[論文]
Dhammapada-Aṭṭhakathā における
「三道宝階降下」について
岡 本 健 資
Buddha’s Descent from Tāvatiṃsa Heaven
in the Dhammapada-Aṭṭhakathā
Okamoto, Kensuke
The story of Śākyamuni’s descent to earth after preaching for his mother Māyā in Tāvatiṃsa heaven is found in many Buddhist texts and artworks, and thus seems to have been regarded as one of the important events in Śākyamuni’s biography. However, there are some differences between its various versions. In this paper, I will first focus on its version in the
Dhammapada-Aṭṭhakathā. Then, I will compare this version with others (found
in Za ahan jing, Zengyi ahan jing, Yizu jing, Genben shuo yiqie youbu pinaiye
zashi [= Chinese version of the Mūlasarvāstivādavinaya-kṣudrakavastu], Jātaka-Aṭṭhakathā, Paramattha-jotikā, etc.), examining differences between
them. In doing so, I will make clear the tradition to which the version in the
Dhammapada-Aṭṭhakathā belongs.
はじめに
釈尊は,三十三天(=忉利天:Pali. Tāvatiṃsa-deva)に昇り,神々に説法 しつつ雨安居を過ごして後,人間たちが地上への釈尊の帰還を請うているこ とを聞き,三種の宝から成る階梯を用いて地上に降りたという。この事績 は,「三道宝階降下」(あるいは「従忉利天降下」などとも)呼ばれ,これに 比定される「三種の階梯」の表現を伴う浮彫が,バールフトのストゥーパ欄楯柱(前1世紀初頭)に見出される(1)ことから,前1世紀初頭までに,仏教 徒の間に流布していたことが判る(2)。また,この事績は,釈尊が行う偉大な 出来事(及びその場所)のリストや,それらを描いた「五相図」や「八相 図」と呼ばれる浮彫などに含まれる場合もあり(3),仏教徒にとって重要な事 績だったと推測できる。 この事績を伝える文献資料の殆どは,釈尊が昇った天界が「三十三天(忉 利天)」であったこと,「三道宝階」を用いて地上へ降りてきたこと,その場 所がサンカッサ(Pali. Saṃkassa)という名の都市であったこと,などの点で 一致する。しかしながら,伝える資料の数が多い分,異同の多い事績でもあ る。 本稿では,パーリ三蔵の中でも特に詳しくこの事績を記述する Dhamma-pada-Aṭṭhakathā(以下,DhpA)を中心にして,同じくこの話を内包する資 料の内,比較的詳しく記述しているもの,すなわち Jātaka-Aṭṭhakathā(以下, JA),Paramattha-jotikā(以下,Pj),『雑阿含経』(以下,『雑阿』),『増一阿 含経』(以下,『増一』),『義足経』(以下,『義足』),『根本説一切有部毘奈耶 雑事』(以下,『雑事』)の六本と比較し,DhpA が,どの伝承に近い関係に あるのかを確認したい(4)。 DhpA を中心に置く理由は,DhpA の「三道宝階降下」には,三十三天に 居る釈尊のもとに「母が兜率天宮から到来し(mātā tuṣitavimānato āgantvā …)」と記して,生母マーヤーが三十三天ではなく兜率天に居ることを示す など,他の資料には見出せない内容が含まれるからである。比較に際して は,この話の展開上重要となる次の五項目,すなわち,「天界へ昇る理由」・ 「天界説法の内容」・「降下地の選定」・「三道宝階」・「兜率(Tusita)天」に注 目し,DhpA の記述を他の資料と比較することで,DhpA がどの資料に近い のかを確認する。
1.天界へ昇る理由
釈尊が忉利天に昇り,神々に説法することが「三道宝階降下」の事績の始まりである。しかし,釈尊が天界へ昇る理由は,資料間に異同がある。結論 から言えば,DhpA が記す「昇天の理由」は,JA の記述と最も近く,『増一』 も DhpA と部分的に合致する。しかし,他の資料は DhpA と異なっている。 それらの異同について確認しよう。 まず,DhpA では,釈尊が天界に昇る前に,「諸仏が舎衛城の神変の後に 雨安居に入った場所は何処なのか」と考え,「諸仏は,三十三天宮で雨安居 に入り,母に論蔵を示す」ことが慣例であると知る。
satthā pāṭihīraṃ karonto va ‘kattha nu kho atīte buddhā imaṃ pāṭihīraṃ katvā vassaṃ upentī’ ti āvajjitvā, ‘tāvatiṃsabhavane vassaṃ upagantvā mātu abhidhammapiṭakaṃ desentī’ ti disvā … (DhpA, p. 216, l. 13‒17)※ 下線は 筆者。以下,全て同様。 師は,神変をまさに示しつつある時に,「過去の諸仏がこの神変を示し 終えて後,雨安居に入った場所は,一体,何処なのか」と考えて,「三 十三(忉利)天宮において雨安居に入り,母に論蔵を教示したのだ」と 知って,…。 この記述から,DhpA は,「三道宝階降下」が,「舎衛城の神変」の後に諸 仏によって行われる慣例,あるいは決まり事(=「常法」)と見なしている と判る。それでは,次に,JA がどう記述するのかを確認しよう。
tato “purimabuddhā pana pāṭihāriyaṃ katvā kattha gacchantīti” āvajjanto “tāvatiṃsabhavanaṃ” ti ñatvā … (JA, Sarabhamigajātaka (no. 483), p. 265, l. 15‒17) それから「また,先の諸仏が神変を示し終えて後,何処に赴いたのか」 と考えた[釈尊は]「三十三天宮に[赴いたのだ]」と知って…。 このように,JA も,「舎衛城の神変」に続いて起こる事績として「三道宝 階降下」を挙げており,DhpA と JA は筋書きの点で等しい。且つ,上記引 用中の下線部分の通り,ほぼ同じ語句と表現を用いており,近い関係を示 す。では次に,『増一』が「三道宝階降下」における「天界へ昇る理由」を どう記述するのかを確認しよう。『増一』において,この事績の始まりは
少々複雑である。「昇天の理由」を二つ挙げるからである。最初に挙げられ る「昇天の理由」(以下,理由①)は次の通り。 夫如來出世必當為五事。云何為五。當轉法輪。當度父母。無信之人立於 信地。未發菩薩心令發菩薩意。於其中間當受佛決。此五因縁如來出現必 當為之。今如來母在三十三天。欲得聞法。今如來在閻浮里内。四部圍 遶。國王人民皆來運集。善哉。世尊。可至三十三天與母説法。(『増一』 T. no. 125, p. 703b) まず,『増一』では,釋提桓因が登場し,世尊に対し,「如来が必ず為すべ き五事」(慣例,あるいは「常法」)を勧める。それら五事の内,「當度父母」 に関して,母が三十三天で聞法を欲していると知らされ,世尊は三十三天へ 昇った,という筋書である。このように,『増一』の理由①は,DhpA や JA と同様,諸仏が行う「常法」として「三道宝階降下」が始まる点において一 致している。しかし,「舎衛城の神変」との連続性を欠く点で,DhpA や JA とは異なる。一方,DhpA や JA 以外にも,「神変」との連続性を示しつつ 「釈尊が三十三天へ昇った」と記す資料は存在する。『増一』に記されたもう 一つの「天界へ昇る理由」(理由②)と『雑事』である。 これら『増一』の理由②と『雑事』とは,釈尊が神変を示現したことで, 問題が起こり,その問題を解決するために釈尊は天界へ去った,とする記述 を含む。『雑事』では,「舎衛城の神変」の後,人々も神々も喜び,釈尊と比 丘たちへの布施を必要以上に与えるようになり,その過失を断とうとして (欲斷其利養過),天界へ去ったとする。 現神變後人天歡悦。佛及苾芻多獲利養。爾時世尊爲欲斷其利養過故。遂 昇三十三天。(『雑事』T. no. 1451, p. 346a) 次に『増一』の理由②を確認しよう。『増一』は,まず,既に挙げた理由① として,釈尊が,父母を度すのが常法であると知り,帝釈天の「世尊。可至 三十三天與母説法。」(p. 703b)という要請に同意する。その後,釈尊が天界 に昇るまでの間に,目連に命じて,暴悪な二頭の龍を制圧させる。四部衆は その目連の力を見て,「方便」の力に対する尊敬を生じて,修行に対する懈
怠の心を起こすという問題が発生する。釈尊は,この問題を解決するため, 天界へ昇り地上から姿を消すことで人々に「法に対する渇望」を起こさせよ う,と考える(=理由②)。 是時世尊便作是念。此四部之衆多有懈怠。替不聽法亦不求方便使身作 證。亦不復求未獲者獲未得者得。我今宜可使四部之衆渇仰於法。(『増 一』T. no. 125, p. 705b) 『雑事』においても,地上の人間たちは釈尊と遇うことを渇望し,目連に釈 尊への伝言を依頼している(5)。これら両資料においては,釈尊が地上から 姿を消す直前に超自然的な力を発現させる人物が,『雑事』では釈尊であり 『増一』では目連とする点で異なる。しかし,「釈尊」あるいは「法」を求め るよう促すために地上から姿を消した,という「昇天の理由」を持つ点では 一致している。 ここで,『雑阿』,『義足』,そして Pj における,「釈尊が昇天する理由」に ついて記述を確認しよう。結論を先取りすると,Pj には,「釈尊が昇天する 理由」が見出せず,『雑阿』と『義足』も,釈尊が天界へ昇る経緯を詳しく 語らぬまま,母や神々のために説法したことを次の様に記すのみである。 『雑阿』:如是我聞。一時佛住三十三天䨰色虚軟石上。去波梨耶多羅拘毘 陀羅香樹不遠。夏安居。爲母及三十三天説法。(T. no. 99, p. 134a) 『義足』: 聞如是。佛在忉利天上。當竟夏月。波利質多樹花適好盛。坐濡 軟石上。欲爲母説經。及忉利天上諸天。(T. no. 198, p. 184c) なお,『義足』には「念母懷妊勤苦故留説經。及忉利諸天。」(T. no. 198, p. 185a)として,他の資料には見出せない「母への報恩」とも解釈可能な記述 が存在する。しかしこの記述も,釈尊が忉利天へ昇る行為と直接結びつく位 置にないため,「昇天の理由」とは断定できない。最後に,Pj は,以下の様 に,釈尊が天に昇る理由は記されず,「… 世尊は神変を示して後,三十三天 へ向かった。…(… katapāṭihāriyassa bhagavato tāvatiṃsagamanaṃ, … )」(Pj, p. 570, l. 10)と記し,三十三天へ行くことが神変後の出来事であった事実を 述べるだけである。
以上の検討から,DhpA は三十三天へ昇る理由を諸仏の行う「常法」とし, 文言上の一致が見られる JA と最も近い伝承と言える。次に,「常法」に言 及するが,それ以外の理由(地上における人々の堕落,法や釈尊に対する渇 望へ導くこと)にも言及する『増一』は,DhpA と合致する点もあるが,JA ほど DhpA に近い伝承とは言えない。一方,DhpA の挙げる理由である「常 法」への言及が無く,別の理由を記す『雑事』は,DhpA から最も遠い伝承 と考えられる。
2.天界説法の内容
天界にて釈尊が行う説法内容は,DhpA では,論蔵(abhidhammapiṭaka) の 教 示, で あ る。 一 方,JA は 説 法 内 容 に つ い て, 論 に 関 す る 話 (abhidhammakathā),とし表現が異なっているが DhpA と同じものと見なし ていいだろう。DhpA は母マーヤーが登場して後,次の様に論蔵について記 す。atha satthā devaparisāya majjhe nisinno mātaraṃ ārabbha ‘kusalā dhammā akusalā dhammā avyākatā dhammā’ti abhidhammapiṭakaṃ paṭṭhapesi, evaṃ tayo māse nirantaraṃ abhidhammapiṭakaṃ kathento [ 中 略 ] desanāvasāne asītikoṭisahassānaṃ devatānaṃ dhammābhisamayo ahosi mahāmāyāpi sotāpattiphale patiṭṭhahi. (DhpA, p. 222, l. 6‒p. 223, l. 18)
さて,師は神々の集団の真中に坐し,母に対して『諸々の善法,諸々の 不善法,諸々の無記の法がある』と,論蔵を確立した。同様に,三ヶ月 間,間断無く論蔵を語りつつ[中略]教示の終わりには,八万コーティ の神々に法の領解があり,マハー・マーヤーも預流果に安立した。 JA も,「三ヶ月間,雨安居を過ごして後,神々に対して,論に関する話 を語った。(vassaṃ upagantvā antotemāsaṃ devānaṃ abhidhammakathaṃ katheti. (JA, Sarabhamigajātaka (no. 483), p. 265, l. 19‒20))」 と し, 論(abhidhamma) に言及する点で,DhpA とよく合致する。なお,Pj には「その場所で,三ヶ 月間,説法した」(tattha temāsaṃ dhammadesanā)と記されるが,説法内容は
不明である。他の資料は,教説の表現が異なる。すなわち,「施・戒・生天 論や離欲等と四諦」を説くものと,「四不壊浄・三帰依,その結果としての 生天」を説く場合がある。まず『増一』は,釈尊は神々に対して「施・戒・ 生天論」と「離欲」など,そして「四諦」を説いたとする。 爾時如來母摩耶。將諸天女至世尊所。頭面禮足在一面坐。 [中略] 渇仰 思見佛今日方來。是時母摩耶頭面禮足已在一面坐。釋提桓因亦禮如來足 在一面坐。三十三天禮如來足在一面坐。是時諸天之衆見如來在彼増益天 衆減損阿須倫。爾時世尊漸與彼諸天之衆説於妙論。所謂論者。施論戒論 生天之論。欲不淨想婬爲穢惡出要爲樂。爾時世尊以見諸來大衆及諸天人 心開意解。諸佛世尊常所説法苦習盡道。普與諸天説之。各於坐上諸塵垢 盡得法眼淨。復有十八億天女之衆而見道跡。三萬六千天衆得法眼淨。是 時如來母即從坐起。禮如來足還入宮中(『増一』T. no. 125, p. 705c) 『雑阿』は,『義足』・『雑事』と同様,釈尊が,神々に「四不壊浄・三帰 依,その結果としての生天」を説く。そして,帝釈天や神々が次々に,「こ こ(天界)に再生したのは,過去世で仏不壊浄・法不壊浄・僧不壊浄・聖戒 成就という四不壊浄(あるいはその各要素)を具えたためである」と述べ て,釈尊の説法の正しさを証明する。 時有一天子。從座起整衣服。偏袒右肩。合掌白佛。世尊。我亦成就於佛 不壞淨故來生此。復有天子言。我得法不壞淨。有言得僧不壞淨。有言聖 戒成就。故來生此。(『雑阿』,T. no. 99, p. 134c) 『雑事』も殆ど同じである(6)。『義足』の場合は「三帰依」が説法内容に加 わるが,以下に見る通り,筋書は上述のものとほぼ同じである。 爾時天王釋。坐在佛前。意尊佛語及目犍連所言。即言。賢者目犍連所説 實如是。先世有身歸佛歸法歸比丘僧。及淨心樂道。皆來生天上。是時有 八萬天。坐在天王釋後。諸天悉欲尊佛所言。及目犍連。亦其王所言。便 言賢者目犍連可所説者。實如賢者言。其有先世作人時。身歸三正淨心樂 道。壽盡皆來生天上。爾時八萬天因縁目犍連各各自陳我得溝港。(『義 足』T. no. 198, p. 185b)
このように,『増一』と『雑阿』,『義足』と『雑事』は,在家者に対する 伝統的な教説である「施・戒・生天論」と「離欲」等とその後に示される 「四諦」,あるいは,信に関わる教説である「四不壊浄・三帰依」とその果報 としての生天が示される。一方,DhpA と JA だけが論(abhidhamma)に言 及しており,その点で漢訳諸本と異なっている。
3.降下地の選定
この事績における釈尊の降下地が,サンカッサという名の都市であったこ とは知られている。DhpA でも,その伝統は踏襲されているが,釈尊は,ど の地に降りるかを予め決めていなかったように描写される。‘kahaṃ pana te moggllāna jeṭṭhabhātiko sāriputto’ ti. ‘bhante saṃkassa-nagaradvāre vassaṃ upagato’ ti. ‘moggallāna ahaṃ ito sattame divase mahāpavāraṇāya saṃkassanagaradvāre otarissāmi, “maṃ daṭṭhukāmā tattha āgacchantū” ti. … (DhpA, p. 224, l. 14‒18)
[釈尊が尋ねた]「モッガラーナよ。兄[弟子の]サーリプッタは何処 [に居るの]か」と。[すると,モッガラーナは]「尊者よ。サンカッサ 市の入り口において,雨安居に入っています」と[答えた]。[釈尊は] 「モッガラーナよ。私は,今から七日目に,雨安居の大修了式の時に, サンカッサ市の入り口に降りるであろう。私を見ようと望む者たちは, その場所に来るがよい。」と[語った。] このように,DhpA でも,釈尊は降下地としてサンカッサを選ぶが,それ はサーリプッタが居たからだとされる。同じ理由を記すのが JA である。な お,上記の DhpA からの引用部分を見ると,次のとおり,約半分(下波線 部)が,JA の語句と一致する。
atha naṃ ṣatthā pucchi: “kahaṃ pana etarahi sāriputto” ti. “esa bhante pāṭihāriye pasīditvā pabbajitehi pañcahi bhikkhusatehi saddhiṃ saṃkassanagare vasatīti”. “moggallāna, ahaṃ ito sattame divase saṃkassanagaradvāre otarissāmi, tathāgataṃ daṭṭhukāmā saṃkassanagare sannipatantū” ti.
(Sarabhamigajātaka (no. 483), p. 265, l. 22‒27) さて,師は,彼(=モッガラーナ)に質問した。「今,サーリプッタは 何処[に居るの]か」と。[モッガラーナは]「尊者よ。あの者は,神変 の時に心を浄めて出家した者たち500人とともに,サンカッサ市に住ん でいます」と。[釈尊は]「モッガラーナよ。私は,今から七日目に,サ ンカッサ市の入り口に降りるであろう。如来を見ようと望む者たちは, サンカッサ市に集まるがよい。」と。 また,Pj は降下地についての理由を記さず,簡潔に,「尊者アヌルッダ 上座に乞われて,[釈尊は]天界からサンカッサ市へ降下する(… āyasmatā anuruddhattherena yācitassa devalokato saṃkassanagare orohaṇan …)」(Pj, p. 570, l. 11‒12)とする。また,『雑阿』・『増一』・『義足』・『雑事』は,いずれも, 降下地の選定理由を記さない(7)。ここでも,DhpA は JA とだけ一致を示す。
4.三道宝階
⑴ 三道宝階の必要性 この事績において,釈尊が地上へ降りる際に使用する,天界と地上を結ぶ 「三種の宝から成る階梯」は「三道宝階」と呼ばれる。『雑阿』はこの「三道 宝階」を含まず,その末尾は「予定通り七日目に,世尊が三十三天から,閻 浮提の僧迦舍(サンカッサ)城の優曇鉢樹下に降り,天龍鬼神,梵天にいた るまで,悉くその降下に付き従った。(如期七日。世尊從三十三天。下閻浮 提僧迦舍城優曇鉢樹下。天龍鬼神。乃至梵天。悉從來下。)」(『雑阿』T. no. 99, p. 134c)と記すのみである。 DhpA を含め,他の資料は等しく「三道宝階」を記す。とはいえ,各々 の 記 述 に は 異 同 が 存 在 す る。 ま ず,DhpA は, 釈 尊 が「 人 里 へ 行く(8)」 (manussapathaṃ gamissāmi)という意思を表明し,これを知ったサッカが, 金製・宝石製・銀製という三種の階梯を設計させる。satthā vutthavasso pavāretvā sakkassa ārocesi: ‘mahārāja manussapathaṃ gamissāmī’ti. sakko suvaṇṇamayaṃ maṇimayaṃ rajatamayaṃ ti tīṇi sopānāni
māpesi, tesaṃ pādāni saṃkassanagaradvāre patiṭṭhahiṃsu sīsā sinerumuddhani tesu dakkhiṇapasse suvaṇṇasopānaṃ devatānaṃ ahosi, vāmapasse rajatasopānaṃ mahābrahmānaṃ ahosi, majjhe maṇisopānaṃ tathāgatassa. (DhpA, p. 225, l. 1‒7) 雨安居を過ごし,修了式をなして後,師は,サッカに告げた。「大王よ。 私は人里へ行く。」と。[それ故,]サッカは,黄金製・宝石製・銀製と いう三種の階梯を作らせた。それら(階梯)の脚はサンカッサ市の入り 口に置かれた。[また,階梯の]先端はシネール山頂に[置かれた]。そ れら(階梯)の内,右側は神格たちのための黄金の階梯であり,左側は 大梵天たちのための銀の階梯であった。真ん中にある宝石の階梯は如来 のためのものであった。
satthāpi sinerumuddhani ṭhatvā devorohaṇayamakapāṭihīraṃ katvā uddhaṃ olokesi: yāva(9) brahmalokā ekaṅgaṇā ahesuṃ, adho olokesi: yāva avīcito
ekaṅgaṇaṃ ahosi, disāvidisā olokesi: anekāni cakkavāḷasahassāni ekaṅgaṇāni ahesuṃ: devā manusse passiṃsu, manussāpi deve passiṃsu, (DhpA, p. 225, l. 7‒13) 師 も, シ ネ ー ル[ 山 ] 頂 に 立 ち,「 天 界 か ら の 降 下 時 の 双 神 変 」 (devorohaṇa-yamakapāṭihīra)を行ってから,上方を見た。[すると]梵 天界(brahma-lokā)まで,完全に視界が開けていた(10)。[次に,]下方 を見た。[すると]無間地獄にいたるまで(avīcito),完全に視界が開け ていた。[次に,][四]方[四]維を見た。[すると]数千の鉄囲山に対 しても,完全に視界が開けていた。神々は人間たちを,人間たちも神々 を見た。… 上 記 引 用 の 通 り,DhpA で は, サ ッ カ の 命 令 で 三 道 宝 階 が 製 作 さ れ た, と す る。 し か し,DhpA は, な ぜ 三 道 宝 階 が 必 要 な の か, を 記 さ な い。さらに DhpA では,降下時において「従天降下の双神変をなして… (devorohaṇayamakapāṭihīraṃ katvā)」と記されるが,その後に起こった内容か ら,その時に示された神変が「世界開顕」という名で知られる神変であった
ことが判る(11)。一方,JA は,DhpA とは逆に,神変の詳細を記さず,「世界
開顕(lokavivaraṇaṃ)という神変を行って…」と簡潔に記す。以下は JA の 当該箇所である。
satthā vutthavasso pavāretvā “mahārāja manussalokaṃ gamissāmīti” sakkassa ārocesi. sakko vissakammaṃ āmantetvā “dasabalassa manussaloka-gamanaṭṭhāya sopānaṃ karohīti” āha. so sinerumatthake sopānasīsaṃ saṃkassanagaradvāre dhurasopānaṃ katvā majjhe maṇimayaṃ ekasmiṃ passe rajatamayaṃ ekasmiṃ passe sovaṇṇamayan ti tīṇi sopānāni māpesi. sattaratanamayā vedikāparikkhepā ti. satthā lokavivaraṇaṃ pāṭihāriyaṃ katvā majjhe maṇimayena sopānena otari. (Sarabhamigajātaka (no. 483), p. 265, l. 29‒p. 266, l. 3) 雨安居を過ごし,修了式をなして後,師は,サッカに告げた。「大王よ。 私は人界へ行く」と。サッカは,ヴィッサカンマを呼び出し,「十力が 人間界へ進むために,階梯を作りなさい」と言った。彼(=ヴィッサカ ンマ)は,階梯の先端はシネール[山]頂に,階梯の末端部はサンカッ サ市の入り口に作り,真ん中には宝石製,片方には銀製,[もう]片方 には金製という三種の階梯を作らせた。張り巡らされる手すりは七宝か ら成っていた,と[言われる]。師は,世界開顕という神変を行ってか ら,真ん中にある宝石製の階梯を通って,[地上に]降りた。 このように,JA は DhpA よりも簡潔である。なお,Pj は「世尊は,真 中の宝石製の階梯を通ってサンカッサ市に降りて後,階梯の上に立った。 (bhagavā majjhe maṇimayena sopāṇena saṃkassanagare oruyha sopāṇakaḷevare
aṭṭhāsi, (Pj, p. 570, l. 10))」と短く記すが,DhpA と JA,Pj いずれも,階梯を 用いる理由,必要性については記載が無く,不明である。
漢訳諸本の内,まず『義足』は,釈尊が神々とともに降下したことを記 し,特定の神変名を挙げないが,降下時に,人々と神々がお互いを見たこと を記す(下線部を参照)。しかし,「三道宝階」の必要性については言及が無 い。
是時有天子墮彼邏。被王教意。便化作三階。一者金。二者銀。三者琉 璃。佛從須彌巓。下至琉璃階住。梵天王。及諸有色天。悉從佛右面。隨 金階下。天王釋。及諸有欲天。從佛左面。隨銀階下。佛及諸無數有色天 釋。亦諸無數有欲天。悉下到閻浮利安詳會優曇滿樹下。… 是時天亦見 人。人亦悉見天。以佛威神。天爲下。地爲高。人悉等。天亦無貪意在 人。人亦無貪意在天。(『義足』T. no. 198, p. 185b‒c) そして,『増一』と『雑事』は「三道宝階」の必要性を記している。まず, 『増一』では,釋提桓因が自在天子に「三道宝階」の製作を命じた際,以下 のように「如来は神足を用いずに地上(閻浮地)に行こうと考えている」 (下線部を参照)と述べたとされる。つまり,釈尊が「神足を用いないため に三道宝階が必要」であった,とするのである。 爾時。臨七日頭。釋提桓因告自在天子曰。汝今從須彌山頂至僧迦尸池 水。作三道路。觀如來(意(12))不用神足至閻浮地。自在天子報曰此事 甚佳。正爾時辦。爾時自在天子即化作三道金銀水精。是時金道當在中 央。侠水精道側銀道側化作金樹。(『増一』T. no. 125, p. 707a‒b) なお,『増一』には,降下時に,地上の人々と神々が互いを見た,とする 記述は無い。さらに,『雑事』には,もう一つの理由が付け加えられてい る。『雑事』では,釈尊が地上へ帰還する方法について,「神通を使われます か,足で歩かれますか」(下線部を参照)と帝釈天が質問し,釈尊が「足で 歩く」と答えたため,「三道宝階」製作に至ったとされる。のみならず,『雑 事』は,外道が「釈尊が神通を失ったから足で歩いて帰還した」と誤解せぬ よう,釈尊は,半分は足歩,半分は神通で地上(=贍部洲)に降りた,と記 す。『雑事』でも,人々と神々が互いを見る,という記述が存在している。 是時帝釋白佛言。世尊。今欲詣贍部洲。答言。我去。白言。爲作神通爲 以足歩。答言。足歩。帝釋即命巧匠天子曰。汝應化作三道寶階。黄金吠 琉璃蘇頗胝迦。答言。大善。即便化作三種寶階。世尊處中躡琉璃道。索 訶世界主大梵天王。於其右邊蹈黄金道。手執微妙白拂價直百千兩金。并 色界諸天而爲侍從。天帝釋於其左邊蹈頗胝迦道。手生百支傘蓋價直百千
兩金而覆世尊。 [中略] 佛作是念。我但歩去者。恐外道見議。沙門喬答 摩以神通力往三十三天。見彼妙色心生愛著神通即失足歩而還。若以神通 徒煩天匠。我今宜可半以神通半爲足歩往贍部洲。[中略]佛作是念。若 贍部洲男見天女女見天男。情生愛染。由婬欲心極熾盛故。便毆熱血悶絶 命終。我今宜可以神通力令男見天男女觀天女。如是作已不令染愛擾䑬其 心(『雑事』T. no. 1451, p. 346c‒347a) 以上に見たように,「三道宝階の必要性」については,語る伝承(『増一』・ 『雑事』)と,語らぬものとに大きく分かれる。DhpA は JA とよく一致し, 語らぬ伝承を受け継いでいることが判る。 ⑵ 降下直後に現れる人物 DhpA は,釈尊が天界から降下した直後,地上で釈尊を最初に出迎えた者 としてサーリプッタ長老を登場させる。JA も同様である。まず,DhpA の 記述を確認する。
satthā iminā parivārena saddhiṃ otaritvā saṃkassanagaradvāre patiṭṭhāhi. sāriputtatthero pi āgantvā satthāraṃ vanditvā yasmā tena tathārūpāya buddhasiriyā otaranto satthā ito pubbe na diṭṭhapubbo tasmā
‘ na me diṭṭho pubbe na-ssuto uda kassaci
evaṃ vagguvado satthā tuṣitā gaṇimāgato’ ti(DhpA, p. 226, l. 2‒8) 師は,この眷属とともに降りて後,サンカッサ市の入り口に立った。 サーリプッタ長老も,師に礼拝したが,彼は,そのような仏の吉祥さを 伴って降下しつつある師を,未だかつて見たことが無かった。それゆ え,[サーリプッタは] 「私はかつて見たことが無い。また,誰にも聞いたことが無い。こ のように,妙なることを語る師が,トゥシタ天から,集団を有し到 来したことは。」と[詠った]。
JA は,DhpA が記すサーリプッタの詠った詩節(Suttanipāta 第955詩節(13)
サーリプッタであることは共通している。JA の当該箇所は以下。
satthāraṃ dhurasopāne patiṭṭitaṃ paṭhamam eva sāriputtatthero vandi, pacchā sesaparisā. (JA, Sarabhamigajātaka (no. 483), p. 266, l. 5‒6)
末端部の階梯に立った師を,最初にサーリプッタ上座が礼拝した。残り の眷属が,[それに]続いた。 JA の記述は簡潔だが,DhpA から逸脱しないことが判る。しかし,Pj は, 釈尊を出迎える人物として,サーリプッタとともに,ウッパラヴァンナー尼 を記す。彼女は,DhpA や JA のこの場面の記述には登場しないため,大き な違いと言える。
sopāṇakaḷevare ṭhitam pana bhagavantaṃ sabbapaṭhamaṃ āyasmā sāriputto vandi, tato uppalavaṇṇā bhikkhunī, athāparo janakāyo. (Pj, p. 570, l. 20‒23) また,階梯の上に立った世尊を,まず最初にサーリプッタ具寿が礼拝し た。それから,ウッパラヴァンナー比丘尼が,そして,他の人々が[礼 拝した]。 Pj では,この記述の後,釈尊がサーリプッタの徳とそれを示すための過 去世物語を語る。その後,既に引用した DhpA と同じ詩節(Suttanipāta, v. 955)を記し,その註釈も記される。 このように,最初に釈尊を迎えたとされる固有名詞を持つ仏弟子に関して は,DhpA と JA と Pj は一致してサーリプッタを記す。しかし,その後の礼 拝者については,Pj だけがウッパラヴァンナー尼を登場させており,Pj と 漢訳伝承との近接性が見出せる。 降下直後の礼拝者について,『増一』・『義足』・『雑事』は全て,Pj に登場 したウッパラヴァンナーと対応する比丘尼(優鉢華色・蓮華色・䏫鉢羅)を 登場させる。そして,これら漢訳三本は全て,彼女が転輪聖王に化けること で釈尊を最初に礼拝する機会を得た,とする。更に,漢訳三本はいずれも, もう一人,釈尊の面前に行かず,離れた場所で釈尊の教えについて考える 「須菩提」という名の比丘(『義足』では「一比丘」)を登場させている。釈 尊に対する礼拝に関して,この比丘尼と比丘の行動は対をなし,「仏への礼
拝」とは何か,「仏」とは何か,「姿形」とは何か,という問題を提起する役 割を担う。以下,漢訳三本における当該箇所を確認する。 『増一』は,釈尊の降下直後,「優鉢華色」と「須菩提」を登場させ,対照 的な行動をとらせる。 是時。優䳠華色比丘尼聞如來今日當至閻浮提僧迦尸池水側。聞已。便生 此念。四部之衆國王大臣國中人民。靡不往者。設我當以常法往者。此非 其宜。我今當作轉輪聖王形容。往見世尊。是時。優䳠華色比丘尼還隱其 形。作轉輪聖王形。七寶具足。所謂七寶者。輪寶象寶馬寶珠寶玉女寶典 兵寶典藏寶。是謂七寶。爾時。尊者須菩提在羅閲城耆闍崛山中。在一山 側縫衣裳。是時。須菩提聞世尊今日當來至閻浮里地。四部之衆靡不見 者。我今者宜可時往問訊禮拜如來。爾時尊者須菩提便捨縫衣之業。從坐 起右脚著地。是時彼復作是念。此如來形何者。是世尊爲是眼耳鼻口身意 乎。往見者復是地水火風種乎。一切諸法皆悉空寂無造無作。[中略]我 今歸命眞法之聚。爾時尊者須菩提還坐縫衣。(『増一』T. no. 125, p. 707c) 『雑事』でも,比丘尼「䏫鉢羅」とともに,「須菩提」が登場し「仏も教化 の縁が尽きれば復た涅槃する」と述べ,仏も無常であることを語り,『増一』 におけるものと同じ役割を演じる。 爾時具壽須菩提。在一樹下晝日閑居。遙見世尊諸天大衆恭敬圍遶威徳尊 重從三十三天而來至此。便作是念。 [中略] 此諸人衆百年之中。並皆身 死。佛化縁盡亦復涅槃。斯等威嚴無不磨滅。善哉世尊。 [中略] 諸行無 常體恒變易。生滅之法是可惡事。我今於此深起厭心。於五取蘊觀察無常 苦空無我。如是知已。以智金剛杵摧二十種有身見山。獲預流果得不壞信 即便速疾捨加趺坐。右膝著地合掌恭敬。遙禮世尊瞻仰而住爾時䏫鉢羅苾 芻尼作如是念。[中略]我今宜可現大神通。即以自身化爲輪王。[中略] 爾時䌆陀夷苾芻在斯衆會。告諸人曰。此非輪王。乃是䏫鉢羅苾芻尼。自 現神通來禮佛足。(『雑事』T. no. 1451, p. 347a‒b) 最後に,『義足』における記述を確認する。『義足』では,「一比丘」が登 場し,上掲の漢訳二本における「須菩提」と同じような役割を果たす(14)。
しかし,『義足』は他の漢訳と異なり,地上へ釈尊の降下の場面に続いて舎 利弗(サーリプッタ)を登場させている。そして,釈尊と舎利弗(=サーリ プッタ)との詩のやりとりを記すのである。これは,むしろ DhpA や JA の 伝承に近い。『義足』では,釈尊の地上への降下の後,人々に対する説法を 終えると,ある賢者が讃仏の詩節群を詠う。その後,舎利弗の詩節群が始ま る。舎利弗が詠ったとされる詩節群の冒頭は,Suttanipāta 第955詩節の舎利 弗が詠ったとされる詩節と合致する。すなわち,DhpA や Pj が記す詩節に 他ならない。つまり,『義足』におけるこの事績は,舎利弗を登場させる点, そして,舎利弗が詠う詩節が逐語的一致する点で,DhpA や JA の伝承との 強い結びつきを示す,と言える。 … 是時賢者舍利弗。在衆中坐。便起座。偏袒叉手。以偈歎曰 未嘗見有是者 未嘗聞有説者 尊如是威神天 從兜術來至是 (『義足』T. no. 198, p. 186b) 釈尊の地上への降下直後に現れる人物として,舎利弗(サーリプッタ)だ けに焦点をあてる(DhpA と JA)か,あるいは,須菩提・蓮華色のペアに 焦点を当てる(漢訳三本)か,という伝承の区分が大雑把には可能である。 しかし,Pj には,サーリプッタとウッパラヴァンナー比丘尼が登場し,須 菩提は登場しない。そして,上記漢訳三本の内の一本である『義足』も,降 下直後に須菩提・蓮華色のペアが登場するものの,その後,舎利弗を登場さ せており,上述の区分が適当かは一概には言えない。DhpA におけるこの事 績は,JA と最も一致するが,『義足』が DhpA や Pj と同様の詩節を保持し ている点は伝承を考える上で,注意を要する。
5.兜率(Tusita)天
「三道宝階降下」の記述について諸資料を比較する場合,DhpA だけに見 出される表現が幾つも存在する。特に,「天界説法の内容」で扱った,三十 三天での説法前に置かれる「母が兜率天宮から到来し(mātā tusitavimānato āgantvā …)」(DhpA, p. 219, l. 5) という表現は注目に値する。三十三天に居る生母マーヤーのために説法することを,昇天の理由とする資料(『増一』: 「今如来母在三十三天。 [中略] 世尊。可至三十三天與母説法。」p. 703b)が 存在するからである。マーヤーが兜率天に居るなら,昇天の理由そのものが 失われてしまう。そこで,森章司・本澤綱夫・岩井昌悟の研究(15)に基づき, マーヤーの再生先を明記する資料を検討する。パーリ語資料に関して言え ば,Thera-gāthā が,三十三天へのマーヤーの再生を記している。
suddhodano nāma pitā mahesino, buddhassa mātā pana māyanāmā yā bodhisattaṃ parihariya kucchinā kāyassa bhedā tidivasmi modati. //534// (Thera-gāthā, p. 57, l. 5‒8) 大仙(=釈尊)の父の名はスッドーダナであり,また,仏の母は,マー ヤーという名である。彼女は菩薩を胎内で守り,死後,[三十]三天に おいて楽しんだ。 しかし,Udāna(16)や JA(17),Mahāpadāna-suttanta(18)は,いずれもマーヤー の再生先を兜率天としており,Thera-gāthā のみが三十三天とする事例であ ると判る。 一方,漢訳資料は,『修行本起経』(太子生七日。其母命終。以懷天師功 徳大故。生忉利天。[T. no. 184, p. 465a])や『佛本行集経』(爾時摩耶國大 夫人。命終之後。即便往生忉利天上。[T. no. 190, p. 701b]),『佛説衆許摩 訶帝経』(爾時摩賀摩耶生太子已七日命終生忉利天受五欲樂。[T. no. 191, p. 940c]),そして,『過去現在因果経』(其母命終。以懷太子功徳大故。上生忉 利。[T. no. 189, p. 627c])など,マーヤーの再生先は三十三天とされている ものが多い。 このように,生母マーヤーの再生先については,パーリと漢訳では異なり が大きい。今回検討した「三道宝階降下」が記される諸資料には,三十三天 で母に法を説く,ということを記す資料が殆どで,三十三天が母マーヤーの 再生先である,ということまでを明記したものは見当たらない。そのため, DhpA における,マーヤーが兜率天から三十三天へ来訪して聞法する,とい う記述は,上記のパーリと漢訳におけるマーヤーの再生先の伝承の相違を,
回避し三十三天にマーヤーが居ることを説明しているようにも見える(19)。 しかし,この事績と兜率天との関係については,更に検討すべき箇所が 残っている。既に言及した通り,釈尊の三十三天からの降下時に,サーリ プッタが詠う詩節である。その詩節の中では,三十三天には言及が無く,兜 率天のみに言及されることが不自然なことは,Pj や Mahāniddesa の編纂者 たちが,この詩節における tusita に対する解釈を多数並記(20)している点から も判る。また,『増一』では,降下地に集まった五人の王たちが,その土地 について,「此處福妙最是神地。如來始從兜術天來下至此説法。今欲建立此 處使永存不朽。」(T. no. 125, p. 708b)と述べ,釈尊もこれに同意し,ここに 建立する神寺のモデルとして,地中から迦葉如来の寺院を出して示してい る。つまり,この「三道宝階降下」の事績は,全体として三十三天のみなら ず兜率天とも関わりが深く,それらは,釈尊の伝記における三十三天と兜率 天との関係について,更に検討の余地があることを示唆している。
結び
DhpA における「三道宝階降下」の話は,部分的に JA と異なりを示しな がらも,筋書きや同じ語句を使用する場合が多く,話の主要部に関しては JA と同じ伝承を受け継いでいると見て良い。さらに,この事績に関して, 『義足経』が,DhpA と JA と関係を有する点も指摘できた。兜率天から降り てくる釈尊を讃えたサーリプッタの詩節(Suttanipāta 第955詩節)が,「三 道宝階降下」において詠われたとするのは,この詩節を引用する DhpA や Pj などパーリ三蔵の中でも限られた資料であるが,今回検討した漢訳資料 の中では『義足経』だけに見出される。さらに,この詩節に関して多くの解 釈が存在することが Pj や Mahāniddesa に示されており,少なからず問題が 含まれることも判明した。兜率天は,マーヤーの再生先やシッダールタ太子 の誕生,弥勒菩薩とも関わる仏伝上の大切な要素であるため,今後,更なる 検討が必要である。謝辞:本稿はパーリ学仏教文化学会第31回学術大会における口頭発表の内容に加筆 し,修正を加えたものである。貴重なご意見,ご指摘を下さった方々に心より感謝 申し上げます。
略号及びテキスト
DhpA (Dhammapada-Aṭṭhakathā)= The Commentary on the Dhammapada, H. C. Norman
(ed.), vol. III, London: PTS, 1906, rep. Oxford: PTS, 1993.
JA (Jātaka-Aṭṭhakathā)= The Jātaka together with its Commentary, V. Fausbøll (ed.), vol. IV,
London: Trübner & Co., 1887, rep. Oxford: PTS, 1991.
Pj (Paramattha-jotikā)= Sutta-Nipāta Commentary II being Paramatthajotikā II, 2, Helmer
Smith (ed.), London: PTS, 1917, rep. Oxford: PTS, 1989.
※一次資料については,特に明記がない場合は Pali Text Society 版を用いた。
T =『大正新脩大蔵経』,東京:大蔵出版。 『雑阿』=『雑阿含経』 『増一』=『増一阿含経』 『義足』=『義足経』 『雑事』=『根本説一切有部毘奈耶雑事』 注 ⑴ 肥塚隆「「従三十三天降下」図の図像」『待兼山論叢』第11号(1978年),pp. 29‒48,特に p. 32. なお,肥塚はこの事績を,美術資料の様式に基づき分類してい る。すなわち,釈尊が地上を不在にしたことで,会うことができなかった在家者た ちが,降下地において釈尊を大挙して出迎えたことをテーマとする,バールフトや サーンチー,ガンダーラの幾つかに見られるタイプであり,この事績の根幹を表現 したもの。これに続くのが,比丘尼ウトパラヴァルナーが転輪王に姿を変えて仏を 礼拝しようとすることをテーマとするもの,あるいは,ウダヤナ王が仏像を作らせ たことを表現するもの,などである。この事績を表現した美術資料の内,現存最古 の形式はバールフトのものであるため,肥塚論文によって,上記の内で最初に挙げ たタイプが,「ウトパラヴァルナーの礼仏」や「王による仏像製作」をテーマとす るタイプよりも,この事績の原型に近いことが解る(肥塚,前掲論文,p. 41)。 ⑵ 高田修は,この物語の発展段階を推測し,釈尊が三十三天で説法し,僧迦舍城 の優曇䳠樹下に降下する形(『雑阿』巻十九)を発展の第二段階,そして,第三段 階に属する「降下時に帝釈が自在天子に命じて金銀水精から成る三道の宝梯を作ら
せ,仏は中央の金道・梵天は右側の銀道・帝釈は左側の水精道を通る」(『増一』巻 二十八,他)という形へ移るとする。また,同氏は,現存最古とされるバールフト の浮彫も,既に第三番目の発展段階に達した時期のものと指摘する(高田修『仏教 の伝説と美術』三省堂,1941, pp. 143‒144)。 ⑶ 宮治は「仏伝の場面を四相,五相,八相というように選択してセットにする傾 向はクシャーナ朝のマトゥラー美術に見られ,グプタ朝のサールナート美術におい てとりわけ顕著となる」と指摘する(宮治昭『インド仏教美術史論』中央公論美 術出版,2010, p. 380)。具体的には,マトゥラーの「仏伝五相図」と呼ばれるもの (宮治,前掲書,pp. 332, 382)や,「八相図」と呼ばれるもの(宮治,前掲書,pp. 380‒396)が存在する。また,『根本説一切有部毘奈耶雑事』では釈尊が逗留した場 所についてのリストにも「八所」(T. no. 1451, p. 339a)として含まれる。この「三 道宝階降下」を表現したとされる美術資料と,それらの特徴については,以下の研 究に詳しく記載される。小泉惠英「古代インドの従三十三天降下図─パキスタン・ ザールデリー遺跡出土品を中心に─」『MUSEUM』(東京国立博物館研究誌)No. 598(2005年),pp. 7‒35. ⑷ 本稿で扱うものの他に,比較的短く,この事績を掲載する文献資料については, 次の研究に詳しい。小泉,前掲論文,pp. 8‒9. ⑸ 『雑事』:「諸人久不見佛咸生渇仰。我等願欲奉見世尊。」(T. no. 1451, p. 346a)。 ⑹ 『雑事』:「佛告目連。如是如是。此諸大衆。由彼前身於佛法僧清淨聖戒起不壞信 深心成就。於彼命過得來生此。時天帝釋見佛世尊與大目連有所論説。即於佛前告 大目連。重叙其事。由其敬信三寶清淨聖戒。廣説乃至得來生此。」(T. no. 1451, p. 346b) ⑺ 『雑阿含経』:「佛告目犍連。汝可還彼語閻浮提人。却後七日。世尊當從三十三天。 還閻浮提僧迦舍城。於外門外優曇鉢樹下。」(T. no. 99, p. 134c)。『義足経』:「佛便告 目犍連。汝且下語世間四輩。佛却後七日當從天上來下安詳會於優曇滿樹下… 」(T. no. 198, p. 185b)。『増一阿含経』:「目連。汝還世間。却後七日如來當往僧迦尸國大 池水側。」(T. no. 125, p. 707a)。『雑事』:「爾時世尊告目連曰。汝今可往贍部洲中告 諸四衆。滿彼七日已。佛從天處向贍部洲。於僧羯奢城清淨曠野烏曇跋羅樹邊而下。」 (T. no. 1451, p. 346c)。 ⑻ この訳については,「人道(manussa-patha, 人里)へ行った。」(村上真完・及川真 介『仏のことば註(三):パラマッタジョーティカー』p. 838)を参考とした。 ⑼ テキストの脚注における “B. yāva for nav’ eva”(p. 225 n. 11)という指摘に拠り,
テキストの nav’ eva を yāva に訂正する。
⑽ “eka-aṅgaṇa,” A Dictionary of Pāli: Part I, PTS., 2001, p. 527b.
下時の神変を引用し,四方や上方・下方に存在する世界が開き,人々に見える状 態になった日を「世界開顕(lokavivaraṇa)」[の日]と説明する。bhagavā sakkassa devarañño ārocesi: mahārāja, sve manussalokaṃ gacchāmī ti. devarājā vissakammaṃ āṇāpesi: tāta, sve bhagavā manussalokaṃ gantukāmo; tisso sopānapantiyo māpehi, ekaṃ kanakamayaṃ, ekaṃ rajatamayaṃ ekaṃ maṇimayan ti. so tathā akāsi. bhagavā dutiyadivase sinerumuddhani ṭhatvā puratthimalokadhātuṃ olokesi. anekāni cakkavāḷasahassāni vivaṭāni hutvā ekan gaṇaṃ viya pakāsiṃsu. yathā ca puratthimena, evaṃ pacchimena pi uttarena pi dakkhiṇena pi sabbaṃ vivaṭam addasa: heṭṭhā pi yāva avīci, upari yāva akaniṭṭhabhavanaṃ, tāva addasa. taṃ divasaṃ kira lokavivaraṇaṃ nāma ahosi. (Visuddhimagga, p. 391, l. 36‒p. 392, l. 10).
⑿ 脚注の「如来+意(三)」による補足(T. no. 125, p. 707, n. 15)。 ⒀ “na me diṭṭho ito pubbe icc-āyasmā sāriputto
na-ssuto uda kassa ci
evaṃ vagguvado satthā tusitā gaṇi-m-āgato (Suttanipāta, v. 955).
⒁ 『義足』における釈尊の降下直後に登場する二人の出家者の描写は次のとおり。 「是使無數人民悉來會。欲見佛。欲聞法。是時蓮花色比丘尼。化作金輪王服。七寶 導前。從衆力士兵。飛來趣佛。是大衆人民。及長者帝王遙見金輪王悉下。道不敢 當。前廣作徑路。蓮花色比丘尼到佛所。是時天亦見人。人亦悉見天。以佛威神。天 爲下。地爲高。人悉等。天亦無貪意在人。人亦無貪意在天。時有人貪著樂金輪王。 是時有一比丘。坐去佛不遠。便箕坐直身。意著撿戒。比丘見天樂會亦人樂會。自生 念言。是一切無常。一切苦。一切空。一切非我何貪是。何願是。已是何有。比丘即 在坐得溝港道。已自證。」(『義足』T. no. 198, p. 185c) ⒂ 森章司・本澤綱夫・岩井昌悟「仏伝諸経典および仏伝関係諸資料のエピソード別 出典要覧」『中央学術研究所紀要』(モノグラフ篇 No. 3),2000年,特に pp. 45‒47. ⒃ evam etaṃ ānanda. appāyukā hi bodhisattamātaro honti, sattāhajātesu bodhisattesu
bodhisattamātaro kālaṅkaronti, tuṣitakāyaṃ upapajjantī’ ti. (Udāna, p. 48, l. 7‒9).
⒄ bodhisattamātā sattāhajāte bodhisatte kālaṃ katvā tusitapure nibbattati. (JA, vol. I, p. 52, l. 3‒4)
⒅ dhammatā esā bhikkhave, satthāha-jāte bodhisatte bodhisatta-mātā kālaṃ karoti, tusitaṃ kāyaṃ uppajjati. ayam ettha dhammatā. (Dīgha-Nikāya vol. II, p. 14, l. 3‒5)
⒆ 雲井昭善はその矛盾に言及する。同氏は,パーリ語文献資料を用いて,マーヤー の再生先がトゥシタ天である事例を複数示して後,次の様に述べる。「ところで, ゴータマ・ブッダの母マーヤー夫人が「ボーディサッタを胎内でまもり,身壊して 死後に三十三天で楽しむ」(『テーラ・ガーター』五三四偈)という詩偈がある。三 十三天は地居天に属する忉利天で,その天主である釈提桓因,帝釈天の住む世界で
ある。とすれば,『テーラ・ガーター』の上掲詩偈は,上述した伝承と矛盾するこ とになる。」cf. 雲井昭善「兜率天考」『塚本啓祥教授還暦記念論文集 知の邂逅: 仏教と科学』佼成出版社,1993年,pp. 131‒147,特に p. 136.
⒇ Mahāniddesa で は 次 の 様 に 複 数 の 解 釈 が 並 記 さ れ る。… tusitā gaṇi-m-āgato ti bhagavā tusitā kāyā cavitvā sato sampajāno mātukucchiṃ okkanto ti, evam pi tusitā gaṇi-m-āgato. athavā tusitā vuccanti devā. te tuṭṭhā santuṭṭhā attamanā pamuditā pītisomanassajātā, tusitadevalokato gaṇi-m-āgato ti, evam pi tusitā gaṇi-m-āgato. athavā tusitā vuccanti arahanto. te tuṭṭhā santuṭṭhā attamanā paripuṇṇasaṃkappā arahantānaṃ gaṇi-m-āgato ti, evam pi tusitā gaṇi-m-āgato. (Mahāniddesa, p. 446, l. 29‒p. 447, l. 6). また Pj でも,同様 に解釈が並記される。tattha ito pubbe ti ito saṃkassanagare otaraṇato pubbe; vagguvado ti sundaravado; tusitā gaṇi-m-āgato ti tusitā kāyā cavitvā mātukucchiṃ āgatattā tusitā āgato, gaṇā-cariyattā gaṇī, santuṭṭhaṭṭhena vā tusitasaṃkhātā devalokā gaṇī āgato; tusitā(naṃ) vā arahantānaṃ gaṇī āgato ti. (Pj, p. 571, l. 26‒31).