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好色五人女における西鶴的表現の意味

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好色五人女における西鶴的表現の意味

イ1、 O冨q二二算帥昇口、の目㊦魯三盈豆ooh齢﹃㊥q陰ξぢ勲5、、目ぽ㊥閑霧50建玉Oo三昌。冨5ゆ.. 冒曽ロ駐悶謬eぴ昌言貯防塁 9  酉鶴の小説はその文体・語法・修辞等において著しい特色をもつてみる。省筆に よる独得の簡潔性、矢継早やに短句を連接して目まぐるしい速度で進展する晶出雑な 文体、更に又さまざまな破格の語法、警句の挿入、格言狸諺の援用、古典の巧みな 戻りなどの目立つことは、すでに周知の事である。且つその殆んどが彼の俳諮から 小説の世界に持込まれた表現技法であるとする見方も正しいと思ふ。  こxでは、かxる西鶴の文章が好色五人女の一篇において示す特徴的な文体の一 二について考へ、それが西鶴の小説における文芸精神の在り方と如何に交渉するか について主として考へて見たい。西鶴の文章は、読んで面白く解釈して難しいとい はれる。解釈が容易でないのは、論理的合理性に欠ける所があるからである。では 読んで面白いのは何故であるか.簡潔に見えてその実複雑な超論理的糠断酒をもつ酉 鶴の文章の特異な簡潔性の理解に、いくらかそれが役立ち得ればと思ふ。 コ  短句構成をもつて激しい遠さで進展する西鶴の文章には、句の連接の仕方に自ら 一二の特色を見る事が出来る。その一として、述語の中止形によって断続する句法 を取上げてよいと思ふ。これは情景の変転推移を無視して、文に終止符が打たれな いまxにどこまでも書き続けられる西鶴独得の文章の構成に、直接ふかい関係をも つ句法である。好色五人女にもこの例は極めて目立ってるる。        、、、、 、、D   夜するほとの事をしつくして後は世界の図にある裸島とて家内のこらす女郎は       ラ       ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へゆの ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘヨ   いやがれと無理に帷子ぬがせて肌の見ゆるをはじける︵巻一ノ一︶  右・の文中、ωは述語の省略として一応文意が通ずるが、囲はその他動的叙述を中 止して、⑧の自動的叙述に転じて結んだ、極めて無理な句法である、       ヘ ヘ ヘ へ   清十郎おなつを盗出し⋮販あへずもかり衣浜びさしの幽なる所に舟待をし   へ   て思ひくの旅用意伊勢参宮の人も有大坂の小道具うり・・.十五よれば十国   の者乗合舟こそおかしけれ︵巻一ノ四︶       ヘ ヘ ヘ ヘ へ  こxでは﹁舟待をして﹂を境にして、二人の主入公の行動の叙述から、乗合客の 風俗描写へ筆が転じてみる。当然文に一旦の終止符を打たねばならぬ所が、中止形 のま玉一つの文としていひ続けられてみる。普通の中止形の用法ではない。   身はかぎりあり恋はつきせず⋮天満といふ所からすみなす占有女も長し片        ヘ ヘ ヘ       ヘ ヘ       ヘ ヘ ヘ        へ   里の者にはすぐれて耳の根白く足もつちけはなれて十四の大晦日に親里の御年,   貢三分一銀にさしつまりて棟たかき町家に腰もとっかひして月日をかさねしに   へ巻ニノこ  巻二の巻頭、樽屋とおせんの人柄を述べた一節であるが、おせんの現在を語る算ザ が突如としてその生ひ立ちに転じてみる。時の断絶を無視して現在に過去が書き継.       ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ がれてるる。誠に唐突である。﹁足もつちけはなれて﹂で一つの終止符が打たれて 然るべきところと思はれる。すると、この中止形は終止形にかはる終止の絡として 用ゐられてるるのではないかと疑はれる。次の例の場合も同様である。   藤の八房つらなりしをかざし。見ぬ入のためといはぬ計の風義華華から見尽せ        ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ   し美女とも是にけをされて其名ゆかしく驚けるに室町のさる息女今小町と云捨h   て行︵巻ニノ一︶       ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ  これも上交の語勢からすると﹁是にけをされて﹂で当然いひ切るべき所である. この二例から見れば、これらの中止形はただの巾止形ではない。中止形が終止形に−

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10 (宮田) 好色五人女にわける西鶴的表現の意味 かはる終止の格として、いひ切る語形として用ゐられてるるといってよいであら づ。はじめのこ例も同じたぐひと見られる。この様な例は好色五入女において極め て頻繁に現れる。ではこの様な終止の格の語法は何に由来するのであらうか。次の 例を見よう。        ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ       ヘロ   入道俄にわけもなふなって男色女色のへだてはなき物とあさましく取みだして   移気の世や心の外なる道心源五兵へにかきらず皆是なるべしおもへはいやのな   らぬおとしあな釈迦も片あし踏込たまふべし︵巻五ノ四︶     ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ  これはあさましく販みだしてを境にして、客観的叙述が主観的な評語に転じてゐ       ヘ ヘ ヘ ヘ へ る。尤も﹁移り気の世や﹂の一句の働きは二様にとれる。﹁取みだして﹂に直接っ        へ 壁いた詠歎的批評として読むか、それとも﹁心の外なる﹂以下と一つになって、取 へ へ あ へ みだした様子に対する下交の批評の核心をなす語句として読むかである。この場合 はむしろ上につづくよりは下文の方に比重がかxつてみて、下交の冒頭に位置すベ       ヘ ヘ ヘ ヘ へ き言葉と受取れる。いつれにしても上交の語勢を5けては﹁取みだして﹂で文は︸ 且収めらるべきであらう。これも亦終止の格に働いてみると見られる。とすれば、 それにともなって﹁心の外なる﹂以下﹁踏込たまふべし﹂と結ぶ評語のもつ洒落な          ヘ ヘ ヘ ヘ へ 鳶口に照らして、﹁警みだして﹂の語勢にも、西鶴の咄の気息があらはに感じられ て来るのに気付くのである。こxにおいて、これらの中止形による終止の句法は、 日常談話に用ゐられる咄の旬切りの口調の移りではないかと疑はれる。更に例を挙 ずようQ   人く世聞をおもひやりて外へしらさぬ内談すれども耳せはしき世の中妻沙汰          ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ   つのりて春慰にいひやむ事なくて是非もなきいたづらの身や︵巻三ノ三︶     ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ  この﹁いひやむ事なくて﹂にも、咄の口調の移りとしての交の終止を、明かによ み取る事が出来るではないか。        ヘ ヘ ヘ へ   あしき事は身に覚て翌暁打まけてもだまり傾城買取あげられてかしこ起するも   のなり︵巻三ノ五︶     ヘ ヘ モ カ  この﹁身に点て﹂にも終止の格としての咄の気息があらはである。なほ次の如き 場合がある。       ヘ へ   其日より座敷籠に入て浮難義のうちにも我身の事はなひ物にして︵巻一ノ四︶   但馬屋内蔵の金戸棚にありし小判七百両見えさりしこれはおなつに盗出させ清        へ あ へ   十郎とりてにげしと云触て折ふし悪敷商事ことはり立かね哀や甘五の四月十八   日に其身をうしなひける︵巻一ノ四︶      ヘ ヘ       ヘ ヘ へ  前者の﹁入て﹂は﹁入れて﹂と読みならはしてみる。且つ後者の﹁云潤て﹂と共, に何れも受身の意味に解かれてみる様である。しかしここにも咄の口調の移った終﹂ 止の絡が明かに読み取れる。のみならず、・さう解する事によって敢て受身に解くま でもなく、そのまNで何の抵抗もなく自然に文意の通ずるのに気付くではないか.  かく見れば、さきにあげた諸例の何れもが、咄の口調の移って出来た終止の格と. して読めないものはないやうである。のみならず.西鶴の省筆としてこれを補ふまで もなく自然に交意の通ずるものさへあるのであるQ従って、短句をつらね情景の変一 転も無視して、はてしなく書き続けられる様に見える西鶴の文章も、実は西鶴の咄 の呼吸にのって、その要所津々で息継ぎによって切れてみるのに気付く。しかもこ の中止形を以てする終止の格で断続する交脈が好色五入女には極めて多いのであ る。のみなら.ずこれは西鶴の小説を通じて目立つものである。しかもこの句法が右− の如く西鶴の咄の呼吸と結びついて出来たと見られることは注意されねばならな い。それは又彼の矢数俳讃の附合の呼吸にもつながることを想はせるのである。 =        ヘ ヘ ヘ ヘ へ   然も男子に清十郎とて自然と生つきてむかし男をうつし絵にも下り其さまうる   はしく女の好ぬる風俗︵巻一ノ一︶        ヘ ヘ ヘ ヘ へ  巻一の冒頭清十郎の生ひ立ちを説﹁く一節である。この﹁うつし絵に﹂が、﹁に﹂ から﹁も﹂への移りのうちに、本来上をうけて結ぶ位置にある言葉から下につ“く       ヘ ヘ ヘ ヘ へ 言葉となって、その性格を変へてるる。﹁も﹂に言ひつぐ事によってうつし絵にが 二重の性格をもたされてみるのであるQ  かく一つの語句が交中にあって二重の機能をもつ構造は、西鶴の交章が連鎖形態・ をもっといはれる一つの大きな要素をなすもので、さきの中止形断続法と並んでこ xにとり上ぐべき、西鶴文体の一典型であると思ふ。これは一見掛詞の技法に似て. はみるが、全く別の機能をもつこといふまでもない。むしろ後の前句附の段々附の 諸法に通ずるものである。右の例はその最も単純な構造をもつものN一つにすぎな いが、この構造の吟昧は西鶴の小説述作の心にふれるための一つの手が㌧りとなる であらう。以下その例についてみよう。        ヘ ヘ ヘ へ   おせんがかへるにつけこみないく約束今といはれていやがならず内に引人跡 一 にもさきにも是が恋のはじめ︵巻ニノ五︶        ヘ ヘ ヘ へ  前者同様一語が二重機能をもつ例であるが、こNでは﹁いはれて﹂は本来上交を

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5 5 9 1 腎 4 第 要 紀 大 滋 11 うけて自動詞として結ばるべき語勢である。それが受身に翻されて下についき、長 左衛⋮門についての叙述が、おせんのそれにふりかへら.れたのである。       ヘ ヘ へ   法.飾.かんるい流し此身にも画道はすてかたしとはやたはふれける女ぞとしらぬ   ヘ へ   が仏さまもゆるし給ふべし︵巻石ノ三︶        ヘ ヘ ヘ ヘ へ  こΣでは、﹁しらぬが仏﹂が本来下交を5けてはこ﹂で言ひ切らるべぎ述語の位 置にある。それがそのま﹂下文の主語の位置に据ゑかへられる。   女の一生にひとりの男に身をまかせさはりあれば⋮出家をとげらる﹂事も      ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ   有しになんぞかくし男をする女うき世にあまたあれ共︵巻尺ノ四︶       ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ  こΣでは﹁なんぞかくし男をする﹂は明かに上文をうけて結ばるべき述語であ る。それが一,女﹂にいひつ“けられ下文の主語の形容詞的修飾語の位置を占めるの である。        ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ   さまく詫ても聞ず菟角はすぐにいっかたへもお暇申てさらばとてかへられけ   る︵巻一ノ一︶        ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ  こ﹂でも亦﹁いっかたへもお暇申て﹂が上文の述語と下文の副詞的修飾語との二 重の機能を果す。これは本来清十郎に対する親仁の勘当申渡しの言葉として結ばる べきもの。それがそのま﹂に一座の衆に挨拶する親仁の行動の叙述になってみる。  以上は比較的単純な構造をもつもの﹂例であるが、や﹂複雑なものになると、        ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ   はや一里あまりも出し時備前よりの飛脚横手をうつて搬も忘たり刀にく﹂りな          ヘ ヘ ヘ へ        ゐ へ   ゐ ヘ ヘ ヘ へ   がら状箱を宿に煮て来た男磯のかたを見て︵巻一ノ四︶  こ﹂では一.扱も忘たり﹂をうけた飛脚の言葉が﹁男﹂にいひつがれる事によって、 忽ち﹁男﹂の形容詞的修飾語となり、会話が地の交に転ずるのである。   親かた伝へ聞て何とぞして其男にせんをもらはさんと横町のか﹂をよびよせ内   談有しにつねくせん申せしは男もつ共職人はいやといはれければ心もとな        ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ  ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ  ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ         ヘ ヘ ヘ        へ   しと申せばそれはいらざる物好み何によらず世をさへわたらば勝手つくとさま   く異見して︵巻ニノ四︶        ヘ ヘ ヘ ヘ     ヘ ヘ へ  こ㌧の﹁それは⋮勝手つく﹂も上文をうけてはおせんの親方が横町の曝へ応 答する言葉であるしところが﹁とさまく異見して﹂にうけられる事によって、そ の言葉がそのま﹂おせんに対する異見の言葉となる、  これら.の例を見て来ると、西鶴がこの様な文章のもつ二重の効果に自ら興じつΣ 筆を運んでみる様が、ありくと浮んで来る。そしてこの様な例は到る所に見出さ れるQその・甲にも次の如きもの﹂あるのは注意されてよい。   世に有ほとの万宝ない物はなし源五兵へうれしかなしく是をおもふに江戸京大、       へ   坂の太夫のこらず請ても芝居銀本して捨ても我一代に皆になしがたし何とぞつ    ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ   へ   かひへらす分別出ず是はなんとした物であらふ︵虚説ノ五︶       ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ  こ﹂には﹁是をおもふに﹂からつ寧いて来た源五兵衛の述懐が﹁つかひへらす分・ へ 別﹂まで来て、これに﹁出ず﹂の一語をつぐことによって、急転して結ばれる。こ Σには明かに、論理的に為筋を追ふ読者を驚かせるに足る、叙述の飛躍がある、そ れは﹁何とぞ﹂から来る﹁分別もがな﹂ともいふべき語勢を翻して矢庭に﹁出ず﹂         ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ といひくだし、﹁つかひへらす分別﹂に二重の機能をもたせるや否や文に結末.がつ けられたためである。これは文脈を急転させた語自身で文に突如として終止符が打 たれた場合である。のみならずこ﹂に見逃せない事は、次につぐく一、是はなんとし た物であらふ﹂といふ結びの一文が、この﹁出ず﹂のもつ客観的叙述の色あひによ って、主人公の述懐としてよりも、作者西鶴のおどけた咄口の色調を濃く湛へる結. 果となってみる事である。こしにこの句法も西鶴の咄の呼吸と結ぶものであること を思はせるのである。  次にこの句法が地の文と会話の中にとけ込んだ例を拾って見よう。   朝貝のさかり朝詠はひとしほ涼しさもと曽より奥さまのお﹂せられて家居はな        ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ   れしうらの垣ねに腰掛をならべ花號しかせ重菓子入に焼飯そぎやうし茶瓶わす   るな明六つのすこし前に行水をするぞ髪はつるみつをりに帷子は広袖に桃色の       へ   うら付を取出せ帯は鼠卵子に丸づくし飛紋の白きふたの物万に心をつくるは隣      ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ  ヘ ヘ へ   町より入も見るなれば下々にもつぎのあたらぬかたびら.を着せよ︵巻ニノ三︶     も  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ  この﹁重菓子入・・﹂は地の文からいっとなく会話に移る二重の効果をもつてゐ    ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ るし、 、隣町・より人も見るなれば﹂は同じ会話の中で咄言葉として二重に働いてみ る例である。  更に、この上下に二重の機能をはたす句法が、交脈の中にと聞けんで大きな幅を もつて来ると、次の様な奇妙な文脈が出来上る.        ヘ ヘ ヘ ヘ へ   有時清十郎龍門の不断帯中みのかめといへる女にたのみて二幅の広をうたてし   よき程にくげなをしてと卜しにそこくにほどきければ昔の文名残ありて取乱、   し読つ﹂けけるに紙数十四五枚有しに当名皆清さまと有てうら書は違ひて..   ・いつれを見ても皆女郎のかたよりふかくなつみて気をはこび命をとられ勤の       ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ   つやらしき事はなくて誠をこめし筆のあゆみ是なれは傾城とてもにくからぬも・       ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ  ヘ ヤ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ          へ   のぞかし又此男の身にしては浮世ぐるひせし甲斐こそあれさて内証にしこなし

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12 好色五人女における西鶴的表現の意味 (宮田)   ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ      ヘ  ヘ  へ   のよき事もありゃ女のあ・まねくおもひつくこそゆかしけれといつとなくおなつ   清十郎に思ひつきそれより明暮心をつくし︵巻一ノニ︶     ヘ  ヘ  ヘ  ヘ         ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ  この﹁是なれは⋮おもひつくこそゆかしけれ﹂は上文を読み下れば、明かに ﹁中居の亀﹂の心情描写である一り然るに﹁いっとなく⋮﹂と展開する下文への か玉りでは、これは﹁お夏﹂の心情描写でなければならない。即ち影響の亀の心情 描写が、そのま﹄何の予缶もなしに、お夏のそれにふりかへられたのである。こエ にも西鶴の咄の呼吸が感じられる..この不自然な叙述対象の変転も、西鶴の咄の息 づかひからは極めて自然であったのではないか。こ﹂にも西鶴の小説述作の精神を 窺ふに足る一つの鍵があるといってよい。西鶴の文章には論理的正確さが乏しいと いはれる。そして入はこの交章に合理的な解釈を下さうとして、この箇所に﹁お夏 も一緒にこれを読んで﹂といふ露な語を補って説くやうである.、しかしそれがはた して、西鶴の交章のもつ槻弓を正しく理解したものといへるかどうか疑はしい。西 鶴の文章は不合理を敢て意に介しない非合理的な飛躍の論理に麦へられてるるので ばないか○次の露な例もあるQ       ヘ  ヘ  ヘ  へ   さて又二十一二なる女の木綿の手織島を善一て。狙うらさへっぎくを風ふきか   ヘ ヘ ヘ   へされ恥をあらはしぬQ︵巻三ノ一︶  これは﹁風ふきかへし﹂と他動的叙述乏して収められるべき所を、受身の叙法に ひるがへした交脈と見るべきである。従ってこ﹂に一貫した文意を辿らうとすると 矛盾がある。それでこの文を合理的に解釈しようとしては﹁風に﹂と﹁に﹂を補ふ のが常である。しかし前記の如き例にならって、西鶴の思惟の流れにのって読み下 れば、そこに何の抵抗もないのに気付くのである。勿論この場合、この句法は義理 にも成功してみるとはいへない。けれども﹁に﹂を補ってよむ事が西鶴の筆意にか なふかどうかはこ﹂でも疑問であらう。  以上によ.つて、西鶴の文章には一つの特異なリズムのあることが明かである。即 ちところム\で回転しながら進行する。その回転の度に二重の軌条を印しつ\ 一 つの文に終止符を打つと同時に、新しい文がそこから始まる。これが頻繁に行はれ ると目まぐるしく文脈が転換する。   おなつ便を求てかずくのかよはせ文清十郎ももやくとなりて御心にはした        、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、D   がひながら人めせはしき宿なれぼうまひ事は成がたくしんいを互に燃し両方恋        、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、恥   にせめられ次第やせにあたら姿の替り行月日のうちこそ是非もなくやうく声    、 、 、 、 、の      、 、   を聞あひけるをたのしみに命は物種此恋草のいつぞはなびきあへる事もと心の   、、、の   通ひぢに兄娠の関を居へ︵巻︷ノニ︶       ヘ へ        ゐ ヘ ヘ ヘ ヘ へ  ωは手紙交から地の交へ。働は上交をうけての﹁月日﹂が﹁日のうちこそ﹂と下 文へ転ずる。又⑧・㈲いつれもこのあたりで文を収むべきところを収めずに更に下− へ流す。全く息をつがせぬ変転ぶりである。  ﹁読者を載せて飛ぶ舟﹂に警へられる西鶴の文章は実は逆巻いて奔る急濡なので ある。短句によって跳躍する短章が所々で渦を巻きつL流れ奔る。その渦は突如と して現れ、流れを吸込むかと思ふと、忽ちそこから新しい流れとなって奔り出る。 しかもその渦が多くはほどよい心経をもつてみるので、読者はそれにのせられて知 らぬ間に快く通りすぎる。時には又その石経があまりに大きくて、読者はその渦に のってゆるやかに回転しながらも、自ら渦中にあることを自覚しない。そして、い つしか新しい流れにのって奔ってみる自分を見出して驚く事がある。あたかも流れ にのつ・て走る舟が、その渦にものって流れるために、何の抵抗も感じない様なもの である。読んで面白いと評されるのはこの故である。しかし一度乗手の意志を以、 て、この流れに捧して下るならば、所々に逆巻く渦にはげしい抵抗を感ずるのは当、 然である。合理的な論理を追うて読み販らうと努める時には、その晦渋難解にとま どふのはこの故である。  かくて、流れては渦を巻き、渦を巻いては流れ奔るのが、西鶴の小説の交体上の 重要な特質の一つであるが、右の如く好色五人女においても、それが極めて顕著に 認められる。しかもこの文体も、前者同様西鶴の咄の呼.吸とふかく結びあってみた と認められるのである。 三  中止形による断続句法と、渦を巻いて奔流する文脈との一一つが、好色五人女にお− いて極めて著しい文体上の特色をなすこと、以上の如くである。しかも両者共に、 西鶴の咄の呼吸とふかく結びついてみると見られる事は興味ふかい事である。  一般に西鶴の文章は俳諮的構造をもつ事を以て特質とする。この二つの文体も正. しくさうである。又西鶴の小説は咄の姿勢によって.支へられてるる。そ.の叙述の形 態はいはば西鶴の咄の呼吸の形式だといってもよいのである。従ってこの二つの交 体に、西鶴の咄の息づかひ・があらはに出てみる事があっても、敢て異とするにあた らない。この一篇にあふれる.西鶴のあらはな咄口からも、それは肯かれる事であ る。のみならず、この俳重心構造をもつ文体が西鶴の生まの咄の呼吸と一つになつ

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5 5 9 1 U 4 第 要 紀 大 滋 13  てるるといふ事は、軽口を本領とする彼の矢数響動の附合の世界が、小説の中に散 文の形式で移されてみる事を示すものだと考へられ、又さういふ文体が西鶴の小説  の表現に用ゐられてるる事は、西鶴の小説がその内部において、彼の俳至精神葬密 接な交渉をもつてみた事を示すものだと思はれる。西鶴はその俳話的表現技法を、 .彼の矢数俳譜からそのま\、小説の世界に持込んだ。しかもそれは、彼の俳譜精神 と絶縁した単なる技術として小説に.移されたのではなくて、附合の感興即ち俳譜の 心をもそれと共に持込んでみたと思はれるのである。西鶴.の小説にあって、その小  説精神と俳譜精神とが極めて近しい欄係にあった事は次の事情からも察せられるで あちう。  彼の矢数俳譜の中に彼の小説中の挿話を思はせる附合が多く見出されるが、それ  と併せて、更に直接的な関係をそ.の附合評に見出すことは一層興味をそ﹂るのであ る。西鶴点の前句附は、伝へちれるもの極めて僅かであるが、その数少い中に、彼 の小説の挿話や主題と直接に結びつく次の様な附合評が見られる。    ないに極る秋のゆくすゑ   分散に入らぬは萩の錦なり     今どきは仕掛ものありて身代をつぶすなり是は吟味してまことに亟まり女     房の衣類道旦ハは算用の外とそ         ○    宵には泣て笑ふ明ぼの   掛乞に内儀断りいひ仕舞     大晦日のせはしさ兼好が書出し今のよの有様かはる事なし亭主出ちがふて     夜あけに帰りて年とるさまおかし  右は何れも﹁難.波土産﹂︵元豫五年刊︶所収のも.のである。前者の評語は 、世間胸 算用﹂巻一ノ一﹁問屋の寛閲女﹂に﹂明﹁日分散にあふても、女の諸道具は遁る﹂に よって、打つぶして又取つき、世帯の物種にするかと思はれける﹂とあるのと符合 し、後者はその前半が.好色五人女巻四ノ一に﹁ならひ風はげしく師走の牢雲の足さ  へはやく春の事弓取い.そぎ﹂と徒然草戻りに元隷町人の師走風景を書き出し、一、あし を空にしてと兼好が書出しおもひ合て今も世帯もつ身のいとまなき事にぞ有け.る﹂ とあり、後坐−が一,世聞胸算用L巻ニノニの主人公に﹁われらが身躰七らぬ人は、も しは借銭こはれて出違ふかとおもふ.もあれば、気味がわるレひ。﹂と.いはせ、最後に  ﹁とかく節季に出ありくがわるひと、これにも分別.がほして、・夜の明がたに心友を帰 る。たはけといふは、すこし脈がある入の事と、笑ふて果しける。﹂と結んでみる .のと符合し、いつれもその題耕・趣向のみならず.交差の上にも、深い関係の存する 事が明かで.ある。難波土産にはなほこの外に﹁諸.国咄﹂や﹁二十下孝.﹂・との関係を も.つものもある。  こ﹂に西鶴における蘭島の世界と小説の世界の重複が認められる。.尤もそれは、 西鶴が俳論.の附合に見出した人生の断面を小説の素材として利用したか果すでに小 説に書いた.それを俳階の附合に見出したのか︵右の﹁胸算用﹂との関係の例を除い ては、・多分さうであらうが.︶、その前後関係は明かでない。しかしその何れであっ ても、俳講の附合と小説の題材・趣何とにおいて、全く同.じ人生の断面を、同じ角 度から採上げてみることだけは明かである。即ち小説におけると同じ西鶴、の人生観 照の目が、そのま﹂俳講の附合の鑑賞にもむけられてるる。或はその逆の道をとっ た場合もあり得た、、こ﹂に小説と偉譜が西鶴の内部において結びついてみる姿を具 体的に見出すのである。  この事はしかし、それを以て直ちに、俳譜に対すると同点精神で西鶴め小説が書 か﹂れたとは勿論いへない。しかし﹁難波土産﹂所収の僅か四十四の、附合評の中に、 四五ケ所もその小説の一節と符合する点の見出される事は、西鶴にあっては、俳譜 の創作鑑賞のうちには小説の題材・趣向があり、小説創作の脳裡には様々の俳譜の 附合が浮び.上ってみた明証とする事が出来るのではないか。その小説が俳譜的交体 と修辞を以て、聯想の波にのって叙述が展開されて行く事実は、これを裏付けるで あらう。それは小説に筆を執る西鶴を、附合的感興がしばく駆り立てた事を示す ものである。即ち僻譜の附合の世界と小説の世界とは、西鶴の内部にあってしばし ば形影相伴ってみた事が察せられる。この例は俳請精神と小説精神とが、西鶴にあ っては甚しく相隔ったものではなく、むしろ望めて近しい不即不離の関係にあっ て、互ひに他を助長しあふ関係にさへあったことを、具体的に示すものといふ毒が 出来よう。西鶴の小説においては、その小説精神のうらに俳諮精伸がつねにひそん でみたといへるで.あらう。 四  以上間接的ではあるが、西鶴における小説精神と俳譜精神の共存を考ぺて見た。 しかしこれを裏付けるには、その小説が大小となく極めてしばく矛盾を孕み破綻 を生ずる事実を掲捜すればよいのではないか。西鶴の小説に極めて著しい叙述内容

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ltl 好色五人女における西鶴的表現の意味 (宮田) の矛盾と破綻については、従来から西鶴における小説作家としての資質の欠除や用 意の不足に帰せられることが多い様である。しかし西鶴が如何に構想力に欠くる所 があったとしても、あまりにも多い矛盾と破綻はそれだけでは説明がつかない。如 何に文章に推敲を加へなかったとしても、あまりにも多い不自然且つ歴然たる誤謬 に平然たる理由が不可解である。如何に凡庸の作家といへども、いやしくも小説に 筆を執って構想に意を用みないものはなく、西鶴にあってもその努力のあとはどの 作品にも明かに認められる所である。しからばその理由は何に求むべきであるか。  こ﹂に注意すべき事は、それらの矛盾や破綻が、多くは俳諮的表現と直接間接に 関係して起きるといふ事実であるσそれは西鶴の小説では偉譜的表現が単に使ひ馴 れた表現技術として援用されたのではなく、彼の二皮の心もそれと共にあった事を 示すものでなければならない。附合的世界に興ずる心なしには、あまりにも多い矛 盾と破綻ををかしてまでも、俳言的表現法を駆使することはあり得なかったらうと 思はれるからであるQ俳譜的聯想の形態をとる文章の流れの底には、その文章を運 ぶ思想の波があったQその交章の流れを謹む心があった。西鶴の小説と共にあった この俳言精神が、ともすれば主客その位置を転倒して、小説の心の座を奪って無軌 道な超論理的展開をほしいま﹂にしかねない。しかも西鶴はしばくその跳梁にま かせつ﹂、その咄を進行させる。こ﹂に矛盾と破綻が生じ、交章が晦渋におちい る。しかも西鶴はそこに起る一臼瞭然たる誤謬すら、これを訂正しようとしなかっ たと見える。勿論不注意による誤謬と認むべきものもある。しかしそのすべてが西 鶴の文章が推敲を経なかった為に起つたものとするのは如何であらうか。西鶴はそ  の時々の俳譜的感興に乗って筆を走らせたので、その為に起る矛盾も破綻も誤謬も 敢て意に介しなかったものと思はれる。小説の心からは明かに矛盾であり破綻であ り誤謬と認むべき事も、俳諮の心からは矛盾でも破綻でも誤謬でもなく、むしろそ  の方が合理的であり真実でさへあったのではないか。次にそのあかしを好色五人女  の申に拾ふ事にしよう。   夜も嘗て彼御人の父既法師をあやしくとがめ給ひ起されておどろき源五兵へ落 。  髪のはじめ面このたびの事有のま﹂に語ればあるじ横手うってさてもく・・       D    ・・撮はそなたの御事かとくれみ\なげき給ひける﹂なほ命をしからず溝鼠を        O   さらず身を捨べきとおもひしがさりとては為れぬもの入の命にそ有ける﹂聞も   なく若衆ふたり迄のうぎめをみていまだ世に有事の心ながら口借さるほどに此        の   二人が我にか﹂るうき面しらせける大かたならぬ因果とや是を申べしかなしL   ︵巻五ノニ︶  これは三人称を以てする客観的叙述か、いつしか一人称による主観的叙述に転じ て筆が収められるといふ、叙述形式に見出される矛盾の例である。﹁彼御入の父此 法師をあやしくとがめ給ひ﹂と書き出された交が、終りに歪っては、 ,口惜﹂・﹁我に か﹂るうき奏しらせける﹂・﹁、かなし﹂などの表現をとってみる。こ﹂に明かに形式 上の矛盾があるが、それはωの文が図の一節でや﹂大きな渦を巻いて㈹に流れ出た 為に起つた現象に外ならない。ωに見られる源五兵衛についての客観的叙述が、客 観主観両様にとれる図を間に介して㈲の源五兵衛の述懐に転じたのである。さきに 引いた巻一ノ一における、﹁中居の亀﹂に関する叙述がいつしか﹁お夏﹂のそれにふ りかへられた例と、その軌を一にするものである。この様な奇妙な事は散文の精神 からは考へられない事である。これはまがふかたなく俳諮の心のなせるわざであ る。これは正しく散文化された附含の世界であるQ  合巻三ノ三﹁人をはめたる湖﹂のはじめにある、おさん茂右衛門が石山参詣の帰 途瀬田から舟路で駈落する道行の一段は、これまた極めて俳諮的な構文であるが、 その一、節に﹁長橋の頼をかけても短は遠くがたのしひと浪は枕のとこの.山あらは る﹂までの乱髪﹂とあるのは、この章の終りの、召使たちが二人の形見を京に持帰 る記述と対照すると、極めて不自然なるを免れない。これも全く一時の附含的興趣 にかられて、前後の連絡も顧慮せず筆を走らせたためである事、その連句的な文体 からも察せられる。  叉巻四ノ三﹁雪の夜の情宿﹂では、土間に臥す吉三郎について、宥には﹁嵐枕に かよひ土間ひへあかりけるにぞ大かたは命もあやふかりき・・﹂と書き、三夏けて は︸,豊かに臥して・・ことあり不自然さを感じさせる。のみならずその記述と呼 応して、久七が吉三郎に口をよせた時には﹁いやく根深にんにく領し口申もしれ す﹂と思ひ止まらせて置きながら、お七の場合には﹁ちかくよれば肌につけし兵都 卿のかほり何とやらゆかしくて﹂と書いてみるのは、論理的には何としても説明の つかない矛盾である。しかし両者をそれム\相照応させて見ると、その時々の僻諮 的感興にまかせて筆をやり、その為に起る矛盾に頓着することのなかった西鶴の筆 意が理解出来るではないかQ  又巻心では源五兵衛の心境について﹁心からの繊家となりて﹂︵巻五ノ岬︶﹁なほ 命をしからず岩座をさらず身を捨べきとおもひしが﹂︵巻五ノニ︶﹁誠なるこΣうか ら片山陰に草庵を引むすび⋮更に殊勝さかぎりなし﹂︵巻五ノ三︶と述べながら

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5 5 9 1 号 4 第 要 紀 大. 滋 15 最後に釜って﹁心の急なる道心源五兵へにかぎらず皆是なるべし﹂︵巻五ノ四︶とき めつける。その不自然さは蔽ひ難い。相似た事は巻二のおせんの人柄の叙述にも指 摘される。こ﹂にも西鶴が、その都度の感興或は直前の交との関係からだけで、筆 を運んでみる姿が見られる。それは俳詣の心に浅酌された筆の走りである。  かう見て来ると、巻三ではじめに下女の名﹁玉﹂を﹁りん﹂としたのも明かに西 鶴の俳譜であると同時に、その俳譜ぶりを忘れて、終りには実説通り﹁玉﹂と書い てみる事も、特別異常な事ではない。二四ノニでお七の年を数へちがへてみるとい はれる事も如何であらう。あの際﹁わたくしは十六になります﹂・﹁わたくしも十六 になります﹂といはせずにはみられなかった西鶴の心事を思へば、それは訂正しや うのない誤謬ではなかったか。西鶴の小説における矛盾や破綻は、その表現手段に 禍されて起るのではなくて、その表現を麦へる俳階の心のなせるわざでなければな らない。 五  西鶴の小説において、その俳諮精神がその作品の内容と大きな関はりをもつので あり、それがつねに西鶴の内部において小説の心と同居し、しばく気儘な活動を する実状はほぼ右の如くである。従って西鶴の文体の特質をなす俳論的構造も俳講 的修辞も、何れもその底に西鶴の俳諮精神が或は濃く或は淡く湛へられて、自ら独 得の咄のリズムを形成してみるのであり、それはしばく咄の姿勢と方向をも決定 する.し就中こ﹂に見た二つの文体は、その俳譜的思惟の流れが、西鶴の生まの息づ かひにのって現れた交体であったといへようか。それはいはば西鶴の俳譜の心に麦 へられた西鶴独得の言文一致体ともいふべき、最も西鶴的なる剛体といってよいの ではないか。しかしこの文体はその故に、しばく晦渋と混乱を生み矛盾と破綻を 招くワそれは小説としての不合理を目立たせる。けれどもひとたび彼の俳諮的な思 惟の流れにのって読み下れば、それらの不合理も解消するのに気付くであらう..読 めば判るが解釈出来ないといふことは意味が深い。  西鶴はその小説の述作にあたって、いは穿その内心の二つのあるじに仕へねばな らなかったといへる。しかも脇座の主がしばく彼をあらぬ方へ彷復させるのであ るり俳譜的構造をもつ交体がその心をのせる形式であった。談林の俳講師としてそ の終生を生きた西鶴の小説において、俳譜精神が常に一方の大きな支柱になってみ ることも敢て驚くにはあたらない。しかしこの二つの心が、作品の全体においては 勿論、その部分においても、しばく見事な調和を保ってるる不思議な姿こそ、西 鶴の小説のもつ独得の世界ではないか。次に好色五人女の中からその一例を挙げて 置かう。   夜半なりてをのくに手をひかれ小家にもどり早うへの首尾をたくむうちに東          D   窓よりあかりさし﹂隣に火打石の音赤子泣出し紙帳もりて夜もすがら量れし蚊   をうらみて追払二布の蚤とる片手に仏棚よりはした銭を取出しつまみ菜買なと       の   物の︶せはしき世渡りしの中にも夫婦のかたらひを楽み南瀧に課沖しとげなくな    ハご      る   りし﹂はすきつる貫きのへ子をもかまはず何事をかし侍る﹂やうく朝日か﹂       の   やき秋の風身にはしまざる程吹しにか曳は鉢巻して枕おもげにもてなし⋮   ︵巻藁ノニ︶  これはおせんの家に倒れ込んだ横町の曝が夜半に自分の家に帰ってから翌朝にか けての叙述であるQこ﹂では附合的興趣が中心になって、これに咄口を交へてる る。それを支へるのが右に見た二つの交体である。ωから図、②から㈲へと附合的 興趣にのって筆が進み、そこから更に⑧から㈲へと例の咄口にすべって、いはでも の好色咄に落ち、㈲に至って咄の本筋に立ち戻って、ωに応じて首尾を整へたので ある。しかもその間ほしいま﹂に黒熱的野をやりながらも、巧まずして曝の住む隔 巷の朝の景情を叙しつくして、心憎いばかりである。 へ詮︶ 好色五人女.の引用文は中央公論社版定本西鶴全集による。但し振り 仮名は印刷の都合上之を.省いた。  附記  稿成って後、次の二論文のある事を知ったQいずれも三雲論の立場から本稿に採 上げた二つの文豆にふれたものである。就中後者はその例を同じく五人女にとり、 本稿二に採り上げた文盛に詳細な分類を試みられた示唆に富むものである。 板 坂  元三 西鶴の講法 ︹解繹と鑑賞昭二八・一︶ 同      西鶴の文贈脳 ︹文學   昭二八・八︺

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