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Vol.65 , No.2(2017)071加納 和雄「ヴィクラマシーラ寺の六賢門をめぐる史料とその問題」

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(1)

調査範囲

史料の調査範囲は,主に六賢門の自著の奥書,および六賢門の時代に東インド を訪問したチベット僧の伝記類を手掛かりにする.特に伝記史料が豊富な人物に, ドクミ・シャーキャイェーシェー(993–1077 頃),および,マルパ・チューキロ トゥー(1000–1081)がいる.前者のインド滞在は 1010–1020 年代頃(Davidson 2005: 169).ネパール留学後,インドでラトナーカラシャーンティ(以下,ラトナーカラ) に師事した.今回披見した蔵伝史料は下記の通り.史料の相関図は本稿末参照. [I 伝記・仏教史] [’Brog mi 伝類](14 世紀以降は多くを割愛)

① Grags pa rgyal mtshan (1147–1216), Bla ma brgyud pa bod kyi lo rgyus.

② Nyang ral Nyi ma’i ’od zer (ca. 1124–1192), Chos ’byung me tog snying po sbrang rtsi’i bcud. ③ dMar ston Chos kyi rgyal po (ca. 1198–1259), Zhib mo rdo rje(1217–1224 頃成書). ④ Bla ma dam pa bSod nams rgyal mtshan (1312–1375), Ngo tshar snang ba(1344 成書). ⑤ dGe ye tshul khrims seng ge, rGya bod kyi chos ’byung rin po che(1474 成書),24b. ⑥ gZhon nu dpal (1392–1481), Deb ther sngon po.

⑦ Mang thos Klu grub rgya mtsho (1523–1596), bsTan rtsis gsal ba’i nyin byed lhag bsam rab dkar. ⑧ ’Jam dbyangs mkhyen rtse dbang phyug (1524–1568), gDam ngag byung tshul kyi zin bris. ⑨ Tāranātha (1575–1635), rGya gar chos ’byung.

⑩ ’Jam mgon A mes zhabs Ngag dbang kun dga’ bsod nams (1597–1659), Yongs rdzogs bstan pa

rin po che’i nyams len gyi man ngag gsung ngag rin po che’i byon tshul.

[その他]

⑪ Ngor chen Kun dga’ bzang po(1382–1456)編,Pusti dmar chung.

⑫ Bu ston Rin chen grub (1290–1364), Bla ma dam pa rnams kyis rjes su bzung ba’i tshul bka’

drin rjes su dran par byed pa, 24b3f.; rNal ’byor rgyud kyi rgya mtshor ’jug pa’i gru gzings, 67a3.

⑬[Mar pa 伝]著者不明,sByangs pa can bla ma mar pa blo gros kyi rnam thar (lHo brag mar

pa lo tsā’i gsung ’bum, vol. 1 [Beijing: Krung go’i bod rig pa dpe skrun khang, 2011]), p. 36.

⑭[Maitrīpa 伝]’Bri gung Kun dga’ rin chen(1475–1527)編,’Bri gung bka’ brgyud chos mdzod. ⑮[Atiśa 伝]mChims Nam mkha’ grags(1210–1285)編,rNam thar yongs grags. [II テンギュル作品奥書]

㋐ Ratnākaraśānti, Madhyamakālaṃkalopadeśa, D no. 4085, Śāntabhadra と Shākya ’od の 共訳,11 世紀前半~中葉.

㋑ Prajñākaramati, Abhisamayālaṃkāravṛttipiṇḍārtha, D no. 3795, Sumatikīrti と rNgog の 共訳,1092–1109 頃.

(⑤⑫~⑮ 以外の書誌情報は Stearns 2001 参照.⑮ は Gregory M. Seton 氏,㋑ は宮崎泉氏 のご教示による.太字は本稿で特に取り上げる史料.) 史料は[I 伝記・仏教史]と[II テンギュル作品奥書]から成り,前者はテクス ヴィクラマシーラ寺の六賢門をめぐる史料とその問題(加 納) (109)

ヴィクラマシーラ寺の六賢門をめぐる

史料とその問題

加 納 和 雄

はじめに

六賢門(mkhas pa sgo drug)とは,ターラナータ(1575–1635)著『インド仏教史』

によると,10~11 世紀頃に活躍したヴィクラマシーラ僧院を代表する 6 名の碩学 のことである.この訳語は寺本 1928 に既に確認され,本稿もそれに従う.彼らは 象徴的に東南西北の四門(Ratnākaraśānti,Vāgīśvarakīrti,Prajñākaramati,Nāropa),中央 二柱(Ratnavajra,Jñānaśrīmitra)に配される.六賢門に言及するチベット語史料(以 下,蔵伝史料)は多いが,その記述の詳細さゆえか,これまでの研究では『インド 仏教史』が典拠として好んで用いられてきた. しかし比較的後代の蔵伝史料において,特にインドにおける出来事についての 記述の詳細さは,史実性の高さに直結する訳ではない.むしろ逆の場合がしばし ば見受けられる.蔵伝史料の多くは,それまでの伝承を総合的かつ忠実に師子相 承するため,新旧の情報をないまぜにして雪だるま式に膨張してゆく性質をもつ (Roesler 2008; Kano 2015: 110).ターラナータも六賢門の伝承については「チベット

の史書類」(bod kyi lo rgyud tsho)と「インドの文献三書」(rgya gar gyi yig cha gsum)に 依拠したと言明する.それゆえ我々の期待するところの「史実」に近づくには, その情報の発信源に向かって絶えず遡ってゆく作業が必要となる.本稿では 2 点 の問題提起をしたい. (一)六賢門という蔵伝史料所出の概念はインドに由来するものなのか. (二)その語の初出例はいつ頃のどの史料なのか. 誤解を避けるために付言すると,六賢門の各人には自著が確認されており,彼 らの存在については疑い得ない.問題とするのは六賢門という枠概念のほうである. (108) 印度學佛敎學硏究第 65 巻第 2 号 平成 29 年 3 月

(2)

調査範囲

史料の調査範囲は,主に六賢門の自著の奥書,および六賢門の時代に東インド を訪問したチベット僧の伝記類を手掛かりにする.特に伝記史料が豊富な人物に, ドクミ・シャーキャイェーシェー(993–1077 頃),および,マルパ・チューキロ トゥー(1000–1081)がいる.前者のインド滞在は 1010–1020 年代頃(Davidson 2005: 169).ネパール留学後,インドでラトナーカラシャーンティ(以下,ラトナーカラ) に師事した.今回披見した蔵伝史料は下記の通り.史料の相関図は本稿末参照. [I 伝記・仏教史] [’Brog mi 伝類](14 世紀以降は多くを割愛)

① Grags pa rgyal mtshan (1147–1216), Bla ma brgyud pa bod kyi lo rgyus.

② Nyang ral Nyi ma’i ’od zer (ca. 1124–1192), Chos ’byung me tog snying po sbrang rtsi’i bcud. ③ dMar ston Chos kyi rgyal po (ca. 1198–1259), Zhib mo rdo rje(1217–1224 頃成書). ④ Bla ma dam pa bSod nams rgyal mtshan (1312–1375), Ngo tshar snang ba(1344 成書). ⑤ dGe ye tshul khrims seng ge, rGya bod kyi chos ’byung rin po che(1474 成書),24b. ⑥ gZhon nu dpal (1392–1481), Deb ther sngon po.

⑦ Mang thos Klu grub rgya mtsho (1523–1596), bsTan rtsis gsal ba’i nyin byed lhag bsam rab dkar. ⑧ ’Jam dbyangs mkhyen rtse dbang phyug (1524–1568), gDam ngag byung tshul kyi zin bris. ⑨ Tāranātha (1575–1635), rGya gar chos ’byung.

⑩ ’Jam mgon A mes zhabs Ngag dbang kun dga’ bsod nams (1597–1659), Yongs rdzogs bstan pa

rin po che’i nyams len gyi man ngag gsung ngag rin po che’i byon tshul.

[その他]

⑪ Ngor chen Kun dga’ bzang po(1382–1456)編,Pusti dmar chung.

⑫ Bu ston Rin chen grub (1290–1364), Bla ma dam pa rnams kyis rjes su bzung ba’i tshul bka’

drin rjes su dran par byed pa, 24b3f.; rNal ’byor rgyud kyi rgya mtshor ’jug pa’i gru gzings, 67a3.

⑬[Mar pa 伝]著者不明,sByangs pa can bla ma mar pa blo gros kyi rnam thar (lHo brag mar

pa lo tsā’i gsung ’bum, vol. 1 [Beijing: Krung go’i bod rig pa dpe skrun khang, 2011]), p. 36.

⑭[Maitrīpa 伝]’Bri gung Kun dga’ rin chen(1475–1527)編,’Bri gung bka’ brgyud chos mdzod. ⑮[Atiśa 伝]mChims Nam mkha’ grags(1210–1285)編,rNam thar yongs grags. [II テンギュル作品奥書]

㋐ Ratnākaraśānti, Madhyamakālaṃkalopadeśa, D no. 4085, Śāntabhadra と Shākya ’od の 共訳,11 世紀前半~中葉.

㋑ Prajñākaramati, Abhisamayālaṃkāravṛttipiṇḍārtha, D no. 3795, Sumatikīrti と rNgog の 共訳,1092–1109 頃.

(⑤⑫~⑮ 以外の書誌情報は Stearns 2001 参照.⑮ は Gregory M. Seton 氏,㋑ は宮崎泉氏 のご教示による.太字は本稿で特に取り上げる史料.) 史料は[I 伝記・仏教史]と[II テンギュル作品奥書]から成り,前者はテクス

ヴィクラマシーラ寺の六賢門をめぐる

史料とその問題

加 納 和 雄

はじめに

六賢門(mkhas pa sgo drug)とは,ターラナータ(1575–1635)著『インド仏教史』

によると,10~11 世紀頃に活躍したヴィクラマシーラ僧院を代表する 6 名の碩学 のことである.この訳語は寺本 1928 に既に確認され,本稿もそれに従う.彼らは 象徴的に東南西北の四門(Ratnākaraśānti,Vāgīśvarakīrti,Prajñākaramati,Nāropa),中央 二柱(Ratnavajra,Jñānaśrīmitra)に配される.六賢門に言及するチベット語史料(以 下,蔵伝史料)は多いが,その記述の詳細さゆえか,これまでの研究では『インド 仏教史』が典拠として好んで用いられてきた. しかし比較的後代の蔵伝史料において,特にインドにおける出来事についての 記述の詳細さは,史実性の高さに直結する訳ではない.むしろ逆の場合がしばし ば見受けられる.蔵伝史料の多くは,それまでの伝承を総合的かつ忠実に師子相 承するため,新旧の情報をないまぜにして雪だるま式に膨張してゆく性質をもつ (Roesler 2008; Kano 2015: 110).ターラナータも六賢門の伝承については「チベット

の史書類」(bod kyi lo rgyud tsho)と「インドの文献三書」(rgya gar gyi yig cha gsum)に 依拠したと言明する.それゆえ我々の期待するところの「史実」に近づくには, その情報の発信源に向かって絶えず遡ってゆく作業が必要となる.本稿では 2 点 の問題提起をしたい. (一)六賢門という蔵伝史料所出の概念はインドに由来するものなのか. (二)その語の初出例はいつ頃のどの史料なのか. 誤解を避けるために付言すると,六賢門の各人には自著が確認されており,彼 らの存在については疑い得ない.問題とするのは六賢門という枠概念のほうである.

(3)

弟子または訳者の手になる.その訳者の一人シャーンタバドラは,ドクミが 11 世 紀初頭にネパールで師事した人物であり,ナクツォとも交流があった(川越 2001: 278–279).本名は Cahaṃdu 等といわれるネパール人だという.ドクミ伝 ③ などに よると彼はラトナーカラの直弟子である.ただしより古い伝記 ① にはその旨明記 されない.いずれにしても奥書 ㋐ はラトナーカラと同時代の人物の手になると いってよい.従ってそこに出る四大門守なる概念は,本人に認知されていたかは 不明だが,ほぼ同時代に周知されていたといえる.なお ㋐ の訳者たちは,D no. 3788 も訳している.それはチャンチュプウーの勅のもと 11 世紀の前半から中葉 頃に訳されたことが確認されており,㋐ の年代と合致する. 奥書 ㋑ の年代は訳者ゴクおよび共訳者の活躍時期から 1092–1109 年頃と予想さ れる.プトゥンもこの同じ表現に言及している(上記 ⑫). 以上より,11 世紀にはラトナーカラを含む四大門守なる概念がインドまたはネ パールにて存在したことが知られる.つまり六賢門なる概念の祖形は,上記奥書 に後代の竄入がないのであれば,インドに由来すると大凡認められる.四方に碩 学を配当する例は『大唐西域記』「当此之時.東有馬鳴.南有提婆.西有龍猛.北 有童受.号為四日照世」等にみられる(大正 51 巻 942a,田中裕成氏のご教示).

六賢門の初出例

つぎに問題提起(二)の検討に移る.六賢門に関して上記 16 点の史料を調査し たところ記述に揺れが確認された. 六賢門及び関連名称 場所 史料 六賢門(四門と二柱) Magadha ② Vikramaśīla ③④⑤⑥⑧⑨⑩ Nālandā ⑦⑪⑫, ⑭(部分言及) 七門守(sgo srung)(四門と三中央) — ⑬

四大門守(sgo srung chen po bzhi) — ㋐(Ratnākaraśānti のみ言及)

教えの門守の如き(bstan pa’i sgo srung pa lta bu) — ⑮(Ratnākaraśānti のみ言及)

西の門扉(nub kyi sgo glegs) — ㋑(Prajñākaramati のみ言及)

史料 ②~⑧ における六賢門は,ドクミ訳師が教えを親受した 6 名の各分野の専 門家として描写される一方,それより新しい ⑨ ターラナータの説く六賢門は異教 ヴィクラマシーラ寺の六賢門をめぐる史料とその問題(加 納) (111) トとして開かれており次第に膨れ上がってゆくが,後者は基本的には閉ざされて おり後代の改竄の余地が皆無ではないにせよ極めて少ないため,その史料的質は 担保される.上記諸史料の原文提示と試訳は別稿を期す.

六賢門という概念はインドに由来するか

六賢門なる概念に虚実の境界線を厳密に引くことは不可能だが,その語の認知 範囲を次の五段階に分けて解明を試みることは,上に提起した問題(一)に接近 するに際して一定の有効性を持つと期待される.すなわち同概念が認知されてい た範囲を,(a)本人,(b)直弟子(印度語話者),(c)同時代の外部者(他言語話者 など),(d)孫弟子以降(印度語話者),(e)後代の外部者の五段階に設定する.こ れは同概念が,インドに由来する(a)(b)(d)のか,その周辺に由来する(c) (e)のか,また同時代に認知されていた(a)(b)(c)のか,後代にのみ認知され た(d)(e)のかを確認するための指標である.その検討結果を提示すると下記の ようになる. 当該関連概念の認知範囲 確認すべき史料 検討結果 (a)本人 自著 確認できず (b)直弟子 直弟子による言及 ㋐㋑ に確認 (c)同時代の外部者 同時代の蔵伝史料 ㋐㋑ に確認 (d)孫弟子以降 孫弟子による言及 確認できず (e)後代の外部者 後代の蔵伝史料 ②~⑮ に確認 表中の ㋐㋑ と ②~⑮ は上掲の史料の略号である.この結果は暫定的なもので あり,今後,既刊未刊史料における新発見によりこの結果が更新・訂正されるこ とを妨げるものではない.(a)本人が自己言及する例は確認されなかったが,(b) 直弟子と(c)同時代の外部者の言及例が確認された.それが表中の ㋐㋑ である. これは六賢門の作品二点の蔵訳への奥書である.その蔵訳が(b)直弟子と(c) チベット人訳師の共訳であるため,記述が(b)と(c)とに跨っている.ただし ㋐㋑ には六賢門という語はない.奥書 ㋐ は著者ラトナーカラを六賢門ではなく 「四大門守」(sgo srung chen po bzhi)の上首と述べる.奥書 ㋑ は著者プラジュニャー

カラマティを「西の門扉」(nub kyi sgo glegs)と冠称する.

ではこれら奥書の成立年代はいつ頃だろうか.奥書 ㋐ は,テクストを親受した

(4)

弟子または訳者の手になる.その訳者の一人シャーンタバドラは,ドクミが 11 世 紀初頭にネパールで師事した人物であり,ナクツォとも交流があった(川越 2001: 278–279).本名は Cahaṃdu 等といわれるネパール人だという.ドクミ伝 ③ などに よると彼はラトナーカラの直弟子である.ただしより古い伝記 ① にはその旨明記 されない.いずれにしても奥書 ㋐ はラトナーカラと同時代の人物の手になると いってよい.従ってそこに出る四大門守なる概念は,本人に認知されていたかは 不明だが,ほぼ同時代に周知されていたといえる.なお ㋐ の訳者たちは,D no. 3788 も訳している.それはチャンチュプウーの勅のもと 11 世紀の前半から中葉 頃に訳されたことが確認されており,㋐ の年代と合致する. 奥書 ㋑ の年代は訳者ゴクおよび共訳者の活躍時期から 1092–1109 年頃と予想さ れる.プトゥンもこの同じ表現に言及している(上記 ⑫). 以上より,11 世紀にはラトナーカラを含む四大門守なる概念がインドまたはネ パールにて存在したことが知られる.つまり六賢門なる概念の祖形は,上記奥書 に後代の竄入がないのであれば,インドに由来すると大凡認められる.四方に碩 学を配当する例は『大唐西域記』「当此之時.東有馬鳴.南有提婆.西有龍猛.北 有童受.号為四日照世」等にみられる(大正 51 巻 942a,田中裕成氏のご教示).

六賢門の初出例

つぎに問題提起(二)の検討に移る.六賢門に関して上記 16 点の史料を調査し たところ記述に揺れが確認された. 六賢門及び関連名称 場所 史料 六賢門(四門と二柱) Magadha ② Vikramaśīla ③④⑤⑥⑧⑨⑩ Nālandā ⑦⑪⑫, ⑭(部分言及) 七門守(sgo srung)(四門と三中央) — ⑬

四大門守(sgo srung chen po bzhi) — ㋐(Ratnākaraśānti のみ言及)

教えの門守の如き(bstan pa’i sgo srung pa lta bu) — ⑮(Ratnākaraśānti のみ言及)

西の門扉(nub kyi sgo glegs) — ㋑(Prajñākaramati のみ言及)

史料 ②~⑧ における六賢門は,ドクミ訳師が教えを親受した 6 名の各分野の専 門家として描写される一方,それより新しい ⑨ ターラナータの説く六賢門は異教 トとして開かれており次第に膨れ上がってゆくが,後者は基本的には閉ざされて おり後代の改竄の余地が皆無ではないにせよ極めて少ないため,その史料的質は 担保される.上記諸史料の原文提示と試訳は別稿を期す.

六賢門という概念はインドに由来するか

六賢門なる概念に虚実の境界線を厳密に引くことは不可能だが,その語の認知 範囲を次の五段階に分けて解明を試みることは,上に提起した問題(一)に接近 するに際して一定の有効性を持つと期待される.すなわち同概念が認知されてい た範囲を,(a)本人,(b)直弟子(印度語話者),(c)同時代の外部者(他言語話者 など),(d)孫弟子以降(印度語話者),(e)後代の外部者の五段階に設定する.こ れは同概念が,インドに由来する(a)(b)(d)のか,その周辺に由来する(c) (e)のか,また同時代に認知されていた(a)(b)(c)のか,後代にのみ認知され た(d)(e)のかを確認するための指標である.その検討結果を提示すると下記の ようになる. 当該関連概念の認知範囲 確認すべき史料 検討結果 (a)本人 自著 確認できず (b)直弟子 直弟子による言及 ㋐㋑ に確認 (c)同時代の外部者 同時代の蔵伝史料 ㋐㋑ に確認 (d)孫弟子以降 孫弟子による言及 確認できず (e)後代の外部者 後代の蔵伝史料 ②~⑮ に確認 表中の ㋐㋑ と ②~⑮ は上掲の史料の略号である.この結果は暫定的なもので あり,今後,既刊未刊史料における新発見によりこの結果が更新・訂正されるこ とを妨げるものではない.(a)本人が自己言及する例は確認されなかったが,(b) 直弟子と(c)同時代の外部者の言及例が確認された.それが表中の ㋐㋑ である. これは六賢門の作品二点の蔵訳への奥書である.その蔵訳が(b)直弟子と(c) チベット人訳師の共訳であるため,記述が(b)と(c)とに跨っている.ただし ㋐㋑ には六賢門という語はない.奥書 ㋐ は著者ラトナーカラを六賢門ではなく 「四大門守」(sgo srung chen po bzhi)の上首と述べる.奥書 ㋑ は著者プラジュニャー

カラマティを「西の門扉」(nub kyi sgo glegs)と冠称する.

(5)

六賢門関連史料見取り図

’Brog mi 伝の中での六賢門への言及

AD 950

1000 六賢門の活躍時期

’Brog mi Shākya ye shes (ca. 993–1077) Mar pa Chos kyi Blo gros (1000–1081) 1050 ㋐ D no. 4085 奥書: 訳者 Śāntabhadra and Shākya ’od (Ratnākaraśānti: sgo srung chen po bzhi)

(= Ratnākaraśānti の弟子)

㋑ D no. 3795 奥書: 訳者 Sumatikīrti and rNgog  (Prajñākaramati: nub kyi sgo glegs) 1100

1150 ① Grags pa rgyal mtshan (1147–1216) ’Brog mi 伝,六賢門への言及欠

② Nyang ral Nyi ma’i ’od zer (ca. 1124–1192) Vikramaśīla の六賢門言及の初出か

1200 先行史料の存在に言及

③ dMar ston Chos kyi rgyal po (ca. 1198–1259) 先行史料の存在に言及 1250 ⑮ mChims Nam mkha’ grags (1210–1285) 編,Atiśa 伝

(Ratnākaraśānti: bstan pa’i sgo srung pa lta bu) 1300

1350 ⑫ Bu ston(Nālandā の mkhas pa sgo drug)④ Bla ma dam pa Bsod nam rgyal mtshan (1312–1375)

1400

1450

1500

1550

1600

⑪ Ngor chen (1382–1456) 編, Pusti dmar chung: Nālanda 六賢門による口決

⑤ dGe ye tshul khrims seng ge (1474 成書) ⑥ ’Gos lo gZhon nud dpal (1392–1481)

⑭ ’Bri gung Kun dga’ rin chen (1475–1527) 編(Maitrīpa 伝,Nālandā 北門,東門) ⑦ Mang thos Klu grub rgya mtsho (1523–1596) Nālanda 六賢門

⑨ Tāranātha (1575–1635) rGya gar chos ’byung, 先行史料に言及 A myes zhabs (1597–1659) ’Brog mi 伝

AD 1650 ヴィクラマシーラ寺の六賢門をめぐる史料とその問題(加 納) (113) 徒の論師たちを迎え撃ち論破する各分野の専門家として描かれる点で異なる.個 人の伝記から仏教史へと文脈が変化したことに対応しているのだろう. [I 伝記・仏教史]の中でとりわけ重要なものは ② である.② は 12 世紀の作 で,六賢門の語を明示する史料のうち,目下,知見の及ぶ限り最も古い(Stearns 2001: 208 n. 20 参照).それよりも先行するとみられる ① は,ドクミ伝記群中でも 最古層史料といわれるが,六賢門への言及はまだない.ラトナーカラへの師事に 触れるに留まる.① と ② の成書年はかなり近接する.そしてその後の 1217–1224 年頃に成書した ③ 以降は,六賢門に言及しながら次第に分量を増やしてゆく.

また ② は「マガダの六賢門」(ma ga dha’i mkhas pa sgo drug)と述べ,その後の ③ は「マガダの地ヴィクラマシーラ僧院における六賢門」(ma ga ta’i gnas bhi ka ma la shi la’i rtsug lag khang na mkhas pa [s]go drug)と寺名を限定し,さらに ③ の内容は ④ 以 降,揺れながら連綿と継承される.なお,拙稿(Kano 2016a: 9 n. 9; 2016b: 55 n. 44) にて ② 所出の六賢門をブッダガヤの地に結び付けた点は訂正しておきたい.寺名 表記が最初期の記述 ② に欠如し,かつ上掲表の如く寺名に揺れがあるのは,もと もと同概念が特定の寺院に固定されていなかったことを示唆するかもしれない. より古い史料 ㋐㋑ にも寺名はない. 以上,六賢門に言及する最古史料はいまのところ ② といえる.なお ⑪⑭⑮ の ような編纂文献の場合,編者の年代は下るが,収録作品は古い場合もあるだろう. 特に ⑮ は 13 世紀の作だがナクツォにまで遡る伝承に依る旨を言明しており,六 賢門には言及しないが,ラトナーカラを「教えの門守の如き」と呼ぶ点は内容的 な古さを予想させる(Seton 2015 参照).

おわりに

上記を総合したときに想定されるシナリオは,筆者の披見した,限られた史料 にもとづくならば,暫定的に次の様になろう.まず 11 世紀に東インドの高名な 4 名の学者をその弟子たちが四大門守と象徴的に表現した(㋐).そして 12 世紀頃 チベットでドクミ訳師の伝記が文字化され始め(①),四大門守が六賢門となり, ドクミ伝記群などにとりこまれた(② 以降).今後の調査により,この想定がさら に限定あるいは訂正されることが期待される. (112) ヴィクラマシーラ寺の六賢門をめぐる史料とその問題(加 納)

(6)

六賢門関連史料見取り図

’Brog mi 伝の中での六賢門への言及

AD 950

1000 六賢門の活躍時期

’Brog mi Shākya ye shes (ca. 993–1077) Mar pa Chos kyi Blo gros (1000–1081) 1050 ㋐ D no. 4085 奥書: 訳者 Śāntabhadra and Shākya ’od (Ratnākaraśānti: sgo srung chen po bzhi)

(= Ratnākaraśānti の弟子)

㋑ D no. 3795 奥書: 訳者 Sumatikīrti and rNgog  (Prajñākaramati: nub kyi sgo glegs) 1100

1150 ① Grags pa rgyal mtshan (1147–1216) ’Brog mi 伝,六賢門への言及欠

② Nyang ral Nyi ma’i ’od zer (ca. 1124–1192) Vikramaśīla の六賢門言及の初出か

1200 先行史料の存在に言及

③ dMar ston Chos kyi rgyal po (ca. 1198–1259) 先行史料の存在に言及 1250 ⑮ mChims Nam mkha’ grags (1210–1285) 編,Atiśa 伝

(Ratnākaraśānti: bstan pa’i sgo srung pa lta bu) 1300

1350 ⑫ Bu ston(Nālandā の mkhas pa sgo drug)④ Bla ma dam pa Bsod nam rgyal mtshan (1312–1375)

1400

1450

1500

1550

1600

⑪ Ngor chen (1382–1456) 編, Pusti dmar chung: Nālanda 六賢門による口決

⑤ dGe ye tshul khrims seng ge (1474 成書) ⑥ ’Gos lo gZhon nud dpal (1392–1481)

⑭ ’Bri gung Kun dga’ rin chen (1475–1527) 編(Maitrīpa 伝,Nālandā 北門,東門) ⑦ Mang thos Klu grub rgya mtsho (1523–1596) Nālanda 六賢門

⑨ Tāranātha (1575–1635) rGya gar chos ’byung, 先行史料に言及 A myes zhabs (1597–1659) ’Brog mi 伝

AD 1650 徒の論師たちを迎え撃ち論破する各分野の専門家として描かれる点で異なる.個 人の伝記から仏教史へと文脈が変化したことに対応しているのだろう. [I 伝記・仏教史]の中でとりわけ重要なものは ② である.② は 12 世紀の作 で,六賢門の語を明示する史料のうち,目下,知見の及ぶ限り最も古い(Stearns 2001: 208 n. 20 参照).それよりも先行するとみられる ① は,ドクミ伝記群中でも 最古層史料といわれるが,六賢門への言及はまだない.ラトナーカラへの師事に 触れるに留まる.① と ② の成書年はかなり近接する.そしてその後の 1217–1224 年頃に成書した ③ 以降は,六賢門に言及しながら次第に分量を増やしてゆく.

また ② は「マガダの六賢門」(ma ga dha’i mkhas pa sgo drug)と述べ,その後の ③ は「マガダの地ヴィクラマシーラ僧院における六賢門」(ma ga ta’i gnas bhi ka ma la shi la’i rtsug lag khang na mkhas pa [s]go drug)と寺名を限定し,さらに ③ の内容は ④ 以 降,揺れながら連綿と継承される.なお,拙稿(Kano 2016a: 9 n. 9; 2016b: 55 n. 44) にて ② 所出の六賢門をブッダガヤの地に結び付けた点は訂正しておきたい.寺名 表記が最初期の記述 ② に欠如し,かつ上掲表の如く寺名に揺れがあるのは,もと もと同概念が特定の寺院に固定されていなかったことを示唆するかもしれない. より古い史料 ㋐㋑ にも寺名はない. 以上,六賢門に言及する最古史料はいまのところ ② といえる.なお ⑪⑭⑮ の ような編纂文献の場合,編者の年代は下るが,収録作品は古い場合もあるだろう. 特に ⑮ は 13 世紀の作だがナクツォにまで遡る伝承に依る旨を言明しており,六 賢門には言及しないが,ラトナーカラを「教えの門守の如き」と呼ぶ点は内容的 な古さを予想させる(Seton 2015 参照).

おわりに

上記を総合したときに想定されるシナリオは,筆者の披見した,限られた史料 にもとづくならば,暫定的に次の様になろう.まず 11 世紀に東インドの高名な 4 名の学者をその弟子たちが四大門守と象徴的に表現した(㋐).そして 12 世紀頃 チベットでドクミ訳師の伝記が文字化され始め(①),四大門守が六賢門となり, ドクミ伝記群などにとりこまれた(② 以降).今後の調査により,この想定がさら に限定あるいは訂正されることが期待される.

(7)

『真実綱要細注』における世尊の発話欲求と慈悲

佐 藤 智 岳

1.

は じ め に  

全 知 者 は 分 別 状 態 で 説 法 で き る の か .『 真 実 綱 要 細 注 』 (Tattvasaṃgrahapañjikā,以下 TSP)は,世尊の発話を認める者であっても,発話する 段階では世尊は非全知者であると認める,と述べる1).ただし,世尊が有分別状 態で発話する際は非全知者であるとしながらも,全知者状態での認識に裏付けら れたものであるから,彼の言葉は非全知者の言葉ではない,としている2).本稿 は,世尊の有分別状態での発話と慈悲との関係を,「2 種の分別」という考えを踏 まえて検討する3)

2. なぜ世尊は分別状態になるのか 

分別状態での発話内容が全知者状態の 認識に裏付けられたものであったとしても,そのことは真実そのものを説くこと を意味しない4).では,なぜ世尊は分別状態になって説示する必要があるのか. TSP は次のように述べている. TSP[1068, 19–24]:【問】もし顚倒していない者であるなら,どうして,[わざわざ]分 別の状態で付託するだろうか[いや,しない],といって反論するなら. 【答】そうではない.なぜなら,語の発動の手段を知る者であるから.なぜなら,[彼は] 付託する分別以外に,言葉を生じさせる他のものを見ないし,語の対象を付託されたも のとは別なものとして捉えることもない.したがって,語の発動の手段を知る者は,衆 生への哀れみから,如実に理解した真実を理解させずに,[その代りに,まず]他人に語 りかけることができる者となって,それ(如実に理解した真実)を理解させようとして, 語の発動の手段である――付託するものである分別と,語の表示対象である付託される もの――を作り出す. ここでは,分別する以外に,言葉を発する手段がないことが示されている.つ まり,真実を認識したとしても,それを言葉で表現する限り,分別せざるを得な いのである.また TSP は,衆生への哀れみから(jagadanukampayā),理解された通 りの真実を説明せずに,他人に語りかけることができる者となると述べている. つまり世尊は,理解した通りの真実ではないが,言葉を通じて衆生に教えを説く ために,あえて分別状態になって教えを説くのである. 印度學佛敎學硏究第 65 巻第 2 号 平成 29 年 3 月 (115) 〈参考文献〉 川越英真 2001「Nag tsho Lo tsā ba について(2)」『東北福祉大学研究紀要』26: 275–295. 寺本婉雅 1928『ターラナータ印度佛教史』丙午出版社.

Davidson, Ronald M. 2005. Tibetan Renaissance: Tantric Buddhism in the Rebirth of Tibetan

Culture. New York: Columbia University Press.

Kano, Kazuo. 2015. “Transmission of Sanskrit Manuscripts from India to Tibet: In the Case of a Manuscript Collection in Possession of Atiśa Dīpaṃkaraśrījñāna.” In Transfer of Buddhism

Across Central Asian Networks (7th to 13th Centuries), ed. Carmen Meinert, 82–117. Leiden:

Brill.

―――. 2016a. “Jñānaśrīmitra on the Ratnagotravibhāga.” Oriental Culture 96: 7–48.

―――. 2016b. Buddha-nature and Emptiness: rNgog Blo-ldan-shes-rab and a Transmission of

the Ratnagotravibhāga from India to Tibet. Vienna Series for Tibetan and Buddhist Studies, no.

91. Vienna: Association for Tibetan and Buddhist Studies.

Roesler, Urlike. 2008. “On the History of Histories: The Case of the bKa’ gdams pas.” In

Contributions to Tibetan Buddhist Literature: Proceedings of the 11th Seminar of the International Association for Tibetan Studies, Königswinter 2006, ed. Orna Almogi, 393–413.

Halle: International Institute for Tibetan and Buddhist Studies.

Seton, Gregory Max. 2015. Defining Wisdom: Ratnākaraśānti’s Sāratamā. D.Phil diss., Wolfson College, Oxford University.

Stearns, Cyrus. 2001. Luminous Lives: The Story of the Early Masters of the Lam ’Bras Tradition

in Tibet. Boston: Wisdom Publications.

(平成 28 年度科学研究費補助金基盤 B[代表 久間泰賢]26284008,挑戦的萌芽研究[代 表 松田和信]16K13154,および平和中島財団国際学術研究助成による研究成果の一部) 〈キーワード〉 Vikramaśīla,六賢門,Ratnākaraśānti

(高野山大学准教授,PhD)

参照

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