平安初期における征夷の終焉と蝦夷支配の変質
著者 熊谷 公男
雑誌名 東北学院大学東北文化研究所紀要
号 24
ページ 1‑21
発行年 1992‑08‑31
URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024188/
平 安 初 期 に お け る 征 夷 の 終 焉 と 蝦 夷 支 配 の 変 質
熊 谷 公 男
はじめに
弘仁二年︵八
一 一
︶︑
爾一
座体・
幤伊二村の
征夷を終えた征実大将軍文室綿麻呂は︑
その
上奏の
中でこれまで蝦実との
武力抗争を振り返つて
﹁
自= 宝亀五年︑ 一
至= 于当年 :惣卅八歳
︑ 辺
寇展動︑
書口
無レ 絶︒丁壮老弱︑或疲= 於征成
一
或倦= 於転運一
︒百姓窮弊︑
未レ得= 休息一 ﹂
︵﹁
日本後紀﹂
同年閏十二月辛丑条︶
と総括している︒
宝亀五年
︵
七七四︶
からこの
年にいたる三十八年もの
長きにわたる中央政府と蝦実と
の
戦争は︑蝦実社会にはむろんの
こと︑直接間接に戦争にかかわ
っ
た東北・東国などの広範な地域社会にもきわめて深刻な影響を及ぼしていたのである︒
こ
の
弘仁二年の
征夷は︑結局︑
史上最後の
もの
となるが︑
その
六年前︑恒武朝の晩年にあたる延暦二十四年
︵
八〇五︶
十二月︑
殿上で参議藤原結嗣と同管野真道が天下
の
徳政を相論するということがあ
っ
た︒結嗣が﹁
方今天下所レ苦︑
軍事与= 造作一
也︒停= 此両事 :百姓安之
﹂
と主張したの
に対し︑
真道は異議をとなえてゆずらなかっ
たが
︑
結局︑
恒武天皇は結嗣の
意見を採用し︑
これまで天皇自身が 中心となっ
て推進してきた軍事︵l
I征実︶
と造作︵ l-
造都︶ の
中止
を決断する︵ ﹁
日本後紀﹂
同年十二月壬責条︶ ︒
さしもの専制君主恒武も
︑
天下の
民衆の
疲弊の現実を認め︑緒嗣の主張を受け入れざるを得なか
っ
たの
である︒
弘仁二年
の
征夷はこの恒武天皇の
決定を前提としたもので︑
その征討軍は恒武朝の場合と異な
っ
て東国の兵力にまっ
たく依存せず︑
陸奥出羽
の
二万余の
兵力のみでぉこなわれ︑しかも実際に戦果をあげたのは中央政府側に
つ
いた俘囚の部隊であっ
た︒
もはや膨大な兵力と物資を
っ
ぎ込んで組織的におこなっ
た恒武朝の征実の面影はなくな
っ
ているの
である︒このように奈良時代末期以来の慢性的な戦争状態は地域社会を疲
弊させたばかりでなく
︑
国家財政の
窮乏をまねき︑ つ
いには蝦夷支配
の
あり方にも重大な転換をせまることになっ
た︒中央政府の主体的な征夷が文室編麻呂
の
征討を最後とするの
は︑以上のような経過からみて
︑
従来演然と考えられてきたように︑
中央政府の支配領域が飛 E用的に広がり
︑
安定的に蝦実支配がおこなえる段階に達したからというようなことによる
の
では必ずしもなく︑むしろ長期にわた平安初期における征夷の終器と類実支配の変質
平安初期における征実の終
一
Seと最実支配の変- 9る環夷と
の
戦争状態にもとづく国家財政の
窮乏︑
民衆の
疲弊によっ
て
︑
中央政府の
側が従来の蝦夷支配方式を放棄せざるをえない状況にたちいた
っ
たことの
方に主因があると考えるぺきであろう︒
こうして中央政府は
︑
坂上田村麻呂の
征討によっ
て新たに支配下に入つた北上川中流域
の
支配体制を十分に確立しえないまま︑
とくに恒武朝末期から一隆一般一朝にかけて
︑
疲弊した・民衆の
負担を大幅に軽減する一
連の政策を実施することを余儀なくされるの
である︒
要するに
︑
律令国家の
蝦夷支配は︑
桓武朝における征夷中止の
決定によ
っ
て新たな歴史的段階に入つたというべ
きで︑
これ以降は従来とは大幅に異なる条件
の
もとで︑新たに支配領域に取り込んだ地域の蝦夷支配をおこな
っ
ていかなければならなくなるの
である︒したが
っ
て征夷の終焉を蝦夷間題の
解決とみるの
は誤りで︑
環夷支配方式の転換点と理解すべきであろう︒
恒武朝末年における徳政相論とそれにともなう征実
の
中止
はあまりにも有名であるが
︑
これまでその
歴史的意義の
考察は必
ずしも十分ではなか
っ
たように思われる︒
そこで小論では︑
まず征実を終一
篇に導いた要因として
︑
北上川中流域の
蝦実集団︵
山道蝦実︶の
成長と
︑
それと密接に関連する移民政策の
破綻につ
いてとりあげることにし
︑ っ
いで桓武朝末期の
征夷中止 の
決定が以後の律令国家の
蝦夷政策にど
の
ような変化をもたらしたかを具体的に考えてみることにする
︒ 一 ︑
北上川中流域における環実集団の成長1
︑
海道環真と山道環実三十八年戦争
の
発端となるの
は︑宝亀五年︵七七四︶
七月に海道蝦夷が桃生城を襲い
︑
その
西郭をやぶっ
た事件である︒陸奥側の蝦夷ははやくから海道蝦夷と山道蝦実に二分されて律令国家に把握さ
れている
一 M
︶︑
海道蝦実とは︑
天平宝字四年︵
七六〇︶に造営された桃生城が海道最実
へ の
備えという性格をもつ
とみられることからすると
︑
桃生郡付近を中心
とした北上川下流域から本吉・
気仙方面の海岸部にかけて居住していた蝦夷集団の総称と思われ
︑ 一
方︑山道最夷は
︑
神護景雲元年︵七六七 ︶
に完成した伊治城が山道蝦夷へ
備えるという側面をも
っ
とみられること︑
また山道蝦夷の
最有力の蝦実集団が胆沢地域
の
環夷であっ
たことなどから︑宮城県北部から岩手県南部にかけての北上川中流域に居住する複数の蝦夷集団を中央
政府が
一
括して呼んだ名称と考えられる︒
こ
の
両者の
うちでは︑
海道蝦実の方がはやくから優勢であっ
たようで
︑
神亀元年︵
七二四︶には海道蝦夷が反乱を起こし︑陸奥大線の
佐伯児屋麻呂を殺害するという事件が起きている︒それに対して︑山道蝦夷と
の
武力衝突が確認できるの
は︑現存史料によるかぎり︑
宝亀七年︵七七六
︶
二月に陸奥国が﹁
山海二道賊﹂
を討伐することを奏上した
︵ ﹁
続日本紀﹂
同年二月甲子条︶のが最初である︒海道蝦夷
へ
備えた桃生城が山道環夷へ
の防備の拠点である伊治城に先んじて造られていることも
︑
この
ころにおける律令国家側の両者の
軍事2
的脅威に対する認識を反映するも
の
であろう︒
2
︑
山道一境実の台頭既述
の
ように︑
三十八年戦争の火ぶたを切つたの
は︑
宝亀五年に海道
一
馨一 一
︒
発︑
偶て決件事反乱はた起のし一の
こたあでただししこっ
的なものではなか
っ
たと思われる︒
というの
は︑事件の直前の
同年七月には
﹁
勅二 陸奥国按察使兼守 :鎮守将軍正四位下大伴宿称酸河麻呂等
一
日︑
将軍等︑
前日奏= 征夷便宜 :以為
︑ 一
者不レ 可レ 伐︑ 一
者必
︑
当レ 伐︒
朕為一 一 ︑
其労一
レ 民︑ ﹂事= 含弘一
4一
得= 将軍等奏 :
露彼類
狄
︑
不レ 俊= 野心一
一座侵=辺
境一
敢拒=王
命一
事不レ 獲レ 已︑ 一
依=来奏一
宜= 早発レ軍応レ時討滅一 ﹂ ︵ ﹁
続日本紀﹂
同年七月庚申条︶
とあ
っ
て︑
大伴酸河麻呂らは以前から征討の 必
要性を中央政府に奏上していたことが知られる︒
とくに直前の奏状では事態が一
層深刻化し︑
蝦夷が侵攻をくり返していることを訴えており︑
政府もその征討を許可している
の
で︑
奥鞭の 一
帯ではこれ以前から一
触即発の不穏な状況が
つ
づいていたことがうかがわれる︒宝一a
五年の
海道蝦夷の
反乱は︑天平宝字年間以降︑律令国家が積極的な一最夷政策に転じたことにより律令国家と陸奥国北
辺 の
蝦実との
間の
対立がしだいに深まり︑起こるぺくして起こ
っ
た事件とみるぺきであろう︒さて
︑
海道蝦夷が桃生城を攻準した翌年の﹁
続日本紀﹂
には︑ ﹁
陸奥一
e 一
賊騒動︑
自レ 夏渉レ秋︒民皆保レ 塞︑
田略荒廃︒
詔復= 当年課役田租
一 ﹂ ︵
宝a
一・一
ハ年三月丙辰条︶︑ ﹁
出羽国言︑
蝦実餘一想︑
猶未=一 一 一 ︐
ぁ一 一
︒三年之間
︑
請= 鎖兵九百九十六人︑一
且 :鎮= 要害︑一
平安初期における征実の終將と-
a
実支配の変質 且通= 国府一 ﹂ ︵
同 年十月美西条︶
などとあっ
て︑
反乱は急速に拡大していっ
たようである
︒
さらに宝亀七年︵
七七六︶二月になると︑
さきに触れたように陸奥国が
﹁
山海二道酸﹂
を討伐することを奏上しているが︑それを受けて中央政府は出羽国に対して
﹁
発= 軍士
四千人一
道自= 雄勝一
而伐= 其西辺 一 ﹂
ことを命じている︒
これは出羽国に山道蝦一夷を西側から攻撃するよう指示したものと解される︒こ
の
直後の
五月に出羽国と
﹁
出羽国志波村賊﹂
とが戦いとなり︑出羽国側が劣勢なので坂東諸国に騎兵
の
派遺を命じている︵
同年五月戊子条︶ の
は︑
出羽国の山道蝦実
へ
の攻舉に関連して起こっ
た戦関であろh
-︶さらに十一
月には﹁
発= 陸奥軍三千人一
伐= 胆沢賊一 ﹂
︵同年十一
月庚条︶
とあ
っ
て︑
陸奥国の
軍勢が胆沢の
蝦夷に攻撃を加えている︒これが﹁
胆沢
﹂
という地名の
初見である︒
この
ように宝亀七年のうちには︑
戦線がい
っ
きょに山道地域から出羽方面にまで拡大し︑
山道蝦実の
うち胆沢の蝦夷や志波村の蝦実と戦闘が行われたことが確認できる
︒
その後
︑
最実との
戦闘は長期化の
様相を呈し︑
同七年十二月には陸奥国
の
諸郡の
百姓から奥郡を成るものを募り︑復三年を給してその
定着をはかっ
ている︒
翌八年︵七七七︶四月には︑
陸奥国では国を挙げて軍を発して山海両道の蝦夷を討ち
︑
国内が騒然として百姓が銀苦したとして
︑
この
年の
調府と田租が免除されている︒さらに同年十二月には出羽国軍が再び志波村の蝦実と戦つて敗退し
︑
また出羽国の蟻夷も反乱を起こして
︑
官軍が劣勢に陷つている︒
戦線が陸奥出羽両国に拡大して
︑
律令国家と!a
夷の
全面戦争の様相を帯びてくるとともに
︑
政府軍側がかなりの
苦戦を強いられていることが平安初期における征実の終驚と-l
a
実支配の変質うかがわれる︒
このように宝亀五年以降
︑
中央政府と蝦夷の
武力衝突は急速に拡大していくが︑そのなかでしだいに胆沢地域
の
蝦実を中心
とした山道蝦夷が︑中央政府
の
主たる攻準目標に定まっ
ていっ
た︒
その
ことを明瞭に示すのが
︑ つ
ぎの
宝亀十一
年︵七八〇︶
二月丁西条である︒陸奥国言
︑
欲下 取= 船路一
伐中 撥遭成一
比年甚寒︑
其河已凍︑
不得レ 通レ 船︑
一
︒今賊来犯不レ已︒
故先可レ 塞= 寇道一
仍須下 差=﹄
軍
士
三千人一
取= 三 ・四月雪消︑
雨水汎溢之時一
直進= 賊地一
因造中 覚義
上 海道漸遠︑
来犯無レ 便︒山賊居近伺レ 際来犯︒遂不= 伐接
一
其勢更強︑ 一
宜下 造= 覚無城一
得中 胆沢之地上〇両国之息︑莫レ 大= 於斯一
たび重なる蝦夷の来攻に悩まされる陸奥国の
奏上を受けてここで勅が発布される
の
であるが︑
それによれば海道蝦夷は拠点が違方にあるため
﹁
来犯無レ 便﹂
なのに対して︑ ﹁
山賊﹂
すなわち山道蝦夷は居地が近く︑隙を見ては襲撃してきて
︑
この
まま放つてぉいてはその
勢力がさらに強大になるとして
︑
新たに覚繁城を造営して︑
胆沢地域
の
制圧拠点とするよう命じている︒
この
勅によれば︑この
時点で中央政府
の
最大の
攻舉日標は明らかに山道環夷であり︑
その
中でもも
っ
とも強盛であっ
た胆沢の
蝦実を制圧することが数年来の
騒動の
鎮静化にと
っ
てもっ
とも緊要なことと認識されているの
である︒
覚繁城
の
建造計画の
もちあがっ
た直後の
宝a
十一
年三月︑
按察使紀広純が俘軍を率いて伊治城に入つたときに
︑
東北古代史上著名な伊治公告麻呂の乱が起こる︒こ
の
反乱によっ
て広純や牡鹿郡大領道 l 9大橋が伊治城で殺され︑さらには多賀城まで焼き討ちにされて︑
陸奥国は大混乱におちい
っ
てしまう︒
覚繁城の
造営計画も実施に移されぬまま中絶してしま
っ
た可能性が高い︵
拙稿﹁ ︿
書評﹀
工藤雅樹著
﹁
城細と蝦実﹂ ﹂ ﹁
歴史﹂
七七一
九九一
年︶
︒ところが告麻呂は
︑
これ以後︑ 一
度も記録に現われてこない︒
また征討軍の主たる攻撃
日
標は︑この後も一
貫して胆沢地域の
蝦夷であっ
た︒
したがっ
て呰麻呂
の
乱は多分に偶発的な事件であっ
たとみられ︑三十八年戦争はあくまでも北上川中流域
の
蝦夷︵=
山道蝦夷︶と政府軍との間の
武力衝突を軸として展開していくのである︒海道環実の反乱にはじまる三十八年戦争は
︑
以上にみたように︑急速な戦線
の
拡大とともに状況にも変化がみられ︑
ほどなく胆沢地域
の
蝦実を中心とする山道蝦実と政府軍との大規模な武力衝突を中心に展開していくことになる
︒
以後︑
坂上田村麻呂が登場するまで︑
政府軍は長期にわた
っ
て苦戦を強いられるが︑
これが山道蝦実らの
勢力
の
強大さを如実に物語るものであることは︑改めていうまでもなかろう
︒
ただ︑ここで特に注意しておきたいの
は︑
山道蝦実が有力化する
の
は︑残された文献史料からみるかぎり︑
比較的新しい時期とみられるということである
︒
宝亀末年には山道環実の
優勢が明白であるが
︑
先にふれたように︑桃生城が造営された天平宝字年間ごろまでは
︑
むしろ海道蟻夷の方が優勢であっ
たとみられる︒
これは八世紀
の
半ば以降︑
北上川中流域の類夷集団が急速に発展し︑
陸奥側で最有力の環実勢力に成長を遂げてい
っ
たことを示すものであろう
︒
3 ︑
北上川中流域の
環真集団の
発展の
要因 胆沢地方を中心とする北上川中流域の
一最実集団は︑
八世紀中葉以 降急速に陸奥最有力の
蝦夷集団に成長していっ
たらしぃ
ことをみた が︑
その
要因としてはどの
ようなもの
が考えられるの
であろうか︒
近年の
考古学的調査の
進展によっ
て︑八世紀になると東北北部に農耕集落が広範に出現し
︑
九世紀にはさらに稲作農耕が定着して集落が增加することが判明してきた︒とくに北上川中流域では八世紀
から九世紀にかけて急速に集落遺跡が增大していくという
︒
このような農耕
の
定着を基礎としたこの地域の
人ロ
增が山道蝦一実の
発展の
基礎とな
っ
ていることは間違いないであろう︒
この
ような考古学上の
事実に加えて︑
文献史料からはいくつ
かの政治的
・
経済的な要因が考えられる︒すなわち八世紀前半に中央政府
の
移民政策が組織的に実施され︑
いわゆる天平五概などの
城棚が大崎地方に設置されて城柳を拠点とする蟻夷支配体制が整備される
と
︑
それにともなっ
て山海両道等の - a
実集団の多賀城をはじめとする諸城細
へ
の朝貢の
機会も飛躍的に增大していっ
たであろう︒そして
︑
この
地域に送り込まれてきた移民系の
住民と蝦夷との
さまざまな形で
の
接触の
機会も增えていっ
たと思われる︒
交易の
蝦夷社会に与えた影響
の
大きさにつ
いては︑ っ
とに大石直正氏や工藤雅樹氏の
指摘があるが
︵
大石直正﹁
中世の黎明﹂
小林清治・
大石直正編﹁
中世奥羽の世界ー
︿ U P
選書﹀
東京大学出版会一
九七八年︑
工藤雅樹
﹁
城棚と蝦実﹂ ︿
考古学ライプリー﹀
ニュ I ・
サイェ
ンス
社一
九八九年︶ ︑ っ
ぎに掲げる﹁
類聚三代格﹂
所収の
延暦六年︵
七八七︶の
官符は︑・その
ことを具体的に知ることができる点できわめて重要である
︒
太政官符
応下 陸奥按察使禁申 断王臣百姓与= 実俘
一
交関上 事右被= 右大臣宣
=
一 一
レ︑ ︑ ︑ ︑
司狄買争等臣国得王聞馬及如勅奉及俘奴婢
一 ︒
所以
︑
弘羊之徒︑
苟貪= 利潤 :略レ 良窃レ 馬
︑
相成日深
︒
加以︑
無知百姓︑
不レ 長= 意章一
︒売= 此国家之貨 :買=彼実俘之物
一
︒綿既着=要 一
育鉄亦造= 敲農器一
於レ理商量
︑
為レ書極深︒
自今以後︑
宣= 厳禁断一 ︒
如有三 王臣及国司︑
違= 犯制
一
者︑
物即没官︒
仍注レ 名申上︒其百姓者︑ 一
依= 故按察使従三位大野朝臣東人制法 :
随レ 事推決
︒
延暦六年正月廿一
日この官符では
︑
三十八年戦争の
ただなか国司 ・王臣家をはじめとする非蝦夷系住民と環夷と
の
私的な交易が盛んに行われていたことが語られている
︒
長年にわたる戦争状態にもかかわらず在地では-a
夷と中央政府側
の
人びととの
私的な経済交流が絶えることなく続けられていたことは注日に値する
︒
しかも中央政府側からみて︑
このような私的な交易は
︑
単に蝦実側に経済的な利益をもたらすにとどまらず︑
﹁
略レ良窃レ 馬︑相酸日深﹂
とあるように︑
蝦夷の故対的行為を助長し
︑
さらには﹁
売= 此国家之貨 :買= 彼実俘之物
一 ﹂
という行為を通じてさまざまな物資が一最実側の手にう
っ
り︑
それらが﹁
綿既着= 成襖
︑ 一
青鉄亦造= 故農器一 ﹂
というように︑
一蝦実社会の軍事力や平安初期における征実の終露と環究支配の変- 9
平安初期における征実の終: Rと環実支配の変質
農業生産力を高める作用をした
の
であっ
て︑
国家にとっ
て﹁
為レ害極深
﹂
いものであっ
た︒
長期にわたる戦争状態が環夷にと
っ
て大きな負担となり︑
彼らの
社会に甚大な影響を及ぼしたことは容易に想像されるが
︑ 一
方では︑
そのような戦争状態が平時に律令国家と一最夷
の
間に形成されている朝貢関係
の
動播・
破 :提をまねき︑
最夷集団にとっ
てはかえっ
て自律的な行動をとりやすくなるという側面があ
っ
たことも事実であろう
︒
この朝買関係の
破 :程は︑
この
時期にしだいに頭著になっ
てくる王
臣家の自立化ともあいまっ
て︑
密貿易ともいうぺき私的な交易を助長させる原因とな
っ
ていっ
たと考えられる︒
こうして增大してい
っ
た交易が蝦実側に経済的な思恵をもたらして政府軍に対する抵抗の源泉の
一 つ
となるとともに︑
環夷社会内部にさまざまな変動を引き起こすことにもな
っ
たであろう︒
三十八年戦争
の
勃発以前にも︑主として公的な朝貢関係に付随した形で
︑
より小規模ながら恒常的に律令国家と環夷との
間に物資の
流れが形成されていたとみられる︒こ
の
ような長期にわたる- a
実社会
へ の
物資の
流入は︑
彼らの
社会を除々
に変化させることになっ
たであろう
︒
それに加えて︑
律令国家による蝦実の
族長層へ の
君︵
公︶の
カバネ・
官職 ・位階・
環実爵等の授与も蝦夷社会の
統合・
発展の
触媒
の
役割を果たしたと思われる︒
というの
は︑
蝦一夷社会は族長によ
っ
て率いられた︑互いに相対的に自立し︑
対抗関係にある集団によって構成されてぉり
︑
社会的統合が未熟で不安定な社会であっ
た︵
工藤氏︑
前掲﹁
城;a -
と環夷﹂ ︶ ︒
この
ような構造の社会で︑
ある特 定の
集団がほかの
多くの
集団を統属下において社会的統合を進めるためには
︑
他の集団がその
もとに服する卓越的な権威を保持することが不可欠であ
っ
たと思われる︒
ところがその
ような権威は当時の
蝦実社会独自には形成されえず
︑
律令国家から付与される姓や位階がそ
の
機能を果たしたとみられる︒
すなわち- a
実の
族長へ
のカバネ・官職・位階など
の
授与は︑
律令国家の権成の
分与にほかならず︵
ただし郡司などの
官職にはむろん一
定の
職務権限がともなっ
た︶︑
かかる卓越的な権威を帯びた有力な族長に率いられた集団がほか
の
弱小集団を支配下に置くという形で
︑
蝦実社会の統合が進められてい
っ
たと考えられるの
である︒以上要するに
︑
八世紀中葉以降の
北上川中流域における蝦夷社会の
急速な発展は︑
稲作農耕の
定着に代表されるような- a
夷社会の自律的な発展を基礎にし
っ っ
も︑
八世紀初頭以来の
律令国家側との
公的
・
私的さまざまな形態の接触にともなう物資の
流入︑さらには族長層
へ
の律令国家の
権威の
分与などの外的な契機によっ
ていっ
そう促進されてい
っ
たであろう︒三十八年戦争は
︑
天平宝字年間以降の
律令国家の
演極的な蝦夷政策
へ の
転換という外的な要因の
ほかに︑この
ような北上川中流域を中心とした類夷社会
の
発展という内的要因が基礎にあっ
て引き起こされたも
の
と理解されるが︑既述のようにこの
戦争が蝦夷社会の
発展をさらに促進する側面もあ
っ
たことを注意してぉきたい︒6
二
三十八年戦争と奥郡
1︑八世紀後半における移民政策の行きづまり
城棚には︑七世紀中葉の段階から棚戸とよばれる国家によって主 導された移民が付属していた
︒
その後︑とくに八世紀前半には陸奥出羽両国の蝦夷と境を接した地域の基盤強化のためにもっとも組織
的に多数の移民が送り込まれ︑その結果として黒川以北十郡のよう な移民を主体とした特異な近夷郡が成立する
︒
城棚設置地域に送り込まれる棚戸は︑城棚を拠点とした蝦夷支配の人的
・
物的基盤を構成してぉり︑城棚による蝦夷支配を支えるものであった︵拙稿
﹁
近夷郡と城柵支配
﹂ ﹁
束北学院大学論集﹄歴史学・
地理学二一 一
九九〇年︶︒
この城棚の造営と
一
体となった移民政策は︑その後しばらくの間 中断し︑天平宝字年間の雄勝・
桃生両城の造営とともに︑この両地 域を主な対象として再開される︒
しかし従来から指摘されているよ うに︑これ以降︑その性格は大きく変わり︑浮浪人・罪人・
乞食な どを棚戸として移配するようになり︑徒刑労働的な色彩を帯びてく る︒
ところが神一
設景雲年間になると︑それらに加えてふたたび一
般の民戸を大量に城棚に移配する政策がとられるようになる︵表1参
照︶
︒
もっとも︑これは税制上の優遇措置をとって百姓のなかから希望者を募るという形をとっている点で︑八世紀前半の
一
般公民の移配とは明確に異なっている
︒
しかもこれ以降は︑浮浪人の移配の場 合も含めて﹁
棚戸﹂とは呼ばなくなることも注意される︒
さて八世年 月 事 項
(l)天平宝字1(757)
.
4(2)天平宝字1(757). 7
(3)天平宝字3(757)
.
9(4)天平宝字4(760)
.
10 (5)天平宝字4(760). l 2(6)天平宝字6(762).間l2
(7)天平宝字7(763). 9
(8)神護景雲l(767)
.
1l(9)神、題最雲2(768)
.
12(1ll1 神顯景發3(769)
.
1(1D神顯景雲3(769)
.
2(121神讓景雲3(769). 6
(13)宝1ll7(776)
.
12(l41延暦14(795)
.
12a
5)延府l5(796).
1 l061延暦21(802). 1
不孝・不恭・不友・不順の者を陸奥国の桃生、 出羽国の小勝に配する。
橘奈良麻呂の一味の久索多夫礼らに同調した百姓を出羽国の小勝村の棚戸に移配する。
坂東8国、並びに越前・能登・越後等の4ケ国の浮浪人2000人を選して雄勝棚戸とする。
陸奥のial戸の百姓らの申請により、 郷土の父母兄弟装子 も 同 じ く 棚 戸 に'国する。
t19職で争つて仲間の個を殺した薬師寺f9準達を陸奥国の桃生例戸とする。
乞索児100人を陸奥国に配して占着させる。
母を殺した河内国丹比郡の人を出羽国小勝のiai戸 と す る 。
私錯錢の人に姓を鋳銭部と陽い、 出羽国に流す。
陸奥国及び他国の百姓に給複の特典を与えて、 伊 治 ・ 桃 生への移住を募る。
陸奥国、桃生棚戸に配した浮浪人が定着せずに逃亡するとして、隣国の3丁以上の戸200 烟 を 募 つ て 城 郭 の 成 と す る こ と を 請 う が 、 太政官は罪のない民を辺城に配するのは不当と
して却下、 法外の給複をして桃生・伊治2城に移住を希望するものを募る。
坂 東 8 国 に 命 じ て 、 法外の優複を与えて桃生・伊治2城に移住したい百姓を募集させる。
浮宕の百姓2500余人を陸奥国伊治村に置く。
陸奥国語郡の百姓に復3年を与えて奥部を成るものをi ;る。
逃亡した諸国の軍士340人を陸奥国の概戸に配する。
相校・武蔵・上総・常陸・上野・下野・出羽・越後等の国の民9000人を陸奥国伊治城に選
置する。
駿河・甲斐・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信澳・上野・下野等の国の浪人4000人を陸
奥国胆沢城に移配する。
表 l .八世紀後半以降の棚戸移配
一
覧平安初期における征実の終將と類実支配の変質
平安初期における征実の終一持と最究支配の変質
紀後半以降
︑
城-a -
設置地域へ
の移民に新たに罪人や乞食が加えられたということは
︑
律令国家の辺
境観の変化を象徴的に示すという点では重要であるが︑
量的には比較的少数であっ
たとみられる︒
したが
っ
てこの
時期以降の
移民政策は︑ ︵
1︶
浮浪人の強制移住と︵ 2 ︶ 一
般公民
の
優遇措置を講じての
募集という二つ の
方式が主流を占めるようにな
っ
ていっ
たとみてよい︒
八世紀後半以降に建郡した栗原
・
桃生両郡以北の陸奥国の
奥郡につ
いて﹁
和名類聚抄﹂ の
郷名を検してみると︑響城︵桃生郡︶︑
会津︵栗原郡︶
︑
白河︵
胆沢郡︶
といっ
た陸奥南部の
郡名︑
信濃・
甲斐︵江刺郡
︶︑
下野・
上総︵
胆沢郡︶
といっ
た東国諸国の国名と一
致するもの
が少なからず確認できる︒
これらは︑
黒川以北十郡の
場合と同様 に︑
移民の
出身地に由来する地名とみられる︒
ただ黒川以北十郡に おいては︑
ほとんどの
場合︑
束国ないし陸奥国南部の
郡名とその郷名が一
致するのに対し︑それ以北の
奥郡では一
致する郷名が︑
東国諸国に関しては国名に限られるという違いがある︵表2参照︶
︒
これは移民の実施形態
の
相違を反映したものと思われる︒すなわち八世紀前半に実施された棚戸
の
移配が︑
主として郡単位の
組織的な移民であったと想定されるのに対し︑
そのような政策の
変更を余儀なくされた八世紀後半以降においては︑束国諸国
の
浮浪人や一
般公民の
希望者を主に国単位で奥郡に送り込むという形態をと
っ
たことが郷名の
特色の
違いとして表われたのではないかと推測される︒ただ陸奥国内の
場合は︑宝亀七年︵
七七六︶に︑﹁
募下 陸奥国諸郡百姓成=︑
奥郡一
者上 便即占着︑給= 復三年一 ﹂ ︵ ﹁
続日本紀﹂
同年十二月丁酉郡 名 郷数 郷 名
一
致する国郡名 備 考黒川郡 賀美郡 色麻郡 玉造郡 志太郡 長岡郡 新田郡 小田郡 社鹿郡
3 3 4 4 3 2 4 5 3
新田郷 自川郷 勞瀬郷 相模郷 安蘇郷 信太郷 志太郷
上野国 新田郡
陸奥国 白河郡
武蔵国 賀美郡
陸奥国 管顧郡
相校国
下野国 安蘇部
常陸国 信太郎
常陸国 信太郎
上野国 新田郡
武蔵国 賀美郡
武蔵国 賀美郡 黒
川 以 北 十 郡
延匯:l8年富田郡を併合
座1建4年初見(信太郎)
延層18年調1馬郡を併合 延居l8年登米郡を解合 賀美郷
賀美郷 桃 生 部
架 原 郡 響 并 郡 江 刺 郡 胆 沢 郡
4 4 7 4 7
響城郷 会津郷 借組郷 甲要郷 自河郷 下野郷 上総郷
陸奥国 繁城部 陸奥国 会津部 信温国 甲要国
陸奥国 自河郡
下野国 上総国
宝ll2年初見
神顯最雲3年建選か
「延喜式」初見
承和8年初見 延唐23年初見
表2 陸奥国奥部の郷数
・
移民郷一
覧8
条︑表1
︵ l
0︶とあるように︑
郡単位で百姓すなわち一
般公民の
移住がおこなわれたために郡名と
一
致する郷名が残つたの
であろう︒
この
時期の移民は︑
出身地や移配先のさまざまな事情に規定されて︑
移配先で逃亡者が続出したり
︑
希望者が思うように集まらなかっ
たりということがしばしばあっ
たと思われる︐ 4︑
4︶上記のごとき名称をも
つ
郷がいくっ
か確認できるということは︑
この地域に浮浪人や一
般公民などからなる移民が
一
定程度定着したことを示すものと解してよいであろう
︒
すなわちこの地域の
移民系住民は︑
主として東国・
陸奥国南部出身の
一
般公民や浮浪人から構成されていたと考えられる
の
である︒さて
︑
この
一型
尸の
変質につ
いては︑
三つ
ほどの原因を考える必
要 があると思われる︒ひとつ
は律令国家側の
要因で︑辺
境︑とくに新たに律令国家
の
領域に取り込んだ陸奥国の桃生・
伊治︵
栗原︶︑
出羽国
の
雄勝等の
地域が︑中央の
貴族からみて浮浪人や犯罪者・
乞食などの移配地としてふさわしいと観念されたことが
︑
政策の変更を招く直接
の
原因となっ
たとみられる︒
中世国家では︑
本州最北の
外が浜が境界
の
地とされ︑夷島はその外に位置づけられて︑ともに悪しきも
の
を追放するところとされたという︵
大石直正﹁
外が浜・夷島考
﹂ ﹁
関一晃先生還暦記念日本古代史研究﹂
吉川弘文館一
九八〇年
︶
︒右の辺
境観は︑
この
中世の 辺
境観の
萌芽的形態としても興味深い〇
つ
いで移民を送り出す東国などの
在地社会の疲弊 ・変化が︑移民政策変更
の
原因として考えられる︒すなわち在地社会の
変化によっ
て︑以前にくらべて
一
般公民を棚戸として辺境の
地へ
強制的に移住させることが困難にな
っ
たという状況が想定されるのである︒
そのような変化は︑すでに八世紀前半
の
束国からの組織的な一型
尸︑
鎮兵など
の
徴発によっ
てある程度進行していたであろうが︑
とくに蝦夷政策が積極化する天平宝字年間以降はさらに加速されてい
っ
たと思われる
︒
表1の ︵ 9 ︶ a
0︵
l0︵ l 3 ︶ a 5 ︶
などにみられるように︑神護景雲年間以降
︑ 一
般公民を城-a -
設置地域に移配する政策が再び行われるが︑それら
の
ほとんどは優遇措置を講じて希望者を募るという方式をとっ
たことが明らかで
︑
もはやかつ
てのように一
般公民を組織的︑強制 的に移配するという方式はかげをひそめてしまう︒
これは八世紀初頭以来
の
東国に対する一型
尸・
鎖兵などの
過重な負担が住民の
間に辺
境
へ の
移住に対する忌選を生み︑
これに律令国家の支配体制の弛緩が加わ
っ
て︑
従前の
ごとき公民の強制移住策が実施困難となって︵ 5
︶い
っ
たためと考えられる︒
三番日として移民
の
移配先である奥郡の
状況の不安定化があげられる︒蝦夷と境を接する近夷郡の
一
帯は︑っ
ねに未服の
蝦夷の
脅威 にさらされているという︑特殊な状況下にあり︑
蝦実との抗争・戦乱が起こるたびに︑田地が荒廃したり︑住民が逃亡したりすること
がくり返される
︑
在地の
状況がきわめて流動的で不安定な地域であ
っ
た︵拙稿︑前掲﹁
近夷郡と城細支配﹂
︶︒養老四年︵七二〇︶の陸奥
の
蝦実の
反乱があっ
たあとの﹁
続日本紀﹂
養老五年︵七二一 ︶
六月
乙
酉条に﹁
陸奥・
筑紫辺塞之民︑数過= 烟座︑一
疚= 労戎役一
︒加以︑父子死亡︑室家離散
﹂
とあり︑つ
づく六年︵
七二二︶閏四月乙
︑︑丑条にも﹁
酒者︑辺郡人民︑
暴被= 寇賊一
遂適= 東西一
流離分散﹂
とみえているように
︑
その
ような状況は奈良時代の前半からすでに存在していた︒しかし奈良時代の後半にな
っ
て律令国家が桃生・雄勝 ・伊治
の
諸城を造営して積極的な北進策をとると状況は一
層悪化し︑奥郡
一
帯はしだいに安定的な支配秩序を維持することが困難になっていく
︒
とくに三十八年戦争勃発後は︑﹁
続日本紀﹂
宝亀六年︵
七七五︶三月丙辰条に
﹁
陸奥蟻賊騷動︑自レ 夏渉レ 秋︒
民皆保レ 塞︑田l
e
荒廃﹂
とあり︑
また延暦一
兀︵七八二︶年五月甲午条に﹁
陸奥国頃年兵乱
︑
奥郡百姓︑並未= 来集一 ︒
勅給= 復三年一 ﹂
とみえるように︑平安初期における征実の終爲と-l
a
実支配の変質平安初期における征実の終:
u
と最爽支配の変質こ
の
地域でくり返される政府軍の
軍事行動と蝦夷の
武力抵抗は︑非蝦夷系住民のこ
の
地域へ の
新たな定着を困難なもの
にするとともに
︑ ぃ っ
たん定住した住民のこの
地域からの
逃亡をも誘発していっ
てこの
八世紀後半に現出する新たな状況の背後に・は︑第一
節で論じた北上川中流域の蝦夷
︵
山道環夷︶の台頭があっ
たの
である︒
た
︒ ﹁
続日本紀﹂
神護景雲三年字三年符 :
差= 浮浪
一
千人 :︵
七六九︶
正月己
亥条に﹁
被= 天平宝以配= 桃生一
型
尸一
︒本是情抱= 規選一
萍漂蓬転︑
将至= 城下︑ 一
復逃亡﹂
とあるごとき︑
浮浪人を-a -
戸に移配しても定着しがたいというような状況や︑
同日条で太政官自らが﹁
今徒二 無罪之民 :
配=
辺
城之成︑一
則物情不レ 穗︑逃亡無レ已﹂
と表明しているような︑ 一
般公民であっ
ても︑
強制的に移住させると多くは逃亡してしまうという中央政府
の
状況判断は︑
如上の在地の状況の
不安定化を背景にもっ
ものであっ
たと考えられる︒
この
ような奥郡
の
支配秩序の
不安定化が︑移民の
定着を妨げ︑ひいては移配方式の
変更をもまねいたの
である︒
八世紀後半から末葉にかけて
︑
この
ような原因が重なっ
て律令国家
の
奥郡へ の
移民政策は従来の
方式の
変更を余儀なくされ︑
しだいに行きづまりをみせていくが︑そ
の
うちもっ
とも基底的な要因はやはり第三
の
移住先である奥郡の
状況の
変化であろう︒律令国家は八世紀半ば以降
︑
積極的な北進策を取り︑支配領域を北に広げるが︑
そ
の
ことが蝦夷との
対立を激化させることになり︑
かえっ
て奥郡での
安定的な支配体制を維持することができなくなっ
ていくの
である
︒
かかる状況がこの
地域の
非蝦実系住民の
逃亡
を誘発するとともに
︑ 一
般公民の組織的な移住策を困難なもの
にし︑
非環実系住民のこの地域
へ の
定住を阻害する主要な要因となっ
たと思われる︒
そし2 ︑
桃生・
栗原以北の奥部における公民支配同じ陸奥国の奥郡でも
︑
八世紀前半に成立した黒川以北十郡にくらぺて
︑
八世紀後半の
桃生・
伊治両城の
造営にともなっ
て建郡をみる桃生
・
栗原両郡︑および延暦二十一
年︵
八〇二︶
の胆沢城の
造営に相前後して建置されたとみられる磐井
・
江刺・
胆沢の
三郡は種々 の
点で性格の
異なっ
た郡であっ
た︒
この事実は︑旧稿︵前掲﹁
近夷郡と城細支配
﹂ ︶
では認識できなかっ
たが︑
奥郡の
考察にとっ
てきわめて重要なことと思われる︒
まず黒川以北十郡
の
地域には玉造郡・小田郡の
二軍団が置かれ︑
こ
の
地域の
公民は一
定の
割合で兵士
として徴発されたが︑
桃生・栗原両郡より北には
つ
いに軍団が置かれることがなかっ
た︒律令制下において軍団は数郡に
一 つ の
割合で置かれ︑
通常︑千人の一
般公民 から徴発された軍団兵士
をもっ
て構成される︒したがっ
て軍団の設置には
一
定程度の
公民制の
充実が必
要であっ
たのであり︑
桃生・栗原両郡以北に軍団が設置されなか
っ
たのは︑
軍団兵士
制を支えるに十分な公民制がこ
の
地域に形成されえなかっ
たからにほかならない︵鈴木拓也
﹁
古代陸奥国の
軍制﹂ ﹁
歴史﹂
七七一
九九一
年︑今泉隆雄
﹁
古代東北と南と北﹂
日本考古学協会宮城・
仙台大会シンポジウム資料集
﹁
北からの
視点﹂ 一
九九一
年︶ ︒
これは先にみた八世紀後半以降における律令国家
の
移民政策の
行きづまりと対応するもの
であ10
る︒
桃生
・
栗原両郡以北での
公民制の
未熟は︑
この
地域から非蝦夷系豪族がほとんど成長してこないという事実によ
っ
ても裏づけられる
︒
別稿で論じたように︑
古代東北の
豪族は︑
直接・間接さまざまな形で征夷にかかわ
っ
た︒律令国家は豪族の
在地での
支配力・経済力を積極的に征夷に利用しようとしたし︑彼らも国家
の
政策に加担することによ
っ
て一
族の地位の向上をはかっ
た︒
その結果︑
東北地方には︑他地域にくらぺてはるかに多くの ″征夷型〟豪族とも呼ぶ
べき新興階層が台頭してくるのである
︵
拙稿﹁
東北の
豪族﹂ ﹁
新版古代
の
日本﹂
九東北 ・北海道一
九九二年︶︒ところがこの ″征夷型〟豪族の分布をみてみると︑道
一
喝氏をはじめとして︑そのほとんどは黒川以北十郡よりも南
の
地域に限られ︑
桃生・
栗原以北の
地域では皆無とい
っ
てよい︒これまたこの
地域の
公民制の未熟を示すもの
と思われる
︒
また︑桃生
・
栗原両郡以北における公民制の
未熟は︑この地域の郡の規模
︑
さらには公民支配における城棚の比重にも影響を及ぼしたと考えられる︒
﹁
和名類聚抄﹂
によれば︑神亀元年前後にいっ
せい に成立したとみられる黒川以北十郡は︑
平均三郷程度からなるきわめて小規模な郡
の
集合体であっ
たが︑
桃生・
栗原・
響井・
江刺・
胆沢
の
諸郡はすべて四郷以上によっ
て構成されており︑
とくに響井・
胆沢
の
両郡は七郷からなっ
ている︵
表2
参照︶ ︒
すなわち桃生・
栗原以北
の
奥郡は︑黒川以北十郡にくらぺて郡の規模が相対的に大きくな
っ
ているのである︒
黒川以北十郡が小規模なの
は︑
この
地域の
住 民の
主要部分が他地域からの
移民で構成されていて︑
譜第郡領家が未成熟なうえ
︑
環夷と境を接した辺
境の
地域であるために︑通常の
規模
の
郡域では安定的な公民支配が実現しがたいためにとられた方策であ
っ
た︒
ここでは﹁
統領之人﹂
たる郡司による非蝦実系住民の支配が基本で
︑
それを前提としてこの
地域に複数おかれた城一研が蝦夷系住民をも含めた地域全体
の
支配にあたるという体制であっ
たと考えられる
︵
拙稿︑前掲﹁
近実郡と城棚支配﹂ ︶ ︒
すなわち黒川以北十郡
の
公民支配においては︑
小規模に設定された郡の
支配力が基本であり︑城;
a -
はそれを補完するという関係にあっ
たと思われる︒
これは移民を主体とした郡において公民支配を安定的におこなうのに
も
っ
とも適した形態とみることができよう︒これに対して桃生・栗原以北の奥郡の規模がやや大きく︑とくに桃生
・
栗原の
両郡では一
郡1 l
一
城概の
体制をとっ
たのは︑この地域の
安定的な支配と移民の定着が困難で
︑
郡を主体とした公民支配の樹立が難しかっ
たところから︑小規模郡を基礎とした支配体制の形成が困難で
︑
城-a -
主体の在地支配によ
っ
て移民の
定着をはかっ
た結果ではないかと推測さ︵6︶れる
︒
以上
︑
栗原・
桃生以北の
奥郡では公民制が十分に形成されなかっ
たということを︑いく
つ
かの点からみてきた︒このことは前節でみ た棚戸の
変質︑移民政策の
行きづまりと表裏の関係にある︒
そしてこれらが恒武朝末年における征夷中止の決定と︑そ
の
後の蝦夷政策の
根本的な転換の
歴史的前提をなすものと考えられるのである︒平安初期における征実の終一爲と-l
a
実支配の変質平安初期における征夷の終一持と- l
a
夷支配の変質3︑三十八年戦争と出羽国山北
地
方三十八年戦争
の
主戦場は北上川中流域を中心とした陸奥国の奥郡一
帯であっ
たが︑
先にみたように戦線はまもなく出羽国にまで広がり︑
とくに雄勝城を中心とした山北地方では混乱が続いて︑
陸奥国の
奥郡と同じような状況が現出する︒すなわち﹁
続日本紀﹂
延暦二年︵七八三︶六月丙午朔条に﹁
出羽国言︑
宝亀十一
年︑雄勝・
平鹿二郡百姓
︑
為レ賊所レ 略︑
各失= 本業 :彫弊殊甚
︒
更建= 郡府 :招=集散﹇
一 一 一
︑一
雖レ 給= 口田 :未レ得= 休息
一
︒因レ 茲︑
不レ 堪レ 備= 進調庸
一 ︒
望請
︑
蒙= 給優復 :将レ 息= 弊民
一
︒勅給= 復三年一 ﹂
とあるように︑この地域
の ﹁
百姓﹂
すなわち移民系の住民が︑﹁
賊﹂
すなわち蟻夷
の
略奪を受けて他地域に逃走したために︑
郡の
支配秩序が崩壊してしまい︑
その
回復の
ために﹁
郡府﹂
の再建︑
散民の
招集や給復などの施策を実施している
の
である︒くわしくは別稿に譲らざるをえないが
︑
山北地方は九世紀後半においても不安定な状態が続いており
︑
その点で北上川中流域と類似した性格を有する地域であっ
た︒ の
ちに東北地方北部の
有力な支配者となる安倍・
清原両氏がいずれもこの両地域を拠点としていたという事実を想起すると
︑
その前段階における両地域
の
性格に類似した側面があるということは単なる偶然とは考えがたく
︑
両氏の台頭の
原因をさぐるうえで看過できない意味をも
っ
ていると思われる︒
三
︑
:E
武朝末年における征実の中止
と!a
実支配方式の
転換1
︑
德政相論後の政策転換 延暦二十年︵八〇一 ︶
︑坂上田村麻呂を征夷大将軍とする征討軍がようやく胆沢の環夷の制圧に成功する
︒ っ
いで胆沢 ・志波の
両城が築かれて北上川中流域
の
支配体制がととのうかにみえたが︑その直後
の
延暦二十四年︵八〇五︶
十二月に藤原緒嗣と管野真道の間で徳政の相論がおこなわれる
の
である︒このとき桓武が軍事︵
:=
征実︶と造作
︵
l1
造都︶の
中止
を決意した理由は︑結嗣が﹁
方今天下所レ 苦︑軍事与= 造作
一
也﹂
と端的に述べ
ているように︑この
二大国家事業による諸国
の
民衆の疲弊のためであっ
た︒田村麻呂が副将軍に任命 された延暦十三年︵
七九四︶
次の
征討も︑またっ
づく延暦二十年次の征討も︑
事前に三年余にわたっ
て入念な準備がおこなわれたよう で︑
膨大な物資と兵員︵
十三年次1 一 〇
万︑
二十年次1
四万︶
が投入された
︒
これが諸国にとっ
て大きな負担となっ
たことはいうまでもあるまい︒胆沢地域
の
蝦夷の制圧には︑
実に多大な犠性が払われた
の
である︒徳政相論は中央政府
の
蝦夷政策の重大な転機となっ
た︒軍事と造作
の
中止
を主張した緒爾自身︑
大同三年︵
八〇八︶
に東山道観察使兼陸奥出羽按察使に任ぜられ︑
一
年半の
任期中にさまざまな民生安定策を講じて大きな足跡を残したが
︑
徳政相論の
意義はそれにとどまらない
︒
近年︑
阿部義平氏によっ
て光があてられたように︑
中央政府
の
蝦夷政策全般にわたりきわめて重大な転換をもたらすのである
︵
阿部義平・永i 9
正春﹁
徳丹城とその施和瓦につ
いて﹂ ﹁
国立歴史民族博物館研究報告
﹂
六一
九八五年︶
︒徳政相論
の
直前の
延暦二十二年︵八〇三︶
に築かれた志波城は︑
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