中世チベットの僧院における梵文写本の蔵書例
―チュン・リウォチェとポカン―
加 納 和 雄
1
.はじめに
インド本土において仏典の梵文原典がほぼ散逸している現状にあって,チベッ
トに伝存する梵文写本
(蔵伝梵本と略す)の価値は,その質と量の点で際立つ.イ
ンド仏教を繙くための資料としてそれらの読解は著しく進展しつつある一方,そ
の由来や伝承の解明は研究の緒に就いたばかりである.同写本群はチベットの近
現代の激動の時代を経て現在はラサに所蔵されるが,大部分は本来チベットの別
の場所にあったもので,後代にラサへと移送されて来たものである.そしてその
由来と伝承の過程を歴史的に る作業はいまだ十分になされていない.本稿は,
下掲の手がかりをもとに,中世のチベットの僧院における梵文写本の蔵書の実情
について探求し,同写本群の伝承径路の一端を明かすことを目指し,その一例と
してチュン・リウォチェとポカンの旧蔵本に注目する.
2
.資料と方法
蔵伝梵本の流伝について知るための手がかりは主に三種ある.すなわち,(
A)
インド等での由来を示す梵文写本の奥書,(
B)チベットでの伝承者などを示す
梵文写本紙表等に記された蔵文メモ書き
1),(
C)チベットの僧院内での蔵書状況
を示す蔵文史料類や調査記録である.このうち(
A)(
B)は写本自体が伝える記
述であるゆえ一次資料,(
C)は写本外部の記述であるゆえ二次資料,と各々位
置づけられ,相互補完的な関係にある.
さらに(
C)は,蔵伝梵本への言及例に限って言うと,その情報の確度に応じ
て例えば次のような三段階に分類することができる.まず記録者自身の経験に基
づく記述が最も確度が高い.それは自伝,日記,巡礼記,調査記録,蔵外注釈
(梵本の異読への言及など)などから抽出される.次いで内弟子など近しい存在によ
る師などの行状の記録類が位置し,最後には,伝聞を重ねて雪だるま式に膨張し
た遠い過去の出来事についての記述が続く
(仏教史中のインドの史的記述など).い
うまでもなく経験者本人と記録者との間にいる介在者の数がその確度を左右す
る.以下,リウォチェ旧蔵の梵本については,(
C)として『ターラナータ自伝』
を用い,(
A)として『親友書簡』梵本を用いる.ポカン旧蔵梵本については,
(
C)として
1930年代の調査の記録
2点を用い,(
A)(
B)として『法法性分別論』
など
3作品を収める梵本
(散逸か)所蔵の梵文奥書および蔵文表書きを用いる.
3
.チュン・リウォチェ旧蔵の梵本
チュン・リウォチェ
(gCung ri bo che)は,ラツェの西北に位置する巨大な仏塔
である.
1386年頃にタントンギェルポ
(1361–1485頃)によって建立された
2).リ
ウォチェ旧蔵の梵文写本に,ターラナータ
(1575–1634)は自伝の中で少なくとも
下記の
2か所(①②)で言及する.
①『ターラナータ自伝』(vol. 2, pp. 15–16): その後,リウォチェから約10帙のインド写本を始めとする幾つかの写本が落手した.ヤルルン翻訳師(Grags pa rgyal mtshan, 1242–1346)
の御本の,『カーラチャクラ大注』(Vimalaprabhā)2部からなる帙を含む,Madhyadeśaに由
来するタントラの写本は,予め私の手中にあったが,この時[新たにリウォチェで]同注 釈の[別本の]一部を入手した.心驚かせ何度も読んだ.両者(既知写本と新出写本)を
併せると,各々智慧が増大した(理解が深まった).[またリウォチェには]Sekoddeśaの注
釈Paramārthasaṃgrahaと,Hevajraの 注 釈Vajrapadasārasaṃgrahaと の2点 の イ ン ド 写 本 が あった3). ②同(vol. 2, p. 19):『親友書簡』(Suhṛllekha)の解説を始めた日,リウォチェから小型帙の インド写本が送られてきた.その中に『親友書簡』の完本もあった.[写本中の各行の]上 下には偈頌毎に追記もあった(蔵文注記か).
上記①は,リウォチェには梵文写本が
10帙以上あり,その中には
Vimalaprabhā,
Paramārthasaṃgraha,
Vajrapadasārasaṃgrahaが含まれることを述べ,②は龍樹の『親
友書簡』の梵文写本の存在を述べる.『親友書簡』は蔵訳と漢訳が伝わるのみで,
梵文原典は散逸したと考えられてきたが,最近梵本の存在が報告された.欧珠次
仁
2018によるとその梵本はデプン寺に現在所蔵され,縦
4.5 cm,横
32 cm,
5葉か
らなり,その書体は
Dhārikāと呼ばれる.このデプン寺現蔵本とリウォチェ旧蔵
本が同一写本であると証明することはできないが,次の
2点においてその蓋然性
は少なからずある.すなわちリウォチェ旧蔵本が「小型帙のインド写本」と呼ば
れ,それがデプン本の短めの横幅
(32 cm)と符合する点,そして『親友書簡』の
梵本は孤本であり,目下,この
1点以外の別本は知られていない点である.
4
.ポカン旧蔵の梵本
ポカン寺は,ギャンツェとシガツェの中間点付近に位置する,シャーキャシュ
リーバドラにゆかりのある古刹である
4).同寺は
1950年代に破壊されたといわれ,
その廃墟およびそこに再建された堂宇が かに名残を伝える.同寺旧蔵の梵文写
本は,
Sāṅkṛtyāyanaの作品リストからその概要が知られる
(Sāṅkṛtyāyana 1935, 28; 1938, 147–163).筆者が
2004年
9月に同寺を訪ねたとき,同寺の現住職
(dbu khri)から,
当時,同寺の古写本も全て
「焼かれた」
(me la gtang)という話を直接聞いた.現在そ
こに梵文写本はない.前世紀後半にはツァン地方の諸寺から多くの梵文写本がポ
タラ宮やノルブリンカに移送されたが,その中にもポカン寺由来の写本は確認さ
れていない.以下には
1934年と
1938年に同寺の梵本を共同調査した
Sāṅkṛtyāyanaの記録
(=③)とゲンドゥンチューペルの記録
(=④)を順に抜粋して和訳を提示
する
5).
③『わが人生の旅路』(pp. 271–272):[1934年]9月22日,我々はロバとラバを入手した. 初めは,ポカンの近くで向こう岸に渡れると考えていたが,その考えは捨てなければなら なかった.それはそれでよかった.さもなくば渡河は容易ではなかっただろう.ポカンは ギャンツェから約23マイル離れており,さらに2マイル半または3マイル山間を縫ってい く道を念頭に入れなければならない.ここには100人程の比丘が住んでいた.私はゴマゼ (ṅomaze)・ラマと既にラサで会っていたので,彼は我々をよく世話してくれた.この寺院 はチベット4大寺院の1つで,ヴィクラマシーラ寺の最後の座主シャーキャシュリーバド ラが滞在したことを聞いた.そのとき(私の滞在時),この寺院は河畔の平地の上に立って いた[が],昔は[別の地に]あったらしい.この寺院は何らかの理由で破壊され,その 後,その派の或る比丘が寺院を今ある場所に再建させた.ここにはシャーキャシュリーバ ドラの三衣,布地の靴,鉢,水差しが保存されていた.(中略)ここには3包みの梵文経巻 があった.そのなかの第1[の包み]には不完全な経典,陀羅尼,ヴィヤーカラナ,そし てアジャータシャトルのカーヴヤが含まれていた.第2の包みは重要だった.その中には2 つの経巻が含まれていた.1つは,サケータ出身のスヴァルナークシーの息子にして,説 一切有部の比丘アシュヴァゴーシャによるDaṇḍamālāであった6).その中には教えに関す るたとえ話もあった.当時,比丘たちは体系的に教えを説くために教育されたようだ.第 3の包みには3つの紙製の小さな経巻が含まれていた.『中辺分別論』『法法性分別論』『現 観荘厳論』である.この寺院は,ラサのクンデリン寺以来,インドから将来された作品を 披見した第2番目の寺院だった.写本目録を作成し数枚の写真を撮った.順に巡りつつ寺 院を見物し,翌日(9月23日)の4時にシガツェに向けて出発した7). ④『世界知識行』(pp. 12–13): ギャンツェから北方へ徒歩で1日程の地に位置する静閑地に者比丘(シャーキャシュリーバドラ)の時代の4大僧院の1つ,Chos lung tshogs paのこと である.かつて峡谷に位置していたが[後に]ここに移転したという.近頃は[そこにあ
る]一つの古堂がmTha dul(ソンツェンガンポ建立の4大僧院)の1つといわれるが事実
ではなかろう.(中略)ここにはインド写本がある.(a)パンチェンの供養の対象の写本と
いわれる『八千[頌般若経]』断片8),(b) 馬鳴作とされるTridaṇḍamālā,(c) 著者奥書を欠
くYongs kyi gtam (= Parikathā). 長 さ5, 幅56(cm) あ る こ の 下 方 にbhikṣudīpaṃkarasya
pustakaṃ(比丘ディーパンカラの御本),つまりアティシャの写本であると記される9).(d)
『現観荘厳論』と『法法性分別論』の写本で[横幅の]短い貝葉に書かれた上質のものがあ る.「ヤツェ(Ya tse)から贈られた」という表題(kha byang)をもつ.シャル寺にもヤ ツェから贈られたといわれるインド写本があるので(下記⑥),法王の系譜中,後世の或 る者は「ヤツェ王」と呼ばれることから,その地はガリ地方の一地域だと思われる.この 2つのインド写本はヴィクラマ暦1370年(西暦1313年頃)に記されたとあるので当寅年 (1938年の再訪問時)までの間1074年10)が過ぎている.(中略)以上,この年(1934年) と後の寅年(1938年)に再びパンディタと2人のインド人を伴ってインド写本の調査ため に来た際にも複数日に亘って広く詳細に調査したので,後先2回の内で見たもの全てまと めて上記した.
③④は,共同調査をした
2人が各々の視点からヒンディー語とチベット語で同
じ調査内容を別々に記録したものである.ポカン旧蔵梵本は,
3つの包みからな
り,第
1が陀羅尼集と文法学作品と詩文作品
(都合131葉),第
2が
Tridaṇḍamālāと
Parikathā(都合172葉)11),第
3が弥勒に帰せられる
3作品からなる紙写本
(都合32 葉)を収める.これらの行方は不明であるが,第
2の包みは,写真版がゲッティ
ンゲンおよびローマに存在する.第
3の包みの奥書は
Sāṅkṛtyāyana (1938, 162–163)の報告によると,
Māgadhī書体
(同1935, 28によるとNevālī),横
8¼,縦
2¼インチ,
紙写本であり,後添えされた表紙には「ヤツェ王によって贈呈された『現観荘厳
論』『法法性分別論』『中辺分別論』在中」
(ya tse bas phul ba i mngon rtogs rgyan | chos chos nyid rnam byed | dbus su mtha rnam(s) bzhugs)というチベット語の表書きがあると
いう.ヤツェとは,ネパール西部の現スルケートに位置していた中世の王国であ
る.スルケートはかつて
Surakṣetraと呼ばれ,まさにその地名が同梵文写本の奥
書に登場する.
⑤奥書: 当『現観荘厳論』と名付ける般若口決論,了.世尊,聖弥勒の作.… 1314年2 月2日12),Surakṣetraにて,王たちの王自在者にして世自在者たる吉祥Ripumalla王(在位 1312–14)の治世下,(中略)本書はŚrījīvadharaによって書写された13).表書きと奥書によると,この紙写本は
1314年にヤツェで作成され,チベット
へと贈呈されたことが知られる.奥書に出るヤツェ王
Ripumallaは敬 な仏教徒
として知られ,ラサのチョカンの尖塔の布施などを行った
14).贈り主は王本人あ
るいはその関係者であろう.一方,その贈り先は不明であるが,その手がかりと
して,シャル・リプク旧蔵の別の梵文写本の表書きを見てみよう.
⑥『世界知識行』(p. 23):『声聞地・菩 地』短い写本,266枚,上質.「ヤツェ(Ya tse)か
ら軌範師ウーセルセンゲにより(od zer seng ges)贈られた」との表題あり15).
od zer seng ges
というテクスト通りの読みを採用するならばウーセルセンゲは
ヤツェ側の送り主と理解される.一方,仮に
gesの綴りを誤記とみなして
od zerseng ger
または
od zer seng ge laといった読みが本来であったと想定しうるならば,
彼は受け手となり,サキャ政権の執政官である
dpon chen職を
2期
(ca. 1315–17,?–1328/29)
務めた人物に比定されうる
(但しその場合slob dponという冠称は不自然か)16).
いずれの読みを採るにしても,ヤツェ由来の梵本の贈呈先が,当時中央チベット
の覇権を掌握していたサキャ政権に縁のある人物であった可能性は十分にありう
る.そしてポカンもシャルもサキャ派に縁の深い寺院である.以上のように,ポ
カン旧蔵の
3包みの内,紙写本
(第3の包み)はヤツェ由来であることが知られた
が,残りの
2包みの由来の解明は今後の課題となる.
5
.おわりに
本稿では蔵伝梵本の由来と伝承の一端を明かすために,例としてチュン・リ
ウォチェとポカン旧蔵の梵本に注目した.前者のインドでの由来は不明だが,
ターラナータが借覧し,その一部
(『親友書簡』)は現在デプン寺に所蔵されている
可能性を指摘した.ポカン寺旧蔵本はその一部が
14世紀に西ネパールのヤツェ
からチベットへと贈呈されたものと知られた.それらは伝播の歴史のごく断片に
過ぎず,その全容は依然不明であるが,いずれ明かされることを期待したい.
1)Kano 2015の稿末の付論参照. 2)沿革はVitali (1990, 123–125)を参照.同仏塔の現状と詳細についてはツルティム・ケ ルサン先生からご教示頂いた. 3)各々東北目録1351番と1186番に対応か.Francesco Sferra氏によると,後者の梵文写本 の紙焼きが中国蔵学研究中心に保管されるという.ターラナータは次のように続ける. 「前者には,ナーローパの名前の出ている奥書そのものがある.後者にはかつてチベットで翻訳されたときに,『カシュミール出身の比丘sNyan grags bzang poの著』とあるが,
chub bzang poの対応語Bodhibhadraとあるので,[同書が]カシュミールのBodhibhadra
のものと同定するのは一理ある.かつてdPyal Chos [kyi] bzang [po](1217/29頃没)が訳
したときの,カチェパンチェン(Śākyaśrībhadra, 1127–1225)のインド写本には,sNyan grags bzang poが著したとある.それだけでなくチャク翻訳師(Chos rje dpal, 1197–1163 頃)とダーナシーラ(12世紀)はまた,ナーローが著作したと承認する.パン翻訳師 (Blo gros brtan pa, 1276–1342)が訳文改訂をなさったときにも同様であったが,別のイン
ド写本にはByang chub bzang poとあるのを直接に見たことがある.別の大学者たちは
皆,ナーローが著作したと認めるが,サキャパンディタはナーローが著したのではない と主張する.いずれにせよ考察の余地があることは確かである.」 4)沿革はHeimbel 2013を参照. 5)①はGotam Liu氏が準備している独訳を参照させて頂いた.②は加納2010参照,英訳 はGendun Chopel et al 2014参照.後者の伝記については星泉・大川健作による和訳と研 究がある.
6)写本自体末尾の奥書はSāṅkṛtyāyana (1938, 160)に翻刻される(samāptā ceyaṃ tridaṇḍamālā (|) kṛtir ācāryasthavirāśvaghoṣasya śākyabhikṣoḥ sarvvāstivādino mahāvādinaḥ).
7)1938年に彼らは同寺を再訪した.同書には次のようにある.「いずれにしても[1938
年]6月27日にはポカン寺に着き,そこに7月2日まで滞在した.我々は非常に多くの文
献とタンカを撮影した.そして,シガツェに戻った.」
8)関連する逸話が英訳Blue Annalsに挿入される.Roerich (1949, 1068): It was said that when the mahā-paṇḍita (i.e. Śākyaśrībhadra) was reciting the text (i.e. Aṣṭasāhasrikā), a crow, a manifestation of Tārā, snatched away some of the pages of the palm-leaf manuscript, and took them away towards the East. These leaves, believed to have been brought by the crow, were discovered at sPo khang, and are now preserved in the monastery of sPo khang.
9)但し「ディーパンカラ」を名の一部に持つ人物は他にも存在する.
10)正しくは625年か.
11)前者は松田和信教授およびJens-Uwe Hartmann教授,後者はPéter-Dániel Szántó博士が 解読を進めている.
12)日付はPetech (1984, 108–109)による.
13)Sāṅkṛtyāyanaによる翻刻は下記のとおり.Sāṅkṛtyāyana (1938, 163, n.2): samāptam idam abhisamayālaṃkārākhyaṃ prajñāpāramitopadeśaśāstraṃ || || kṛtir bhagavata āryamaitreyasyeti || . . . || saṃvat 1370 phālgunavadi 2 sani dine || surakṣetre || rājarājeśvaralokeśvaraśrīriphumalladevarājye || tasmin kāle varttamāne || sakalaprakriyāmvirājambaguroḥ (sic) śrīpaṇḍitamuñjaśrīsyārthe (sic) || śrīvāstavyānvaye ( )yaṃ | śrījīvadhareṇālekhi || 中略箇所は訂正を要する.
14)Petech 1988など参照.
15)nyan sa dang | byang chub sems dpa i sa dpe thung ldebs nyis brgya re drug spus legs | ya tse nas slob dpon od zer seng ges phul bya ba i kha byang can | Deleanu (2006, 53)も参照(ya tseにつ いては別の解釈を示す).
16)Deleanu (2006, 53–54)もこの同定を支持する. 〈略号表と参考文献〉
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rgyud gser gyi thang ma. Sarnarth: Central Institute of Higher Tibetan Studies, 1986.
『ターラナータ自伝』Tāranātha. rGyal khams pa tā ra nā thas bdag nyid kyi rnam thar nges par
gsung 'bum dpe bsdur ma. vols. 1–2. Beijing: Krung go bod rig pa dpe skrun khang, 2008
『わが人生の旅路』Rāhula Sāṅkṛtyāyana. Merī Jīvana-yātrā. vol. 2. Allahabad: Kitab Mahal, 1950.
欧珠次仁2018「略介梵文貝葉経写本《親友書》」『西蔵貝葉経研究』(漢文版)2018: 106–112
(次仁頓珠訳).
加納和雄2010「ゲンドゥンチュンペー著『世界知識行・黄金の平原』第一章和訳―1930
年代のチベットにおける梵文写本調査記録―(1)」『密教文化研究所紀要』23: 63–103. Deleanu, Florin. 2006. The Chapter on the Mundane Path (Laukikamārga) in the Śrāvakabhūmi: A
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(令和元年度科学研究費補助金17K02222, 18K00074, 18H03569による研究成果)
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