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平安初期における征夷の終焉と蝦夷支配の変質

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(1)

平安初期における征夷の終焉と蝦夷支配の変質

著者 熊谷 公男

雑誌名 東北学院大学東北文化研究所紀要

号 24

ページ 1‑21

発行年 1992‑08‑31

URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024188/

(2)

平 安 初 期 に お け る 征 夷 の 終 焉 と 蝦 夷 支 配 の 変 質

熊 谷 公 男

はじめに

弘仁二年︵八

一 一

幤伊二村

征夷を終えた征実大将軍文室綿麻呂は

上奏

中でこれまで蝦実と

武力抗争を振り

返つて

= 宝亀五年

︑ 一

= 于当年 :

惣卅八歳

︑ 辺

寇展動

絶︒丁壮老弱︑或疲= 於征成

或倦= 於転運

︒百姓窮弊

= 休息

一 ﹂

日本後紀

同年閏十二月辛丑条

と総括している

亀五年

七七四

からこ

年にいたる三十八年も

長きわたる中

央政府と蝦実と

戦争は︑蝦実社会にはむろん

こと︑直接間接に

戦争かかわ

た東北・東国などの広範な地域社会もきわめて深

刻な影響を及していたのである︒

弘仁二年

征夷は︑結局

史上最後

となるが

年前︑恒武朝の晩年にあたる延暦二十四年

八〇五

十二月

殿上

で参議藤原結嗣と同管野真道が天下

徳政を相論するということが

た︒結嗣が

方今天下所

軍事与= 造作

也︒停= 此両事 :

百姓安之

と主張した

に対し

真道は異議をとなえてゆずらなか

たが

結局

恒武天皇は結嗣

意見を採用し

これまで天皇自身が 中心とな

て推進してきた軍事︵

l

I征実

と造作

︵ l-

造都

︶ の

を決断する

︵ ﹁

日本後紀

同年十二月壬責条

︶ ︒

さしもの専制君主恒

武も

天下

民衆

疲弊の現実を認め︑緒嗣の主張を受け入れざる

を得なか

である

弘仁二年

征夷はこの恒武天皇

決定を前提としたもので

その

征討軍は恒武朝の場合と異な

て東国の兵力にま

たく依存せず

陸奥出羽

二万余

兵力のみでぉこなわれ︑しかも実際に戦果をあ

げたのは中央政府側

いた俘囚の部隊であ

もはや膨大な兵

力と物資を

ぎ込んで組織的にこな

た恒武朝の征実の面影はな

くな

ている

である︒

このよう奈良時代末期以来の慢性的な戦争状態は地域社会を疲

弊させたばかりでなく

国家財政

窮乏をまねき

︑ つ

いには蝦夷支

あり方にも重大な転換をせまること

た︒中央政府の主体

的な征夷が文室編麻呂

征討を最後とする

は︑以上のような経過

からみて

従来演然と考えられてきたように

中央政府の支配領域

が飛 E的に広がり

安定的蝦実支配がこなえる段階に達したか

らというようなことよる

では必ずしもなく︑むしろ長期にわた

(3)

Se- 9

る環夷と

戦争状態にもとづく国家財政

窮乏

民衆

疲弊

中央政府

側が従来の蝦夷支配方式を放棄せざるをえない状況

にたちいた

たこと

方に主因があると考えるぺきであろう

こう

して中央政府は

坂上田村麻呂

征討によ

て新たに支配下入つ

た北上川中流域

支配体制を十分確立しえないまま

とくに恒武

朝末期から一朝にかけて

疲弊した民衆

負担を大幅に軽減する

連の政策を実施することを余儀なくされる

である

要するに

律令国家

蝦夷支配は

桓武朝ける征夷中止

定によ

て新たな歴史的段階に入つたという

きで

これ以降は従

来とは大幅異なる条件

もとで︑新たに支配領域取り込んだ地

域の蝦夷支配をこな

ていかなければならなくなる

である︒し

たが

て征夷の終焉を蝦夷間題

解決とみる

は誤りで

環夷支配

方式の転換点と理解すべきであろう︒

恒武朝末年にける徳政相論とそれにともなう征実

はあま

りにも有名であるが

これまでそ

歴史的意義

考察は

ずしも十

分ではなか

たように思われる

そこで小論では

まず征実を終

に導いた要因として

北上川中流域

蝦実集団

山道蝦実︶

成長

それと密接に関連する移民政策

破綻に

いてとりあげること

にし

︑ っ

いで桓武朝末期

征夷中

止 の

決定が以後の律令国家

蝦夷

政策にど

ような変化をもたらしたかを具体的に考えてることに

する

︒ 一 ︑

北上川中流域における環実集団の成長

1

海道環真と山道環実

三十八年戦争

発端となる

は︑宝亀五年︵七七四

七月海道

蝦夷が桃生城を襲い

西郭を

た事件である︒陸奥側の蝦

夷ははやくから海道蝦夷と山道蝦実に二分されて律令国家に把握さ

れている

一 M

海道蝦実とは

天平宝字四年

七六〇︶造営された

桃生城が海道最実

へ の

備えとう性格をも

とみられることからす

ると

桃生郡付近を中

とした北上川下流域から本吉

気仙方面の

海岸部にかけて居住していた蝦夷集団の総称と思われ

︑ 一

方︑山道

最夷は

神護景雲元年︵七六

七 ︶

に完成した伊治城が山道蝦夷

えるという側面をも

とみられること

また山道蝦夷

最有力の蝦

実集団が胆沢地域

環夷であ

たことなどから︑宮城県北部から岩

手県南部にかけての北上川中流域に居住する複数の蝦夷集団を中央

政府が

括して呼んだ名称と考えられる

両者

うちでは

海道蝦実の方がはくから優勢であ

たよ

うで

神亀元年

七二四︶には海道蝦夷が反乱を起こし︑陸奥大線

佐伯児屋麻呂を殺害するという事件が起きている︒それに対して︑

山道蝦夷と

武力衝突が確認できる

は︑現存史料によるかぎり

宝亀七年︵七七六

二月に陸奥国が

山海二道賊

を討伐すること

を奏上した

︵ ﹁

続日本紀

同年二月甲子条︶のが最初である︒海道蝦

備えた桃生城が山道環夷

の防備の拠点である伊治城先んじ

て造られていることも

ころにける律令国家側の両者

軍事

2

(4)

的脅威対する認識を反映するも

であろう

2

山道一境実の台頭

既述

ように

三十八年戦争の火たを切つた

宝亀五年に

海道

一 一

偶て決件事反乱はた起のし

一の

こたあでただししこ

的なものではなか

たと思われる

という

は︑事件の直前

同年

七月

陸奥国按察使兼守 :鎮守将軍正四位下大伴宿称酸河麻

呂等

将軍等

前日奏= 征夷便宜 :

以為

︑ 一

者不

︑ 一

朕為

一 一 ︑

其労

︑ ﹂

= 含弘

4

= 将軍等奏 :

露彼類

= 野心

=

敢拒=

事不

︑ 一

=来奏

= 早発軍応時討滅

一 ﹂ ︵ ﹁

続日本紀

同年七月庚申条

大伴酸河麻呂らは以前から征討

の 必

要性を中央政府に奏上していたことが知られる

とく直前の奏状では事態が

層深刻化し

蝦夷が侵攻をくり返していることを訴えて

政府もその征

討を許可している

奥鞭

の 一

帯ではこれ以前から

触即発の不

穏な状況が

づいていたことがうかがわれる︒宝一

a

五年

海道蝦夷

反乱は︑天平宝字年間以降︑律令国家が積極的な一夷政策に転じ

たことより律令国家と陸奥国北

辺 の

蝦実と

対立がしだい

深まり︑起こるぺくして起こ

た事件とみるぺきであろう︒

さて

海道蝦夷が桃生城を攻準した翌年の

続日本紀

には

︑ ﹁

奥一

e 一

賊騒動

夏渉秋︒民皆保

田略荒廃

詔復= 当年課役

田租

一 ﹂ ︵

a

ハ年三月丙辰条︶

︑ ﹁

出羽国言

蝦実餘一

猶未=

一 一 一 ︐

一 一

三年之間

= 鎖兵九百九十六人︑

:= 要害︑

-

a

且通= 国府

一 ﹂ ︵

同 年十月美西条

などとあ

反乱は急速拡大してい

たようで

ある

さら宝亀七年

七七六︶二月になると

さき触れたよう

に陸奥国が

山海二道酸

を討伐することを奏上しているが︑それ

を受けて中央政府は出羽国対して

=

四千人

道自= 雄勝

而伐= 其西

辺 一 ﹂

ことを命じている

これは出羽国に山道蝦夷を西

側から攻撃するよう指示したものと解される︒こ

直後

五月

羽国と

出羽国志波村賊

とが戦いとなり︑出羽国側が劣勢なので

坂東諸国に騎兵

派遺を命じている

同年五月戊子条

︶ の

出羽

国の山道蝦実

の攻舉関連して起こ

た戦関であろ

h

-さら

月には

= 陸奥軍三千人

= 胆沢賊

一 ﹂

︵同年十

月庚条

陸奥国

軍勢が胆沢

蝦夷攻撃を加えている︒これが

という地名

初見である

ように宝亀七年のうち

線がい

きょに山道地域から出羽方面まで拡大し

山道蝦実

ち胆沢の蝦夷志波村の蝦実と戦闘が行われたことが確認できる

その後

最実と

戦闘は長期化

様相を呈し

同七年十二月

陸奥国

諸郡

百姓から奥郡を成るものを募り︑復三年を給してそ

定着をはか

ている

翌八年︵七七七︶四月

陸奥国では国

を挙げて軍を発して山海両道の蝦夷を討ち

国内が騒然として百姓

が銀苦したとして

調府と田租が免除されている︒さら

同年十二月には出羽国軍が再び志波村の蝦実と戦つて敗退し

また

出羽国の蟻夷も反乱を起こして

官軍が劣勢陷つている

戦線が

陸奥出羽両国に拡大して

律令国家と!

a

全面戦争の様相を帯び

てくるとともに

政府軍側がかなり

苦戦を強いられていることが

(5)

-l

a

うかがわれる︒

このよう宝亀五年以降

中央政府と蝦夷

武力衝突は急速に拡

大していくが︑そのなかでしだいに胆沢地域

蝦実を中

とした山

道蝦夷が︑中央政府

主たる攻準目標に定ま

てい

こと

を明瞭示すのが

︑ つ

宝亀十

年︵七八〇

二月丁西条である︒

陸奥国言

= 船路

撥遭成

比年甚寒

其河已凍

船︑

︒今賊来犯不

故先可= 寇道

仍須=

三千人

= 三 ・四月雪消

雨水汎溢之時

直進= 賊地

因造

海道漸遠

来犯無 便︒山賊居近伺 際来

犯︒遂不= 伐接

其勢更強

︑ 一

= 覚無城

胆沢之地両国之息︑莫= 於斯

たび重なる蝦夷の来攻に悩まされる陸奥国

奏上を受けてここで勅

が発布される

であるが

それによれば海道蝦夷は拠点が違方にあ

るため

来犯無 便

なのに対して

︑ ﹁

山賊

すなわち山道蝦夷は居

地が近く︑隙を見ては襲撃してきて

まま放つてぉいてはそ

勢力がさら強大になるとして

新た覚繁城を造営して

胆沢地

制圧拠点とするよう命じている

勅によれば︑こ

時点で

中央政府

最大

攻舉日標は明らかに山道環夷であり

中でも

とも強盛であ

た胆沢

蝦実を制圧することが数年来

騒動

鎮静化にと

ても

とも緊要なことと認識されている

である

覚繁城

建造計画

もちあが

た直後

a

年三月

按察使

紀広純が俘軍を率いて伊治城に入つたとき

東北古代史上著名な

伊治公告麻呂の乱が起こる︒こ

反乱によ

て広純や牡鹿郡大領道 l 9大橋が伊治城で殺され︑さらは多賀城まで焼き討ちにされて

陸奥国は大混乱にちい

てしまう

覚繁城

造営計画も実施に移

されぬまま中絶してしま

た可能性が高い

拙稿

﹁ ︿

書評

工藤雅

樹著

城細と蝦実

﹂ ﹂ ﹁

歴史

七七

九九

︒ところが告麻呂

これ以後

︑ 一

度も記録に現われてこない

また征討軍の主たる

攻撃

標は︑この後も

貫して胆沢地域

蝦夷であ

したが

て呰麻呂

乱は多分に偶発的な事件であ

たとみられ︑三十八年戦

争はあくまでも北上川中流域

蝦夷︵

=

山道蝦夷︶と政府軍との間

武力衝突を軸として展開していくのである︒

海道環実の反乱にはじまる三十八年戦争は

以上みたように︑

急速な戦線

拡大とともに状況も変化がみられ

ほどなく胆沢地

蝦実を中心とする山道蝦実と政府軍との大規模な武力衝突を中

心に展開していくことになる

以後

坂上田村麻呂が登場するまで

政府軍は長期わた

て苦戦を強いられるが

これが山道蝦実ら

勢力

強大さを如実物語るものであることは︑改めていうまでも

なかろう

ただ︑ここで特に注意してきたい

山道蝦実が有

力化する

は︑残された文献史料からみるかぎり

比較的新しい時

期とみられるということである

宝亀末年は山道環実

優勢が明

白であるが

先にふれたように︑桃生城が造営された天平宝字年間

ごろまでは

むしろ海道蟻夷の方が優勢であ

たとみられる

これ

は八世紀

半ば以降

北上川中流域の類夷集団が急速に発展し

奥側で最有力の環実勢力に成長を遂げてい

たことを示すものであ

ろう

(6)

3 ︑

北上川中流域

環真集団

発展

要因 胆沢地方を中心とする北上川中流域

実集団は

八世紀中葉以 降急速に陸奥最有力

蝦夷集団に成長してい

たらし

ことをみた が

要因としてはど

ようなも

が考えられる

であろうか

近年

考古学的調査

進展によ

て︑八世紀になると東北北部に

農耕集落が広範に出現し

九世紀にはさらに稲作農耕が定着して集

落が增加することが判明してきた︒とく北上川中流域では八世紀

から九世紀にかけて急速に集落遺跡が增大していくという

このよ

うな農耕

定着を基礎としたこの地域

增が山道蝦

発展

基礎とな

ていることは間違いないであろう

ような考古学上

事実に加えて

文献史料からはいく

かの

政治的

経済的な要因が考えられる︒すなわち八世紀前半に中央政

移民政策が組織的に実施され

いわゆる天平五概など

城棚が

大崎地方に設置されて城柳を拠点とする蟻夷支配体制が整備される

それともな

て山海両道等

の - a

実集団の多賀城をはじめとす

る諸城細

の朝貢

機会も飛躍的增大してい

たであろう︒そし

地域に送り込まれてきた移民系

住民と蝦夷と

さまざま

な形で

接触

機会も增えてい

たと思われる

交易

蝦夷社会

与えた影響

大きさに

いては

︑ っ

とに大石直正氏工藤雅樹氏

指摘があるが

大石直正

中世の黎明

小林清治

大石直正編

世奥羽の世界

︿ U P

選書

東京大学出版会

九七八年

工藤

雅樹

城棚と蝦実

﹂ ︿

考古学ライプリ

ュ I ・

サイ

九八九年

︶ ︑ っ

ぎに掲げる

類聚三代格

所収

延暦六年

七八七︶

官符は︑

ことを具体的知ることができる点できわめて重要

である

太政官符

陸奥按察使禁 断王臣百姓与= 実俘

交関

右被= 右大臣宣

=

一 一

︑ ︑ ︑ ︑

司狄買争等臣国王聞馬及如勅奉

及俘奴婢

一 ︒

所以

弘羊之徒

苟貪= 利潤 :

良窃

相成

日深

加以

無知百姓

= 意章

︒売= 此国家之貨 :

=彼実俘之物

︒綿既着=

要 一

育鉄亦造= 敲農器

理商

書極深

自今以後

= 厳禁断

一 ︒

如有 王臣及国司

= 犯制

物即没官

仍注 名申上︒其百姓者

︑ 一

= 故按

察使従三位大野朝臣東人制法 :

事推決

延暦六年正月廿

この官符では

三十八年戦争

ただなか国司 ・王臣家をはじめとす

る非蝦夷系住民と環夷と

私的な交易が盛んに行われていたことが

語られている

長年にわたる戦争状態にもかかわらず在地では-

a

と中央政府側

人びとと

私的な経済交流が絶えることなく続けら

れていたことは注日値する

しかも中央政府側からみて

このよ

うな私的な交易は

単に蝦実側経済的な利益をもたらすにとどま

らず︑

良窃 馬︑相酸日深

とあるよう

蝦夷の故対的行為

を助長し

さらには

= 此国家之貨 :

= 彼実俘之物

一 ﹂

という行

為を通じてさまざまな物資が最実側の手にう

それらが

綿既

= 成襖

︑ 一

青鉄亦造= 故農器

一 ﹂

というよう

蝦実社会の軍事力

- 9

(7)

: R

農業生産力を高める作用をした

であ

国家にと

極深

いものであ

長期にわたる戦争状態が環夷にと

て大きな負担となり

彼ら

社会に甚大な影響を及したことは容易に想像されるが

︑ 一

方では

そのような戦争状態が平時に律令国家と一

間に形成されている

朝貢関係

動播

:提をまねき

最夷集団にと

てはかえ

て自律

的な行動をとりやすくなるという側面があ

たことも事実であろ

この朝買関係

:程は

時期にしだいに頭著にな

てくる

臣家の自立化ともあいま

密貿易ともいうぺき私的な交易を

助長させる原因とな

てい

たと考えられる

こうして增大して

た交易が蝦実側に経済的な思恵をもたらして政府軍に対する抵

抗の源泉の

一 つ

となるとともに

環夷社会内部にさまざまな変動を

引き起こすことにもな

たであろう

三十八年戦争

勃発以前にも︑主として公的な朝貢関係に付随し

た形で

より小規模ながら恒常的律令国家と環夷と

間に物資

流れが形成されていたとみられる︒こ

ような長期にわたる

- a

実社

へ の

物資

流入は

彼ら

社会を除

に変化させることにな

であろう

それに加えて

律令国家よる蝦実

族長層

へ の

公︶

カバネ

官職 ・位階

環実爵等の授与も蝦夷社会

統合

発展

触媒

役割を果たしたと思われる

という

夷社会は族長に

て率いられた︑互いに相対的に自立し

対抗関係にある集団

よって構成されてぉり

社会的統合が未熟で不安定な社会であ

工藤氏

前掲

;

a -

と環夷

﹂ ︶ ︒

ような構造の社会で

ある特 定

集団がほか

多く

集団を統属下いて社会的統合を進める

ためには

他の集団がそ

もとに服する卓越的な権威を保持するこ

とが不可欠であ

たと思われる

ところがそ

ような権威は当時

蝦実社会独自には形成されえず

律令国家から付与される姓位階

がそ

機能を果たしたとみられる

すなわち

- a

族長

のカバ

ネ・官職・位階など

授与は

律令国家の権成

分与にほかならず

ただし郡司など

官職にはむろん

職務権限がともな

︶︑

かかる卓越的な権威を帯びた有力な族長率いられた集団がほか

弱小集団を支配下に置くという形で

蝦実社会の統合が進められて

たと考えられる

である︒

以上要するに

八世紀中葉以降

北上川中流域ける蝦夷社会

急速な発展は

稲作農耕

定着に代表されるような

- a

夷社会の自

律的な発展を基礎にし

っ っ

八世紀初頭以来

律令国家側と

私的さまざまな形態の接触にともなう物資

流入︑さらには族

長層

の律令国家

権威

分与などの外的な契機

てい

そう

促進されてい

たであろう︒

三十八年戦争は

天平宝字年間以降

律令国家

演極的な蝦夷政

へ の

転換という外的な要因

ほか︑こ

ような北上川中流域を

中心とした類夷社会

発展という内的要因が基礎にあ

て引き起こ

されたも

と理解されるが︑既述のよう

戦争が蝦夷社会

展をさらに促進する側面もあ

たことを注意してぉきたい︒

6

(8)

三十八年戦争と奥郡

1︑八世紀後半における移民政策の行きづまり

城棚は︑七世紀中葉の段階から棚戸とよばる国家よって主 導た移民が付属して

その後︑とく八世紀前半は陸奥

出羽両国の蝦夷と境を接した地域の基盤強化のためもっとも組織

多数の移民が送り込まその結果として黒川以北十郡のよう な移民を主体とした特異な近夷郡が成立する

城棚設置地域送り

込まれる棚戸は︑城棚を拠点した蝦夷支配の人的

物的基盤を構

成してぉり︑城棚よる蝦夷支配を支えるものであった︵拙稿

夷郡と城柵支配

﹂ ﹁

束北学院大学論集歴史学

地理学二

一 一

九九

〇年

この城棚の造営

体となった移民政策は︑その後しばらくの間 中断し︑天平宝字年間の雄勝

桃生両城の造営とともこの両地 域を主な対象して再開

しかし従来ら指摘さるよ ︑これ以降︑その性格は大きく変わり浮浪人・罪人

乞食な どを棚戸として移配るよなり︑徒刑労働的な色彩を帯びてく る

ところが神

景雲年間なる︑そ加えてたたび

の民戸を大量城棚移配する政策がとらるようなる︵表1参

照︶

もっともは税制上の優遇措置をとって百姓のなから希

望者を募るとう形をとってる点で八世紀前半の

般公民の移

配とは明確異なって

もこれ以降は︑浮浪人の移配の場 合も含めて

棚戸﹂とは呼ばなくなることも注意

て八世

年  事 

(l)天平宝字1(757)

4

(2)天平宝字1(757)7

(3)天平宝字3(757)

9

(4)天平宝字4(760)

.

10 (5)天平宝字4(760). l 2

(6)天平宝字6(762).間l2

(7)天平宝字7(763)9

(8)神護景雲l(767)

.

1l

(9)神、題最雲2(768)

.

12

(1ll1 神顯景發3(769)

1

(1D神顯景雲3(769)

2

(121神讓景雲3(769)6

(13)宝1ll7(776)

.

12

(l41延暦14(795)

.

12

a

5)延府l5(796)

.

1 l

061延暦21(802)1

不孝・不恭・不友・不順の者を陸奥国の桃生、 出羽国の小勝に配する

橘奈良麻呂の一味の久索多夫礼らに同調した百姓を出羽国の小勝村の棚戸に移配する

坂東8国、並びに越前・能登・越後等の4ケ国の浮浪人2000人を選して雄勝棚戸とする。

陸奥のial戸の百姓らの申請により、 郷土の父母兄弟装子 も 同 じ く 棚 戸 に'国する。

t19職で争つて仲間の個を殺した薬師寺f9準達を陸奥国の桃生例戸とする。

乞索児100人を陸奥国に配して占着させる

母を殺した河内国丹比郡の人を出羽国小勝のiai戸 と す る 。

私錯錢の人に姓を鋳銭部と陽い、 出羽国に流す

陸奥国及び他国の百姓に給複の特典を与えて、 伊 治 ・ 桃 生への移住を募る。

陸奥国、桃生棚戸に配した浮浪人が定着せずに逃亡するとして、隣国の3丁以上の戸200 烟 を 募 つ て 城 郭 の 成 と す る こ と を 請 う が 、  太政官は罪のない民を辺城に配するのは不当と

して却下、 法外の給複をして桃生・伊治2城に移住を希望するものを募る。

坂 東 8 国 に 命 じ て 、  法外の優複を与えて桃生・伊治2城に移住したい百姓を募集させる。

浮宕の百姓2500余人を陸奥国伊治村に置く

陸奥国語郡の百姓に復3年を与えて奥部を成るものをi ;る。

逃亡した諸国の軍士340人を陸奥国の概戸に配する。

相校・武蔵・上総常陸・上野・下野・出羽・越後等の国の民9000人を陸奥国伊治城に選

置する。

駿河・甲斐相模・武蔵・上総・下総・常陸信澳・上野・下野等の国の浪人4000人を陸

奥国胆沢城に移配する。

表 l  .八世紀後半以降の棚戸移配

(9)

紀後半以降

-

a -

設置地域

の移民に新たに罪人乞食が加えられ

たということは

律令国家の

境観の変化を象徴的示すという点では重要であるが

量的には比較的少数であ

たとみられる

した

てこ

時期以降

移民政策は

︑ ︵

1

浮浪人の強制移住と

︵ 2 ︶ 一

般公

優遇措置を講じて

募集という二

つ の

方式が主流を占めるよう

にな

てい

たとみてよい

八世紀後半以降建郡した栗原

桃生両郡以北の陸奥国

奥郡

いて

和名類聚抄

﹂ の

郷名を検してると︑響城︵桃生郡︶

会津

︵栗原郡︶

白河

胆沢郡

とい

た陸奥南部

郡名

信濃

甲斐︵江

刺郡

︶︑

下野

上総

胆沢郡

とい

た東国諸国の国名と

致するも

が少なからず確認できる

これらは

黒川以北十郡

場合と同様 に

移民

出身地由来する地名とみられる

ただ黒川以北十郡に いては

ほとんど

場合

束国ないし陸奥国南部

郡名とその郷名が

致するの対し︑それ以北

奥郡では

致する郷名が

東国

諸国に関しては国名に限られるという違いがある︵表2参照︶

これ

は移民の実施形態

相違を反映したものと思われる︒すなわち八世

紀前半に実施された棚戸

移配が

主として郡単位

組織的な移民であったと想定されるのに対し

そのような政策

変更を余儀なく

された八世紀後半以降にいては︑束国諸国

浮浪人

般公民

希望者を主に国単位で奥郡に送り込むという形態をと

たことが郷名

特色

違いとして表われたのではないかと推測される︒ただ陸奥国内

場合は︑宝亀七年

七七六︶に︑

陸奥国諸郡百姓成=

奥郡

便即占着︑給= 復三年

一 ﹂ ︵ ﹁

続日本紀

同年十二月丁酉

郡  郷数 郷

致する国郡名 備 

黒川郡 賀美郡 色麻郡 玉造郡 志太郡 長岡郡 新田郡 小田郡 社鹿郡

3 3 4 4 3 2 4 5 3

新田郷 自川郷 勞瀬郷 相模郷 安蘇郷 信太郷 志太郷

上野国  新田郡

陸奥国  白河郡

武蔵国  賀美郡

陸奥国  管顧郡

相校国

下野国  安蘇部

常陸国  信太郎

常陸国  信太郎

上野国  新田郡

武蔵国  賀美郡

武蔵国  賀美郡

延匯:l8年富田郡を併合

14年初見(信太郎)

延層18年調1馬郡を併合 延居l8年登米郡を解合 賀美郷

賀美郷 桃 生 部

架 原 郡 響 并 郡 江 刺 郡 胆 沢 郡

4 4 7 4 7

響城郷 会津郷 借組郷 甲要郷 自河郷 下野郷 上総郷

陸奥国  繁城部 陸奥国  会津部 信温国 甲要国

陸奥国  自河郡

下野国 上総国

ll2年初見

神顯最雲3年建

延喜式初見

承和8年初見 延唐23年初見

表2  陸奥国奥部の郷数

移民郷

8

条︑表1

︵ l

0︶とあるよう

郡単位で百姓すなわち

般公民

移住

こなわれたため郡名と

致する郷名が残

であろう

時期の移民は

出身地移配先のさまざまな事情規定されて

移配先で逃亡者が続出したり

希望者が思うよう集まらなか

たりということがしばしばあ

たと思われる︐ 4

4上記のごとき名称を

郷がいく

か確認できるということは

この地域浮浪人

般公民などからなる移民が

定程度定着したことを示すものと解し

てよいであろう

すなわちこの地域

移民系住民は

主として東国

陸奥国南部出身の

般公民や浮浪人から構成されていたと考えられ

(10)

である︒

さて

変質

いては

ほどの原因を考える

要 があると思われる︒ひと

は律令国家側

要因で︑

境︑とくに新

たに律令国家

領域取り込んだ陸奥国の桃生

伊治

栗原

︶︑

出羽

雄勝等

地域が︑中央

貴族からみて浮浪人犯罪者

乞食な

どの移配地としてふさわしいと観念されたことが

政策の変更を招

く直接

原因とな

たとみられる

中世国家では

本州最北

外が

浜が境界

地とされ︑夷島はその外位置づけられて︑ともに悪し

きも

を追放するところとされたという

大石直正

外が浜・夷島

﹂ ﹁

晃先生還暦記念日本古代史研究

吉川弘文館

九八〇

︒右の

境観は

中世

の 辺

境観

萌芽的形態としても興味深

いで移民を送り出す東国など

在地社会の疲弊 ・変化が︑移民

政策変更

原因として考えられる︒すなわち在地社会

変化

て︑以前にくらべて

般公民を棚戸として辺境

強制的移住

させることが困難

たとう状況が想定されるのである

その

ような変化は︑すで八世紀前半

束国からの組織的な一

鎮兵

など

徴発

てある程度進行していたであろうが

とくに蝦夷

政策が積極化する天平宝字年間以降はさらに加速されてい

たと思

われる

表1

の ︵ 9 ︶ a

0

l0

︵ l 3 ︶ a 5 ︶

などにみられるよう︑神護景雲年間以

︑ 一

般公民を城-

a -

設置地域移配する政策が再び行われるが︑そ

れら

ほとんどは優遇措置を講じて希望者を募るという方式をと

たことが明らかで

もはやか

てのよう

般公民を組織的︑強制 的移配するという方式はかげをひそめてしまう

これは八世紀初

頭以来

東国に対する

鎖兵など

過重な負担が住民

へ の

移住に対する忌選を生

これに律令国家の支配体制の弛緩

が加わ

従前

ごとき公民の強制移住策が実施困難となって

︵ 5

たためと考えられる

三番日として移民

移配先である奥郡

状況の不安定化があげら

れる︒蝦夷と境を接する近夷郡の

帯は︑

ねに未服

蝦夷

脅威 にさらされているとう︑特殊な状況下にあり

蝦実との抗争・戦

乱が起こるたびに︑田地が荒廃したり︑住民が逃亡したりすること

がくり返される

在地

状況がきわめて流動的で不安定な地域で

た︵拙稿︑前掲

近夷郡と城細支配

︶︒養老四年︵七二〇︶の

陸奥

蝦実

反乱があ

たあとの

続日本紀

養老五年︵七二

一 ︶

六月

酉条に

陸奥

筑紫辺塞之民︑数過= 烟座︑

= 労戎役

︒加

以︑父子死亡︑室家離散

とあり︑

づく六年

七二二︶閏四月

︑︑丑条

酒者︑辺郡人民

暴被= 寇賊

遂適= 東西

流離分散

えているように

ような状況は奈良時代の前半からすで

存在していた︒しかし奈良時代の後半にな

て律令国家が桃生・雄

勝 ・伊治

諸城を造営して積極的な北進策をとると状況は

層悪化

し︑奥郡

帯はしだいに安定的な支配秩序を維持することが困難

なっていく

とくに三十八年戦争勃発後は︑

続日本紀

宝亀六年

七五︶三月丙辰条

陸奥蟻賊騷動︑自 夏渉

民皆保 塞︑田

l

e

荒廃

とあり

また延暦

︵七八二︶年五月甲午条

陸奥国頃

年兵乱

奥郡百姓︑並未= 来集

一 ︒

勅給= 復三年

一 ﹂

えるよう

-l

a

(11)

:

u

地域でくり返される政府軍

軍事行動と蝦夷

武力抵抗は︑非

蝦夷系住民のこ

地域

へ の

新たな定着を困難なも

にするととも

︑ ぃ っ

たん定住した住民のこ

地域から

逃亡をも誘発してい

てこ

八世紀後半現出する新たな状況の背後は︑第

節で論じ

た北上川中流域の蝦夷

山道環夷︶の台頭があ

である

︒ ﹁

続日本紀

神護景雲三年

字三年符 :

= 浮浪

千人 :

七六九

正月

亥条に

= 天平宝

以配= 桃生

︒本是情抱= 規選

萍漂蓬転

将至= 城下

︑ 一

復逃亡

とあるごとき

浮浪人を-

a -

戸に移配しても定着しがたいというような状況

同日条で太政官自らが

無罪之民 :

=

城之成︑

則物情不 穗︑逃亡無

と表明しているような

︑ 一

般公民であ

ても

強制的に移住させると多く

は逃亡してしまうという中央政府

状況判断は

如上の在地の状況

不安定化を背景にも

ものであ

たと考えられる

ような奥

支配秩序

不安定化が︑移民

定着を妨げ︑ひいては移配方式

変更をもまねいた

である

八世紀後半から末葉かけて

ような原因が重な

て律令国

奥郡

へ の

移民政策は従来

方式

変更を余儀なくされ

しだい

に行きづまりをみせていくが︑そ

うちも

とも基底的な要因はや

はり第三

移住先である奥郡

状況

変化であろう︒律令国家は八

世紀半ば以降

積極的な北進策を取り︑支配領域を北広げるが

ことが蝦夷と

対立を激化させることなり

かえ

て奥郡で

安定的な支配体制を維持することができなくな

ていく

であ

かかる状況がこ

地域

非蝦実系住民

を誘発するととも

︑ 一

般公民の組織的な移住策を困難なも

にし

非環実系住民の

この地域

へ の

定住を阻害する主要な要因とな

たと思われる

そし

2 ︑

桃生

栗原以北の奥部における公民支配

同じ陸奥国の奥郡でも

八世紀前半成立した黒川以北十郡にく

らぺて

八世紀後半

桃生

伊治両城

造営にともな

て建郡をみ

る桃生

栗原両郡︑よび延暦二十

八〇二

の胆沢城

造営

に相前後して建置されたとみられる磐井

江刺

胆沢

三郡は種

々 の

点で性格

異な

た郡であ

この事実は︑旧稿︵前掲

近夷

郡と城細支配

﹂ ︶

では認識できなか

たが

奥郡

考察

てきわ

めて重要なことと思われる︒

まず黒川以北十郡

地域には玉造郡・小田郡

二軍団が置かれ

地域

公民は

割合で兵

として徴発されたが

桃生・栗

原両郡より北には

いに軍団が置かれることがなか

た︒律令制下

いて軍団は数郡

一 つ の

割合で置かれ

通常︑千人の

般公民 から徴発された軍団兵

をも

て構成される︒したが

て軍団の設

置には

定程度

公民制

充実が

要であ

たのであり

桃生・栗

原両郡以北に軍団が設置されなか

たのは

軍団兵

制を支える

十分な公民制がこ

地域に形成されえなか

たからほかならない

︵鈴木拓也

古代陸奥国

軍制

﹂ ﹁

歴史

七七

九九

年︑今泉隆

古代東北と南と北

日本考古学協会宮城

仙台大会シンポジ

ム資料集

北から

視点

﹂ 一

九九

︶ ︒

これは先た八世紀後半

以降にける律令国家

移民政策

行きづまりと対応するも

であ

10

(12)

る︒

桃生

栗原両郡以北で

公民制

未熟は

地域から非蝦夷系

豪族がほとんど成長してこないという事実

ても裏づけられ

別稿で論じたよう

古代東北

豪族は

直接・間接さまざま

な形で征夷にかかわ

た︒律令国家は豪族

在地で

支配力・経済

力を積極的征夷に利用しようとしたし︑彼らも国家

政策に加担

すること

族の地位の向上をはか

その結果

東北地

方には︑他地域にくらぺてはるかに多くの 征夷型〟豪族とも呼ぶ

べき新興階層が台頭してくるのである

拙稿

東北

豪族

﹂ ﹁

新版古

日本

九東北 ・北海道

九九二年︶︒ところがこの 征夷型〟

豪族の分布をてみると︑道

喝氏をはじめとして︑そのほとんどは

黒川以北十郡よりも南

地域限られ

桃生

栗原以北

地域では

皆無とい

てよい︒これまたこ

地域

公民制の未熟を示すも

思われる

また︑桃生

栗原両郡以北ける公民制

未熟は︑この地域の

郡の規模

さらは公民支配にける城棚の比重も影響を及ぼし

たと考えられる︒

和名類聚抄

によれば︑神亀元年前後

せい 成立したとみられる黒川以北十郡は

平均三郷程度からなるきわ

めて小規模な郡

集合体であ

たが

桃生

栗原

響井

江刺

諸郡はすべて四郷以上

て構成れて

とく響井

胆沢

両郡は七郷からな

ている

2

参照

︶ ︒

すなわち桃生

栗原

以北

奥郡は︑黒川以北十郡くらぺて郡の規模が相対的大きく

ているのである

黒川以北十郡が小規模な

地域

住 民

主要部分が他地域から

移民で構成されていて

譜第郡領家が

未成熟なうえ

環夷と境を接した

地域であるため︑通常

規模

郡域では安定的な公民支配が実現しがたいためにとられた方

策であ

ここでは

統領之人

たる郡司よる非蝦実系住民の

支配が基本で

それを前提としてこ

地域に複数かれた城一研

夷系住民をも含めた地域全体

支配あたるという体制であ

たと

考えられる

拙稿︑前掲

近実郡と城棚支配

﹂ ︶ ︒

すなわち黒川以北

十郡

公民支配にいては

小規模設定された郡

支配力が基本

であり︑城;

a -

はそれを補完するという関係にあ

たと思われる

れは移民を主体とした郡いて公民支配を安定的こなうのに

とも適した形態とみることができよう︒これ対して桃生・栗

原以北の奥郡の規模がや大きく︑とくに桃生

栗原

両郡では

郡1 l

城概

体制をと

たのは︑この地域

安定的な支配と移民の

定着が困難で

郡を主体とした公民支配の樹立が難しか

たところ

から︑小規模郡を基礎とした支配体制の形成が困難で

-

a -

主体の

在地支配

て移民

定着をはか

た結果ではなかと推測さ

6れる

以上

栗原

桃生以北

奥郡では公民制が十分形成されなか

たということを︑いく

かの点からてきた︒このことは前節でみ た棚戸

変質︑移民政策

行きづまりと表裏の関係ある

そして

これらが恒武朝末年ける征夷中止の決定と︑そ

後の蝦夷政策

根本的な転換

歴史的前提をなすものと考えられるのである︒

-l

a

(13)

- l

a

3︑三十八年戦争と出羽国山北

三十八年戦争

主戦場は北上川中流域を中心とした陸奥国の奥郡

帯であ

たが

先にみたよう戦線はまもなく出羽国にまで広がり

とく雄勝城を中心とした山北地方では混乱が続いて

陸奥国

奥郡と同じような状況が現出する︒すなわち

続日本紀

延暦二年︵七八三︶六月丙午朔条に

出羽国言

宝亀十

年︑雄勝

平鹿

二郡百姓

賊所

各失= 本業 :

彫弊殊甚

更建= 郡府 :

=集散

一 一 一

= 口田 :

= 休息

︒因

= 進調

一 ︒

望請

= 給優復 :

= 弊民

︒勅給= 復三年

一 ﹂

とあるよ

うに︑この地域

の ﹁

百姓

すなわち移民系の住民が︑

すなわち

蟻夷

略奪を受けて他地域に逃走したため

支配秩序が崩壊してしまい

回復

ため

郡府

の再建

散民

招集や給復

などの施策を実施している

である︒くわしくは別稿に譲らざるを

えないが

山北地方は九世紀後半にいても不安定な状態が続いて

おり

その点で北上川中流域と類似した性格を有する地域であ

︒ の

ちに東北地方北部

有力な支配者となる安倍

清原両氏がいずれ

もこの両地域を拠点としていたという事実を想起すると

その前段

ける両地域

性格類似した側面があるということは単なる

偶然とは考えがたく

両氏の台頭

原因をさぐるうえで看過できな

い意味をも

ていると思われる

:

E

武朝末年における征実の中

!

a

実支配方式

転換

1

德政相論後の政策転換 延暦二十年︵八〇

一 ︶

︑坂上田村麻呂を征夷大将軍とする征討軍が

ようく胆沢の環夷の制圧に成功する

︒ っ

いで胆沢 ・志波

両城が

築かれて北上川中流域

支配体制がととのうかみえたが︑その直

延暦二十四年︵八〇五

十二月藤原緒嗣と管野真道の間で徳

政の相論がこなわれる

である︒このとき桓武が軍事

:

=

征実︶

と造作

l

1

造都

︶の

を決意した理由は︑結嗣が

方今天下所 苦︑

軍事与= 造作

と端的

るように︑こ

二大国家事業

よる諸国

民衆の疲弊のためであ

た︒田村麻呂が副将軍任命 れた延暦十三年

七九四

征討も︑また

づく延暦二十年次の征討も

事前に三年余にわた

て入念な準備がこなわれたよう で

膨大な物資と兵員

十三年次

1 一 〇

二十年次

1

四万

投入された

これが諸国

て大きな負担とな

たことはいうま

でもあるまい︒胆沢地域

蝦夷の制圧

実に多大な犠性が払わ

れた

である︒

徳政相論は中央政府

蝦夷政策の重大な転機とな

た︒軍事と造

を主張した緒爾自身

大同三年

八〇八

東山道観察使

兼陸奥出羽按察使任ぜられ︑

年半

任期中さまざまな民生安

定策を講じて大きな足跡を残したが

徳政相論

意義はそれとど

まらない

近年

阿部義平氏によ

て光があてられたよう

中央

政府

蝦夷政策全般にわたりきわめて重大な転換をもたらすのであ

阿部義平・永

i 9

正春

徳丹城とその施和瓦に

いて

﹂ ﹁

国立歴史

民族博物館研究報告

九八五年

徳政相論

直前

延暦二十二年︵八〇三

築かれた志波城は

12

参照

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