和
讃
の
構
成
上
の
諸
問
題
長
田
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誠 照 智 ち 寺き 龍
j
教義とか宗教思想を発表する際に、人間の理性に訴える哲学的、論理的論説も大切であるが、 また一面直接人の情 感に訴える音楽的、韻文的詩歌の重要性も無視してはならない。宗教は単なる学問理窟ではなく、生命を一幽養する至 高の情操である。親驚聖人御製作の和讃は後者に属するものであウて、七五調の二首一連を基本とする洗練された讃 仏歌である。謂うまでもなく詩歌というものは思想内容も大切であるが、文字や語句の使い方︵表現︶も軽視できな い の で あ っ て 、 その文字や言葉使いによって作者の性格なり、思想︵考え︶が端的に表現せられるからである。特に 宗祖の和讃にありては注意ぶかくその文字の選び方、その言葉の使い方を見きわめる必要があると考える。今、蓮如 上人が文明五年に吉崎で初めて開服された現行の三帖和讃の綜合研究の一環として、その構成上の諸問題を考究する に 当 り 、 まず手始めとして各和讃に夫々番号をつけて見た。処が教学上特に注意せねばならない語句に就いて、頗る 興味ある事柄が判明した。それは次の言葉が同じ場所にある事である。 和 讃 の 構 成 上 の 諸 問 題 i¥和 讃 の 構 成 上 の 諸 問 題 八 四 けゅう 一、法身の光輪:::﹁光輪﹂の和讃が三首ある中、弥陀法王の法身の化用についてまず讃阿弥陀仏偽和讃と、諸経 和讃の第一首に﹁法身の光輪﹂とあり、他の一つは讃阿弥陀仏偏和讃の第三首に﹁解脱の光輪﹂と、前を補足する如 く 書 か れ て あ る 。 二、念仏成仏:::これは元、支那の法照禅師の五会法事讃に﹁念仏成仏是れ真宗﹂とあるに依られたものであるが、 今は真宗教義の根本命題となっている。この語は三帖和讃を通じて僅かに二首のみあり、大経和讃と善導和讃に、そ れも各二十一首目に出ている。 念 仏 成 仏 コ レ 真 宗 ︵ 大 経 讃 幻 ﹀ 念 仏 成 仏 自 然 ナ リ ︵ 善 導 讃 幻 ︶ 三 、 本 願 他 力 : : : 本 典 の 行 巻 ︵ 四
O
丁左︶に﹁他力というは如来の本願力也﹂とあって、 ﹁本願他力﹂の語が二首あ り、高僧和讃に曇驚と道辞のいずれも二首目にある。即ち0
具 本 縛 願 ノ 他 凡・力 衆・ヲ ヲ ト キチ タ
ピ マ キ ヒ ア 合 軍 事 驚 讃 2 ︶0
五 本 渇 願 ノ 他 群・力 生・ヲ ス 夕 、 ノ メ シ ツ ム 、 ︵ 道 綜 讃 2 ︶ 尚お、源空和讃の二首目には次の如くある。0
選、浄 択、土 本、真 願、宗 ノ、ヲ ベ、ヒ 夕 、 ラ マ、キ フ、ッ ︵ 源 空 讃 2 ︶ 四、信 知:::この言葉は本典総序の﹁聞思﹂と同義語であって古来﹁聞思修﹂と調われ、浬繋経の閣不具足の文に出ている重要な言葉である。 ﹁信知﹂の語は全和讃を通じて僅か三首であるが、 そ の 中 夢 告 和 讃 ︵ 結 讃 口 出 ︶ の 一 首 を 除けば曇驚と善導讃に夫々一首づっ、何れも十二首目に出ている。 逆 悪 摂 ス ト 信 知 シ テ ︵ 曇 驚 讃 ロ | 約 法 ﹀ 煩悩具足ト信知シテ︵善導讃ロ
l
約 機 ︶ 更に注意すべきは源空讃の第十二首には﹁真ノ知識ニアフコトハ﹂と、一往はよき師に値遇し得た慶びを歌われた和 讃となってはいるが、その後半は﹁流転輪廻ノキハナキハ、疑情ノサハリニシクゾナキ﹂と、仏智疑惑より反顕して ﹁信知﹂すなわち明信仏智を勧誠されたものと云える。また現世利益讃は十五首の中十二首まで﹁念仏﹂を表に立て その中第十二首には﹁願力不思議ノ信心ハ、大菩提心ナ て讃嘆せられてあるが、終りの二首は信心の得益を歌われ、 リケレパ﹂と、他力信心の徳用を強調せられてある、何れも十二首目であることに特に注目したい。 五 昧:::正信備に逆詩斉入を受けて﹁如衆水入海一味﹂とあるは、仏凡一体・生仏不二を顕わす部川﹂してそ の後に続く﹁不断煩悩得浬繋﹂と同じであると見られるが、和讃においては是れ亦三首あって、曇驚讃に二首と夢告 和 讃 に 一 首 あ る 。 曇驚の二首とは幻と泣であるが是は二首一連と見るべきであり論註の文に依る。 の海水に我等煩悩の河水が流れ込み同一味となることを一詠まれたもので、正像末和讃も同じく第二十二首に浄土の土 即 ち 本 願 ︵ 名 号 ︶ 徳を讃嘆されてある。0
功 衆 徳、悪 ノ ノ ウ 万 シ 川ホ 帰
ニ シ ーー、 ヌ 味、レ ナ ノ ミ リ ︿ 曇 驚 讃 幻 ︶0
智 煩 慧 悩 ノ ノ ウ 衆 シ 流ホ 帰
ニ シ ーー、 ヌ 味、レ ナ ノ ミ リ 同 22 、】ノ 和 讃 の 構 成 上 の 諸 問 題 八 五和 讃 の 構 成 上 の 諸 問 題 八 六
0
煩 真 悩 実 菩 報 提 土−
、
J 味、ナ ナ ラ リ ヒ ア ︵ 夢 告 和 讃 詑 ︶ 六、他力の行者:::他力念仏の行者と云う語は和讃全部を通じて僅かに二首のみ、その他は行者とあるのは殆んど が自力の行者となっている。その他力の行者の和讃二首は、 。曇驚讃︵第三O
首 ︶ に 云 く 、 行、三 者、信 コ 展 転 ロ 相 ヲ 成 ト ス ム ,... シ 又、夢告和讃ハ第三O
首 ︶ に 云 く 、 功 五 徳 濁 ハ 悪 行、世 者、ノ ノ 有 身 情 ニ ノ フ ー : なお正信備には依釈段︵善導﹀に一ケ所、 ﹁ 行 者 正 受 金 剛 心 ﹂ と あ る 。 その他の和讃は自力の行者の場合が多い。次 の 如 し 、 現世ヲイノル行者ヲパ ︵ 善 導 讃 6 ︶ 化 土 ノ 行 者 ハ カ ズ オ ホ シ ︵ 夢 告 讃 却 ︶ 罪福信ズル行者ハ ︵ 疑 惑 讃 3 ︶ 疑心自力ノ行者モ 〆「 同 7 '--' 本 願 疑 惑 ノ 行 者 一 一 ハ 同 10 、ノ 七、同一語の連続使用:::同一語の二首連用は他にも多く散見せられるけれども、三一首連続して同じ言葉を、 し か付 も同じ場所に使用されることは余り多くはない。 首 果 ・ 果 ・ 不 大 遂・遂・果・経 ノ ノ 遂 ・ 和 チ 願 者 讃 カ ニ ト Iこ
ヒヨ願
ニ リ ジ帰 テ ケ 果
シ コ ノ レ 遂 テ ソ の コ 語 ソ 16t
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還 往 コ 弥 曇 相 相 レ 陀 驚 ノ ノ ラ ノ 来 日 目・回・ノ 回・讃 向・向・回・向・に ト ト 向 ・ 成 ト ト ニ 就 ク ク ヨ シ 回 コ コ リ テ 向 ト ト テ の ノ 、 ノ 、 コー 号五 ロ口 、y f、、 14 '-' H H 善 導 和 讃 に : : : 金 剛 心 の 語 金・金・金・ 剛・剛・剛・ 竪 ノ 心 ・ 国 信 ナ ノ ,c
.
.
,.リ 信 ノ ミ ケ 心 ・ カ レ ノ リ ノ ミ ア帥
常 底 夢 没 下 告 流 ノ 和 転 凡 、 讃 ノ 愚 、 に 凡、ト 愚、ナハ レ 凡
ノレ 愚 身 の ノ、 三五 ロ口 八、同一語句の使用 和讃の構成上の諸問題 ハU ︶ ︵ 日 ︶ 首 ︵ M H ︶ ︵ 日 ﹀ ︵叫山︶ 一首 ︵ U ︶ ︵ 日 ︶ ︵叫山﹀ 二 首 ︵ M ﹀ ︵ 店 ︶ 八 七和 讃 の 構 成 上 の 諸 問 題 八 八 その一。前述の﹁本願他力﹂の項において、曇驚・道稗の各第二首毎に同義語が使用されてあることは既に記した 通 り で あ る 。 本 本 願 願 他 他 力 力
ヲヲ
五、具、 濁、縛、 ノ、ノ、 群、凡、 生、衆、 ヲ 曇 驚 讃 2 ︵ 道 的 桝 讃 2 ︶ その二。また善導、源信、源空の第二首にはいずれも﹁ヒラキテ L と、同一語句が使われてある。すなわち次の通 りO
功徳蔵をヒラキテゾ0
念 諸 イ ム イム ーー ノ 門 本 ヒ、意 ラ、ト キ 、 ゲテ、タ
ソ 、 マ フ ︵ 釜 同 世 持 増 鼠 2 ︶0
浄 濁 土 世 真 末 宗 代ヲオ
ヒ、
てン フ、""' キ、ケ ツ、 ノレ 〆 ヘ 源 信 讃 2 選択本願ノベタマフ。 ︵源空讃2 ︶ 丸、欠讃三首について 徳、(1) 約 す 現世利益讃l
!現益和讃十五首の中﹁念仏﹂の言葉を欠くものが三首あり︵ 1 と ロ と U ︶ 、 その中で後の二首はO
願力不思議ノ信心ハ 大菩提心ナリケレバ。 ︵ 現 世 利 益 讃 ロ ︶O
化仏オノノ\コト Pぐ
ク
真実信心ヲマモルナリ。 同 14 、、ノ
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源 空 和 讃 二 十 首 の 中 、 ﹁源空﹂の名なきものが三首あり、即ちロと M N と m m の 三 首 。 (3) 聖徳太子和讃十一首の中に太子に関係ある個有名詞のない和讃が三首あり、 即 ち 5 と 7 と叩の三首の和讃であ る 。 十、本師の有無と、その配置の考察 本師という敬称は宗祖にありては特別の意味を持っているようであるが、 七祖の中で本師の数が一番多いのは元組 法然上人で、二十首の中その半数を占め、次は第一祖龍樹で、大乗仏教の大成者とも云うべき人である所から十首の 中 三 首 に 及 び 、 しかもそのある場所が一、三、 五と奇数に置かれてある。また曇驚にありでは本師の数は僅か二首に 過 ぎ な い が 、 その場所が最初の一首と最後の三十四首目にある事は、恰も前後に置いて中聞を省略されたかの様であ る。その他道紳と源信には各二首あって、道稗は 1 、2
と連続しているが、源信にありでは2
、 4と偶数の順に配置 されてあることは偶然ではないように思われる。所が七祖の中で天親と善導の二人には一度も本師が与えられないの 祖 と も 云 う べ き 善 導 に ﹁ 宗 師 ﹂ と は 一 一 邑 わ れ で も は何故であろうか。和讃の数から云っても善導は曇驚に次ぐ二十六首の多数にのぼり、純正浄土教において支那の始 ﹁本師﹂と云われないのは甚だ審かしき次第である。 故曾我量深先生は龍樹は大乗仏教の正統派の祖であるから﹁本師﹂と一マ一口われるに対して、天親は法相唯識の祖であ って傍系に属する人だから本師とは言わないのだと説明されているが、それもごもっともであるけれども、この和讃 の場合は必ずしもその理由からではなさそうである。その故は善導の場合にはあてはまらぬからである。法然上人も 選択集に﹁偏依善導一師しと言われ、善導は支那浄土教に於ける正統派の始祖たる立場にある人である。然らば如何 信巻別序及び証巻の結文 なるわけであろうか。構に惟うに宗祖は常に論家釈家と、論・論註を一本に扱われることから、和讃においては天親 和 讃 の 構 成 上 の 諸 問 題 八 九和 讃 の 構 成 上 の 諸 問 題 九
。
お さ は曇驚に摂め 善導は源空に摂めて和讃せられた故に ﹁本師﹂を省かれたものと解釈したいのである。すなわち親鷲教義の根拠たる信法は曇臨時の他力廻向義、信機の扱い 元祖の選択集は善導の観経疏に拠られたものである処から、 は善導法然の罪悪生死の凡夫の自覚に基ずくのである。 その天親を驚師に摂めるとする理由は、七祖の和讃は原則として事蹟と教義から成り立っているわけであるが、天 親には事蹟らしきものが見当たらないで、曇驚の和讃にはO
天親菩薩ノミコトヲモ 鷲師トキノベタマハズパ 他力広大威徳ノ 心行イカデカサトラマシ。 ︵ 日 ﹀O
論主ノ一心トトケルヲパ 曇驚大師ノミコトュハ 煩悩成就ノワレラガ 他力ノ信トノベタマフ。 ︵ げ ﹀O
安楽勧帰ノコ、ロザシ 概 略 師 ヒ ト リ サ ダ メ タ リ 。 ︵ 5 ︶ また、善導を源空一本に摂めたとする理由は、夫れぞれ和讃を見るに善導には事蹟というべきものが殆んどなく、源 空にはその反対に教義というべきものが全く詠まれてなく、 また源空和讃の歌詞にもO
善導源信ス、ムトモ本師源空ヒロメズパ 片州潟世ノトモガラハ イ カ デ カ 真 宗 ヲ サ ト ラ マ シ 。 ハ 3 U
O
本 師 源 空 ノ 本 地 ヲ バ ︵ 中 略 ︶ ア ル ヒ ハ 善 導 ト シ メ シ ケ リ 。 ︵ 8 ︶O
本師源空イマサズバ コ ノ タ ピ ム ナ シ ク ス ギ ナ マ シ 。 ︵ 4 ︶ しかして、正信偏の依釈段には前述の見方を裏付けるかのように、曇篤と源空の唯二人にのみ﹁本師﹂の敬称が冠ら せてあることは注目すべきである。 以上、述べて来た諸事項は偶然の一致としては余りに多きに過ぎることから、和讃の編纂に当っては御草稿本には ないが、清書本には或る程度の計画性、すなわち配列の順序があるのではなかろうかとの結論に達したのである。 次に念仏の信者と信心の行者に就て。 親驚聖人やその頃の関東の門弟の聞では﹁信者﹂という言葉は余り使われなかった様に思われる。その代りに﹁行 ① 者﹂という言葉が用いられていたのではないか。まず信者については大谷大学の広瀬先生が指摘されているように、 宗祖の御著述全部を通じて僅かに五ケ所あるに過ぎず、それも特別の場合に限られている。広瀬先生の言葉を借りて 云えば﹁どうしても信者といわないと事がはっきりしないという所でしか使っておられない場合の方が多い。ですか 和讃の構成上の諸問題 九和 讃 の 構 成 上 の 諸 問 題 九 ら﹁信者﹂という言葉をすんなりとお使いになっているのは、 せいぜいで二回しかないように思える﹂とある。その 五ケ所とは次の通りである。その中和讃は正像末和讃にだけ二首あるのみ。
0
一 正 、 像 念、末 仏、和 ノ、讃 信・( 者・夢 ヲ 告 疑 和誇讃
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こ 報 、 破 土、壊 ノ、膿 信・毒 者 ・ サ ハ カ オ リ ホ ナ カ リ フス
︵8 ︶ 化土ノ行者ハカズオホシ。 ︵ 川 却 ︶O
尊号銘文略本︵第四文浄土論釈︶に云く ﹁ 功 徳 ノ 大 宝 海 ヲ 信 者 ノ ソ ノ 身 一 一 満 足 セ シ ム ル ナ リJ
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− − ・ ︵ 法 雲 寺 蔵 ︶。
同 広 本 ︵ 第 五 文 毘 婆 沙 論 釈 ︶ に 云 く ﹁為現身トマフスハ信者ノタメニ如来ノアラワレタマフナリ OL − − : : ︵ 専 修 寺 蔵 ﹀O
弥陀如来名号徳に云く ﹁かの土にむまれむとねがふ信者には、不可称不可説不可思議の徳を具足す。﹂ と、以上の五ケ所の外には根本聖典たる教行信証にすら﹁信者﹂の語は見当らず、大方は﹁信心のひと﹂等の言いあ らわし方になっている。例せば、夢告讃辺、疑惑讃 7 はいずれも﹁信心ノヒトヘその他の和讃は﹁信ズルヒト﹂ ﹁ 信 心 ウ ル ヒ ト ﹂ ﹁ 信 心 エ ン ヒ ト ﹂ 等 と 表 現 さ れ て い る 。 ︵ 初 ﹀ の 次に﹁行者﹂の言葉の出ているのは、他力の場合は前述の曇驚讃︵幼︶の﹁行者コ、ロヲト f ムベシ﹂と、夢告讃 ﹁ 功 徳 ハ 行 者 ノ 身 − て 、 、 テ リ ﹂ の 唯 二 首 あ る の み 。 ま た 本 典 行 巻 ︵ 正 信 偏 ︶ に は ﹁ 行 者 正 受 金 剛 心 ﹂ と 云 い 、銘文︵第十一文︶の善導の﹁護念増上縁者﹂の釈に﹁本願ノ行者ニアラザルユヘナリトシルベシ。﹂ 裁五悪趣﹂等の大経の文を釈して﹁如来ノ願力ヲ信ズルユヘニ行者ノハカラヒニアラズ云々﹂と。また一多証文には 現生護念の利益の釈に﹁コレスナハチ本願ノ行者−一アラザルユヘニ云々﹂と。末灯紗には﹁真実信心ノ行人ハ摂取不 また同紗に ー寸 横 捨ノユへニ、正定粟ノクラヰニ住ス L と 、 その外到る処に散見せられる。 歎異妙には﹁信心の行者﹂と書かれていて、 ﹁ 信 者 ﹂ の 詞 は 一 つ も な く 、 いずれも﹁行者﹂と云う。例せば次の如 し た め
O
偏えに同心行者の不審を散ぜんが為なり。 信心の行者には天神地祇も云々。 ︵ 総 序 ︶O
念仏者は乃至 。念仏は行者のために非行非善なり。O
信心の行者自然にはらをもたて云々。O
一室の行者のなかに信心ことなること云々。 ︿ 第 七 章 ︶ ︵ 第 八 章 ︶ ︵ 第 十 六 章 ︶ ︵ 結 文 ﹀ 以 上 。 その他のお聖教には﹁念仏の行者﹂ ﹁ 念 仏 の 人 ﹂ 等 と 記 る さ れ て あ る 。 わ れ る 。 然らば﹁信者﹂と言わずして﹁信心の行者﹂と表現されたその理由は何であろうかと云うに、谷大の広瀬師はこう謂 ﹁ただ信者といったのではどういう人聞になることか、その﹁者﹂の内容がはっきりしない。その﹁者﹂を ﹁行﹂とか﹁人﹂とかいう字で確かめておられるのではないか﹂と云われる。︵﹁信心の行人 L U 頁 ﹀ | | つ ま り ﹁ 信 者 ﹂ と云うと、何かこう特別の人間にでもなる様に考えられるおそれがある。行者というのは特別の修行をする人と云う ことではなく、念仏を頂いて喜びの人生を生きる存在︵再生者﹀、すなわち往生人を宗祖は﹁行者﹂とか、﹁行人﹂ とか言われたのだと思うと謂われる。さるべき業縁のもよおせば、いかなる振舞もしかねない人聞が、どうあっても 和 讃 の 構 成 上 の 諸 問 題 九和 讃 の 構 成 上 の 諸 問 題 九 四 わが業報を背負うて生きて行かねばならないわれら︵凡愚︶に、その処を与えるものが如来より賜わる念仏であって し あ わ せ その外には人間の幸福はどこにもないことを聖人ははっきりさせずにはおれなかった ︵ 歎 異 紗 の ﹁ た だ 念 仏 し て ﹂ ︶ 、 か ら で あ る ︵ 取 意 ︶ と 、 説 か れ て い る 。 か ぎ 掠て改めて前来の疑問を解く鍵を提示しよう。まず第一に現生不退は自力の信では駄目、全く願力廻向の信心に限 ることを彰わさんがためである。その文証としては行巻に日く﹁謹んで往相の廻向を按ずるに大行あり、 大信あり乃 至然るに斯の行は大悲の願より出でたり﹂と。 また正信偽には ﹁ 本 願 名 号 正 定 業 、 至 心 信 楽 願 為 因 ﹂ とあり、また ﹁ 唯 称 ﹂ ﹁唯信﹂と言う。歎異妙にも﹁念仏は行者のために非行非善なり﹂と︵第八章︶。 第二に愚痴きわまりなき罪業深重の者が本願の正機であることを知らせんが為に。その文証は唯信紗文意に善導の ﹁極楽無為浬築界﹂等の文を解釈して﹁ヨロヅノ善ノナカヨリ名号ヲエラビトリテ、五濁悪時、悪世界、悪衆生、邪 見、無信ノモノニアタヘタマヘルナリトシルベシ。﹂また、同妙に慈慰の﹁彼仏因中立弘誓 L 等の文を釈する中に﹁具 縛の凡夫、屠治の下類﹂を釈して、 ﹁具縛トイフハヨロヅノ煩悩一一シバラレタルワレラナリ。中略カヤウノアキピト︵商人︶猟師サマ
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\ ノ モ ノ ハ、ミナイシ︵石︶カハラ︵瓦︶ツブテ︵牒︶ノゴトクナルワレラナリ。﹂ と言われ、歎異妙には﹁煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなる L ことあるべからざるをあはれみたま で ん ひて云々﹂と云い︵第三章︶、﹁うみかは︵海河︶にあみをひき、中略あきなゐをし、田昌をつくりてすぐるひとも、 さるべき業縁のもよほせばいかなるふるまひもすべし云々﹂と仰せられ、漁夫、狩人、農夫、 た X お な じ こ と な り 。 商人などという社会の底辺に生きる︵宿業の︶悲しき人々も、それ故にこそ本願︵念仏︶が建てられてあるのであっ て 、 ﹁しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおほせられたることなれば、他力の悲願はかくのごときのわれらがためなりけりとしられて、 い よ / \ た の も し く お ぽ ゆ る な り 。 ﹂ ︵ 第 九 章 ﹀ そ れ 故 に ﹁ 業 報 に さ し ま か せ て 、 ひとへに本願をたのみまひらすればこそ他力にてはさふらへ。﹂ ︵ 第 十 三 章 ︶ 第三に信者ぶらず、愚者の自覚に生きることを示す。その文証には す で 川
w
本典後序に日く﹁爾れば己に僧に非ず、俗にあらず︵非僧非俗︶、是の故に禿の字を以て姓と為す。﹂ 顕愚禿心。賢者信、内賢外国忠也。愚禿心、内愚外賢也。﹂宗祖の愚禿の御自覚 内に虚仮を懐けばなり。﹂また二種深ω
愚禿紗の臼謙の詞に﹁聞賢者信、 は善導の散菩義の文に依る。 五く﹁外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、 信釈に云く﹁自身は現に是れ罪悪生死の凡夫、瞭劫よりこのかた常に、投し、常に流転して出離の縁有ることなしと深 信 す 。 ﹂ω
覚如の改邪紗第三章に幸一日かれた宗祖の﹁御持言には﹁われはこれ賀古の教信沙弥の定なり L 小略これすなはち僧 定 す び と にあらず、俗にあらざる義を表して、教信沙弥のごとくなるべしと一五々。これによりて﹃たとひ牛盗人とはいはると も、もしは善人、もしは後世者、もしは仏法者とみゆるやうにふるまふべからず﹄とおはせあり。一五々﹂しかして信 心正因と云うも名号を離れて信心はありえないのであるから、信巻に﹁斯の心は即ち是れ念仏往生の願より出でた りしと言い、同三心の字訓釈に﹁斯の至心は則ち是れ至徳の尊号を其の体と為るなり﹂と。以上を以て知れることは ﹁ 本 願 の 行 者 ﹂ ﹁信心の行人しとは、念仏申す身にして戴いた人を指すのである。 ① 註 大 阪 難 波 別 院 発 行 ﹁ 暁 に 聞 く ﹂ に 、 谷 大 教 授 広 瀬 果 師 講 述 ﹁ 信 心 の 行 人 L 参 照 。 次に﹁われ﹂と﹁われら﹂の差異 前項の問題に関連して味わうべきことは﹁われらしの御詞である。 ﹁ わ れ L という単一の一人称をもって語られる 和讃の構成上の諸問題 九 五和 讃 の 構 成 上 の 諸 問 題 九 六 のは聖道自力門の通例であって、所謂出家発心・捨家棄欲の形を執るのが此土入証の本領である。故に親を捨て、妻 を捨て、子供を捨て、世俗をのがれて、白行の後に化他するのが建前となっている。それに対して﹁われら﹂という 複数を以て表現せられるが浄土他力門の特色である。これが在家宗教の本領たる﹁家族総ぐるみのお助け L の普遍性 を顕わすものであって、蓮師の御文に﹁十人は十人ながら﹂を意味する﹁一人即一切人 L の極意である。即ち自信即教 え き ょ う だ い 入信の、お念仏一つによって倶会一処のとも同行の結縁となる、所謂﹁遠く通ずるに四海みな同朋なり﹂と云われる す く い わけである。それは五濁悪世の凡夫、煩悩蟻盛の根機において万人共通の根底に立つての救済であり、往生思想であ る処に﹁本願一仏乗﹂の他力道があるのである。故一に本願海には善人悪人、智者愚者、男女老幼の区別はなく、全く 一視同仁である。この故に三帖和讃にある﹁わが身﹂は﹁われら﹂に通ずるものであって、 その多くが﹁われら﹂と いう複数を以て顕わされているのである。例えば左の如く高僧和讃の龍樹、天親、曇驚、善導の各所に散見せられる。 高 僧 和 讃 ・ ・ ・ ・ 二十 七 首 一 、 龍 樹 和 讃 : :
.
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一
流転輪廻ノワレラヲパ ︵ 4 ︶ ヒサシグシヅメルワレラヲバ︵ 7 ﹀ ワレラ因地ニアリシトキ ︵ 9 ﹀ 二 、 天 親 和 讃 : : :.
.
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一
煩悩成就ノワレラニハ ︵ 1 ︶ 三 、 曇 驚 和 讃 ・ :.
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一
煩悩成就ノワレラガ ︵ ロ ﹀四 、 善 導 和 讃 : : :
.
.
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一
一
ワレラガ無上ノ信心ヲ ︵ 日 ︶ 五潟悪世ノワレラコソ ︵ 日 ︶ 正像末・如来和讃 : 一 首 ワレラヲアハレミマシノt
、 テ ︵ 1 ﹀ その他の唯信紗文意等の文献は前述の如し、今は省略する。次に歎異妙には左の通り。O
煩悩具足のわれらはいづれの行にても、生死をはなる L こ と あ る べ か ら ざ る を 。 ︵ 第 三 章 ︶O
他力の悲願はかくのごときのわれらがためなりけりとしられて。 ︵ 第 九 章 ︶O
わ れ ら が ご と く 下 根 の 凡 夫 、 一 文 不 通 の も の L 云 々 。 ︵ 第 十 二 章 ︶O
われらがこ L ろ の よ き を ば よ し と お も ひ 。 ︿ 第 十 三 章 ︶O
われらいかでか生死をはなるべきや。 ︵ 同 ︶O
わ れ ら が 身 の 罪 悪 の 、 ふ か き ほ ど を も し ら ず 。 ︵ 総 結 文 ︶ 以 上 信心菩提の論理的過程について 2 げ 仏教各宗における盛衰は一に道心の有無にかかっていると言っても云い過ぎではないであろう。信教大師も山家学 生式の初頭に一玄く﹁国宝とは何物ぞ、宝とは道心なり、道心ある人を名けて国宝となす﹂と。道心とは菩提心、詳し くは究語の阿蒋多羅コ一貌三菩提の心にして漢訳して無上正等正覚、又は無上正遍道と訳し、道心若しくは道念とも発 和 讃 の 構 成 上 の 諸 問 題 九 七和 讃 の 構 成 上 の 諸 問 題 九 八 心とも云われている。元来大乗の菩薩道においては自行化他、又は自利利他、或は上求菩提・下化衆生を菩薩の理想 と し 、 その為めに学問修行を励むのである。その修学が成るか成らぬかは道心の厚薄如何にかかっているとも云える。 大乗仏教に於ては化他せんがための白利︵修学︶であるとされている。故に仏教の建て前から云えば浄土教の他力信 本典信巻には菩提心に就て聖道自力︵竪︶の菩提心と、浄土他力 心は聖道門の大菩提心とは趣きを異にしている。 ︵横︶の二種に分け、更にそれを超と出の二類に細分して四種の菩提心があると説かれている。而して﹁横超とは斯 れ乃ち願力廻向の信楽、是れを願作仏心と日う。願作仏心は即ち是れ横の大菩提心なり。是を横超の金剛心と名、ずく る な り 。 ﹂ ︵信巻木︶と。浄土三経の大経上巻には発無上正真道意、或は無上道心等とあり、下巻の三輩段には無上菩 提心とあり、観経には発菩提心とも、発無上道心とも説かれている。 どうしても天親・曇驚の教義を経なければなら ぬのではなかろうか。その事を解明されたものが正像末和讃である。夢告和讃全体を宗祖の菩提心論と見るのはその 他力の信心が菩提心であると断定するにはその理論的過程として、 観点に立つ見方である。今その五十八首を概観すれば、 ま ず 初 め に 自 力 聖 道 の 菩 提 心 の 成 就 し 難 き を 歎 き ︵ 孔 ← 時 ︶ 、 そのわけは世は末代、機は下根の故に。 次 に 浄 土 の 菩 提 心 に 転 じ ︵ 川 口 ← 詑 ﹀ 、 浄土の菩提心とは願作仏心即度衆生心 ︵浄土論所説︶である旨を力説して、浄土の大菩提心とは衆生の願作仏心、願作仏心はまた度衆生心であり、度衆生 心は弥陀廻向の信楽である。故に信心の行者は浄土に往生して仏果を証るのであると、 m m m 幻の三首に亘って述べて いる。尚お天親和讃には 7 ← 刊 の 四 首 に 亘 っ て 詳 し 。
O
願作仏ノ心ハコレ 度衆生ノコ、ロナリ 度衆生ノ心ハコレ、 、 、 、 、 、 、 利 他 真 実 ノ 信 心 ナ リ 。 ︵ 8 ︶ : : : 註 、 利 他 と は 他 力 の こ と
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信心スナハチ一心ナリ 一心スナハチ金剛心 金剛心ハ菩提心 コ ノ 心 ス ナ ハ チ 他 力 ナ リ 。 ハ 9 ﹀ また夢告讃の第部首には上の天親の義を受けて、 願作仏等は菩薩の自力行ではなくして全く如来の願カ廻向の賜物 得益であると説き︵却 M 1 1 v m m ︶ で あ る 事 を 明 か し て 、 往 還 二 種 の 回 向 ︵ 論 註 所 説 ︶ を 讃 嘆 せ ら れ る ハ お お 必 、 回 目 ︶ 。 最後に論旨を結ぶ言葉として、真実信心︵お幻錦、 H H U ︶に結帰して他力信心を讃頭せ そしてそれは如来廻施の信楽の ら れ た も の で あ る 。O
往相田向ノ大慈ヨリ 還相田向ノ大悲ヲウ 如来ノ回向ナカリセパ 浄 土 ノ 菩 提 ハ イ カ マ セ ン 。 ︵ 日 ︶ 因に、曇驚和讃には U ←路の三首に亘って他力回向の往還二種の利益を歌われている。是を要するに﹁浄土ノ大菩 提心ハ、願作仏心ヲス、メシム﹂ ︿ m m ﹀ と い い 、 一 首 お い て 次 に ﹁ 如 来 ノ 回 向 ニ 帰 入 シ テ 、 願作仏心ヲウルヒトハ ・ : 利 益 有 情 ハ キ ハ モ ナ シ ﹂ ハ 幻 ︶ と 続 き 、 信心菩提を高調されたのが夢告和讃である。故に信巻の初頭に日く﹁謹んで往相の廻向を按ずる 更に一首おいて﹁如来二種ノ回向ヲ、 フカク信ズルヒトハミナ、等正覚 イ タ ル ﹂ ︵ お ︶ と に 大 信 あ り 、 乃至斯の心は即ち是れ念仏往生の願より出でたり。斯の大願を選択本願と名、ずく等﹂と。 また現世利益 和讃の構成上の諸問題 九 九和 讃 の 構 成 上 の 諸 問 題
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讃︵ロ︶に﹁願力不思議ノ信心ハ、大菩提心ナリケレバ等﹂と端的に述べられてある。 参考までに、夢告和讃を分類して示せば、 聖 道 の 菩 提 心 : : :H
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日 目 、 日 叩 必 の 七 首 浄 土 の 菩 提 心 : : : m 即 位 、 ぬ 日 の 四 首 願 作 仏 心 等 : : : : ・ m m 却 幻 、 お の 四 首 往 還 二 種 田 向 : : : お 必 必 回 目 の 五 首 真 実 信 心 : :ji
− − U 幻 お 品 目 の 五 首 そ の 他 、 ﹁ 回 向 の 信 楽 ﹂ 等 の 和 讃 六 首 。 次に﹁信心菩提﹂に関連する問題に﹁信心仏性﹂の仏性論がある。次でに附記しよう。 ② 註 山 家 学 生 式 ︵ 六 条 式 ︶ に 云 く 、 ﹁ 国 宝 何 物 、 宝 道 心 也 。 有 道 心 人 名 為 国 宝 。 故 古 人 言 、 径 寸 十 枚 非 是 国 宝 、 照 子 一 隅 、 此 別 国 宝 。 ﹂ ま た 一 心 戒 文 下 に 云 く ﹁ 道 心 の 中 に 衣 食 あ り 、 衣 食 の 中 に 道 心 な し 。 L 信心仏性論 初めに聖道諸宗の仏性義について云えば、仏性論に三種の仏性を説き、 ||これは従因向果の見方であって、湛然の法華玄義には三因仏性を立て、 一 に 住 自 性 性 、 二 に 引 出 性 、 三に至得性 一に正因仏性||これは真如実相の理に ついて仏性をたて、二に了因仏性||これは能証の智について仏性を立て、三に縁悶仏性i
!これは六度の行につい ③ よ て仏性をたてるのである。その外にも色々の説がある。真宗の教学にありては高木俊一師の﹁通釈﹂に拠れば、宗祖 は信巻本に浬繋経の文を引き﹁一乗とは名ずけて仏性と為す、是の義を以ての故に我れ一切衆生悉有仏性と説く﹂と。また真仏土巻には﹁安楽仏国に到れば即ち必ず仏性を顕わす﹂と言い、又唯信紗文意にも﹁浬撲とまうすにその名無量 ﹁この一切有情の心に方便法身の誓願を信楽するがゆへに、この信心すなはち 仏性なり云々﹂と釈ぜられてある。右のうち行巻の一乗仏性の説は仏性の体を示し、信巻の信心仏性の説は仏徳を全 領するに名ずけ、真仏土巻の必顕仏性の説はその法徳の全現に就て説かれたものであるとしている。 な り L と そ の 名 称 を 列 挙 さ れ た 後 に 、 ま た 和 讃 ︵ 諸 経 和讃︶には仏性に関して三首あり、初めの二首︵ 6 と 7 ﹀は北本浬繋経に依って﹁一子地﹂ ︵ 第 三 十 二 巻 、 信 巻 引 用 ︶ と 、 及 び ﹁ 如 来 即 浬 梁 ﹂ ︵ 第 五 巻 如 来 性 品 、 真 仏 土 巻 引 用 ︶ に つ い て 仏 性 を 讃 釈 さ れ 、 そ の 次 の 和 讃 ︵ 諸 経 和 讃 8 ︶ は ∼ 信 心 ヨ ロ コ ブ ソ ノ ヒ ト ヲ / 如 来 ト ヒ ト シ ト ト キ タ マ フ \ 大 信 心 ハ 仏 性 ナ リ / 仏 性 ス ナ ハ チ 如 来 ナ リ 。 この和讃の前の二句は華厳経巻六
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︵ 入 法 界 口 問 ︶ の ﹁ 信 心 歓 喜 者 与 諸 如 来 等 ﹂ の 文 に 依 り 、 後 の 二 句 は 浬 般 市 経 巻 三 十 二︵獅子肌品︶の文に依り給うものである。然るに諸仏等同について宗祖の見解に三義あり、末灯紗参照。その祖意 の三義とは一は諸仏の褒讃に約し、二は他力の信体に約し、三は因中摂果して諸仏等同を説くものであって、今の和 讃は第三の意味と解すべきである。その事は和讃の草稿本の左訓に﹁むじゃうぼだいにいたるを、 だいしんじんとい ふなり﹂とあるに依っても明白である。而して華厳、浬繋両経ともその経当面は大乗菩薩についての所談であるが、 宗祖はそれを転用して他力信心の行者の事とし、前句は他力の大信心を顕わし、後の句は無上浬梁の証果を讃えられ た の で あ る 。 信心仏性の義に就て真宗の学者の間で学説が一定していないようである。 和 讃 の 構 成 上 の 諸 問 題。
和 讃 の 構 成 上 の 諸 問 題