出雲国計会帳
●解 部
の
復 原
平
川南
一 従来の解部復原 二 解 部 復原に関する私案 三 ︹校訂︺出雲国計会帳
出雲国計会帳は律令国家の文書に基づく地方行政の実態を具体的
に
知ることのできる重要な史料である︒この計会帳は﹃大日本古文
書﹄巻之一に﹁出雲国計会帳﹂︵五八六〜六〇四頁︶として収められている︒ま
た︑﹁隠伎国計会帳﹂︵六〇四〜六〇六頁︶として収められているものも︑坂本太
郎氏が指摘するように︑国印の読み違いで︑内容的に出雲国計会帳 ︵註1︶
に 連 続すべきものである︒
竹内理三氏編﹃寧楽遺文﹄では︑両者を合わせて一通のものと
し︑また﹃延喜式﹄等を参酌して︑断簡の配列を改めている︒
出雲国計会帳については︑坂本太郎・村尾次郎・滝川政次郎の各
氏などによって︑専ら︑節度使・四度使などの内容に関する面から ︵註2︶
の 研 究 が 進 められてきた︒
一方︑計会帳の全体的構成の面からは︑早川庄八氏の﹁天平六年 ︵註3︶出雲国計会帳の研究﹂が特筆される︒早川氏の論考は本計会帳を古
文書学的な基礎研究に基づき︑計会帳そのものの構成をはじめて明
らかにしたもので︑現段階では︑ほとんど異論の余地をさしはさむ
ことができないほどの精緻な研究である︒なかでも︑従来︑﹃大日
本 古 文書﹄・﹃寧楽遺文﹄で︑移部・符部・解部の順に復原されてい たものを︑基礎的作業を経て︑符部・解部・移部の順に改めた点は 画期的な指摘である︒
今回︑当館では︑展示テーマ﹁律令国家の文書行政﹂に合わせて
出雲国計会帳の現存部分から︑可能な限り︑その復原複製を試み
て︑その成果を展示した︒小稿はその過程での成果を基に︑早川氏
の
論考のうち︑解部を中心とした復原案について再考を加えた私案
出雲国計会帳・解部の復原
を紹介するものである︒
もとより︑当館は︑歴史資料などを系統的に収集・整備し︑これ
らの資料に基づき︑研究を推進することを目指している︒また︑そ
の 資 料 は
実物を可能な限り収集するとともに︑必要な資料の模写模
造や︑復原模造などの資料製作を積極的に実施することとしてい
る︒そして︑それらの資料は︑一定の調査研究に基づき︑展示さ
れ︑一般に広く知らされ︑なおかつ︑国立大学共同利用機関とし
て︑広く研究者に活用されるこどを目標としている︒
系統的に収集する資料として︑古代研究部門では︑宮内庁の許可
を得て︑正倉院文書全巻を複製収集することにした︒これは︑正倉
院に所蔵される正倉院文書六六七巻と五冊に︑東南院文書六櫃一〇
二
巻などの東大寺献納文書も含めた約八〇〇巻近くを︑二〇〜三〇
年かけて︑複製しようという遠大な計画である︒複製は写真複製
で︑宮内庁正倉院事務所の全面的な協力を得て︑続けられている︒
こうして出来上った複製品はそのまま︑展示されるが︑さらに︑
紙背利用のために切断された文書を復原することは︑古代史の研究
上
からも︑その展示が一般の観覧者の理解を容易に深める点から
も︑大きな意義を有するものである︒
一 従来の解部復原
﹃大日本古文書﹄の配列は移部・符部・解部の順となっており︑
『寧楽遺文﹄も同様である︒前述のように︑早川氏はこの配列順を︑
符部・解部・移部と訂正され︑また︑符部および解部記載の諸項は
そ れ ぞ れ 発
令官庁および宛てられた官庁によって分類され︑その順
は︑官員令に定める官庁の序列に従ったものであるとされる︒
残
存する符部・移部はごく一部であるが︑接続関係については原
状を保っているので問題はない︒ところが︑解部の十二断簡は︑正
倉院文書の正集第三十巻︑続々修第三十五峡第五巻︑続々修第三十
五 峡 第 六 巻 に 収 められ︑その接続は原状を失っている︒
周知のとおり︑正集第三十巻は天保年間︑穂井田忠友が編集した
ものであり︑続々修第三十五秩第五巻および第六巻は原状のまま伝
えられたものであって︑写経所での反故紙の利用の仕方を知ること
の できる史料である︒
叙 述 の 便 宜上︑あらかじめ︑﹃大目本古文書﹄︑﹃寧楽遺文﹄︑早川 氏案の配列順の異同を対照して︑次表に示してみることにする︒
⇔
表1従来の解部断簡復原の対照
大 日 本 古 文 書
原本の巻 一紙の横 寧楽 早川 次 ︵単位㎝︶ 遺文 氏案
1 A
〔初行︺天平六年
〔末行︺九日移民部省下符萱道ぱ編戸状
正 集30
第1紙39.2 第2紙57.4 第3紙56.4
A B
2 B
一 一、
五日符萱道 以五月十五日到国 正 集30
官 器 伎帳一巻.伯姓器佼帳一巻 津守帳一巻 公私船
第4紙55.5 第5紙5τ0 第6紙56.8
B
3 C4 D
一、
一、
九月
G
, ・ , . .
射田
利 一 稲 麻 数 呂 口 等 口 或 申 人
送 死事 去
替 事
正 集30
第7紙 39.5 第8紙
50.4
G
1
一日進上雇民若帯部村男等武人逃亡 替 事
続々修
35−5
第30紙 15.0
K
J5 E
、
、
廿 七日進上雇民刑部身麻呂等騨人逃 亡 替 事
… 同日進上鹿皮騨拾張事 続々修
35
−5
第16紙 10.0
1
K
6 F
三月
右︑附大原郡人日置部首銀進上
35続 1々
5修
第25紙
9,5
第24紙
12.5
H H
7 G
一、
同日進上蘇合参升伍合盛壼伍口事
…
続々修
右 参條︑附朝集使従七位上勲十二等石川 35−5 朝臣足麻呂進上
第35紙
2.0
L L
8
H
解︑ 右口條︑附騨使進上
中務省解文或条
35続 1々
6修
第1紙
6.0
J
D
9 1
六月 右︑附騨家進上
35続 1々
6修
計三
︐進上相撲人寵臣真嶋藁人続・修
口附騨家進口35
−6
35続 1々
6修
12
L
天 平 五 年
「、
十 九日申送闘郡司歴名事
1々
35続 6修
第3紙
14.0
C A
西憩蹄壊Q米絃ー
出雲国計会帳・解部の復原
解部復原に関する私案 二
一ここでは︑接続関係に問題のある解部について︑内容を参酌しな がら︑主として︑断簡の現状から早川氏案の再検討を行なってみた
い︒先の対照表で明らかなように︑断簡の配列順については︑ごく
一部をのぞいてほぼ早川氏案が妥当なものと考えられるが︑その断
簡の接続状況の細部に関しては︑複製文書による検討の結果︑明ら
か にし得る点も少なくない︒そこで︑以下早川氏の配列の順序に従
っ て断簡毎に私見を述べてゆくこととしたい︒
なお︑本計会帳の解部のうち︑小稿で接続を問題としている部分 はすべて続々修第三十五峡第五巻および第六巻に含まれる︒このう
ち︑正集第三十巻に収める弁官解文の続きは︑すぺて︑続々修第三
十五峡第六巻に含まれる断簡である︒一方︑民部省解文と推定でき
図1 B断簡(紙背)
④継紙
◎B断簡 1
る断簡は︑
︵註4︶している︒ 続々修第三十五映第五巻に含まれ︑全部で十一条が残存
〔B断簡︺
正 集第三十巻第四〜第六紙までの三紙からなり︑現存計会帳の最
初の部分にあたり︑まず符部についで解部と続くのである︒解部は
第 六 紙 にあたり︑一紙の長さは五六・八㎝である︒本紙の紙背の右
端に次のような僅かな墨痕が確認できる︒︵図1︶
これが継目裏書の残画であることは︑例えば︑次に示す正集第三
十 巻 の 第 四 紙 の 紙背の継目裏書と対照することによって容易に知ら れよう︒︵写真1︶
第六紙の左端が切断されることなく︑継ぎ目部分で剥がされたも の である︒
解部は弁官解文四十一条から始まる︒まず︑運調使・大帳使など
0 5㎝
二 解部復原に関する私案 の 進 上する十二条が連記されている︒問題は︵天平五年︿七三三﹀︶
十月の二条の部分である︒
十月 一︑廿一日進上公文萱拾玖巻武紙︵内訳略︶
一︑同・進上公文曇陸藁紙時竺鷲麓簿兵士簿
四巻 鮎替簿四巻 儲士歴名簿一巻 蜂守帳一巻 道守帳
一巻 騨馬帳一巻 騨家鋪設帳一巻 傳馬帳一巻 種
宇」6
担
→
一
憶
← 援
伯
苦→
恨イ・
侯
癖
璋帳 恨 子兵 ぷ 公帳
露
馬帳一巻 繋飼馬帳一巻 伯姓牛馬帳一巻 兵馬帳一巻 官 器 杖帳一巻 伯姓器伎帳一巻 津守帳一巻 公私船
写真1 継目裏書
﹁官器杖帳一巻⁝⁝﹂の次行は余白が十分にあるのにもかかわら
ず︑﹁公私船﹂以下に文字を確認することができない︒進上公文二
十 六 巻 四 紙とするうち二十四巻のみの記述であるので︑以下公私船
「帳一巻﹂︵﹃政事要略﹄捲品所載朝集公文に﹁公私船帳﹂をあげてい
出雲国計会帳・解部の復原
る︶をはじめ︑残りの一巻四紙の記載があってしかるべきである︒
紙背に継目裏書を有し︑表には左端まで国印が認められるだけに︑
本来︑B断簡の左端は継ぎ目の上にくることは確かである︒それに
もかかわらず︑﹁公私船﹂以下の記載がないのは疑問として残る︒
ところで︑天平五年十月二十一日進上公文に関する二条につい
て︑かつて坂本太郎氏は後出の兵部省解文︵天平五年︶十二月十六
日に﹁右戴條︑附朝集使橡従七位上勲十二等石川朝臣足麻呂進上﹂
と見えることから︑十月二十一日の考文などを持参した使者は朝集 ︵註5︶使ではありえないとした︒しかし︑早川氏は在京している使者に附
せられる﹁遙附﹂という方法の存在を指摘し︑考文の進上は︑朝集
使 の 本 務
であるゆえに︑十月二十一日の二条は朝集使が進上したも
ので︑十二月十六日進上の兵部省解文二条は在京中の朝集使に﹁遙
附﹂されたものであるにすぎないとした︒この指摘は卓見であり︑
筆
者も賛意を表したい︒﹃考課令集解内外官条﹄朱説所引の古令に
外「国十一月一日︑考文附朝集使送太政官﹂とみえ︑﹃延喜主計式﹄
の出雲国の行程は上り十五日︑下り八日であるから︑十月二十一日
の 考 文 進 上
は妥当な時期といえる︒すでに滝川政次郎氏の指摘もあ
るが︑﹃万葉集﹄中の朝集使に関する例もほぼ同様のあり方を示し
︵註6︶
て いる︒一例をあげるならば︑巻十九︵四二二五番︶左注に﹁右一
首︑同月十六日︑饅二之朝集使少目秦伊美吉石竹一時︒守大伴宿禰家
持作レ之﹂とあり︑この﹁同月十六日﹂は天平勝宝二年︵七五〇︶十
月十六日のこととされている︒越中国は﹃延喜主計式﹄では都まで
の
行程は上り十七日︑下り九日であるので︑出雲国の場合と近似し
て
いる︒したがって︑前述のように考文を携えた朝集使が十月二十
一日に出雲国を発したとみてほぼ問題はないであろう︒
〔G断簡︺
Gはわずかに約三㎝の断簡︵@紙︶で︑紙背利用のため両端を切断
され︑◎・@・④の順で上に貼り継がれている︒そのうち︑白紙の④
紙 の
左端ぎりぎりに2㎜程度の紙の重なりが認められる︒これは本
来の継ぎ目部分で切断し︑そのままの状態で㊥紙に継いだためであ
ると判断できる︒後述のD断簡の左端にも同様の痕跡が認められる︒
﹃寧楽遺文﹄の編者竹内理三氏はこの断簡を弁官解文と推定され
たが︑早川氏はこの宛先が弁官・民部省のいずれとも決し難いので
疑いを残しながら︑竹内氏に従い︑弁官解文とした︒また︑早川氏
は
時期を︑貢蘇期限︵後出︶から︑天平五年冬として︑B断簡の次
に置いている︒
この点が妥当かどうか検討してみよう︒
B断簡の二条とG断簡の一条を合わせると︑三条となり︑接続し
そうであるが︑文書の形状からというと︑G断簡の一行目は文字の
二 解部復原に関する私案
図3 G断簡 ④白紙
一
@G断簡 右
端がわずかに切断されており︑B断簡とは直接接続しない︒ま
た︑両者の国印から推しても︑B断簡の後に接続するものとは考え
られない︒したがって︑国印・前後関係いずれをとっても︑G断簡
をあえて弁官解文に置く積極的な根拠はない︒
そこで︑次に内容の検討から妥当な接続個所をさがしてみたい︒
﹃延喜民部式﹄貢蘇番条によれば︑
(前略︶
出雲国十=盟尼叩各竺鱈石見国八壼に口︒酪埜旭 右十箇国為二第四番一辰戌年
(中略︶
几 諸国貢レ蘇︒各依二番次↓当年十一月以前進了︒但出雲国十二月 為レ限︒ ︵後略︶
透過光写真による(◎紙の文字)
︵註ヱと規定されている︒
本計会帳の場合︑数例に見うけられるように︑貢進物は定められ
た期日間際に進上する傾向がうかがえるので︑おそらく︑貢蘇の一 条 は 十 二月に上申されたものと考えられる︒
ヘ ヘ へ
十 ヘ ヘ へ 二月貢上とすれば︑﹁右参條︑附朝集使従七位上勲十二等石川
朝臣足麻呂進上﹂とあるから︑先の兵部省解文の天平五年十二月十
六日の二条の場合と同様に京にいた朝集使に﹁遙附﹂したとみなす
こともできるのである︒
天
平当時も出雲国の貢蘇期限を十二月までとすれば︑後出の民部
省
解文であるE断簡の十一月十四日進上の二条の次に置くことも考
えられる︒二条のうちの鹿皮の貢進は後述するように貢蘇同様︑民
部省式にその規定があり︑交易雑物であることが明らかである︒こ
出雲国計会帳・解部の復原
の点からも︑貢蘇に関するG断簡をまず民部省解文に置くことは無
理 のないところであろう︒
さらに︑次のような点も指摘することができる︒すなわち︑前述
したように︑弁官解文の断簡はすべて続々修第三十五峡第六巻に含
まれ︑民部省解文と推定できる断簡は続々修第三十五秩第五巻に属
している︒写経所で紙背利用のため順次︑反故紙を貼り継いでいく
時に︑本来の文書を必要に応じて切断するとすれば︑おおよそ︑上
述
のような傾向が生まれるのはきわめて自然なあり方と考えられ
る︒勿論︑今後︑こうした視角で続々修などの全体的な検討が必要
なことは言うまでもない︒
G断簡は続々修第三十五秩第五巻に属するのであるから︑先に記
した事情とあわせて民部省解文とみる方に分があると思うのであ
る︒
〔1断簡︺
文書の形状からいえば︑右側から㊥・◎・◎・@紙の順に上に貼
り継がれている︒
﹃大日本古文書﹄では1断簡︵◎紙︶の一行目を透視して︑﹁右附
騨家進上﹂と判読している︒しかし︑◎紙を詳細に観察すると︑一行
目の部分は文字の右端が切断されているものの︑幅○・八〜一・○
㎝の
別 紙
(⑯紙︶に書かれ︑◎紙の下に貼られたものであることが
わ かる︒したがって︑﹃大日本古文書﹄に︑
「
右附騨家進上
一 十二日申送検看諸社返抄事
右附騨使内舎人従七位上平群朝臣人足進上
六
月 ﹂
とあるうち︑﹁右附騨家進上﹂は削除すべきである︵実は︑後述するよ
うにJ断簡の末行の残画に接合するのであるlJ断簡の項参照ー︶︒
なお︑﹁右附騨使内舎人⁝⁝﹂の次行﹁六月﹂は︑@紙が◎紙の 上 に
貼り継がれているので︑おそらく︑継ぎ目部分︵この部分の透
過 光 写真なし︶に﹁六月﹂の一行が存在しているのであろう︒
こ の 十「
二日申送検看諸社返抄事﹂は﹃続日本紀﹄天平六年四月
癸 卯
(十
二日︶条﹁遣下二使畿内七道諸国↓捻劇看被二地震一神社上﹂に
応じたものである︒地震は四月七日に発生している︒本計会帳か
ら︑早川氏の指摘するように︑緊急を要する場合の京から出雲まで
の 逓 送 所
要日数は五日ないし七日︑そうでない一般の官省符の場合
は 十 六・七日前後であることが知られる︒また︑伯書国天平六年四
月十六日の移文に﹁太政官下符萱道地震状﹂とみえる符も︑七日の地
震 発
生時に発せられた緊急の官符とすると︑伯書国移十六日では日
数を要しすぎるので︑十二日の地震に伴う神社の被害調査を命じた
二 解部復原に関する私案 図4 1断簡
◎豊前国戸籍
◎1断簡
④白紙
ie白紙 一
1−一
㊥r断簡一 言
1 1旨
1 1
一 ヤ
11
工
1糸 申
i
聾 桁 擦 乏
︐1
♪ 1
一 1
叉 垂 荘
1乏 1
∈)4 圭 1;1
⑯
朝
|1
1
べ 量 1⁝
上 1
1 1
1
! 1
1︸
1
1
透過光写真による
(◎紙の文字) 写真2 透過光写真
出雲国計会帳・解部の復原
官符にあたると考えられる︒とすれば︑出雲国がこれを受げたのは
翌日の十七日頃と思われる︒また︑隠岐国天平六年五月三日の移文
函「試合一盛醐獺餓状﹂︵傍点は筆者︶も出雲国と同様の返抄と思われる︒
隠岐国へ先の太政官符がもたらされたのは︑出雲ー隠岐間の通常の
文書の送付に約十三日を要したとすれば︑緊急時だけにおそらく四
月中のことと予想される︒
以 上 から︑﹁十二月申送検看諸社返抄事﹂は五月と判断できる︒
隠岐国に比べて︑二十日以上要したのは︑式内社数からしても︑出
雲国一百八十七座・隠岐国十六座と管内の神社数の著しい違いによ
るのであろう︒ ヘ へ
なお︑B断簡︵末行は十月廿一日︶と1断簡︵初行は五月十二日︶
の間は約半年分の弁官解文を欠くことになるが︑この間に具体的に 図5 」断簡(初行)
④J断簡 ◎豊前国戸籍
一
1
何条入るかはわからないが︑ただ︑﹃延喜民部式﹂正税帳条に﹁凡進二 正 税帳一者︒皆限三一月什日以前一拉申コ送官一﹂とあることから︑正税
ヘ ヘ ヘ ツ帳使とその枝文の項が入ることは確かであろう︒実例でも︑天平六年
の 尾「 張 国 正 税帳﹂の提出は天平六年十二月廿四日付となっている︒
〔J断簡︺
J断簡は︑1断簡とは国印などから考えても︑直接接続しない︒
そこで︑一行目の﹁廿三日進上相撲人峻部臣真嶋等式人事﹂が何月
に属するかが問題となる︒三行目に﹁七月﹂と記載されているの
で︑1断簡の五月の続きか︑またはーとJとの間が欠落しているの
で︑六月の可能性も考えられる︒
﹃続日本紀﹄天平六年七月丙寅︵七日︶条に︑
一
三
上
人 塑哨 ︑頂
二 解部復原に関する私案
図6 J断簡(末行)
④」断簡 ◎K断簡 1
一
ザ百
這 上民
漆
天 皇観二相撲戯↓是タ徒コ御南苑↓命二文人一賦一一七夕之詩↓賜レ緑 有レ差︒
とみえ︑天平六年当時︑七月七日に相撲節会が実施されていること
が わ かる︒これは︑﹃日本後紀﹄天長三年︵八二六︶六月己亥︵三
ヤ ヘ ヘ へ日︶条﹁改二七月七日相撲↓定二十六旦避二国忌一也﹂とあることか
らも︑裏付けられよう︒また︑﹃類聚三代格﹄天長八年︵八三一︶
へ 七月廿七日官符中に引用された弘仁四年︵八=二︶七月十六日の格
では︑﹁進二相撲人一既有二期限↓而毎レ年遅参殆不レ堪レ期︒宜下限二五 月下旬↓必令ラ到レ京︒若致二閾怠↓随レ状科処者﹂と︑五月下旬には ヘ ヘ へ
京に到着することを命じている︒この史料は九世紀のものである
が︑天平当時も︑七月七日の相撲の節会に遅参しないために出雲国
を五月﹁廿三日﹂に出発したとも推測される︒この場合は︑天平六 年の弁官解文は︑六月のものはなかったことになる︒ただし︑﹁周防国正税帳﹂には天平九年︵七三七︶六月﹁廿日向京傳使課燗蝿模
冷珊汰 どおよび﹁廿一日向京傳使凋湖掴湘摸込涜 ∴ ﹂とみえ︑こ
ぶ へ
れ は出雲国も六月二十三日に出発したならば︑ほぼ同じ頃︑京に到着
することになるだけに︑六月であった可能性も十分に考えられる︒
J断簡の左端のわずかな残画を手がかりに﹃大日本古文書﹄は︑
「口附騨家進口﹂と判読している︒
実はこの残画は先にみた1断簡の◎紙と㊥紙の間に挾まった形の
一紙
(㊥紙︶中の﹁右附騨家進上﹂の右端部分である︒したがって︑
大『日本古文書﹄の1断簡の第一行の﹁右附騨家進上﹂はJ断簡の
末行にあったものが︑重複して記載された形になっているので︑削
除しなければならない︒
図7の② K断簡(末行)
◎L断簡 l
、
︑ ︑D
出雲国計会帳・解部の復原 図7の(1)K断簡(初行)
⑦J断簡
一
◎K断簡 ;
1| 1 1
|
1 1
1
⑪
1 1
1 1 1 1
‖
8 1 1
4● 1
1 1 1 1
⑪|
1 1
ま1
因
1
活
ヨ 権 吋
一
ピ
﹂
マ ξ
1多 ↓
1|
1 1⑪
1 1
透過光写真による
(◎紙の文字)
〔
K
断簡︺
二 解部復原に関する私案
〔
H
断簡︺
図8 H断簡
(筑紫監前奉写云々)断簡
◎継ぎ紙 L断簡
r−一一■■ロー■■■■一一r r−
■ ●
. l l l 8
c)H断簡
i
1 ;
蟹
i | ︸
角 i
1
s
1
| :
4 ︷
∫
| | | ︷
1|
1 1 1 1 1 1 1
︷ :
|︸
1
1 1
1
|
1
1
K
断簡の末行﹁右貫條附騨家進上﹂の文字の左端はわずかに切断
されているが︑H断簡の右端にわずかにみえる残画と照合すると︑
両 者
は完全に接合することが知られる︒したがってK断簡とH断簡
は欠落なく接続することが明らかである︒﹃大日本古文書﹄のH断
簡の一行目﹁右口條︑附騨使進上﹂はK断簡の末行と重複すること
となり︑削除されねばならない︒
K
断簡とH断簡が接続することが判明した結果︑中務省解文の前
に 位置する﹁一 廿六日進上返抄戴道﹂は弁官解文の末行であるこ
とも判明した︒J断簡に﹁七月﹂と明記されており︑計会年度は前年
八月一日より当年七月末日に至る期間であるから︑K断簡の﹁同日﹂
ヘ ヘ ヘ へ および﹁廿六日﹂は七月と断定できる︒なお︑コ 廿六日進上返抄 式道一撤囎鮒獺獣状﹂は︑﹃続日本紀﹄天平六年七月辛未︵十二日︶条の 詔 に対応するものである︒
同日条の夏調使に附した三条のうち︑﹁進上公文漆巻漆紙﹂の一
条しかみえないので︑J断簡とK断簡の間には少なくとも︑二条あ
るいはそれ以上の欠失があると思われる︒
〔L断簡︺
早川氏が指摘されたように︑解部記載の諸項も官員令に定められ
る官庁の序列に従っていたのであるから︑中務省の次には式部省解
図10 L断簡(末行)
H断簡 ④(筑紫監前奉写云々)断簡
◎継ぎ紙 ◎L断簡 ←一一一一一■−r−−r 一一一一→レ
● 1 ● ・ ・●
● ・
1 1 1 1 1 1 1
1
〃\目
1
P
2
ド
ぬ1句
1 1 1 1 1
1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1
1 1
|
1 1|
1 1 1
透過光写真による(◎紙の文字)
出雲国計会帳・解部の復原 図9 L断簡(初行)
④K断簡
一
◎L断簡 1
ー1811111−llllI−llllllーー1−llーーll−1ーーll−lll−1ーーーlI−lll|lll|ーーll11111−I11
二 解部復原に関する私案
文が続くことになる︒したがって︑中務省解文二条とあるH断簡が
L断簡と連続することは明らかである︒加えて︑L断簡の右端の
天「 平
五年﹂部分でK断簡が上に重なっており︵この部分の透過光
写真なし︶︑その継ぎ目部分から︑H断簡の﹁解︑中務省解文戴條﹂
の次ぎの余白とで︑界幅が他と一致することや国印からH断簡とL
断簡は欠落なく接続すると断定できる︒
次の式部省解文は六条のうち︑一条しか残存していない︒加え
て︑現状では︑この一条は完全に継ぎ目部分で︑透視しないと判読
できない︒なお︑﹃延喜式部式﹄には︑﹁凡郡有レ闘︒国司鐙コ擬歴名↓
附二朝集使↓申上﹂とあるが︑ここでは︑朝集使は前述のように十月
に
上京しており︑八月では朝集使に附しようがない︒おそらく︑天
平 五 年
八月十九日という日付から推して︑先に触れた弁官解文の同 日付の﹁大帳使史生大初位上依網連意美麻呂﹂
のと考えられる︒
に 附して進上したも
〔D断簡︺
末行に﹁九月﹂が見えるので︑その前の四条は計会年度当初の天
平 五 年 ヘ ヘ 八月のもので︑民部省解文であることは︑すでに早川氏が述 ぶ へ ベられているとおりである︒しかも︑ここに﹁一 一日進上雇民若 帯部村男等式人逃亡替事﹂︵傍点は筆者︶とあって︑﹁同日﹂とない
ことは︑これが八月分の初行であることを示している︒したがっ
て︑これに先立つ欠失部分は︑
「解︑民部省解文○○○條 天 平 五年
11
1
」
||
、
1
1
1|1
人
〉語
ヨ巴 肩
o
口一 1、 d|
寄顧 2カ
蓮
上
11!
1 1 1 1 1 8 1 1
1 1 1}
透過光写真による
(◎紙の文字)
もとの継ぎ目 部分残存
出雲国計会帳・解部の復原 図12 D断簡とE断簡の接続
④D断簡
一
◎近江国計帳 l l
1
八
月 L
の 三 行 分 だけと考えてよい︒
なお︑付言すれば︑一行目も︑図示したように︑継ぎ目部分にあ たり︑しかも文字の右側が切断されている状態である︒また︑④紙
は本来の継ぎ目部分を残したまま切断されたと思われ︑二㎜程の紙
の 重なりが認められる︒
二日および十九日の二条を貢夏調使史生子ξ法次に附して進上し
て
いるが︑子≧法次はすでに八月二日に調帳などを携えて︑運調使
として上京しているので︑十九日分は︑﹁遙附﹂に相当するのかも
しれない︒
〔E断簡︺
D断簡の左端にみえる﹁九月﹂とE断簡の右端に見える残画とを
合 わ
せると︑完全に接合し︑D断簡とE断簡は欠落なく接続するこ
二 解部復原に関する私案
図13 E断簡(末行)
i i ;
:」 伺
1庭
1上
恵
1
11
i俗 : 汚浄
1
1
1 :
1 : :
1
:
1
1 1 ;
1
とが明らかである︒
したがって︑早川氏がE断簡の一行目を十月と考えたのは誤まり
となる︒ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
なお︑十一月の二条のうち︑﹁進上鹿皮蹄拾張事﹂︵傍点は筆者︶は︑
延『 喜 民 部式﹄で︑交易雑物として︑出雲国が鹿革廿張を課せられて いることと関連するものである︒参考までに︑尾張国の場合︑﹃延喜
㈱
図
民部式﹄に交易雑物として鹿革廿張︑鹿皮十張とされているが︑﹁尾 張国正税帳﹂では︑﹁進上交易鹿皮陣拾張酬搬椎鮮直稲璋伯東﹂とみ
え︑出雲国と同様の鹿皮四十張を貢進しているのが注目される︒
〔F断簡︺
F断簡は天平六年三月からの民部省解文であるが︑
E断簡との間
〜 ー ー ー ー 1 ー1 − − 1ー 1 ー | ー ︶ | 1l l I | 11−l−1−l−1−1|1|−1﹇|ll−ーーーーllー|flーー−1ー
ー l l ﹁
透過光写真による (◎紙の文字)
出雲国計会帳・解部の復原 図15 F断簡(末行)
④F断簡 ぐ璽口聾戸籍 …
宣∫・
ゑ 邦
憂一窪
一
』一
もとの継ぎ目部分残存には︑前述のように︑G断簡が入ると考えられるが︑それ以外の欠
失部分は全く不明である︒
﹁三月﹂の行はちょうど︑継ぎ目部分にあたり︑文字の右端部分 ︵註8︶
は わずかながら切断されている︒
図16 C断簡(初行)
以下︑民部省解文が七月までの間に何条存在したかは不明である︒
〔C断簡︺
全体に汚損・破損が著しいため︑全面的に裏打ちされている︒節
︑
?
孔
昔 事・
図17 C断簡(末行)
C断簡 三 〔校訂〕出雲国計会帳
ヘ ヘ へ
度使解文の前は符部の場合と同じく︑兵部省解文である︒したがっ
て︑早川氏の指摘されているとおり︑この年は刑部・大蔵・宮内三
省 宛 の 解文はなかったものと思われる︒
三 ︹校訂︺出雲国計会帳
前節までの解部の接続関係の検討結果をここに整理しておきた
い︒また︑出雲国計会帳は︑﹃大日本古文書﹄に収録され︑その後︑
寧『楽遺文﹄によって︑はじめて細かな校訂が加えられ︑早川氏の
復原案によって配列順の大きな変更を余儀なくされたものの︑﹃寧
楽 遺文﹄以降︑全面的な校訂が行なわれないままに現在に至ってい
る︒
そこで︑本節では︑まず︑前節までの解部の接続関係の検討結果
をここに整理し︑加えて︑出雲国計会帳全体について︑今回のモノ
クローム写真をもとに︑若干の校訂を行なっておきたい︒
〔凡例︺
一、
実線は本来の紙継ぎ目を示す︒なお︑紙背に継目裏書
が存する場合はその旨を記した︒
⁝⁝⁝・・破線は反故紙利用の際などに切断された状態を示す︒
一、
断簡のうち︑今回の復原で接合しない場合は ⁚⁚⁚⁚⁚⁚いで示した︒
一、
異体字は原則として正字に改めた︒
一、
字配りは出来るだけ原文に近い形で記載した︒
一、
モト﹁ ﹂に作る 正倉院文書の原文との異同を示す︒
﹃大日古﹂・﹃遺文﹄は ﹁大日古文書﹂・﹃寧楽遺文﹂との異
﹁ ﹂とする 同を示す︒
出雲国計会帳・解部の復原
校
訂・出雲国計会帳
一 五日符萱道﹇U以五月十五日到國
右 衛 一 升七日符萱道士出雲積三國等
以 三月十七日到國
合三人逃亡状 三月 一 升三日符萱道衛門府衛士勝部臣弟麻呂 以 四月十日到國
逃 亡状 六月
一
升 五日符萱道右衛士私部大嶋死亡状以七月十三日到國
節度使符参拾式條
天平五年 八月
却 還 雑 工 生 伊福部小嶋等 一
七日符壼道
以 八月升二日到國
① 合六人状 國造帯意宇郡大領外正六位上勲 一
升日符壼道
以 八月升五日到國
十 二 等出雲臣廣嶋追状 為教習造弩追 一
同日符萱道
以 八月升六日到國
工 匠 二 人状 九月 飯石郡少領外従八位上出雲臣 一
二日符萱道
以 九月九日到國 弟山給傳馬参匹還却状 介正六位上勲十二等巨勢朝臣首名 一
同日符萱道
以
九月十三日到國 事 詑却還任所状
①勲︑モト﹁動﹂に作る︒
二 解部復原に関する私案
一 六
日符萱道追工上二人状 以九月+=百到國
熊谷團兵士紀打原直忍熊意宇團兵士
以 九月十三日到國 一 同日符壼道
腹部臣稲主歩射馬槍試練定却還状 一 升
日符萱道肇驚布充 以九月其日到國
債調拒絹状 十月
一 二日符萱道公文不申送状 以十月八日到國
③
一 十一日符萱道預採枯弩材状 以十月汁日到國
造兵器別當國司目正八位下
一 同日符萱道
以 十月升日到國
小野臣淑奈麻呂状 擬 軍毅井軍毅等定考第
一
十 五日符士豆道
以十月汁日到國
及 慮徴差加兵士庸状 慮 造 綿甲料布慮酬調狭施
以 十月汁日到國 一
同B符萱道
井慮用綿状 十一月 造 弩 生 大 石 村 主 大國 一 十 五日符吉旦道④ 以十一月什日到國
附 前 様 却 還 本 郷状
一 升 九
日篁豆道嚢箆藁状 以+二月八日到國
(継目裏書あり︶
十二月
一 六日符萱道慮免今鮎兵士庸事等参條状以十二月十二日到國 一
同日符萱道備邊豪巻状 以+二月汁百到國
② 短 は 短 の異体字︑
とするのは誤り︒
遺「文﹂が﹁桓﹂
③預︑モト﹁預﹂に作る︒
④附︑モト﹁附﹂に作る︒
出雲国計会帳・解部の復原 馬射博士少初位下城部惣
以十二月升六日到國 一 十 智給傳馬議遣状三日符壼道 天 平 六 年 正月 一 五
榊 壼道蕾送雑造物状 以正月+四日到國
⑥ ⑥
判官已下僚人已上依例
以 正月十四日到國 ⑦ 慮給禄料絹状一 同日符萱道 一
+
八日符萱道節度使春夏禄霧状以正月升四易國
一
同日符壼道甲一領袋式料表布施綿状以正月汁六日到國
二月
一
五日符萱道依 勅符使司向京状以三月汁三日到國
要地六虐拠儲⁝置弩井占臆
以 三月升三日到國 一 同日符士豆道
置幕料布状 ⑧
出雲國与隠伎國
以一二月十六日到國
一
六日符吉旦道 慮置蜂状 一
+ 四
日符萱道慮定兵士番状以三月τ到國
三月
置 蜂期目辰放蜂試互 一
汁吾符壼道告劉伎相共試状
以四月一日到國 四月
一
六日符萱道出雲隠伎二國慮置蜂状以四月十二日到國
⑤日脱.︑︵﹃大日古﹄・﹃遺文﹄のと
おり︶
⑥已︑モト﹁巳﹂に作る︒
⑦拒︑②に同じ︒
⑧与︑﹃遺文﹄は﹁與﹂とする︒
⑨知︑﹃遺文﹄は脱︒
三 〔校訂〕出雲国計会帳
一 一
一 一
為造公文使録事正七位上
以 四月十二日到國同日符萱道 少 外 記 勲 十 二 等 壬 生 使 主宇太麻呂所遣状
十二日符萱道送山陰道四國鉦井封函状 以五月汁二日到國
同日符萱道鉦五面状
+ 三日符萱道遷上雑公文状
以 五月汁二日到國 以 四月十九日到國
⑩ ⑪ 筑紫大宰府萱條 天 平 六 年 一 二日符萱道 向越前國筑紫府柁師従八位下 ⑫ ⑬ 七月
以 生部勝麻呂等合四人状七月十三日到國
(継目裏書あり︶
解 辮官解文騨拾萱條 天 平 五 年 八月 一 一
一一
調帳陣巻 運調脚帳萱巻
豊紙 運調綱帳 匠丁帳戴巻戴紙 過期限帳萱紙二日進上公文漆巻陣紙 右附運調使史生少初位上子く法次進上 九日夏調過期限遅進事
同月十九日進上水精玉萱伯伍拾頼事
同日進上主當調庸國郡司歴名事
⑩筑︑モト﹁筑﹂に作る︒
⑪府︑モト﹁符﹂に作る︒
⑫︑⑩に同じ︒
⑬柁︑モト﹁施﹂に作る︒
出雲国計会帳・解部の復原
一
一一
一 一
十
一一 一 月
同日進上無國司等螢造家事
同日進上主當地子交易國司目正八位下小野臣淑奈麻呂事
大帳二巻 郷戸課丁帳 同日進上公文萱拾捌巻参紙
一巻.括出帳一巻 走還 帳一巻 放奴碑帳一巻 逃亡満六年帳一巻 神亀五年
⑭
以 来 逃 亡帳一巻 割附奴碑帳一巻 争戸帳一巻 遭 服 ⑱ 人帳一巻 高年及残疾以上帳一巻 計會帳一巻 ⑯ 大税出孝帳一巻 郡稲出禦帳一巻 公用稲出暴一巻 九等戸帳一巻 麦帳一巻 主當調庸國司井郡司帳︸紙 主 當 地 子 交易國司歴名帳一紙 無國司造家帳一紙
同日進上騨起稲出學帳萱巻
同日進上真珠参拾穎 上一十穎 中五頼 下一十五頼
同日進上水精玉萱伯頼事
右捌條附大帳使史生大初位上依網連意美麻呂進上
考文三巻 考状一巻 選文升一日進上公文萱拾玖巻貫紙
一巻 歳寛帳一巻 僧尼帳 一巻 寺財物帳一巻 斎會帳一巻 放生帳一巻 鋪設 ⑰ 帳一巻 桑漆帳一巻 干菜帳一巻 鶏帳壼巻 四季 帳 四 巻 擬郡司帳一巻 復任郡司状二紙 同日進上公文貫拾陸巻騨紙考文一巻 考状一巻 兵士簿
目録一巻 兵士歴名簿四
巻 鮎 替 簿 四 巻 儲士歴名簿一巻 蜂守帳一巻 道守帳 一巻 騨馬帳一巻 騨家鋪設帳一巻 傳馬帳一巻 種 ⑱ 馬帳一巻 繋飼馬帳一巻 伯姓牛馬帳一巻 兵馬帳一巻 官器伎帳一巻 伯姓器伎帳一巻 津守帳一巻 公私船
⑭附︑﹃大日古﹄・﹃遺文﹄は﹁付﹂
とする︒
⑮帳脱ヵ︵﹃大日古﹄﹃遺文﹄のと
おり︶︒
⑯麦︑﹃遺文﹄は﹁饗﹂とする︒
⑰復︑モト﹁復﹂に作る︒
⑱﹃大日古﹄・﹃遺文﹄︑﹁﹇﹂とす
るが︑本文に述べたように︑今 は 不明とすべきであろう︒
三 〔校訂〕出雲国計会帳
(継目裏書の痕跡あり︶
(
聾ハ年︶ ⑲ 一 十二日申送捻看諸社返抄事
右附騨使内舎人従七位上平群朝臣人足進上
口(月︶
一 升三日進上相撲人腹部臣真嶋等貫人事
右便附真嶋進上 七月
一 二日進上茂濱藻 御賛戴荷事 ⑳
右附騨家進上
⑳ 調帳四巻 運調脚帳一巻 一 同日進上公文漆巻漆紙 匠丁帳二巻 二紙 運調綱帳一紙 韓積 帳四紙
右参條附夏調使書元位猪名部諸人進上
一赦書付領状 一 升六日進上返抄貫道 一太政官赦書状
右戴條附騨家進上
@
解中務省解文戴條 天 平 五 年
⑲﹃大日古﹄・﹃遺文﹄
﹁右︑附騨家進上﹂
く︒
は こ の前に
の一行をお
︵右ヵ︶⑳右︑﹃大日古﹄・﹃遺文﹄は﹁口﹂
に作る︒上︑﹃大日古﹄・﹃遺文﹄ ︵上ヵ︶ は﹁口﹂に作る︒
⑳脚︑﹃大日古﹄﹃遺文﹄は﹁口﹂
とする︒
⑳﹃大日古﹄・﹃遺文﹄はこの前に ﹁右口條︑附騨使進上﹂の一行
一
をお人出雲国計会帳・解部の復原
十一月 一 十四日進上筆萱伯管事
一 同日進上采女養綜壼伯武拾斤事
右戴條附貢調使史生大初位上依網連意美麻呂進上
解式部省解文陸條 天 平 五 年 八月
一 十九日申送閾郡司歴名事
(
璽解文︶
⑳ 一 一日進上雇民若帯部□男等貫人逃亡替事
右差意宇郡人語部廣麻呂充部領進上
一 二日進上下番匠丁井根代綜債大税等数注事
一 十九日運夏調綱出雲郡大領外正八位下日置臣佐提麻呂事
右戴條附貢夏調使史生少初位上子く法次進上
一 汁一日進上雇民伊福部依瀬等合萱拾参人逃亡替事
右差楯縫郡人物部大山充部領進上
九月
一 升七日進上雇民刑部身麻呂等摩人逃亡替事
右 差 神門郡人神門臣波理充部領進上
十一月 ⑳口︑﹃大日古﹄・﹃遺文﹄は﹁村﹂ とするが︑断定は難しい︹図11 参照︺
三 〔校訂〕出雲国計会帳
一 十四日進上賀茂神税交易綜壼伯斤事
一 同日進上鹿皮璋拾張事
(十二月ヵ︶
一 同日進上蘇合参升伍合盛壼伍口事
右参條附朝集使従七位上勲十二等石川朝臣足麻呂進上
(天 平 六年︶
一 六日進上仕丁厩火頭匠丁雇民等戴拾陸人逃亡事 ⑳三月
右差秋鹿郡人日下部味麻充部領進上
⑳ 一 汁六日進上雇民若倭部都都美等摩人逃亡替事
右差大原郡人日置首劔充部領進上 四月
一 八日進上匠丁三上部羊等参人逃亡替事
右差秋鹿郡人額田部首真咋充部領進上
五月
一 十五日進上仕丁火頭財部木足等漆人逃亡替事
右附大原郡人日置部首劔進上
(
璽解文︶
ー麻呂等式人死去替事
⑳替脱ヵ︵﹃大日古﹄﹃遺文﹄のとお
り︶
⑳都︑﹃大日古﹄・﹃遺文﹄は﹁﹀﹂
とする︒