• 検索結果がありません。

アメ凶ノカ植民地におりる民主主義ミ民族独立の闘い

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2022

シェア "アメ凶ノカ植民地におりる民主主義ミ民族独立の闘い"

Copied!
39
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

アメ凶ノカ植民地におりる民主主義

ミ民族独立の闘い

( )

111

植 民 地 に お け る 政 治 組 織 と 政 治 的 民 主 主 義 の 運 動 ( 下

l l l

:1

ユ己

私錦︑諸植民地における政治組織と民主主義の闘争

私領諸植民地(メリlランド︑南北カロライナ

ペン

シル

ヴァ

ニア

︑ ニ ュ

i

・ヨ

!ク

PJ1

ン ︑ 一 ュ

l

・ハ

ンプ

シ ニ ュ

i

・ジ

iシI﹀においては︑その政治組織は基本的には同一の型であった︒とれらの諸植民地の領有者

( 同

) H 1 0

}ユ

ゆ昨

日)

たち

ペンシルヴ7ニア植民地のウィリアム・ぺンをのぞけば︑その特許状によって︑

} H

O

︒向

︒ロ

吾川

口出

の権

力を

あた

えら

れた

︒呂

田町

︒唱

︒同

ロロ

岳山

同国

の権

力を

あた

えら

れた

これ

らの

植民

地領

有者

たち

は︑

かれ

らの領土である値比地においては︑実質的には君主でありかれちの法廷からウエストミンスターに上訴されうる判

決に

おい

ての

み︑

イギリス国王に従属していたにすぎなかった︒したがって︑これらの私領諸植民地に樹立された政

治組織は︑当然に︑専制政治だあった︒

けれ

ども

他方

これらの私領植民地の特許状は︑それぞれの植民地の法律と相税とは︑それぞれの植民地の自由人

アメリカ植民地における民主主誌と民族独立の闘い(三)

一一

(2)

アメリカ績民地における民主主義と民族独立の闘い(三)

たちの助言と同意によって制定され︑賦課されなければならないことを規一定していた︒このことは︑植民地人にたい してある腫の立法府を保証したことを意味し︑有力な植民地人はそれをつうじて植民地領有者たちに対抗することが できた︒そればかりでなく︑植民地領有者たちは遠くはなれたイギリス本国にすんでいたので︑代理者をつうじて植

民地を支配せねばならず︑またかれらは︑巴ぷんたちの権力と尊厳とにふさわしい財政的源泉を十分にもっていなか

﹃植民地領有者たちは︑理論的にはどれほど国王に似ていたとしてもいじっさいには王権

のだんなる影にすぎなかった︒﹄そして植民地人には植民地領有者たちの諸特権を蚕食してゆく余地がのこされてい った︒そのようなわけで︑

た︒かくして﹃イギリスの下院が圏王の権力をさえ制限しようと努力したのとおなじように︑植民地人は植民地領有 者たちを骨抜きにしようと努力した︒その結果生じた衝突は︑革命戦争がその当時までまだのこっていたメリiラン

aドとペンシルヴ

7

3ニアの私領植民地の政治にふくまれでいた専制政治の原則を顕覆するまでつづいた︒﹄

すべての私領植民地においては特許状によってあたえられた植民地領有者の巨大な権力は

1

1行政上︑立法上︑司

法上︑宗教上︑軍事主の権力および役人の任命上の権力lは︑植民地の知事によって植民地領有者の利益のために

遂行された︒けれども︑十七世紀の大ていの私領植民地においては︑参事院がもっとも強力な政治的勢力となった︒

参事院の議員は植民地の財産のある上層階級古代表し︑φ毎年その職につき︑政治的技術と地万行政の細部に熟達して

いた︒そしてかれらは︑植民地領有者によってイギリスから派遣された知事やその他の植民地役人の助言者となり︑

これらの植民地役人に大きい政治的彬響をおよぼした︒そればかりでなく︑参事院は︑あとでのべるように︑力の弱 い植民地人がかれらの民主主義的闘争によって獲得した公選の代議院にたいして優越性をもった︒

植局地人が力の使行によって獲得した公選の代議院でさえも︑大多数の植民地において︑真の意味で民主主義的な

(3)

政治機関ではなかった︒なぜならば︑投票権は一般に一定の財産所有者にか

E

られており︑ネグロ奴認はもちろんの

こと︑年期奉公人︑小作農民︑賃金取得者たちは政治への参加から排除されていたからでみる︒けれども公選の代議

院が設立され︑それが法案を提出し︑立法と課視の制定に発言しうる権利をもつことに成功したことは︑植民地の中

小財産所有者の階級に︑かれらが大土地所有者および特権的高業資本家の利益を代表する貴族専制的な参事院に抵抗

しうる政治松闘をあたえたことを意味した︒そして植民地における小土地所有者および小資本家のグループが成長す

かれらの民主主義的要求のための道具をみいにした︒かくして︑大土

るに

つれ

て︑

かれ

らは

この代議院のなかに︑

地所奇者および特権的商業資本家の貴按的専制主義と小土地所有者および小資本家の民主主義とは︑植民地の済済的

および階級的諸矛盾の激化につれて︑たやすく衡突するようになった︒

けれども︑諸々の私領植民地の政治組織とその構成部分

1 1

参事院︑代議院︑立法府︑司法および裁判機構ーーは

これら諸植民地の済済的および社会的諸条件の差異にしたがって︑きわめて多機なニュアンスをもち︑したがってま

た︑貴族的専制主義にたいする民主主義の闘争も︑その内容において︑植民地が乙となるにしたがってことなった︒

たとえば︑奴隷的ブランデーションの発達した南部の私領植民地の闘争と商業的に発展したニュl・ヨーク植民地の

闘争

とは

いちじるしくことなっている︒

そこでわれわれは︑つ日ぎに︑主要な私領植民地における政治組織とこれら植民地における民主主義のための闘争に

つい

ての

べよ

う︒

アメ

リカ

槌民

地に

おけ

る民

主主

義と

民族

独立

の関

い(

コ一

一一

(4)

アメリカ植民地における民主主義と民族独立の闘いハ一ニ﹀

メリ

iランド植民地

一六三二年に国王の特許状によ

ってかれにあたえられた︒この植民地同一六六

O

年のステュアlト朝の復情以前におけるアメリカにおける唯一つの

メl

ラン

ド植

民的

地は

サ!・ジ胃lu‑

カル

ヴァ

lトHパルチモ!ア卿のために︑

私領植民地である︒パルチモlア卿はかれの植品地をじぶんの個人的な所有地とみなし︑それを支配した︒未交付地

の所有者として︑またすべての土地所有者が支払う免役地代の受領者として︑あるいは若干の私的ブランデーション

の一

所有

者と

して

パルチモlア踊はこの植民地における支配的な地位を占めた︒かれは︑じぷんの親戚や友人たちに

土地︑役職および収入をあたえて︑それによって植民地政治の行政部門︑司法部門および軍事部門を掌握していた︒

そして十七世紀のメリlランドの支配階級は︑これらのパルチモlア卿の親戚︑友人︑役人から構成され︑かれらは

植民地領有者パルチモlア卿の利議のために行動した︒したがって︑十七世紀におけるメリlランドの政治は︑本質

的にはパルチモlア卿の寡頭支配であった︒

参事院の議員は通常知事の推薦によってパルチモlア卿によって任命され︑かれらはパルチモlア卿の代理者とし

て知事の行動を監督した︒参事院は千七世紀をつうじて十人ないし三人の議員かぶ構成ぎれた少さい団体であった︒

十七世紀前半のメリlランドにおいては公選の代議院ははっきりした形で設立されていなかった︒というのは︑メリ

iランドの特許状は立法府の性格を明示していなかったために︑立法府の発畏は︑大部分︑自白人および土地所有者

の要求にたいする植民地領有者の譲歩に依事したからである︒したがって︑代議制度の確立は︑それを要求する自由

人および土地所有者の民主主義運動の強さと発展度に依存した︒

(5)

一六

m州ときには︑すべての自白人は

O

年以前には︑知事は法律の施行にあたっては白由人と相談した︒五

HHO円曲目

富田

何回

号ぞ

に召

集さ

れた

︒け

どれ

ζうした直接的な制度はすべてのy目白人たちの

g m

BE

同への出席を不可能にし

た︒なぜなら︑大多数の自由人は直接生産者であったために︑会議の場所へ旅行するための時間と費用はかれらにと って大きい負担となり︑交池の不便はこの傾向を助長した︒その結果︑直接制度は︑会議に出席できない自白人のな かから委任投票制度をうみだした︒けれども︑それは少数者の子中へ多くの被委任権と投票躍を集中させる結果とな

った︒そしてそれは︑結局︑植民地領有者の寡顕支配を強化する傾向をうんだQ

一六回二年にはふたたび直接制度と委任投票制度が復活した︒その後一六五O

年までのあいだは直接制度と代議制度とが交替して採用された︒十七世紀前半におけるメリiランドの政治組織の民

政治権力を多数者のあいだに分散させようとする自由人たちは︑代議制度の確立を要求した︒その結果一六三九年

には代議制度への発展がみられたが︑

王化のこのような前進と後退とは︑いうまでもなく︑この時期におけるメリiランドの政治的民主主義運動の波の寓

低を反映するものであった︒

公選の代議院を確立しようとすゐ自白人たちの要求は一六五

O

年についにパルデモiア卿に代議制度そ承認させる

ことをよぎなくさせた︒かくしてこの時以後︑

リメ

lランドの立法府は恒久的に代議制度を持続するようになった︒

それと同時に︑自由人たちは合同会議におけゐ知事および参事院議員の威圧からまぬがれるために︑

二院制の確立を

要求した︒乙の要求もまた同じ年にみとめられ︑

かく

して

メリ

iランドの立法府は相互に担否権そもつ参事院と代

議院に分裂した︒かくしてヴァlジニアの代議院国富田ゆえ∞ロ晶

2 2

K

似たメりlランドの代議院国

g m o a u m ‑ o m

丹市

叫が

誕生

した

アメリカ椴民地における民主主義と民族独立の闘い(コ一)

(6)

アメワカ植民地における民主主義と民族独立の闘い(三)

O

代議院の確立とともに︑パルチモlア卿と同白人とのあいだに︑政治問題をめヤつてはげしい闘争が生じた︒それ は︑立法にたいする発案権と植民拍領有者の桓否権にかんする問題であった︒パルチモ

iア卿はじぷんの発案した法

案を批准する権限だけに立法府におりる自由人の権限を制限レょうとした︒けれども自白人たちはじぶんたちの発案

権を主張したc両者とも自己の主張をまげな知ったためにゆきずまりが生じたが︑

一六

O年にパルチモlア府はつ

いに妥協せゴるをえず︑代議院は自己の発案による法実を立法府に提出しうる権利を獲得した︒けれども担否権の間 題はいっそう困難であった︒自由人たちは︑知事が臣否権をもっているから︑植民地領有者の桓否権は塵上屋を架す ることになるという理由で︑植民地領有者の桓否権を認めないことを主張レた︒これに訂してパルチモ!ア卿は植民

地領有者としての自己の拒否権を主張し︑かれはこの問題に︑ついてはついに妥協しなかった︒けれども︑法案は︑そ

れが立法府を通過してから十八声月のあいだに痘否されなかったばあいには︑認可されたものとして有効であるとい

う条件を自白人たちは獲得した︒

以上のべたように︑十七世紀前半における自由人たちの政治的民主主義の闘争は︑

メリ

iランドに公選の代議制度

の原則をうちたて︑その他の一連の成果を自白人にあたえた︒それは﹃民衆による政治﹄への一伝一前進をしめした︒と りわけ植民地人は︑代議院の同意なくしては︑租税を課せられることなく︑またかれらの利益に反する法律によって しばられる必要はなくなった︒けれども他方︑立法府の二院への分裂は︑たとえそれが自白人側からのイニシアチブ によっておこなわれたものであったにせよ︑時の経過とともに参事院の強化をもたらし︑参事院に代議院を骨ぬきに する力をあたえた︒そしてメリlランドの政治におけるバルチモ

jア卿の寡頭支配は依然としてつづいた︒かれはじ

ぶんの任命躍の実掘をつうじて公的な政治を支配しうるじぷんの家族の一派をつくりあげた︒

そ し て

(7)

ロ包

括を骨ぬきにするために︑参事院はかれの利益を代表すゐよりぬきの人々かち構成された︒たとえば一六六

RB

九年には︑参i

古墳

院は

三人

のカ

ルヴ

7

ト 1

と︑

一人

のカ

ルグ

iトの義兄弟と︑二人の親友をふくんでいた︒

こうじたパルチモlア卿の寡頭支配にたいする独立の土地所有者の反抗は︑十七世紀後半にいたって︑

一六

O年

から一六八九年のあいだの五回にわたる植民地人の反乱となってめらわれた︒この反乱をびきおこした物質的利害関

係は

メリ

iランドにおいても︑ヴ

7

ジニアにおけると同様であった︒その基本的なものはつぎのものであった︒1

すなわち︑(一)イギリスの重商主義政策によってひきおとさねた煙車価洛の低下︑つ一)同じ原因によって生じた

告計

費の

上昇

︑(

一ニ

)

土地問題︑(四)高い免役地代の徴収︑(五)人頭税と重い課税︑(六)インディアンにたい

する適当な防衛が︑その主たるものである︒ところで土地所有者たちは︑

パル

チモ

lア卿の一派にたいする闘争にお

いて

は︑

C 5 0

0

ロ 己

認 一

2

をかれらの闘争の道具として利用した︒そこでパルチモlア卿は植民地人の

つね

選挙権を制限しようとつとめた︒たとえば︑代議員数を各郡につき二名に制限し︑選挙資格を自由な土地保有者ある

いは

0

ポンド以上の財産所有者に制限した(一六七O

年 ﹀ ︒

こうした植民地人の参政権の制限は︑

出 ︒ ロ 由

︒ ︒ 同

︒巾︼巾

m E g

のなかにじぶんたちの民主政治実現の手段をみいだそうとしていた土地所有者の不満をひきおこし︑かれ

らの反乱の一因となった︒

メリ

lランドの反乱の原因はこのようにグ

7

ジニアの場合と多くの共通点をもっていたが︑しかし︑1

メ リ

lラ

ドでは︑ヴ7luニアにおけるよりも︑大土地所有者主小土地所有者とのあいだの隔りは小さかった︒その理由は︑

ヴ7lpニアでは土地は一六ニ四年以後は国王に所属しており︑木交付地の交付は国主の領土の処分に肖接に個人的

利害関係をもたない知事によって軍大におこなわれた︒これに反レ︑

メリ

iランドでは︑すべての7

氷山

父付

地は

︑土

アメリカ植民地における民主主義と民族独立の闘い(一二U

(8)

アメ

UJ

カ橋氏地にがける民主主義と民族独立の闘い(一ニ)

の販売に収入の主要な源泉をもとめていた植民地領有者パルチモlア卿個人に所属しており︑かれは︑控え目に土地

交付をあたえた︒そのためにメリl

ランドではヴ71ジニアにおけるほとには大土地所有は発展しなかった︒土地所

一 一

一 一

有の規模における差異の小さいことは︑植民地領有者にたいする闘争における大土地所有者と小土地所有者との統一

を容易にじた︒そればかりでなく︑植民地の土地が植民地β君主告の私有地であると事情は︑

バル

チモ

lア卿によって

徴収される免役地代率を高いものにし︑ヴ71ジニアにおりる一

OO

エlカにつき二シリングにたいして︑

メリ

iラ

ンド

では

OO

エlカにつき四シワング吃あった︒かくして︑パルチモ!?J蜘は︑移住民によって求められている未

一次粧品の控え目な交付守所有者として︑またよりす同い免富代の受領者として︑移住民および土地所有者露であ

った

第一回目の反乱は︑ ︒

一六五二年から一六五七年のあいだにメリiランドの歴史に刻みこまれた︒この反乱は︑

一六

四四

年臥

後︑

ヴ7!ジニアの知事バークレイの宗教迫害をのがれてメリ

J

ランドに移住してきたピューリタン移住民

によって精力的におこなわれた︒かれらはメリlランドではなんら宗教上の迫害をうけなかった︒パルチモ1ア卿自

身は熱心なロiマ・カトリック教徒であった︒最初かれはメリ!ランド植民地をロlマ・カトリック教徒の避難地と

する目的で建設したのであった︒けれども移住民を獲得するために︑かれはあらゆ宗派のキリスト教徒に信仰の自

由をあたえねばならなかった︒したがってメリ!ランドではカトリック教徒も︑新教徒も︑

イギワス国教会教徒もひ

としく歓迎され︑とくに一六回

0

年代にはヴプiジニアからのピューリタン移住民の増大によって︑カトリック教徒

の相対的重要性は減少していた︒さらにそのうえに︑イギリスにおける一六四0年代の革命におけるピューリタンの

勝利とクロンウェルのピューリタン支配体制とはパルテモiア卿にいっそうの攻撃をくわ加えた︒その結呆は︑

パル

(9)

モi ア卿によるクロンウェルの支配体制にたいする屈服的な承認と︑すべてのキリスト教徒に宗教的自由を保証した

HCH

巾円

三守

口﹀

角川

件︒

同]

訟も

の公

布と

なっ

てあ

らわ

れた

これらの事情のために︑十七世紀の中ごろには︑メリ!ラン

ドの全人口中︑カトリック教徒の数はわずかに十二分の一をしめたにすぎなかったのに反し︑新教徒の数はすでに四

分の三にたっし︑かれらは信何の自由を章受していた︒

このようなわけで︑

メリlランドに移住してきたピュlワタンたちはなんら宗教上の不満を感じる理由はなかった

のではあったが︑

かれ

らは

ローマ・カトリγ

ク教徒の植民地領有者によって徴収される高い免校地代に不満を感じ

じぶんたちと同じ宗派に属するニュl・イングランドの移住民たらが免役地代というこの封連制度の

7 w

E

遺制にわずらわされることなしに︑自由な土地の保有者として発展していることをよく知っていた︒こうして自由な た

︒か

れら

は︑

土地所有をもとめるピューリタンによってひきおこされた館一回目の反乱は︑

一六五四年

t

五五年のあいだに

T

J チモ!ア卿の知事をその地位から追放し︑植民地の支配を掌握し︑独立した政府をメリ

lランドに樹立するまでに発

展した︒との反乱は一六五七年の協定によっておわった︒この協定は︑パゆチモlア卿の植民地にたいする権限を回

復し︑それと同時にピューリタンにたいする信仰の白由の保証とかれらの土地の所有権の尊重を定めた︒パルチモ

j

ア卿はこの反乱において︑植民地貿易を破壊する植民地内部の紛争の早期の解決を望んでいたロンドン商業資本家か

ら支持をえた︒

第二回目の反乱は一六六

O

年にジ苛シアス・フェングiルの指導のもとに勃発した︒ちょうどこのときイギリスで

はスチュアi

ト王朝が復活した︒パルチモ!ア卿はただらにチャールズ二世の

m即位巻承認した︒反乱の参加者たちは

パル

チモ

i

ア卿の政府を顛覆し︑代議院じよって支配される共和国を樹立しようとした︒けれどもチャ

lルメ二世は

アメりカ植民地におりる民主主義と民族独立の関い(い一一一U

(10)

アメ

リカ

植民

地に

おけ

る民

主主

義と

民族

独立

の闘

い合

一)

乙の反乱を非難し︑メリ!ランド人にパルチモi

ア卿の権威を認めるように命じた︒第二回目の反乱もこうしてふた

たび失敗に終った︒

ヴァ

iジ一一アにおけるベイコンの反引はメリiランドにおける一六七六年の第三回目の反乱の勃発を刺激した︒

六六四年から一六七六年までの経済不況はメリi

ランドの小農民をひどい窮乏におとしいれた︒乙の不況が反乱の原 因となった︒けれどもこの反乱はヴ7!日ど一アとの境界にちかいカルヴ71下部に武装して集ったわずか六十人ばか りの少数の人々によっておこされたものであり︑それは急速に鎮圧された︒二人の指導者

l

iダグィズとペイト│ー

は捕えられ︑処刑された︒この反乱は急速に崩壊したにもかかわちず︑植民地の政府にたいして︑すべての自白人の 参政権と人頭税に代る公平な課税とを約束させた︒けれども政府のこの公約は実現されなかったために︑小農民たち の不満はまえよりもいっそう深まり︑それは一六八一年の第四回目の反乱をひきおこした︒との第岡田日の反乱は第

一一回目の反乱の指導者フェンダ!ルおよびジョン・コiドによって指道一目された︒この反乱もまたパルチモlア卿の軍

隊によって鎮庄され︑指導者の一人フェンダ!ルは煙車一万四千ポンドの罰金刑に処せられ︑

メワ

lランドから追放

されたQ

これらの諸々の反乱は︑植民地領有者の寡頭政治にたいする広汎にゆきわたった植民地人の不満を表現するもので あった︒反乱はいずれも比較的容易に鎮圧された︒けれどもそれは小農民に一定の成呆をあたえた︒免役地代は相変 らず維持されたが︑その率は引き下げられた︒すなわち一六七一年以後免役地代は︑煙車で支払われることになり¥

それは市場価格とは関係なしに一ポンドにつき二ペンスと評価された︒したがって︑小農民は︑

じっさいには二分の

一ペニーしか値いしない位草で二ペンスの免役地代合支払うことができた︒以上要するに︑パルチモ

lア卿の専制政

(11)

治は

これら数度の反乱を比較的容易に鎮圧しうるほどの力をまだもヮていた口けれどもそれは︑八年後には︑よか

大きい日ジョン・コードの反乱に対抗することはできなかった︒楠民地人は︑このときに︑パルチモ!ア卿の専制政治

を顕覆するために一六八八年にイギリス本国で勃発した政治的事件

ll

﹃名

営革

命﹄

1

を利用する機会をはじめ1

てつかんだのである︒この点についてはあとでのベる︒

カロライナ植民地

一六

年代の内乱とクロンウェルの支記は︑北アメリカにおける新横民地の創設に一つの大きい支障をもたらし0四

クロンヲェル支配の

もとでの追放の暗黒時代にじぷんに忠誠をつくしたロイアリスト︑貴族にたいして︑国王の感謝の証として︑北アメ

︐ ‑ * ︑ 為 ︑

'

スチュアiト朝の復活ぽイギリスの新しい植民活動をよびおこした︒チャールズ二世は︑

リカにおける広大な地域をあたえた︒その結果形成された私領植民地は︑南北カロライナ︑

:l. 

ーi

・ヨ

l

ク ︑

ペンシルヴァニアおよびデェラグエア!の他民地である︒こうして︑

一六

O

年のチャールズ二世即・

位につづく二十五年のあいだに︑独立革命当時の十三の植民地のうち︑六つの植民地の基礎がき引すかれた︒

方ロライナ植民地はチャールズ二世によって最初に特許された植民地である︒カロライナ栢民地が他の私領植民地

とことなる点は︑一人の植民地領有者にたいしてではなく︑八人の植民地領有者

i

lアルブマl

ル ︑

カー

タレ

ット

アッシュレl︑

コレ

トン

クレ

イヴ

ン︑

クラレンドンおよびニ人のバークレイ

11

の集団にたいしてあたえられたこi

とである︒はじめのうちはコレトンが有力であったが︑のちにはプッシュレiが有力となった︒カロライナの植民地

領有者たちの利益は︑商業的利益でなく︑むしろ地主的利益に章一点がおかれた︒植民地領有者たらは︑

メリ

lランド

アメりカ植民地における民主主義と民族独立の闘い(三)

(12)

アメリカ植民地における民主主義と民族独立の闘いつ二)

一 一 一 六

のパルデモlア卿と同様に︑土地の販売と免役地代の徴収から収入をあげることを目的とした︒それと同時にかれら

ば︑貴教的一専制政治をアメリカの荒野のなかに移植しようとした︒

カロライナにおける貴族的専制政治の計画は︑一六六九年にイギリスの哲学者・経済学者ジョン・ロックによって

準備された有名な﹃カロライナ基本憲法﹄

( z p E Q m B E E ‑ n c g g Z 2 0 2

え門 町民

︒ロ

E J

にお

いて

表現

され

た︒

それはとくにプッシュレ!胸の貴族社会の構温を具現したものであった︒ζの構屈にしたがえば︑植民地の社会構造

は︑植民地領有者の直臣官

2

ユ ミ e

︑貴

族︑

大土

地所

有者

小土地保有者および農奴から構成されることになってい

︐た︒すなわち︑植民地は一一つの郡に分割され︑各郡は八つの領主の領土と八つの貴族領(宮円

85

と二十四の植民地

( g ‑ s

己からなる︒領主の領土は八人の植民地領有者に一つずつあたえられ︑貴族領はドイツ貴族の称号をもっ一

人の貴族とインディアン尊長の称号をもっニ人の貴族に交付され︑植民地は自由人たちに割当てられることになって

いた︒そしてそれぞれの土地は一万二千エlカの面積とされた︒そレて自由人に保留された植民地においては︑一二千

エlカないし一万二千エl

カの

荘園

がつ

くら

れ︑

この荘園には農奴が聞置されることになワていた︒この計聞にした

がえば︑土地の五分の二が植民地領有者と貴族に属し︑五分の三が他の移住民に交付されるととを意味した︒ζ

の計

回はいうまでもなく中世ヨーロッパにおける封建社会の再生であった︒

﹃カロライナ基本憲法﹄は︑さらに︑右のような封建的土地所有の基礎上にそれに照応して構成される高度の貴族

政治を予定していた︒すべての行政権と司法権は植民地領有者と貴族の手中に集中され︑代議制度は認められてはい

たが︑ぞれは極度に非民主主義的なものであった︒すなわち︑おのおのの植民地領有者は一人の議員を指名するとと

ができ︑各郡は三人の貴族と四人の選出代議員によって代表されることになっていた︒そして五千エ!カあるいはそ

(13)

れ以上の財産所有者だけが自由人の代表者としての資格をもつことができた︒

カロライナにおはる植民地領有者と移住民とのあいだの衝突は︑﹃カロライナ基本憲法﹄を植民地人におしつけて

植民地における賞玩的専制政治を掌握しようとする植民地領有者心努力とこれに反抗する植民地人の反撃となってあ

らわれた︒そしてこの衝突の基礎には土地問題︑免役地代︑課税︑

フロ

ンテ

iア防衛という経済的・社会的諸問題

が横

って

いた

カロライナ植民地が実質的に発展しはじめたのは一六八0年代である︒植民地領有者たちは主としてその注意を南

部にそそいだ︒移住民の数が数百人にしかだっしなかった八

0

年代以前においてはそれぞれ四十八万エIカからなる

郡に封建的土地所有関係を樹立するζとは不可能であった︒ところが八0年代には移住民の数は約二万五千人にたっ

し植民地領有者による士地交付と土地の販売をつうじて少数の大土地所有と多数の小土地所有が南カロライナに発展

していた︒こうした植民地の発展は︑植民地領有者をして基本憲法を実現させようとする機会をかれらにあたえた︒

けれどもそれは小農民と金持ちの柏民地人との側からのはげしい反撃をうはた︒この反撃において小農民と金持ちの

植民地人は統一された︒小農民たちにとっては︑基本憲法の実施はかれらの土地の取り上げとかれらの地位の農奴へ

の退佑を意味した︒金持ちの植民地人はかれらの利潤の主要な源呆である毛皮取引の制限とインディアン奴隷取引の

衰退をおそれた︒八

0

年代における係争はさらにチャールズ・タウンの商人の航海条令の脱法と貨幣で支払う免役地

代を伴う土地交付の問題をぬ?ってつづけられた︒この衡突は一六八五年にもっともはげしくなった︒この時に基本

憲法に同意することを恒絶したという理由によって十二人の議員が植民地の議会から除名された︒かくして一六八八

年に決定的分裂がおこり︑知事は議会を解散レた︒その二年後移住民は反革を開始レ植民地の支配を掌握した︒しか

アメワカ植民地における民主主義と民族独立の闘い(一二)

(14)

アメリカ植民地における民主主義と民撲独立の闘い(三﹀

し一六九一年にかれらの支配は瓦解した︒闘争の結果︑基本憲法は死文佑し︑植民地人は実質的には︑南カロライナ

に貴旗社会の計画を樹立しようとする植民地領有者たちの意図を挫折させるのに成功した︒

すでにのべたように︑カロライナの植民地領有者たちは南カロライナに注意し︑主としてチペiルズ・タウンの移

住地を植民地の中核としてきだために︑

ちになっていた︒したがってこの地方に住民たちは︑ヴァlジニアから移庄してきだ賓しいフロンティlア住民であ

一六

O年

まで

は︑

アルブマ!ル・サウンドより北の地方は放置されたかた

った︒かれらの経済は孤立した小農園における乏しい自給自足の経済であり︑わずかに少量の煙車と毛皮を輸出して

いたにすぎなかった︒ところでこの地方は太洋通いの船舶が寄港しうる港がなかったために︑かれらの輸出品は海岸

ぞいに小さい胞できたニュl・イングランド商人によって買占められ︑

にはこれらフロンティlア住民の輸出品を直接にヨーロッパ市場にむかつて密輸出していた︒したがってかれらは︑

一 ユ

l・イングランド商人は一六七三年以前

間接

には

一六

O年の航海条令の列挙商品の項目の違反にまきこまれていた︒六

北カロライナの係争は︑土地同題︑免役地代および航梅条令︑とくに一六七三年の植民地関税法の諸問題をめぐっ

て展

開さ

れた

一六

O

一年以後は植民地領有者たちは︑アルプマJル北万のカロライナ地万にもかれらの注意をかけはじめた︒け七

れどもこの地万にそれ以前から移住してきていたヴ

7 1

汐ニアからの小農民たちは︑かれらの土地の所有権考ヴ

7 }

ジニアの知事バークレイから手にいれていた︒ところがいまや︑カロライナの植民地領有者たちはこの地方の土地に

だいする要求躍を主張しはじめたために︑小農民たちの以前の所有権が無効となる危険にさらされるにいたった︒そ

ればかりでなく︑植民地領有者たちは同時に︑これらの小農民たちに免役地代の支払いを要求した︒けれども二ハ六

(15)

︒早代後半から七0年代前半にわたる経済不況のために︑煙車価格が急速に低下しつつあヮた小農民にとゥては︑

ζ 

の免役地代の支払いは大きい負担となった︒

もう一つの問題︑すなわち一六七三年の植民民関税法もまた︑煙草価格の底下にくるしむ小農民たちに破滅的な影

響をおよばした︒イギリスの重商主義政策はこの法律によって一つの植民地から他の植民地に輸出される挙列商品に

輸出税を課したために︑北カロライナからニュ!・イングランドに輸出される煙草にたいしても一封度につき一ペニ

ーの関税が課せられた︒この一封度につき一ペニーという税額は︑下落じた煙車の一封度の販売価格に等しかった︒

とこ

ろで

ニュ

l・イングランド商人はこの関税を小農民の屑に転嫁したために︑小農民たちのわずかな収入はほとん

どなくなった︒植民地領有者たちは小農民からのはげしい反対にもかかわらず︑イギリスの植民地役人の御気嫌をと

るために︑同法の実施を主張した︒

こうした小農民たちの不満は一連の暴動となってあらわれたが︑それはついに︑一六七七年

t

七九年の諸反乱とな

って爆発した︒この反乱の指導者は︑

アル

ブマ

iル植民地の建設者の一人ジョージ・デュラントとジョン・クルッペ

ーパ}によって指導された︒小農民たちはじぷんたちの政府を樹立し︑植民地を支配し︑知事トiマス・ミュラーを

投獄した︒知事はこの事件をイギリス枢密院に訴えるためにイギワスに逃亡した︒指導者の一人クルッペーパーに捕

えられ︑本国に送られたが︑かれは無罪として放免された︒そのうちに基本憲法は南カロライナにおけると同様にこ

の北カロライナにおいても死文化した︒そして新しい知事フィリップ・ルlドウュルが一六九一年に南北カロライナ

に就任したときに︑北カロライナの反乱の歴史の第一局面はおわった︒

アメザカ植民地における民主主義と民族独立の闘いつ一﹀

(16)

アメリカ植民地における民主主義と民族独立の闘いつニ)

一 一

一 一

O

C  ニ ュ

l

・ ヨ

1ク植民地

するオランダ人の支配はわずか四十年間しかつづかなかった︒

たいする才ランダ人の支配に終りをもたらした︒チャールズ二世は同り年に特許状を発行して︑

ニ ュ

l

・ ヨ

lク植民地の基礎は二ハニ

0

年代からオランダ西インド会社によって築かれた︒しかしこの地万にたい

一六六四年八月におけるヨiク公の征服はこの地方に

との地万を弟ヨ}ク

公の私領植民地とした︒こうしてニュi

・ヨ

Iク

植民

地は

二ハ六四年からヨ!ク会がひ

zl

ムズ二世として兄の跡

を襲ってイギリス国王の王座についた一六八五年までの︑約二十年間はヨlク公の私領積民地として寄在した︒

ニ ュ

i

・ヨlク植民地の初期心歴史においては︑貴族的専制勢力と民主主義的勢力とのあいだの内的闘争は︑他の

植民地におけるよりも︑

いっそうするどい︑かつはっきりした形をとって語らわれた︒植民地領有者にたいする独立

小農

民の

闘争

は︑

メリ!ランドおよび両カロライナにおける小農民の闘争とかなり比較しうるものがあった︒けれど も

ニ ュ

l

・ ヨ

l

ク植民地はこれらの農業的な南部植民地にくらべて商業的にいっそう発展しており︑とくにニュ

l

‑ヨlク市にははやくも十七世紀において特権的商業ー資求家が発生し︑

かれらは大土地所有者︑皮毛取引大商人とな

らんでこの植民地における支臨階級の一員として︑貴族的専制勢力を代表していた︒

他方

ニュ

l

・ ヨ

l

ク植民地においては︑自分の子工業的辞営をもっ小商品生産者︑小商業資本家︑職人および賃金 取得者の層がかなり広く普及した︒そしてかれらは独立小農民とならんで民主主義的勢力を代表していた︒したがっ て ︑ ニ ュ

1

・ ョ

iク植民地における貴旗的専制勢力と民主主義的勢力との闘争は︑主として封建的な貴族的植民地領

有者と独立小農民とのあいだの闘争であった農業的な南部植民地のそれ忙くらべて︑新しい側面をふくんでいた︒

(17)

一六九一年までのニュl

・ヨ

ーク

の政

治組

織は

イギリス植民地の他のいずれのものよりも︑もっとも非民主主義

的で︑もっとも専制主義的であった︒チャールズ二世の特許状はヨlク公に知事および参事院を指名する権限︑法律

を制定し租税を課する権限︑地万の役人を任命し︑植民地の司法上および軍事上の支配を掌握する権限をあたえた︒

したがってヨl

ク公の植民地における地位は専制君主であり︑わずかに植民地の法律はイギリスの法律と一致せねば ならず︑植民地の法廷からイギリス極密院へ上訴がされうるということだけが︑専制君主としてのヨ!ク公の地位を 制限していただけであった︒そして植民地における実さいの支配は︑不在の植民地領有者が任命した知事やその他の 役人によっておこなわれ︑参事院はこの植民地における貴族的専制勢力の利益を代表する人々から構成されていた︒

ところで︑政治権力を植民地領有者の手中に集中するにあたって︑植民地領有者の利害関係はこの植民地の貴族的 グループの利害関係と一致していた︒まず第一に貴族的グループの一員である商業資本家はニュ

l・ヨーク市で広汎

な輸出入貿易に従事していたが︑かれらはこの植民地の商業を独占し︑それをニュi

・ ヨ

lク市に集中することを希

望した︒ところでヨl

ク公は植民地の貿易に課説し︑それによって植民地から収入をえることを希望していたが︑

うした貿易にたいする関税の徴収は︑この植民地のすべての輸出入がニュl

・ ヨ

iク市に集中され︑植民地の役人が

それを統制することが容易になるばあいに︑はじめて効果的になる︒したがってニュi

・ ヨ

lク市に貿易を集中する

ことは︑植民地商業資本家にとっても︑ヨーク公にとっても︑利益のあるところであった︒第二に︑アルパニーにお ける皮毛取引商人はイロキュオイ族との交易をつうじて巨額な利潤を手にいれていたが︑イロキュオイ族のあいだへ

イギリス勢力を侵透させ︑カナダからのフランス人の勢力を阻止することは︑かれらとヨlク公との一致した利益で

あった︒さいとに︑有利な条件で所有地を手にいれようとするこの植民地の有力者は︑土地の所有者であり交付者で

アメリカ植民地における民主主義と民族独立の闘い(三)

(18)

アメリカ植民地における民主主義と民族独立の闘いハ一二)

あるヨ!ク公に娼びへつらっていた︒

これ

に反

して

ハドソン河下流の流域とロング・アイランドで牧羊および穀物の生産に従事していた小農民︑

L

グ‑アイランドで捕鯨に従事していた漁民︑農産物を加工していた農村の仕事場の所省主︑および農村の単純な商品

流通を媒介していた小商人たちは︑ニュi

・ ヨ

iク商人による商業の独占と︑かれらの同意なしに謀せられ︑植民地

領有者に徴収される貿易への課税にするどく反対した︒さらにかれらは︑じぷんたちが植民地の政治か排除されてお

り︑しかもじぷんたちが発言力をもたないとの植民地の政治は︑不在の植民地領有者とじぷんたちの敵である貴族的

専制一勢力との利益をますます多く代表してゆくものだと憤激を感じた︒かくてかれらはじぷんたちの利益を守ること

のできる代議制議会の設立をつよく要求するようになった︒

けれども専制支配の信念に徹していたヨlク公は︑大衆の力に信頼をおくζとができず︑植民地人に代議制議会を

許可するζ

とを

担み

つづ

けた

一六六四年から一六六八年まではニュi・ヨーク植民地の政治は初代知事リチャiド・ニコラスによっておこなわ

れた︒かれはハドソン河下流の東岸ウエストチェスタlおよびロング・アイランドにニュl・イングランドから移住

してきだ移住民たちの利益を考えて︑

一つ

の法

令を

つく

った

この法令は移住し℃きたニュ!・イングランド人にた

いして一定の宗教的政治的妥協をしめし︑多くの点でニュ1・ヘヴンおよびマサチュセッツの法令を再生したもので

あった︒けれどもこの法令は移住民たちにタウン・ミーティングの恩恵をあたえなかった︒そればかりでなく︑

p法令は︑植民地人がみずから租税額を定め︑裁判官を選出し︑地万の民兵を指揮する権限をかれらにあたえなかっ

ζ︒不満にみちた小長民たちは︑他の民主主義的分子[│小商業資本家︑漁民︑職人および賃金取得者

l !

と共同レ

(19)

て︑民主主義的な代議制度の確立のために闘争をつ守つけた︒じっさいに︑一六六五年以後はロング・アイランドは暴

動にちかい状態に終始していた︒植民地人は租税の支払を担絶し︑抗議文を発行し︑

アジ

i

シ習

ンを

つ︐

つけ

た︒

事の参事院を支配していた植民地の有力者だちもそれを黙認せぎるをえないという状態であった︒

ニゴラスのつぎに任命された新しい知事エドモンド・アンドロiスは植民地人のこの闘争に答え︑かつ賞族的専制

勢力の反対勢力をつくりだす目的で植民地に代議制議会を設立することを計画した︒けれどもこの計画は大商業資本

家たちの反対のために挫折せ︑ざるをえなかった︒

一一

一代

目の

新し

い知

事ト

iマス・ドンガンの赴任とともに︑

ヨー

ク公

は︑

かれの寡頭政治にたいする民主主義勢力の

側からのはけしい反対と抵抗についに妥協せざるをえず︑一六八三年にかれはドンガンに代議制議会の召集を指令し

た︒かくてドンガンは代議員の選挙を命じ︑一六八三年十月にニュ!・ヨiクの第一回の代議院がひらかれた︒ζの

第一回の会議は十五の法律を制定したが︑それらのうちもっとも重要なものは﹃自由と特権の慧章﹄

( = n v m M

込ゆ円︒同

r z

2 8

島司岡山4日目︒

m g z )

であり︑それは︑立法権を知事︑参事院および代議院にあたえ︑参政権をすべての自由

な土地保有者および自由人に拡大し︑各郡による比例制代議計阿を樹立した︒またこの憲章は︑土地所有︑相続︑裁

判手続︑言論と信仰の自由︑法律による裁判にかんする諸原則を樹立した︒植民地領有者ヨjク公はこの憲章を認可

一六八五年花見チャールズ二世のあとを襲ってひェlムズ二世としてイギリス国王に即位し︑それと同する以前に

時に︑私領植民地ニュl・ヨlクは︑王領植民地ニュl

・ヨ

ーク

とな

った

︒植

民地

ム語

句者

であ

り︑

イギリス国王であ

るジ

l

ムズ

二世

は︑

一六八五年に代議院の廃棄を命じ︑すべての立法権をもう一度知事と参事院の手中に集中し

た︒こうしてニュl

・ ヨ

lクの民主主義的勢力が長い執幼な闘争をつうじて獲得したいっさいのものは︑のち一六九

アメリカ植民地における民主主義と民族独立の闘い(三﹀

一 ‑

(20)

アメリカ楠局地における民主主義と民族独立の闘い(三﹀

一三

四 一年にかれらが偉大なライスターの反乱によってそれをふたたび獲得するまでのあいだは︑失われたのである︒それ

ばかりでなくニュi・ヨ!ク植民地は一六八八年にジェlムズ二世の北部諸植民地にたいする絶対主義的な統治体

制であるニュl・イングランド領(ロ

c g

宮古ロえ

ZO

当閉口忠山口

e

に編入され︑知事サl・エドモンド・アンドロi

スの専制的支配下におかれた︒

きて王領植民地となった以後のニュI・ヨークの政治はすべてのこの植民地の支面階級の利益を代表した︒ドンガ

ンは一六八六年にニュl

・ ヨ

iク市の市政委員の︑選出にこの都会のすべての住民の参加を許したが︑かれの採用した

経済政策はニュl

・ ヨ

lクの大商業資本家の利益に答えるものであった︒すなわち︑かれは︑ζの植民地から輸出さ

れるすべての小麦粉はニュl

・ ヨ

iクのタウンでふるいわけられねばならないことを規定した︒ニュ

10

ヨlク植民

地は南部の煙車植民地にたいしてパン植民地としてしられているほどに︑小麦の栽培とこの小麦巻原料にとする製粉

‑業およびパン製造業は︑この植民地におけるもっとも重要な産業であり︑小麦粉の輸出はニュl・ヨlク植民地の輸 出商品のなかで大宗をなしていた︒中部植民地の小農民にとっては︑小麦は︑煙草が南部植民地の小農民にたいして

もつ意味と同様の重大性をもっていた︒

十九世紀の中ごろには年額二億五千万ドルをもっアメリカ第一位の大工業として発展した製粉薬も︑十七世紀にお いては︑まだ︑じぶんの労働と一人あるいはニ人の助手を使用して操業していた小規模な手工業の域をでなかった︒

それは一週間に一

O

バーレルないしニCバーレルの小麦粉を生産あるいは礎割する地方的な産業であった︒けれども

それは︑農村地帯の諾河川の疏域にそって小農喝の経営と符接な接触をたもちながら者実に発展しつつあった︒農民

は一定量の挽賃を支払ってかれらの小麦を製粉してもらい︑剰余の小麦粉を販売していた︒

(21)

とこ

ろで

︑ ニ ュ

l

・ヨ

lク市に小麦粉のふるいわけを独占させようとするドンガンの政策は︑これらの製粉業者お

よび小農民に打撃的な影響をあたえた︒それは︑ニュl

・ヨ

iク市の特権的商業資本家に小麦粉取引の独占をあたえ︑

最民の小麦粉の市場化の道を唯一つに制限した︒商業資本家はそれによって植民地

φ

小麦および小麦粉の全供給を掌

握し︑そしてかれらは収獲設に小麦をもっとも低い価格で買占めることができた︒要するにドンガンのこの小麦粉の

統制は︑ニュ1

・ ョ

I

ク資本家に小麦粉独占をあたえることによって︑小麦の価格をひき下げ︑小麦粉の価格をつり

あげることを目的とした︒

けれども︑さきにのぺた農村の製粉業者のなかには都市の商業資本家に従属することなく︑泊立的な発展の途をた

どってその経営規模を拡大しつつあるものも少なくなかったQすでに(四﹀のニでのべたように︑中部植民地の農村

の製粉業者のなかのあるものは︑製粉所にふるい所を補充してその資本設備を拡大し︑製桶所や粉をつめる仕事場を 付属させ︑さらに︑輸出貿易のための堅ピスケットをつくるベーカリーを兼業する程度に発展していた︒同時にかれ

のうちのあるものは︑水力を年中休まずに利用するために︑製材業︑ポロ粉砕業を兼業するものもあった︒さらにか

れらは︑農民が売らねばならない小麦および小麦粉の剰余を市場で販完する代理人あるいはそれらの買手としてあら

われた︒かくして直接生産者である製粉業者は商人となり︑かれはこの荷人の地位におい℃さらに雑貨庖を経営し︑

外国

商品

を輸

入し

︑ これらの商品を農民の将来の穀物臼交付を当てにして農民に信用で前貸した︒このばあい︑製粉 業者は商業を常みながらすでに産業資本家としてかれの企業を経営していたことはあきらかである︒このことは︑生 産者の一部がみずから資本を蓄積し︑商業を営み︑ときがたつにつれて資本主説的な基礎のうえに︑生産を組織しは

マルクスのいわゆる産業資本発症の﹃現実に革命的な遭﹄が︑十七世紀後半のアメリカ植民地におい

じめ

ると

いう

アメリカ縞民地における民主主義と民族独立の闘い(一二﹀

一三

(22)

アメリカ櫨民地における民主主義と民族独立の闘い(三)

一三

て︑みずからの道をきりひらいていたことをしめすものである︒

とこ

ろで

︑ このようにみずからのうちに産業資本としての性磁を粛芽のかたちで内蔵しなが︑小農民の経済と密接

な接触をたもって発展しつつあった農村の製勧業は一六八

O

年以後とくにめだって成長し︑かれらは相当の資本と地

方的影響を獲得し︑都市の商業資本家の支配下にあるマlチャント・ミル(自

σ E E E 己 S )

にようやく対抗しうる

よう

にな

り︑

かく

てニ

i

・ ヨ

lク商業資本家の小麦粉貿易の独占に脅威をあたえるようになった︒そこで知事ドン

ふる

いわ

けら

れ︑

一六

八一

二年

にニ

1・ヨーク市以外のすべての場所で︑

楠につめられたすべての小麦粉を押収するように郡役人に命じたJ

この

こと

は︑

農村地帯の小農 ガンはニュl

・ ヨ

iク商業資本家の独占を強化するために︑

民︑製粉業者︑賃金所得者に打撃をあたえ︑この植民地の貴族的専制勢力にたいするかれらの敵対をふかめた︒との

衝突の特殊な意義は︑

との衡突のなかに︑萌芽のかたちにおいてではあるがすでに発展しつつあった産業資本と特権

的商業資本との衝突がふくまれていたというζ

とで

ある

︒ ニ ュ

dl

・ヨ!ク商業資本家の独占的地位を強化する目的で知事ドンガンの採用したもう一つの措置は︑

ロン

グ・

イランドの貿易の統制であり︑それは︑ロング・アイランド東海岸の諸タウンを衝突のなかにまきこんだ︒とれらの

諸タウンの移住民たちは︑従来ニュ1・イングランド商人と貿易し

τ

いた

Qところでρロング・アイランドの貿易を独

占しようと望んでいたニュ!・ヨi

クの商人たちは︑知事とその参事をうとかして︑ボストンからロング・アイラン

ドに輸入されるヨーロッパ商品に一

O%

の従価税を課する法律を獲得した︒ボストン商人の船舶はこの法律を無視し

てニ

i‑

ヨーク商業資本家に対抗した︒そこで知事ドウガンはすべてのボストン船舶はその船荷をロング・ライラ

ンドに提供する以前にニュ!・ヨl

ク港に寄潜し︑帰路においても同港じ寄港し︑船荷の検査をうけ︑関税を支払わ

(23)

ねばならないことを規定した︒この法律はロング・アイランド人をしてニュ

l

・ ヨ

lクの船舶と商業資本家に依存せ

ざるをえなくさせ︑

か つ︑

ニ ュ

l

・ ヨ

iク商業資本家が独占的に価格と運賃を定めることを可能にした︒その結果去

したボストンH

ロン

グ・

アイ

ラン

ド︐

貿易

の衰

微は

ロング・アイランドの農民からかれらの農産物と鯨製品とのもつ

ともよい市場を奪いさった︒

知事ドウガンは︑さらにアルパニiの毛皮取引大商人と大土地所有者に一連の特権をあたえた︒一六八八年にかれ

はこの地万の毛皮取引はすべてアルバニーを経由せねばならないことを規定し︑この地方の毛皮取引大商人に毛皮取

引の独占をあたえた︒同時にかれはイロキュオイ族と友好条約をむすび︑このインディアンがフランス人とよりもイ

ギリス人とより多く取引するようにさしむけた︒それと同時にドウガンは︑この植民地の参事および治安判事として この植民地の政治に決定的に大きい役割を果していたハドソン河流域の地主に大面積の土地を交付し︑かれらにいっ

そう大きい政治的地位をあたえた︒

一貫してこの植民地の貴族的専制勢力の利益を代表した︒これに反して小農民 たちはかれの政策の犠牲となった︒そればかりでなく﹃ドウガンの政策はまた小商人︑手工業者および日傭労働者の

このように知事ドウガンの政策は︑

役にたつものではなかった︒ニュl

・ ヨ

lクを植民地の商業港とすることから主じた利潤は︑大部分︑独占的商人の

懐にはいった︑そして貧しい商人や中産の手工業者が手にいれた収入は比較にならぬほど小額であった︒日傭労働者 は小手工業者よりももっと悪い地位にあった︑なぜなら︑ゆれはじぷんじしんの道具をもっておらず︑したがってま

RU 活のために都市の商人にまったく依存していたからである︒﹄

このようにして王領植民地になった以後︑

ニ ュ

l

・ ヨ

lク植民地における政治的および経済的諸条件は︑この植

アメリカ植民地における民主主義と民族独立の闘いつニ)

(24)

アメ

リカ

植民

地に

おけ

る民

主主

義と

民族

独立

の闘

いつ

u

一 一 一 一 八

民地における貴族的専制勢力と民主主義的勢力との衝突をますます深めていった︒そしてニュl

・ ヨ

l

ク植

民地

のニ

ュl・イングランド領への併合は︑ついに一六九一年にライスラ!の反乱を不可避的ならしめるまでに︑との衝突を

決定的なものにしたのである︒

=zI

・イ

ング

ラン

ド領

(巴

︒冨

官向

︒出

︒同

Z04﹃

)

﹃名審草命﹄が植民地の運動におよぼした影響

一六

O

六年および一六六三年の航海条令はアメリカ植民地貿易からオランダ商業資本を駆逐する目的をもつもので

あった︒けれどもこの航海条令によるオランダ商業資本のアメリカ植民地貿易からの駆逐は︑

ニ ュ

i

・イ

ング

ラン

商業資本家に︑オランダ人にかわって西インドおよび南部植民地の市場に進出する機会そあたえた︒また一六六三年

アフワカのブドl酒群島からのブドl酒の直接輸入を許すことによってニュi・イングランドとプドl

酒群島との貿易に支障をあたえなかった︒そればかりでなく︑ニュ!・イングランド商業資本家は︑これらの市場へ の

市場

法は

の進出を機会にして︑航海条令および市場法を脱法じて密貿易をおこない︑これによって多額の利潤を手に入れるこ

とができた︒ところでこうしたニュl・イングランド商業資本家によるイギリスの重荷主義立法の違反は︑かれらと

イギリス本国の商業資本家との対立をふかめた︒南部植民地とは反対に北部植民地は︑その経済的諸条件の特殊性の

ために︑もともとイギワスの重商主義にとって価値のある植民地ゼはなかった︒こうした事情のうえに︑市場問題を

めヤってニュl・イングランド商業資本家とイギリス本国の商業資本家とのあいだの対立がいまや加重されたのであ

(25)

る︒

その

結果

イギリス商業資本家は︑イギリス・オランダ聞の最後の戦争が終ったのを機会に︑マサチュセッツ植

民地をかれらの希望する重商主義的型の植民地にかえゐような強硬な措置を探用することを主張した︒また︑

チャ

l

して

︑ ルズ二世は︑植民地からの追加的収入を手にいれ︑同時に︑かれの絶対主義的権威に植民地人を従わせることを希望 乙のような強硬措置に賛成した︒かくして︑チャールズ二世はイギリス商業資本家の援助のもとに︑

一六

八四

年にかれの計画を実現した︒それは一六八四年のマサチュセッツ植民地の特許状の取消というかたちであらわれた︒

この変佑があるいはかれらに広汎な参政権をあたえるかも知れないというかすかな希望を

もって︑事態の発展を見守っていた︒けれども︑特許状の取消しのあとに樹立された政府は︑自主的政府を希望する マサチュセッツの大衆は︑

これら大衆の期待を見事にv

裏切った︒新しくできた政治組織のもとでは︑知事および参事は国王によって佳命され︑

司法︑行政および立法のすべての権限はこれらの知事と参事の手中に集中された︒そして代議制度はまったく否定さ

れた

絶対主義的専制を植民地に強行しようとするチャールズ二世のこの計画は︑チャールズ二世の王位が弟ジェlムズ ︒

二世によって継承された一六八五年以後に︑いっそう拡大した規模で植民地に実現された︒マサチュセッツの特許状

の取消しの直後に赴缶したジェセフ・ダッドレイの短期間の統治ののち︑新しい知事サ!・エドモンド・アンドロ

l

スが一六八六年に赴任した︒そしてかれの斡任とともに︑かれの支配はマサチュセッツだけでなく︑

一ュ

!・

ハン

シ ャ

iおよびプリマウスに拡大したQ

そし

てそ

れに

つづ

いで

︑コ

︑ネ

クチ

カッ

ト︑

lド

アイ

ラン

ド︑

ニ ュ

i

・ヨ

lク

お よびニュl・ジャlシイlの諾植民地も同様にアンドロースの支配下におかれた︒

ζの全地域が

zzI

・イングラン

ド領とよばれるものである︒けれども︑

これらの地域にふくまれる諸植民地を統一して統治することは︑各植民地の

アメりカ植民地における民主主義と民族独立の闘い(一ニV

参照

関連したドキュメント

存在が軽視されてきたことについては、さまざまな理由が考えられる。何よりも『君主論』に彼の名は全く登場しない。もう一つ

   立憲主義と国民国家概念が定着しない理由    Japan, as a no “nation” state uncovered by a precipitate of the science council of Japan -Why has the constitutionalism

主食については戦後の農地解放まで大きな変化はなかったが、戦時中は農民や地主な

が漢民族です。たぶん皆さんの周りにいる中国人は漢民族です。残りの6%の中には

リカ民主主義の諸制度を転覆する﹂ために働く党員の除名を定めていた︒かかる共産党に対して︑最高裁判所も一九

治的自由との間の衝突を︑自由主義的・民主主義的基本秩序と国家存立の保持が憲法敵対的勢力および企ての自由

ブルジョアジー及び 大地主の諸党派くカ デツト・ブルジョア 的民族主義者・その.. 南東部地方

Q.民営化とはどういうものですか、また、なぜ民営化を行うのですか。