はじめに 歴史記述には、それを記す歴史家の思想や立場・目的が背景にある。したがってわれわれが目にすることのできる歴史の記録とは、それを記録する歴史家によって取捨選択された過去の諸現象が伝承されたものである。当然、仏教者が仏教の歴史を語る、あるいは仏教史書を編纂するという行為も、その背景には著者の何らかの思想や課題があっ たはずである。特に仏教者の語る歴史は、それ自体が一つの宗教言説であり、歴史を言語化する行為とその伝承は宗教的な実践とも密接にかかわるものである。
そしてこのような視点で広く仏教世界を見渡したとき、歴史を語るという行為の背景を検討することが様々な場面で意味をもってくる。たとえば、東アジアで成立した諸宗派が重視する祖統説、歴史上の釈尊を「仏伝」として語る行為、さらにはその釈尊一代に説かれたとされる諸教説をめぐる教相判釈の展開、これらは広い意味で言えば「歴史 ()1
《研究論文》
仏教世界における歴史家の視点
──僧祐・道宣を中心とする史書編纂の背景──
親鸞仏教センター研究員
戸 次 顕 彰
を語る行為」と関係している。
われわれは語られた歴史記述に注目することはあっても、仏教者が歴史を語る行為の背景にある意図や思索について考えることが少なかった。中国仏教において仏教史学が発達したという周知の事実がありながらも、その展開を担った歴史家の思索を十分考えてきたといえるだろうか。また、史伝類の編纂には南山道宣(五九六~六六七)のような律僧が多く関わっているが、一人の僧の生涯ないし著作活動において律学と史学とはどのような接点があったのであろうか。
本考察は以上のような問題意識から、梁代から唐の道宣へと至る過程で成立したいくつかの仏教史書を考察する。具体的には、『出三蔵記集』『高僧伝』『続高僧伝』を中心として、それらの序文の冒頭箇所の記述から、歴史を語る行為の仏教的な意義を考察してみたい。
これらのいわゆる仏教史書は、その序に相当する文章の冒頭が「真理は奥深い」とか「奥深い真理は言語で表現できない」というような意味の句から開始される。たとえば中国仏教史学の創始者として知られる僧祐(四四五~五一 八)の『出三蔵記集』序の冒頭は「真諦玄凝」から始まり、慧皎(四九七~五五四)の『高僧伝』序録では「至道沖漠」、そして前述した道宣の『続高僧伝』序では「至道無言」という句から始まる。このような句から書き出される歴史書の冒頭部分に注意することによって、史書を編纂することの目的やその背景に存在する歴史家たちの思索を考察することが本稿の目的である。本考察の後半では、特に南山道宣の仏教史観や三宝説を事例として取り上げ、仏教史家と律僧に共通する課題がどのようなものだったのかという点を追求してみたい。
一 仏教史書冒頭の記述一―一
『出三蔵記集』の場合
梁・僧祐の『出三蔵記集』は中国仏教史上、経典目録として重要な位置にある。それは道安の『綜理衆経目録』に基づいて作成された現存する最古の経典目録であり、異訳経典・失訳経典・抄経・偽経などを整理した目録を示しているという点で、梁代までの中国仏教研究の基本史料とな ()2
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っているからである。しかし一方では、このような経典目録という文献的性格のみが『出三蔵記集』の特色ではないという点も留意しておきたい。それは僧祐自身が序において、その内容を「一に縁記を撰し、二に名録を銓し、三に経序を総べ、四に列伝を述ぶ」と示すように、目録という内容以外にも、インドでの仏滅後の仏典成立の様相、経典の宗要や訳出の経緯を記録した経序の蒐集、伝訳に関わった人物の伝記を記す、というような要素が含まれているからである。つまり、仏典の成立・伝来・訳出といったテーマに基づいて、それらの記録を集成した仏教史書として位置付けることができるものである。
そこでその序文冒頭箇所に注目してみたい(引用が長文
にわたるため適宜改行した)。
夫真諦玄凝、法性虚寂。而開物導俗、非言莫津。是以不二默詶、会於義空之門、一音振辯、応乎群有之境。自我師能仁之出世也、鹿苑唱其初言、金河究其後説、契経以誘小学、方典以勧大心、妙輪区別十二惟部、法聚総要八万其門。 至善逝晦跡、而応真結蔵、始則四鋡集経、中則五部分戒、大宝斯在、含識資焉。然道由人弘、法待縁顕。有道無人、雖文存而莫悟、有法無縁、雖並世而弗聞。聞法資乎時来、悟道藉於機至。機至然後理感、時来然後化通矣。昔周代覚興而霊津致隔、漢世像教而妙典方流。法待縁顕信有徴矣。至漢末安高宣訳転明、魏初康会注述漸暢。道由人弘於茲験矣。
(大正五五、一上)そもそも真諦は奥深く静止しており、法性は実体がなく寂然たるものである。しかし人々〔の心〕を開いて在家者を導くには、言葉がなければ〔伝える〕手掛かりとなるものがない。このゆえに〔『維摩経』の〕不二という沈黙の応答は、真実の空の教えにかなっており、ただ一音による弁舌が振るわれたことは、衆生の境涯と呼応した。我らの師である釈尊(能仁)が世に出現されると、鹿野苑で初めて教えを言葉として説き、金河で最後の説法を究め尽くし、契経によって小乗の教えを学ぶ者を誘引し、方等経によって大乗の心をもつ者を導き、妙 ()5()
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なる法輪は十二部経として区分され、法のあつまりは八万の法門としてまとめられた。善逝〔たる釈尊〕が姿を晦まされてからは、阿羅漢たちが三蔵を結集し、初めは四阿含として経を集め、〔その後〕中ごろに五部に戒律が分かれ、偉大な宝蔵がここに存在することとなり、認識力を有する衆生
(含識)のよりどころとなったのである。そうであるので道は人によって弘められ(「道由人弘」)、法は縁によって顕現される(「法待縁顕」)。道があっても人がいないということは、文章があっても悟る人はおらず、法があっても〔それに触れる〕縁がなければ、世に〔法が〕存したところで〔人々が法を〕聞くことはない。法を聞くことは時の到来により、道を悟ることは機根の熟達による。機が熟達したその後に理は感得され、時が到来してその後に教化が広く行われていくのである。昔、周代に〔遠いインドで〕仏陀(覚)が世に出現されたが霊妙なる渡し場とは隔絶しており、漢代の像教の世に妙なる典籍(仏典)がはじめて伝わった。「法が縁によって顕現される」ということの確 かな証拠である。漢末の安世高の翻訳活動によって〔仏法が〕ますます明らかになっていき、魏の初めの康僧会の注釈活動によって〔仏法は〕だんだんと盛んになっていった。「道は人によって弘まる」ということはここに証明されているのである。
僧祐によれば、「真諦」「法性」という真実の究極的なあり方は、奥深く凝然・寂静たるものであるという。だから人々をその真実へと導いていくには言葉を用いなければならないと冒頭でまず表明される。そしてこれに続いて『維摩経』の不二法門と一音説法を事例として挙げる。これらは沈黙や一音による教化であり、われわれが日常で用いる言語での活動を超越した手段である。ここで僧祐が強調したいことは、文中に「不二の默詶 0」「一音の振辯 0」とあるように、「玄凝」「虚寂」たる真理が教え(「詶」「辯」)として表象されたという点である。この表象によって真理が衆生に応じることができるという点に僧祐の主眼が置かれている。続けてそのことは、釈尊の生涯における説法や入滅後の経・律の成立という歴史事実に言及する際にも、鹿野 ()10()11
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苑での「初言 0」、クシナガラでの「後説 0」、声聞たちに教える「契経 0」、大心を有する菩薩を導く「方典 0」と表記されるように、どれも言語や典籍として教えが伝承されてきたことを強調しようとするものである。
さらに典籍のみで仏道が自動的に広まるわけではない。そこには人が介在しなければならないのである。これが「然道由人弘」以下の文の主意である。『論語』衛霊公の名句を表現として借用しつつ、時間的・空間的に遠く離れたインドの地において釈尊が悟った真理を、典籍として中国へ伝え、それを翻訳し、さらにそれらを注釈・講義した人々がいて、そういった人たちの具体的行為によって「真諦」「法性」がはたらき出しているということがここで述べられている。一見難解な『出三蔵記集』の序文であるが、仏典の成立・伝来、そして特に訳出に関わる記録を集成するという本書の文献的性格や撰述意趣を考慮しながら読んだとき、言語によって表現できない真理を敢えて言語化し、それを典籍として伝承した人の行為を尊重すべきであるとする僧祐の歴史観がここに知られる。僧祐の序は、「真理」→「教化」→「言説」→「典籍」→「訳出」という構 図によって仏法が具象化され伝承されてきたプロセスを明確にしたものである。
一―二
『名僧伝』の場合 仏教史学の展開を考えるにあたっては、僧祐の史学継承者として宝唱(生没年不詳)という人物がいる。梁代の仏教類書『経律異相』の編纂者として知られ、『比丘尼伝』の著者でもあると伝えられている宝唱には、『名僧伝』という著作があったとされる。そこでこの『名僧伝』について、少しだけ言及しておきたい。「名僧伝」と題される僧伝は、『高僧伝』が成立する以前に複数存在していたようであり、『高僧伝』の著者慧皎は宝唱の『名僧伝』を特に意識していたことが知られている。その宝唱は「年十八にして僧祐律師に投じて出家す。……風を承け徳を建て、宗嗣を声 ほまれとすること有り」と伝に記されており、僧祐のもとで出家してその学風を継承していた形跡が見られる。また、道宣が『続高僧伝』宝唱伝において略出する『名僧伝』の序文においては、僧祐やその著 ()13
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作への称賛と継承の意志が見られ、このことからも僧祐から宝唱へと史学が継承されていたと考えられる。
その道宣が伝える『名僧伝』序によれば、その冒頭は次のようにある。
夫深求寂滅者、在於視聴之表。考乎心行者、諒須丹青之工。是万象森羅、立言之不可以已者也。
(大正五〇、四二七中下)そもそも深く寂滅を求めようとすれば、〔それ(寂滅)は人間の〕視覚や聴覚による認識世界の外側にある。〔しかし、修行の〕心もちを考察しようとすれば、まことに絵画や書物などの具象を用いる。ここにおいて現象世界の一切は、已むを得ず言葉を立てなければならないのである。
「寂滅」とは、仏道修行の到達点であり、それは人間のふつうの認識では及ばないところのものである。また仏道を歩む修行者は表象化された事物によらなければならないということである。実にその冒頭部分は、「寂滅」という境 地を探求する者に対して「言」の必要性を説くという点において、『出三蔵記集』と類似している。道宣が伝える序によれば、宝唱はこれに続けて、中国の政治や思想に言及しつつ、仏教以外の中国思想のすぐれた文章が典籍となって、それがやがて官僚体制や学問体系となっていったという事例を挙げている。しかし一方、それに続く文章では「沙門の浄行、独り紀述を亡 うしない、玄宗敏徳、名は終古に絶ゆ」と述べ、すぐれた沙門たちの歴史記録が失われていることを問題視しており、それが本書撰述の動機となっている。『名僧伝』は今では失われてしまったため、その全貌を知ることはできない。道宣所引の序や、日本の鎌倉時代の宗性(一二〇二~一二九二)の『名僧伝抄』によって、その一部を知ることができる程度である。『名僧伝』の課題は、その後に成立した『高僧伝』へと受け継がれていくことになる。逆に言えば、『高僧伝』の成立によって『名僧伝』の歴史的役割が終わったということも考えられるであろう。しかしわずかに残された「序略」によって、その冒頭が「寂滅」という境地の奥深さを示す句から開始され、人間 ()19
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がそれを求めるにあたっては表象の必要があると説く宝唱の視点は、宝唱が尊敬した僧祐の歴史観を受け継ぐものである。梁から唐へと至る仏教史学の展開の中で、そこを貫いて共通する歴史家の視点を見出そうとすれば、『名僧伝』に関するこのわずかな痕跡は無視することのできない記録である。宝唱の言葉は、次に見ていく『高僧伝』『続高僧伝』へと継承されていくのである。
一―三
『高僧伝』の場合
『名僧伝』を先行文献として強く意識しつつ、梁の慧皎によって撰述されたのが『高僧伝』である。そこで、すでに周知のことではあるが、『名僧伝』と『高僧伝』との関係について、特に「名僧」から「高僧」へと名称が変更された背景について一言しておきたい。慧皎は序の末尾においてタイトルを「名僧」ではなく「高僧」とすることの意図を次のように述べていることが注目される。ここに引く文章は、『高僧伝』が解説される際に必ずと言ってよいほど言及されるものであるが、本稿の立場や視点から再び取り 上げてみたい。
自前代所撰多曰名僧。然名者本実之賓也。若実行潜光、則高而不名。寡徳適時、則名而不高。名而不高、本非所紀。高而不名、則備今録。故省名音、代以高字。
(大正五〇、四一九上)前代に撰述されたものの多くは「名僧」と名付けられている。しかし「名」とはもともと本質的な事柄(実)に随従するもの(賓)である。もし実際に行いがすぐれていても光を潜めていたならば、それは高であるが名がないということである(「高而不名」)。徳が少なくても時代にかなっていれば、それは名があって高ではないということである(「名而不高」)。名があって高ではない人は、もとよりこの歴史記録(本書『高
僧伝』)に記すところではない。高であるが名がない人こそ、この記録に記載していく。よって名という音を省き、それに代えて高の字を用いる。
ここでは、高くして名(名声)のない僧と、名声はある ()24
が高くない僧とを対比させている。ここでの「高い」とは「寡徳適時」という表現などを手掛かりに考えると、徳の高いことを指すものであろう。慧皎は変化する時代の中で一時的に名声を得たようないわゆる「名僧」は、本書に記載しないという立場を表明し、逆に光を潜めて名声はなくとも、高徳である僧こそ積極的に発掘し立伝していくという編纂方針を述べている。「名」から「高」へと僧伝が転換したことは、単に僧伝のタイトルが変更されたということにとどまらず、その後の時代の僧の生き方にも影響を与えたことが想像できる。そうであれば、ここに『高僧伝』が成立したことは、中国仏教が新しく出発していく基点となったのであり、歴史家が歴史を動かしたという一つの事例であったと言ってもけっして過言ではないだろう。
また、僧祐の『出三蔵記集』も慧皎にとっては重要な先行文献として存在していた。僧祐と慧皎とに直接の交流があったかどうかはよく分からないが、『高僧伝』序録の中で、前代の仏教史に関する記録について慧皎が言及する際に、『出三蔵記集』については「止だ三十余僧有るのみ。無き所甚だ衆し」と述べて欠点を指摘していることから、 『出三蔵記集』の不足を補うことが『高僧伝』撰述の目的の一つであったことが分かる。ただし、このことが直ちに慧皎にとっての批判対象であったというのでは決してなく、実際には訳経僧の伝の中で多く『出三蔵記集』の記載を踏襲していることが認められる。こういった事情から、『出三蔵記集』に対する先のような欠点の指摘については、「不満の言辞なのではなく、むしろ遺憾の表明とすべき」や「(慧皎の)本音は『無き所甚だ衆きを倖とす』ではなかったか」と先学によって論評されるとおりである。ともかく『出三蔵記集』と『高僧伝』とは、訳経僧の伝の内容のみならず、史学の形成という点においても一つの流れとして密接に関係している。その点に注目してみたいのである。 その慧皎の『高僧伝』は、いわゆる「序録」として書物の末尾に序と目録が置かれる。先に見た『出三蔵記集』序との類似性に留意してその冒頭に注目したい。
原夫至道沖漠、仮蹄筌而後彰。玄致幽凝、藉師保以成用。
(大正五〇、四一八中)たずねてみるとそもそも究極の道はひっそりと静まっ ()25()
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ており、手段をかりてその後に〔はじめて〕明らかとなる。玄妙なるおもむきは奥深く静止しており、教え導く師によってこそはたらきを成すのである。
先の僧祐が「真諦」「法性」と表現したのに対して、慧皎はその究極的あり方を「至道」「玄致」とし、それらは「蹄筌」「師保」といった手段を用いることによって、現実的なものとして存在してはたらきを成すと述べる。この書が「高僧 00伝」と題されていることを考えれば、「蹄筌」に対する「師保」に慧皎の力点があるという感もある。
この文に続いて、慧皎は儒家・道家への論評、釈尊の教化への讃嘆を述べる。さらにその後、これまで中国で著された仏教関係の史書に不足する点を挙げたうえで、自らの『高僧伝』撰述の立場ないし方針を述べるという流れになっている。
この序文において注目すべき点は、全十篇の初めに「訳経篇」を置くことの理由を述べた次の文である。
然法流東土、蓋由伝訳之勳。或踰越沙険、或泛漾洪波。 皆忘形殉道、委命弘法。震旦開明一焉是頼。茲徳可崇、故列之篇首。
(大正五〇、四一九上)仏法が東の地に伝わったのは、そもそも〔仏典を〕伝えて翻訳するという功績によるものである。ある人は険しい砂漠を超え、ある人は大波の中を船で漂った。皆が身体のことを忘れて仏道に身をささげ、命をかけて法を弘めた。中国で〔仏法が〕開かれて明らかになったことはもっぱらこのことによるのである。この徳は尊重すべきである、だからこれ(訳経僧たちの伝記)を最初の篇に列するのである。慧皎は『高僧伝』において「訳経篇」を立て、それを諸篇の第一に置くことをここで表明しており、これは以後の僧伝においても踏襲されていく。慧皎はこの篇を第一に置く理由として、身命を惜しまず中国に仏法を伝えた人の存在と苦労があったからだとしている。そして、この行為によって成し遂げられた「訳経」という事業があってこそ、残り九篇の義解・神異・習禅・明律などのような、いわゆる中国仏教の各ジャンルが展開していくという歴史観がこ ()30
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こに示される。遠いインドで釈尊によって示された「至道」「玄致」という仏教の真実が中国へ伝わったことは、ひとえに「訳経」という人間の具体的行為によるものであるとする慧皎の歴史意識なのである。
ところで、このように沙門をその徳行によって分類して章立てするという先例は『名僧伝』にすでに見られる。その分類においては、『名僧伝』を慧皎が「踏襲した」とする見方が一般的かもしれない。しかし細かいことではあるが、宗性の伝える『名僧伝』目録を参照すると、『名僧伝』には「訳経」という一篇は立てられておらず、訳経僧は「法師」に配当されていることが分かる。『名僧伝』は法師と禅師において外国出身者と中国出身者とに分けていることが特徴的であり、逆にそのような区別を設けなかったことが『高僧伝』の特徴である。「法師」としてではなく、慧皎が敢えて「訳経」という篇を第一に立てた意義に注目すれば、その背景には僧祐の思索を想起することができる。すなわち前々項で見たように、「訳経」から中国仏教が展開していくという視点は、「道は人に由りて弘まる」「法は縁を待ちて顕わる」として『出三蔵記集』を著 わした僧祐によってすでに確立されていたものなのである。『高僧伝』の分科は『名僧伝』の単なる踏襲というよりも、むしろ僧祐の歴史観の継承であると見るほうが適切ではないだろうか。
一―四
『続高僧伝』の場合
『続高僧伝』はその名の通り、慧皎の『高僧伝』を継承する意識によって道宣が生涯をかけて著したものである。道宣は、慧皎の『高僧伝』について「文義明約にして、即ち世に崇重せらる」と論評しており、その成果を称えている。しかし一方では、周知のように、南方(呉越)の沙門に詳しいが北方(魏燕)の沙門については記載が簡略であること、また梁代に明徳なる僧が多くいたにもかかわらず、わずか数名しか伝えていないという点に不足があると道宣自身が序の中で述べている。『続高僧伝』撰述の背景には、このような『高僧伝』の不備を補うという意識があったことが知られる。
しかし、史伝の編纂において、そこに一貫する仏教史家 ()33
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の思索を探るという観点に立って、本節の最後に道宣の『続高僧伝』序の冒頭部分を見ると、これまで見てきた仏教史家と共通する思索を見出すことができる。
原夫至道無言、非言何以範世。言惟引行、即行而成立言。是以布五位以擢聖賢、表四依以承人法。龍図成太易之漸、亀章啓彜倫之用。逮乎素王継轍、前修挙其四科、班生著詞、後進弘其九等。皆所謂化道之恒規、言行之権致者也。
(大正五〇、四二五上)たずねてみるとそもそも究極の道に言葉はないが、言葉でなければ何によって世間に模範を示すことができようか。言葉は行を引き出し、行に即して言葉が成り立つ。これによって五位を布告して聖者・賢者たちを選抜し、四依を表明して人と法〔というよりどころ〕を継承した。黄河から出た龍馬の背にあった図は天地開闢の兆しを成し、洛水から出た神亀の背にあった模様は人倫のはたらきを啓き示した。素王(孔子)は先人の歩んだ道を継承して、門弟に四科を示し、班生(班固)は書(『漢書』)を著して、後進の者に九流の学 術を弘めた。これらは皆いわゆる〔人々を〕教化して導く常の規範であり、言動として〔人々を導く〕具体的な教えなのである。
慧皎の『高僧伝』と同様に「至道」から始まるこの序においても、本来言語によって指し示すことはできないものが、「五位」や「四依」の教説として示されたことによって仏道を歩む人々の模範になったとされる。それは世間で伝承される世界の生成においても同様であるとして「龍図」や「亀章」、あるいは孔子や班固の著述や教化活動を事例として挙げている。この文中にある「龍図 0」「亀章 0」は、本来の混沌とした状態の中で突如として出現した事物のことであり、表象化された記号や模様のようなものである。その「図」「章」がやがて文字や言語として人間の生活する場にはたらき出す。そしてこれによって「四科」や「九流」という学術の体系となり、それが人々に示されていくという文明社会形成の原理がここで述べられている。道宣はこれを冒頭で示したうえで、あたかも仏教の史的展開も同様であることを示唆し、本書三十巻で僧伝を叙述し ()37
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ていくという展開になっている。
ここまで見てきた仏教史書に比べると、『続高僧伝』序は読解困難な箇所もあるが、その冒頭部分の内容は類似している。特に、初めに真実の奥深さを述べ、続いて言語のような何らかの事物による表象化が必要なことを説き、それに続けて仏教以外の中国思想や学術に言及する冒頭部分の始まり方は、『高僧伝』と同じである。但し慧皎の場合は、中国の「忠・烈・孝・慈」といった倫理、儒家の経典の意義、道家の姿勢や態度に言及した後、「教は但だ域中にして、功は近益に存す」や「未だ其の神性を奥尽せず」と述べ、仏教との優劣を明確にしている。この見方に対して、『続高僧伝』の冒頭にはそこまでの言及は見られず、むしろ仏法も世俗の法則と同様であるとする論調である。このような微妙な違いが見られるものの、真理が言語化され、教説となっていくことによって現実にはたらきをもち、それが仏教者の指針・規範となったという点は共通している。 二 南山道宣の仏教史観二―一 僧祐から道宣へ
唐初の仏教界において史伝関係の著作を多く残し、一方では『四分律』を中心とする戒律関係の著述もおこなった道宣の生涯にわたる著作活動について、そこに一貫する思想ないし仏教史観なるものを探ろうとしても様々な困難がつきまとう。かつてそのような試みが為されていなかったわけではないが、戒律が先か歴史が先かという二者択一の議論ではなく、戒律・歴史という二つの領域が道宣の生涯や著作活動において通じているのであるとすれば、それはどのような思索ないし仏教史観から必然するものであるのかという点を論じてみたい。
一人の仏教者の思索は、その人が学んだ教義や思想のみから解明されるものではない。その人が生きた時代、あるいは歴史の中でいかに形成されたのかという視点も必要である。とりわけ中国という仏教世界では、仏教がその当初から外来の宗教として受容されていることから、国家や他 ()43
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思想との融合や葛藤の中で展開してきた歴史がある。このような状況下で仏法を護り伝えようとした仏教者の営みこそが、中国仏教を形成していったのである。
藤善眞澄氏は、隋唐仏教をいかに把握するかという課題のもと、国家と僧団との関係から南北朝より隋唐への仏教史を叙述した論考「隋唐仏教への視角」のむすびの中で、『弘明集』にある僧祐の言葉を引いて、「時とともに変貌するのは仏法の本質や宗教の権威ではない。変化するものは、それを具現化する僧であり、教団自体であるだろう」と述べる。その僧祐の言葉とは、「弘明論」と名付けられた『弘明集』末尾の後序にあたる論説の中にある。そこでは世間の人々が仏教に対して向けた疑惑を六つにまとめ、その一つ一つを僧祐が検証していく中で発せられたものである。その第六の疑惑では、仏法は漢魏の頃には衰微であり、晋代になってようやく盛んになったに過ぎないとする世間からの論難に対して、僧祐が次のように述べているので、ここで再度注目してみたい。
感応因時、非縁如何。故儒術非愚於秦而智於漢、用与 不用耳。仏法非浅於漢而深於晋、明与不明耳。是知五経恒善、而崇替随運。仏化常熾、而通塞在縁。
(大正五二、九六上)時に応じておこる感応は、縁にこそよる。故に儒者の教えは秦代には愚で漢代には智であったわけではなく、〔それが〕用いられるか用いられないかだけである。仏法は漢代には浅く晋代に深まったというわけではなく、明らかであったか明らかではなかったかというだけである。ここにおいて儒教の経典(五経)は常に善である一方で、尊ばれるか衰退するかは時のめぐりあわせ(運)によるものである。仏の教化は常に盛んであるが、〔それが〕あまねく広まるか閉塞するかは縁によるのである。真理との感応は時や縁によるものであるとする。『出三蔵記集』序において「法は縁を待つ」と述べた僧祐の視点が、ここでも「縁に非ざれば如何」という問題提起となっている。何より注目すべきは「仏化は常に熾ん」であると述べるように、仏の真理やはたらきは常恒であり、むしろ ()45
盛んであったというのが僧祐の主張である。それでは現実に、表面的な「明」「不明」・「通」「塞」の変化があるのはどうしてかというと、「時」や「縁」によるものであると僧祐は言う。仏法の浅深は時代状況やその時代に生きる人の問題であるとする認識は、必然的に僧伽や僧個人の生き方へと関心が向けられていくことは容易に想像できる。このような歴史意識が慧皎や道宣の「高僧伝」と題された史籍成立の背景にもあったと考えられるのである。
ここでの僧祐の認識は、唐・道宣の課題を考えていく上で極めて重要である。僧祐と道宣は、両者が残した足跡や著作活動において類似した性格を有している。また両者はともに僧伝では「明律篇」に立伝されていることが示すように、戒律を重視する律僧として位置付けられていた人物である。僧祐を慕い、その業績を受け継ごうとする意識によって編纂されたのが道宣の『広弘明集』であり、その総序の冒頭には次のようにある。
自大夏化行、布流東漸、懐信開道、代有澆淳。斯由情混三堅、智昏四照。故使澆薄之党、軽挙邪風、淳正之 徒、時遭佞辯。
(大正五二、九七上)大夏に教化が行われ、東の中国に伝わり流布してから、信を懐き道を開くことについては、〔人々の信心に〕澆 うすい時代と淳 あつい時代とがあった。これは〔道理に暗い人々の〕情が三堅の法に混乱し、〔仏の智慧が〕四方を照らしていることに気づかず昏迷していることによる。故に軽薄な者たちに、軽々しく邪な教えを吹聴させ、篤い信仰をもつまことの人々を、時に巧みな悪言に遭遇させてしまう。インド・西域から中国へ東漸した仏教の、特にその歴史について道宣は「代に澆淳有り」と述べ、時代にそれぞれ「澆」なる時代と「淳」なる時代とがあったとする。これは仏教が、時には弾圧され、時には興隆したという事実について述べたものであることは、これに続く文章から想定できることであるが、ここで中国仏教の興亡を「代」の問題とする歴史家の言葉は重要な意味をもつ。それはけっして時代社会に責任を転嫁するものではない。本書が僧祐の『弘明集』を継承する意識によって編纂されたものである ()46
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ということを考慮すれば、ここでの道宣の意図は、邪悪な教えや巧みな悪言によって時には弾圧される時代があったとしても、仏法は確かに存在しているということを示そうとしていると考えられる。それは「仏化は常に熾ん」であるとして世間の論難と対峙した僧祐の視点と同様である。
さらに注目すべきは、このような歴史意識が道宣の戒律関係の著作にも反映されていることである。道宣の編集した『曇無徳部四分律刪補隨機羯磨』(以下『羯磨』)序には次のようにある。
自慧日西隠、法水東流、時兼像正、人通淳薄。初則二部五部之殊、中則十八五百之別、末則衆鋒互挙、各競先駆。人或従縁、法無傾墜。然則道由信発、弘之在人。人幾顛危、法寧澄正。
(大正四〇、四九二上)太陽のような智慧(釈尊)が西で姿を隠し、水流のようにその教えが東へ伝わってから、時代には像法と正法とがあり、人〔の信仰〕にも厚いときと薄いときとがあった。〔仏教教団は〕初めは二部や五部に分かれ、中頃になると十八部や五百部と言われるほどの部派に 分かれ、最終的には無数の議論が巻き起こり、それぞれ自分が第一人者であると競い合っている。〔このように〕人は縁によ〔って様々に変わることがあ〕っても、法が失墜するということは〔けっしてありえ〕ない。そうであれば、道(悟り)は信によって起こり、それを弘めていくのは人である。人〔のあり方〕が危機に瀕すれば、法がどうして正しく清浄なままであろうか。戒律や教団の歴史を振り返ったこの文章は、釈尊の入滅を起点として、その後に仏法が伝承されていく過程で、多少の変化が起こったとする。このような論調は、道宣著作の序や論にしばしば見られる定型的なパターンでもあり、戒律関係著作においては、その変化の過程を「澆訛」「浮訛」という語を用いてやや批判的に表現する場合が多い。「澆訛」「浮訛」は、仏法が歴史の中で少しく誤った方向に転化していったこと(「訛」)を示すものである。
ところで、『羯磨』におけるこの文章では、先に見た『広弘明集』序の冒頭に「代 0に澆淳有り」とあったことと ()48
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同様に、「時 0は像正を兼ね」「人 0は淳薄に通ず」とある点が注意される。すなわち「像・正」「淳・薄」といった変化は、仏法そのものの変化を指すのではなく、変化しているのは時や人だということである。仏法をめぐる歴史の推移は人が伝承していく中で起こったことであるとして、過去の歴史そのものに何らかの価値判断を加えようとすることが道宣の主眼ではない。注目すべきは人と法とが対比され、「人或いは縁に従るも、法の傾墜すること無し」とあることである。法そのものは常に一定であり、決して傾いたり堕落したりするものではないからである。かつて僧祐には、中国史の中で時代的な盛衰があっても、仏の本源は常に興隆した状態にあるとした「仏化は常に熾ん」であるという過去へのまなざしがあったことを先に見た。人や縁によってこそ仏法の歴史は動いていくのであり、堕落や衰退は法を弘める人の側の問題であるということである。
このような視点が仏教者として戒律を尊重した生涯の課題とも連動しているであろう。それは道宣がこの文章に続けて当該著作の主題である「羯磨」伝承の問題に言及していることから分かる。すなわち「所以に羯磨の聖教、古今 を綿歴し、世漸く増繁し、徒らに巻軸に盈つ」と述べるなど、部派に分裂して互いに学説を競い合っているうちに羯磨文献がいたずらに増加し煩雑化して混乱を来したという問題点を挙げていることから知られる。このような混乱の整理が直接的には本書撰述の動機になっているのである。
先に見た『出三蔵記集』『弘明集』『広弘明集』など史伝・護教関係に分類される著作に見られた歴史観と同様のことが、『羯磨』という戒律関係著作にも見られるという一つの事例を示すことがここでの目的である。律学と史学の接点をめぐる一つの事例からの類推ではあるが、歴史家が戒律を重んじる、あるいは律僧が歴史を記録することを重視した中国仏教の動向とその背景を解明する手掛かりとなり得るものである。
二―二 道宣の住持三宝説
人によって仏法が興隆するという以上のような歴史観が、三宝を未来に向けて住持していくという実践課題になっている事例を、道宣の「住持三宝説」において見ることがで ()51
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きる。道宣の仏教史観を探ることを目指した本節の最後に三宝説に注目してみたい。
三宝は仏教徒が帰依すべき対象として時代を超えて重要な位置にある。しかし多くの仏典を続々と受容した中国仏教において、仏法僧それぞれの定義を明確にしようとしても仏典によって様々な説があるため、それぞれの成立次第や本末関係などについて論じるに際しては、一概に明確にすることができないという問題がある。
そこで中国では、三宝の教説をめぐる整理が行われた形跡が見られる。それらは、たとえば浄影寺慧遠(五二三~
五九二)の『大乗義章』「三帰義」、智儼(六〇二~六六八)の『華厳孔目章』「三宝義章」、基(六三二~六八二)の『大乗法苑義林章』「三宝義林」、法蔵(六四三~七一二)の『華厳経明法品内立三宝章』「三宝章」の中に見られる。以上のような隋唐の諸師は、三宝を三種類ないし数種類に分類してそれぞれの特徴を論じており、たとえば慧遠の『大乗義章』は別相三宝・一体三宝・住持三宝という三つに分類する。
一方、道宣も同様に『四分律含註戒本疏』(以下『戒本 疏』)および『釈門帰敬儀』の中で、三宝は本質において一体であるとする一体三宝、究極的な真理としての理体三宝、歴史上の釈尊を仏宝とする化相三宝、仏滅後も存在し得る住持三宝の四種の三宝を説いている。これらの詳細に言及することは本稿の主題から外れるため割愛するが、次の文章は『釈門帰敬儀』における四種の中、第四の住持三宝を説明したものである(引用が長文にわたるため適宜改行
した)。
四明住持三宝者、人能弘道、万載之所流慈。道仮人弘、三法於斯開位、遂使代代興樹、処処伝弘。匪仮僧揚、仏法潜没。至如漢武崇盛、初聞仏名、既絶僧伝、開緒斯竭。及顕宗開法、遠訪華胥、致有迦竺来儀、演布声教、開俗成務、発信帰心。実仮敷説之労、誠資相状之力、名僧宝也。所説名句、表理為先。理非文言、無由取悟。故約名教説聴之縁、名法宝也。此理幽奧、非聖不知。聖雖云亡、影像斯立、名仏宝也。 ()53
但以群生福浅、不及化源、薄有餘資、猶逢遺法。此之三宝、体是有為、具足漏染、不足陳敬。然是理宝之所依持、有能遵重、相従出有。
(大正四五、八五七下)第四に住持三宝を明らかにすれば、〔先に道があるのではなく〕人こそ道を弘めていくのであり、長い年月に慈悲を伝えるところとなる。道は人によって弘まり、三宝はここにおいて位を確立し、時代を追って興隆し、地域ごとに流布されていくのである。僧〔宝〕が盛んにならなければ、仏〔宝〕と法〔宝〕は潜没してしまう。前漢の武帝が〔仏教を〕尊び盛んにし、初めて仏名を聞くことになったという伝承に至っては、すでに僧伝がないので、〔仏教初伝の〕いとぐちを開き示そうとしても不可能である。〔また〕顕宗(後漢の明帝)が仏法を展開させようとして、〔使者を〕遠く西域に送り、迦葉摩騰・竺法蘭がやって来て、声教を流布させ、在家信者〔の心〕を開いて務めを成し、信を発して帰依させた。実に〔人が〕教えを広めるという労によって、誠に具象の力にはたらきかけていく、それが僧宝であ る。説かれた言葉は、先ずもって真理を表す。〔しかし〕その真理は文言そのものではないから、悟りを得る由縁がない。故に言葉としての教えの説・聴の縁、これが法宝と名づけられる。この理はとても奥深いものであり、聖者でなければ知ることができない。聖者はいなくなることがあるけれども、画や像によってあらわした仏(影像)がここに成立する、これが仏宝である。ただ考えてみると衆生は福徳が浅いので、仏陀が出現して教化する本源に及ぶことができない。それ以外の要素が少しくあって、今なお遺法に逢うことができるのである。この三宝は、本体が有為であり、煩悩を具足しており、〔本来であれば〕敬礼するに値しないものである。しかしながらこれは理体三宝に依持されており、よく遵い重んずれば、それにともなって迷いの世界から出ることができる。住持三宝は「体は是れ有為にして、漏染を具足す」とあ ()54
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るように、各種の三宝がある中で劣った三宝として位置付けられている。すなわち仏宝は凡夫の認識を超えた法身ではなく、またインドですでに入滅された釈尊でもない。住持三宝の仏は「影像」であると定義される。法宝も、真諦や法性のような幽玄な概念を指すのではなく、具体的に表現される「名句・名教」であるとされる。道宣の三宝説を知るうえでもう一つの重要な著作に『戒本疏』があるが、そこでは住持三宝について、「形像塔廟を仏宝と為し、紙素所伝を法宝と為し、戒法儀相を僧宝と為す」と端的に定義している。
このように住持三宝は劣った三宝であったとしても、これが当時の中国の仏教者にとっての現実に存在する三宝なのである。迦葉摩騰と竺法蘭の来儀に言及していることも、少なくとも当時における歴史事実として三宝を位置付けようとした意思によるものである。中国の仏教徒にとって、歴史上の釈尊を仏宝とする三宝(化相三宝)には出会うことができない。釈尊と同じ時間を共有し直接教えを聞くことができないという時代的な問題によるものである。また、法身のように智慧をもって観察することによって認識でき る三宝(理体三宝)は、勝義的な意味において重要なことではあるが、全ての衆生にとって可能なことではない。ここには能力的な制限がある。「群生は福浅く、化源に及ばず」という道宣の言葉は、時間的・距離的あるいは能力的に、釈尊の存在や仏教の本国インド(化源)から遠く離れた中国の仏教徒が、仏と法に向き合おうとするときに生じる現実問題を指し示したものである。ここにおいて、現実的・具体的に存在する住持三宝の存在意義が生まれるのである。 そして道宣の住持三宝説において注目したい点は、僧→法→仏の順で説明されていることである。これは「僧 0揚を仮 かるに匪ざれば、仏法 00潜没す」という言葉が示すように、僧宝から仏・法が興隆していくことを意味する。かつて僧祐は『出三蔵記集』序において「道由人弘」と述べ、安世高や康僧会の翻訳・注釈活動を引合いに出して中国仏教が展開する起点を語った。ここで道宣は同様に「人能弘道」として、住持三宝における僧宝の存在意義を明確にし、中国へ仏法を伝えた人々の教化や信の開発という具体的な行為によって仏宝・法宝がはたらき出したという三宝説をこ ()56
こに示したといえる。
おわりに
仏教では四依法(法四依)の中で「依法不依人」「依義不依語」と説かれ、人や言葉は仏道成就の手段となっても、究極のよりどころではないとされる。本稿で取り上げたいくつかの仏教史籍が、真理の奥深さや言語の限界を表す句から開始されていることは、仏教本来の立場を考慮したものなのかもしれない。
しかしながら、冒頭の句に続く文脈を考察すると、それでもなお歴史を語り、歴史を記録として残す行為がなぜ必要だったのかという歴史家の思索が見えてくる。すなわち、釈尊の故地インドから遠く隔たった中国において、仏道を伝承し、住持・興隆していくには「人」や人が用いる「言葉」が必須であるという意識によって歴史書が編纂されているのである。僧祐はそれを「非言莫津」と述べ、言葉こそが真理に到達する「津」になるとした。宝唱はそれを「丹青之工」と表現し、慧皎は「蹄筌」「師保」に依って こそ究極の道が明らかになるとしていた。 特に『出三蔵記集』における僧祐の文章は、「真理」→「教化」→「言説」→「典籍」→「訳出」という構図によって仏法が伝承されてきたという歴史観を明確にしていた。続いて慧皎はその「訳出」という行為において、命がけで教えを中国に伝えた人々の苦労を中国仏教の起点として位置付け、「訳経篇」から始まる高僧の伝記を集成させたのであった。ここで取り上げた仏教史籍は、それぞれ性格や撰述意趣などに多少の相違があり、『高僧伝』や『続高僧伝』は過去の歴史書の欠点を克服する意図のもとに撰述されたものであった。しかし彼らには、歴史を記録するという仏教史家としての宗教的課題において共通した思索があったのである。 そして本考察の後半では、『続高僧伝』を著わした道宣の仏教史観に言及した。道宣以前を取り上げた本稿前半部分は、どちらかというと従来から多く注目され検討が進められてきた領域であるが、このような動向が唐の道宣へどのように接続しているのかという点が課題であった。また、道宣は言わずと知れた律学の大家でもあり、戒律と歴史と
いう二つの領域にわたる著作活動において、そこに一貫する思想があったのかどうかも従来から大きな謎であった。
道宣の仏教史観は「道は人に由りて弘まり、法は縁を待ちて顕わる」とする僧祐の史観を継承するものである。道宣の文章に特徴的な「代 0に澆淳有り」(『広弘明集』総序)や「時 0は像正を兼ね」「人 0は淳薄に通ず」(以上『羯磨』序)というような過去の歴史を振り返る言葉は、時代やそこに生きる人間のあり方が、仏法の興隆・衰退を左右させたことを伝えようとするものである。さらに、あたかも「依法 0
不依人 0」を髣髴とさせる「人 0或いは縁 0に従るも、法 0の傾墜すること無し」(『羯磨』序)という仏教史観は、機縁に振り回される人や時代の限界を示す一方で、仏法の興亡は一にその時代を生きる「人」にあるとして戒めようとする実践的態度に反映されているのである。
このような点に律学と仏教史学の接点を見出すことができる。
註僧伝という歴史叙述の宗教的意味に注目した論考として重要なものに師茂樹氏や北條勝貴氏の論考がある。第一一 回仏教史学入門講座の講演録である師[二〇一六]は、『解深密教』の三転法輪説とヴァスバンドゥや玄奘の伝記の関係などに注目し、「高僧の伝記を書くことと、それに基づいて自分の人生をデザインするということが、お坊さんの修行実践としてセットになっている」(八四頁)として、「お坊さんが伝記を書くというのは、書く側にとっても書かれる側にとっても「宗教行為」だった」(八四頁)と述べ、僧伝が書かれることの実践的意義を論じている。また師氏が引用・紹介する北條[二〇一一]は、僧伝という歴史叙述を「人間を介して過去、歴史へアクセスする〈人物伝的歴史理解〉」(二九八頁)であるとし、「僧伝というテクストとそれを生み出す宗教的実践の場が、先人の生の物語りと分かちがたく結びついていること」(二九八頁)を論じている。この二つの考察は、僧伝を歴史記録としてのみではなく、それが書かれ、伝承されてきたこと自体を宗教的行為であるとする点において重要な指摘である。このような視点から中国仏教における史書編纂の営みを考察した論考に大内[二〇一三]がある。特に第一篇序章「経録と史書―魏晋南北朝隋唐期における仏教史編纂の試み―」は、仏教通史が編纂されるにいたった経緯や背景が考察されたものであり、本稿における重要な参考文献の一つである。本稿では引用漢文の現代語訳を試みているが、『出三蔵記 ()1
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集』の一部や『高僧伝』には現代語訳がすでに刊行されており(荒牧典俊・小南一郎(訳)[一九九三]・吉川忠夫・船山徹(訳)[二〇一〇])、随時それらを参考にした。また、道宣の著作については、『新国訳大蔵経』所収の『続高僧伝』(吉村誠・山口弘江(訳)[二〇一二])や、大内文雄氏を中心とする研究会「道宣著作の研究」での成果(大内文雄(編)[二〇一三][二〇一六])も参考にしている。また本稿の現代語訳にあたっては、明確な典拠や、意味を特定するうえでの有益な用例がある場合には、それらを注において示したが、その際には以上の参考文献の語注で示されているものを参考にした場合もある。その場合には注の中でそのことを明記した。しかし、それでもなお本稿の訳文や注に不十分な点があれば、それは本稿筆者の責任である。宋・元・明の三本および宮本では「至道絶言」となる。大正五五、一中。大内文雄氏は経典目録の史書的性格を論じる中で、『出三蔵記集』について「三蔵、すなわち仏典の翻訳を通して、中国における仏教理解の諸相を記録するところにその撰述意図はある」(大内[二〇一三]五頁)と述べ、本書の史書的要素に言及している。また、荒牧典俊氏は、『大乗仏典〈中国・日本篇〉』第三巻(中央公論社)の『出三蔵記集』を解説する中で、本書を単に経録として見るにとどまらず、歴史・哲学の視点から捉え直すべきことを提唱しつつ、編 者僧祐を歴史哲学者として位置付けて、次のように述べている。「中国文化の伝承・創造者が本来的には「史」――歴史記録者もしくは歴史哲学者――であったのであるから、外来仏教が単に哲学思想として「清談」され「論義」されるにとどまらず、ついに釈僧祐という「史」をもったところから、ほんとうの中国仏教として展開しはじめるといってもよい。しかも、この「史」は、インドから伝来した仏 0
教思想 000が中国仏教思想 0000でもあり得る哲学的根拠までをも思惟する歴史哲学者ですらある。インド仏教の根本の哲学的真理が、この「史」において、そしてこの「史」からはじめて実践的に生きられるようになっているのだ、とでもいいたい」(荒牧典俊・小南一郎(訳)[一九九三]二六六頁)。【開物導俗】「開物」は、「開物成務」に由来する表現。『周易』繋辞上「子曰、夫易何為者也。夫易開物成務 0000、冒天下之道。如斯而已者也」(荒牧・小南(訳)[一九九三]二一二頁注四、大内(編)[二〇一三]一一・一九―二〇頁など参照)。【不二默詶】『維摩経』入不二法門品「於是文殊師利、問維摩詰。我等各自説已、仁者当説、何等是菩薩入不二法門。時維摩詰、默然無言。文殊師利歎曰、善哉善哉、乃至無有文字語言、是真入不二法門」(大正一四、五五一下)。【一音振辯】『維摩経』仏国品「仏以一音演説法、衆生随類各得解」(大正一四、五三八上)。 ()4
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【応真】『出三蔵記集』前後出経異記第五「旧経無著果(亦応真 00、亦応儀)新経阿羅漢(亦言阿羅訶)」(大正五五、五上)。【含識】『弘明集』(顔延之「釈達性論」)「然総庶類同号衆生、亦含識 00之名」(大正五二、二二上)。【霊津】『広弘明集』(僧肇「鳩摩羅什法師誄」)「夫道不自弘、弘必由人。俗不自覚、覚必待匠。待匠故世有高悟之期。由人故道有小成之運。運在小成則霊津 00輟流。期在高悟則玄鋒可詣」(大正五二、二六四中)。『論語』衛霊公「子曰、人能弘道、非道弘人也」。中国目録学の観点から『出三蔵記集』に注目し、かつ序の冒頭部分を取り上げた研究として内藤竜雄[一九七〇]がある。内藤氏は当該文に示される僧祐の歴史観を説明して「法と人と縁(機・時)の三事和合という縁起的在り方において、仏教史の事実を見るという歴史観である。そこには当然、法即ち経典と、人即ち訳者、縁即ち時代社会とが主要項目となって来る。これが目録作業の実地においては必然的に記録尊重の編目となるのである」(八〇九頁)として重要な指摘をする。ただし本稿は、僧祐などの仏教史家にしばしば見られる「真理の言語化」という実践的意識を内藤氏の視点に補足して論じようとするものである。大内[二〇一三]では、「訳あれば乃ち伝わり、訳なければ乃ち隠る」(「有訳乃伝、無訳則隠」大正五五、五中)と いう僧祐の言葉に注目し、本書について紀伝・編年等の史書ではないものの「仏典翻訳の歴史的記録を表現する手段」(六頁)としての経録であると評している。これについて慧皎自身が『名僧伝』について多く言及しているわけではないが、後に道宣が『続高僧伝』慧皎伝において「又以唱公所撰名僧、頗多浮沈、因遂開例成広、著高僧伝一十四卷」(大正五〇、四七一中)と述べることなどから、『名僧伝』の欠点を補う意識によって『高僧伝』が撰述されたことが語られている。この点に関する先行研究として牧田[二〇一五]参照。他にも「慧皎は『名僧伝』を強く意識して『高僧伝』を著したのだと道宣によって指摘されているのを待つまでもなく、そのことは分かる者には誰にでも分かる自明の事柄であったのであろう」(吉川忠夫・船山徹(訳)[二〇〇九](「訳者解説」)三九五頁)、「一見慧皎は高僧伝においては全く黙殺した態度をとりながら、実際には、最も大きな影響を受接せざるを得なかった関係として、宝唱「名僧伝」の存在がある」(桐谷[一九七二]三〇〇頁)と述べられている。『続高僧伝』宝唱伝「年十八、投僧祐津 (ママ)師而出家焉。祐江表僧望、多所製述。具如前伝紀之。唱既始陶津、経律諮禀、承風建徳、有声宗嗣」(大正五〇、四二六中)。「其序略云」(大正五〇、四二七中)から始まる道宣の抄出文は、その末尾に「文広不載」(大正五〇、四二七下)と ()10
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あることから、全体はもう少し長かったことが推定でき、それを道宣が要点のみをまとめて紹介したと考えられる。『続高僧伝』宝唱伝「律師釈僧祐、道心貞固、高行超邈。著述集記(三本・宮本「諸記」)、振発宏要。宝唱不敏、預班二落。礼誦餘日、捃拾遺漏」(大正五〇、四二七下)。この文中の「集記」は『出三蔵記集』を指すと考えられるが、三本・宮本の「諸記」とした場合、『出三蔵記集』を含む僧祐の著作全体を指すであろう。【視聴之表】『大般涅槃経集解』「法瑤曰、譬法身玄妙、寂寞絶於視聴之表 0000、於情為隠」(大正三七、四六六下)。『広弘明集』後漢書郊祀志「以至無生而得為仏也。身長一丈六尺黄金色、項中佩日月光。……所求在一体之内、所明在視聴 00
之表 00。帰依玄微、深遠難得而測」(大正五二、九九下)。『広弘明集』弁正論「是以生滅頓遣、円覚之性乃彰、空有兼融、霊儀之妙攸在。故得形超視聴之表 0000、名息情塵之外。湛然常楽、文系之所未銓、嶷爾円明、言象之所莫測」(大正五二、一七九中)。【丹青之工】「丹青」は直接的には赤と青の色や絵の具を指し、仏教文献中では「丹青之飾」「丹青之彩」のように画として表象された事物を指す例が多い。また一方で「丹」は丹冊、「青」は青史を指し、歴史書などの典籍を指す可能性もある。これに続く文中に「竊以外典鴻文布在方册 00」とあることから、書物を指す可能性も考えられる。なお当該 文は吉川・船山(訳)[二〇〇九](「訳者解説」三九二頁)に現代語訳が示されており、「丹青之工」は「史籍の効用」と訳される。一方『新国訳大蔵経』(吉村・山口訳[二〇一二])では「絵画などの色彩の技術」(二一二頁・注一二二)とする。本稿では以上のことを考慮して、絵画や書物を含めた何らかの表象された事物として理解しておきたい。『続高僧伝』宝唱伝「窃以外典鴻文、布在方册。九品六芸、尺寸罔遺」(大正五〇、四二七下)。大正五〇、四二七下。『名僧伝』と『高僧伝』の関係については、牧田諦亮[二〇一五](二八二―二八四頁)、吉川忠夫・船山徹(訳)[二〇〇九](「訳者解説」三八七―四〇二頁)で詳しく論じられる。『高僧伝』が依拠した仏教史関係の諸資料については、慧皎の序録の文中に記されており、それらについては牧田諦亮[二〇一五](※初出は一九七一年)の中で紹介・整理がなされている。大正五〇、四一八下。『出三蔵記集』と『高僧伝』との類似性や対応関係については吉川忠夫・船山徹(訳)[二〇〇九]の「訳者解説」(特に三九六―四〇一頁)の中で詳しく論じられる。特に『出三蔵記集』に立伝される三十二人中、義解篇に立伝される一部の例外を除いて「そのほかの二十七人の伝記は『高 ()19
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僧伝』ではすべて訳経篇のなかに見出されるのである」(三九七頁)とし、「『出三蔵記集』と『高僧伝』とを読みくらべてみるならば、両者の記述は驚くべきほどよく似ているのである」(三九七頁)とする。吉川忠夫・船山徹(訳)[二〇〇九](「訳者解説」三九七頁)。勝村哲也[一九九三](一頁)。【沖漠】『広弘明集』(僧肇「鳩摩羅什法師誄」)「先覚登遐、霊風緬邈、通仙潜凝、応真冲漠 00」(大正五二、二六四下)。【蹄筌】意を得る手段である言葉は、意を得たのちに忘れ去るべきものであるということと同様に、筌は魚を得る手段、蹄は兔を得る手段であり、得たのちに忘れるべきものであるということ。『荘子』外物「荃 0者所以在魚、得魚而忘荃 0。蹄 0者所以在兔、得兔而忘蹄 0。言者所以在意、得意而忘言」(この用例については吉川・船山(訳)[二〇一〇]参照)。『注維摩詰経』「肇曰、文者何耶。妙旨之蹄筌 00耳。而新学智浅、未能忘言求理、捨本尋末、唯文飾是好」(大正三八、四一八中)。【師保】先生や指導者などの教え導く師。『礼記』文王世子「入則有保 0、出則有師 0、是以教喩而徳成也。師 0也者、教之以事、而喩諸徳者也。保 0也者、慎其身以輔翼之、而帰諸道者也」(この用例については吉川・船山(訳)[二〇一〇]参照)。また、仏典では成道後の自らを語る釈尊の言葉の中 に「師保」という表現が見られる。一例として『増一阿含経』「我成阿羅漢 世間最無比 天及世間人 我今最為上 我亦無師保 00 亦復無与等 独尊無過者 冷而無復温」(大正二、六一八下)。桐谷征一[一九七二](三〇〇頁)、牧田諦亮[二〇一五](三〇五頁)。『名僧伝』目録(卍新纂七七、三四六―三五〇)によれば、その第一は「外国法師」であり、続いて「中国法師」「律師」「外国禅師」「中国禅師」……という順で構成されている。外国法師の中でも仏図澄のように訳経に関わらない僧は「神通弘教 0000外国法師」として、通常の外国法師と区別するという工夫がなされている。『名僧伝』『高僧伝』の分科を対照させて分析している牧田[二〇一五]も参照。『続高僧伝』慧皎伝「伝成、通国伝之、実為亀鏡。文義明約、即世崇重」(大正五〇、四七一中)。『続高僧伝』序「昔梁沙門金陵釈宝唱、撰名僧伝、会稽釈恵皎、撰高僧伝。創発異部、品藻恒流、詳覈可観、華質有拠。而緝裒呉越、叙略魏燕。良以博観未周、故得随聞成采
(三本・宮本「彩」)。加以有梁之盛、明徳云繁、薄伝五三(三本・
宮本「三五」)、数非通敏。斯則同世相侮、事積由来」(大正五〇、四二五上中)。【五位】ここでの「五位」の定義の特定は困難であるが、何らかの修行階位を指している可能性が考えられる。ちな ()28
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