あ り ま す 。 ですから、御遠忌を目指して、飛槍 出仕を目指して、寺格を昇進するいう形で本山へ懇志 を差し上げるということがかなり多かったのではない か。組織的な募財というのは、どうも明治になってか らではないか。これは感覚でございます。確信を持つ ておりませんけれども、そんな事を思っております。 江戸時代の御遠忌での法要次第、あるいは募財、そ ういった問題を細かく検討しなければならないのです が、応答、呼びかけと応え、そういう観点からします と、江戸期の御遠忌がいったいどこと、どういう応答 をしているのかということを考えねばならないと思い 呼応としての御遠忌史 ます。江戸時代には、国家というか、幕藩権力からの 本願寺への呼びかけがあったと考えています。御遠忌 に限らず日常的に呼びかけがなされているわけです。 幕藩領主が真宗教団に期待するのは何であったか、そ れは民衆教化ということに他ならないわけです。 つ の例といたしまして、加賀藩の三代藩主前田利常とい う人物がたいへん興味深い一言葉を残しています。この 利常に対して加賀藩の家臣が、真宗寺院が沢山の土地 を持っているからその土地を取り上げたらどうだと、 境内をもっと狭くしたらどうだという事を申してまい ります。それに対して三代藩主利常が言いました一言葉 は﹁合点せぬか、国の仕置き大方門跡より致され、我 ら 仕 置 き は 少 分 の 事 、 一向宗は重宝、重宝﹂とこうい う言葉を残しているわけです。 つまり、我々侍が国の 仕置きをしていると思ったら大間違いである、実は白 分たちがやっている事はほんのちょっとでしかない、 大方は本願寺の門跡が国の仕置きをしていると、こう いう言葉を加賀藩主が残しております。ということは、 多かれ少なかれ、真宗地帯では真宗の民衆の支配力と 七
呼応としての御遠忌史 いうものに依拠して、その上に武家の支配が乗っかっ ている、こういう形だと考えて間違いないのではない か。残念ながら、現在の日本史の学界ではそういう認 識は極めて薄いわけです。真宗優勢地帯というものは、 江戸時代に、おそらく日本の五分の二ぐらいの地域に わたります。あるいは少なくとも三分の一の地帯が真 宗優勢地帯です。そういう地帯での真宗の信心のあり 方、あるいは支配のあり方、そういったことが一切抜 きにされて、真宗は特殊なんだということで、真宗以 外の地域、特に江戸を中心とした地域を中心にして江 戸期の社会・国家、あるいは思想が語られています。 しかしながら、日本の五分の二あるいは三分の一を占 める真宗地帯というものが、実は江戸の国家・社会と いうものに非常に大きなウェイトを持っていたはずで す。そういう中で、時の領主が実は門跡が民衆支配を しているんだという認識を持っていた。こういうこと が非常に重要な問題です。江戸社会の宗教性という問 題を考えていく重要な問題であろうと思います。こう いうことに真宗は応答してまいります。 一 番 著 名 な 、 七 よく知られている例では、西本願寺の良如門主が慶安 年中に出しました﹁五箇条の制法﹂です。神仏諸宗を 軽んずべからず、五常を遵守し四恩を知れ、こういう 世法王法の道守を説く捉を発布しております。したが いまして、御遠忌が行われますと、このことが大きく 意識されるのではないか。真宗教団に対してなされる 民衆教化という期待、呼びかけ、真宗教団がそれに応 答していく。そこにこのような世法重視を説いていく。 こういうことであろうと思います。それにつけても、 地方の御坊や一般末寺における御遠忌執行の実態を明 らかにしなければなりません。 いまだ着手しておりま せんが、色々な史料に御坊や末寺の御遠忌のことが散 見 さ れ る よ う で す 。 一例をあげますと、奈倉哲三氏の ﹃幕末民衆文化異聞||真宗門徒の四季||﹂には、 越後での事例が紹介されております。また津博勝氏の ﹃近世宗教社会論﹂に吉崎御坊での蓮如御遠忌につい ての言及があります。そこから、 一 般 門 末 の 御 遠 忌 へ の意識やかかわりを解明する必要があります。 それではいったい御遠忌の間に、あるいはその前後
にどういう説教がなされたか、これもまだ私は残念な がら明らかにし得ておりません。江戸時代の説教に関 してはいくつかの研究業績があるように思いますが、 それが御遠忌と絡んでどうであったかという観点では なされていないように思います。そこで、その問題を 考えていきます代わりに、御遠忌の主体である宗祖親 鷲聖人がどのように語り出されていったか。あるいは 御遠忌を契機にして出版されました宗祖伝、そういう 中に御遠忌と人々の応答という問題を解く鍵があるよ うに思います。﹁江戸親鷲伝の構図﹂という図を掲げ ておきました。これは全くの私案でございます。江戸 期に出された親鷲聖人伝記、あるいは﹁御伝紗﹄注釈 といったものの包括的研究が未だなされていません。 実は、私どもが編纂委員になって﹁大系真宗史料﹄と いうものを刊行中です。その第二回目の配本として ﹃近世親驚伝﹄という一冊を塩谷菊美氏と共同で編集 して刊行しました。その中に塩谷氏が解説として﹁近 世における神話的親鷲伝の展開﹂という論文を書かれ ています。それが私の表を作る一つの下敷きとなって 呼応としての御遠忌史 おります。塩谷氏の説と私の説と完全に一致している わけではありませんけれども、塩谷氏の考えをふまえ ながら見ると、近世親鷺伝というものは四つくらいの 系統に分かれるのではないかと思われます。図に矢印 を引いて相互の関係を示していますけれども、必ずし も厳密なものではありません。 A 系列は﹁伝絵注釈書系統﹂と仮に名付けましたも のです。現在残されておりますものでは室町末期の成 立と考えられる﹃御伝秒間書﹂。これから始まりまし て﹃御伝絵私記﹂、そして﹃善信聖人伝絵捗﹂。これが 寛文元年の四百回忌までに出されているものです。そ して四百回忌の三年後に﹃御伝絵照蒙記﹂という書物 が出されております。これが本願寺派二代能化の知空 の書かれたものです。これが一つの決定版的意味合い を持っています。そしてその流れを汲みまして、今度 は四百五十回忌の正徳元年から三年後の正徳四年には 東の初代講師恵空が﹃御伝絵視聴記﹄というものを著 しています。この﹁照蒙記﹂と﹁視聴記﹄が東西両派 の親驚伝絵注釈書の双壁です。ただし、知空の﹁照蒙 七
江戸親鷲伝の構図 御伝秒、聞書(室町末)
↓
御伝絵私記(慶安3 1650東派?) 善信聖人伝絵主多、(慶安4刊 1651 高回派恵雲) 1140叩 寛 文1 16臼 御伝絵H官蒙記(西派知空、寛文4干Tリ 1664)\
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呼応としての御遠忌史 親驚聖人由来(文禄1 1592)附
詞
3 一 家 一 文一の一 覧一伝一 か一絵一 ん占↑ C一
Aり \ ん 、 し A せ O D C O 中 享 占 同 月 伝 白 河 白 u 寺 Il − − v 楽 康 御伝絵撮要(高田派普門宝永3 1706)I
450回忌 正徳l宝永8 1111I I
御停絵説詞略抄(宝永8 長命寺霊勝) 御伝絵視聴記(東派恵空、正徳4 1714 一一」 ψ ↓ ←一一一一一一一一一 御伝絵解(説詞略抄改作正徳6 1716) 親鴛聖人正統伝(高田派良空享保2刊 1717川1
親 驚 聖 人 行 状 記 帥 正 行 寺 享 保7 1722) 親鴬聖人正明伝(享保18刊 1733)雨面面忌宝暦
11 17611 御伝絵指示記(東派先啓安永7 1778集成)I
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読本系統| ひらかな親驚聖人御一代記(著者不明 明和8刊 1771) 1550回 忌 文 イ 凶 18111↓
親鷲聖人御一生記絵抄(秋里簸島刊年不明) 親鷺聖人御化導実記(緑亭川柳安政5刊 1858) 親驚聖人御一代記図絵(暁鏡成万延1 1860) 1600回 忌 文 久1 18611 七 四記﹄の後から﹃視聴記﹂を出した恵空は、﹃照蒙記﹄ をかなり激しく批判しています。何が問題になったか いつでも親驚伝において必ず問題にな る奇瑞不思議、それをどう理解するかという問題なの と 申 し ま す と 、 です。恵空はそこに見える奇瑞不思議というものを、 どちらかと言えば非神話化する、 つまりそれは衆生を 済度するための方便であったということを力説すると い う 立 場 を 取 っ て い ま す 。 今申しましたように、親驚伝を描く時に必ず問題に なるのが奇瑞不思議の問題である。後で申し上げます ように、近代の御遠忌にも問題になっています。明治 三十一年の蓮如上人の四百回忌の時に、蓮如伝の中に ある奇瑞不思議をどう理解するかが問題になりました。 そして、戦後になりまして一九六一年の親驚聖人七百 回忌の場合、大谷派の機関紙﹃真宗﹄では座談会を催 しまして、親鷲聖人が弥陀の化身であると言うような 考えを乗り越えて、人間親驚を描くことが課題である と、このように申すわけです。さらには今回の御遠忌 に向けての取りくみの内で、 やはり﹃真宗﹄誌二
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呼応としての御遠忌史 六年二月号の座談会の中で、現代人が違和感をもっ伝 絵の記事、伝絵の中に出てくる夢の話をどのように理 解していくかが課題である、と言われています。です から、江戸期の恵空から始まって、現代に至るまで、 どのように奇瑞不思議を納得するかという問題提起が その都度行われている。しかし、残念ながら御遠忌が 終わると問題がとんでしまう。そして、提起された問 題がどのような親鷲像を作り、どのように処理された かという総括がなされないままに次の御遠忌に流れ込 んでいく。こういう現象がずっと続いております。そ れは何も近代に始まった事ではない。江戸の四百回忌、 四百五十回忌辺りから問題が始まっているのだという ことをここで申し上げておきます。 そこでB
﹁御因縁系統﹂です。図には示していませ んが﹃親驚聖人御因縁﹄というものが室町時代に成立 しています。﹃御伝紗﹂と違う親鷺伝で、この流れを 汲みまして﹃親鷲聖人由来﹄というものが文禄年間に できあがっている。これはかなり早い成立です。そし て寛文コ一年、つまり四百回忌の二年後に浄瑠璃﹃しん 七 五呼応としての御遠忌史 らんき﹂というものが出版されるわけです。出版され ましたのは寛文コ一年ですが、浄瑠璃としての上演は四 百回忌の前に興行されています。それが御遠忌を経て 木版本になるわけです。これを東本願寺が厳しく禁止 をいたします。その
B
系 統 、 いわば民衆の中の親驚像 と考えて頂いてよいかと思います。そういうものが四 百回忌辺りを一つの目途にして展開をしております。 こ の A ﹁ 伝 絵 注 釈 書 系 統 ﹂ は B ﹁ 御 因 縁 系 統 ﹂ と は 全く無関係に展開をいたしますが、 B 系統の方は﹁御 伝紗﹄を取り込んで、さらにそれを増幅したものとし て展開していくわけです。それに対して、今度は明ら か に A ﹁伝絵注釈書系統﹂に対抗することを意識して 登場してまいりますのはC
﹁絵伝の家系統﹂という名 称を与えました﹁康楽寺白鳥伝﹄と言われるものです。 ﹃御絵伝﹄の画家浄賀の子孫が康楽寺です。親驚聖人 に付きしたがった西仏が日記の記録を残している。そ の西仏の子浄賀が、父西仏の記録にしたがって書いた 親驚伝であると称して、﹃御絵伝﹄に対抗する形でも って登場してくるわけです。その流れがかなり命脈を 二 七 六 保ちながら次々と展開していきます。 そのような A ・ B −C
三つの系統を総合するような 形で登場してまいりますのが、高田派の良空による ﹃親驚聖人正統伝﹄というものである。これが享保 年に刊行されましたのは四百五十回忌の余波であると 考えられます。江戸期の御遠忌の場合には、御遠忌に 向って問題が提起されてくるというよりも、御遠忌を 契機としてさまざまな波紋が広がって来る。そのよう な形をとっているように思います。この ﹁ 親 驚 聖 人 正 統伝﹄は、高田の宝庫にあるといわれるさまざまな新 史料を駆使して、編年体で記されています。当時の流 行 と し て 、 いろんな高僧伝がたくさん出版されます。 そういうものを﹁実録﹂と称するわけですが、そうい う実録高僧伝はだいた編年体です。﹁何年何歳の御時 に﹂という形で書かれる。﹃親鷺聖人正統伝﹄という ものも、そ、ついうようにして何歳と年齢を表題にして 生涯を網羅した形をとります。そういう点では、当時 の実録高僧伝と共通するスタイルを持っています。そ して、その中では恵空が主張した非神話化、神話を排除していくような方向とは逆に、むしろ不思議奇瑞と いうものが積極的に取り込まれていくことになります。 と申しましでも、非親鷺的な方向にいったということ で は ご ざ い ま せ ん 。 例を挙げた方がわかり易いと思います。難産で死ん だ女性、その女性が亡霊となってたびたび出てきて 人々を悩ますことがあった時、その亡霊を鎮めて欲し いと親鷺聖人が頼まれます。そこで聖人は念仏を称え ることはもちろんのことですが、あわせて石にお経を 書いて埋める。石経済度を行います。これには﹁東園 の習俗なれば﹂という言葉が記されています。このよ うに親鷲聖人は、土地の習いを取り込んだ形で、亡霊 の鎮魂ではなくて、亡霊済度を行う。亡霊あるいは妖 怪に向き合う高僧達は、中世まではそれを封じ込め鎮 魂し、あるいは退治する。ところが、江戸期の高僧達 はそうではない。そういう亡霊・幽霊を済度していく、 浄土往生を遂げさせる。こういう方向に転換していき ます。その最先端が親鷲聖人であったり、あるいは蓮 如上人であったりする。この二人がそういうように幽 呼応としての御遠忌史 霊済度、幽霊退治ではなく幽霊済度を盛んに行ってい く。こういう形で書かれてきたものが、これが﹃親驚 聖人正統伝﹄、あるいはそれを補完する﹃正明伝﹂と では亡霊済度を遂げた親驚 い う も の で す 。 ﹃ 正 統 伝 ﹄ 聖人は﹁生身の如来﹂とみなされます。﹃正明伝﹄ で も度々﹁生身の如来﹂と見えています。このようにし て、親驚聖人は幽霊と向かい合って、幽霊を済度され る﹁生身の如来﹂、そういう姿で民衆の中に生きるこ とになります。その意味では、他の仏教諸派の高僧達 と 同 じ よ う な 、 一人の高僧として姿を現してくる。そ ういうあり方の最初がこの﹃正統伝﹂ であると思いま す。したがいまして﹃親鷺聖人正統伝﹄というものは、 こ れ は た い へ ん な 人 気 を 博 し ま す 。 それから以降に出てまいりますのが
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﹁ 読 本 系 統 ﹂ というものです。ほとんどが﹁正統伝﹄ の 影 響 を も ろ に受け、それを読本化していく。こういう形で展開し ていくことになります。五百回忌以降に成立し、特に 文化八年の五百五十回忌をきっかけにして、﹃親驚聖 人 御 一 生 記 絵 紗 ﹄ 、 あ る い は ﹃ 親 鷲 聖 人 御 化 導 実 記 ﹂ 、 七 七呼応としての御遠忌史 ﹁親驚聖人御一代記図絵﹄、こういった読本がどんど ん出版されていくわけです。﹃親驚聖人御一生記絵妙﹄ の作者である秋里簸島という人は、名所図絵などを盛 んに著した読本作家です。﹃源平盛衰記図絵﹄である とか、﹃都名所図絵﹄とか、こういうものを書いてい る俗人でございます。それから﹃御化導実記﹄の作家 は緑亭川柳という名前でお分かりのように川柳の五代 日家元です。こういう川柳の家元が親驚聖人の実記を 著す。それから﹃親鷲聖人御一代記図絵﹄、これがこ の系統の決定版ともいうべきものですけれども、この 作者は従来不明であるとされてきました。私は今度の ﹃大系真宗史料﹂でこれを翻刻いたしましたが、作者 が何とかわからないだろうかと考えてみました。そう すると、どうも暁鐘成という大坂の有名な読本作家で あろうという結論に到りました。﹃兼蔵堂雑録﹂とい う博物学のコレクションの刊行をしていることでも名 のある読本作家です。﹁親驚聖人御一代記図絵﹂ の 中 に﹁予が著す三国高僧伝﹂という言葉がありまして、 万延元年刊の ヲ 一 一 国 七 高 僧 伝 図 絵 ﹂ と 同 じ 作 者 で あ る 七 J¥ ということになります。この書の編者は拘杷庵一禅と ありますが、これは暁鐘成の別名です。鐘成の伝記の 研究者もおりますので、そういう研究を見てもわから ないのですが、この作者は関東の御旧蹟を綿密に巡り まして、実際に板敷山はこういう所であるということ を書いている。ところが、この暁鐘成の伝記を見まし ても、関東御旧跡巡行は出てこない。ですから、私自 身も今一つ自信を持ちかねておりますけれども。とも あれ、そういうふうな通俗の読本作家が、どんどん親 驚伝記を作り上げていく。そういうことが御遠忌をき っ か け に し て 展 開 さ れ て い く 。 そこでは、奇瑞を一不され、亡者まで救われた﹁生身 の如来﹂という、そういう親驚聖人像が展開をしてい きます。なぜそういうように親驚聖人は幽霊と向かい 合わなければならないのだろうか。これについて申し ますと、幽霊・亡霊というものは、実は江戸社会に特 有のものであったわけです。現代にもありますから江 戸だけとは言いませんけれども、幽霊が出現してくる のは江戸になってからのことなのです。なぜ江戸社会
に幽霊というものがそんなに出て来るのか。そこには、 徳川幕府というものがこの現世の隅から隅まで、日本 の隅から隅までの現世社会を支配していたということ があります。しかしながら、死そのもの、また死者だ けは支配しきれない。そこに死者を媒介にして幕府が 支配できない領域が出てきます。そういう支配の外部 や周縁から出現するのが亡重であり、怨霊なのです。 そういう幕府が支配できない領域、それを司るものこ そ実は仏教だったわけです。真宗優勢地帯では、仏教 によって幕藩領主支配のそういう間隙が埋められてい る。そのために親驚聖人も蓮如上人も亡霊に向き合わ ねばならない。こういう状況が生まれてきた。親鷲聖 人が、あるいは蓮如上人が、不思議奇瑞を表すために、 そういうものに向き合ったと考えるべきではなかろう と思います。支配の手が及ばない、あるいは人々が重 要な問題と考えながら誰もそこに手を入れることがで きなかった亡霊という問題、苦悩する死者という問題 に、親驚聖人は向かい合っていかれた。こういう親驚 像が江戸期の御遠忌によって作り上げられてきた。そ 呼応としての御遠忌史 のように私は考えている次第です。
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近代||課題的御遠忌の始まり
次に明治の方に入ってまいります。今日は戦後のこ とまではとうてい手が出ませんでしたので、明治の御 遠忌を申し上げることによって締めくくりとさせてい た だ き た い と 思 い ま す 。 近代の最初の御遠忌は、明治三十一年の蓮如上人の 御遠忌であります。明治三十一年が蓮如上人四百回忌 になりますが、それが御遠忌、あるいはそれに準ずる 扱いをうけました。そうしますと、御遠忌というのは 宗祖だけではないという問題に直面するわけです。そ れまで蓮如上人の御遠忌が勤まったことがあるのか、 あるいは五十年ごとの年忌はどうなっていたのかとい うことを調べてみましたところ、 一番近い所では江戸 の終りの嘉永一冗年︵一八四八年︶に﹁上檀間日記﹄に ﹁信証院様三百五十回御忌﹂が見えています。これは ﹁御忌﹂と言われておりますので、御遠忌と同じよう 七 九呼応としての御遠忌史 な呼称です。しかしながら、その﹁御忌﹂は三昼夜の 法要でして、歴代の年忌法要と変わらない扱いでござ い ま す 。 で す か ら 、 = 一 百 五 十 回 忌 ま で は 蓮 如 上 人 御 遠 忌 で は な か っ た わ け で す 。 さて、そこで明治三十一年に四百回忌が勤まったわ けですが、これも当初は﹁御遠忌﹂と呼ばれていませ んでした。明治三十年十二月の大谷派の機関誌﹃常 葉﹄第六号に﹁新門跡御直命﹂というものが載ってい ます。そこには、﹁来年は慧燈大師四百回忌に相当﹂ とありまして、﹁御遠忌﹂とは表現されていません。 その﹁新門跡御直命﹂を復演した川崎布教師の演説の 中に﹁宗祖大師の御遠忌を掛酌して中興大師の御法会 を営ませらる﹂とあります。この記事の﹁御遠忌﹂に は﹁ごおんき﹂とルビが振つであります。そして﹁中 輿﹂には﹁ちゅうきょう﹂と振られています。ここで 宗祖の御遠忌︵ごおんき︶を念頭に置いて、それらに 準ずる﹁中興上人﹂の御法要という、こういう微妙な 言い方になっています。この段階から宗祖の御遠忌に 準ずるものという意識が出てきたようです。そして、 J¥ 0 法要も江戸期のような三昼夜ではなくて、七昼夜の法 要が行われて、日中には行道散華が行われるという御 遠忌の在り方でもって進められます。この御遠忌が三 月に終了いたしますと、機関誌﹃常葉﹄は﹁慧燈大師 御遠忌紀念号﹂を発行します。ですから終わった途端 に御遠忌になってしまう。そして法要満了の﹁御門跡 直命﹂では﹁中興大師御遠忌﹂という表現に変わって い き ま す 。 ですから、不思議なことに御遠忌が終わっ た途端に﹁蓮如上人四百回忌﹂は﹁御遠忌﹂になった。 な し 崩 し 的 に ﹁ 御 遠 忌 ﹂ と い う 形 に な っ て し ま い ま す 。 そこで、ちなみに現在の大谷派ではどうなっている のかということを、御遠忌事務局に問い合わせてみま し た 。 つまり、何を以て﹁御遠忌﹂と呼ぶのかという ことについて何か法規がないのか、あるいは宗祖の遠 忌を何と呼ぶのが正しいか、ということを聞いてみま したけれども、現在の大谷派の法規に、それらの規定 は一切ないそうです。ただ慣例として大遠忌を御遠忌 ところが、本願 と呼んでいるということになります。 寺派ではそうではないようです。宗祖六百回忌を機縁
に し て 刊 行 さ れ た の が ﹁ 仏 教 大 辞 葉 ﹄ でごさいますけ れ ど も 、 そ の ﹁ 仏 教 大 辞 業 ﹄ の﹁オンキ遠忌﹂の項に は﹁宗相のを御大遠忌、中祖のを遠忌と称し﹂という よ う に 、 明 確 に ﹁ 宗 祖 大 遠 忌 ﹂ 、 ﹁ 蓮 知 上 人 遠 忌 ﹂ と こ ういう呼び方が規定されているわけです。おそらく、 こういう﹁大遠忌﹂という呼称は先ほど申しましたよ うに、文化八年の五百五十回忌から起こってきている。 なぜここでそうなったのかということを少し調べてみ る 必 要 が あ る だ ろ う と 思 い ま す 。 この五十年ごとの年忌がどうして﹁御遠忌﹂と呼ば れるようになったかと考えてみますと、﹁御忌﹂と書 いて﹁ぎよき﹂であり、同時に﹁おんき﹂と発音でき る わ け で す 。 ですから、この﹁御忌・ぎよき﹂が﹁お んき﹂と発音され、遠い年忌という意味の﹁遠忌﹂の 文字が宛てられた。さらに﹁遠忌﹂が﹁えんき﹂と発 音されたのではないかと考えられます。 本来﹁御忌 ぎよき﹂と一百いますのは天皇・皇后などの忌日の法要 を呼ぶ一般名称です。皇室の年忌法要であった﹁御 忌・ぎよき﹂、これが大永四年︵一五二四年︶に後柏 呼応としての御遠忌史 原天皇の時に、法然上人の忌日法要を﹁御忌﹂と呼ぶ という詔勅が下ったことによって法然忌が﹁御忌・ぎ よき﹂と呼ばれるようになった。このような法然上人 の年忌を﹁御忌﹂と呼ぶことが念頭にありまして、 ﹁御忌﹂という言葉が三百回忌の永禄四年に登場した のではないかなと、私はこう考えているわけです。法 然上人の﹁御忌﹂に倣って﹁親驚聖人三百回御忌﹂と、 こういう言い方がなされてきた。さらにそれに倣って ﹁ 蓮 如 上 人 御 忌 ﹂ と 、 こ う い う 言 い 方 が な さ れ て き た 。 どうもそういうことではないのかなと思います。とて も実証する段階ではございませんけれども、そういう こ と を 思 っ て お り ま す 。 それでは、なぜ明治になって蓮如上人の年忌が﹁御 遠忌﹂に昇格するのか。これは大師号の宣下という問 題が絡んでいるのではないかと思います。明治十五年 に﹁慧燈大師﹂の大師号が宣下されます。親驚聖人に ももちろん宣下されているわけですが、ここでの大師 号の宣下ということと﹁遠忌﹂﹁御遠忌﹂というもの が関連するのではなかろうか。そういうこともこれか F
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呼応としての御遠忌史 ら史料を発掘していかねばならないだろうと思います。 ともあれ、蓮如上人の四百回忌を﹁御遠忌﹂と呼ばな ければならなかった理由にはいろんな背景があるよう に 思 う わ け で す 。 つまり、時代が突き付けてきた新し い課題に、この四百回忌を御遠忌とすることで対応し ょうとしたということを考えているわけです。 当時の大谷派機関誌﹃常葉﹄は月にコ一回発行してお ります。蓮如上人四百回忌は明治三十一年の三月に執 行されますが、その三十一年の一月から九回にわたり ﹁蓮如上人御伝記﹂という論文が連載されます。筆者 は誰か署名がありません。それが法要直前の三月十五 日号まで続きまして、ゴ一月二十五日号、これは法要の 最中ですが、その号に﹁慧燈大師の御事績及び時代を 回顧する﹂という社説を掲げている。蓮如四百回忌を 機縁にして、宗派の名による蓮如像の形成が問題にな ったということです。これは江戸には全くなかったこ とでして、近代の御遠忌においては宗派が主導して親 驚聖人、あるいは蓮如上人の﹁像﹂というものを築き 上げている。こういうことがこの明治三十一年の四百 J¥ 回忌から始まったと考えられます。 それはなぜかと申しますと、明治二十年代の末、親 驚抹殺論が横行しましたことは有名です。村田勤とい う人の﹃史的批判親鷲真伝﹄というものが出版されて、 親驚というのは真宗の宗内史料にしか姿を見せない、 その伝記も、架空の夢物語で構成されている、本当に 親鷺は居たのかという疑問を投げかけます。それに伴 うようにして、帝国大学教授の田中義成、あるいは園 墜院大学教授の八代国治、こういった人達も親鷲抹殺 論の談話を発表しています。明治二十年代末はこうい う状況です。そこへもってきまして、重野安鐸という 史学会会長、したがいましてこの段階で日本の歴史学 界の第一人者であり、南朝の忠臣児島高徳という人物 は居なかったという抹殺論を展開する学者ですが、こ の重野安鐸が親驚が実在かどうかという問題をさらに 進めまして、蓮如に歴史的評価を加えます。﹃国史眼﹄ という書で﹁蓮如、世の乱る冶を見、兵を擁し、北国 の諸侯を脅かして、その教に従はしむ﹂ 0 つまり、蓮 如上人は乱世に乗じて兵を起こして、北国の諸侯を従