世界遺産「熊野古道」における「文化」概念の再検
討 : 文化的景観「信仰の山」をめぐる理念と実践
著者名(日)
山本 恭正
雑誌名
白山人類学
号
13
ページ
93-115
発行年
2010-03
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002402/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止白山人類学13号2010年3月
世界遺産「熊野古道」における「文化」概念の再検討
一一
文化的景観「信仰の山」をめぐる理念と実践一一
山 本 恭 正* Reconsidering Concept of“Culture”in a World Heritage Kumano Kodo: Ideas and Practices over Cultural Landscape of“Mountain of Belief’YAMAMOTO Yasumasa*
Today, the word“World Heritage Site”has received international media attention. But, there is also possibility that UNESCO will register a site in the World Heritage list while the local people are not aware of its cultural or historical values. What is the real concept of“World Heritage Site”?Why such a gap of the understanding between the local and UNESCO concerning with cultural or historical values of the ‘‘ ??窒奄狽≠№?hhas taken place? In July,2004“The sacred sites and pilgrimage routes in the Kii mountain Range” in Mie Prefecture, Japan is registered as a world heritage of the UNESCO. Consequently, an ancient road known as Kumano K∂ゴo has begun to be shed light on by media ortourists from all over the world. The local shrines, temples and pilgrimage routes are also included in the heritage. But the local people were surprised at the UNESCO’s decision and felt somewhat placed out of the process of the registration. The purpose of this paper is to reconsider concept of‘‘culture,” focusing on the discussions over the world heritage」Kumano Koゴo. キーワード:世界遺産,文化的景観,熊野古道,語り部,文化の言説 Keywords:The World Heritage, Cultural Landscape, Kumano Kodo, Storytellers, Discourse of Cultureは じめに
人類学者の門田岳久[2008]によれば,近年人類学でも文化遺産研究が増加しっっ あるという。その理由は,単に人類学者の調査地に世界遺産指定地が増加しているか らではなく,人々の居住域や生活領域へ政策が介入し,場合によって様々な軋礫を生 むようになった時代状況が,人や社会との関係性の中で遺産を考察するアプローチを 要請するからだと説明する。 *白山人類学研究会会員;Hakusan Society of Anthropology, Toyo University,5-28-20, Bunkyo, Tokyo,112・8606/yasumasa201@yahoo.co.jp2004(平成16)年7月,「紀伊山地の霊場と参詣道」がユネスコの世界遺産に登録 されたことで,国内外を問わず熊野の文化遺産や景観が一躍脚光を浴びることとなる。 しかし,地元住民は国内でもそれまであまり顧みられることがなかった社寺や参詣道 が世界的にその価値を認められたことに驚き,ある意味では違和感さえ覚えたようだ 1)。 このことは,今までの国民や住民が思っていた,あるいは感じていた「文化」の概 念がグローバルスタンダードによる「文化」への評価によって,変わってきているこ とが影響している。1992年に世界文化遺産に組み込まれた文化的景観の概念は,それ まで世界遺産条約のなかで考えられていた「文化」の枠組みを展開し,拡大すること となった。これは,「文化」の真正性(authenticity)が世界的な文脈で見直されてき た結果である。 菊地暁[2007]は,文化遺産を評価するさいに用いる真正性(authenticity)は, 西欧の「石の文化」には妥当しても,アジアの「木の文化」の評価には不向きな尺度 だったとし,世界遺産の西欧中心主義を克服する過程で浮上したのが文化的景観とい う概念であるという。また,この概念はさらに「デザインされた景観」「有機的に進化 してきた景観」「関連する景観」に下位区分され,「関連する景観」の概念にいたって は,人の手が全く入っていない状態でも,それがその土地における信仰や芸術が介在 した結果であるならば,遺産として認定しうる。このように遺産概念が「多文化」化 した結果,従来の西欧中心主義的な概念においては遺産と見なされなかったさまざま な遺産が世界遺産の枠内に取り込まれるようになったと述べている。 このように世界的な文脈で「文化」の概念が見直された結果,道としての機能をほ とんど保持していないどころか姿かたちすら認められなかった箇所も含め,熊野古道 は文化的景観「関連する景観」のカテゴリーで世界文化遺産として登録された。しか し,当然のことながら,世界遺産の登録は当該地域に望ましい結果ばかりをもたらす わけではない。世界遺産について出版された本やテレビ番組は多数あるが,概ね基本 的に世界遺産を褒め称える立場に立っか,頭からその存在のいかがわしさやあやしさ に対して声高に警鐘を鳴らすようなものが多く,実際の事例における地元住民の声が あまり反映されていない。 では,実のところ,世界遺産を保有する地域で生活している人々,また,遺産を担 っている人々にとって世界遺産とはどういった意味をもち,熊野古道の価値をどのよ うに捉えて行動しているのだろうか。もちろん,その存在は確実に知っているであろ うが,実際はどういった動機で自分たちが世界に通用する文化遺産を保持し,そのこ とに誇りや生きがいを見出しているのだろうか。 本稿ではこうした問題意識から,熊野古道が世界遺産登録に至る遺産化の過程を地 元レベルでの多声性や複雑性に考慮しながら詳述する。また具体的にどこに熊野古道 1)熊野古道は,文化財保護法によってそれまで何ら文化財としてのお墨付きが得られていない箇所を含 め,世界遺産に登録される直前の2002(平成14)年に突然,中辺路・大辺路・伊勢路・小辺路の一 部,つまり現在世界遺産に指定されているコースを,世界遺産登録を見越して国内法の管理下におく ため,国が主導して戦略的に国指定史跡に指定した。
山本:世界遺産『熊野古道』における「文化」概念の再検討 の「文化」として価値を見出し,どのようにそれが語られ(表象され),利用・流通さ れているかを,行政関係者や地元住民,そして「語り部」と呼ばれる人々に対する聞 き取りを通して明らかにすることを目的とする。 本稿がこうした事象をテーマとして取り上げる背景には,「文化の概念とこれを用い た言説の制度は,それ自体が政治的性格をもつ」[関本1998:37]という「文化の政 治性」の問題が介在している。「それは,この概念と言説の機能が,事物の記述にある のではなく,事物を価値づける視角・主張の提示にあり,常に客観的には決着のつか ぬ論争を潜在させ,多数者の同意を求めるものだ」[関本1998:37]からである。 中村淳[2007]は,戦後日本の文化政策・文化運動にっいて,文化人類学で定義す る広義の「文化」と日本の文化政策のいう「文化」の齪酷を問い,後者の狭義の「文 化」概念の下に,中央に位置する国家によって数次の「文化的地ならし」が行われた 結果,地方ないし地域社会の多様性は失われ,自律性は崩壊させられたと指摘する。 その上で,「伝統文化」を守る主体として地域社会のひとびとを固定的に位置づけ,万 一それに異を唱えるような輩があれば,われわれの豊かな文化(伝統文化)を守るこ とに反旗を翻す蒙昧の徒のレッテルを貼る。そのような歪んだ方向へ突き進んでいか ないために,「文化」に対する相対的な視点やホーリスティックな考え方,現実に対す る批判的思考力をもたらす「文化人類学的〈知〉」はなにがしかの貢献ができるので はないかと説いている。 本稿はそうした趣旨に沿って作成されており,世界遺産「熊野古道」の「文化」概 念を検討することによって,その一助になることを願うものである。
1 世界遺産条約と文化的景観
先に熊野古道における「文化」について,本稿では分析・考察の対象としていくこ とを述べたが,この章ではそうした「文化」を規定する,現在最も権威ある機構と思 われるユネスコの世界遺産条約について言及する。また,菊地[2007]が指摘した世 界遺産条約における「文化的景観」概念の導入の経緯についても詳しく論じていく。 世界遺産条約は,文化遺産および自然遺産を人類全体のための世界の遺産として保 護するため,国際的な協力援助の体制が確立することを目的としており,前文では, 「顕著な普遍的な価値を有する文化遺産および自然遺産の保護に参加することが,国 際社会全体の任務である」[社団法人日本ユネスコ協会連盟(HP)]としている。 日本は冷戦終結後(1989年)に国家政策としてのく文化外交〉によって世界遺産条 約を批准(1992年)し締約国になったが,日本の文化財を世界遺産リストにあげてい く段階でさまざまな問題が起こった。いわゆる「石造建築遺跡文化圏」に基づいた西 欧中心の理解による世界遺産登録基準では,「木造建築遺跡文化圏」の遺跡に適合しな いことがあるという事実が表面化した。日本の世界遺産条約批准は,木造建築を理解 するためには,その国の文化にっいての背景と,宗教的儀式,建築方法と伝統につい ての解釈を必要とすることを提起したのである。さらに,「文化的景観」の再解釈の必 要性を提起することにもなった。日本の問題提起は奈良ドキュメント(1994年)とし て採択,勧告された。この結果,アジアやアフリカを含めた文化の多様性が世界遺産リストに反映されることとなった[細田2004]。 こうした背景を踏まえて,ユネスコはグローバル・ストラテジー2)の採択によって, ヨーロッパと非ヨーロッパ文化地域の不均衡是正を試みた。1994年に,産業遺産(人 類の科学技術の発展を例証するもの),20世紀の建築(新しい時代の遺産の代表),文 化的景観(文化と自然の中間的存在/人類と地球との共生)という三つのカテゴリー が文化遺産の枠組みの中に新たに設けられた。このことは,西欧中心主義の是正を目 指す上での,文化の普遍性から多様性・個別性への評価基準の移行を意味する[細田 2004]。 また,文化的景観のなかには,「信仰の山」と呼ばれる概念が存在するが,これは先 に菊地[2007]が指摘した文化的景観を下位区分した「関連する景観」に該当する。 世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」登録に当たっての推薦文の記述には文化的景観 「信仰の山」の側面が強調されている。また,この概念は「アジア・太平洋地域にお ける信仰の山の文化的景観専門家会議」3)において提起されたもので,会議(以下本 稿では,「信仰の山会議」と表記する)は登録に先立ち2001(平成13)年9月5~10 日に和歌山県和歌山市において開催された。 このように政治的な流れを受けて成立した概念である「信仰の山」の在り方は,文 化的景観と同じく地域の多様性を示すものである。しかし宗田好史[2001]は,「『信 仰の山』は,現代からある程度距離を置き過去をみる歴史的視点に立ち,信仰を客観 視する主に先進国のものではないか」[宗田2001:8]と指摘する。「未だに山を信仰 の対象とし,客観的に山を過去の歴史的対象としてみなさない人々もいる。伝統的地 域共同体に生きる『信仰の山』を遺産化することには,国家的・国際的には意味があ っても,地域での受け止め方は異なるだろう。また,山の物的環境が保全できても, 共同体に暮らす人々の心の信仰を守ることもその逆もできない」[宗田2001:8]と訴 える。 このような問題が生じてくる背景には,日本と西欧とで文化の捉え方にずれがある ことが伺える。具体的に文化的景観の保護をめぐって言及すると,日本における文化 財保護法と世界遺産条約の間には若干のずれが存在する。1992年の第16回世界遺産 委員会で世界遺産の範疇に新しく追加された「文化的景観」という概念の枠組みは, 2004年に行われた文化財保護法の改正で,日本の文化財保護制度に導入された[才津 2007]。 本中眞[2005]は,世界遺産における文化的景観は非常に広い範囲におよび,一方 日本の文化財保護法は生活・生業,及び当該地域に限定されているため,「紀伊山地の 霊場と参詣道」は,日本の文化的景観の保護制度には合致しないと述べている。この ことは,価値の評価が遺産の性格上,その地域の文化的文脈のなかで論じられるのが ふさわしいとされている世界遺産条約における文化的景観導入の目的からいうと大き く矛盾している。 2)「グローバル・ストラテジー」は,文化と自然遺産の数的不均衡,地理的分布の不均衡,遺産種別の不 均衡の三つの不均衡を是正するために採択された。 3)会議はユネスコ世界遺産センター一.,文化庁及び和歌山県の主催で開催された。
山本:世界遺産『熊野古道』における「文化」概念の再検討 また,保護制度で大きく異なっているのが,世界遺産条約に設定されている「緩衝 地帯(buffer zone:バッファゾーン)」という文化遺産と一体の価値を有する周辺地 域の保全に対する考え方である。ここには,文化的景観が国内的には導入されるまで 保護の対象として十分に考慮されておらず,緩衝地帯の保全についても予算上の限界 があるといった背景が伺える[大木2002]。なお,バッファゾーンと対になる概念と して「核心地域(core zone:コアゾーン)」があり,本研究では重要な概念でもある ので,これについては後述する。 このように「信仰の山」の概念は,現時点においては非常に曖昧かっ恣意的なもの でもあり,各地方自治体の解釈によって,世界遺産条約における文化的景観の保護・ 規制の在り方が定められざるをえないことが伺える。
II 「文化遺産」としての熊野古道
この章では,主に調査対象としての「紀伊山地の霊場と参詣道」の特色と,資産全 体における熊野古道の位置づけを明らかにするとともに,熊野古道が世界遺産に登録 されるまでの一連の流れと文化遺産としての制度上の問題も合わせて紹介する。 2004(平成16)年7月7日,ユネスコの第28回世界遺産委員会(中国・蘇州)に おいて「紀伊山地の霊場と参詣道」が文化遺産として「世界遺産一覧表」に記載され た。日本では12件目,文化遺産としては10件目の世界遺産として登録されたのだが, その特色は文化的景観を前面に押し出したことにある。推薦当初の資産名「紀伊山地 の霊場と参詣道および周囲の文化的景観」が示すように,「信仰に関連する文化的景観」 の比重が高いことが最大の特徴である[奈良・三重・和歌山県教育委員会2005]。 「紀伊山地の霊場と参詣道」として,世界遺産(ユネスコの文化遺産)に登録され ている文化遺産をリスト化すると,具体的には,遺跡である霊場(吉野・大峯,熊野 三山4),高野山),遺跡と景観として参詣道(大峯奥駈道,熊野参詣道,高野山町石道), 文化的景観(山,森,川,滝,温泉,田園,町並など)がある。 しかしこの遺跡や景観,そして文化的景観の範疇分類はあくまで遺産種別としての ものであり,実際は遺跡から見える範囲の全ての景観が文化的景観として登録されて いる。つまり,遺産種別は日本の文化財保護法による分類で,世界遺産としては遺産 全体が文化的景観として登録されたのである[石田2005]。そのため日本の世界遺産 の中では最も広大な地域をカバーすることになった。 続いて,文化庁発行の月刊文化財『特集 世界遺産』[奈良・三重・和歌山県教育委 員会2005]を参考に,熊野古道の資産内容にっいて紹介する。まず,最初に断って おきたいのは,熊野古道とは霊場「熊野三山」に至る参詣道の通称で,一般的に広く 出回った言い回しであるが,正式名称は「熊野参詣道」で,時代や場所によっては, 熊野道,熊野街道,熊野路などと呼ばれた(本稿では,熊野古道と統一して表記する)。 「熊野三山」は,紀伊半島南東部に位置するため,参詣者の出発地の目的に応じて 複数の経路が開かれた。その第一は紀伊山地の西岸を通行するもので,途中,二本に 4)熊野三山とは,熊野本宮大社・熊野那智大社・熊野速玉大社の三社の総称である。、
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大峯輿駈遠 図1 「紀伊山地の霊場と参詣道」(出典:和歌山県世界遺産センターHP) 分岐し,山中を通る「中辺路」と,海岸を通る「大辺路」となる。第二の経路は,紀 伊半島東岸を通り伊勢神宮と「熊野三山」を結ぶ「伊勢路」である。そして第三の経 路は,紀伊半島中央部を通り,霊場「高野山」と「熊野三山」を結ぶ「小辺路」であ る。これらの参詣道は,近世には「熊野三山」への参詣をも含む西国巡礼の経路とな り,盛んに利用された。 次に,熊野古道の世界遺産登録に向けた行政の取り組みについては,和歌山県が高 野・熊野地域を対象として,2000(平成12)年4月1日に教育委員会に世界遺産登 録推進室を設置したことにはじまる。その後,同年6月7日に和歌山県世界遺産登録 推進協議会を,6月14日には和歌山県世界遺産登録推進本部を設置するなど,和歌山 県は世界遺産の登録のための準備を順次整えていった。 ところで,行政が主体となって熊野古道に対して取り組んだ最も古い時期のイベン トとして,1990(平成2)年に和歌山・三重・奈良の三県で行われた「古道ピア」が ある。このイベントの開催をきっかけとして,後に三県では同時期に長期間,広域に山本;世界遺産『熊野古道』における「文化」概念の再検討 有1歌山眼 奈 県 虞 古道ピア 1990年 高野山世界遺産 登録委員会、1995 年始動 1997年 市民団体・ 1999年、熊野三 熊古、発足 山協議会、世界遺 産登録へ向けて 始動 1999年、三県合同の?f政主導による1主民参加型体験イペントの開催 南紀熊野体験博 吉野魅惑体験フェスティバル 東紀州体験フェスタ 4月~9月 5月~8月 4月~11月 和歌山県が高野・熊野地域を 対象として、2000年、教育委 員会に世界遺産登録推進室を 設置 三県合間で、文化庁による国の暫定リストへ 「紀伊山地の霊場と参詣道」の掲載が決定する. 2000年11月 図2 世界遺産登録に関連する熊野古道を活用した主な出来事(筆者作成) わたり,熊野古道を用いた大規模な体験型参加イベント(和歌山県南紀熊野体験博, 奈良県吉野魅惑体験フェスティバル,三重県東紀州体験フェスタ)が催された。 こうした催しの特徴は,今までのようないわゆる箱物のアリーナの中で行われるの ではなく,オープンエリア型地方博覧会として,地元ボランティアを巻き込んで,主 体的な地域づくりの一環として行われた点であった。そこでは大小様々なイベントが 行われ,中でも熊野古道はイベントのハイライトとして,三県連携のリレーイベント に組み込まれ,人気を博した。 このように行政が主催した体験型イベントに熊野古道が用いられることによって, 世界遺産登録に向けた地元の機運は次第に高まっていったと考えられる。その一方で,
イベント開催よりも早くから和歌山県内の各地では,世界遺産登録に向けた運動(図 2参照)が行われていたことが確認できる[神田・小野田2005]。 こうした和歌山県における一連の活動が引き金となって,南紀熊野体験博後,冒頭 で述べたように和歌山県において行政として最初に世界遺産登録が考えられるように なった。その後,2000(平成12)年11月には,国の世界遺産暫定リストに奈良県と 三重県も含めた「紀伊山地の霊場と参詣道」を記載することが,文化庁によって決定 される。翌年の2001(平成13)年には同様にユネスコ世界遺産暫定リストに記載さ れ,和歌山,奈良,三重県による「世界遺産登録推進三県協議会」が発足,さらに和 歌山県と文化庁及びユネスコ世界遺産センターの共催によって,「信仰の山会議」が和 歌山市内で開催される。そして,2003(平成15)年,国からユネスコ世界遺産セン ターに対して推薦書が送付され,「イコモス(International Council on Monuments and Sites:国際記念物遺跡会議)」による調査のすえに,2004(平成16)年の第28 回世界遺産委員会によって,「紀伊山地の霊場と参詣道」の世界遺産登録が決定した。 熊野古道の保護に関する取り決めは,世界遺産条約の基本精神に則るが,文化遺産 の核になる部分(core zone)は,文化財保護法によって保護されている。また,前述 のように世界遺産の候補の選出もユネスコによって直接行われるのではなく,基本的 には文化財保護法の範囲内で行われる。世界遺産になるには国内法規で管理されてい ることが前提となっており,基本的には国レベルでの文化財でなければ世界遺産に推 薦されることはない[才津2007]。 このことは,世界遺産条約における文化的景観の保護・規制のための条例よりも, 以下に挙げる国内法における保護・規制の方が制度上優位にあるといった状況に結び ついていると考えられる。文化的景観をめぐる世界遺産条約と文化財保護法の大きな 違いは,前者が緩衝地帯を設けているのに対し,文化財保護法には組み込まれていな いところにある。 日本の文化財保護法は,中心となる史跡を守る保全のための法律で,「現状変更の制 限」,「管理団体の指定」,「管理団体の責務」の三つを定めている。それ以外にも,周 辺環境を総合的に守るために,保全のための条例や法律5)がある。なお,条例は規制 を伴う強制力を持たず,どちらかというと行政が中心となって定めた住民に対する勧 告としての性格が強い。名称は地域ごと,行政レベルごとに異なるが,内容自体はそ れぞれの地域の状況に応じて多少の差があるものの,特別な違いは見られない。 世界遺産の直接指定対象として厳格に保護される地域を核心地域と呼ぶが,熊野古 道の場合は道の部分がこれに該当する。先に触れた通り,文化遺産の核心地域は,文 化財保護法により史跡などに指定され,国が保護する姿勢を明確にする必要がある。 しかし登録されている範囲があまりにも広大であるため,実際には該当市町村が管理 団体とならざるをえないのが現状である。 緩衝地帯は核心地域の周囲に設けられた利用制限区域で,道の両端50メートルの 範囲がこれに当たる。緩衝地帯は,関係市町の条例や自然公園法・河川法等で守られ ているが,地域によってその捉え方はまちまちである。例えば,伊勢路周辺の緩衝地 5)景観法・自然公園法・森林法・河川法・湾岸法等がある。
山本:世界遺産『熊野古道』における「文化」概念の再検討 帯の保全では,関係市町の職員は,「そこの土地所有者が所定の様式に則って,緩衝地 帯指定区域の施行計画書を提出してくれさえすれば,よほどのことがない限り現状変 更を制限することはない」と話す。熊野古道として世界遺産に登録されているコース のほとんどが山の中を通っていることから,そうした処置が取られる必要性が生じる。 つまり遺産の周囲が木々に覆われているということは,下草を刈ったり,定期的に伐 採し日光を取り入れたりするなどの手入れを施さなければ,必ずしも良好な状態を保 つことはできないのである。 なお,広大な範囲を有する資産のうち,一っでも当初指定された資産が登録から外 されるようなことがあれば,資産全体が「危機にさらされている世界遺産」6)に登録 されてしまう。したがって,現在の遺産を如何に良好な状態に保ちながら保護できき るか,また,遺産保護に対する該当地域周辺の住民たちの理解や協力といった良好な 関係が築けるかが,管理団体である地元自治体の重要な課題といえよう。 III 熊野古道の再発見 この章では,前章で熊野古道の大まかな概要を把握したことを受けて,よりミクロ な次元で,熊野古道がどのようにその価値を見出されてきたかを明らかにする。 大正時代に徒歩による熊野詣が実質的に終わりを告げた後,最初に熊野古道の価値 が再発見されたのは,中辺路における知識人や宗教関係者たちの活動7)を通じてであ った。その後,行政関係者の取り組みや国による歴史の道や文化財としての位置付け などによって熊野古道は,現代において世界共通の財産として登録されるまでになっ た。 しかし,ここで強調しておきたいのは,そうした時代的な変遷を辿って,熊野古道 が世界遺産になるまでの間には,地元行政関係者を始めとした地域社会の地道で継続 的な活動という過程があったことである。そこには実態としての地域社会が形骸化し, 住民同士のネットワークが希薄になりつつある現代において,なんとか地域のアイデ ンティティや特色を維持したいという共通した意図があると考えられる。 紀伊半島を南北に分断するかたちで,山間を通っている和歌山県・中辺路の歴史的 価値を正式に認めたのは国であり,1977(昭和52)年の歴史の道の指定がその後の 中辺路の整備をめぐる一連の取り組みに大きな影響力を持ったことは間違いない。国 による文化財としてのお墨付きが得られなければ,生活道としての移動や木材の運び 出しのために利用していただけの単なる忘れられた道にすぎなかっただろう。それが 実は歴史的に価値があり,世界的にも普遍的な価値を有すると認められることになろ うとは,歴史の道の指定まで誰も思い及ばなかった。 その後,中辺路は歴史の道事業によって約10年かけて区間の調査と整備が進めら れ,埋もれた道が発見されていった。崩れた箇所を補修し,川に橋を架けるなどの復 6)世界遺産は6年ごとに保全状況を報告し,見直しの審査を受けることになっている。 7)この論考では取り上げていないが,歴史的視点からいえば熊野地方における市町村史等の編纂事業 も『熊野古道』のみならず,『熊野』の再発見に果たした役割は決して少なくなかったと思われる。
元事業が行われて,1987年に国の史跡に指定されることが答申された。この時,中辺 路町の教育委員会と文化財審議委員会が,中辺路のルートを特定する際,利便性・安 全性を考慮に入れすぎたため,本来のコースと違うところを指定したという話がある。 和歌山大学名誉教授・小山靖憲の『熊野古道』[2000]では,中辺路において本来の コースとは違う箇所が存在することが詳細に述べられている。 NPO法人・漂探古道理事長の木下幸文8)は,1978(昭和53)年に「熊野古道史探 会」を結成し,それから熊野古道中辺路を歩くだけでなく,地域で歴史の勉強や道の 保全といった活動に取り組んできた。木下によれば,現在,地元観光協会や教育委員 会が主体となって古道に標識を建てているが,1985(昭和60)年頃に当時の史探会 が独自に標識を建てようとしたところ,どの行政機関からも相手にされなかったとい う。仕方なく木下が当時の中辺路町長の推薦(払下申請書)を取り付け,知り合いの 関西電力庶務課長に協力を要請し,入札制度を通して古い電柱をもらってきた。それ に自分達で白いペンキを塗って,赤いペンキで熊野古道と書いた標識を作って,1985 (昭和60)年頃に史探会古道に沿って500メートルおきに建てたことがあったよう だ。 一方,三重県の伊勢路においては,東紀州地域活性化事業推進協議会(以下,東紀 州活性化協議会)9)の取り組みによって,本格的に古道の整備・復元が行われてきた という経緯がある。しかし,そこに至るまでの間には,中辺路の熊野古道に対する整 備事業を受けて,行政関係者や教育関係者によって,地元レベルでの地道な活動が行 われてきた。現在も東紀州活性化協議会に携わる三石学[2006]によると,元高校教 員の岡本実教諭をはじめとした歴史同好会のメンバーが,中辺路が歴史の道整備事業 で脚光を浴びていた頃から,多くがまだ埋もれていた伊勢路の発掘に携わるようにな った。草を刈り,立木を切り,石畳の上に積もった土を取り除く日々がそれから25 年間続いたとしている。 また,現在紀北町教育委員会教育長で,当時みえ熊野学研究会運営委員長として伊 勢路の世界遺産登録に携わった小倉肇[2008]によると,東紀州活性化事業の熊野古 道に対する取り組みには,関係各市町村から出向していた市町村職員の大変な苦労と 献身的な努力があったという。これは,伊勢路においては文化庁による歴史の道整備 事業の援助を受けたコースが,中辺路に比べて非常に限定されたことも影響している。 そこに,地元住民たちの個人的な取り組みも重なって,伊勢路周辺地域における熊野 古道に対する取り組みは多方面に広がりを持って地域に浸透していった。 現在,三木・羽後峠の保存会「ルーパーの会」代表で元自営業の大川善士10)は,定 年後,他所から来た人に自慢できる地域の宝探しをしたいという思いを持つようにな ったという。大川は,自分がまだ子供だった頃は,海や川が今よりずっときれいで, 魚が一杯いて,豊かな自然に囲まれて暮らしていたが,リゾート開発や採石会社によ 8)2008(平成20)年11月16日聞き取り調査時,83歳,男性。 9)過疎・高齢化といった課題を抱えた三重県東紀州地域の活性化を図るため,1994(平成6)年に県 が指針を示して関係8市町村(当時の紀伊長島町,海山町,尾鷲市,熊野市,御浜町,紀宝町,紀 和町,鵜殿村)で構成された。 10)2008(平成20)年3月19日聞き取り調査時,72歳,男性。
山本:世界遺産『熊野古道』における「文化」概念の再検討 る廃水の影響で,昔ほど自慢できる自然は残されていないと感じていた。 そんな折,1993(平成5)年の正月,台風が来た後の近所の山の中で,偶然,「熊 野旧街道」と書かれた標識を見つける。台風が来たことによって埋もれていた古道の 一部が現出し,そこが子供だった頃の遊び場であり,生活の場でもあった昔からの記 憶が甦った。 直感的に地域の宝を発見したと思った大川は,その年に埋もれていた道の一部を一 人で掘り起こし,整備を行う。その後はルート探しをするため,森の中で一人,シダ を刈ったり,道を掘り起こしたりしていた。ところがその姿を近所の人に見られてし まい,噂になり,陰口まで叩かれるようになってしまう。結局,一時中断した時期を 挟んで,1997(平成9)年に環境省によって,「近畿自然歩道」の路線に決定される まで,全長4.9キロメートルの曽根崎次郎坂太郎坂のルートの特定と整備の行程を全 て一人で行った。大川によると,「指定された時は,勝ったと思った」。同時に,「これ でやっと道は保全される,地道な努力が報われた」という気持ちもあったと振り返る。 ところで,1994(平成6)年10月に朝日新聞創刊115周年記念イベントとして, 日本歩け歩け協会が主催した「平成の熊野詣」では,約450人が京都から名古屋まで の約650キロメートルを何回かに分けて歩いた。その時,伊勢路・八鬼山越えのコー スを案内した大川は,ある参加者から熊野古道が一部整備されていない関係で,全て のコースを歩けなかったことが非常に残念だと聞かされる。そのことが,以後の大川 の活動のモチベーション支える重要な要素の一っになったようだ。 「近畿自然歩道」登録後も彼の活動は続き,世界遺産に登録される2004(平成16) 年に,全長5.7キロメートルの三木峠から羽後峠までのコースを完成させた。現在で は曽根崎次郎坂太郎坂とともに世界遺産のコースに指定されている。 NPO法人・紀北くまのみち主催の川端守11)の話では,大川と同時期に行政の呼び かけでもなく自主的に伊勢路の掘り起こしを始めた人は,他にも十名前後に上り, 2000年の東紀州体験フェスタ開催時には,現在世界遺産に登録されているだいたいの コースの掘り起こしができていたらしい。川端は,そうした活動の動機について,「危 機意識のようなものというよりは,埋もれているものを掘り起こしたいという気持ち があった」という。それは,「外部からきた人に対してせっかく来てくれるのに,自分 たちの古道が荒れているのは恥ずかしいという気持ちであり,記憶の中に熊野古道の 風景があった」と述べている。 伊勢路ではこれまで一部に過激な登録反対運動12)が巻き起こったり,塚本明[2008], 三重大学教授によって,伊勢路の熊野信仰説に疑問符が投げかけられたりするなど, 何かと注目が集まることが多かった印象を受ける。しかし,それだけ三重県東紀州地 域においては,良くも悪くも地域社会の中で,熊野古道に対する意識が高まっている という指摘もできるだろう。 11)2008(平成20)年3月18日聞き取り調査時,67歳,男性。 12)2002(平成20)年に尾鷲市が熊野古道の市道と国の史跡への追加指定を世界遺産への登録という 目的から法律論だけを頼りに所有問題を留保したまま手続きを急いだため,地元林業関係者の二人 によって反対運動が展開され,未だに収束していない[大野2008]e
表1 「歴史の道」事業の流れ 年代 1977 1978 1981 1982 戸0(b
88
0V9
11
1989 (中略) 1998 2001 2002 2003 和歌山県 中辺路が指定を受ける。 和歌山県全域の調査(1978 年度のみ)と旧中辺路・旧本 宮・旧熊野川町での整備 那智勝浦町の中辺路の整備旧本宮町の小辺路・伊勢
‡
路・大峯奥駈道の整備 三重県 三重県全域の伊勢路の調査 尾鷲市と海山町で整備 奈良県1999年に整備
活用計画作成 →ー▼.→ー-▼奈良県全域
の調査奈良県全域
の整備 (尾鷲市教育委員会2004;尾鷲市教育委員会・海山町教育委員会1999;熊野川町教育委員会1983; 田辺市教育委員会1990;中辺路町教育委員会1983;那智勝浦町教育委員会1986;本宮町教育委 員会1983,2003;三重県教育委員会1981;和歌山県教育委員会1979を基に筆者作成) 最後に奈良県の小辺路については,文化庁による歴史の道事業の調査によって,村 役場に残されていた公図を参考に,専門家が初めて書類上のルートを特定し,その後 の整備事業によって正式に古道となった。その際,大峯奥駈道は修行者が歩くだけの 修行の道であるため特に手入れはせず,整備されたのはほとんど小辺路であった。十山本:世界遺産『熊野古道』における「文化」概念の再検討 津川村教育委員会の大野靖史13)によると,「それまで現場には,道らしきものは見当 たらず,面影さえ残っていなかった」という。また,整備の際,「分かれ道等に入らな いように,ルートに道標を建て,崩壊地の整備もした。」そのことによって,小辺路は 新たに発見され,道として甦った側面があるようである。 このように熊野古道の再発見のされ方は地域によって異なっていて,一般的傾向と しては,文化庁による歴史の道関連の国庫補助事業が直接的に大きな役割を果たして きた。しかし,それだけでなく,熊野古道が遺産として広く住民全体に認知されるよ うになる前から,行政関係者や地元知識人らによる地道で継続的な作業が一部で行わ れてきた。こうした取り組みは地域社会に熊野古道の価値を認識させたことや世界的 価値を認めさせるに当たって見落としてはならない重要な側面であると考える。
IV 熊野古道における「語り部」たち
前章では,熊野古道やその価値がどのように再発見されてきたか,そしてその価値 がどのような主体によって,整備復興されてきたかを,主に地元レベルのミクロな過 程に焦点を当てて論じてきた。次にこの章では,再発見された後の熊野古道の活用の され方について詳しく論じ,その要点を整理して提示したい。また,熊野古道にっい ては,従来は和歌山県側に焦点が当たってきたが,本論文はこれまで余り注目されて こなかった三重県側の動きを中心に論ずることにする。 熊野古道を活用する主体となるのが,語り部と呼ばれる人々である。語り部は熊野 古道を歩く来訪者に同行しながらその歴史や意味にっいて多様な解説を行うなど,地 域のことを観光客に伝えることを主要な業務とする。いわゆるガイドとしての性格が 基本となっており,関係する行政もそのことを期待して育成,組織化を進めてきた。 熊野古道の語り部たちの特徴として,比較的長い距離を案内することから,決まり きったガイドの仕方があるわけではなく,生きがいや仲間づくりを目的として活動し ている人々が多いことがいえる。もちろん,一部の語り部たちの中には,副収入とし ては十分すぎるほどの収入を上げた事例もあるようだが,一般的傾向としてはほとん どの語り部たちが現金収入だけを目当てに活動しているわけではない。 また,地域によって違いがあるものの語り部として観光ガイドだけに取り組んでい るわけではなく,多くの場合,道の保全や清掃,見回りといったガイド活動に付随す る活動も積極的にこなそうとしている。保全活動が現状変更に当たるのでうかつに手 が加えられないという場合を除いて,語り部たちは個人個人がボランティアで積極的 にその役割を果たそうという意欲が強いという傾向が伺えた。 三重県伊勢路周辺の地域では,「東紀州体験フェスタ」(1999年)が開催された際, 東紀州活性化協議会の主導の下,語り部を一元化した組織の形成が進められてきた。 1999(平成11)年に結成された「熊野古道語り部友の会」は,現在,「熊野古道伊勢 路語り部友の会」(以下,「友の会」)に名称を変え,熊野古道における語り部組織とし ては最大規模の約230人が在籍している。 13)2008(平成20)年11月13日聞き取り調査,男性。副会長の川口有三14)によると,「実際に語り部の会自体が組織として活動を始めた のは,1996(平成8)~1997(平成9)年にかけてで,自分自身は設立当初からのメ ンバーで,1993(平成5)年ぐらいから海山郷土史研究会のメンバーとしても主体的 に活動していた」という。ガイドの養成については,和歌山県のように県が一括して 養成するケースと異なり,元東紀州活性化協議会に所属して活動したメンバーが中心 となって講師役を務めながら行われてきた経緯がある。だいたい2年間で,東紀州地 域の主要な峠のほとんどを実際に歩きながら勉強して,最初に50名前後のガイドを 養成した。 「友の会」はその後も,度々語り部の養成を行っているが,新たに語り部を養成す る際に,講師役を務めるのが,先に語り部認定を受けた者である点にその特徴がある。 ここでは,和歌山県の場合と違い,県が個人を対象に語り部養成を行うのではなく, 語り部の先輩である「友の会」の会員が知識や経験を教えることで,地域社会におけ る横のつながりを強化する役割を果たしたようである。 また,「友の会」会長の花尻薫[2008]によれば,「登録されている230人の語り部 の半数近くは伊勢路において世界遺産に登録された16の峠の保護保存に汗を流すボラ ンティア団体も兼務」している。「語り部活動に加えて世界遺産である熊野古道の保全 に懸命に汗を流しているというのは全国でも数が少ないのではないか」という。 「友の会」の語り部は,世界遺産登録前から活動しているものが多く,特に世界遺 産登録がきっかけとなって語り部になった方は少数である。語り部活動に参加する動 機として川口は,「歴史好き,ハイキング趣味,健康の保持,退職後の人生,町の活性 化,社会に少しでも役に立ちたいなどで,特に町が目に見えて廃れていく状況を何と かしたいという思いが強い」と話す。 川口は続けて,「地元の者は熊野古道の価値をそれほど認めていないと感じる。あま りに身近すぎて自然も景色もいいが何処にでもあるもので,世界遺産であるという実 感が湧かない」と述べている。このことは,東紀州地域で普通に生活している住民の みならず,語り部として「友の会」に所属しているメンバーにとっても同じであると いう。自分たちの思う伊勢路の魅力は,「海と山がおりなす景観,沿道に住む人々の人 情の温かさ,日本の原風景(木造建築物,棚田,墓地など)が残っていること」であ るらしい。 それでは,そんな三重県東紀州地域の語り部たちにとって,自分たちの生活する地 域が世界遺産に登録された価値,すなわち「文化」とは,一般的にどのようなイメー ジで使われているのだろうか。それを解き明かす手がかりとして,「古道文化」と呼ば れる言葉がある。これは,花尻が「東紀州体験フェスタ」の成功に向けて提唱した一 種のスローガンのような要素を持つ言葉で,小倉肇15)は「古道文化とは,昔から育ん できた生活文化を指す」と説明する。みえ熊野学運営委員長も務める小倉は,「峠の中 では,古文書などの記録どおり,昔のままに,地蔵や塚などが残っている場所をいく っも発見した。古道が日常生活と密接に関連している」と考える。 14)2008(平成20)年3月18日聞き取り調査時,65歳,男性。 15)2007(平成19)年9月28日聞き取り調査時,男性。
山本:世界遺産『熊野古道』における「文化」概念の再検討 以上の説明をまとめると,「古道文化」とは,古道の歴史的な重要性を強調するので はなく,あくまでも現在における古道と人との日常生活における関連性という視点か ら生じてきた言葉であることが伺える。伊勢路における峠のなかに,地蔵や塚が残っ ていることも現代の生活のなかに信仰的な要素が残っていると考えるにあたって,重 要な根拠となる。現在では,「古道文化」という言葉は使われていないが,三重県熊野 古道センター16)の2007年のパンフレットには,「人と道 ここで ここに ここから」 「生きつづける“道”の文化を伝えたい」といったフレーズが使われている。つまり, 「古道文化」は東紀州地域の熊野古道の特徴を最大限活かすことを目的として使われ た側面が指摘できるだろう。 ところで,先に述べたように,語り部たちのなかの一部には,観光化を意識して行 動する人々も存在している。世界遺産に登録された熊野古道周辺地域において古道目 当ての観光客が最も多く訪れるのは中辺路である。熊野古道のイメージを喚起させる 最大の要因は,熊野三山を目指して上皇たちが通った中世の熊野詣にあると思われる が,そのメインルートが中辺路であり,これは和歌山県だけを通っている。また,熊 野三山や那智の滝,湯の峰温泉といった世界遺産に登録されている主要な文化遺産の 多くが和歌山県に集中していることも中辺路人気に拍車をかけている。 2008年に九州から熊野古道のウォークツアーを組んだ旅行会社の人の話17)では, 「熊野古道といってもやはりいろいろなタイプがあるので,どのコースを歩くか迷っ たが,決め手になったのはやはり,実際に貴族や上皇たちが列を成して歩いた歴史を 追体験できる側面」であるようである。三重県や奈良県にある伊勢路や小辺路,それ に和歌山県の大辺路といったコースは中辺路ほど注目されず,観光目的というよりは どちらかというと地域活性化や過疎からの自立・脱却という目的で焦点が当てられて いるといえるだろう。 だが,熊野古道全体のイメージとして中世の熊野詣がピックアップされることによ って,当然観光客の関心は中辺路周辺地域に集中する。その一方で,伊勢路や小辺路, それに大辺路といったコースは観光客の興味関心の中心から外れて,対象外としての 周縁へと追いやられてしまう。 では,観光客の興味関心の中心から外れたと考えられる,伊勢路や小辺路周辺地域 は中辺路周辺地域に比べて世界遺産の利益を享受できないかというと,決してそうで はない。これらの地域は,こうした一見不利だと思われる状況を逆手にとって,それ ぞれの地域の文脈に応じた政策を取ることによって乗り越えようとしている。その具 体的な側面を見ていくうえで参考になるのが,それぞれの地域で活動する語り部たち の「文化」をめぐる言説である。 例えば,和歌山県田辺市本宮町の語り部で観光カリスマ百選に選ばれた坂本勲生18) は,「そこに住む生活・景色全てが文化であり,今後に残していくべきもの」としたう 16)三重県が建設した施設で,東紀州地域の情報,中でも熊野古道やその周辺の自然,歴史,文化に 関する情報を収集し,地域社会の情報を中心に紹介している。 17)2008年11月15日にインタビューを行った。 18)2008年3月25日聞き取り調査時,80歳,男性。
えで,「文化遺産とは歴史を知るための遺産」といった言い方もしていた。この時,使 われている歴史とは旅行会社の人が述べているように,貴族や上皇たちが歩いた,教 科書に出てくるような国民が共有できる国家の歴史である。このことは,田辺市中辺 路町における「熊野古道中辺路語り部の会」会長の北本19)が,「旧中辺路町のほとん どの語り部がルートの真正性について疑問を感じている」というように,熊野参詣の 歴史的事実が語り部共通の関心事であることからも伺える。 これに対して三重県東紀州地域に見られた「古道文化」という言葉は,あくまで今, その地域で生活している人の視点から生じてきた言葉であり,確かに歴史的な重要性 も含んだものだが,中辺路の場合とは明らかに異なっている。それは熊野古道であり ながら,伊勢路周辺地域の祭りは熊野信仰ではなく,通行者の多くが地元尾鷲ひのき を中心とした林業関係者か近世流行した西国三十三所観音巡礼を目的とした旅人だっ たことからも伺える。っまり東紀州地域における語り部たちの意識上の歴史とは,熊 野信仰の文脈ではなく,自分たち自身の記憶のなかの風景であり,地域のなかで前向 きに生きるための地域の歴史である。 また,奈良県においては小辺路ルートの特定が文化庁の世界遺産暫定リストに掲載 された後で正式に成されたという事情があり,以前は道らしき面影すら残されていな い箇所も存在した。十津川村教育委員会の大野は,「地元の小辺路の認識は,大阪に出 るための最短のしかし険しい道」であり,「生活を成り立たせるための行商者の通行が 多かった」という。「明治時代に村から北海道移住者が小辺路を歩いて神戸の港まで行 った」ことや「徴兵検査の際,若者たちが利用した」こともしばしば語られてきた。 しかし信仰上の話に限ると,中辺路や伊勢路に比べて目立った記述はあまり見当たら ない。そこで十津川村を拠点とした語り部たちは,熊野古道とは別に,同じく世界遺 産に登録されている大峯奥駈道の靡(なびき)20)と呼ばれる修験者の行場と厳しい自 然環境を強調して,人生の通過点という宗教的側面を含んだ付加価値を創り出した。 以上をまとめると,語り部たちの意識と行動から熊野古道における「文化」の言説 に差異がみられ,それぞれの地域の文脈と政策との融合の過程で,それらの言説が出 回っていると考えられる。また,語り部が話す内容などから具体的に熊野古道におけ る「文化」を表象するものとして,中辺路周辺地域では王子21),伊勢路周辺地域では 地蔵や塚,小辺路周辺地域では靡といったように,熊野古道(もしくは大峯奥駈道) の中にある信仰的要素を含んだ対象物に焦点が当てられている。文化的景観「信仰の 山」として登録された熊野古道の信仰的側面は,山の中にあるこれらのものを根拠と して,語り部たちにとっての「文化」を遺産としてリアリティーあるものにしている。 19)2008年3月27日聞き取り調査時,56歳,男性。 20)靡とは,大峯奥駈道の75箇所の拝所で,修験者は礼拝や勤行を行う。 21)杉中[1998]によると,紀伊路から中辺路を通る熊野参詣道の沿道に熊野の分祀社である王子という 小社が設けられた。これらは合せて百社近くなり,総称して熊野九十九王子といわれる。
山本:世界遺産『熊野古道』における「文化」概念の再検討
V 熊野古道の担い手たち
前章では熊野古道がいかに活用されてきたか,活用の担い手である「語り部」たち の意識と行動を中心に論じてきた。この章では,それらを踏まえたうえで,いかに熊 野古道が保全されているかを概観する。前章でも触れたが,保全における「語り部」 たちの果たす役割は,地域の文脈に応じてまちまちであった。ここでは,主に保全の 主体である住民や地元企業の取り組みや傾向を中心に論じることにする。 熊野古道の保全にっいて,和歌山・三重・奈良県の各県の保全の在り方や体制の仕 組みについて聞き取りを中心に得られたデータを整理すると,「文化」の言説と同じよ うに,三県それぞれに背景となる事情が異なっていて,それに応じた形で熊野古道の 保全が展開されていることがわかる。 和歌山県は,熊野古道のほとんどの道が結集しているという地理的な要素と,熊野 詣に代表される歴史的・宗教的重要性もあってか,一般の地元住民や「語り部」たち に対して行政から正式な形で定期的に保存を依頼しているわけではない。また,世界 遺産に登録される前から道の保全活動を行ってきた団体等は,結果的にその活動が制 限されるといった状況も生じている。そうした状況のなかで県は2006(平成18)年 から始めた世界遺産マスター制度22)や企業(関西電力の労働組合や相生損保の社員 等)による社会貢献活動23)といった独自の施策を講じて,道の保全体制を確立してき た。このことは,登録範囲があまりに広大で地元行政の職員だけでは対応しきれない ことや,林業が盛んな紀伊山地の中を古道が通っているといった周辺環境が影響して いると思われる。 また,世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の登録も三県のなかで和歌山県が最も 早い時期から中心になって推し進めてきた経緯があり,遺産の保全における県行政の 影響力の比重は他の二県と比べてかなり高いことが指摘できる。一方で,民間企業で ある森林組合に,地元行政が唯一委託料を払って管理保存を依頼しており,地域社会 における利害者間関係においても一定の配慮を示した保全体制が形成されている。 和歌山県田辺市における熊野古道・中辺路の保全は,2000(平成12)年に史跡と して国指定文化財になってから,市の教育委員会が指示を出して旧本宮町と旧中辺路 町の森林組合に委託している。森林組合は,2002(平成14)年度から始まった「緑 の雇用」事業の受け皿の役割も果たしていて,古道周辺のエリアを中心に仕事をして いる。教育委員会は,森林組合だけに委託料を支払い,古道周辺の森の手入れも兼ね て保全を行っている。 22)和歌山県世界遺産センターHPの紹介文によると,世界遺産マスターとは,和歌山県限定で「世界遺 産『紀伊山地の霊場と参詣道』の保全と適切な活用を推進するための民間リーダー」と説明してい る。 23)CSRという企業理念に基づいて行われ,企業を取り巻くさまざまなステークホルダー(顧客,株主,従 業員,取引先,地域住民,求職者,投資家など)に対して責任を果たしていくという考え方である。企 業がCSRに取り組む理由には,ブランドイメージの向上や優秀な人材の確保,市場からの評価などが ある。田辺市教育委員会文化振興課の小渕良樹24)によると,「田辺市には中辺路・大辺路・ 伊勢路・大峯奥駈道と世界遺産に登録されているルートの総距離は,60kmにも上り, 行政として月一回のパトロールは行っているもののとても目が行き届かない」という。 そこで,「世界遺産マスター制度を援用し,寄せられた情報をもとに出動するようにし ている。原則として,連絡をくれたマスターには返事をする」と述べている。また, 森林組合への委託料は,県から唯一,援助金として支給される和歌山県世界遺産緊急 保全対策補助金を当てる。民間企業である森林組合だけに委託する理由は,「山仕事全 般を行っており,古道周辺の山の所有者が多い」からだとし,「道の補修を行った後は 森林組合から調査報告を受けている」と説明する。 しかし,具体的な委託料の金額や調査報告書のようなものは公表されておらず,旧 中辺路町の森林組合長25)の話では,「年に2,3回の補修を行う日時ややり方は事前に 決めているわけではなく,時と場合に応じて現場に出てから臨機応変に対処している」 という。また,「補修を終えた後に提出する特定の書類はなく,実施前と実施後の手入 れした現場周辺の写真を撮って,活動した証拠として教育委員会に提出している」と述 べている。さらに彼は続けて,「熊野古道の歴史的重要性は十分認識しているが,この 辺りで生計を立てていくには林業以外他になく,いくら熊野古道が大切だといっても 熊野古道で生活を成り立たせていくことはできない」と語っていた。 確かにこれだけみると,漂探古道理事長の木下が指摘しているように,世界遺産で ある熊野古道保全の活動主体としては不完全な印象がぬぐえない。しかし,熊野古道 は文化的景観として道の両端50メートルの範囲もバッファゾーンとして登録されて おり,森林組合が日頃から仕事をしている活動場所と重なっていることもまた,見逃 してはならない重要なポイントであると考える。 三重県の林業業者・速水林業代表の速水亨[2008]によると,「当初,世界遺産に なったときに,森林問題というのはほとんど顧みられることなく,ある意味で忘れ去 られたまま世界遺産になった,というような状態」と指摘する。速水は続けて,「実は 熊野古道周辺の森林はほとんどが人工林」としたうえで,「地域の森林管理,林業活動 が続いていかなければ,文化的景観の意義26)は失われる」と述べている。また,「現状 の森林を植え替えて自然林に戻す,ということは,文化的景観という考え方を否定す るものだ」ともしたうえで,しかし,「現在の古道周辺の森林は,全く手入れされず暗 いままの森林が散見され,もっと問題なのは,伐ったまま植えられないままになって いる森林がある」ことだと指摘する。彼自身は,「景観的に考えても,人工林は手入れ されて初めて価値が出るものだ」と思っており,「人工林の景観は,その道を管理する 人の気持ちが出てくると思う。そういう意味で,地域の人たちが,森に対してどうい う意識を持っているのかが大切」だと考えている。 以上をまとめると,森林組合の古道の草刈や手入れの仕方は,確かに十分とはいえ 24)2008(平成20)年11月18日聞き取り調査,男性。 25)2008(平成20)年11月18日聞き取り調査,男性。 26)速水氏は,文化的景観について,「基本的に有機的に進化し続けるものととらえればいい」と述べ,「 文化遺産ではあるけれども,単なる文化遺産ではなくて,進化し続けるとなければならない」としている [速水2008]。
山本1世界遺産『熊野古道』における「文化」概念の再検討 ない部分があるかもしれない。しかし,それはあくまで文化遺産のコアゾーンに限っ た話であって,文化的景観の保全という視点から見ると,彼らの理解や協力なくして 保全が十分に成されることはありえない。地域が変化する方向性に対して合意を形成 していくという意味においては,従来のような山の中における自由な活動が制限され たり,古道を仕事目的で使えず不便を強いられたりすることなどを考慮に入れれば, 委託料を払って彼らの理解の促進と協力を要請するという行政が取った選択はむしろ 現実的な側面があるといえるかもしれない。 問題なのは,それで仮に森が守られ,良好な景観や生態系が維持できたとしても, 肝心の熊野古道が道としての機能を失ってしまっては元も子もないということだ。今 後,道の安全性をさらに高めていくためには,世界遺産マスター制度や企業による社 会貢献活動に加えて,一番身近に熊野古道で活動する語り部たちの声や想いも何らか の形で政策に反映させていくことが求められているといえるだろう。 それに対して三重県では,1998(平成10)年に結成された「熊野古道伊勢路語り 部友の会」のメンバーが中心となって,1999(平成11)年に「東紀州体験フェスタ」 が開催される直前から地元住民を巻き込んで道の保全活動が行われてきた。三重県東 紀州地域では,傾向として林業が盛んであった歴史から自分たちの存在と山・峠を一 体として捉えるような心性が育まれており,「東紀州体験フェスタ」が開催された年に 峠毎に一部の地元住民たちによって保存会が形成され,世界遺産登録後も道の保全に 携わっている。 県行政としても「熊野古道アクションプログラム」27)と呼ばれる保全における理念 や計画を,なるべく多くの関係者を含めて策定している。「熊野古道に関心を寄せる 人々が,熊野古道の保全と活用のために自発的に実行するための指針となる計画です」 [三重県熊野古道協働会議2005]とした掲載文が示す通り,あくまで県の主導の下, 伊勢路の保全活動は住民たちの手によって行われていることが伺える。 また,東紀州地域では住民側の立場でも行政側の立場でもない「語り部」たちが, 両者の架け橋となって地域一体で保全活動に取り組んできた経緯がある。こうした語 り部のガイド研修や保全活動を行うための資金を提供する地元企業も存在する。まさ に,語り部が中心となり地域社会が一体となって熊野古道に取り組んでいるといえよ う。伊勢路では一部で反対運動も依然として行われているものの,基本的に管理保存 の観点からは地域社会において住民と行政の協働が比較的良好な形で成されるような 保全体制が築かれているようにみえる。 最後に奈良県についてであるが,こちらは和歌山県や三重県と比べて県が積極的に 道の保全に関与するといった姿勢はあまり見られない。もちろん,全く関与していな いというわけではないが,「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録される以前か ら既に二つの世界遺産が存在するうえに,新たに「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産 群」が2007(平成19)年に世界遺産暫定一覧表に追加されたことからも分かるよう 27)三重県が主導して国土交通省や地域社会における熊野古道に関わる人々,外部から研究者などを 交えて策定したもので,2002(平成15)年度と2005(平成17)年度の2回にわたって,ワークショップ による討論・検討が行われた、
に,県として熊野古道ばかりになかなか目を向けていられないといった事情が読み取 れる。必然的に地元行政としては,予算上の問題などから道の整備・保全に対して積 極的になりづらい部分があり,なるべく手付かずの状態で,歩く人が歩きやすいよう にするといった整備・保存をめぐる基本理念も村役場の人の口からは聞かれた。 小辺路が通っている十津川村では,各地区の代表者に委託料を払って保全するなど, 特別な道の保全体制が整っているとはいえない。しかし,その分,官民一体で企画し た道普請28)を組み込んだ2006(平成18)年の「なびきツアー」が好評を博したり, 全国から観光客が訪れるようになったりしたことで,おもてなしの精神が徐々に育ま れた地区もあり,世界遺産による地域の見直しといった機運も生じている。 以上から,熊野古道の保全をめぐる手法や体制の在り方は,それぞれの自治体によ って大きく異なっていることがわかった。その違いもまた,それぞれの地域の文脈と 政策との融合の結果とみることができる。
おわりに
本論文では,熊野古道が世界遺産登録に至る遺産化の過程において,具体的にどこ に熊野古道の「文化」として価値を見出し,どのようにそれが語られ(表象され),現 在,利用・流通されているかを明らかにすることが目的であった。その結果,次のよ うにまとめられる。 熊野古道が世界遺産として登録された主要な要因は,本稿でも示した通り,文化的 景観が下位区分された「関連する景観」のなかに,日本が提起した「信仰の山」とい う概念を組み込むことによって,それまで「文化」として評価の対象になりえなかっ たものまでが遺産として認められるような状況が生じている点が大きい。文化的景観 が「文化」の多様性・個別性を志向する概念であることは先に述べた通りである。 こうした状況について,地元レベルの言説から分析すると,文化的景観の概念をそ れぞれの立場から自分たちの都合のいいように解釈し,改変し,流用している現状が 見て取れた。三重県東紀州地域の「語り部」たちにとって,熊野古道の価値は,つま り「文化」とは,地域で昔から育んできた生活,風景,人々の人情の温かさといった ものであった。「古道文化」という一種のスローガン的な言葉の意味するところは,こ うした今にも消えて無くなりそうな漠然とした大切なものを地域社会で生活する我々 は大切に保持していきましょうといったメッセージが込められていた。 こうした呼びかけに共感する人々が花尻の下で「友の会」を結成し,行政と住民と を,また地域の内部と外部とをっなぐ役割を果たしながら,「語り部」活動とともに, ボランティアとして積極的に保全活動も行おうとする。こうした地道な活動の積み重 ねが東紀州地域の活性化に果たした役割は非常に大きいと思われる。熊野古道「伊勢 路」における「文化」の概念は,このようにして地域社会の人々を素朴で美しい生活 や風景を守るという生き方に対して多くの賛同者を獲得したといえよう。 28)「道普請」とは,ここでは道の整備を地元住民であるホストとツアー参加者であるゲストが協働作業で 行ったことを意味している。山本:世界遺産『熊野古道』における「文化」概念の再検討 では,中辺路周辺地域で聞かれた「文化遺産とは歴史を知るための遺産」といった 言い方やほとんどの「語り部」たちがルートの真正性について疑問を感じているとい った実態はどのように捉えたらよいだろうか。まず,ここで価値として見出されてい るものは,間違いなく中世から続く熊野詣の歴史的重要性であり,多くの「語り部」 たちもそうであるがゆえに,ルートの特定に関心を寄せている。 中辺路における「文化」の概念は,国民の歴史を知るうえで重要な資源として保持 していこうとする姿勢を明確に打ち出すことで,観光によって少しでも経済的に成功 を目指す立場から生じてきたといえるだろう。 また,熊野古道周辺のどの地域においても,今ある景色や生活を守っていくことが 「文化」を守ることだと理解されており,うかっに異を唱えようものなら如何にも無 知で野蛮な人物として見なされてしまう状況が感じられた。ここには,「伝統的生活文 化・伝統的生業を,周囲の景観や自然とセットにして整備・保持せよ」[中村2007:30] という国民国家の思惑があると思われる。 謝 辞 本研究を終えるにあたり,調査地においてインタビュー等でお世話になり,調査に 協力していただいた全ての方々にこの場を借りしてお礼申し上げます。また,匿名の 査読者2名の方には,数回にわたって的確かっ懇切丁寧なコメントをいただき,心よ り感謝申し上げます。