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記
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講
演
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親驚聖人の鎌倉滞在と一
切経校合をめぐって
独立行政法人国女文化財機構 東京文化財研究所 はじめに ご紹介に預かりました津田です。私の専門は日本彫 刻史、特に平安密教彫刻です。今の職場に移ってもう 十三年になります。その前の職場が神奈川県立金沢丈 伝 庫 え で て し お た り 。 ま こ q 」4 0 はそ 鎌
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一九九二年の頃だったと思います。丁度、中世の歴史 博物館としてリニュ l アル・オープンした直後で、金 沢文庫の方針・方向性として、中世東国の仏教文化の 解明を一つの大きな柱に掲げておりました。私も中世津
徹
英
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の古書・古文書の現物に日々触れるという恵まれた環 境のなかで、学芸課の諸先輩の薫陶を受けながら、何 か自分なりに、この金沢丈庫の方針に沿った研究活動 ができないだろうかと模索しておりました。ただ、ど んなときも専円である仏像の調査研究だけはおろそか にしないよう心がけてフィールド・ワークに取り組ん で参りました。そうこうしているうちに、中世の真宗 に関わる既知・未知の史料、それは彫刻や絵画という 造形の分野に留まるものではなく、関連古書の類も含 めてですが、少しずつ日に留まりはじめました。そう いうものを落ち穂拾いのように集めながら、選り分け ていく過程で、今回の講演の骨子が固まっていったよ 三 O 五親驚聖人の鎌倉滞在と一切経校合をめぐって う な 気 が い た し ま す 。 一、﹃親驚伝絵﹂が語る 関東在住時代の親鷲 私が設定した標題は、﹁親鷲聖人の鎌倉滞在と一切 経校合をめぐって﹂であります。﹁校合﹂というのは、 経典の文字校正を意味します。 さて、親鷲の伝記といいますと、 がるのが﹃親鷲伝絵﹄であります。初稿本の名称は 一 番 に そ の 名 が あ ﹁善信聖人絵﹂で、現在、西本願寺の所蔵になります。 ﹁ 親 驚 伝 絵 ﹂ の初稿本は、親驚没後三十三年を経て、 曾孫・覚如が永仁三年︵一二九五︶ の十月に完成をみ た こ と は 周 知 の 通 り で す 。 + り ょ − つ h し その下巻は、朝廷における専修念仏の停止と関係 者処断が言い渡される場面からはじまって、親驚の越 後流罪より、没後の大谷廟堂の建立までを収めていま す。そのなかで私が関心を寄せるのは、親驚の関東在 住 時 代 、 お よ び 、 いつどの様な経路で帰浩したかにあ O 六 り ま す 。 ﹃親驚伝絵﹄下巻における関東在住時代についての 言及は、最初に真宗念仏の教えを説いた、常陸回稲田 で の 、 いわゆる﹁稲田興法﹂と、親驚の人柄に触れて 同国板敷山の山伏が真宗念仏に帰依するというエピ ソ ー ド 、 および、帰洛の途路、相模国の箱根山中で箱 根権現に立ち寄ったことの三つです。ただし、 い つ 頃 、 親驚は帰洛を思い立ち、どのような経路で京都に到着 したかということについては﹁親鷲伝絵﹄には言及が ありません。その詞書︵巻下・第四段︶には寸聖人、 東関の堺を出て、花城の路に赴まし/\けり、或日晩 陰に及て箱根の険阻にか冶りつ﹀﹂と記されるのみで す 。 その詞書に対応する場面を、同じ覚如の制作になる 専修寺本﹃親鷲伝絵﹄︵﹃善信聖人親鷲伝絵﹂︶で眺め ておきますと、芦の湖畔の霞にたなびく山中にあって、 箱 根 権 現 ︵ 現 、 箱 根 神 社 ︶ の社壇が遠くに描かれてい ます。実際の箱根権現は、芦ノ湖畔になだらかに伸び た駒ヶ岳の尾根先にあり、木々に包まれた石段を登り
詰めると正面に朱塗りの社殿が現れます。そして、こ の箱根権現の社前において神官が親驚と随伴の僧を出 迎える様子を大きく描いたのが、弘願本﹃親驚伝絵﹄ ︵東本願寺蔵﹃本願寺聖人親鷺伝絵﹂︶です。 ところで、この﹃親驚伝絵﹄が語る、関東在住時代 のエピソードは、今申しましたように三つしかありま せん。本当にエピソードはそれだけだったのでしょう か 二、覚如の情報収集と﹃口伝紗﹄ ここで、覚如の、東固における親鷲足跡に関する情 報収集と、﹁親驚伝絵﹄の初稿本が完成するまでにつ いて簡単に振り返っておくことにします。 正応三年︵一二九
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︶二一月頃に、覚如は父・覚恵と ともに束固に下向して、親鷺ゆかりの地をめぐり、同 五年の春半ばの頃に東固から京都に戻ったことが、 ﹃慕帰絵詞﹄から知られます。そして、永仁三年︵一 二九五︶十月十二日に﹃親驚伝絵﹄ の初稿本が完成し 親驚聖人の鎌倉滞在と一切経校合をめぐって ます。ちなみに、﹃慕帰絵詞﹄に拠ると、覚如は父・ 覚恵と坂東八箇国、奥州・羽州に至るまで出向き、親 驚から真宗念仏への導きを受けた人々にまみえて、覚 如が理解する真宗の教え・考え方に誤りの無いことを 確認した旨が述べられています。このことを思うと、 ﹃親驚伝絵﹄に収録された親鷲の関東在住時代のエピ ソードは三つに留まりますが、これがすべてであった とはどうも考えにくいようです。 そこで私が着目するのは、同じ覚如の撰述になる ﹃ 口 伝 妙 ﹄ です。そこには﹁親驚伝絵﹄には語られな いくつかのエピソードが収録されています。ミ
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カて犬 こ の ﹃ 口 伝 妙 ﹄ の成立は、奥書識語に拠ると﹁元弘第 一之暦﹂を明言していますので、 一二三二年のことと なります。ただし、その回目頭には﹁本願寺ノ驚聖人、 如 信 上 人 ニ 対 シ マ シ /k
,テ、オリ/\ノ御物語ノ 条々﹂を明記しています。すなわち、親驚が折に触れ、 孫の如信に語ったことを、孫の如信から聞き及んだこ ととして、曾孫の覚如が書き留めたということになり ます。それでは、 いつ頃、覚如は如信より情報を収集。
七親鷲聖人の鎌倉滞在し r 一 一 切 経 校 合 を め ぐ っ て することができたのでしょうか。 正安二年︵二二
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︶に如信は六十六歳で往生を遂 げます。如信より直接聞き及んだとなると、当然それ 以前のことになるでしょう。如信は奥州大綱に住んで おりました。覚如と如信の接触が確認できるのは二度 あります。まず、弘安十年︵一二八七︶十一月に上京 した如信から覚如は法義を学んだといいます︵﹃慕帰 絵 詞 ﹄ 巻 コ 了 第 三 段 ︶ o もう一度は、東国へ親驚ゆか りの地を遍歴した折に、途中、善驚・如信と面会した ﹂ と が 知 ら れ て い ま す ︵ ﹁ 同 ﹄ 巻 四 ・ 第 一 段 、 ﹃ 最 須 敬 重絵詞﹄巻五・第十七段︶ o ただし、この時は、父・ 覚恵が病気となり、覚如は看病に追われており、如信 より在りし日の親鷲について詳しく伺うことができた かどうかは疑問です。やはり、弘安十年に上京した如 信より法義を学んだ際に、親鷲在りし日のエピソード を多く聞き及んだと考えるのが自然なように思います。 もとより、﹃口伝紗﹄として筆録されるのは、﹃親驚 伝絵﹄成立の後のことです。しかしながら、後年、 ﹁口伝紗﹄において筆録されることになる如信から聞 0 jへ
き及んだ親鷲のエピソードもまた、採用・不採用は別 にして、覚如が﹃親鴛伝絵﹄を制作するために集めた 親鷲在りし日のエピソード群の一角を占めていたと考 えるのが穏当ではないでしょうか。その一例として、 ﹁親驚伝絵﹄の決定版となる康永本︵東本願寺蔵﹃本 願寺聖人親驚伝絵﹄︶や、先に触れた弘願本に見える エピソード﹁蓮位夢想の段﹂をあげることができるで し よ う 。 こ れ は ﹃ 親 鷲 伝 絵 ﹂ の初稿本が出来た後に付 け加わったものです。 一 方 、 ﹃ 口 伝 紗 ﹄ に 目 を 転 じ て みますと、中の巻に同じ内容が﹁蓮位坊夢想ノ記﹂と して収められています。もちろん、﹃口伝紗﹂として の成立は後のことですが、如信より覚如へと伝えられ たこのエピソードもまた、﹃親鷲伝絵﹂が整備される 過程で、初稿本の系統に連なる﹃善信聖人絵﹄︵西本 願寺蔵︶に追加され、康永本や弘願本に踏襲されてい ったと考えてよいでしょう。これは、如信から聞き及 んだ親驚のエピソード群のうち、﹃親驚伝絵﹄に採用 された事例ということになります。三、鎌倉における 親鷲参画の一切経校合の逸話 ところで、﹃口伝紗﹄上巻の最後には﹁一切経御校 合の事﹂という、親驚の鎌倉の地でのエピソードを収 めています。当該エピソードの冒頭の一文が﹃口伝 妙﹂の初稿本、すなわち乗専が覚如から聞いて筆録し たものと、覚如がそれを改訂し自ら清書した再治本と の間で、記述に違いがあることは兼ねてより指摘があ ︵ 2 ︶ りますが、ここではそのことには及びません。あくま す立で 初 稿 本 系 の 口 伝 紗 で文を見てゆくことにしま 武蔵守︵北条︶泰時の執政の頃、﹁武藤左衛門入道﹂ と﹁宿屋入道﹂という二人の大名に命じて、 一 切 経 五 千余巻の校合が行われたとき、親驚がこれに参画した と記されています。それは西明寺の禅門︵すなわち北 条時頼︶が、まだ開寿殿と名乗っていた九歳の折であ ったといいます。この﹁一切経御校合の事﹂は、鎌倉 親驚聖人の鎌倉滞在と一切経校合をめぐって 幕府が一切経校合の労をねぎらい、宴席を設けた際に、 親驚が袈裟を着けたままで魚肉を食したことを開寿殿 が見性め、問答となったところにエピソードの眼目が あ り 、 いま述べたところは導入部に過ぎません。しか しながら、この導入部の記述に見過ごすことのできな い史実が散りばめられており、それが鎌倉幕府の公式 記録である﹃吾妻鏡︵東鑑︶﹂ の記事と符合するであ ろうことが、今から約四半世紀も前に峰岸純夫先生に ︵ 4 ︶ よって指摘されました。このことについて、以下に私 なりの見方で改めて検討をしてみたいと思います。 武蔵守︵北条︶泰時の執政の時代、西明寺の禅門 ︵北条時頼︶が、いまだ開寿殿と名乗った九歳の時と い う こ と で す か ら 、 一切経の校合が行われた年は、丈 暦二年︵一二三五︶ のことになります。峰岸先生の指 摘では、それが鎌倉幕府の公式記録である﹃吾妻鏡﹂ の同年二月十八日の明王院一切経供養の記事と関わる のではないかとされました。 ﹁吾妻鏡﹄当該記事に拠ってみると、その日、本坊 において一切経供養が執り行われ、将軍ほかの出席が
。
九親驚聖人の鎌倉滞在と一切経校合をめぐって あったと記されています。峰岸先生は、この文暦二年 二月十八日の一切経供養に先立って、書写された一切 経の校合が当然あったと考えられ、それが ﹃ 口 伝 紗 ﹄ に伝えられた﹁一切経御校合の事﹂と関わるであろう と指摘されたのでした。 ここに出てくる明主院というのは鎌倉の何処にあっ たかといいますと︹挿図 1 ︺、鶴岡八幡宮に隣接して − お な り 鎌倉市立御成小学校があります。そのあたりが鎌倉幕 府の庁舎所在地と推定されています。そして、これに U つ ら み ち 面して六浦道が通っています。この六浦道は朝比奈の か ね さ わ 切り通しを経由して、金沢の六浦の港︵現在の横浜市 金沢区三般付近︶に繋がっています。鎌倉というとこ ろは、鶴岡八幡宮の正面が和賀江島の浜になりますが、 ここは遠浅ですので大型の船が入港・停泊することが できません。そこで六浦の港から物資が陸揚げされ、 朝比奈の切り通しを通って鎌倉に入っておりました。 この六浦の港に通じる六浦道は、鎌倉への物資輸送の 大動脈の機能を果たしたことになります。ちなみに、 この六浦の港を管轄していたのが、金沢文庫を創設し
。
かねさわほうじよう た北条一族の金沢北条氏でした。 さて、明王院ですが、六浦道沿いの、朝比奈の切り じ ゅ う に そ 通しに向かう直前の十二所に今日も真言宗醍醐派の 寺院として法灯を伝えております。 四 一切経校合逸話の再検討 この丈暦二年二月十八日に行われた一切経供養に関 の記事を、峰岸先生の説に導かれなが す る ﹁ 吾 妻 鏡 ﹄ ら 眺 め て ゆ き ま す 。 一切経供養の席に参列した﹁武州﹂とは武蔵守︵北 条︶泰時のことです。峰山序先生は、﹁武州﹂とともに 記事にあらわれた﹁武藤左近将監﹂こそ、﹃口伝紗﹂ の一切経校合に直接関与した幕府関係者の一人として 伝えられる﹁武藤左衛門入道﹂のことで、これを武藤 景頼に比定されました。ただし、この比定には検討の 余地があるように私は考えます。 ﹃吾妻鏡﹄に拠ると、当時、﹁武藤左近将監﹂を名乗 る人が別におりました。武藤兼頼です。ちなみに、峰親驚聖人の鎌倉滞在と一切経校合をめぐって 岸先生が﹁武藤左衛門入道﹂に比定された武藤景頼で すが、出家入道になってからの記事は ﹃ 吾 妻 鏡 ﹂ 弘 長 三年︵一二六三︶十二月十日の条をもって初見としま す 。 丈 暦 二 年 ︵ 一 二 三 五 ︶ の時点では、まだ出家入道 ではなかったことになるでしょう。したがって、武藤 景頼が当時、﹁武藤左衛門入道﹂と呼ばれることはな かったと考えます。当時、﹁武藤左衛門入道﹂と呼ば れた可能性の高い人物としては、おそらく景頼の父親 である武藤頼茂であったように私は考えます。 そ の ﹃ 口 伝 紗 ﹂ に は 、 一切経校合に関わった幕府関 係者として、もう一人﹁宿屋入道﹂をあげています。 ﹁荷屋﹂という非常に珍しい姓ですが、これまでその 実在性については十分検討がなされて来なかったのも 事実です。もとより、﹃吾妻鏡﹂丈暦二年二月十八日 の記事の中にも﹁宿屋入道﹂は出てきませんが、鎌倉 幕府御家人﹁宿屋﹂氏の活躍は、源頼朝以来、﹃吾妻 鏡﹂に散見しており、﹁宿屋入道﹂もその一族であっ たとみられます。峰岸先生はこれを宿屋光則に比定さ れ ま し た 。
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ちなみに、﹁宿屋﹂氏の菩提寺が鎌倉に現存します。 鎌倉大仏︵高徳院︶のすぐ手前にある長谷観音︵長谷 寺︶の参道へ入っていくところで右隣の道を採り、奥 へ入って行くと正面突き当たりに光則寺という日蓮宗 の寺院があります。もとは、宿屋氏の邸宅であったの を宿屋光則その人が日蓮に帰依して寺院に改めたのが 光則寺のはじまりとされています。その光則土寸が伝え る記録に拠りますと、宿屋光則が出家し入道となった ︵ 6 ︶ のは正中二年︵一三二五︶といいます。ですから、丈 暦 二 年 ︵ 一 二 三 五 ︶ の時点で入道となっていた﹁宿屋 入道﹂とは時代が合わず、逼かに後代の人物であった ように思われます。この宿屋光則が入選となった正中 二 年 を 目 安 に す る と き 、 一切経の校合が行われた丈暦 二年当時、宿屋光則はまだ生まれていなかったか、も しくは、幼少であったとみた方がいいでしょうの それでは宿屋光則の父親の可能性はどうでしょうか。 やはり光則寺の記録︵前述︶に拠ってみますと、宿屋 光則の父・行時は、弘安五年︵一二八二︶ の 十 一 月 に 免職し、遁世入道して﹁西信﹂を名乗ったといいます。すなわち、入道となったのは文暦二年より後のことで した。したがって、﹁宿屋入道﹂は、この宿屋行時の 父か祖父にあたる可能性が大きいというのが、もう十 数年も前、金沢文庫在職中に考えたことです。しかし ながら、そこから先に進む手だてがなく進展は望めま せ ん で し た 。 ところが数年前に、金沢文庫在職時代の学芸課の同 僚 で 、 ﹃ 吾 妻 鏡 ﹄ の研究者として知られる永井晋さん に電話をすることがあり、その雑談中に偶然、﹃新編 埼玉県史﹂別篇
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﹁中世系図篇﹂︵一九九一年刊︶に 唯一の﹁宿谷︵宿屋︶系図﹂が収録されており、書き 継ぎではあるものの信頼度が高いということをご教一不 いただきました。早速これにあたってみますと、行時 の父に重氏という人物が出てきます。そこには﹁重氏、 宿谷治郎左衛門尉、従五位下、源頼朝公・頼家公・実 朝公三代に奉公して、和田善盛・常盛、事に依り諒せ らるるべきの由、実朝の聞こしめすにより、御免を蒙 って入道となり、不染入道と号す、長成して頼経公に 従う︵原文読み下しごと記されています。文中に 親驚聖人の鎌倉滞在と一切経校合をめぐって ﹁和田善盛・常盛、事に依って諒せらるるべきの由﹂ とありますのは、和田氏による北条氏に対するク l デ タ l 事件の顛末を述べたものです。いわゆる﹁和田合 戦﹂と称されるものであり、建暦三年︵一二二二︶ 。〉 ﹂とでした。これに関わって宿屋重氏も職を辞するこ とになり、頭を丸めて﹁不染入道﹂と号したと述べら れています。建暦三年の時点で出家入道しているとい うのなら、文暦二年︵一二三五︶の時点で﹁宿屋入 道﹂と呼ばれた人物とは、この宿屋重氏が最有力候補 で あ る よ う に 考 え ま す 。 その﹁宿谷︵宿屋︶系図﹂の重氏の項に記された文 のなかで見過ごせないのが、文末に﹁長成して頼経公 に従う﹂と記されていることです。鎌倉幕府の征夷大 将軍は、一二代実朝で源家の血筋が途絶えてしまいまし た。そこで次の将軍となるべき人を京都から迎えてい ます。すなわち四代将軍には、九条頼経が就任してい ます。そのことを頭の片隅に記憶しておいてください。一
親鷲聖人の鎌倉滞在と一切経校合をめぐって 五、悌光寺本﹁親驚伝絵﹄に あらわれた﹁壱岐左衛門入道﹂ ところで、鎌倉における親驚参画の一切経校合の伝 承をめぐって、これまであまり重視されてこなかった 史料に、仰光寺に伝来した﹁善信聖人親鷲伝絵﹂を正 式名称とする﹁親鷺伝絵﹂があります。成立について は、十七世紀ぐらいに下げる見方が最近提示されるに 至っています一抗、絵相からは明らかに高階隆兼の﹁春 日 権 現 験 記 絵 巻 ﹄ ﹃ 玄 英 三 蔵 絵 ﹂ の系統を引き、これ らに続く応永初年頃︵十四世紀末︶の作風をもっ絵巻 と見てよいだろうと私は考えております。その悌光寺 本 ﹃ 親 驚 伝 絵 ﹄ の中に、親驚が鎌倉幕府主催の一切経 校合に参画し、幕府からその労をねぎらわれる場面が 描かれています︹挿図 2 ︺。この場面は絵巻形式の ﹃親驚伝絵﹄において他に類を見ない場面です。親驚 の左隣の机の上には経巻が積まれており、これが校合 のなった一切経の一部ということになるでしょう。こ 四 京都・悌光寺蔵 『善信聖人親鷲伝絵』下巻(部分) 挿図2
で 関 東 そ 武 の ナト| 場 禅 面 門 i: 泰 矛f 時 応
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校 お 合 き せ ま ら す る と とありけり、聖人その選にあたりて、文字章句の 邪正をた、し、五千余巻の華文をひらきて、かの 大願をとけしめ給けり、これによりて壱岐左衛門 入道法名覚印沙汰として、さま/\に四事の供養を のへられけり と記されており、鎌倉幕府主催の一切経校合の事業に 携わった人物として、﹃口伝紗﹂とは異なる人物﹁壱 岐左衛門入道﹂の名があがっております。当該場面に おいて親驚と対峠する白い装束を着けた出家入道姿の 武士が、詞書にいう﹁壱岐左衛門入道﹂であろうと考 えられます。それではこの﹁壱岐左衛門入道﹂とは、 どのような人物なのでしょうか。これまで誰もこの人 物を特定するに至つてはおりません。 しかしながら、意外なところから、その手がかりが 得られることとなりました。それは私の専門領域であ る日本彫刻史研究において、ここで話題になっている 鎌倉十二所の明王院秘仏本尊の調査・研究が急速に進 親 驚 聖 人 の 鎌 倉 滞 在 と 一 切 経 校 合 を め ぐ っ て んだことに拠ります。 すなわち、秘仏本尊である明王院不動明王坐像は 寛喜三年二二三二十一月十八日に着手され、嘉禎 元年二二三五︶六月二十九日に開眼法要が執り行な われました。これに至る経緯については、﹃吾妻鏡﹄ の記事から、かなり詳しく情報が得られます。また、 本尊の作者には運慶の弟子である肥後定慶が推定され ︵ 8 ︶ ており、この時代を代表する非常に優れた彫刻作例と して彫刻史研究者の注目を集めるようになりました。 改めて彫刻史研究の分野から関係史料が見直されるこ ととなり、その成果として、明王院の造営ならびに本 尊の造像に際して、発願者である四代将軍頼経の側で 直接指揮にあたった人物が注目されるようになりまし た。それは中原行兼という人物です。この中原行兼は、 将軍頼経の側近の武士で、中原の苗字が一不すように明 法道の官人の家柄であり、関東・申次の職にあった九条 道家、すなわち、将軍頼経の父とも接点を持ち、京都 とも繋がりがあったことが明らかになっています。そ の中原行兼について、﹁民経記﹄ならびに﹁検非違使 五親鷺聖人の鎌倉滞在と一切経校合をめぐって 補任﹄に拠ると、寛喜三年︵一二三二︶の時点で、 ﹁壱岐守﹂﹁左衛門少尉、従五位下﹂という官職にあり ました。おそらく、明王院の造営ならびに本尊の造像 に際して現場で深く関わった中原行兼こそ、﹁壱岐左 衛門入道﹂の最有力候補と私はみております。 もし、そうであるならば、中原行兼を介して、ここ に九条家との関わりが出て来ることになるでしょう。 親驚が、どのような経緯で鎌倉において幕府主催の 切経校合に関わることになったかを考えるうえで興味 深いものがありますが、今回はそのことには深く立ち 入 る こ と は し ま せ ん 。 さて、ここに至って再度注意を喚起したいのは、 ﹁壱岐左衛門入道﹂に比定し得る最有力候補・中原行 兼が、将軍頼経側近の武士であったという事実です。 思い出していただきたいのは、先ほど申し上げました ように、私は﹁宿屋入道﹂を宿屋重氏に比定しました。 その際、宿谷︵宿屋︶系図の重氏の項に記載された丈 の最後に﹁頼経公に従う﹂とあったことです。やはり 宿屋重氏も将軍頼経側近の武士であったことになりま ー"「 ノ 、 す。これは偶然なのでしょうか。このことは、 切 経 校合が行われた明王院が、将軍頼経の発願堂であった ﹂ととも符合するといえるでしょう。 なお、この文暦二年の親驚参画の一切経校合に関し て、以前から、もう一つの見方がありました。それは、 嘉禎三一年︵一二三七︶、北条政子の十三回忌にあたっ て、追善のために鎌倉で一切経の書写が行われたよう で あ り 、 ﹃吾妻鏡﹄には、翌年七月十一日に園城寺 ︵二一井寺︶に一切経五千余巻が納められたことが記さ れています。このことに着目して、それに関わる一切 経の校合をこれに当てようとするものです。しかしな がら、親驚参画の一切経校合に直接携わった幕府関係 の人物をクローズアップしてみるとき、 やはり明王院 における一切経校合とされた峰岸先生の指摘の方が的 を射ていたといえるでしょう。 つ ま り 、 ﹁ 宿 屋 入 道 ﹂ ﹁壱岐左衛門入道﹂の関与は、そして、さらにはもう 一人の﹁武藤左衛門入道﹂も多分そうであったと考え ますが、鎌倉幕府主催という形をとりながらも、それ が四代将軍頼経の発願堂である明王院であったことが
大きく、頼経側近という立場から三人が、そこに安置 するための一切経の書写に続く、校合事業に携わった ように私は考えております。 六、親鷺の鎌倉滞在の期間と 一切経校合の場 ところで、親驚はこの一切経校合に関わってどのく らいの期間、鎌倉に滞在していたのでしょうか。この ﹂とについては明王院の造営から、同院本尊の開眼に 至るまでの経緯を視野に入れることで、ある程度、明 かになると考えます。 明王院本尊の造立から開眼法要に至るまでに符余曲 折があったことは、﹁吾妻鏡﹂ の関係記事を辿ること で明らかとなります。詳細には及びませんが、最終的 に寺地が定まったのは貞永元年︵一二三二︶ の 十 月 二 十二日のことでありました c そして、丈暦二年二二 三五︶二月十日に堂宇の竣工をみて、十八日に一切経 供養が執り行われました。 親驚聖人の鎌倉滞在と一切経校合をめぐって そ れ で は 、 一切経供養の計画はいつ頃、持ち上がつ たのでしょうか。明王院の寺地選定は、同院建設が計 画されてより二転三転し、ほほ一年を経て貞永元年十 月二十二日に至って確定することになりました。肝心 の寺地が定まらないままに、備品である一切経の安置 が先に計画されることはないように思います。順番か ら言えば、まず寺地の選定があって、その後に一切経 安置という発想が出てくるのが自然な筋道でしょう。 貞永元年十月二十二日の寺地の最終決定を、つけて、 切経安置の計画が持ち上がり、その書写に続いて校合 があったと考えます。もとより、親驚が一切経の校合 に 参 画 す る た め に は 、 一切経の書写が前提となります。 書写が済んだ後か、もしくは書写と併行して校合が行 われたとみるべきです。ここで、 一切経の書写に着手 する時期の上限は、明王院の寺地の最終決定がなされ た貞永元年十月二十二日を遡らないということになる でしょう。実際に一切経安置が計画に上り、童日写にと りかかり、ある程度、書写をみた経典の蓄積を倹って から校合に着手されたとみるのが自然と思われます。 七
親驚聖人の鎌倉精住 人 と 一 切経校合をめぐって とすれば、この一切経の書写に仮に 一 年ばかりを要し たと考えると 、校合の開始は、 年が改まった天福元 年 (
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」,・ の末頃以降のこととなり、最長で見積も っても一切経供養が行われた文暦二年 ︵ 一 二 三五 ︶ 月十八H
を超えることはなかったとみなされます 。 それでは 一切経約五千巻の校合を一年程度で終え ることは本当に可能でしょうか 。 そのことを考える、?えで視野に入れておきたいのは、 叩斐・万福寺に伝来した六幅懸幅本の親鷺絵伝へ西本 願寺蔵︶第四幅の綾上段向かって右に、親鷲が−切経 の校合に従事する場面が描かれることです︹挿図3
︺ 。 こ れ まで、その場面は﹁教行信証﹄出版の場面を措 いたという理解がなされるこ ・と も あC
ましたが、ぞろ ではなく平松令三先生が指摘されたように、 一 切 経 校 合 の 場 面 と 口 凡なくてはな りません。ただし 、何を拍い ているのかという 具 体的な説明については、これまで な か っ たように思います 。 これは次 の よ う に理解すベ きでしょう c 親鴛は前机にある折帖を手にと っ ています υ この折 ノ 一、 京都・西本願寺蔵 万福寺本 『親鷺絵伝J
第四幅(部分) 持図3帖は版本であることを示唆しています。もっと明確に 言 っ て し ま う と 、 一切経の書写に際して当時、規範と なったのは唐本と考えるのが自然ですから、それは宋 版一切経であったように考えます。折帖を子にする親 鷲の前︵向かって右端上︶には大きく白い巻紙を広げ ている僧侶がいます。この大きく広げられた白い巻紙 ﹂そ、書写のなった経典とみなされます。 つまりこの 場面は、親驚が原本となった宋版の経典を音読し、そ の前で僧が書写された経典を広げて字句の確認をして いる場面とみられます。しかも、親驚の手にする折帖 を含めると、前机にある版本は合計四帖あり、その前 で書写された経典を大きく広げて字句の確認を行って いる僧のほかに、三人の僧がそれぞれ一巻ずつ白い巻 物を手にしていることから、かれらは書写された経巻 を持って校合の順番を待っていると理解す、べきでしょ ぅ。校合というとき、原本を隣に置いて、書写した字 句に間違いがないかを一人で行うようなイメージを抱 きやすいのですが、 一切経の校合というのは、奈良時 代以来、中国でそうであったように、グループをつく 親驚聖人の鎌倉滞在と一切経校合をめぐって り、そのなかで原本を音読する人がいて、 一 人 が 写 経 の字句を音読に合わせて確認し、それが終われば、次 の写経をもって同じことを繰り返す手法がとられてい たようです。その方が、 一人で校合を行うよりも格段、 速度と能率が上がったことはいうまでもありません。 万福寺本のこの場面では親鷺が音読をやっています が、実際には誰かが音読し、親驚が写書された経典の 字句を確認する場合もあったでしょう。 一切経五千余 巻の校合事業に参画したのは親驚ひとりに留まるもの ではなかったと考えるのが自然であり、このやり方で 数グループが同時進行で校合を進めるならば、校合事 業も一年程度で完了することは十分可能であったよう に 思 わ れ ま す 。 ﹂の場面で見過ごせないのは、親鷲の左隣には書写 された経巻が木箱に収納されていることです。そのこ とについては少し後に及ぶことになりますので、ここ では注意を喚起することに留めておきます。 なお、明王院における一切経校合に関して、さらに 留意しておきたいことが二つあります。 一つは、明王 九
親驚聖人の鎌倉滞在しに一切経校合をめぐって 院の造営についてです。寺地には幕府重臣であった毛 利 氏 ︵ 入 道 西 阿 ︶ の所領地があてがわれ、そこを造成 するところから始まっており、堂宇の竣功は一切経供 養が行われる直前の二月十日でありました。とすれば 寺地の造成以来、堂宇の竣工までずっと明王院内は整 備と造作に追われていたことになり、明王院で一切経 の校合を行う場所の確保は難しかったとみなくてはな り ま せ ん 。 それでは何処で一切経の書写と、これに続く校合が 行われたのでしょうか。その可能性を探ってみるとき 鎌倉幕府の庁舎所在地に隣接する鶴岡八幡宮︵正しく は 鶴 岡 八 幡 宮 寺 ︶ の存在は無視できません。鶴岡八幡 宮には、建仁元年︵一二 O ご以前より一切経会が恒 例行事として執り行われており︵﹃吾妻鏡﹄同年三月 一 一 一 日 条 ︶ 、 一切経が存在したことは確かです。しかも、 鶴岡八幡宮から明王院に及ぶ一帯は﹁大倉﹂と呼ばれ、 そのなかに幕府の庁舎が所在しており、それらに面し て六浦道が延びていたことになります。おそらく一切 経の書写と、これに続く校合が行われた場所とは、鶴
。
岡八幡宮であったと考えるのが適切と私は考えており ます c 近世の伝承ではありますが、鎌倉周辺の真宗寺 院︵小袋谷・成福寺、上郷・光明寺、倉田・永勝寺ほ か︶が伝える親驚の一切経校合の場が、いずれも鶴岡 八幡宮であったとすることも故なきことではないでし ト ﹄ 晶 、 つ ノ 。 そして、二つ目の留意点は、﹃吾妻鏡﹂当該条に、 本坊で一切経供養を執り行なわれたと記すことです。 一切経の供養というのは本来、本堂の本尊前で行うべ きですが、何故、本坊であったのでしょうか。明王院 本尊の開眼に至る経緯に注意するとき、二月十八日の 一切経供養の後、同じ年の六月二十九日に、 一 度 失 敗 した党鐘の鋳造に成功して、漸く本尊を堂内に安置し て、その日、開眼供養が行われました。したがって、 一切経供養が執り行われた二月十八日の時点では、本 堂に本尊は不在であり、堂宇自体もいまだ宗教施設と して機能できる状態にはなかったと考えられます。そ れ故、本坊で一切経供養が執り行われたと理解すべき で し ょ 、 っ 。七 一切経校合参画の意義 幕府主催の一切経校合事業に参画すべく親驚が鎌倉 に滞在していたと考えられる時期について、文暦二年 一一月十八日に執り行われた一切経供養に遡ること、長 く見積もって一年くらい、実際は六、七箇月程度の短 期間であったと考えます。確かに短期間ではありまし たが、鎌倉での一切経校合事業への参画が、その後の 親驚にとってどのような意義を持つことになったでし よ 、 っ か 。 ここで親鷲の半生を振り返ってみますと、建永二年 二 二
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七︶春、専修念仏の停止と関係者処罰の裁可 が下されます。承元元年︵一二O
七︶、親驚は越後流 罪となりました。そして、建暦元年︵二一一一︶に流 罪をとかれますが、親驚はすぐには京都に安住を求め ず、関東に歩みを進めます。建保二年︵二一一四︶に は上野田佐貫を経由して、常陸固に移り、 やがて同国 稲田においてはじめて真宗念仏の教えを説きます。 親驚聖人の鎌倉滞在と一切経校合をめぐって わゆる﹁稲田興法﹂です。 この﹁稲田興法﹂以降、﹁親驚伝絵﹄ では板敷山の エピソード、帰洛の途路、相模国の箱根権現︵現、箱 根神社︶に立ち寄られ、帰洛ということになりますが、 それらの時期は冒頭で述べたように明確ではありませ ん。しかしながら、﹁稲田興法﹂から帰洛までの、親 鷲行実の、これまで空白とされてきた期間に、この鎌 倉での一切経校合が事績として位置することはいうま でもなく、親鷲自らが推献に推献を重ねた坂東本﹃教 行 信 証 ﹂ の存在も視野に入れておく必要があると考え ま す 。 周知の通り、親驚自筆の坂東本﹃教行信証﹄は仔細 に見てゆくと、文暦二年頃の筆跡を基本としながらも、 その袋線じの葉︵頁︶うちに切り継ぎが認められる箇 所があり、同じ親驚の手跡ながら微妙に筆跡が違って つまり、坂東本が成立する以前に、ひとまず 完成をみたいわゆる﹁草稿本﹂が存在し、それをもと い ま す 。 v、
にして、文暦二年頃に各葉八行をもって清書がなされ、 それを晩年に及ぶまで親鷲が加筆改訂したものが、今親驚聖人の鎌倉滞在と一切経校合をめぐって 日見ることのできる﹁坂東本﹂の姿ということになり ます。加筆改訂の具体的な一例をあげておくと、﹃行 巻 ︵ 第 二 巻 ︶ ﹂ の 冒 頭 の 片 葉 ︵ 頁 ︶ は 、 タイトルを含 め て 七 行 に な っ て お り 、 一行の文字の数も︵文暦二年 頃の筆跡とされる片葉八行で書かれたところと行内文 字数も含めて︶違っています。この箇所は文暦二年頃 に書き上げられたところを紙ごと差し替えて加筆改訂 がなされたということになります。このように坂東本 には、親鷲自らが晩年に及んで加筆改訂した痕跡が随 所にあることが指摘されています。その坂東本﹁教行 信証﹄に引用されたすべての典籍について、私なりの 方法で注意を払ってみたいと思います。 }\ ﹃教行信証﹄引用の典籍と一切経 ﹃教行信一証﹂に引用された典籍は多岐にわたること から、親驚は一切経を見ていたであろうことは想像に 難くありません。その一切経とは、当時、規範とされ た唐本、すなわち、宋版一切経であったろうことは先
一
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ほど述べた通りです。ところで、この一切経の分類 収納はどのようになっていたのでしょうか。 今日では、宋版一切経そのものに親しく接する機会 は少ないかと思いますが、その分類は﹁天・地・玄 黄﹂で始まる千字文をもってなされています。各版本 折帖の本紙冒頭の経典のタイトル ︵ 標 題 ︶ の 下 に は 、 必ず千字文に由来する一文字が現れます。同一の一文 字を付された各帖を一つにまとめて朕で包むと、これ が﹁一一帳﹂となります。そうやって出来上がった各朕 は、千字文の順に並ぶことになります。これらをさら に何帳かにまとめて木箱に納め、番号を付すと、これ が一切経の箱番号となります。 試みに、﹃大正新情大蔵経 昭和法宝総目録﹂第二 に入っている高山寺本﹁唐本一切経目録﹂︹北宋版︺ ︵ Z O N ω ︶にしたがって、﹁教行信証﹄に引用された典 籍すべてに千字文と箱番号を付して、千字文と箱番号 の順に並べ直してみます︹後掲一覧参照︺。そこから 何が読み取れるでしょうか。 ﹁教行信証﹄引用の典籍は、宋版一切経の配架箱番ほほ等間隔に 箱番号が並ぶことが確認できます。これは親驚が一切 号の第二五箱から始まって第百箱まで、 経を選り好みせずに第百箱あたりまでをまんべんなく 日にしていたことを示すものでしょう。 さらに引用典籍には、もう一つの傾向が窺えます。 それは﹁真仏土︵第五巻︶﹂﹁化身土︵第六巻︶﹂に至 って、浄土経典籍以外の聖教の量が増大していること です。このことは、﹁真仏土﹂﹁化身土﹂の執筆直前に 一切経を広く閲覧に及んだことの反映があったように も 思 わ れ ま す 。 もとより、坂東本﹃教行信証﹄は、草稿本をもとに 丈暦二年頃にはいったん清書がなされたということが 指摘されています。したがって、鎌倉で親驚が一切経 校合に参画した文暦元年頃には、この大著はほとんど 出来上がっていたとみなくてはなりません。そうする と、鎌倉で一切経の校合に参画する以前に親驚は何処 かで一切経を閲覧していたはずです。 以前から、常陸在国中に、稲田からそう遠くない鹿 島神宮において一切経を閲覧に及んだであろうと一言わ 親驚聖人の鎌倉滞在と一切経校合をめぐって れてきましたが、はたしてそうでしょうか。提示した 引用典籍の一覧︵後掲︶に明示したように、﹃教行信 証﹄には一切経未収録聖教が多く存在していることは 重要です。引用の傾向から、それらは一切経の閲覧と 同じ時期に閲覧に及んでいたようにも見受けられます。 しかも、この一切経未収録の典籍のうち、重要と思わ れるのは、般若訳﹁大方広仏華厳経︵四十華厳︶﹄ で す。これは宋版一切経には入っていません。親驚が ﹁化身土﹂の巻において、﹃四十華厳﹄から第三五巻を 引用しています。加えて、﹃教行信証﹄には、 の未収録の﹁法界次第初門﹄や﹁天台四教儀﹂といっ 切 経 た天台の典籍が含まれています。鹿島神宮で親驚が仮 に一切経を閲覧に及んだとしても、 一切経未収録の典 籍類まで鹿島神宮が完備・架蔵していたかどうかはや はり疑問です。そうと考えるとき、 一切経とともに未 収録典籍類を豊富に抱え、かっ、それらの多くに天台 関係の典籍を含むとなると、常陸周辺の天台寺院を第 一に想定すべきであり、そうなると該当しそうな寺院 は限られてくるように考えます。私見を述べておきま
親鷲聖人の鎌倉滞在し ι 一切経校合をめぐって すと、鹿島神宮からそう遠くないところで、関西では 名前は知られていませんが、震ヶ浦︵茨城県行方市︶ の西蓮寺あたりを想定するのも一案でしょう。西蓮寺 は関東における天台の一拠点であり、中世以来、常行 三味に重きを置いてきた寺院です。この西蓮寺を擁す る霞ヶ浦が、親鷲伝承と無縁でないことも視野にいれ て の 私 見 で す 。 やや話が逸れましたが、それでは親鷲の鎌倉におけ る一切経校合は、この坂東本﹁教行信証﹄ の存在を視 野に入れるとき、どのような意義を持ち得るでしょう か。ここでもう一度、鎌倉における親鷲参画の一切経 校合の場面を描いた甲斐・万福寺本の親驚絵伝の当該 場面を一瞥しておきたいと思います。 先ほど、その場面において私は書写された巻子が木 箱に収納されていたことに注意を喚起しておきました。 一切経を書写する際、当然、宋版一切経をもとにして いると思われますが、それが収納された箱ごと、さら には、帳ごとに経典を取り出し、書写が行われ、書写 のなったもの ︵書写経典︶は、整理収納するにあたっ 四 て、もととなった宋版一切経と同じ帳番︵千字文分 類︶が付され、それらを一つにまとめて木箱に納め、 もとの宋版一切経が収められていた箱と同じ箱番号が 付されたとみられます。したがって、校合の時には、 同じ箱番号をもって、宋版の箱と書写本の箱が引き出 され、それぞれの箱から同じ千字文の一文字を付した 帳が取り出されることになり、これをひもとけば、 方は宋版のそれであり、他方は宋版のそれをもとにし た書写本が現れることになります。それゆえに一切経 の校合も、収納された箱ごとに行われたであろうこと は想像に難くないでしょう。万福寺本親驚絵伝の一切 経校合の場面において、書写された経巻が木箱に収め られていたことも、そのことと照応するものといえま す 。 繰り返しになりますが、坂東本﹁教行信証﹂は文暦 二年頃の筆跡を基本としながら、各巻すべて同一時期 の親驚の筆跡ではありません。それは親鷲が晩年に及 んで加筆改訂を加えていたことに由来するものです。 当然、典、籍からの引用文についても、改訂されたとこ
ろもありますし、それは字句の訂正に留まるものや、 文字・行の削除あるいは増補もあったと思われます。 九、親鷺が鎌倉で目にした典籍 そ こ で 、 坂 東 本 ﹁ 教 行 信 証 ﹄ の引用典籍を手がかり にするとき、親鷲は鎌倉での一切経校合に際して、ど のあたりを担当したか、あるいは、その折を利用して 何に親しく接したか、それらを具体的に指摘すること は 可 能 で し ょ う か 。 ほほ確実と思われるのは、﹁化身土﹂の巻︵第六巻︶ の﹁大方等大集日蔵経﹄と﹃大方等大集月蔵経﹂です。 両経を引用するにあたって、親驚は別に書写した巻子 を、断ち切って頁に綴じ込んでいることが明らかにな っています。もとより綴じ込みは、加筆改一訂時の増補 とみるべきですが、この巻子が、草稿本の﹃教行信 証﹂をもとにして、坂東本を清書した文暦二年頃の筆 写であるとの指摘があることは留意すべきでしょう。 さ ら に ま た 、 ﹁ 浬 繋 経 ﹄ の引用箇所も各巻において加 親驚聖人の鎌倉滞在と一切経校合をめぐって 筆改訂が認められます。それらを宋版一切経の箱番号 で確認すると、帳に付された千字文こそ違いますが、 ﹁日蔵経﹄と﹃月蔵経﹄がともに第三二箱に収められ ていたことが確認できます。 一 方 、 ﹃ 浬 繋 経 ﹂ の 箱 番 号は第四一箱であり、﹃日蔵経﹄と ﹁ 月 蔵 経 ﹄ を 納 置 した箱と箱番号が比較的近いことは注意してよいでし ト l 品 λ ノ o ち な み に 、 一 切 経 を 披 見 し た 際 、 メモ・抜き書きの 類がつくられたと考えるのが自然と思われます。その ような事例とみることができるものが、親驚遺墨のな かに存在していないかどうかです。 私はその可能性を 西 本 願 寺 所 蔵 の ﹁ 道 縛 伝 ﹂ います。この﹁道縛伝﹂は関東在住時代の親驚によっ 一紙に認めておきたいと思 て書かれたとの認識がなされるものです。 その冒頭の三分の一は道宣撰述の ﹃ 続 高 僧 伝 ﹄ 巻 第 二十からの抜き書きです。続く三分の一は、迦才撰述 の﹃浄土論﹄からの抜き書きです。この﹁道梓伝﹂が いつ頃の筆跡であったかを考えるとき、これを坂東本 ﹃ 教 行 信 証 ﹄ の 行 巻 ︵ 第 二 巻 ︶ の、丈暦二年頃の筆跡 五
親 驚 聖 人 の 鎌 倉 滞 在 と 一 切 経 校 合 を め ぐ っ て とされるところと文字を比べてみると、﹁在﹂、あるい は 、 ﹁ 調 停 ﹂ の ﹁ の ご め へ ん ﹂ ﹁ 本 ﹂ ﹁ 今 ﹂ な ど 、 そ の 筆 跡は非常に近いように考えます。とすれば、﹁道縛伝﹂ は鎌倉における一切経校合に際して、披見したものの メモ・抜き書きの具体的な遺例とみることができるよ うに思います。そこで、抜き書きのもととなった道官一 撰述の﹃続高憎伝﹄巻第二
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が、一切経の第何箱に納 められていたかを考えてみますと、第一五七箱に収納 されていたことが確認できます。 こ こ で ﹁ 日 蔵 経 ﹂ と ﹃ 月 蔵 経 ﹂ を 収 め た 第 三 二 箱 、 ﹃浬繋経﹄を収めた第四一箱、﹃続高僧伝﹄を収めた第 一 五 七 箱 に 近 接 す る ﹁ 教 行 信 証 ﹄ の引用典籍を示して おくと、﹁阿弥陀三耶三仏薩楼仏壇過度人道経﹄︵第二 九 箱 ︶ 、 ﹃ 般 舟 三 昧 経 ﹄ 巻 第 二O
︵ 第 三 四 箱 ︶ 、 ﹃ 華 厳 経 ︵ 六 十 華 厳 ︶ ﹄ 巻 第 六O
︵ 第 三 一 七 箱 ︶ 、 ﹃ 同 ︵ 八 十 華 厳 ︶ ﹂ 巻第一四・六O
︵ 第 一 二 七 ・ 三 八 箱 ︶ 、 ﹃ 悲 華 経 ﹄ ︵ 第 四 五箱︶、﹁集諸経礼憐儀﹄︵第一五九箱︶をあげること ができます。いずれも加筆改訂箇所にあらわれたもの です。さらに加筆改訂がなされてなくとも、それらの ム ノ、 近くには﹁集一切福徳三一味経﹂︵第四八箱︶や﹃広弘 明 集 ﹂ 巻 一 一 一 一 ︵ ﹃ 弁 正 論 ﹂ ︶ ︵ 第 一 五 九 箱 ︶ が あ り ま す 。 おそらくそれらが、鎌倉における一切経校合時に親鷺 が披見した典籍であった可能性を指摘できるのではな い で し ょ 、 っ か 。 結びにかえて ﹃口伝紗﹄が伝える﹁一切経校合の事﹂の記述に着 目 し 、 ﹃ 吾 妻 鏡 ﹄ の記事との照応を考えることで、親 驚の鎌倉滞在と幕府主催の一切経校合への参画を史実 と認めたのは峰岸純夫先生でした。その指摘がなされ 四半世紀が過、ぎています。この間、その指摘 て 以 来 、 を支持する・しないの双方から随分、これに対しての 意見が出たのも事実です。ただし、いずれの立場を採 るにしても、その出発点が峰岸先生の指摘にあったと いっても過言ではないでしょう。その意味で一つの指 針となったように思います。私は、近年の日本彫刻史 における鎌倉・明王院秘仏本尊の研究を踏まえ、これを手がかりにすることで、峰岸先生の指摘を補強でき るのではないかと考え、この講演においてそのことを 述、べさせていただきました。私の感覚では、さらに 歩、親鷲の鎌倉滞在と一切経校合が史実に近づいたの ではないかという印象を抱いているのも事実です。そ れとともに、この鎌倉における一切経校合への参両が、 坂東本﹃教行信証﹄ の加筆改訂に反映があったとされ てきたことについても、坂東本に引用された典籍ひと つひとつを、宋版一切経を収納する箱番号に還元して みることで、少し踏み込んだ指摘をしてみました。 なお、最後に、親驚がどの時点で鎌倉を去ったかに ついて二一百しておきますと、同じ文暦二年の七月十四 日に鎌倉在住の念仏者に対して追放令が出ます。その 追放令には、この頃の念仏者の所業において魚肉を喰 う輩、がいることにも非難が及んでいます。それは、 ﹃口伝紗﹄が伝える﹁一切経校合の事﹂の眼目が、 切経校合を労う幕府主催の宴席において親驚が袈裟を とらずに魚肉を食した点にあったこととも符合するよ うに思われます。やはり、念仏者の追放令に促されて 親 鷲 聖 人 の 鎌 倉 滞 在 と 一 切 経 校 合 を め ぐ っ て 鎌倉を退去したというのが私の現時点での見解です。 このように見てきますと、親驚の鎌倉滞在の期間に ついて、伝承では七年というような説がありますが、 実際、幕府主催の一切経校合に関わって鎌合滞在が確 認できるのは、丈暦二年二月十八日の明王院一切経供 養を遡ること、多く見積もって一年くらい、実際はも う少し短く、六、七箇月程度であったであろうと考え ます。しかし、この鎌倉における一切経の校合への参 画が、その後の坂東本﹁教行信証﹄ の加筆改訂に深く 関わっていたとみるとき、 やはり、親驚にとって鎌倉 滞在は大きな意味を持ったであろうことを指摘して、 この講演の結びにしたいと思います。
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註 西本願寺所蔵の如信影像は、その様背に記されて いた︵現在別表装の︶覚如の裏書銘により、如信 五七歳の折の寿像であることが判明し、正応四年 ︵一二九二正月に銘文を書いた旨をあわせ記す。 本文中でも述べたように、覚如は、その前年の三 月頃から東国に下向し、親驚ゆかりの地を遍歴し ており、帰洛は同五年の陽春半ば頃のことであっ 七た。したがって、如信影像が制作されたのはその 間のことであり、本図に銘文を書いたとあること を、如信の頭上に痕跡を留める銘札に如信手ずか らその名を記したと解し得るならば、如信と面談 した機会も上述の二回のほかにもあったとみるこ と が で き る か も 知 れ な い 。 平松令三﹁口伝紗解説||童日誌学の立場から ||﹂﹁口伝紗改邪紗︵龍谷大学善本叢書日︶﹄ 同 朋 舎 、 一 九 九 二 年 。 本講演では、実見に及んだ初稿本系の大谷大学博 物館蔵︵端坊旧蔵︶本﹃口伝紗﹄をスライドで使 用した。﹁口伝紗﹄の研究は註︵ 2 ︶の前掲書で 集大成された観があるが、上述の大谷大学博物館 所蔵・端坊伝来本では、﹁宿屋入道﹂の直後に乗 専自筆の初稿本︵龍谷大学図書館蔵︶には見ない 割註﹁親綱、法名西信﹂が加わっている。宿屋一 族に﹁親綱﹂は知られておらず、またその法名も 行時のもの︵最信︶を伝えるようであり、割註白 休は誤りであると考えるが、初稿本﹃口伝紗﹄の 書写・受容の過程で微妙な字句の異同が生じてい たようであり、﹃口伝紗﹄をめぐる書誌には研究 の余地を残しているように思われる。 峰 山 汗 純 夫 ﹁ 鎌 倉 時 代 束 闘 の 真 宗 門 徒 1 1 1 真仏報恩 板 砕 を 中 心 に ﹂ ﹁ 中 世 仏 教 と 真 宗 ﹄ ト ぃ 口 川 弘 文 館 、 一 九 八 五 年 。 親 鴛 聖 人 の 鎌 倉 滞 在 と 一 切 経 校 合 を め ぐ っ て 2 3 4 }\ 5 川添昭二﹁日蓮と武士の関係|[日蓮周辺の得宗 被官南条氏・宿屋氏について||﹂﹃日本仏教﹄ 八 号 、 一 九 六 一 年 。 今野慶信﹁得宗被官による禅院寄進の背景||宿 屋氏の筑前国芦屋寺の場合||﹂﹃駒沢史学﹄五 八 号 、 二 OO 三 年 。 ﹁日蓮宗事典﹄︵日蓮宗宗務院、一九八一年︶﹁宿 屋入道︵やどやにゅうどう︶﹂の項︵七三七頁下 段 ︶ 0 渡辺信和﹁備光寺蔵﹃善信聖人親驚伝絵﹄をめぐ って﹂﹃悌光寺の歴史と文化﹄法裁館、二 O 一 一 年 。 塩津寛樹﹁鎌倉・明王院不動明王坐像と肥後定 慶﹂﹃悌教察術﹄二四二号、一九九九年︵のち同 ﹃鎌倉時代造像論﹄吉川弘文館、二 O O 九年に加 筆 改 訂 の う え 収 録 ︶ 0 岡本怜嗣﹁肥後定慶と中原行兼||幕府造像にお ける採用の背景||﹂﹃奈良大学大学院研究年報﹄ 第十五号、二 O 一 O 年 。 古旧武彦﹁親驚人と思想﹄清水書院、一九七 O 年 ︵ ﹁ 一 切 経 校 合 ﹂ 一 四 八 1 一 五 二 頁 ︶ 0 千葉乗隆﹁親鷲の一切経校合﹂﹃日本の歴史と真 宗﹄白照社出版、コ OO 一 年 。 平松令三﹁一切経校合﹂﹁親驚︵歴史文化ライブ ラ リ ー 三 七 ︶ ﹄ 古 川 弘 文 館 、 一 九 九 八 年 。 6 ︵7 ︶ 8 9 10 11
12 赤 松 俊 秀 ﹁ 教 行 信 証 の 成 立 と 改 訂 ﹂ ︷ 一 不 祖 聖 人 七 百 回御遠忌記念出版﹃親驚聖人真蹟国宝顕浄土 真実教行諮文類影印本﹄解説、大谷派宗務所、 一 九 五 六 年 。 なお、宋版一切経の箱需号と下字文を付した映の 関係は、完全に同定したものではなく、木箱に納 入する映の量について余裕を持たせた場合と、そ うでない場合で、箱番号と中身︵朕︶に微妙なず れが生じるのも事実である。例えば、神奈川・称 名寺に伝来し、隣接する県立金沢文庫が現在保管 する称名寺宋版一切経︵国指定重要文化財︶と、 この北宋版﹁唐本一切経目録﹂における箱番号を 比較してみるとき、そこに収納される朕︵千字 文︶にずれが認められる。ただし、あくまでずれ の範囲内であって、著しく箱番号を異にするもの で は な い 。 註︵臼︶の赤松俊秀前掲論文︵同前掲書一一六頁上 段 ︶ 。 註 ︵ 2 ︶の平松令三前掲論文ならびに註︵日︶の 同前掲書。註︵叩︶の千葉乗隆前掲論文。 真宗大谷派教学研究所編﹁親驚聖人行実﹄︵一二 三 頁 ︶ 、 東 本 願 寺 、 二 O O 八 年 。 山田雅教﹁親驚の一切経校合参加と肉食の説話に つ い て ﹂ ﹃ 高 田 学 報 ﹄ 第 七 五 輯 、 一 九 九 一 年 。 本願寺史料研究所編﹃増補改訂本願寺史﹄第一 13 14 15 親 驚 聖 人 の 鎌 倉 滞 在 と 一 切 経 校 合 を め ぐ っ て 16 巻・第一章﹁一三宗祖に関する伝承︵山田雅教 執 筆 ︶ ﹂ ︵ 二 O 二 1 一 一 O 五 頁 ︶ 、 二 O 一 O 年 。 ﹁中位法制史料集﹄第一巻・鎌倉幕府法︵岩波書 店、一九五五年︶﹁ヒ五念仏者事﹂ 0 附記 講演はパワ 1 ポイントによるスライドを多用したため、 活字化に際して、文章だけでは舌足らずのところにつ いては語葉・語句を補い、重複するところは削って読 み易くした。また、当円の配布資料の末尾に掲げた参 考文献は註に極力入れ込むように配慮したことを断っ て お き た い 。 九
親驚聖人の鎌倉滞在と一切経校合をめぐって
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〔 付 載 資 料『一数用引のそと』籍典の〕引所』証信行教「本東坂覧 ※ 教 行 信 託 真 仏 士 。 化 身 士 の 各 欄 に お け る 算 用 数 字 は 引 用 の 同 教 を 示 す 。 へ ) 内 の 数 字 は 、 そ の う ち 、 加 筆 改 訂 筒 所 に お け る 引 用 回 数 を 一 不 す 。 宋 版 一 切 経 の 千 字 文 分 類 、 箱 番 号 、 配 列 番 号 は 高 山 寺 本 「 唐 木 一 切 経 日 録 」 〔 北 宋 版 〕 ( 『 大 正 新 情 大 蔵 経 開 和 法 主 総 日 銀 』 第 一巻所収)に依拠した。霊
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