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新規整理分「麻生家文書」(議会関係)目録

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(1)

九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

新規整理分「麻生家文書」(議会関係)目録

原口, 大輔

九州大学大学院人文科学研究院

都留, 慎司

https://doi.org/10.15017/1660956

出版情報:石炭研究資料叢書. 37, pp.133-283, 2016-03. Business & Economics Section, Manuscript Library, Kyushu University

バージョン:

権利関係:

(2)

新規整理分﹁麻生家文書﹂︵議会関係︶目録

(3)

︻ 解 題 ︼ 新 規 整 理 分 ﹁ 麻 生 家 文 書 ﹂

︵ 議 会 関 係 ︶ の 可 能 性

原 口 大 輔 都 慎 留 司

今回新たに目録を作成したのは﹁麻生家文書﹂の議会関係史料群︑

三 O 一八点である︒新たに︑と言っても未発見の史料ではない︒今回

整理した史料は︑これまで記録資料館に保存されていたままで未整理

の状態であった﹁麻生家文書﹂一七箱にあたる︒史料の時期について

は︑麻生太士ロが衆議院議員を務めていた明治三二年 j 三五年︑貴族院

議員︵多額納税者議昌ハ︶を務めていた明治四四年 j 大正一四年のもの

が中心である︒まずはその箱に付された整理番号と名称を紹介したい︒

七 四

七 五

四 七

七 四

九 七 五

七 五

七 五

七 五

七 五

七 六

七 六

第一五回帝国議会︵こ

第一六回帝国議会︵ご

七 四

七 四

議 会

F『\

七 五

O

議 会

七 五

議 附

会 さ

一 ︵

一 一

七 五

議会五︵二 七 五 六

議 会

五 ︵

一 二

七 五

過 酷

ム 至

ハ ︵

一 一

議会七︵ご

七 六

O

七 六

議 会

︵ 大

正 三

第 一

五 回

帝 国

議 会

︵ 二

第 一

六 回

帝 国

議 会

︵ 二

︶ 議 附 ム 一

議 品

閉 会

一 二

︵ 一

議 会 四

議 会

五 ︵

二 ︶

議 附

ム 耳

ム ハ

︵ 一

議 刷

会 主

ハ ︵

三 ︶

議 会

七 ︵

二 ︶

〆、

箱 箱名 点 数

7 4 5   第 1 5 回帝国議会( 1)  4 3  

7 4 6   第 1 5 回帝国議会( 2) 2 7 1  

7 4 7   第 1 6 回帝国議会( 1)  2 7 3  

7 4 8   第 1 6 回帝国議会( 2) 8 3  

7 4 9   議 会 1 (1)  2 5 7   7 5 0   議会 1 (2)  4 3 9   7 5 1   議会 2 7 1   7 5 2   議 会 3 (1)  8 5   7 5 3   議 会 3 (  2)  4 3 4   7 5 4   議 会 4 2 4 5   7 5 5   議会 5 (1)  7 0   7 5 6   議 会 5 (  2)  6 0   7 5 7   議 会 5 (  3)  7 7   7 5 8   議 会 6 (1)  3 0   7 5 9   議 会 6 (  2)  7 9   7 6 0   議会 6 (  3)  1 6   7 6 1   議 会 7 (1)  1 4   7 6 2   議 会 7 (  2)  9 8  

7 6 3   議会(大正 3) 3 7 3  

合 計 3 0 1 8  

一目して分かる通り︑帝国議会の会期を基準として箱が作成されて

いる︒ただし︑以下で説明するとおり︑箱の名称と保存された史料の

時期は必ずしも一致しない︒そのため︑まず本解題では︑今回整理し

た史料の紹介のため︑各箱に所収されている史料の概要とその特徴に

ついて簡単に説明する︒その後︑整理した史料の一部を用いた﹁議員

時 代

の 麻

生 太

吉 ﹂

︵ 原

口 大

輔 ︶

︑ ﹁

﹃ 麻

生 家

文 書

﹄ 議

会 関

係 史

料 群

に み

麻生の炭鉱経営﹂︵都留慎司︶の両論と併せて︑本史料群の拡がりに

つ い

て 考

え て

み た

い ︒

‑134‑

※ 

O 史料の紹介

七 四

第一五回帝国議会︵ご

第一五回帝国議会は明治三三年一二月二五日 j 翌三四年三月二四日

まで聞かれた通常会である︒時の内閣は立憲政友会を率いる第四次伊

藤博文内閣であり︑太吉も政友会の一員であった︒そのため︑太吉が

周囲に配布するために準備したであろう︵案内の葉書は七四六!一四

(4)

︑政友会によ

二 O

︑ 二

七 ︶

︒ こ

の 箱

は ︑

一 一

む 冊

以 上

あ る

︵ 七

五回議会に関する書類の綴が主でありな

がらも︑第四十思帝問議会に・おける所得税法改正法樟梁に関する委員

ごなど大正期の史料も若干残されている︒

一 一

J

一 一

︶ な

一方︑上京出納帳︵七

も残っており︑上京中の太古の生活や政治・経請にわたる活動

を窺うことが可能となろう︒

︵ 一 一 ﹀

七四五と同じ会期中で誌あるが︑明治一

が 中

心 で

あ る

一 ︑

三 月

の 太

古 宛

書 翰

︵ 七

四 六

l

四 l

一 一

一 一

一 一

︶ な

ど ︑

政 友

会 の

活 動

や 議

会 対

策 に

関 す

る 史

料 が

多 く

み ら

れる点は興味深い︒また︑地元関謀者から〜寄せられた詰額など︵七四六

一 ー

ー 七

︑ 一

酉 l

一 は

地元社会の関係を考えるうえ

みられるが︑多数残された名刺類も太古の入款を知与縛る貴重な積報

源である︒一方︑若桧築港株式会社の白石哀治による取締役会期鑑

案内︵七四六 i 一

O i

西﹀や野見山米吉による蘇生商店の業務報告

︵ 七

四 六

i 一四!一一一︶といった経営関連の史料も多数合まれ︑当該期

の経営者としての顔も看取できる︒なお︑これに関する解説は後掲の

都皆慎可論文に譲る︒ また︑弛の箱にも

七 四 七 第

大西帝国議会︵

四 年

で開催された通常識会であるが︑籍の名称と辻異なり第四七 j 五 O 田

︒門

1

翌 一 一

一 一

月 九

日 ま

︵ 第

二 次

山 本

権 兵

衛 ︑

史料が中心で為︑号︑時期としては大正二

一二年九月に発生した関東大震災にまつむるパンフレット類︵七四七

やそれにとどまらない名槌陳需書︵七四七 i

る︒また︑包の箱には綴られてい 加藤高明各内関︶に関する

西年にあたる︒大正

九 西

一 i j

一 二 Ol

四 1

七 な

ど ︶

バラバラのまま残されている点︵七四七 l

一 回

な ど

もこの籍の特徴と替えよう︒

の太古が所嘉した院内会派・研究会記関する書類

も譲として残されており︑︵七四七 i 七 八 l 一 な ど ﹀ ︒ 大 正 期 に お け る

研究会の活動の一端が垣間見える︒一方︑研究会の一員であれノながら

政友会に関する書類も整理し︵七四七!七六などて鉄道敷設法に関

ま た

でまとめている︵七四七!

一 九

| 一

1 九 ﹀

あ た

り は

・麻生太曹の性慈を考えるよで注目すべきところで

あ ろ

う ︒

七四人

〆『

一 一

__

この箱も七四七と同じく︑箱の名誌と内容の時期が異なる

9

七四八

は 第

四 九

で あ

ち ︿

七 四

ー七 1 入﹀︑各省予葬に関する冊子も多い︵七四人 i 一

また︑海外在留邦人韓業別人口の報告書︵七詔八 l ニ︶や米国移民に

関する文書︿七四八 l

一 一

一 ﹀

が あ

る の

辻 太

古 の

関 心

に 沿

っ て

残 さ

れ た

一 lE

八 ︶ ︒

のなのか︑はたまた偶然なのかは興味潔い︒

七 回 九

.

__

ここからは会期に碁づかない名称が付された籍である︒七四九は明

(5)

月の史料が中心である︒すなわち︑

治 一

衆議詰議員補欠選挙に当選し︑初めて

終えるまでの時期である︒そのため︑当選を祝賀する移しい

︵ 第

にはじまり︑上京中の業務関係報告︿七四九 i 一

八 ー

一 一

C ︑議員同志慎楽部からの各議案内

﹀など︑・太舎の多忙な活動が窺える︒

︶や式典案内

︿ 七

四 九

i 四九 i

/'¥ 

七 五

O

\  

一 一

、 曲J

二 月

日 i

翌 三

一 一

二三日︶に関する史料が収められている︒伺より詮日すべき詰﹁第

で あ る

︒ こ れ は

︑ 一 年

︵ 七

五 O

i

太古が衆議提議員補欠選挙に立候捕する際︑罵関が太古に援起を要議

する書翰や︑それを受けてどうすべきか遼巡する太吉の隷子︿書翰謹︶︑

各郡・村における禦数の取り緯めといった選挙の操子が分かる一連の

史料が綴られたものである︵詳細は後揚原口論文︶︒また︑書翰や電

報には九州帝国大学設立に関する靖報︵七五

O i

一 八

i

一 一

J ¥  

や 一

円 畑

埋 築

一 八

i

一 一

一 ︑

一 九

i

一 二

︑ 一 一 四

︶ ︑

L

︵ 七

五 O

ー一九i一などといった地方への利益誘導に関する内容が多く含

まれており︑太古口が衆議説議員として地域を代表している様相が見て

取れる︒諮問関係では︑資抜読書記官であった金山詞志 助

︵ 七

五 O | 九 i

二 ︑

︿ 七

五 O

i 一 九 i

閥 ︶ む

太古は明治

嘉 穂

一郡懇話会を開催し︑多くの人々が参加していたことが多数の返

次山県存関内閣が貴族院

月 間

目 ︑

におい

れ ノ 判 明 す る

︒ ま た ︑

︵ 七

五 O

i ⁝

五 回

︑ 三

一 一

i 了 i

二 回

︑ 正

は︑この訣案が名方面より注話されていたことが窺える︒

経営関係では︑多数の電報から藤擦炭鉱︵七五

Ol

二 一

一 i

六 ︑

一一二︑四ニや炭の価格について報告︿七五

O i

一 一 一

一 i

て 一 一 ﹀ を 受 け ていたことが特明し︑当該期の経営状況を知る上で貴重な情報を与え 四

七 ︑

て く

れ る

︒ 七 五 丹

ここでは第

︵ 明 治 四 四 年 二 一 月 一

丹二五円口﹀に関する史料が中るである︒梼治四四年よち太古辻多額納

税者議員として黄桜院に在籍しており︑﹁貴族院諦願文書表﹂︿七五一 l 西など︶を辻じめとする糞族院事務局による書類が多く︑予算の器

子 ︵

七 五

i 四 五 1 六五など﹀や各種議事録が絞められている︒ただし︑

問時期の衆議院の議事誌も残されていることから︑太古は事務渇かち

配布された鱗事録ほ貴衆開設どちらのものも保存する習慣があったも

のと考えられる︒他の箱にも所収されているが︑個人

一 l

O ︑ 七

136‑

﹀が残されていることは珍しい︒

J,、、

、_,,

この箱は大正初期の議会である第一

る予算関保の冊子︑大正一 O ︑一一年に仲戒された貴族読議報や各議

パンフレット・冊子により構成されている

c

土地収用法中改正法体案

︵ 七

五 一

l 一 i

︑ 外 国 事 情 六

O ︶

一 一

一 一 一 一

九 i 部

など︑ある器援まとまったチ!マの

パンフレット・冊子が所収されていることは︑太古の関心を考えるう ILO 

︿ 七

(6)

えで見逃すことはできない︒しかし︑この籍には私文書は見当たらず︑

い が 残 さ れ も

て い

る ︒

・ 七

五 三

『\

一 一

、』_/

大 正

九 ︑

の各種醸需番やパンフレットと椙広い

が収められている︒これら陳情書・パンフレットは鉄道敷設法関連

︒ ︑

一 二

の史料

一 l

七 九

︑ 八

O ﹀

︵ 七

五 一

︑ 七

回 ︶

と い

た詮方への利益誘導に関するものが E 立ち︑当該期の社会の諸課題が

垣 間

間 見

え る

︒ た

だ し

︑ 貴

族 段

議 員

時 代

の 特

徴 と

し て

はなく全盟各地から寄せられている点に控目すべきである

陳 l 脅

︵ 七 五 一

七 ︑

三 九

i 一

入 ︑

Oi

一 四

八 な

ど ︶

︒ も

ち ろ

ん ︑

史 料

の残存状況に大きく左右されるところではあるが︑このようを事象は︑

当時の社会が寅衆開院議員を如仰なる窓口としていたかを考えるきっ

か け

と な

ろ う

会お︑本箱

践の議事録は の籍と異なり綴られていないため︑

点ごとに吾録を採っているため史料点数が多くなって

い る

七 ︒

五 四

こ の

箱 は

第 三

回 ︑

五回帝国議会 予算関捺

︵ 議

事 録

呈重三

バ ン

プ レ

が中心となっている︒地の箱に

も見られるが︑貴族段研究会常務委員からの通知書

五 四

i 九 1

一 閥 ︑

八 六

l

一 一

i 八︶と並行して政友会に関する

01

三 四

が残されている︒また︑複数の

︵貴族詮葉報附銭︶などが数見される

︿ 七

五 西

i

五 七

︑ 六

九 ︑

七 一

ニ i 一

が ︑

本 箱

に は

第 一

︵ 七

五 詔

i 九入︶が残

い る

議会五︿ ︒

一 ︑

四 四

回 帝

国 議

会 の

時 期

︿ 大

正 九

m

持続の議事録︑貴族民柔報︑予算

史科が大半であるなか︑鉄道関係に特化した毅

や︑七沼田と同様︑研究会が発信した書類が毅られた史料

る ︒

が中心となってい

いった議会関採の

一 九 l

ー 三

O ﹀

も 所

収 さ

れ て

い る

七五六

〆町、

一 一

、句,ノ

四四回帝思議会がメインで︑大正九︑一 O の各省予算に

る書類 五六 i

j

七 ー

1

一 一 一 七

一 i

一 一 一 一 ︑

一 一 、

自︶が大部分を占めている︒その他︑研究会・政友会両

︵ 七

五 六

l

︒ ︑

一 四

︑ 一

が 含

ま れ

て い

る ︒

七 五

︑四四居者揺議会の持期が中心となっている︒

一 、

ン フ

レ ッ

ト ︑

陳 情

の 他

講顕書類が多数あり︑ の要請が窺える︒特に︑

︑五︶は地方社会の切実な

の翻訳が譲数冊見受け の史料 一 O ︑ 四 O

︑ 五

茨映されたものと言えよう︒また︑

口 ︑ ン

られることも特接的である︵七五七 i

四 四

︑ 四

五 ︑

(7)

七五人

︵ 大

正 一

O 年

) ヲ

月︶に関す

︵ 七

五 八

i

一 四

1 る史料が入っている︒

︵ 七

五 人

l

六 ︶

の 他

︑そこで泣存関委員会に関する靖報が記され︑

端を知り得ることが可能となる︒ 九﹀や研究会の書

っており︵七五八 l

G i

 

士 口

の 活

動 の

一 週 明 会

ム ハ

この諮は複数年にまたがる史料が入っている︒大正人 1 七五九

年度の

︵ 七

五 九

一 i 一 j

人 ︶ ︑

七 ︑

一 一

二 ︑

二 九

︶ 以

外 は

大 正

期を中心としたパンアレット類が多い︒

七 六

O 議会六︵

四六回帝国議会に関する賞衆両院議事速記録

ハ 一

六 ︶

︑ 衆

議 院

公 報

︵ 七

六 O

七 i

︑ 一

五 ︶

︑ 費

族 段

桑 報

︿ 七

六 O

政友会関連の書類︵七六

O l

八﹀によって構成されてお号︑

緩 ら れ た 史 料 が 多 く 入 っ て い る

︒ そ の 中 で

︑ の 案 文

︵ 七 六

O i

二 二

︶ は

︑ 大

正 一

な 史

料 で

あ る

J

年頃における太吉の人的交流を測ることが可能

七 六

〆 『\

\ ーJ

再び衆議院議員時代の史料が絞められた箱である岱二ハ回帝国議

における議事録︵七六一 i

工 ︑

入 ︑

二 一

︶ ︑

一 ︑

一 四

︶ が

議 ら

れ て

収 め

ら れ

て い

る ︒

会 ︵

明 治

一 一

一 四

1 一 一

算関禁書類︵七六

議 会

七 ︵

一 一

い る

と期じく第一六回帝盟議会的時期に関する史料が挟められて

八 ︑

二 一

1

二 一

二 ︑

︵ 七

六 一

一 四

j

j 一

一 一

O ﹀ 電報が数多くあり の他︑この箱には地元かちの書翰・

︑太古の議員活動の一

︵ 七

六 二

i

ドイツの

六 j 一ごなど︑

の 関

のカタログ

心を知ることができよう︒また︑

一 五

年 二

丹 末

i 一 一

っているところも特徴的である

一 一

ll

一 一 一 一

一 i 一 i 一

・ 七

六 三

最後の積である︒

芝 ︑

一 一

O

︵ 大

正 元

j

一部︵大正一一一年︶︑三五

回議会関採の史料が中心となっている︒本箱に一昨叙された議事録は

つに綴られていないため︑必熱的に史料の点数が多くなった︒また︑

\大正初期から一一布

端の状況を報告したも

︑ と明記されているが︑

︵ 大

正 元

‑138‑

パンフレット でのものが確認でき

る︒その中には れており

一 l

一 l

一 一

︑ 二

一 一

一 二

︑太古の視野の拡がちが見

て 取

れ る

※  ︒

以 上

︑ 今

回 整

躍 し

た ﹁

麻 生

家 文

書 ﹂

の 概

要 で

あ る

︒ 拙

い 史

料 竹

紹 介

だ が

︑ ︑

これらの史料を活用することで︑政治家としての蘇金太古研究が深ま

ることを期待したい︒

(8)

議員時代の蘇生太古

大 車 電 日

本識では︑こ

いて︑今回整理した史料の部を用いて紹介する︒以下で説明する通

り︑太古の致治的活動については︑事実関係すら覚東ない状患であっ

たむそこで︑衆議説議員︑欝ハ族院議員それぞれの就悲過程と議会での

活動をごく簡単に押さえることで︑政治家・麻生太古を研究するうえ

での恭礎的脅報を提棋することにしたい︒ で注目されてこなかっ

1 .立候祷から当選まで

いて太古の議員時代がどのように記されているか

を譲認しよう︒太古の死援すぐに上梓され︑太吉を知るうえで基本文

献 と も い う べ き 泉 彦 裁 吋 麻 生 太 吉 伝

ま ず

2

︶ 

︵ 同

会 ︑

五年︶を

議くと︑能者は

¥ t ~

の下に

後者は﹁推されて衆議院議箆に当選す﹂と

それぞれ見てみよう︒

の﹁議員当選と築器完成﹂で辻﹁鵠然といへば

の炭坑業が困難であった嘆 j

引 用 者 註

に選ばれてしまった︒

鵠 然 だ が

の 頃

︑翁は扇閣の無理押しで

二年︵一八九九︶七月︑第二次山県内関の時である︒

一区選出の山本費三郎氏が︑態政本党を脱すると共

其の補欠選挙で︑翁は否誌なしに持し上げられた︒

で 辞 し た

の事業生活かち

見れば︑笹かに挿話的会意味しか残さぬ議員生活ではあったが︑思ひ

も設けぬ政治の世界に踏み込んだ翁は︑期せずして一つの開題に待ち

設けられてゐた︒それは若松港拡張工事の行悩みを︑政府に訴へるこ

とであった﹂と述べられ︑明治一一一十⁝一一年度斡予葬追加案に浮上した若

松築港問題に関して若干の説明が擁されている

2 0

続 い て ︿ 2

︶ ﹃ 蘇 生 太 古 口 論 法 ﹂ の ﹁ 推 さ れ て 衆 議 院 議 員 に 詣 選 す ﹂ で は

﹁第二次山県内閣は組織され︑政権は再︑び関族の手に還った︒此時に

当って福縄県の選挙一区に於ては︑選出された第三一民衆議践議員許斐薦

路氏が逝去したので補欠選挙を行ふ事となり︑蘇住翁は議されて無競

争を以て衆議提議員に当選した︒翁は選挙に拘ちず何事にあれ決して

無理をしなかった︒即ち衆に議されて立ち︑競争者あれば之を譲ると

去ふ有禄であった﹂と選挙戦の様子が記され︑同じく若松築港株式会

社補助の件が述べられている

20

の記述を並べると︑立操補選挙誌が︵

l ︶

で は 第 四 一 区

︑ ︵

2

なることが判明する︒各語辞典の﹁蘇生太古﹂環を

で書いてある辞典は滅多にないが︑﹁議会制度百年史

区 と 見

てお号︑そ

一 区 選 出 と 吋 名

鑑 い ぷ よ れ ば

ムハ︶からも諜付けられるむなお︑

︵憲政本党﹀は第七区選出であり︑明

一 一 一 月 に 死 去 し た た め

は二重に誤りである︒

斐鷹助 の選挙区は第三廷で正しいが︑死去したのは明治

﹁逝去したので補欠選挙い ったという

月 で あ ち

は間違いであるむ

また︑西民本新聞社福縄県百科事典刊行本部綴﹁福岡県吾科事典﹂︵茜

︵深寄結亮氏執筆︶の

一 九 八

(9)

でも︑太吉辻﹁

八 九

九 年

︵ 明

治 一

︶ か

ら 一

九 O

二 ︶

務 め

た と

記 さ

れ て

い る

が ︑

太 吉

は 明

治 一

に仔われた第七四衆議院議員総選挙に立候補せず衆議院議員を辞して

お与︑これまた時速いである︒

で は

︵ 以

下 ︑

などを

もとに改めて事実関捺を整理する︒太吉は暁治⁝一許斐の辞職に

伴い︑福岡県第三区補欠議員として立競補し︑七丹一二日︑当選し議員

となった︒明治三五年入丹︑第一次詮太郎内鵠が衆議践を解散し第七

百衆議凝議員総選挙を行った際には︑出馬すること金く衆議院議員生

活を終えた︑ということになる︒このように︑議員時代の太吉を検討

するためには︑まず低記などに記された事実関孫を改めて精査する必

要 が

あ ろ

う ︒

での経鐘が

詳細に残されている貴重な畿である︒五月一一 O 日︑平岡浩太部から太

古 の

手 先

に 書

韓 が

送 付

さ れ

︑ 太

士 口

に 議

員 立

怯 補

を 打

診 し

た ︒

一 千

関 は

﹁ 一

窃党派に加法らず中立の設置﹂で立挟補することを付け加えた︒その

か月後︑﹁遠賀郡宥権者惣代﹂から太吉が中立ではなく憲政党銭補 先程も紹介した通り︑

者として

っ た

点 を

九 日

付 ︶

批 判

さ れ

た ︒

・ お

そ ら

く そ

の 号

外 を

見 て

で あ

ろ う

︑ 太

古 が

第 一

議者となったことを視す電報が複数到来する︒その中には︑憲故党籍

間支部所撰の森田正路によるものもあった︒しかし太古はかかる状況

ている皆を野田卯太郎︑

︵ 六

の 立 候

に対して大い

こ と

ι な

る ︒

右 の 号 外 に は

︑ 遠 賀

︑ 一 郡 の 憲 政 党 員 に よ る 協 議 の 結 果

太古を誰鷺することに決し︑太古の許諾を得たと報じられている︒ま が台湾銀行総裁に任じられ

っ た

た︑前回総選挙時に許斐と争つ

たため立綾補を辞したことが太古擁立につ

た︒爵任の許斐は護政本党新露であったたこともあ号︑対立する憲政

党泣太古を強襲するという既成事実を作りたかったのだろう︒太吉は

つ ニ

郡 有

志 者

惣 代

﹂ に

対 し

て ︑

﹁ 一

一 一

法 平

和 ノ

為 ト

テ 国

家 的

ノ 構

畿 ニ

ハ 家

政上ノ所以ヲ持出シ難ク何分可辞術ザ失シ無止承諾仕侯モ素ヨワ党派

等ニ関保候義ニ無之全ク敷正中立ニテ承諾候義ニ存之︑︿中路︶新聞

紙ノ広告カ小金持ノシテ憲政党員トシテ広告セラレタル件ハ事実ノ正誤

ヲ致皮候得共︑憲政党員カ侯補者ヲ広告セラレ且ツ号外全部ハ小金持/

憲政党員ニ議ハ字句相解シ紫挟ニ付正誤ノ串込モ致不居快﹂と書き送

り︑中立として立鉄橋すること︑及びあくまで憲政党によ

て い

知であり︑憲政党員になったわけではない点を弁明した︒ただし︑

140‑

吉に宛てられた六月一一一日付の許斐書翰を読む限り︑許斐は党派の問

題には特設触れず︑太官の出馬を応擁しているだけである︒

っ て

︑ 自

ら が

議 政

党 の

﹁ 広

て立侯議するはずだっ

を 受 け る 事 態 は 想 定 外 で あ っ た

・ 憲 政 本 党 両 派 が

禽突する弊害を何よれツも憂慮していた︒そのため︑野見出来吉と相談

し︑福間民自新開社︑九州日報社それぞれに立候補辞退の広告を出す

ことを通告し︑各部の関係者にも打電した︒太古の政治姿勢は︑各郡

有力者に出したであろう書翰案文に

ニ チ

一 一

一 一

区 ノ

円 満

謀ル精神ニチ御鹿侯処甲乙附派ノ鍔意見相錯突シ円溝ニ謀ルハ到底後

カノ能フ次第ニ知之反チ乳繰ヲ嵩サスルノ憂有之挟ニ付断然侯被者タ

ルコトヲ辞シ申侯間有権者諸君ヘハ可然御断奉額縁﹂といったあたり

か ら

窺 え

よ う

この太古の行為に婦関は驚き︑ のための敢闘翰が多数届けられ

(10)

た︒その中には︑

今回は台湾銀行総裁在職のため 出罵できない添田から

て つ い た

き太 と 去

す1~込吋

; 菜

察 5ふ

i悶

せ ん

れ二; ら い

る V

W

お同

添田尭番翰の案文が一

て ︑

いて︑添田は告の挨補者を出さ ないように配慮することを約束した︒添田による説得が決定打となっ

たのだろう︑太古は出思取消の意舟を取り下︑げた︒

ハ憲政党友本党之両方より候識者ニ推挙仕候処︑厳 正中立ヲ以テ御承諾相成候串墜民一同満足可仕邦家之為大慶之主ニ 民捕欠選挙ニ

と車問ばれたのはその結果である︒

太古は

ニ就テハ ニ御断リ申侯そ区内平和ト⁝瓦フ事

ノ為メ終一一無止承諾就任セサんヲ得ザル場合ニ立歪リ申候﹂と決心を

閉めたのである︿添剖宛案文︶︒

ニ詔八七票を得たことが報知され︑七丹六日︑福

七 月

⁝ 日 詩 集 知 事 深 野 二 ニ の 旨 を 通 知 し た

︒ ま た

︑ 溜祝賀会における太古の演説原稿が残されている︒これを紹介するこ

の話を終えたい︒ には当

一年七晃三百鞍手務室方町一一於子衆議院議長選挙ノ結果当選

ノ連報ニ接シ出藍ノ儀照会設来侠間同日飯塚停車場ヨリ午後十ニ 時十七分発ニ乗車問町貝嶋氏宅ニテ昼飯ノ手当ヲ受ケ午後三時半

ニ於テ祝宴会開会栗田伴誠君ノ先導ニチ貝嶋中野ノ両君 出子栗田伴議活ノ紹分ニテ当選ノ披露ヲナシ夫ヨリ

付区民ヲ代表シ器望ノ挨拶アワ侠ニ付諸君

関車宴会席

⁝対シ左ノ答辞ヲナシタリ

答 辞

今回臨時議欠選挙ニ付アンテハ樟ニ適任ノ諸君居一フル︑ニモ不

持ス不肖ノ小生ヲ御推挙ニ相成ワ謎来政治上ニハ蛮テ経験ナキ

ノミナ一フス彼方ニシテ其任ニ非ラサルモ必党一一一区ノ平和ヲ様ツ

ト去フ点ヨリ御誰挙

m ノ家リマシタルコトト器︑ンマスル故ニ徴力

ヲモ不一顧護テ御受ヲ致︑ンマス決心一一御座イマス此由選挙上ニ付

マシテハ諸君ノ熱心ナ−

N

縛配慮ト親一淳ナル御芳意トニ対シアン

テハ何共御挨拶ヲ致マスル辞柄モナキ程デアリマシチ口ハ管深謝

スルト申ス外ハ錦盛リマセヌ諸君御推挙ノ御精神ニ付マシテハ 慎重ナル態度ヲ持マシテ内サナイト去ブ⁝点ハ誓テ綴カヲ尽シ

タイ積リテアワマスルケレトモ尚一躍ノ御心添ヲ切望致︑ンマス

本宮祝事会問ノ鍔寵ニ相成諸君ノ御希望ニ当リ欠敬ヲモ

席ヲ持シマシテ御一翠矯同ノ謝スル一冊巴ニチ櫛盛イマス

2 .議会での活動その他

て ︑

﹁ 翁 に挿括的な意味しか残さぬ議員生活いと︵

l ︶

際はどうだつたのだろうか

G

話 昨

O

HM

純 一 片

m w r

広 島

・ ぬ

︒ な

\ ︶

を 用

い て

ると次の通りとなる︒

︵ 通

常 ︶

・ −

a

第二次山県宥朋内閣

明 治 一 一

一 一 一

月一二百 第一間

明 治

三 一

精神病者監護法審査特別別委員会

明 治

︑窪か

月 の発言を

五 日

一 月

一 七

(11)

鉄道営業法案施設鉄道法案施設鉄道条例中改正法隷案審査特別委員

明 治 一 一

一 一 一

月九日

ム 一 品

鉄道営業法案施設鉄道法案施設鉄道条例中改正法権案審査幹別委員

一 月

一 ニ

5

鉄道敷設法中改正法舘案審査特問委員会 第二回

月 日 第

︵ 通

常 ﹀

・ ・

・ 第

四 次

郎 伊

藤 博

文 内

決算委員第五分科会

一六由議会︵通営 γ ・・第一次桂太郎内需

海軍造船材料資金会計法案委員会

海軍造船材耕資金会計法案委員会

鉱業法案委員会

明 治 三

月二四日

明 治

三 五

年 一

一 丹

ニ 五

第三回

明 治

ニ 月

七 自

第四臨

明 治

三 五

年 一

戸籍法中改正法整案委員会

明 、

一 一

月 三

日 国

A..

丘二

体 を

い 通

て し

見 る と

造船材耗資金といった︑太古と

︵特別委員会﹀に携わっていることが分かる︒

日に前議された予算案に

関する件であり︑いわゆる若松築器問題について高梨哲四部と問答を

宥ったのみである︒第一五議会は︑立憲政友会を与党とする第四次伊

藤博文内関によるものであり︑政友会に入会した太吉にとっても重要 一 方 ︑

一 三

年 ニ

ったはずだが︑太育

会 ︶ の み で あ っ た ︒

一 二

︑ 貴

族 挽

議 員

時 代

1 .研究会入会まで

貴族提議員時仕の太吉に関する替及は更に少ない︒太古は開明治四四

年 六

月 一

O 日︑多額納税者議員とし 二期一副

年 を

全 ︑

っ し

一 四

年 に

蹄 職

し た

︒ ︵

2 ﹀ に は

﹁ 貴

︺という項吾が立てられ︑﹁翁は詑来政党政派には

全く紫関様であったが︑内 r 藤去が政友会を組織するや︑

政 友 会 に 入 党 し た ︒ ︵ 中 略 ︶

の 勧

によって す

る や 茶 話 会

・ 土 曜 会 や 研 究 会 等 敦 れ も 翁 の 門 を 叩 い て そ

の入会を勧誘したが︑筑前議主黒田長成設は︑太自︹峰三郎貴族院︺

帯記官︹長︺を謙して翁が研究会に入る事を勧説是れ努めたので︑翁

も意を決して︑研究会の決議と政友会の決議と程容れがる場合は絶対

賎槌の義務なき特例を設けて︑遂に講究会に入り︑此旨原

政 友 会 総 裁 に 通 じ の 所 震 と な っ

‑142‑

と記されてい

30

で紹介したとおり︑今田整理した史料の中には貴族院説内会派・

会による通知書の綾が複数点発見された︒その畿の一つ﹁明治

四十周年六月起主二研究会関係書鎖い︿七四七

i 七宜 l 閥︑以下

断りがない限ちこの綾所収の番翰から引用﹀中には︑太古が務究会に

入るまでのやりとりの一部が判明する書翰が一昨寂されている︒以下︑

その内容を紹介したい︒

右の引患にもある通り︑議員に議選した太吉に対して院内会派への

参加を勧誘する五辻治仲書翰︵明治四四年六月一四日付﹀がある︒

︵前略︶諌ハ撲公ニハ匙震多額納税議員一⁝郵当選被遊侯段慶賀之主

就 一

ア ハ

此 諜

貴 族

罷 議

員 中

有 志

者 部

チ 岡

山 田

侯 爵

其 他

ヲ 弘

一 ア

(12)

組織スル葎究会ヘ錦加入被成下繰様誠実希望仕侠︵後略︶

この書翰から分かるように︑太吉は当選後すハ\さま五辻より研究会

へ誘われた︒そして︑その口説き文勾には旧福開審主・黒田長成の

名前が震われている︒貴族院爵議長でもあった県田は同時に研究会の

幹部でもあづた︒ここでは︑出蕃主との関孫を用いて会抵の拡張を全

国する研究会の食欲な姿勢が窺える 3 しかし︑太古はすぐけい研究会

入会を決断したわけではなかった︒それは︑七月二日︑五辻が﹁研究

会ヘ御加入被成下侯様瀬上護侯免如何ノ欝都合ニ御控侠故

っていることからも窺える︒八日︑太吉辻五辻に対し と督促を

までには返事すると返答した︒

そ の

後 ︑

九 月

二 九

日 ︑

萌 究

会 幹

部 の

一 一

一 島

弥 太

路 ︑

酒 井

忠 亮

︑ 中

古 川

重 吉

の 連

名 で

一 一

一 度

入 会

勢 誘

牧野忠

此 緊 本 会 ヘ ニ 梅 鹿 候

﹂ と あ る 通 り

︑ 太 古 は 未 だ

態援を保留していたようである︒議会開会も追ち決断の時期が近づい

たことを承けて︑一 O 月二一一日︑太吉辻太田峰三郎貴族院書記官長に

相談する︒太古は︑﹁研究会ハ諸問題之議決に当り調会之決議ガ若し

政友会と詔異する時と難も規出上絶対ニ其決議一一服従するの義務あ与

とすれは御承知之通り政友会員に挟故諒義上一町議之党議ニ反するを得

す︑研究会にハ薪る場合に於ける除外部ハ無之侯とすれハ本拝ハ将来

大関係有之候﹂︑とその悩みを告げ︑太田に対して研究会へ交渉を依

これまでの経歴から政友会とどう折り合いを付けるか

頼 し

た ︒

律儀に悩み続けていたのである︒

一六日︑太田から返事が麗く︒太田は︑﹁研究会員トシテ会ノ決議

ニ対スル鰻能ノ義務ハ全ク絶対ノモノニ之レナキコトハ先日モ一ムリ申

ニ存之候﹂︑と太台に念を持す︒そして︑太古の抜頼に対し ﹁尚ホ念ノ為会ノ幹部ニ確メ申候処徐外例ハ得時そ自由一プ申出 倒ニ梧成居候出一一候間政友会ノ党議ト窃究会ノ決議ト相容レサル場合 ニ於ケル御心配ハ全然御無用ト奉存候﹂との応答が研究会よりあった ことをん伝達した︿七四七!七五 i

一 一 ﹀

︒ 太田を介し 研究会入りを決断する︒

一七日付において研究会常務委員よ与入会許諾の通知が屈けられた︒

そして一九日︑太留に対して待介の労を謝した上︑太吉へ入会の勧誘

をしていたと思われ 下条正

・ 二

条 基

弘 ︑

・安楽兼選にも研究会入会を報告した︒そして︑一一

吉川の一ニ名に対して研究会入会の挨拶状会送付したので点

研究会の決議拘束と政友会の決議が常設した場合︑如何に振る舞う

べきかを撲髄する政治家・麻生太吉の姿が浮かんでくる︒それと問時

に太吉の中に政友会への婦購意識が強いことを裏付けている︒太田は︑

研究会の幹部よち﹁除外関﹂があるとの説明を受けたというが︑決議

拘束を要求する研究会においてかかる事調がどの程度あったか︑また

その有効性については判然としない︒ちなみに︑以上の内容は︵ 2

の記述と重なる部分も多いが︑これらの史料が︿ 2 ﹀を執筆するにあ

たり活用されたかどうかは今のところ不明である︒

研究会に入会した太吉は︑会派内の審査部会に関して鉄遊説に宮崎す

る内閣部に編入を肴盟した︒研究会はそれを承認し︑太吉の貴族院議

員 生

活 が

始 ま

っ た

︒ ︵

2 ︶にほ議員としての太古の功績も綴られている︒

日く︑﹁在任中は各常任及持別委員となり︑特に鉄道敷設法案には最

ったが背後にあ

も力を注い 雄

って尽力する見頗る多大であった︒

最も大なる力を致したのは︑貴族院の研究会と政友会とを握手させる

(13)

の鵠きをなした事である︒従来窃究会は︑飽くまで

是々非々を以て終始して来たが︑政友会は内欝を組織した際︑如何に

してもその政策の実現が期せられぬので︑後の逓倍大阻野田部太部氏

は 原 総 理 の 旨 を 含 ん で

︑ の 握 手 を 酉 し

︑ 予 て 親 交 あ る 蘇 生 議

為 ︑

議は研究会の中に在ハノてこの両者の接近に尽捧する処多

かった︒新くて識の努力は遂に空しからず︑年ならずして再者は堅く

握 手 し

︑ の 政 策 は 無 事 貴 族 院 を 通 過 す る に 至 っ た

5

︑ と の意味合いが強いの出用部分をそのまま鵜呑みにすること拭

ばならないが︑ここで述べられている︑政友会の原敬首相によ

る貴族院対策に関する研究は蓄積され︑家は務究会と協力することで

貴衆縦断を可能とし︑政権運営を安定化させたことが明らかとなって

い る

60

研究会と政友会の﹁握手﹂と太古については︑大正七年の多

額 納 税 者 議 員 選 挙 に 関 す る 酉 尾 氏 の 一 一 一 一 口 及 が あ る

70

て史料が

活用可能となったことをきっかけに︑貴族院議員・

し ミ

て 検

⁝ 吋

約 す

る 品

要 が

あ ろ

う ︒

2 .議会での活動

衆議院議員時抗と間諜に︑帝国議会会議録検索システム

官の発言状況をゆ調べると次の通りとなった︒ いて太

︵通常︶・・第一次山本権兵衛内関

一 分 科 会

︵ 陸 軍 省

田 大正三年二月

二 OB

九呂議会︵特別 γ ・・寺内正毅内閣 東洋拓殖株式会社法中改正法律案持関委員会

月 日

︿通常︶・・・寺内正毅内閣

支出の件︵承諾を求む

大正 第一面

第盟二回議会︵通常︶・・・原敬内閣

第六茜

︵ 特 別 ︶

・ ・

・ 原 敬 内 閣

鉄道敷設法中改正法律案特別委員会

鉄道敷設法中改正法律案特別委員会

第四四国議会︵通常 γ ・・原敬内需

軌 道 法 案 特 別 委 員 会 第 一 四 大 正

鉄道敷設法改正法律案特問委員会

鉄道敷設法改正法律案特関委員会

第 百 五 回 議 会

・ 高 橋 是 清 内 調 二 回 大 正

次加藤高明内閣 第五回

第 国 外七件特別委員会

大 正 九 年 二 月 一

大正九年七月二一日

ヱ ハ

O 年

三 丹

一 一

一 一

第五 O

回 議 会 ︵ 通 常

︶ ・

鉄道敷設法中改正法律案外

鉄道敷設法中改正法律案外二件詩別委員会 月 月 二

O 日

144‑

大 正

O 年三月二

大 正

O 年三月二六 E

第一回 大正

大正一四年三

衆 議 院 議 員 時 代 と 同 議

︑ る 法 案 審 議 に 参 画 し

専門性を活かした議員活動という点で泣衆議院議員時代から一

い さ ら に

︑ 多 数 残 さ れ た 譜 頼

・ 陳 情 書 や パ ン フ レ ッ ト

(14)

などをつぶさに検討することで︑

るのではなかろうか︒

おわちに 今回整穂した史料を用いた賞衆再院議員時代の太吉の素描は以上の

通ちである︒解題でも述べた通り︑地元のみまらず金問各地の人々か

らの数多の期待が政治家・蘇生太古に寄せられたことが窺える︒一方︑

太吉のように地元の名企が衆議院議員となり︑さらには多額約税者議

員として糞族院へと活譲の場を拡げていったという事実を歴史的にど

う位置付けるかは今後の課題でもある︒

既に整理が終わっている多くの史料器︑そして現在刊行中の﹁麻生

太古日記﹂を併せて読むことで︑議員・蘇生太古の研究がより

援していくことを期待しつつ︑小講を終えることにしたい︒

ー泉彦議﹁麻生太吉伝﹄︵第

2

麻 生 刊 仔 会 編

一 九

︑ 一

一 一

六 二

j

︵ 同

会 ︑

九 一

一 一

五 年

︶ ︑

四 回

真 ︒

一 回 一 一

一 ︑

4

多額納税者議員 ては︑西思林太郎 四年賓族院

︿﹁愛知淑語大学現代社会

︑間﹁大正一四年賛族院多

⁝淑謡大学紀要交流文化学

一 O 一四年﹀︑問﹁第六百貴族院多額納税者議員通

常選挙の当選者と会派﹂吋愛知淑徳大学現代社会研究科研究報告﹂

などを参燕のこと︒ 研究科研究報告﹄

一 一

O

二 一

の 当 選 者 ﹂ ︿

部篇﹄第四号︑

︒号︑ニ O ﹁貴族院の会派研究会史

︵尚友倶楽部︑九八 O

年 ﹀

︑ 臨 港 林 太 郎

の時代と貴族院い︵成文堂︑

00

五年︶︑内藤

設 治

︵ 思 文 関 出 版

︑ 一 一

︑ 再

な ど

代表的なものとして︑

6

一 四

四 頁

明治

モクラシ i

成﹁貴族院と主意

︵ 問

成 社

︒ ︒ 八 年

7

前掲吉尾 ヂモクラシ i の時代と貴族院円 六 O

︑ 一 ム ハ

(15)

﹁麻生家文書﹂議会関係史料群にみる麻生の 炭鉱経営

者 B

p刃;

は じ

め に

本史料群は議会関係との区分がなされているが︑解題にあるように

実際は議員活動のために上京中の麻生が蒐集または麻生の元に到来し

た史料によって構成されている︒そのため︑地元福岡から到来した書

翰類も散見される︒請願書など議員活動関連のものが多数ではあるが︑

一部に麻生の炭鉱経営と直接関係するものもある︒特に︑衆議院議員

を勤めた明治三二︵一八九九︶ 1 三五年は︑個人経営から経営組織と

しての麻生商店へと移行︵明治三 O 年︶した直後であるほか︑その後

経営に大きな困難をもたらすことになる藤棚炭鉱の引き受けが行われ

る︵明治三四年︶など︑麻生の石炭鉱業経営の重要な転換期であった

ため︑議員活動のため上京中とはいえども自身の炭鉱経営と無縁では

いられなかった︒それを示すように︑衆議院議員時代は炭鉱経営関係

史料が多数残存する︒本史料群は︑鉱業家麻生太士口の議員活動を物語

るのみならず︑筑豊石炭鉱業史研究においても非常に有益といえる︒

一 ︑

麻 生

商 店

関 係

明治三二年 j 三四年分の麻生商店各坑および各部署からの報告書が

散見される︵一部は野見山米吉名義での報告︶︒体裁は麻生商店及び

各坑︑各部署の罫紙綴となっており︑上三緒・山内・豆田︑芳雄製工

所・骸炭場・精米場などからの経営報告となっている︒各所で記載の

一旦麻生商店本社︵飯塚︶にて店長野見山米吉

l

の 元

で 整

理 さ

れ ︑

上京中の太吉の下へと郵送といった流れとなっている︒

一 例

と し

て 書

翰︵七四六 l

一 六

i 一一︶をみると︑罫紙の日付は二二日︑二三日付

と な

っ て

お り

︑ 封

筒 は

一 一

一 一

一 日

付 ︑

二 六

日 に

東 京

着 の

消 印

が 確

認 さ

れ る

ため︑各所から商店へ一︑二日で集約され︑二︑三日程度で東京へと到

着 し

て い

た と

考 え

ら れ

る ︒

時代順に列挙すると以下の通りになる︒

・ 明

治 三

二 年

明治三二年一二月一一日︵七四九|一八 l 一 O

四 ︶

明 治

三 二

年 一

一 一

月 一

五 日

︵ 七

四 九

| 一

l

一 三 O ︶

・ 明

治 三

三 年

明治三三年一月二九日︵七五

O l

一 九

| 七

‑146‑

明 治

三 三

年 二

月 一

二 一

︑ 二

三 日

︵ 七

五 O

l 一

八 l

七 七

︑ 七

人 ︶

明治三三年二一月 1 三四年二月︵七四五 l

一 六 ︶

・ 明

治 三

四 年

明 治

三 四

年 三

月 一

一 一

一 日

︵ 七

四 六

| 一

四 !

明治三四年三月一五日︵七四六|二

O l

七 ︶

明治三四年三月一七 j

一 九

日 ︵

七 四

六 l

一 四

| 二

︑ 三

︑ 四

明治三四年三月一九日︵七四六 l

一 七

| 八

明治三四年三月二 O

日 ︵

七 四

六 |

一 七

| 一

一 ︶

二 一

一 日

明 治

三 四

年 三

月 一

一 一

日 ︵

七 四

六 |

一 六

l

四 ︶

明 治

三 四

年 三

月 一

一 一

一 日

︵ 七

四 六

| 一

六 |

三 ︶

一 太

七 発

︑ 豆

明治三四年三月二二︑二三日︵七四六|一六 l

一 一

︶ 一

二 三

日 発

二六日着消印

報告は月単位でなく日単位で行われており︑留守を預かる店長・野

参照

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