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1960 年代の沖縄の「高校弁論」 ―当時の新聞記事を追って― 稲福 日出夫

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―当時の新聞記事を追って―

稲福 日出夫 一

1999年3月25日、第71回選抜高校野球大会開会式。入場行進曲は、県出身デュオKiroroが歌 う「長い間」。「長い間待たせてごめん・・・」で始まる歌詞である。4月4日、大会最終日、優勝し たのは九州代表の沖縄尚学。沖縄県勢として、春、夏を通じて、初めて全国制覇を果たした。閉 会式が行われようとする時、突然沸き起こったウェーブは相手方スタンドをも巻き込み、何周も 球場内を巡った。その光景も目に焼き付いている。翌日の紙面には、紫紺の優勝旗を手にした沖 尚ナインの写真と、「沖尚 悲願の初優勝」「センバツ大旗きょう海渡る」の大きな見出しが躍る。

その1面の下段「金口木舌」欄は、「準決勝の延長戦をみごと完投したエース比嘉公也投手の 出身地、名護市辺野古公民館でも大勢の住民がテレビ観戦。街の通りには「がんばれ」の横断幕。

海上基地問題では割れ、悩んだが、ヒーローが懸命に奮闘する姿は、間違いなく地域住民の心を 一つにした。横断幕は「公也君感動をありがとう」とある」と記す(琉球新報、1999年4月5日)。「お めでとう」ではなく、甲子園で懸命にプレーする県代表の高校生に、多くの県民は「ありがとう」

という。また、その日の琉球新報「社説」も、「ウチナーが、ウチナーンチュが長く苦しんだ時 代もあった。しかし、もうそういう時代ではない。若者たちはいろんな分野に挑戦し、はばたい て、夢を実現してほしい」と記す。

その後も、沖縄尚学はセンバツで優勝し、さらに、2010年には興南高校が、春夏を連覇した。

その年8月22日夕刻、興南ナインを乗せた飛行機が、鹿児島県大隅半島の上空を通過して、しば らくすると「本日機長を務めております片桐です。興南高校の野球部の皆様、おめでとうござい ます。沖縄県悲願の深紅の大優勝旗がただいまこの瞬間、はじめて本州、九州を離れ、南の海を 渡りました」というアナウンスが流れた。深紅の大優勝旗も27度線を南下したのである。また、

99年に甲子園で県勢初優勝を決めた時も、帰りの機内で「甲子園の優勝旗が初めて沖縄に渡り ました」とアナウンスがあった、と沖尚の比嘉公也が振り返っている。

2010年8月27日の沖縄タイムスは見開き2面を「興南高校 春夏連覇を語る」座談会を掲載して いる。そのなかで、新城和博(ボーダーインク編集者)が「高校野球を語り、味わうことが沖縄 の文化になっていると思う」と語り、さらに「決勝戦は、沖縄中が家族になったような感じだっ た。最近、沖縄は社会的、政治的にいろいろ厳しい状態が続いているが、そういうことをすべて 忘れて、みんなが同じ夢を共有した感じだった」と、当時の雰囲気を伝えている。

私自身、新聞を熱心に読み、スクラップをすることに興味を覚えたのも、首里高校が甲子園で、

沖縄県勢初の1勝をあげた1963年の夏であった。当時、中学1年生であった私は、タイムス、新 報、さらには朝日新聞など全国紙を取り寄せて、せっせと切り抜いていた。68年夏の「興南旋風」

の時は、高校3年。夏季講座などそっちのけで、みんな職員室に集まり応援した。先生方が、「ほ ら、沖縄の高校生でも、やればできる」と誇らし気に僕たちを励ましていたのを覚えている。

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ここでは甲子園の優勝旗ではなくて弁論大会の文部大臣旗が、北緯27度線を南下ではなく北 上した1960年代の高校弁論を追いかけてみたい。

1967年8月2日、「第14回文部大臣旗全国高等学校弁論大会」が琉大体育館で開かれた。「これ まで5連勝をとげ、大会を地元に迎えて張り切っていた沖縄勢は惜しくも6連勝をはばまれ、文 部大臣旗は北緯27度線を渡って本土へ帰った」と翌日の新聞は報じている1

つまり、1962年の第9回大会から第13回大会(1966年)まで、沖縄代表が5年連続最優秀賞を 獲得している。その経緯を紹介する。

先ず、1962年10月14日に鳥取市で開催された第9回弁論大会で金城健一(首里高1年)が、「小 さな力を小さな声々を」という演題で最優秀賞を受賞した。「沖縄の戦後は新しい暗黒への対決 であった。しかし、17年の今もその圧政に耐えています。その力はいつか我々沖縄が祖国日本 の懐に帰ることが出来るという堅い信念からわき出るのであります」。そのためにも若人の小さ な力、小さな声を積み上げ、励まし合って、沖縄の現状を変え、新しい未来を切り拓いていこう、

という主張である。翌日の琉球新報には「海渡る文部大臣旗」という大きな活字が躍っている。「文 部大臣旗が初めて海を渡って沖縄へ行く」(琉球新報、1962年10月15日)。金城も「帰ったら弁 論部を作りたい」と話している。出発前に金城の弁論を指導した平山良明は「今度は、必ず文部 大臣旗をモノにしてくる」と高校長に話していた、という。

その時の「昨年から沖縄が参加したばかりだというのに、もう文部大臣旗を持ち帰るわけで、

実にすばらしいことだ」という審査委員のコメントにもあるように、実は、この連覇が始まる第 9回大会以前にも、沖縄代表が初参加した「第8回文部大臣旗全国高等学校弁論大会」(1961年9 月、岐阜で開催)で、神山光祐(首里高定時制1年)が優秀賞を獲得している。演題は「日の丸 と沖縄」であった。神山は、それから数年後の1964年1月に日比谷NHKホールで開催された「第 10回NHK青年の主張全国大会」にも出場し、「わたしの訴えたいこと」で、三位に入賞してい る(なお、この「NHK青年の主張」については、後にあらためて紹介する)。神山は、続いて、

同年2月に上野の国立科学博物館講堂で開かれた「第11回全国高等学校定時制生活体験発表大会」

では最優秀賞となり、文部大臣旗を獲得した。演題は「私の体験と学校生活」2。彼は、八重山諸 島黒島の出身である。また、地元の中学を卒業して直ぐに首里高校に進学したのではなく「中学 を終えると同時に南洋漁業の船」に乗り込み、台湾、フィリピン、ボルネオなどの島々の近海で 貝の採集の仕事に就いて、家計を助けている。数年後にやっと首里高校定時制に進学することが できたが、その頃の彼は、昼は「琉球大学畜産部の管理人」として働いている。神山は、「第10 回NHK青年の主張」では「私は将来黒島に帰り、島の立地条件にかなった牧畜業の端緒を切ろ うと思います。そして、たくさんの牛を導入して、まるまる肥えた黒島牛をどんどん輸出し、畜 産王国黒島を実現してみたいと思います」と、将来の抱負を述べている3

ちなみに、教育の機会均等や勤労学徒の勉学の場を創設する目的で、沖縄に定時制(那覇高校、

首里高校、那覇商業高校)が設けられたのは、1952年10月からであった。当時の首里高校定時

1  琉球新報、1967年8月3日。なお、同日の紙面には、「教育権返還はできぬ―米国務省当局が態度表明―基地引き上げ計画もない」

という見出しで、「沖縄問題懇話会が答申した教育権の分離返還構想について米国務省当局は「二人の主人が沖縄を統治するような 権限の分割には賛成できない」―との態度を明らかにした」という毎日新聞ワシントン特派員の報告も掲載されている。

2 当時、首里高定時制3年であった神山の発表原稿は、養秀同窓会編『沖縄の教育風土記』(1971年)に収録されている(323-325頁)。

3 佐藤卓己『青年の主張―まなざしのメディア史』(河出書房新社、2017年)117頁、参照。

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制の「生徒は年齢的には幅があり16歳から34歳位であった。それぞれ相当な職を持ち月収は教 師や主事よりも多いのもいた」という。離島やへき地出身者も多く、当然、学習意欲も旺盛であ る。当時の定時制の生徒像の指摘には、虚を衝かれる思いがした。「学校ではPTAを組織した が生徒自身がPの会員で、したがって予算決算も一応生徒総会にはかってからPTAの評議員会 にかけたのである。家庭の経済をにぎっているのも生徒であったからである」。4

「第9回文部大臣旗全国高等学校弁論大会」で最優秀賞を受賞した金城健一からみれば、学年 差では1年先輩にあたる神山光祐であったが、おそらく年齢は数歳上であったと思われる。神山 について、後年、新聞紙上の座談会で司会者から首里高校弁論部の歴史を聞かれた金城が、こう 語っている。

「弁論部の歴史はいまOB会長をしている神山先輩なしには語れないと思っています。こんど 中今君の優勝で “4連勝” がクローズアップされました。その4年前に私が優勝への突破口を開け たということで先駆者といわれているのですが――。ぼくの優勝は神山さんの前歴なくしては考 えられないのです。(略)[1961年の第8回文部大臣旗全国高等学校弁論大会に出場した神山は]

沖縄からの初参加で、みごと2位という成績を収めました。同じ年に平山先生は全日に移られて、

翌年ぼくが出場となり、神山先輩に、いろいろ教えていただきました」。そして、神山先輩から の「絶対にだいじょうぶだ」との励ましに感激しつつも、平山先生からは「昨年は2位だ。今年 は1位以外は歓迎されないぞ」と言われ、きつい思いをしたこと。「チキショウ、神山先輩はな ぜ2位なんていい成績をとってくれたんだろう」と荷の重さに悩んだという大会に向けての心境 を率直に述べている(琉球新報、1965年12月2日)。

なお、金城健一は、3年生に進級した64年の8月1日に兵庫県で開かれた「第10回総理大臣旗 全国高校弁論大会」でも「忘れられゆく島」の演題で最優秀賞になり、総理大臣旗を沖縄にもた らしている。その内容を少し紹介すると―。彼のもとに、本土のペンフレンドから或る時、高校 生向けの雑誌『蛍雪時代』(旺文社)が送られてきた。そのことは、もちろん嬉しいのだが、添 えられた手紙に失望し、淋しい思いがしたという。そこには「英語のページがないのは残念です が、沖縄の人でも戦前に教育を受けたおとなたちや学校にいっている人たちならじゅうぶん日本 語を解釈できると耳にしましたし、君の例でも僕たちは日本語で文通しているので、こんど送る

『蛍雪時代』の読解もわけないと思います」と書かれていた。それに対し、金城は、いまさら「日 本人として教育を受けています」なんて改めて言えやしない。当たり前のことを言う必要もない、

『蛍雪時代』は沖縄の書店にも積まれている、と反感を持つ。しかし、そうしたことにくじけず に勇気をもって、この「忘れられゆく島」の実情を本土の高校生に知らせていこう、というもの である。同時にまた、その日の新聞には、確かに沖縄の高校弁論は不思議なくらいうまいのだが、

「題材の特殊性」、沖縄の特殊性だけに頼ってはいけない、といった審査委員のコメントも紹介さ れている(琉球新報、1964年8月2日、5日)。5

4 前掲、『沖縄の教育風土記』、321、322頁。

5  金城が、この「忘れられゆく島」という演題で熱く訴えた数日前に、おそらく同じ年頃と思われる大城実が、「日本は祖国か」と いう見出しで、新聞の「声」欄に投稿している。少々長いが全文、紹介する。「日本帝国の教育をうけたおとなは平気で日本のこと を祖国とよんでいる。そして、再び日本の領土になることを望んでいる。そして信じている。その思想を、敗戦後生まれた僕らにさ えたたきこもうとしている。しかし、僕らはその祖国日本論を信ずるわけにはいかない。/僕たちと、おとなとの、対立は次のこと で解ると思う。/ 1963年に、沖縄に、文部大臣が来島した時のことだった。日本帝国教育を受けた教師が、「全員必ず、日の丸の小 はたをふらなければならない」といったので、A君は「ふる意志のない人も?」と、聞くと、教師は、“むろん” と答えた。それで、

この問題をホーム・ルームにかけようという意見がB君から出た。さっそく討議した。まず、A君の発言があった。/A君「歓迎と いうものは、人に強制されるものでなく、自己の信念でやるべきものだ」このA君の意見に75%の人が賛成した。/しかし、教師は

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さて、「第10回文部大臣旗全国高等学校弁論大会」は63年8月17日、北海道で開かれ、西平悦 子(首里高1年)が最優秀賞を受賞。2年連続、文部大臣旗が「N27」を南下した。演題は「こ ろんだヒューマニズムのなかから」。しかし、その日はまた、泊港から久米島に向って航行して いた「みどり丸」が遭難した日でもあった。翌18日以降の新聞紙面は、連日、この戦後沖縄海 難史上まれにみる惨事を報道している。明るいニュースとしては、先にも少し触れたように、そ の4日前の8月13日、甲子園で首里高校が、沖縄県勢として念願の悲願の初勝利をあげ、沸き立っ たことである。

さらに、64年11月21日、大分市で開催された「第11回文部大臣旗全国高等学校弁論大会」では、

佐久真曙美(首里高1年)が、「この炎をたやさないで」で最優秀賞を受賞。三度、文部大臣旗 が沖縄へ渡った。この炎とは、その年に開催された東京オリンピックの聖火のことである。この 聖火が沖縄を通過する時、日の丸を掲げて迎えたが、沖縄ではこれを米兵が引きずりおろすといっ た問題が起こった。しかし、聖火は平和の炎である。これを迎える時、日本人としての実感を新 たにした、その感情を通じて沖縄の実情を訴える、という内容であった(琉球新報、1964年11 月22日、25日)。

続いて、65年11月21日、千葉県で開かれた「第12回文部大臣旗全国高等学校弁論大会」で、

中今哲(首里高1年)が最優秀賞を受賞した。演題は「祖国への道は遠かったが」。そのなかで、

中今は、その年8月に来沖した佐藤栄作首相が、デモ隊に取り囲まれ、宿舎に帰ることができず 基地内でその夜を過ごしたこと、現在の沖縄がベトナム戦争への出撃基地になっていることなど に触れ、後半部では畳み掛けるように主張する。「私たちは、日本国民として、日本国憲法の下に、

基本的人権が擁護され、社会保障の適用も受けるべきでありますが、これさえなされていないの です。(略)日本国憲法を適用することにおいてのみ、沖縄問題の解決の道はひらけるのです。私は、

日本政府が、沖縄の祖国復帰日程表を一日も早く作るよう、強く訴えます。祖国への道は遠かっ たが―。私たちは、祖国をもたないみじめさを味わっているがゆえに、さらに国連に訴えてでも この手で祖国をつかむまで、勇気をもって訴えつづける覚悟であります」。大会翌日の新聞は「首 里高が4連勝飾る 全国高校弁論」と大きな見出しをつけて報じている(琉球新報、1965年11 月22日、23日、28日)。

中今哲が中学1年の頃、同学年であった国場秀夫君が、那覇の泉崎交差点で、青信号で横断歩 道を渡っていたにもかかわらず米軍用トラックにはねられ亡くなるという事故がおきた(1963 年2月28日)。しかも、軍事法廷では「夕陽のため信号がよく見えなかった」という米軍人運転 手の不可抗力を理由に無罪となったのである。この「国場君事件」にもみられるような、そうし た不条理に対する強い疑問を抱えて、中今は、首里高校時代、後に人権派弁護士となった同級生 の板井優とともに、当時、沖縄の人々の権利擁護に心血を注いでいた弁護士の知念朝功(後に屋 良朝苗主席時代に副主席となった)にも会いに出かけている。なお、今年4月、県内紙の「ティー タイム」欄に、国場の上山中学校の級友であった宮城清志が、「国場秀夫君を忘れない」と題し

教職員会の決定だからといい意思のない人も、旗をふりにいけと命じた。/旗ふりに参加しなかったA君と意思を同じくするもの5 人は、補導室でバットでなぐられ3日間休んだのち学校に出てきたが、まだ少々びっこをひいていた。/新聞報道は、さも、本心から、

生徒がはたをふったというふうにかいていた。/なぜ僕らは日本祖国論を認めないのか、僕らが今日成長するまで日本の恩恵を経済 的、あるいは精神的にうけたであろうか。/民族の団結というが、その思想は、未来あるわれわれにはせますぎる。日本が祖国とい う、資格も義理もない。僕らがおとなになるころは、日本祖国論など、きけないだろう。もっと、大きな思想を僕らは得るだろう。」

(琉球新報、1964年7月27日)。それに対して、数日後の8月4日、5日の新報「私の意見」欄に「復帰運動のあり方と戦後世代の反発 について」「民族的誇りを持とう」と題して、二日にわたって壺川与志が長文で応えている。

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た文章を載せている(琉球新報、2019年4月29日)。

「首里高校  栄光の背景」「全国高校弁論大会4連勝の足跡」との見出しで新聞の1ページ全面を さいて掲載された座談会のなかで、首里高校弁論部顧問の平山良明が、弁論の指導方針について 自ら語っている(琉球新報、1965年12月2日)。6

司会者から、練習から大会出場までの指導方針を聞かれた平山は、こう答えている。

「校内優勝が決まったらまず同じテーマで時勢に合わせた原稿に書き直させます。クラブ全員 あるいは私と代表とで、いろんな問題をあげて、あとは本人に任せます。本人が決定すると、原 稿作りにかかりますが、できるだけ多くの資料を各方面から探させます。足りなければ、どこに いけばどんな資料があるかを教えてやってなお捜させます。金城も西平もずいぶん歩きました。

(略)そして不必要なことは切り捨て、煮つめさせ7分間の原稿に仕上げさせます。できあがっ たときに、はじめの原稿とはまったく違った別のテーマになっていることもあります。中今の場 合がそうでした。とにかくよく考えさせ、自分の全人間で訴えるものにまで高めさせるために苦 しませるわけです。文章はすばらしいとはいえません。本人に話させてみて僕の胸を打つときは じめて、これでいこうと決めます。(略)練習もできるだけ演壇に立たせ、クラスや部員の前で ヤジを受けさせます。このあたりでできあがったと思ったら一字一句も変えません。(略)例年 鹿児島で1泊しますので、早朝西郷さんの像の前でやらせます。約50メートル離れた所で、50 人の聴衆が集まるまで何時間もやらせます。だいたい朝の5時ごろから11時ごろまでかかります。

それですべて完成です」。

さらに、選んだテーマ、沖縄の特殊事情のアピール効果について問われた平山は、真正面から、

こう切り返している。

「特殊事情のために他の府県よりも有利かどうかと、最初はいろいろ検討しました。自分の生 活環境、自分自身のビジョンを失ったときに弁論はないわけだから、そういう問題を高校生とし て取りあげることは実に好ましいという結論に達しました。本土は本土なりに基地問題があり、

ベトナム、日韓問題といろいろあるわけです。しかし、われわれは条約第3条だけを売りものに しているのではない。戦争の残していったものばかりを売りものにして勝っているのなら、それ はどこかのギブミー政治家と同じだ。われわれは、特殊事情で有利になっているのではない。問 題解決への糸口を求めての努力こそ本質的なもので、テーマそのものは問題にならない。だれで

6  ちなみに、日本の弁論の歴史において、1909年に「大日本雄弁会」を設立した野間清治の果たした役割は大きい。「講談社」の正 式名称は、かつては「大日本雄弁会講談社」であった。ところで、その創立者である野間は、首里高校の前身時代に、そこで数年間 教佃をとっている。首里高校の前身は県立第一中学校、さらには沖縄県立中学校まで遡ることができる。県立中学時代の話であるが、

明治36年頃から42年頃まで国語、漢文の教師としてそこに赴任していた野間清治は、国定忠治と同じ群馬県の生まれである。野間も、

その頃からすでに、講談や浪花節などを愛好していた。里見八犬伝の話も得意で、当時県立中学校の生徒であった徳田球一との思想 的確執が学内であったともいわれている。島袋光裕が述懐している。「後に『大日本雄弁会講談社』(現在の講談社)の社長になった 野間清治氏は国語、漢文の担任教師であった。鼻の下にチョビひげをつけ、ワイシャツもネクタイもつけず、肌着にすぐ上衣をひっ かけて教壇に立つほど、この人は蛮カラ風であったから、式典や祝祭日にフロックコートなどを着てくると、生徒たちが手をたたい てひやかしたものである。野間氏は、肝心の国語、漢文より、宮本武蔵、真田幸村などの講談を聞かせるのが性に合っているようす であった。話そのものがすごくドラマチックで、国語の点が悪い人でも講談になると耳を傾けた。野間氏は、出版会社をもってから、

豆本といわれる講談ものを数多くだしているが、やはりそういうものが好きだったのだろうか。私は在学中から剣道をやるようになっ たが、好きになったのも野間氏に影響を受けたからである。この人は剣道の達人であった」。島袋光裕『石扇回想録』(沖縄タイムス 社、1982年)、25-26頁。おそらく、島袋光裕とは肌が合っていたと思われる。なお、野間が離沖し出版業を始めた際、教え子たち から贈られた泡盛が百年古酒となった話が紹介されている(上野敏彦、沖縄タイムス、2014年4月23日)。また、野間の孫にあたる 野間佐和子が、沖縄の子どもたちの読書運動に力を注いでいたことを喜納勝代が伝えている(琉球新報、2011年4月19日)。

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も沖縄問題をやりさえすれば勝てるという考えがあるなら、今すぐ反省してほしい」。

1966年6月11日には「第3回全日本高等学校優勝弁論大会」が大阪市立天王寺商業高校で開か れている。「沖縄にたいする生徒の関心が高まってきたため、ことし初めて沖縄から特別弁士を 招待した」といわれるその大会に特別招待を受けた稲福幸男(首里高3年)が、この大会参加者 の「1位の504点を上回る519点」という最高得点を獲得して、「弁論首里高の貫録を示した」と いう(琉球新報、1966年6月12日、14日)。演題は「日の丸」。そのなかで彼は「戦後20年、沖 縄を米国の人質として独立した日本は、息子の小さな叫びさえもアメリカに要求できないので しょうか。本土では日の丸といえばすぐに、保守や右翼を連想しますが、異民族支配20年とい う沖縄ではゆるぎがちな心の大きな支えであり、また暖かい母のやさしいまなざしでもあるので す」と語りかけ、最後に「日本政府よ、われわれの足かせ、条約3条を取り去ってほしい。そし て空にはためく日の丸を見せてほしい」と訴える。

同じく66年の8月1日に兵庫県で開かれた「第12回総理大臣旗全国高校弁論大会」で、我喜屋 蓉子(首里高3年)が最優秀賞となり、総理大臣旗を2年ぶりに沖縄に持ち帰った。演題は「そ こからは道はないのでしょうか」。沖縄に駐留する軍人一家との交流を通して個人的にはヒュー マンな関係が構築できるにもかかわらず、自治権は奪われ、県民の願いである主席公選さえ実現 されず、「この頃では、沖縄住民の最後のトリデである裁判権さえ奪われている」現状。「そして、今、

このようなことをみんなの前で公表するだけでも、将来、私たちが本土の大学へ進学するときに なって、なんの心配もなくパスポートがおりるかしら、とさえ、ふと一抹の不安が心の片隅をよ ぎるようなこの頃の沖縄です」と訴える。「沖縄に祖国があるか、日本が沖縄の祖国か―。祖国 とはいったいどのようなものなのだ。沖縄は祖国を欲していても、祖国はわが子を必要としない のではないかということです。日米外交の中間にあって、いつもたらい回しにされる沖縄―。主 人に飼いならされたある生き物の、さらにその足にすがりついていく沖縄島が、最も不幸な姿に うつるのです。(略)みなさん!いまの日本政府の態度からすれば、もはや、沖縄に祖国はない のかもしれません。一切の沖縄の不幸の根源、サンフランシスコ平和条約第3条、私たちはこの クサリからのがれる道はないのでしょうか」(琉球新報、1966年8月3日)。

当時の米国民政府と沖縄の関係を、継母・継子、里親・里子関係になぞらえ、「祖国日本」という「本 当の親元」へ帰ろう、という「復帰」のはなしは、私たちの子供の頃、よく学校で先生から聞か されたものだった。橘高祐(全国高校弁論連盟理事長・日本弁論連盟会長)のコメントを紹介する。

「沖縄は優勝候補だと大会のたびにマークされている。熱の入った弁論には本土の弁士も大いに 啓発されねばならない。沖縄の場合、特殊性ということがたびたび指摘されるが “玉も磨かなけ れば、ただの石だ” というように、その努力を高く評価している。私たちは、ともすれば沖縄に 同情しがちで沖縄病に半分かかっているようなものだが、こと弁論にかんしては一切の同情は禁 物で全力をあげて戦っている。今後の課題はむしろ私たちの方にあるようだ」(琉球新報、1966 年8月5日)。さらに同年8月26日に琉球新報に掲載された橘高祐の論稿によれば、65年に全国高 校弁論連盟と日本弁論連盟の沖縄支部が発足し、前者の支部長に首里高の平山良明教諭、後者の 支部長には八重山高校の大城勲教諭が就いた、という(大城勲については、後にまた触れる)。

1967年7月23日に兵庫県で開かれた「第13回総理大臣旗全国高校弁論大会」でも宮城悦子(首 里高2年)が優勝し、総理大臣旗を持ち帰った。演題は、祖国復帰の問題を高校生の視点で、「沖 縄問題を、他人事としてではなく日本人一人ひとりの問題として捉えてほしい」と訴えた「与論 島をすぎれば」。「“栄冠” 三たび沖縄へ 『復帰』テーマに」との見出しで報じた翌24日の新聞記

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事に目を通すと、この大会と同じ日に、この年4月に誕生した「沖縄芸術座」の第1回作品「夕鶴」

の公演が琉球新報ホールであったことがわかる。もとより木下順二の作品で演出は国吉健勇。ま た、その2日前の7月21日、大城立裕の「カクテル パーティー」が芥川賞を受賞している。

時間を1年遡って、1966年11月20日に広島県で開催された「第13回文部大臣旗全国高等学校 弁論大会」。この大会では、前原高校2年の名護昌美が、演題「家庭からの非行」で最優秀賞を 獲得し、沖縄勢が5年連続して文部大臣旗を持ち帰った。彼女は、弟が数名の同級生から受けた 暴力事件から説き起こして、「家庭、学校、そして社会が非行児増大の責任を押しつけ合っている」

現状を問題視し、あたたかい家庭を築きあげることが、非行児をうむこともなく、平和な社会を つくることにつながる、と主張した。翌日の紙面は「全国高校弁論大会 沖縄代表が5連勝」と の大見出しで、「首里高校の第9回大会からの4連覇に続いて沖縄代表は5回連続で最優秀賞に輝 き “弁論沖縄” の名を名実ともに不動のものにした」と記す7

名護昌美という名前に、私は、演劇集団「創造」第40回記念公演で配布された冊子『改訂版  タンメーたちの春』で出会っている。

中里友豪の「平良川のことなど」と題したエッセイが、その冊子に収録されている。それによ ると、中里は1960年に教職に就いたが、初めての赴任校は具志川中学校であった。彼の最初の 教え子たち、たとえば照屋寛徳や名護宏明といった子どもたちとのエピソードを紹介するなかに、

名護昌美のことも記されている。

「名護昌美という小さくてかわいい女生徒がいた。彼女はいつも親しく話しかけてきた。同僚 と卓球を楽しんでいるとき、「先生、早くテストの採点をしてください」とぼくの尻を叩くこと もあった。その彼女、前原高校に進学して弁論をはじめた。あるとき、大会があるということで ぼくの指導を受けに来た。自分の学校の先生にお願いしたらいいじゃないかと言ったが聞かな かった。それで二、三回指導した。結果、全琉で優勝した。今度は全国大会があるということで また、指導を受けに来た。そのときはこっちも少々熱が入っていた、かもしれない。そのせいで はないだろうが、なんと全国で優勝してしまった。次に彼女が来たとき、ニコニコしているかと 思ったらまったく逆で、今にも泣きそうな顔をしている。訊くと、学校では優勝パレードをする という。彼女はそれはイヤだと拒否しているらしい。どうしたらいいか。そこへ城間(?)とい うやさしい感じの教頭先生が見えて、説得してくれるようにぼくに頼んだ。全国一というのは初 めてのことで、大変名誉なことだろうから、学校の顔を立ててあげたらどうか、とぼくは言った。

パレードは行われた。ぼくは彼女の感性を踏みにじってしまったのではないかと、後々まで悔い が残った」8

中里のこのくだりが印象に残っていて、60年代の高校弁論大会の沖縄代表を追いかけている 際、思い出したのであった。2018年10月に記されたこのエッセイには、「中学で4年、中農で7年、

計11年間、ぼくは平良川で、一人で間借り生活をしていた。思い出すこと、思い出したくない

7  また、招待校として出場した伊佐川真弓(首里高3年)も優秀賞(演題は「原爆ではなかったけれど」)を得ている。「沖縄の二人 の弁士は群を抜いたできで、いずれも甲乙がつけがたかった。(略)文句なしで5連覇の実力を目のあたり見せつけられた感じだ」と いう足立審査委員長の談話も紹介されている。また、前原高校弁論部顧問の宮里朝善の記した初優勝の所感によると、宮里は、その 年の4月から顧問を引き受けたようで「シロウトの私がはいると、部員が一人もこなかった」という(琉球新報、1966年11月21日、

22日、12月1日)。

8 又吉英仁編『改訂版 タンメーたちの春』(2018年12月1日発行)、78,79頁。

(8)

ことも、今ではすべて懐かしい」という一文も挿まれている。

中里は、平山良明が琉大を卒業する前年の1956年に琉大に入学している。その翌年から『琉 大文学』に創作の発表の場を求め、精力的に活動した。平山も『琉大文学』に幾首もの短歌を発 表している。また、中里が沖縄県高等学校演劇連盟を結成して理事長になったのは、「1965年ご ろだったと思う」9と、みずから記している。ところで、中里友豪といえば劇団「創造」というこ とになるが、「創造」は1961年に発足した。中里が大学を卒業し教職に就いた翌年、ということ になる。

ちなみに、この冊子には大城貞俊の「寂しき勇者―中里友豪の文学的営為」と題する論評も収 められている。短編ながら、中里の心象風景を窺い知ることができたように思う。

「中里友豪は右手にペンを持つ寂しき勇者だ。左手には様々な荷が乗っている。その中で最も 大きな荷は沖縄だ。沖縄戦の記憶が伻り、米軍基地が暴れ、日本国家が透視される。沖縄で生き る人々の苦難の歴史が走馬燈のように揺らめいている。中里友豪はこれらのいずれにも顔をそむ けず対峙する。たとえ必敗の闘いであれ果敢に挑んでいく。ペンは時には詩や評論の言葉となり、

時には脚本家の言葉となる。また、時には舞台で肉体を駆使する役者になり、若者を鼓舞する教 師にもなったのだ」。

このように中里論を書き起こした大城は、次の一文で締めくくる。「困難な時代の中でも世界 を震撼させる「一つの言葉」「一つのフレーズ」を求める旅、これを探す寂しき勇者、それが中 里友豪だ」10

話を戻すと―。これまでの新聞記事を追うなかで窺うことができるように、沖縄の高校弁論が

「弁論沖縄」と全国で知られていくことに応えるかのように、「第14回文部大臣旗全国高等学校 弁論大会」は1967年8月2日、沖縄で開催された。先にも少し触れたが、この沖縄大会の直前(67 年7月23日)に兵庫県で開催された「第13回総理大臣旗全国高校弁論大会」で、首里高2年の宮 城悦子が優勝している。そうした勢いもあってか、この沖縄大会は、開催前から連日「6年連続 優勝を目ざす郷土勢」と新聞でも大きく取り上げられていた。

この全国大会への出場者を決める「第17回  全沖縄高校弁論大会」が67年7月2日に行なわれて いる。この大会で最優秀賞に選ばれたのは津波古充晴(首里高1年)で、演題は「転んだのは彼 らだけか」。少年非行と家庭の問題をテーマに論じた彼は、最後に「明日の沖縄は私たち若人が 建設しなければならない。生活の向上、祖国復帰と叫ぶ前に、私たちはまず自分の仲間のことを 真剣に考えたり、家庭における愛というものを今一度考えてみようではありませんか」と訴えた。

津波古は8月の全国大会では「審査外の特別弁士」として登壇する。彼の他に、長浜明美(前原高)

が「自己をみつめて」で参考弁論を、また山城圭子(八重山高)が「高校教育への疑問」で基準 弁論を、加えて、中山哲(首里高)が「ようこそ沖縄へ」と題して「歓迎弁論」を行なっている。

大会当日の「選考の対象」となる弁士は、「全沖縄高校弁論大会」で優秀賞や優良賞に選ばれた 弁士たちであった。

この「第14回文部大臣旗全国高等学校弁論大会」当日の様子も、新聞で詳細に報じられている。

平山良明全国高校弁論連盟理事長の大会宣言、仲宗根政善審査委員長からの諸注意、等々。全国

9 同書、62頁。

10 同書、86,87頁。

(9)

の都道府県代表43名の高校生の弁論を聴こうと、会場の琉大体育館には約3000人の聴衆が詰め かけ超満員だった、という。8月の沖縄である。超満員の体育館。その熱気を想像する。

結果は、兵庫県三原高校3年生の曽根照子が最優秀賞。先にも記したように、「これまで5連勝 をとげ、大会を地元に迎えて張り切っていた沖縄勢は惜しくも6連勝をはばまれ、文部大臣旗は 北緯27度線を渡って本土に帰った」(琉球新報、1967年8月3日)のであった。曽根の演題は「僕 は日本へ帰りたくない」。或る新聞社が「復帰」についてどう考えるか、というアンケートをとっ たところ、「日本へ帰りたくない」と回答した沖縄の高校生がかなりの割合でいる、という結果 がでた。その調査結果を踏まえて、曽根は沖縄の友人たちに手紙を出し、真意を確かめる。沖縄 の友人からの返事はこうであった。「変な例で恐縮ですが、トカゲという動物がありますね。あ のトカゲは敵に急に襲われると自分の尾の先の一部分をパッと切り離して逃げてしまう。切り離 された尾の先は、命のある限りぴんぴん動いて、敵の注意を自分の方にひきつけ、本体の安全を はかります。この尾の先の役目を、実は沖縄が日本本土に対してひとりで背負っているのではあ るまいか。沖縄が今、全身で受け止めている日米関係の諸問題、これを日本本土の人々は果たし てそのハダの上にじかに感じていらっしゃるでしょうか。自分の出したお金、それについては 恩を着せるが、自分たちが誰のおかげで今日の繁栄と安楽な生活をかちえているのか。それに ついての反省は少しもなさらない。この不合理をどうお考えになるか。これであります」。そこ で、曽根は、沖縄の歴史や現状を知ることによって、「血と肉とを分けた沖縄の人々、その人々 の将来と希望とを保障する。それは私ども若い世代の最大の使命である」と語り、「どうか皆さん、

日本へ帰りたくない、などとおっしゃらないで、日本は、私とあなたとの愛してやまない祖国で あります」と訴える(琉球新報、1967年8月3日)11

「文部大臣旗全国高等学校弁論大会」を主管することができるまでに沖縄の高校弁論を牽引し ていったのは平山良明である。その指導方針は、先に紹介した。が、平山の、凄まじいまでのそ の熱意の源は何であったのか。この第14回大会を終えた翌年2月の新聞に、「高校弁論にみる本 土と沖縄」と題した彼の気魄のこもった論稿が載っている。

そのなかで平山は、希望のもてない社会にあって、さらにその片隅に追いやられている青少年 にとって「弁論こそは、その不条理の中から本質を見出し、若者の明日へ向けての糧となるに違 いない。心の飢えを満たすのは、話すこと、聞くこと、書くこと、読むことの努力から生まれる ものである。そしてこのことが、これまでの青少年に欠けていたことではあるまいか。自分たち が生きている現代と、自分たちが志向するものを見出す努力の中に弁論が生まれ、それを求めて ゆくことが、青少年の生活でありたい」と、先ず、高校弁論の意義を説く。

「戦後、文明から遠ざかっていた沖縄の教育が、本土へ追いつき追い越そうという努力は悲愴

11  この沖縄大会が開かれた夜、琉球新報社は、本土代表者の3人の高校生と首里高の津波古充晴を招いて、座談会を開いている。当 時の高校生の率直な意見が交錯して興味深い発言が、多々出てくる。が、ここでは、2点だけ。津波古:僕ら、よくおとなの人たちに「弁 論に沖縄の特殊問題ばかり利用して取りあげてる」といわれるのです。「立場を利用して弁論に優勝する」という人もいる。でも知っ てほしいのです。僕らは復帰問題をテーマにして勝ったの、負けたのといっているのではない。沖縄を訴えたい。知ってもらいたい。

それなんです。さいわい今度は、本土の人がそれを言ってくれたけど。大会で今後も、もっともっと沖縄を取り上げてほしい。佐藤学(北 海道・留辺しべ高3年):琉球王朝の頃からの歴史などを調べてみますと、どうも日本民族ではないような気もしてくるわけです。そ れはまだよくわかりませんでしたが、こちらへ来て高校生と交歓してみますと、こちらの人が「僕らは日本人・・・」などという歌な どを歌ってきかせてくださったりしてみると、やはり確かに日本人だなあと、実感として受け取れました。本土の同胞のあさはかな 認識といいますか、それがなんだか悲しいような気がします。[しかし、佐藤は、座談会の最後に、やはり解決できない悩みをもらす]。

佐藤:さっき僕は本土の高校生が認識不足だといいましたが、もう少し付け加えますと「沖縄の人は日本人だろうか」ということも あるんです。(琉球新報、1967年8月4日)。その日の新聞には、芥川賞受賞祝賀会へ出席するため、前日に上京した大城立裕夫妻の 写真が載っている。

(10)

であった。非才にムチ打つことの苦しさは沖縄のどの教師も身をもって味わったことであった。

闘牛のように向う見ずな、ひたむきな歩みが、あるときは醜い自分を意識しながらも、この頃で は弁論に関する限りにおいて「追いつけた」という心の安らぎを得るまでに至った。/昨年、栄 光の第14回文部大臣旗全国高等学校弁論大会を、わたしたちが主管するまでの沖縄の高校弁論 は、ただ一途な勝負師であった。昔から負けてばかりいた民族は、勝つこと以外に喜びを見出せ なかったし、勝つことが勝負のすべてだという哲学をもっていた。このわたしの野心を、本土の 先生方は笑った。笑われてもわたしたちは勝つ以外になかった。しかし、あの大会を境に本当の 弁論とは何かということを教えられた。勝つこともいいが、勝たないこともさらにいいというこ とである。/人おのおのの生き方に、人おのおのの過去に、どうして順位をつけられよう。人は おのおの自分の道に迷い、その迷いの道を精一ぱい生きている。きみの人生はぼくの人生ではな い。それが一途なものである時に、きみとぼくの生き方に何の優劣があろう。牙をむき出して 戦った過去と “一本の毛にも影がある” という心境をどのように結びつけるか、さらに迷うこの ごろである。(略)/よく言われた。「沖縄の特殊性が弁論を勝たせるのではないか」と・・・。そ うかも知れない。しかしそうではないとわたしはこたえて来た。勝負に向かう人にとって大切な ことは、勝負に無心でなくてはならぬと考えたからかも知れない。しかし、沖縄の特殊性は日本 の現象であるという点で、決してわたしたちだけのものではなかった。だれがこれに真剣にとっ くむかということが問題なのである。/(略)このごろでは本土各地の弁論大会で沖縄問題をと り上げる人が多くなった。どの大会でも数名はいる。/いたずらに沖縄を論ずることがあっては ならない。また基地を中心とする特殊性のみに終始してもならない。その意味で、沖縄の高校弁 論の使命は大きい。沖縄をどの視点から捕えるかは個人の自由である。しかし、沖縄への安易な 同情、平板的な解釈で終わっては意味がない。沖縄が大戦の犠牲になったとか、ひめゆりの塔で 涙をさそうせりふは観光ガイドがやることである。/この年も日本の弁論界は沖縄問題でわくだ ろう。わたし達は、沖縄を売り物にするものをはっきりと見定め、確かな沖縄の姿に迫るよう努 力したいものである。(略)」。12鬼気迫る一文である。

勝つこともいいが、勝たないことも、それはそれでさらにいい。―そうした心境を綴った平 山であるが、それでも、1969年8月1日に開かれた「第15回総理大臣旗全国高校弁論大会」では、

首里高定時制3年の高良なるみが、安保条約の破棄、反戦平和を訴えた演題「行動か死か」で最 優秀賞を受賞。「総理大臣旗 四たび沖縄へ」と大きな活字が躍った(琉球新報、1969年8月2日)。

さらに同年11月8日の「第16回文部大臣旗全国高等学校弁論大会」でも、高良は「谷間からの出 発」の演題で最優秀賞を得て、同じ年度に、総理大臣旗と文部大臣旗の二つの大臣旗を首里高校 に持ち帰っている。

3年ぶりに文部大臣旗を沖縄に持ち帰った弁論「谷間からの出発」は、「万国博覧会と核の恐怖、

それは、本土と沖縄のこの百年の歴史の違いをはっきりと示しています」と主張し、最後に「沖

12  琉球新報、1968年2月18日。同日の琉球新報では、第2回沖縄県高校弁論大会(沖縄県高校弁論連盟、琉球新報社主催)を間近に 控え、これまでの全国大会で優勝した高校生の座談会を特集している。その中で、中今哲が「沖縄問題は首里高校弁論部の共通テー マでもある」と述べ、また「これは是非言っておきたいんだが、ぼくたち弁論をやっているものに対して「口で言っているだけでは ないか」というひとがいる。(略)私たちは自分で言ったことは実行する。弁論そのものが上滑りを許さないし、弁論をやることが、

学ぶことであり、物事を深く考えることになると思う」とも語っている。先に平山の考える高校弁論の意義、その指導方針を紹介し たが、その姿が浮かぶ。

(11)

縄県民が、恐怖の谷間から、新しい日本へ仲間入りする日は、目前に迫っています。そこで、思 うことは、新しい日本の中で、沖縄の悲劇がくり返されることのないよう私たちは、安保条約を なくし、即時無条件全面返還を実現するよう全国の仲間に呼びかけてゆくつもりです。それは、

今の日本に、沖縄が復帰することによって、沖縄県民の恐怖がそのまま日本の恐怖となってはい けないからです」と締めくくる13

ところで、よく、高校生の弁論大会や青年の主張は、優等生的で、学校文化や顧問の教師との

「親和力・親和性」が高い、といわれる。

当時、「復帰早尚論」に対し、「核も基地もない復帰、自衛隊もノー、安保条約もノー。即時無 条件全面返還」14が教職員会の、また復帰協のスローガンであった。ただ、その理由が、沖縄の 悲劇・苦悩を、日本全土にまき散らしたくない、蔓延させたくないから、つまり、沖縄の恐怖が「そ のまま日本の恐怖となってはいけないから」ということに因るものだったのかどうか。あるいは、

当時は、こうした主張がなんらの抵抗感や違和感を覚えることもなく、「日本の子」として育て ることに情熱を傾けていた沖縄の教育界にあっては、ストンと胸におちていたのだろうか。詮ず る所、「こうした主張はおかしい」という感覚は、復帰後、日本国の対沖縄政策を目の当たりに して、徐々に頭をもたげ始めたものなのかどうか。

60年代の沖縄の高校弁論を、全国に「弁論沖縄」と知らしめた平山良明は、1970年10月から 翌年3月までの半年間、「本土派遣沖縄研究教員」として東京都立の或る高校に配属されている。

研究テーマは「復帰後の沖縄の教育はどうあるべきか」であった。

『世界』1971年6月号は、「復帰」を問う、という特集号である。そこに、平山も、東京で見聞 きしたこと、ヤマトの教師たちとの交流で感じたことを載せているが、その論調は暗くて重い。

復帰前の凄まじかった本土のブローカーによる土地の買い占め。平山も東京で「誰か、名義を 貸してくれる人を紹介してくれないか」と頼まれる。今に続く軍用地の買い漁り。「沖縄で、土 地というのは、どのような意味を持つものなのか、恐らく本土の人間は誰も知るまい」と、静か に記す。「沖縄が還るという意味を、沖縄が、すべて自分の所有になったと勘違いしている人は 居ないだろうか。沖縄の山野を、自由に軍靴で踏み荒し、海を濁すような命令を下す人は現われ ないだろうか」と、漠然とした不安が現実味を帯びてくることに危機感を覚える。それが今、辺 野古で、与那国や八重山、宮古で牙をむく。

平山は、沖縄が返還されるということは日本の国土となるということである、それ故、防衛力 を整備する必要がある。―という第61国会での防衛庁長官の発言を引き、「祖国復帰」という躍 るような言葉の裏から、その見返りとして「祖国防衛の義務」が押し付けられる現実を見すえる。

平山は「自衛隊が自由に出入りするということが、沖縄の復帰の意味であり得るのか」とみずか らに問いただす。彼はまた、地上戦を知らない東京と沖縄とでは、戦争や平和についての考え方 が違う、とも述べる。「どうせ東京では戦わなくて済む。東京は戦わないし、これからも戦わな いのである」。

この論稿は、こう締めくくられている。「わたしが確信をもって言えることは、沖縄の復帰は、

自民党や革新と呼ばれる人によって勝ち取られたのではない。又アメリカの温情とか、他のいか

13 琉球新報、1969年11月7日、9日、16日。なお、この「谷間からの出発」の原稿は、『養秀百年』(養秀百周年記念事業期成会、1980年)、

225-226頁に収録されている。

14 沖縄法政研究所『共同研究調査報告書(第1号)』(2016年)、60頁。その点については、石川元平がこの報告書のなかで何度も語っ ている。

(12)

なる力のお蔭で出来たものでもない。沖縄は、沖縄島の素朴な人情が、圧政と屈辱の中から学び とった人間の生きる道として、みずから選び、自ら求め、自ら闘い、人間としての権利を勝ち取っ て、祖国に近づいて来たと考えるのである。(略)[しかし、]沖縄人が求めた祖国は、少しも近 づいてはいない。さて、沖縄島は還って来るのであるが、その時までもやはり、自民党とか、革 新政党とかの政治家と呼ばれる人達は、自分達がやったお蔭だなどと、声をはり上げて酔うので あろうか。ああ、沖縄が求めた祖国は遠い。そして更に遠くなって行く・・・」15

このように、1970年代に入り、「復帰前夜」に書かれた論稿から現われる平山の視座と、首里 高弁論部の部員たちが全国に向けて発した弁論の内容との間には、小さくないズレを感じてしま う。弁論を指導する際の方針として、平山自身が述べた「僕の胸を打つ」弁論、その内容とはど のようなものであったのか。そして、「復帰」が政治日程にのぼり、その内容が明らかになるにつれ、

どう変わっていったのか。その対ヤマト観を、今後探ってみたい。

もちろん、平山も60年代の首里高在職中、弁論部だけで活動していたわけではない。彼は古 典の教師として、弁論部とかかわりのない生徒たちにも深い印象を残している16。そして、かつ て教室で、直接その謦咳に接することのなかった私たちにも、地元紙の「歌壇」選者としての平 山に、平山の感性に触れ、影響を与えている。実際、平山は『琉大文学』が創刊された翌年から、

宮城美智子(比嘉美智子)と並んで、精力的に短歌をそこに発表していた。現在、花ゆうな短歌 会主宰の比嘉美智子の感性にもまた、「歌壇」欄や毎年のように出版される合同エッセイ集を通 して、触れることができる。さらには、松島弥須子(具志堅康子)は、『琉大文学』草創の頃から、

そこに詩を発表し続けていた。具志堅康子先生は、私の高校1年のとき副担任、2年のときには 担任であった。高校時代の生意気盛りのゆえ、時には、こっぴどく叱られながらも、古文や現代 国語にかぎらず、思考の作法とでもいったようなものを先生から教えていただいたように思う。

当時、先生が「琉大文学」草創の頃の松島弥須子であることを先輩たちから聞かされ、クラス仲 間で、得意気に「松島先生」と呼んだりしたものだった17。また、美術を担当していた高良松一は、

高校3年生の私たち数名を何度も、セーヌ画廊に連れていって下さったものだ。先生がそこで展 開した難しい芸術論は忘れたが、そこでいただいた「詩誌 ベロニカ」6号(1968年7月)、7号(1968

15  平山良明「わたしの東京ノート  ―  祖国がだんだん遠くなる  ―」『世界』(1971年6月号)、252-261頁。なお、平山が、いつ首里 高校から那覇高校に異動したかは確認していないが、この「東京ノート」発表の頃は、那覇高にいる。さらに、平山は、同じく71 年の9月号『中央公論』では、「いま沖縄では、返還協定調印ということばと同時に、新たな戦前が作られつつある。沖縄の求めた祖 国は幻想であった。平和憲法を頂点として、沖縄が求めて来た祖国は、すべて沖縄の築き上げた民主的情念を殺す要因でしかあり得 ない」。「これから展開されて来る多くの仮装と実像に向って、自分が何者であり得るかということが、復帰以後を生きる大切な自分 の思考ではないだろうか」とも語っている。平山「教育の現場から ― 沖縄が主人公ではなかった ― 」『中央公論』(1971年9月号)、

274-280頁。なお、「復帰」直前、沖縄タイムスに連載された「戦後は沖縄をどう変えたか」(計17回)において、平山の寄稿文(沖 縄タイムス、1972年5月9、10、11日)は「戦後は大きく沖縄を変質させたが、日本やアメリカのそれと同じ意味をもつのではなかっ た。その沖縄の変質の貌を、これからの日本へ注ぎこまねばならない。それが沖縄の27年の意味でもある」という言葉で締めくくる。

16  高良倉吉は1963年4月に首里高校に入学している。彼が伊波普猷の名前を記憶に留めるにあたって、「(首里高校の)図書館に郷土 史関係の図書があったためなのか、それとも古典を教えてくれた平山良明先生、美術を教えてくれた末吉安久先生の話の影響なのか 定かではないが」と綴っている。高良倉吉『「沖縄」批判序説』(ひるぎ社、1997年)、118-119頁。話は変わって、高校弁論の全国 大会に出場する生徒を引率するため、パスポートを申請しても、平山の分は、なかなかおりてこなかったようだ。「毎回、出発間際になっ て」やっと手にした、という。また、首里高には、弁論大会の活躍を記念した「露満の森」という優雅な庭があるという。このロマ ンの森の「発案は末吉先生で、漢字を当てたのは小生(平山)である」という。平山良明「活躍記念し碑も建てる」沖縄タイムス社 編『庶民がつづる沖縄戦後生活史』(沖縄タイムス社、1998年)、224頁。

17 「復帰」直後に沖縄タイムスで連載された「『日本国民』になることの意味」(計25回)のなかの具志堅康子先生の論稿(1972年5 月26、27日)は、「今、『復帰』ということばの説明にたじろぐのはどうしてなのであろう」と苦渋にみちている。そして、「状況へ と視点を据え、27年間の歴史を洗うこともよいが、それと同時に、射程を大きく広げて、小さな分野の個々の沖縄の人の生活の根 源に目をむけるのもよいのではないか」と問いかける。また、「高校現場の取り組み・悩み」を書き記した「進路をめぐってのささ やかな実践」(『新沖縄文学』46号、1980年9月)を読むと、かつての高校生活が想い浮かんでくる。

(13)

年12月)は、今も本棚の片隅にある。そうした先輩たちが50年代末から60年代に、若い息吹に 満ちた教師として、県内の各高校や中学・小学校で、戦後間もなくして沖縄に生まれた我々の世 代に大きな影響を与えたのだろう、と思う。実際、現在、沖縄タイムスの「俳句時評」で健筆を ふるっている山城発子(宮城初子)も、私の高校時代の同級生であり、比嘉美智子、具志堅康子 両先生の教え子である。

話を平山良明に戻すと―。平山は「おもろさうし」の研究者としても夙に知られている。

1968年6月に始まった「おもろ研究会」に、平山は1973年3月に入会している。同時期に入会し た波照間永吉が記している。波照間自身は公私に追われ、しばらく研究会を休む時期もあったよ うだが、「研究会は平山良明・大城盛光両先生と仲原穣・伸子さんを中心とする若い人々によっ て休みなく行われていた。そこには平山先生の執念にも似た思いが流れていた。それは仲宗根(政 善)先生に対する敬愛の念と、仲宗根先生から受け継いだ研究会を途絶えさせてはならないとい う、使命感によるもののようにみえた。平山先生に率いられた会は、千五百回を越えた」18

平山の「おもろさうし」に対する、また、その研究会に対する「執念にも似た思い」と、沖縄 の高校弁論を全国にとどろかせ「弁論沖縄」を築いた60年代、「勝つことがすべてだ。本土の先 生方は笑ったが、私たちには勝つ以外なかった」という気魄、その情念。その両者の経路を探る 作業は、あるいは「復帰」を挟んだ沖縄の戦後思想史を豊かにするものと思われる。

高校生だけを対象にするわけではなく、むしろ勤労青年が主流である「NHK青年の主張全国 コンクール全国大会」が1954年度から始まった(1955年1月10日開催)。この「NHK青年の主 張」に沖縄代表が参加したのは、1961年1月に開かれた「第7回(1960年度)全国大会」からで ある19。60年代に、この大会に出場した沖縄代表の青年たちが、どのような主張をしたのか、確 認してみたい。

沖縄代表が初めて参加した「第7回(1960年度)全国大会」には、岡村芳子(無職・21歳)

が出場している。1961年1月7日、大手町の産経ホールで開催されたこの大会で、岡村は、「将来 の沖縄、あるいは日本を背負ってたたなければならない私ども青年が、国歌・君が代を忘れ、日 の丸の旗を忘れるようになったら、いったい後の続く世代はどうなるのでしょうか。(略)わた したち沖縄の青年は、沖縄の空に日の丸が高く翻る明日を信じて強く生きて行きたいと思います」

と述べる。この「青年の主張」の果たした社会的機能をメディア史から検討した佐藤卓己は、こ の「第7回大会」のラジオ放送テープを聞き、会場からひときわ大きな拍手が起こった、という。

当時の沖縄の置かれた政治状況下で、彼女の主張は「大きな感動を誘った」。しかし、と佐藤は、

付け加えて記す。「今日まで続く「沖縄問題」が、そう簡単にナショナリズムに回収される性格 のものではないことは次回以降の「沖縄枠」出場者の主張から明らかになる」20

18 おもろ研究会著 平山良明・大城盛光・波照間永吉編『おもろを歩く』(琉球書房、2013年)、あとがき、452頁。

19 この大会から、新たに「沖縄枠」が設けられたことによる。そうした「特別枠」を設けた背景に、当時の「沖縄をめぐる電波事情」

もあった、という。それというのも、「1968年10月に特殊法人・沖縄放送協会が設置されるまで、NHK番組はこの民放2局[沖縄 テレビと琉球放送]がスポンサー付で放送していた。NHK番組が沖縄で自由に視聴可能になったのは1972年5月15日の本土復帰以 降である」という。前掲、『青年の主張―まなざしのメディア史―』、101頁。以下、「青年の主張」の弁士の引用は、この著に拠っ ている。そういえば、中学時代、大相撲の取り組みの結果は、翌日の新聞ですでに知っていたのに、結果を知ったその日の晩に放映 される相撲を、「今にうっちゃるぞ」「はたきこむぞ」などとテレビの前で騒いでいたものだ。

20 前掲、『青年の主張―まなざしのメディア史―』、100-101頁。

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