植民地期メキシコにおける「
グアグルーペ
の聖母」
信仰に関する一考察
北 條 ゆ か I 序 本年 (1996年)5月 以降,メ キシヨ国内ではグアグルーペの大寺院の終身院 長 としてすでに二十有余年在職 して きた人物 を辞任 に至 らしめ るとい う紛争が 起 こ り,人 々の強い関心 を呼んだ。「聖母顕現」の生 き証人 とされ るフアン・デ ィエ ゴとい う16世紀の先住民の実在性 を否定す る見解 をこの人物がかねてか ら 抱いていたこ とをイタ リアの 30 Giorni誌が公表 したのが直接 の原因であ る。 そ して同時に寺院長の豪勢な私生活の実態 も初めて明 るみに出たため,非 難が さらに高 まった。 しか しその内実は,バ シ リカの強大 な経済的 ・政治的権力 を め ぐる,寺 院長 と首座大司教 のあいだの教会 内部の紛争であった。 フアン ・デ ィエ ゴの実在性や この聖母顕現の歴史的真実性 をいかに して実証す るか とい う 問題 は,依 然 として未解決 である。 しか しなが らメキシヨにおいて四世紀半以 上 も前に発祥 した とされ るグアグルパニスモ (「グアグルーペの聖母」信仰)に はあまたの地方的なマ リア信仰 とはかけ離れた,シ ンボル としての特性が備 わ ってお り,そ の存在意義 は顕現の客観的史実性に左右 され るものではな くなっ ているとさえ言える。そこで,関 連す る史料の検討 を中心 としたグアグルパニ スモの ヒス トリオグラフィーは別の機会 に譲 り,本 稿 ではメキシコ文化の最 も 1 ) 真正 なシンボル としての, と くに発祥期 の意義 を促 えてみたい。 1)こ の間の経緯は PrOceso誌の1022号 (1996年6月 3日 ),1023号 (同10日)に 詳 しい。結 果的に abad Schulenburgはarzobispo Norberto Rivera Carreraの意図 どお り,抵 抗の あげ く辞任 に追 い込 まれ たが,こ れ を契機 に 日刊紙 には国内の さまざまな有識者か ら,メ キシヨ国民に とっての グアグルーペ の聖母信仰 の意味 とい う問題 の核心 に触 れ る議論が 多 く寄せ られ た。聖母頭現の伝 説につ いてはのちに詳 し く述べ る。 フア ン ・デ ィエ ゴはその /r r r ︰ ︰ F ︰ ︰ ︰ F F i l l l l 112 彦 根論叢 第 304号 「グアグルパニスモ とバ ロックこそが,ス ペインとも遍 く世界 とも差異をな す,メ キシヨ史上の比類無 き真正 なる創造物である。それ らは植民地 (ヌエバ 2 ) 。エ スパーニ ャ)の 人々が 自分 自身 を見つめ発見す るために創 った鏡 なのだ。」 美術 史家 フランシス コ ・デ ・ラ ・マサ (191卜1972)は,『 メキシ ヨの グア グルパ ニ スモ』 と題 した博士論文 (1953年)の 中で,こ の よ うに述べ,メ キシヨ文化 の 中に 占め るグア グルーペ の聖母信仰 と植 民地期 に生 れ育 まれ たバ ロ ックの特 異 で重要 な意 味 を強調 して い る。 グア グルーペ の聖母 は1737年に メキ シ ヨ市 の, 1746年には ヌエバ ・エ スタヾ― ニ ャ全上の,さ らには1910年にイスパ ノア メ リカ 全体 の,1945年 には南北両 ア メ リカの守護聖母 に宣 言 され た経過 を もち,バ ロ め ックと並 んであ まね くイスパ ノアメ リカ文化 を特徴づけているもの と言えよう。 イスパ ノア メ リカは多様 な民族 とその文化伝統の,出 会 い と混おか ら成立 した 世界であるが,こ れ を統率 して きた大 きな力のひ とつが教会 であ り,17世 紀 ま でのハ プスブル ク朝スペ インによるインディアスの統治は政教一致の原則の も 4 ) と, と りわけ制度 としてのカ トリシズム と緊密に結びついていた。それゆえに グアグルーペ の聖母は,識 字率の きわめて低かった植民地時代,ペ ニンスラー ル (イベ リア半島出身の本国人)に 対抗できる 「勢力」を築 こうとしたクリオー リョ (アメ リカ大陸生れのスペ イン人)に とって,同 胞意識の もとに先住民や ヽ実在の真偽が十分審議 されないまま,1990年 に列福 を受けている。(メキシヨ人のなかでは 1627年のサ ン ・フェ リーペ につづ いて ようや く二人 日)
2)Francisco de la Maza,ど′勲 滋 物″%な物ο物病 Ca%θ,F.C.E.,1984,p.10.宗教 的なバ ヽノ ロク芸術の最 も深遠 な意味 を解 明す るために,グ アグルーペの聖母像の図像学的解釈 の必 要性 を,こ の学問領域 を方法論 として提唱 したパ ノフスキー Erwin Pnofsky(18921968) の著作が メキシヨで紹介 され る前におそ らく最初 に説いたのは,こ のデ ・ラ ・マサであろ
う。 (“二α 滋びθttαびわ物 sガ物筋″6α冴修 筋 Cの が′筋 冴修″足οsα″θ",Anales del lnstituto de lnvestigaciones EstOticas,Ndm.23)アー ウィン ・パ ノフスキー 『視覚芸術の意味』岩崎 美術社,1987年 (初版1971年) 3)イ スパ ノア メ リカ とは,15世 紀末か ら二世紀余 りにわたってスペ インの統治下にあ り, 独立後の今 日スペ イン語 を公用語 とす る米州諸国 を指す。 なお,1754年 ,ロ ーマ法王ベ ネ デ ィク トXIVに よって,グ アダルーペの聖母の顕現が正式に認め られた。 4)「 インディアス」 と呼びは じめたのは ヨロンの誤認のためであるが,ス ペ イン統治時代 を通 じてのア メ リカ領 の公式名称 であった。
植 民地期 メキシヨにおけ る 「グアグルーペの聖母」信仰 に関す る一考察 113 メスティー ソを引 き寄せ るための政 治的性格 を字 んでいただ ろ うと考 え られ る。 グア ダルパ ニ ス モの研 究 は,の ちに挙 げ るよ うに,宗 教 学 では シン クレテ ィ ズム (習合 宗教 ,重 層信仰 )の 視 ″点か ら,文 化 人類学 では文化変容論 の観 ″点か ら説明が試み られてい る。 しか し,こ こでは征服 か ら植 民地化へ の歴史の流れ, 社会 の動 向 との関連 で この問題 を考 察 し,メ キ シ ヨの歴 史,文 化,ナ シ ョナ ル ・アイデ ンティティヘ の グアグルパニスモの影響 を明 らかにす るための端緒 と したい。 まだ スペ イ ンの統 治下 の初期 に あ った16世紀後半 に早 くも発 現 し,独 立 に先 駆 けて高 まってい った と考 え られてい るメキシ ヨのナ シ ョナ リズム (本質 的 に はペ エ ンス ラー ル に対抗す るパ トリオテ ィズム)を 担 ってい ったのは, ク リオ ー リョだ った。 ク リオー リョに特有 の メンタ リティや行動様 式 (エンコ ミエ ン グな どの権 利 を剥奪 され た相 続人 としての焦燥感,祖 国におけ るよそ者意識, 征 服事 業 の時代へ の懐 旧の念 な ど)が 芽生 え るのは16世紀後半 か ら17世紀初 頭 にか けての頃であ り,そ の背景 には さまざまな位相 での対立の深 ま りが あ った。 具体 的 に は,先 住 民 の人 口減少 が極 限に近づ いたため の土地所有 形 態 と労働 。 生産 関係 の変遷,在 俗 司祭 と修 道 司祭 との反 日,対 抗宗教 改革 に よって インデ ィア スに生 じた新 たな教 会 内部 闘争,政 教 両 面 での高位 職 のペ ニ ンス ラー ルに よる独 占,そ の結果惹起 したペ エ ンス ラー ル とク リオー リョとの間の抗争,そ して スペ イ ン帝 国の衰退 と世 界経済 の 中での地位転落 な どを挙 げ るこ とが で き よ デ。19世紀初 頭 には,イ グル ゴ 神 父の率 い る独 立運動 にお いてその聖像 が旗 標 として掲 げ られ たほ ど,植 民地体制 の抑圧 に苦 しむ下層社会 階級の民衆 に ま で広 く浸透 していた と思 われて い るグア グルパ ニスモの起 こ りが,上 述 の ク リ オ ジスモー ー ー 集 団意識 の深化 に裏付 け られ た, ク リオー リョの 自己認識 ;そ れ に根 ざ した政 治 。社会 的権 利 と文化 的独 自性 の主張十一一 の萌芽期 と一致す
5)David A.Brading,二 θs θ花 ¢物容 `姥〃%αびわ%αサ佑物ο物切 ∽%ο,1980(la.ed.1973),pp.15 -23.
6)Maria Alba Pastor,“ E′ びれο′体物θ 夕″ 筋 力なわis彗ば範 物傷グ6α″α ル タ%ル sをわ", TEMPUS,UNAM,Verano de 1995,Ntm.4.
114 彦 根論議 第 304号 る点 は注 目に値 す る と考 え られ る。 なぜ な ら,グ ア グルパニ スモ を在来 の先住 民 の宗教 と外来 の カ トリック教 との シン クレテ ィズム と理解 し,そ の ために当 初 か ら 「メステ ィー ソ (先住 民 と白人の混血)的 宗教 」 であ った とか, メステ ィサヘ の実体 の ひ とつ として表 れ た もの 三 「宗教 面 の メステ ィサヘ」 であ った とい う捉 え方 には問題 が あ るだ ろ うか らであ る。 グアグルーペの聖母はつねづね,メ キシヨ的なるもの mexicanidadと結びつ け られ,総 体 としてのメキシヨ人の社会的政治的独 自性の表れ と受け とめ られ ている。スペ インか らの独立戦争において,聖 母像が クリオー リョの神父に率 い られたメスティー ソや インディオか らなる反乱軍の先陣を切 って戦場へ と突 進 した し,1910年 に勃発 した 「革命」で もこの聖母 を紋章にエ ミリアー ノ ・サ パ タと彼に続 く土地 を持たない農民層が闘った。そ して今 日,グ アグルーペの 聖母像 は邸の正面や 内部,教 会や家の中の祭壇,公 設市場や闘牛場や レス トラ ン といった人の集 まる場所の一角, タクシーやバスの運転席など至 る所に祀 ら れている。E.ウ ルフによれば,ネ イションとい うものは,同 一の相互関係の網 の中に共存す るグループが皆,公 式であれ非公式であれ互いに交渉す るときに 使 うことので きる文化形態あるいはその メカニズムを有 していなければならず, それ らは行動の文化的規範 と理想的表現 を備 えていることによって,そ れを通 してひ とつの社会の中の様々なグループが,調 和の とれた枠組の中で,相 異な る宿命に対処す ることがで きるのである。 メキシヨ史上,政 情や思潮の変転 を 超 えて,グ アグルパエスモがつねにそのナ ショナ リズム と不可分 に結びついて D きたのはその所以なのだろう。 ルイス ・ゴンサレスに従えば, メキシヨにおけるナショナ リズムの歴史を以 7)Eric R.Wolf, “ 7レタ Ftttt% ゲ C物 冴αあリタf A MttCa% ハ 物方わ%α″ 勘 物うθ′", The
Arllericas, 1958.
8)メ キシヨにおけ るナ ショナ リズムやナ シ ョナル ・アイデンティティに関わる最新の理論 的 (言説 としての)検 討 は以下の ものを参考 に した。Serge Gruzinski,Jacques Lafaye, Cariosヽ 4onsivais,Francisco Pin6n,Roger Bartra,Judit Bokser,Jacques Gabayet y
Jos6 del Val,Mttcof lac%茂 施 プ ノ C湯″物物 ハ吻σわ%α″,UAM XOchimllco,1994;Jean MIeyer,“La historia cOmo identidad nacionalル,vueita 219,1995.
植 民地期 メキ シ コに お け る 「グア グルーペ の聖 母 」信 仰 に関す る一考 察 115 の 下の五段階に分 け るこ とがで きる。①16世紀後半か ら18世紀半ば,② 啓蒙時代 か ら米国による侵略 (184併1848年),③ 19世紀半ばか らメキシヨ革命勃発 (1910 年),④ 1910年か ら1940年,⑤ 1940年以降現在 まで。 しか し最近の EZLN(サ パ ティスタ国民解放軍)に よる先住民蜂起 とその後 も続行す る反政府運動か ら明 らか なように,第 五段階においては,「いかに して国民的アイデンティティを創 り上げ,ネ イションを存続 させ てい くか」 とい うナ ショナ リズムの問題 をめ ぐ って68年か らすでに多様 な議論 と模索がなされて きたが,今 まさにその根本的 解決 の必要性 に追 られているのだ と言える。本稿 ではこの中の第一段階 を考察 の対象 とし,聖 画像 に現れて くる象徴的要素の分析 を通 して,初 期ナ ショナ リ ズムの表象 として捉 えられ る独 自の聖母信仰 の定着プロセスが主 として ク リオ ー リョによって展開されていったことを明らかにしていきたい。 H グ アダルパニスモの起源 と政治的言説 II-1 植民地時代 のグアグルパニスモに関す る研究の多 くは,い ずれ も顕現伝説の 証明 またはその反証,あ るいはメキシヨの国民意識の歴史が中心テーマ として もつ グアグルーペ の聖母のイメー ジを検討す ることに議論が集 中 しているよう に思われ る。 それ とい うの も,16世 紀にこの信仰が存在 していた とい う明 らか な証拠はほ とん どな く,信 仰の端緒はいまだによ くわか っていないのである。 オ リジナルの絵の描かれたフアン ・ディエ ゴのアヤテ (リュウゼツラン,現 地 名 はマゲイの繊維 で織 った布)以 外,16世 紀の もの と確証 できるグアグルーペ
9)Luis Gonzalez,“ 対θあ岱 sοめ″ 夕″ 物αびわ%″〃な物ο 物流 ca%θ",Amёrica lndigena,Vol. XXIX, NtFn.2, 1969.
1 0 ) ナ シ ョナ リズム の概 念規 定 につ いては,B.ア ンダー ソン 『想像 の共 同体 :ナ シ ョナ リズ ム の起 源 と流行 』 リブ ロポー ト,1991年 ( 初版 1 9 8 7 年) , 「民族 と国家 」特 集 『思 想 』 1 9 9 6 年 5月 号 , Partha Chatteriee,ハ 物″ο%α燃 サ 効 θ%g力すク〃 筋夕 働 わ妨冴 フレしガグ,Oxford University Press,1986.綾部 恒 雄 『現代 世 界 とエ スニ シテ ィ』 弘文 堂 ,1993年 ,岩 波 講座 現代 社 会 学 24『 民族 ・国家 ・エ スニ シテ ィ』 岩 波 書 店,1996年 な どを参 照 した。
116 彦 根論叢 第 304号 の聖母 の表象 は現時″点まで他 には何 も見つ か ってはいない。1550∼1600年にか け ての グア グルーペ の聖母崇拝 は土着色が濃 く,地 母神信仰 と混 同 されが ちな の で,カ トリックの宗教 上 まだ明確 な説明づ けが な されてお らず,論 議 の段階 である。16世紀のいずれの記録 に も聖母が1531年に顕現 した とい う言及はない。 わずかに クリオー リョの クロエスタ,フ アン ・スアレス ・デ ・ペ ラルタがテペ ヤ クの丘で行 なわれている信仰 について,「何度 も奇跡 を起 こした とい う礼拝像 があ り。"岩山のあいだか ら顕れた。…この像 を崇拝す るために各地か ら人々がや って くる」 と書 き記 しているのみである。 テペヤ クにおけ る信仰 の叙述 と聖母 の顕現諄は明確 に区分 されなければならない。両者が同一の ものになるには, つ ま リインディオがグアグルパニスモを内面化す るに至 るには,か な りの時間 を要 したことは確かである。 グアグルーペの聖母の奇跡物語 (顕現諄 と奇蹟)は メキシヨ国内に限 らず広 く知 られているが,現 在 までの ところ, この典拠 となる最 も古い史料は唯一, ミゲル ・サ ンチェス (1648年干J)と ルイス ・ラソ ・デ ・ラ ・ベガ (1649年干J) の著作のみである。 この二人の後で類書 を著 したルイス ・ベセラ ・タンコとフ 1 1 ) E n r i q u e F l o r e s c a n o , 財物切々α物切 物% α, C O n t r a p u n t o s , 1 9 8 7 , p . 1 8 7 . 本稿 は以下の グア グルパニ スモの最新の歴史的研究 を参考 に している。S t a f f o r d P o o l e , C . M . , O u r L a d y o f Guadalupe.The Origins and Sources of a A/1exican National Symbol,1531-1791,The University of Arizona Press,1995.
12)コ ル テスが アステカの都 テ ノチティ トランを征服 した1521年か ら十年経 ったばか りの 1531年12月 9日 か ら12日までに,地 母神 トナ ンツィンの祀 られていたテペヤ クの丘で聖母 が平民 インディオのフアン ・ディエ ゴに四回あ らわれ,最 後に瀕死だった叔父のベルナル ドに もあ らわれ病 を治癒 し, 自分 のための聖堂 を建 ててほ しい と司教 に伝 えるよう,土 地 の言葉ナ ワ トル語 で話 しかけたことになっている。
13)Miguel Sanchez,r物 兜チタ%冴 夕物 レイテ/gF%ソИヮ7を 舟物冴竹 冴夕励 os冴 夕働 αttαJ″ら 物ガ筋‐ 事OSα物夕物物 ″クれ夕冴冴α夕%筋 び物冴α冴 冴夕虹筑 cο,1648,en Ernesto de la Torre Villar y Ramiro Navarro de Anda,Tes″ 物ο%わs″ なわ克cosョ 吻冴α′z)α″θ S,F.C.E.,1982,pp.152-281.
Luis Lasso de la Vega, Nica% 物 qクθ力%α, 1649, en Richard Nebel, Sα 物筋 Ma″ 物 抑 %α%″ガ%,7を電c%冴夕Cttθ物物 )a Cθ%″%ク危物冴ノカ匂%s/o″%α―びわ%″ チ夢 θ影 夕%Mttco,F. C.E。,1995(la ed.1992,en alelnan),pp.171-203.
ファン ・デ ィエ ゴか ら報告 を受けた とされ る当のスマ ラガ司教 自身による記録 は何 も残 っていない。
植民地期 メキシヨにおける 「グアグルーペの聖母」信仰に関する一考察 117 ラ ン シス コ ・デ ・フ ロ レ ン シ ア をあ わせ て, グ ア グルー ペ 顕 現 の 「四福 音 史家 」 に準 え る こ とが で き る。 さて,こ の伝 説 を生 ん だ の は,テ ペ ヤ クの礼 拝 堂付 き司祭 ラ ソ ・デ ・ラ ・ベ ガ の紹 介 した Ntca%物 の θん物 で あ る。 聖 母 の 出現 とそ の像 の 奇 跡 的 顕 現 に つ い て の最 も詳 細 なナ ワ トル語 で の叙 述 で あ り,そ の後 グア グルーペ信仰 の基盤 とな っ た重 要 な文 書 な の だが,原 本 は消 失 し,写 本 が 残 って い るだ け で あ る。 何 を史料 (情報 源 )と して用 い た ものか,レ ヽつ 誰 が 書 い た もの か に関 して は, い まだ に議 論 が 続 い て い る。 ラ ソ 自身が神 の啓示 を も とに テ クス トを編 ん だの で は な いか と推 定 す る向 き もあ るが,そ の語 りの 内容 は古代 メキ シ ヨ人 の世 界 観 や イ ンデ ィ オ色 を明 らか に紡 彿 とさせ るの で,仮 に ラ ソが そ こ まで理 解 し真 似 た と した らそ の 意 図 は計 り知 れ ず政 治 的 で あ る と言 え る。 これ につ い て上 述 のベ セ ラ ・タ ン コは,サ ン タ ・クル ス学 院 で学 びサ ア グ ンの片腕 とな ったア ン トニ オ ・バ レ リアー ノの著 作 で あ る と指 摘 して い る。 現 代 の歴 史 家 の なか で代 表 的 な見 解 は,ア ンヘ ル ・ガ リバ イ とオ ゴル マ ンの もの で あ る。 前 者 はナ ワ ト ル語 学 研 究 の権 威 で あ り,1560-1570年 の 間 にバ レ リアー ノの み な らず サ ン タ・ 1 4 ) L u i s B e z e r r a T a n c o , F c t t c 滋冴冴夕虹続 c ο夕% 冴 タガ%σ夕わ,ノク″牲 匂sθ οt t g 夕物?物夕物υθ 冴 影物物αカ ル 物 路笹物 ソ協 物 H&″ ο影 滋 働 α滋〃″夕.励 ナ物物ク殉け E%物 のαttσわ% 励 ゲ物b物冴夕容筋 Sθう夕物%αS夕″θ物,ノ み クタ殉婚 OM多 %`客夕%sα∽冴ααあzノ α″クataa 夕θ/ 夕′ あαびカゲ′′夕先.., 1979.
Francisco de Florencia,二α夕sナ%夕″物 冴夕″ %ο″夕冴タソ%あ″びθ,en De la Torre Villar y Navarro, 9ク.びガナ.,pp.359-399.
1 5 ) 文書の出だし文句をとってこう呼ばれている。“As l s e n a r r a ル( 次のように語 られてい る) の 意。宮姥″物物α″″″οけt t c a の中枢部分 を成 している。V ёa s e , R . N e b e l , o p . c i t ,
16)Xavier Noguez,Dθ σ物物 夕物ゎs浮 物 冴αブ″ α%θsi5'%容 物 冴 θ sο め″ ″岱 ル タ%方夕s冴 タ ゲ″乃 /‐
物 αびわ %物 物 物 物俗 夕%わ 物 θ ″ 玄体 物 α脅ヴ ″%体 夕物 冴 物 の αび,1995(la ed.1993).Pp.191
-199(Ap6ndice I)にNican mopohuaの シノプシスが掲載 されてお り,精級な聖像描写が あ るので参照 されたい。
17)Luis Bezerra Tanco,の .σ″。この他 に もSiguenza y G6ngora,Lorenzo Boturini,」 oso l g n a c i O B a r t o l a c h e などが見解 を明 らかに してお り, 当 時の社会 におけ るグアダーペの聖 母信仰 の重要性 を物語 っている。
18)X.Noguez, 9ク .び″., pp.20-29.Vlase tambiOn, Edmundo O'Gorman, Dヘ サ彦//9 冴タ sθ物う夕復らニクz夕%タ アθ角壇マ%扱 夕物 力物解 %ノ 物″ゎ 滋 %ク2財物 sタタθ物 そ姥 (助ιαttα′物少夕ι姥′ 物 のαび,U.N.A.M.,1991.
118 彦 根論議 第 304号 クル ス学院 の彼 の同僚 か らな る複数 の著者 (先住 民の)に よって書かれ た と推 定 す る。他 方 オ ゴルマ ンは, しか しそれ な らば コデ ィセ・フロレンティー ノと 二わ紹 滋 C肋 物 わs(先 住 民長老識者 とフ ランシス コ会士 との対話)を 書 いて いた頃の こ とであ るのに,な ぜ サ ア グンが介 入や 阻止 を しなか ったのか説明が
つきにく認と主張する。また,オゴルマンによると書かれた時期は1555-56年
と
なる。史料がいまの ところ他に発見されていないので,い ずれの解釈 も確認あ るいは反証することはできないが,ひ とまず16世紀の半ば過 ぎ,す なわちフア ン ・ディエゴのエピソー ドが起 きたとされる1531年から30年ほど後の時点では ないか と理解 しておこう。ここで,オ ゴルマンの年代設定の論拠を説明するこ とにもなるので,政 策上の方向転換を迎えようとしていたヌエバ・エスパーニ 19)サ ア グンは 『ヌエバ ・エスパーニャ綜覧』 (長年の準備の結果,1579年 に執筆 された とい われ るいわゆ るフィレンツェ絵文書のスペ イン語版 テキス ト)の 第十一書において,偶 像 崇拝 を糾弾 し,テ ペヤ クヘ の参詣 を憂 えてつ ぎの ように断言 してい る。 山問部 で も,厳 かに生贄が行 なわれ,遠 路 は るば る人々が巡札 に訪れた所が三 ない し四か所 あ る。 その一つは,こ こメシヨにあるテペアカクとい う丘である。それをス ペ イン人はテペアキー リャ と呼び,今 では聖母 グアグルーペ と呼ばれている。 この場 所 にはかつ て,神 々の母 であ る トナ ンツィン,つ ま り「我 らが母」に奉献 された神殿 があった。 そこではこの女神 を称 えて多 くの生蟄が捧げ られた。 メシヨか らも,二 十 レグワ以上 も離れた各地か らで も生贄のために人が集 ま り,数 々の供 え物 を携 えて き た。 [中略]今ではそこに聖母 グアグルーペ教会が建 てられているが,説 教師たちが神 の母,聖 母 を トナ ンツィンと呼ぶの をいいことに,彼 らはその教会 も トナ ンツィンと 呼んでい る。[中略]神の母,聖 母マ リアは正 し くは トナ ンツィンではな く,デ ィオス・ イナ ンツィン となるか らである。 これは悪魔が発明 した もので, トナ ンツィンとい う 誤 った名 の下 に偶像崇拝 を隠そ うとしてい るように思 われ る。昔 と変 わ らず今 で も, 遠 く離 れた ところか らこの トナ ンツィンの もとへ巡ネしに来 るのであるが,こ の信仰 も また疑 わ しい。 とい うのは,聖 母 (を号 とす る)教 会 はいたる ところにあ るに もかか わ らず,そ こには参拝せず,以 前同様,遠 方か らもこの トナ ンツィン教会へや って来 るか らである。 [中略]巡礼に来 る一般の人々の心の中には古い信仰が生 き続け,そ れ を情 しんで来てい るこ とは火 を見 るよ り明 らかである。私 の言わん としてい るのは, 彼 らに巡本しや供 え物 をやめ させ るべ きだ とい うこ とではない。彼 らが巡礼 に来 る 日に, かつての間違 いを彼 らに悟 らせ,(彼 らが拝んでいる)あの聖人たちはかつての神々 と は違 うことを理解 させ て,迷 いか ら覚 まさせ てや るべ きだ と言っているのである。 こ れは彼 ら先住民の言葉や昔か らの習慣 に精通 し,聖 書 を熟知 してい る説教 師がすべ き こ とである。 サア グン 『神 々 とのたたか い I 』 篠原愛人・染 田秀藤訳,岩 波書店,1992年参照。植民地期メキシヨにおける 「グアグルーペの聖母」信仰に関する一考察 119 ャの教会 の状況に注 目してお く必要がある。1556年とい う年には,第 二代司教 アロンソ ・デ ・モン トゥファルが,グ アグルーペの聖母 を称 える説教 を行 なっ ている。彼はすでにテペヤ クでインディオか らペエンスラールまで広 く崇敬 さ れていた聖像 に超 自然的な基盤 を持 たせ神聖化す ることまで も奨励 しようとし ていた教会 当局の人物だった。二 日後 ただちに,こ れに対 してフランシスコ会 管区長のフランシス コ ・デ ・ブスタマ ンテ師が同信仰 を糾弾す る説教 を行 ない 論争 をひ きおこした。 この対立が生 じた背景は以下の通 りである。 モン トゥフ ァルの前任者 で初代 司教 のフアン ・デ ・スマ ラガは,布 教開始当初 に渡来 した エ ラスムスを信奉す るカ トリック的人文主義者たる修道士たちの時代 を代表す る人物で,原 始 キ リス ト教的信仰への回帰 とインディアスの現実社会の再建 と しての 《ユー トピア)の 実現 を希求 していた。 しか しセ クラールに対す るレグ ラールの優位 も先住民人 口の激減 と16世紀半ば以降の事態の変化に伴 って転換 期 を迎 える。教会の内部的刷新 と積極的防衛のための トリエ ン ト公会議 (1545 1563年)の規定によ り,教区権力 をもつ聖職者は例外 な く司教の支配に従属す る こ とにな り,修 道会 はそれに抵抗 した。 しか し,先 住民に対す るレグラールに よる伝道計画の 目的は もうすでに達成 され,各 地に司教位階制度 を確立す る時 機が きているとみなされは じめていた。要す るに,王 室が レグラールよ りもセ クラールのほ うを優過す るようになったのである。スペ イン国王カルロスー世 は,戦 費のためにます ます悪化す る工室の財政逼迫に直面 して,政 治的経済的 観″点か らインディアスを完全に統制す る必要に迫 られ,イ ンディアス政策の見 直 しを決意 していた。 その意図 を反映 して,1551年 ,神 学者で ドミニ コ会のモ 2 0 ) X . N o g u e z , の . 冴ナ. p p . 8 9 - 9 1 . 2 1 ) し か し渡 来 した初期 の修 道士 た ちは一 見想像 され るよ うには均 質 だ ったわけ では ない こ とに注 意 した い。教 会 は その こ とを考 慮 に入 れ,先 住 民 改宗 の ため の方法 を二通 り認 め た。 す な わ ち, 徹 底 した キ リス ト教 教 育 を追 求 す る場合 と,教 育 は ご く基本 的 な水 準 で良 し と
して量 的 に改宗 を進 め る場合 。Sonia Corcuera de Mancera,9ヵ クグゑ 冴 グ% 冴ガο ノ 冴 夕物を%ら 垣わαれgcこうzαご筋%ノ タ物あ脅Q野枚%夕 %物 ム筋夕υα Ettα″α “晟7」―Fj″り ,F.C.E,,1991,p. 10
2 2 ) チ ャー ル ズ ・ギブ ソン 『イスパ ノア メ リカ :植 民地 時代 』染 田秀藤 訳,平 几社 ,1981年 pp.84-86.
120 彦 根論叢 第 304号 ン トゥフ ァルが第二代 司教 に任命 され,1554年 着任 した。 グラナ ダ地方 の出身 で,モ リス コ (改宗 モー ロ人)の 世 界 と接触 し文化 的差 異 を体 験 しなが ら育 っ た彼 は,長 年 イス ラム教徒 が支 配 していた土地 での キ リス ト教 の布教 と敗者 の 統合 が平和裡 に可能 であ るこ とをまの あた りに していたのだ った。 それゆ え, モ ン トゥフ ァルは先住 民宗教 にみ られ る異教 的要素 に対す るそれ までの聖職 者 の非妥協 的 な態度 を緩和 す る方 向 を示 したのであ る。 その結果,1550年 代 には グア グルーペ の聖 母像信仰 が開花 してい った。 II-2(1) つ ぎに,グ ア グルパ ニ スモの発展 につ なが った と考 え られ る17世紀 の歴 史的 背景 を追 い なが ら, ク リオー リョが いか に政 治 的 に信仰 と結 びつ いて い ったか, また,グ アグルーペ の聖母 のほか に もク リオ ジスモ を象徴 す る ものが あ るので は ないか,検 討 してみ るこ とに しよ う。 ア ステ カの征 服 か らまさに一世 紀後 の1621年は,ス ペ インで フェ リペ 四世 が 即位 し(在位 1665年まで),ヌ エバ ・エ スパー ニ ャにはヘ ルベ ス侯 爵 marquez de G01vesが 新 副王 として着任 した。翌22年に17世紀初頭 か ら着工 されていた グア グルーペ の聖 堂 が完 成,23年 には遅 くとも1589年来 スペ インのエ ス トレマ ドゥ ー ラか ら移 り住 んでいた劇 曲家 の ビ リャロボスに よって,「征服」百周年 とフェ リペ 四世 の即位 を祝 い メキ シヨ市 の偉 大 さを称 え る書が著 され た。 しか し前述 23)事 実,グ ラナ ダ王国はその文化,習 慣 を1566年 まで存続 させ た。Serge Cruzinski,こ α 勲 夕γttα滋 ″俗 沈″り互g夕″容rD夕 て力材s朽わα″Cοわ物α`密物滋 貿ク%物夕γ''“4″ 2θヱリ ,1995,pp。102 -103. 24)モ ン トゥファルはあ くまで も偶像崇拝 を多少な りとも許容 しようとしたのではな く,こ れ を厳 しく取 り締 まったことは,ヌ エバ ・エスパーニャに異端審問所が設置 され るまでの 1522年か ら1570年までの期間に摘発 された約五百件の容間の うち,モ ン トゥファルが異端 審問長官 を務 め た155670年 に全体 の六割 が 占め られてい るこ とか らもわか る。小林致広 『われ らが先祖の教 えに従 いて :1530年代 テスココ住民に対す る異端審問記録の分析』研 究叢書,神 戸市外 国語大学外国語学研究所,1995年 ,p.6.
25)17世 紀の歴史的背景 については,Jonathan lsrael,Rαzら び燃 容 sθσ物体 ノ冴滋 夕θttca 夕物 冴 Mttco∽ わ%筋於ゴ伊θFび刀 ,F.C.E.,1980.を参照。
植民地期 メキシヨにおける 「グアグルーペの聖母」信仰に関す る一考察 121 の 副 王 は厳 格 で強硬 な政 治 改 革 を打 ち 出 し, メ キ シ ヨ市 大 司教 ペ レス ・デ ・ラ
・セルナ Juan Pёrez de la Serraと対立 したために,24年 ,副 王制府 を批難 し, 司教側についた クリオー リョが主体 とな り大衆 を巻 きこんだ反乱が起 こ り,副 王宮殿は襲撃 された。翌25年にはそれ も修復 され,主 中庭の噴水の中央にペガ サスの彫刻が仕上げの段階で付 されたことに注 目してお きたい。その後29年, メキシヨ市で大水害が起 こ り,こ れ を契機 にケレタロ,パ チュー カ,グ アグラ ハ ラヘ と人日の分散が始 まり地方都市が育 ってい くことになる。 この頃か らプ エプラも繁栄期 に入った。40年代 はパ ラフォクスの時代 であった。彼は大司教, 副王,巡 察使,プ エブラ市司教 とい う一連の職 を歴任する。この時代の終わ り に,Nica%物 のθ乃物 をは じめ とす るグアグルーペの聖母に関す る著作が干U行さ れ,信 仰が本格化 していった。17世紀後半に入 ると,61年 に コチエール染料, 羊毛,絹 な どの資源が豊かであるために地 方 役 人による搾取の激 しか ったオ アハ カのテワンテペ ク (地峡部)で ,重 税に対す る先住民の反乱が,64-65年 に かけてはメキシヨ市で黒人 とムラー ト (黒人 と白人の混血)の 反乱が続発 した。 そ して92年,世 紀最大の騒舌しにいたった。 多雨による水害 と虫害による小麦 と トウモロコシの不作,買 い 占めに走 った暴利商人の投機,そ れに伴 うパ ンと ト ルティー リャの価格高騰が重なったための政治社会的摩擦 とフランシスコ会士 の政府批判の説教 とが引 き金 となっていた。いずれの反乱 をも平定 したのは, その地の司教 またはイエズス会士であ り,副 王当局はあらゆる社会階層か らの 突 き上げに何 ら抵抗 で きず,逃 げ まわるばか りであった。 これ らは明 らかに積 極的武力抵抗であったのに対 し,グ アグルパニスモは被支配者層の 「植民地体 制 に対す る抗議の精神 的側面」 とい う消極 的抵抗の形 として捉 えられて きた。 実際,初 期 の修道士 たちは1540年頃か らすでに,真 の教化事業 を成功 させ る には長 く困難な道程があ り,成 果は どこまで も曖味であるとい うことを自覚す ヽヌ7 r r , E d i t o r i a l V u e l t a , 1 9 9 3 , p . 4 1 . 1 7 世紀の反舌しに関 しては, E I C o l e g i o d e M 6 x i c o , Historia general de Mlxico,pp.461-469を 参照。
27)Jacques Lafaye,C吻 夕″クを効〃ノ物 滋 あ少ち乙αメ9カ物ασわ%冴夕筋 σθ%び彦%σ筋 %αびわ%α′夕% Mttco,F.C.E.,1985(la ed.en francOs 1974),pp。 387-407.
122 彦 根論叢 第 304号 2 8 ) るようになっていた。 テペヤ クヘの巡ネしは,キ リス トの教 えをよ く理解 した一 部 の先住民に とっては黙示録の女性 と一体化 して理解 されてはいたか もしれな いが,多 くの先住民に とっては以前 と変わらぬ トナ ンツィンの母なる神への祈 りだった。 コルテスをかつてその地 を去 った神 ケツァル コア トル (羽毛のある 蛇)の 再来 と考 え,抗 戦の意図など持 ち合 わせ ていなかったモクテスマ王の失 策に よって,訳 もわか らぬ うちに侵略 を受け事態の対応に遅れたために,神 殿 を壊 され,文 書 を焼 き払われ,住 民の大半が惨殺 されて しまったのである。そ の ときの トラウマが原因で,ア ステカの民が 自分 たちをや さしく招 く地母神 の 姿 を幻視体験 した,そ してそれが静かなるしか し大 きな反響 を生んだ として も まった く不思議 ではない。 しか しなが ら,グ アグルパニスモをこのように捉 え て しまうと,聖 母マ リアがペエンスラールによって彼 ら自身の守護聖母 として ヌエバ ・エスパーニャに導入 された事実や,イ ベ リアで培われていたペエンス ラールの民衆 カ トリシズム,ス ペ インか ら独立す るまでのポル トガルか ら渡来 した隠れユダヤの信仰態度,中 国 を中心 としたアジアでの布教経験 をもつ イエ ズス会の適応的開放的姿勢 など,多 様 な社会 グループか らの多重の影響 をグア グルパニスモが内包 していた可能性が見落 とされがちになって しまう。 グアダ ルパニスモの土 着 化が実際 どれほ どの拡が りを見せ ていたかは,今 後,人 種 構成のあ り方 と人 口規模 の異なる町村 をとりあげ,W.B,テ イラーのモ ノグラ フの ように,洗 礼記録や財産記録 を調査 してみ ることで もある程度推 し測 るこ とが可能 であろう。 I I - 2 ( 2 ) 一 方,ヌ エバ ・エ スパ ー ニ ャにおけ るグア グルーペ の聖母 顕現 を神 の摂理 で あるとみなす見解が17世紀のクリオー リョ聖職者の間で広 く流布 していたこと 2 8 ) C o r c u e r a d e M a n c e r a , o p . c i t . , p . 1 1 , サア グン前掲書 を参照。 先住 民社会 の宗教 的結合 とい う側面に関 しては, S e r g e G r u z i n s k i , L a C o l o n i z a c i 6 n d e l o imaginarioi Sociedades indlgenas y occidentalizaci6n en el 出質ёxico espanol. sigios XVI―XVIII,F.C.E.,1991.
植 民地期 メキシコにおけ る 「グアグルーペの聖母」信仰 に関す る一考察 123 2 9 ) は,確 認 されて きている。17世紀半ばはバ ロック文化が絶頂期 に達 し,そ の後 も18世紀 を通 じて続 いたわけであるが,オ クタビオ ・パスはこの時代 の社会の 特徴 をふたつの点で説明 している。ひ とつは,知 的活動の場が説教 と同人の会合 に限 られていたこと。 もうひ とつは,神 学が20世紀の社会的 ・政治的イデオロ ギー と同様の,論 争の道具 としての機能 を負 っていたこと。言わば 「政治の仮 面 としての神学」である。 こうした政治色の濃い社会 を担い, 自らの文化的基 盤や帰属意識 を模索 していたのが クリオー リョであった。そのために彼 らが政 治的に利用 した と考 え られ るシンボル をい くつか挙 げ ることがで きる。①鷲 と サ ボテン,② ペ ガサス,③ 聖 フェ リペ ・デ ・ヘスス,④ ケツァル コア トル=聖 トマスな どであ る。一つひ とつ を以下に具体的に検証 してい くと,こ れ らが ク リオー リョによるグアグルーペの聖母 の引用 “expropiaci6n"へ と集大成 した のだ と解釈 され得 よう。 まず鷲 とサボテンについては,メ キシヨ古代史の大家,ロ ペス ・アウスティ ンによる神話の語 りをつ ぎに要約 してみ る。 メシー カの守護神 ウィツィロポチ トリは, 自分の妹 で邪悪 な呪術 を使 う女 神 マ リナル シ ョチ トル を罰 した。 その息子 コピルは母親 の無念 を晴 らそ うと して返 り討 ちにあい,彼 の心臓は萱 と葦の生 い茂 るテスココ湖に投げ捨て ら れ る。一 一火打石の年 (1324年),メ シー カ族の二人の指導者が,そ の昔 コピ
29)William B.Taylor,“ち助タ ラ々″ 物 o/物 冴物の 夕物 PM像妙 Sttαガ%!α%ガ%?物ガリ あわ 筋タ sθび筋′力なわり 6メ舟物ガα%冴タクθ″θ%",American ethnologist vol.14,American Ethnologi― cal Society, 1986.
くThe intellectual history of the aparition〉聖母顕現 の言説史 と呼べ る研究の代表が
Dela Mazaと Lafayeの ものである。踏 まえておかねばならないのは,異 端審間の厳 しい
時代 であ り, ク リオー リョは信仰 に関す る言動 に慎重 を際めねばな らなか った とい うこ と である。
ペ エ ンスラールの もたらしたエス トレマ ドゥー ラの 「グアグルーペの聖母」信仰 の伝統
や異教 的 ・土着的色彩 の強いイベ リアの民間信仰 については,Luis Weckmann,こ α″夕″%―
σ筋 物″グタυαブル Mttco,め 物ο tt E″Cθ′毎 0ル ソ%勿 ゲσθ,1984,pp.225248.
30)Octavio Paz,Sο /メ%α%α r物ゐ 冴夕筋 cれ″ θと容 滋 物夕容 冴夕筋ン,SeiX Barral,1982, p.83.
彦根論叢 第 304号 ルの心臓 を沈めた場所 に戻 ってみると,そ こで,ウ ィツィロポチ トリがメシ ー カ族に巡歴の終着地 として予告 した奇跡の鷲を目撃する。メキシヨの紋章 は,あ る集団が湖水地帯に到着 し,ひ とつの島に定住 したときのことを表 し ているのである。 コピルの神秘的な心臓の上に築かれた島,メ シヨ ・テノチ ティ トランは国の心臓部 と見 なされ ることになる。 ノパル(ウチワサボテン) に足 をおろし,ヘ ビを呑み込 もうとす る鷲,こ れがメキシヨの紋章 として今 は定着 している。ついヘ ビを呑み込む鷲に注 目して しまいがちで,確 かに, メソアメ リカの象徴群 において,ヘ ビと鷲が対立す るペアだったことは疑い ようもないが, この対立関係はメシヨ ・テノチティ トラン建設の奇跡諄の中 心的主題 ではな く,鷲 とサボテンの対立関係のほ うが主要だったのである。 奇跡的 な建 設の話 を歴史的事実 と照 らし合 わせてみ ると,鷲 とサボテンの対 立関係の重要性が浮かび上が り,二 人の指導者が合意の契 りを結んだことが わか る。 メシヨ ・テノチティ トランの起源神話の中では,当 時の政治的現実 が火 と水の対立で大神殿 とい う建造物に象徴的に表 された。神殿頂上の二基 の祭壇 は一方が太陽 と戦争の神, もう一方は雨の神, トラロクに捧げられて いた。対立す るものの統合 という図は,町 を作 った人たちの間で協定が結ば れたこ とを想像 させ る。 メシヨ ・テノチティ トランを建設 した住民はい くつ かの集団か ら構成 されてお り,各 集団を率 いて旅 した指導者は,集 団の守護 神 と同 じ名前 をもち,権 力 を体現 していた。最終的に合意 した首長は クワウ トレケツキ (鷲の火 を掲げ る者),別 名 クワウコア トル (鷲のようなヘ ビ) と,テ ノチ (石の ようなサボテン)の 二人。 この町の名前その ものに二人が 合意 した しるしが刻印 されている。つ ま り,火 の神 メシの場所であると同時 に,水 の神 テノチの場所 で もある。ヘ ビと鷲の結びつ きについては, レヴィ =ス トロースの神話的解釈論 を図像的象徴に適用できようが,こ の都建設の 奇跡諄のテ クス トに も,〔次章でみ るようにグアグルーペの聖母像 にも=筆 者 と〕必ず鷲 とともにヘ ビが登場す るわけではない。鷲は小鳥 を食べ ようとし ていた り,人 の心臓 をつかんでいた り,何 もくわえていない場合 もある。ヘ ビの象徴的意味はさまざまに推 し測 ることが可能なのだ。
植民地期 メキシヨにおける 「グアグルーペの聖母」信仰に関する一考察 1 2 5 果味深いことは, メシヨ 。テノチティ トランの紋章は征服後 も生 き残 り,新 たな地位 を得 るにいたったということ,そ して,そ れが三世紀間の植民地時代 にグアグルーペの聖母像 といかに結びついたか も読み解 くことができるという ことである。 ではベガサスはシンボル としてどこに認められ,何 を意味 していたのであろ うか。このことについては, トバール ・デ ・テレサから得た示唆が大 きい。上 述 したように,副 王宮殿が襲撃 を受けて修復 された1625年,中 庭の噴水の中央 に彫 刻 と して付 され た。 これ は副 王 政 府 に対 し 「我 々 の 目が光 って い る こ とを 忘 れぬ ように」 と暗黙の圧力 をかけているクリオー リョの仕業であると考 えら れないで もない。1606年に 「ヌエバ ・エスパーニャ, とりわけ メキシヨ市で, 年 間 を通 して観察 され る守護星座が二十の星か ら成 るペガサス座 である」 と書 いた ドイツ系学者マルティネスがいた。1615年にセビー リャで干J行された 『イ ンディアス王国論』の中で トルケマダは,メ キシヨの地名のナワ トル語の語源 的意味は泉 または湧 き水 であると述べ ている。それに対 してギ リシャ語でペガ サ スの語源は peguёで,そ の意味 もや は り泉 または湧 き水だ とい う。噴水のペ ヽ サ物 冴 た わ % 物 知 α 物 夕脅 ∽ 物 α , I . N . I . , 1 9 9 4 , p p . 5 9 - 6 8 , 邦 訳 は 『月 の う さ ぎ一 一 メ ソ ア メ リ カ の 神 話学―一 』篠原愛人 ・北篠 ゆか り訳,文 化科学高等研究院,1993年 に拠 った。 33)こ の こ とにつ いてはW章 で扱 う。 34)Tovar de Teresa,の.びガナ. 35)Ibid.,pp.57-58.
36)Juan de TOrquernada,Mo%α 竹力筋 r%冴ガα%α,t.3,Madrid,1723,citado por Tovar de Teresa, θク.びグサ.,p.58.
126 彦 根論議 第 304号
ガサスを制作 した人物はおそ らくこれ らの著書 を読んだか,聞 き知 っていたの ではないだろうか。 また,三 百年間の植民地時代 に, 自著に蔵書印 exlibrisを 印刷 させ ていたのはシグエ ンサ ・イ・ゴンゴラ唯一人で,そ のデザインがペガサ スだった (図1)。Sic itur ad astra「この ように して天に向か うのである」 と い う標語 を伴 っていた。 クリオー リョは反政府的で野心に満 ちた政治的イデオ ロギー を表明す ることを護身のために控 えなければならなかったのだか ら,ペ ガサスにこめ られた暗喩 とその図像利用は検討に十分値す る。 聖 フェ リペ ・デ ・ヘ スス とケツァル コア トル=聖 トマスに関 しては,こ こで は簡単 な紹介に とどめ るが,前 者はメキシヨの クリオー リョで,フ ィ リピンの
マニラから司祭叙任を受けるため帰郷する途上,秀 吉統治下の日本に漂着し宗
教 問題 に巻 き込 まれ,1597年 長崎 で処刑 され た。1627年に列福 され,29年 に メ キ シ ヨ市 の守護聖 人 に定め られ た最初 の メキシ ヨ人 であ る。上述 の ミゲル ・サ ンチ ェスは1640年2月 5日 の聖 フェ リペ の祝 いの 日に,祝 福 の説教 を行 なって いる。 もうひ とつ, この時代独特のシンボル解釈は, メソアメ リカ古来の主神 のひ とつで 「羽毛のヘ ビ」のケツァル コア トル と十二使徒の聖 トマスの一体化 であ り,キ リス ト教 の伝道はスペ イン人の到来す る前か らすでに,先 住民の間 ではケツァル コア トルの名 で知 られていた使徒 の聖 トマスによって行 なわれて いたのだ との見解が示 されだ した。 このようにクリオー リョの識者たちが新約, 旧約聖書の詳細な検討 を通 して,先 スベ イン期の歴史 と神話 を再解釈すること の意図は,異 教 の中にキ リス ト教信仰 の前身や予兆 を見いだすことにあったと 考 えられ る。 これこそ クリオー リョ精神 の覚醒の時代 なのである。 38)め ″.,p.64. 39)川 田玲子 「メキシヨ 「聖 フェ リーペ ・デ ・ヘ スス崇拝」に関す る一考察」 ラテンアメ リカ研究年報 No.16, 日本 ラテンアメ リカ学会,1996年 ,pp.6094;Fernardo Benitez,二 θs 少ガ物夕つS物 競 Cattθs.二αクグ冴ασれθ″物 夕%タブsをわ ズレ7,Biblioteca Era,1953,pp.106-113. 40)Paz,の .び″.,pp.55y64.;Enrique Florescano,E′ 物ゲわ 冴夕c吻タタαたあα〃,F.C.E.,1993.
植民地期メキシヨにおける 「グアグルーペの聖母」信仰に関する一考察 I H グ ア ダル ーベの聖母の象徴性 をめ ぐる図像 学的検 討 グア グルーペ の名 を持 つ このマ リア信仰 は,新 約聖書 の中の と りわけ ヨハ ネ の黙示録 に由来 してい る。 と くに17世紀 には,図 像学的に精巧 で,完 全 に ヌエ バ ・エ スパー ニ ャ的 と言 え る独 自の加工 を施 した聖像 の造形作 品が輩出 したこ とに よって,聖 母マ リアにまつわるシンボ リズムが深め られた と言えよう。 そ の図像上の技巧 は,知 の面で練 り磨 ぎす まされていて,神 学的解釈上 も大胆 き わ ま りない。 この興味深い図像的変遷 を詳 しく見てみ ることに しよう)。 テペヤ クの丘は,先 スペ イン期か ら,メ キシヨ盆地のなかで もアステカの都 メシヨーテノチティ トランを間近 に望む絶景の高み とみなされていた。 しか も 征服後は束の玄関港ベ ラクルス方面 と鉱 山業の栄 える広大 な北方への出発地点 で もあ り,古 来旅立つ人々の心に行 く手の身の安全や吉兆 を願 わずにはいられ ない気持 ちを引 き起 こさせ る聖所だったであろうことは想像 に難 くない。上述
Gregorio Jott de Lara 18世紀
“Visi6n de San Juan en Patmos―Tenochtitlan". Templo de Coixtlahuaca,Oaxaca
4 1 ) 以 下 は, J a i m e C u a d r i e l l o , “路畝物容 夕物 F 功ナ物θs 晩 % θび妨グナ筋% . 乙α 吻 2 γ A 影 ゲ物" A r t e s d e M l x i c o , N t m e r o 2 9 , 1 9 9 5 の近業 に拠 る考察 である。
128 彦 根論叢 第 304号 の ミゲル ・サ ンチ ェスの書 は メキシ ヨ史 historiografFa mexicanistaにとって の礎石 とみ な しうる。 なぜ な ら,サ ンチ ェスは単 に グアグルーペ の聖母へ の信 仰 を広 め るこ とに熱意 を燃や したばか りでな く,こ のアナ ワ ク高原が聖母顕現 の ため の選 ばれ た土地 であ るこ とを強調 し,そ れに よって ク リオー リョの祖 国 愛 の培養 に寄 与 したか らであ る。図 2は ,「パ トモス =テ ノチ テ ィ トランでの聖 ヨハ ネの幻視 」 と題 され ていて,18世 紀 の もの で時代 は下 るが,サ ンチェスの 解釈 を踏襲 してい るこ とが ご く最近 になって認識 され た。右 手後方 に微 か であ るが見 え る帆船 は, ク リス トバ ル ・コロンに象徴 され るキ リス ト教徒 たちの到 来 を示 してい る。 ミゲル ・サ ンチ ェスは,聖 ア ウグステ ィヌスに想 を得 て,ヌ エバ ・エ スパー ニ ャで起 こった とされ る神話的 なで きご とを,黙 示録 で聖 ヨハ ネが受 けた啓示 と結 びつ け たわけ であ る。 サ ンチ ェスが両方 ので きご とが いか に も同時 に進行 したか の ご と く,か つ確信 を もって語 ってい るため に,「彼 の グアグルパ ニ スモ につ いての行論 は ヌエバ ・エ スパー ニ ャー 国の命運 に とって保 証付 きの説得 力 あ る ものにな った。」とクア ドリエ リョは説 く。サ ンチェスに とっては聖母 出現 も聖 母像 も聖母 に まつ わ るいか な る象徴 も皆,黙 示録 の初 め に語 られてい るで きご との復 元 であ るこ とに疑 間の余地 はないのであ る。 そのため に,た とえば 二 人の ヨハ ネ (スペ イン語 では フア ン)に 相 当す る人物 を見 いだ してあてはめ て い る。す なわ ち,時 の メキシ ヨ市大 司教 の フア ン ・デ ・スマ ラガ,聖 母 が そ の 日の前 に顕 れ た平 民 インデ ィオの フア ン ・デ ィエ ゴ,そ の伯 父 で聖母 の起 こ す奇蹟 の最初 の受益 者 となったフア ン ・ベ ルナルデ ィー ノの二 人 を,そ れ ぞれ, 黙示録 の著 者 ヨハ ネ,洗 者 ヨハ ネ,ダ マ ス クスの ヨア ンネス と重ね あわせ てい 42)ア ステカの都,メ シヨ ・テノチティ トランをヨハネが幻視体験 をしたパ トモス島 と同一 視 してい る点に注意。(黙示録 第一章九節 :あ なたがたの兄弟 であ り,共 にイエスの苦難 と 御 国 と忍耐 とにあずか ってい る,わ た しヨハネは,神 の言 とイエスのあか しとのゆえに, パ トモス とい う島にいた。) 43)黙 示録第十二章一節 :大 いなるじるしが天に現れた。 ひ とりの女が太陽 を着て,足 の下 に月を踏み,そ の頭 に十二の星の冠 をかぶ っていた。;同三節 :ま た,も う一つの しるしが 天に現れ た。見 よ,大 きな,赤 い龍がいた。それに七つの頭 と十の角 とがあ り,そ の頭に 七つの冠 をかぶ っていた。
植 民地期 メキシヨにおけ る 「グアグルーペ の聖母」信仰 に関す る一考察 129 4 4 ) る。 フア ン ・デ ィエ ゴのナ ワ トル語 の名 前 は 「鷲」 の語根 を もつ クア ウ トラ トワ ク C u a u h t l a t 6 h u a c で, シ グ エ ン サ ・イ ・ゴ ン ゴ ラ は 「話 す 鷲」“E l q u e r e v e l e n t e m e n t e h a b l a c o m o a g u i l a . " と呼んだ。 この ように鷲が隠れた意味 を 持 たされていると解釈 した り,聖 画像 の中にアステカの都 の紋章であった鷲が 描かれた りしてい るの も, クリオー リョならではのグアグルーペの聖母信仰 に 対す る意図的操作 の表れであ り,生 地への思い入れのなせ る業 とみなす ことが で きる。図 3は ,使 徒聖 ヨハネ とフアン ・ディエ ゴ(右)につ き従 われ,メ キシ ヨの紋章の上に休む聖母像 であ り,図 4は ,メ キシヨ市の守護聖母 としての宣 図 3 出Iiguel de Villavicencio 18世紀 マ ドリー ド版画館
図 4 Jott de Fibera y Argomanis 1778 年 バ シリカ付属博物館, メキシヨ市
44)ダ マ ス クスの ヨア ンネス (676-754)は,シ リアの ギ リシャ正教神学者 で,初 期 キ リス ト教 神学 の体 系化 に努 め,八 世紀聖画像破壊政策 を行 なった束 ローマ皇帝 レオ三世 に対抗 し, 偶像 崇拝 を擁護 した。
45)Carios Siguenza y G6ngora,Piedad heroyca de don Fernando CortOs,1694-1700,p. 63,citado por Noguez, 9ク.●グチ.,p.145,
130 彦 根論叢 第 304号 誓式の聖母像 であ る。 それ ぞれ イン ク壷 (聖ヨハ ネが黙示録 を書 くのに用 いた) とヘ ビを くわ えて い る鷲 に注 目され たい。 なお,デ ィエ ゴはサ ンテ ィア ゴつ ま り使徒聖 ヤ コブの別称 であ り,そ れは異 教徒 イス ラムに対 す るスペ イン人の レコンキス タにおけ る守護聖 人だったこ と を思 い起せ ば,先 住 民の 中で も平 民のデ ィエ ゴに異教根絶 の隠喩的役割 を与 え て い る ととれ る。 クア ドリエ リョに よれば,サ ンチェスは大 天使 ミカエルに合 わせ て ミゲル と 改称 して いたの だ という)。それ は同胞が この地 で生 まれ た こ とで独 占的 に聖母 の恩 恵 を被 るこ とが で きるのだ と保証 し,聖 母 の驚異の聖画像 を伝播す るこ と を 自らの使 命 と考 えていたか らにほか な らない。実際,サ ンチェスの著書以来 グアグルーペ の奇蹟諄 を説 いたいずれの書 において も,聖 ミカエルは重要 な役 割 を占めていると言える。 ヨハネの黙示録第十二章の,七 ツ頭の龍 と戦 う聖 ミ カエル と鷲の翼 を与 えられ る女 とが,図 5の ようにグアグルーペの聖母 をめ ぐ る図像 の中にたびたび相伴 って表現 されているばか りか,聖 ミカエルはアメ リ カ大陸に顕れた 「第二のイブ」すなわちテペヤ クの丘の聖母 を運び伝道する役 割 を担っているか らである。 このことはマ リアの聖像の降臨をアメリカ大陸で 実現 しただけでな く,そ うす ることによって異教徒の偶像崇拝の中に古来化身 していた悪魔 を永久に追放 した と考 えられた。 図 5 作 者不詳 18世 紀 個 人 コレクション 46)Cuadriello,の .び″.,p.15 47)黙 示録第十二章七節 :さ て,天 では戦 いが起 った。 ミ カエル とその御使 たち とが,龍 と 戦 ったのである。龍 もその使 たち も応戦 した。 48)キ リス トを第二のアダム,マ リアを第二のエバ と捉 えるのは,二 世紀にまで遡 る古い思 /
植民地期メキシヨにおける 「グアグルーペの聖母」信仰に関する一考察 131 聖 母像 の肌 ・着物 ・マ ン トな どの色 あい,像 の浮かぶ被 り布 の粗 さ,光 輪 と 星 の数,聖 母 の姿 態,顕 現 の 日に ち,太 陽の位 置 な どに もすべ て,隠 され た意 味が あ る と考 え られ る。 グア グルーペ の聖母像 は,そ の図像 学的形式か らいえ ば,「聖処女 マ リアの無原罪の御 字 り」の像 であ る。被昇 天 の像 と区別 して,こ の場合よつ う全身太陽の光に包まれ,足 下に月や蛇を踏む女性 として表現され る。グアグルーペの聖母像はと言えば,「三 日月が足下にあった。聖母は月によ ってこの地 と人々を慰安 しつづけている。[太陽を制御 したと同じように]月を も支配 し,害 を引き起 こさないようにしている。月は水,雨 ,洪 水のもとであ るから,月 から土地 と人々を守るということは,洪 水が起 こらないように水害 から守ることを意味する。メキシヨ市はその名の示す とお り水の多い場所なの で,つ ねに湖の水,湿 気,洪 水 と聞ってこなければならなかった。聖母マ リア は足下に月を擁す聖像 としてこの地で発見された。聖母は月から生えている。 それは月 [の害]か らの庇護 をもたらすことだったのである。」メキシヨという 図 6 メ ン ドサ絵文書,lam。 1,fOr.Zr ヽ想である。第二のエバ であるマ リアはエバの犯 した罪 をあがな うために,キ リス トの母 と な るべ く神 の召命 を受けた とされ る。石井美樹子 『聖母マ リアの謎』白水社,1988年 ,pp. 44-53. 49)藤 田富雄 『ラテン ・アメ リカの宗教』大明堂,1982年 ,p.247. 50)石 井前掲書,pp.9299. 51)Miguel sanchez,9ク .σガ″.,pp.221-222. 1 6 世紀, メ キシヨ盆地の湖はナワ トル語 で M e t z i t l i a p a n と呼ばれ, 月 の ( m e t z l i ) 水の中 ( a p a n ) を意味す る。V O a s e , L 6 p e z A u s t i n , の. 冴サ, , p . 6 1 .
132 彦 根論叢 第 304号 言葉は まさしく月に由来す る地名の M e t Z l i であると理解 されていた。注 目に値 す るのはこ う語 っているのがサ ンチェスであ り, ほ かの クリオー リョ聖職者た ちの グアグルーペの聖母信仰全容 をめ ぐる解釈 も同様 に, 先 住民的要素 を排除 す るのではな く, む しろ積極的に取 り込んでいるとい うこ とである。 そ うす る ことによって,ペ エンスラールのグアグルーペの聖母信仰 とは差異化 し,独 自 性 を強調 しているのだ と読み取れ る。 ところで,サ ンチェスが解かねばならぬ謎がひ とつあった。聖母像 に翼がな いことである。 その鍵 は,い まや福音の説かれた王国メキシヨ (メシヨーテノ チティ トラン)の 起源 を示す紋章,す なわち図 6の ようにサボテンに止 まるメ シー カの鷲にあ り, しか もそれはすでに聖書の中に現れていた と考 えたのであ る。 メキシヨ人の 「鷲」であるフアン ・ディエ ゴと同様 に,黙 示録の鷲に代 わ るもの として先 スペ イン期の紋章 を結びつけたのだ。 図 7 作 者不詳 17世紀 バ シリカ付属博物館 図 7は ,中 央 に グア グルーペ の聖母,そ の両脇に大天使 ミカエル (右)とガブ リエ ル,四 隅 に フア ン ・デ ィエ ゴヘ の四度 の顕現 の場 面,足 下 にパ トモスーテ ノチテ ィ トランでの ヨハ ネの幻視 の様 子が配 され た作 品の一部 (ヨハ ネの場面 のみ)で あ るが,図 2と 並 んで,こ れほ ど大胆 にア メ リカエ ス タ的解釈 を帯 び た ものは現 存す る図像 の 中にはほか に見 られ ない。 5 2 ) 黙 示録 第十二章十四節 : 女 は 自分 の場所 であ る荒野に飛んで行 くために, 大 きな鷲の二 つの翼 を与 えられた。 そ してそこでへ び ( 注 : 地 に落 とされた龍のこと) か らのがれた, 一年,二 年, また,半 年の間,養 われることになった。 図 6 に あげたメシコー テ ノチティ トランの紋章 にはヘ ビは現れていないこ とに注意。 53)Cuadriello,qみ びル.,pユ6.
植 民地期 メキショにおけ る 「グアグルーペの聖母」信仰 に関す る一考察 図 8 Miguel Sanchez,Ittc%冴 タル ル/物gF%ソИ夕″カ ソ,物冴竹 冴夕Dわ s冴 夕C夕″滋 力″q 物グ↓昭 的影物夕物彦 ″ α″び″冴α夕%筋 C励 沈〃 彦 虹犠 グびθ,1648. ミゲル ・サ ンチ ェスは 自らの著書 の表紙 (図8)に ,ハ プスブル グ朝の紋章 であ る双頭 の鷲 と聖ペ トロ(初代 ローマ教 皇),す なわちカ トリック教会 の象徴 で あ る鍵 と王冠 とともに,上 述 のアステカの都 の紋章 であった もので,征 服後 は メキ シ ヨ市大 司教 区の もの とな った紋章 の 中の要素 であ るサ ポテンを据 えて い る。 これ は,ひ とつ の図像 の中に メキシヨの土地 の精神 的 ・政治的象徴 を概 念 的 に も視覚 的 に も融合 させ て,征 服 され は したが アステヵ王 国がその翼 を聖 母マ リアに差 し出 しているとい う,サ ンチェスの洞祭 を表 している。換言すれ ば,著 書の中で蕩々 と述べ ている彼の主張は,こ の表紙に図像の形で雄弁に語 られているのである。 IV 結 語 17世紀の ク リオー リョ画家たちが,(異 端審問 という制約上,ど れほど独創性 が許 されていたかは疑間であるが)聖 画像の中で象徴的意味のさまざまな異説 の どれ を示唆す る場合 に も,聖 母像の中に何 を描 き加 える場合に も,制 作の段 階ではい くらかの可能性の中か ら選択,固 定化,再 解釈による意味づけを行 な っていたことを見て きた。画家でな くとも,そ うす るためには,シ グエンサ ・ イ ・ゴンゴラに代表 され るように,ア ステカおよびその他の先住民族の神話や 伝説 を重要視 し,史 料 を集め調査 を重ね,理 解 し自分の一部に取 り込む という
134 彦 根論叢 第 304号 営為 を積 んでいたわけである。 この ような クリオー リョの精神運動が最初に明 確 で肯定的 な形 で現れたのが,宗 教面においてであった。 その とき, ク リオー リコの教師であるばか りか,代 弁者 として ク リオー リョを意識化 していったの が イエズス会士である。先住民文明に対す るそれ までの態度 を改め,先 住民の 過去 を蘇 らせ ようとした,古 典 的人文主義の影響 を受けたイエズス会 の シンク レティズム的性格 は, ク リオー リョのパ トリオティズム と結びついたのだ と考 え られ る。 この″点の事実関係 は精査す る必要があ り,今 後の課題 としたい。 テイラーが実証 しているように,先 住民に対 してグアグルパニスモの普及の 努 力が払われだ したのは18世紀半ば以降の こ とである。 そ うして徐 々にグアダ ルーペの聖母信仰 は当時のメキシヨ植民地社会の人種,経 済,文 化,政 治の多 元性 をひ とつに結合す る力 を持 ちは じめていったのだ と言えよう。 ただ し,グ アグルパニスモが制度上のシンボルか ら大衆文化のシンボルヘ と 転 じるのは,教 会 と国家の分離が起 こった19世紀半ばになってか らである。な おかつ, シンボル とい うものは操作が可能であ り, グアグルパニスモの場合, 社会変革へ の流れ を抑制す るための支配の道具 とも,大 衆 を締め と恭順 の状態 に保 ってお く催 眠剤 としての方策 ともな りうる点 も認識 されなければならない。 グアグルーペ の聖母 はメキシヨ人全てを一体化す ると聖職者は説いて きたが, 現実の社会的不平等 を履い隠す ことはで きない。 そ うは言って も,こ の地域 で の これか らの民族,国 家,エ スニ シティのあ り方 を問 うとき,メ キシヨ文化の 可視的足跡のひ とつであるグアグルパニスモか ら得 られ る示唆は多い と思われ る。 54)Pazの 前掲書にはシグエンサ ・イ ・ゴンゴラお よび彼 と並ぶ知性の尼僧,フ アナ ・イネ ス ・デ ・ラ ・クルスの クリオー リョとしての知的模索が詳述 されている。
55)Francisco Javier carranza S.J.,Juan JOSё Ruiz Castaneda s.J.,Juan de Goicochea S.J.,Bart01om6 Felipe de lta y Parra y Francisco Javier Lazcano S.J,StC物 5杉物 θ物容 Cttαttα″″クα%θS. Fttθθ―Fr65 con Selecci6n y estudio introductorio de David A.Brading, Centro de Estudios de Historia de MIOxico CONDUNIEX,1994.
植 民地期 メキシヨにおけ る 「グアグルーペ の聖母」信仰 に関す る一考察
El Guadalupanislllo en la Epoca Colonial
Yukari Hojo
lnfluenciada por comentarios como el de Sahagan en torno al culto a la divinidad prehispanica Tonantzin se ha desarrollado toda una historiografla que pretende ligar el culto guadalupano a una practica religiosa indlgena desde el siglo XVI.E'l presente ensayo intenta demostrar que el guadalupanismo en sus prilneras etapas
fue un culto creado, fundamentado e irnpulsado por la ё lite intelectual criolla en su afan de hacer valer la cultura y el ser americano frente a la prepotencia peninsular.
El Guadalupanismo sera十 一一司unto con otros movilnientos cultu‐ rales,como el culto a San Felipe de Jests, los intentos por ligar a la figura de Santo Tomas cOn Quetzalc6atl y la obra de
intelectuales como Sigunenza y G6ngora y su creaci6n de sIInbolos, emblemas y ensayos― 一一一―tOdO un compleJo cultural que expresara los anhelos de un criollismo cada vez mas beligerante.
Una obra decisiva, “ Imagen de la Virgen ttlaria...'' de WIiguel sanchez,cOncentrara,con su particular lectura de las Escrituras, en una sola sirnbologla a la rnuJer del Apocalipsis y la Virgen de Guadalupe;rnas tarde,las interpretaciones criollas sumaran a 6sta las imagenes de la fundaci6n de Attё xico―Tenochtitlan para crear una sirnbologtta de anhelo de libertad que aparecera en todo tipo de creaciones culturales(poemas y arcos triunfales, sermones y
monumentos arquitect6nicos,etc。 )y en la que imagenes cOmo la nluJer aguila del Apocalipsis o la constelaci6n del Pegaso se usaran velada o abiertamente para promover el criollismo mexicano.