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清泉女子大学キリスト教文化研究所年報第 27 巻 2019 年 Journal of the Research Institute for Christian Culture, Seisen University, Vol. 27, 2019 イザベラ バードの 日本奥地紀行 (1880) における

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イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(1880)に

おける文明化と伝道へのまなざし

長 野 太 郎

A Gaze at Modernization and Christian Missionary Work

in Unbeaten Tracks in Japan (1880) by Isabella L. Bird

Taro N

AGANO

Isabella…L.…Bird…(1831-1904)…is…one…of…the…"lady…travelers"…in…the…Victorian… Era.… Especially… in… Japan,… she… is… well… known… as… the… author… of… Unbeaten tracks in Japan.…In…this…study…I…focus…on…her…gaze…at…modernization…and… Christian… missionary… work… in… Japan.… As… a… result… of… the… diffusion… of… an… abridged…edition,…her…keen…interest…in…religion…was…obscured…for…posterity.… Through…a…closer…look…at…these…matters…in…the…first…edition…of…her…book,… we… come… to… understand… how… she… understood… the… difficulty… of… Christian… missions… in… Japan… without… taking… into… account… the… country's… traditional… ways.… She… found… in… the… good… manners… of… the… people… some… stubborn… behavior… patterns… that,… although… they… appeared… empty… and… superficial,… could… not… be… ignored.… Her… translator… and… servant… Ito… was… crucial… in… helping… her… understand… this… fact.… We… can… conclude… that… her… journey… through…Japan…had…many…uneasy…moments…which…can…be…considered…as… contact… zone… problems… in… which… different… cultures… meet,… clash… and… grapple…with…each…other.

はじめに

 本研究の目的は,イザベラ・バード(Isabella…Lucy…Bird…1831-1904)の 『日本奥地紀行…Unbeaten Tracks in Japan』(1880)をめぐって,女性のお こなう旅について考察することである.そのさいに,バードが旅した時代

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の日本の状況,とくに文明化とキリスト教伝道へ向けられたまなざしに着 目する.まずは英国女性がはば広く世界を旅行することが可能になった歴 史的文脈を理解し,そのなかにバードという旅行家の特徴的側面を見いだ していくことになるだろう.  1970 年代以降,英語圏におけるフェミニズムの進展にともなって,女 性旅行者の再発見がすすめられた.イギリスの Virago… Press のように, フェミニズム運動の一環として,女性の著作を専門とする出版社が登場し, 過 去 の 女 性 旅 行 家 の 著 作 が 再 刊 さ れ 始 め た(Bassnett… 2002:226;… Thompson… 2011:171;… Youngs… 2013:131).歴史的にイギリスでは,大 航海時代の年代記,探検記,航海記等を整理したリチャード・ハクルート (1552-1616)以来,旅行記を網羅的に収集,翻訳,研究する伝統がある. こうした流れにつらなる形で,男性主体であった探検誌,民族誌,見聞記 の集積の内側に,女性のまなざしが掘り起こされてきたことは重要である.…  このような旅行記研究がとくに注目したのは,ヴィクトリア朝時代のレ ディ・トラベラーたちである.女性を家庭にしばりつける保守的な性別役 割が基本であった時代に,その制約をふりはらうかのごとく遠くまで旅を したレディ・トラベラーたちに,フェミニストたちは女性の権利拡大をめ ざす自分たちの先駆者をみいだした.ただし,政治的運動であったフェミ ニズムによるレディ・トラベラーのとらえ方には注意を要する.先行研究 が明らかにしているように,フェミニストたちは個々のレディ・トラベラー たちのバックグラウンド,思想,年齢などの多様性に目を向けるよりも, 「女性であること」の同一性に注目しがちであった(Bassnett… 2002:226-229;… Thompson… 2011:171-173).こうした研究は,女性のおこなう旅が いかに男性の旅とちがっているかを強調し,男性の探検や民族学研究に見 出されるような,西洋の帝国主義への加担の側面とは一線を画していたと とらえる傾向がある1.…  この流れにつらなる伝記的著作にも,レディ・トラベラーたちの現代的 側面をもっぱら見ようとする点で若干の偏向がみられる.伝記作者パッ ト・バーは,その著書『イザベラ・バード 旅に生きた英国婦人(A 1 しかし,ポストコロニアリズム研究の観点からは,男性と女性の旅行記の違いは, 本質主義的なものに起因するというよりも,これらの出版物の生産と受容の条件によっ て左右されるという指摘がある(Youngs…2013:133).

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Curious Life for a Lady:The Story of Isabella Bird)』2において,冒険旅 行家イザベラ・バードの人生を,現代人に共感可能なかたちで再構成しよ うとつとめている.この書物はバードの人生の絶頂期とされる 40 歳代の 旅行の描写から始まる.なぜなら 40 歳代にいたるまでのバードの人生が 「退屈」でとるに足らないものだからである(バー 2013:10).また 40 歳 代でのサンドウィッチ諸島(ハワイ),ロッキー山脈,日本,マレー半島 への旅を頂点として,それ以降の旅から生まれた旅行記は頂点の輝きを 失ってしまったと辛辣な評価が下されている.…  バーは,マレー半島での経験をつづった旅行記『黄金半島とその彼方』 (1883)を高く評価する.「それはおかしな人々,さらにおかしな動物の 豊富な逸話で一杯であり,彩り豊かに,そうかといって重荷になるほど凝 りすぎない鋭い観察が見られ,嘘偽りのない事実によって重苦しくもなる こともない」と述べ,バードの著書の中でもっとも愉快で受け入れやすい 書物のひとつだとしている(バー…2013:188).ここからもわかるように, 40 歳代が絶頂期だとする判断基準が,こうした旅行記自体の現代的価値 におかれていることがうかがわれる.しかし,伝記の叙述において,個人 の人生の筋道よりも,現代的価値を優先させるとすれば,それは重大なア ナクロニズムの過ちを犯していることになる.…  バーによる伝記は,バードの主要な旅の業績と,旅行記の概要を知るた めのダイジェストとしてはすぐれている.しかし,イザベラ・バードがそ の生涯の 50 年近くにわたって長期の旅行を繰り返した理由と,そこで求 めたものが何であったかを理解しようとするならば,上記のような見方は 不十分といわざるを得ない.…  他方で,1970 年代に始まった女性旅行者再評価につらなりつつも,日 本におけるイザベラ・バード受容は独自の道のりをたどってきた.それは 何よりも,バードが明治維新から間もない時期の日本を,広範囲にわたっ て旅行し,記録を残した事実によっている.日本旅行記である Unbeaten Tracks in Japan は,1973 年に平凡社東洋文庫から高梨健吉による最初の 日本語訳が出版された.1984 年には,民俗学者宮本常一による『日本奥 2 原著は 1970 年に出版され,小野崎晶裕による邦訳は 2013 年に講談社学術文庫から 発行された.

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地紀行』講読会(1977 年 9 月〜 1978 年 3 月)の書き起こしが出版され た3.高梨訳の出版直後から評判を呼んだバードの著作は,もっぱら外国人 の眼を通した日本の過去の記録として関心を呼んだようである.…  2000 年代に入ると,宮本の講演録のうちバードに関する部分が単独で 再刊され4,初版が簡略版になり省かれた部分の翻訳が出版される5など, バードへの関心再燃がうかがわれる.その後,翻訳に限っても,2008 年 には,時岡敬子による初版本の全訳6,高畑美代子による省略部分の翻訳・ 解説7が出ている.さらに,金坂清則による初版本の完訳8,同じく金坂に よる簡略版の翻訳9があいついで出版された.近年では関連本の出版も多 く,バードの旅をモチーフとした小説(中島京子『イトウの恋』)やコミッ ク(佐々大河『ふしぎの国のバード』) が出版されるなど,バード熱は高まる 一方である.…  本稿では,これほどまでに多くの注 目を集め,多角的・多面的に研究・翻 訳されている稀有な旅行記であるバー ドの『日本奥地紀行』を題材とし,女 性の旅と旅行記をめぐる考察を試みた い.その際に上述したような過度の図 式化や偏向に注意しつつ,あくまで具 体的歴史状況に立ち返り,テクストそ のものと向き合うことを指針としてい きたい.…  この意味において,1990 年代からイ ザベラ・バード論を展開し,完全版と 3 宮本常一『旅人たちの歴史3 古川古松軒 / イサベラ・バード』(未来社). 4 宮本常一『イザベラ・バードの「日本奥地紀行」を読む』平凡社,2002 年. 5 楠家重敏・橋下かほる・宮崎路子訳『バード日本紀行』雄松堂出版,2002 年. 6 『イザベラ・バードの日本紀行 上・下』(講談社学術文庫). 7 『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』(中央公論事業出版). 8 『完訳 日本奥地紀行(全4巻)』(平凡社東洋文庫,2012 年〜 2013 年). 9 『新訳 日本奥地紀行』(平凡社東洋文庫,2013 年). イ ザ ベ ラ・ バ ー ド の 肖 像 画  出 典: https://en.wikipedia.org/wiki/Isabella_ Bird#/media/File:Isabella_Bird.jpg 2019 年 1 月 14 日閲覧

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簡略版のいちばん新しい翻訳をおこなった人文地理学者金坂清則の研究, 解説,翻訳が,バードおよびその旅をトータルにとらえるためのよき出発 点となるだろう.金坂による史実,地名,事物等への考証は徹底しており, 緻密かつ繊細である.  以下では,バードが日本における文明化とキリスト教伝道の問題をどの ように見たのか,そしてバードの日本での旅の特徴的な側面について,金 坂による翻訳と解説を手掛かりとしながら考えていきたい10 1.旅する女性たちと大英帝国:帝国の外縁を旅したレディ・トラベラー  女性と旅,という主題を考えたときに,世界史上きわだっているのが, ヴィクトリア朝時代のレディ・トラベラーたちである.女性の理想像が「家 庭の天使(Angel… in… the… House)」として,夫を家で支え,子育てに専心 する役割におかれていた時代に,彼女たちはなぜ危険をかえりみず未知の 世界を旅し,その経験を旅行記として出版したのだろうか.彼女たちの存 在は,ジェンダー研究のみならず,旅行記研究の分野でも早くから注目さ れてきた.大英帝国ヴィクトリア女王の在位期間(1837 年 6 月 20 日 -1901 年 1 月 22 日)とその生涯がほぼ重なるイザベラ・バードは,その 代表的な一人である.…  レディ・トラベラーと称される女性たちすべてがイギリス人であったわ けではないが,大半がそうであったことは,当時の大英帝国の繁栄を抜き にして考えることはできない.ヴィクトリア朝の大英帝国は,世界各地に 植民地を拡大し,アメリカやドイツの追い上げを感じながらも,絶頂期を 迎えていた.その経済力,政治的覇権,社会的変化の前提があってこそ, レディ・トラベラーたちのダイナミックな旅が可能となったのである.…  井野瀬(2007)は,イギリスの海外進出において,アメリカ合衆国独 立が転換点となったとみる.いわば同じ「イギリス人」とみなしたアメリ カ植民地の住民が,本国議会の介入姿勢に反発して独立したことは,帝国 の空間統治の見直しを迫る結果となった.これ以降イギリスは,インド, カナダ,アイルランドへの介入を強めるいっぽうで,できる限り領域支配 10 引用する訳文,書名・固有名詞等の表記は,基本的にすべて金坂にしたがう.

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をおさえる「自由貿易の帝国」を通じた非公式の支配を展開する11.さらに, アジアやアフリカにおいては,現地社会にできる限り手をつけない間接統 治の方法を発展させたのであった(井野瀬 2007:56).こうして,18 世 紀末以降,イギリス人の多く住むカナダ,オーストラリア,ニュージーラ ンド,南アフリカがある一方で,少数の植民地官吏や領事館が世界各地で イギリスの権益を保護するというかたちで,大英帝国が地球上に勢力を拡 大していった.レディ・トラベラーたちが旅したのは,こうした大英帝国 の外縁(outer…edge)である.…  それでは,レディ・トラベラーとはどのような女性たちだったのだろう か.井野瀬(2007:293)は,大英帝国のレディ・トラベラーに共通する 特徴として,団体旅行ではなく,女性のひとり旅,つまり白人の同行者が いなかったこと,旅した年齢が 30 代,40 代(あるいはそれ以上)であり, 多くが独身だったこと,旅の資金がすべて自己負担であり,多くが父親か ら譲り受けた遺産,出身階級はミドルクラス以上だったこと,お膳立てさ れ,安全が保証された「ツアー」ではない「トラベル」への強いこだわり をもっていたこと,礼儀正しく,信仰心に篤く,道徳的に厳格かつ高潔で あり,きわめて高い知性の持ち主だったこと,博物学(植物や動物,鳥, 貝や化石など)への関心をもっていたことなどをあげている.彼女たちが 必ずしも「進歩的」な考え方の体現者ではなく,女性らしさや,女性参政 権などをめぐって矛盾した態度をとったこともよく知られている(井野瀬… 2007:293;…Gilmartin…2007).…  こうしたレディ・トラベラーの分かりにくさの要因は,当時の社会的文 脈にあった.井野瀬(2007:274-276)によると,最盛期に向かう大英帝 国では,「女性余り」が問題視されていた.その原因としては3つほどが あげられる.第1に,15 歳までの男性の死亡率が女性を圧倒的に上回っ ていたこと,第2に帝国拡大に伴い,軍人や行政官,商人,移民として男 性が海外に出ていったこと,第3に男性が妻を「家庭の天使」にできる経 済力を得るまで結婚したがらなかったことである.事実として女性が 「余って」いたということよりも,そのような感覚が共有されたことが重 11 たとえば,イギリスが本国からの独立を支援し,密接な経済関係を築いていった南 米諸国がそのよい例である.

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要である.さらに,働かなければならない労働者階級の女性とは違って, 働くことは階級的な転落を意味したミドルクラスの女性たちにとって,結 婚に対する思い入れや,独身でいることへの思いはいっそう複雑だった.…  このような女余りの心配があるなかで,ミドルクラスの独身女性にとっ て帝国の中の居場所は限られていた.19 世紀後半において彼女たちにふ さわしいとされた仕事は,住み込みの家庭教師(ガヴァネス),学校教師, 看護師,女性宣教師,ボランティアの慈善活動など,ごくわずかであった (井野瀬 1998:28-38).…  イザベラ・バードもまた,帝国の中で居場所が限られていたミドルクラ スの女性である.当時としては例外的な女性旅行家として名声を築いたも のの,時代の社会的規範を大きく逸脱することは避けていたようにも見え る.バードをはじめ,ヴィクトリア朝のレディ・トラベラーたちの行動を 理解するためには,男性と競いあうのではなく,女性独自の領域を担保し たうえで,その活動の質を世に問うといった身ぶりを読み取る必要がある.… 2.イザベラ・バードの旅の履歴  イザベラ・バードの日本の旅についてみていく前に,バードの人生と旅 の履歴をふりかえっておきたい.…  英国国教会の牧師の娘として生まれたバードは,父の影響を受け,信仰 心に篤く,高い知性の持ち主だった.家庭は決して裕福ではなかったもの の,親戚に名だたる高位聖職者がいたり,福音伝道者を輩出したりするよ うな,宗教的エリートといってよい家系の出身であった(金坂… 2014:35;… バー… 2013:248-249).植民地インドで弁護士をしていた父は,30 代後半 で牧師となった.妻子を失う不幸に見舞われたこと以外に,インド時代の 父についてはとくに知られていない.ただ,バードの父もまた,大英帝国 拡大の波に乗って,帝国の領域内を移動した人物であった.…  病弱で,背骨に問題を抱えていたバードだったが,両親からのしっかり とした家庭教育を受け,知的には早熟だった.1849 年,17 歳で自由貿易 を批判し保護主義を擁護する小冊子を出版したり,20 代前半からキリス ト教系の教養的家庭雑誌『レジャーアワー』12に投稿したりするなど,文 12 1852年から1905年まで発行された英国の週刊誌.Religious…Tract…Societyが発行し,

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章を書くことには早くから目覚めていた(金坂…2014:39).…  金坂(2014)は,バードの旅を 6 つの時期に分け,そこに一貫した思 想と行動があったとみる.そのいっぽうで,時期によって異なる行動指針 が存在したことにも注目している.本節では,金坂の解説に沿ってその流 れをたどり,日本の旅の意義について,大英帝国との関連からみていく.  バードの初めての海外への旅先は,22 歳のときに転地療養のために訪 れたアメリカとカナダであった.およそ7ヶ月間,父方の親族を訪ねるだ けではなく,つてをたどって上院議長や総督,主教などの要人とも会うな ど,意欲的な旅を続けた(金坂… 2014:40-41).帰国後,その旅の見聞記 を書物のかたちにまとめ,『英国女性の見たアメリカ The Englishwoman in America』(1856) として出版された.さらにその 3 年後,彼女はふたた びアメリカに旅立ち,約一年に渡ってアメリカ各地を訪れ,アメリカにお ける安息日厳守や,キリスト教信仰の覚醒を求める信仰復興運動などの実 態を調査した.これには,安息日厳守主義者であった父に代わって,その 実情を見てくるという目標があった.このように,第Ⅰ期(1854-58)の イザベラ・バードの旅には,いっぽうで健康回復のための転地療法,他方 で牧師である父の片腕として,社会と宗教の実態を調査する動機があった.…  父の死後,残された母と妹とともにスコットランドに移住したバードは, そこでヘブリディーズ諸島の生活苦にあえぐ人々を移民として送り出す活 動や,エディンバラ旧市街のスラム改善といった慈善活動に従事しながら, 『レジャーアワー』,『サンデーマガジン』,『グッドワーズ』といった教養的・ 宗教的家庭誌への寄稿をつづけた.このように,伝記作家バーが「退屈な」 と形容した前半生において,バードは宗教への強い関心を維持し,宗教と の関連で国内外の多くの場所を訪れ,文章を執筆するという,きわめて活 動的な毎日を送っている.ミドルクラスに属する独身の女性としてふさわ しい範囲内で,思わしくない健康状態とたたかいながらのことであった.…  こうした「女性の居場所」からイザベラ・バードが足をふみ出すきっか けとなったのが,42 歳のときにおこなった世界周遊の旅だった.この第 II 期(1872-74)の旅は,両親を失ったあと,40 代になっていよいよ健康 労働者のキリスト教的倫理強化,特に安息日の重視をむねとしたものの,さほどキリス ト教的な色合いは強くなかった.

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状態が悪化した彼女が,医師のすすめにしたがって出かけた転地療養の旅 行であった.  1872 年 5 月,旅に出たバードは,東回りにオーストラリア,ニュージー ランドを訪れ,ハワイ諸島を経てアメリカ西海岸からロッキー山脈を経て 大陸東岸に到達し,大西洋経由で帰国する約 1 年半の旅をおこなった.こ の旅から生まれたハワイ諸島とロッキー山脈での冒険旅行記13は,それぞ れ高い評判を呼び,旅行記作家イザベラ・バードの名声が確立した.…  第 III 期(1878-79)は,アメリカ,日本,香港,広東,シンガポール, マレー半島西岸,エジプト(シナイ半島)をおよそ1年2ヶ月にわたって めぐる,二度目の世界周遊旅行である.旅立ったときバードはすでに 47 歳になっていた.そして,日本滞在から生まれた旅行記が,『日本奥地紀 行 Unbeaten Tracks in Japan』(1880) である.金坂は日本訪問14の意図に

ついて,次のように述べている. 日本の旅の目的は,西洋に由来するものを受け入れて変容しつつも古来 の日本に由来するものがなぜ残存するのか,その実態と理由を,それが よりよく残っていると考えられる「内インテリア地」を旅することによって誌しるし, 明らかにすることだった.(金坂 2014:70) 旅行記の副題にもある「内地“Interior”」とは,開港場から 40 キロと定 められた外国人遊歩区域を外れた範囲,つまり内地旅行免状を持たない限 り一般の外国人が立ち入れない「内地」の意味であった(金坂 2014: 13 ハワイ諸島での経験からは,『ハワイ諸島-椰子の林,珊瑚礁,火山ともにありし サンドイッチ諸島の6ヶ月 The Hawaian Archipelago:Six Months among the Palm Groves, Coral Reefs, & Volcanoes of the Sandwich Islands』(1875) が生まれた.さらに, 同じ旅の後半部分における冒険行から生まれたのが,『レジャーアワー』に連載読み物 として掲載されたのち,単行本にまとめられた『英国女性ロッキー山脈滞在記 A Lady’s Life in the Rocky Mountains』(1879) である.

14 あらたな世界周遊の旅の寄港地を決定するさいに,日本と南米のどちらに向かうべ きか,バードは迷ったらしい.これ以前の旅は,すべて英語でこと足りる旅であったが, 日本も南米も,通訳の助けをかりることなしにひとりで旅をすることが難しい非英語圏 地域であった.なぜ南米ではなく,日本が選ばれたのであろうか.当時の状況を考える ならば,19 世紀初頭からすでにイギリスと密接な関係を保ち,自由貿易拠点が数多く 築かれていた南米と比べて,英国総領事館の設置(1859)から 20 年も経過していない 日本の方が,より未知の領域が多かったからであろう.

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73).

 日本をあとにしたバードが立ち寄った香港,広州,マレー半島西岸の旅 からは,『黄金半島とその彼方 The Golden Chersonese and the Way Thither』(1883)が生まれた.この滞在は,日本滞在に比べて短いものだっ たが,決して気楽なおまけの旅などではなく,「英国・英国民にとっての 関心のある地域の旅」(金坂 2014:79)にほかならなかった15  ビショップ医師との結婚,その死をはさんで約 10 年ぶりに再開された 第 IV 期(1889-1890)の小チベット,ペルシャ,クルディスタンの旅は,もっ とも困難で,もっとも危険をともなうものであった.この旅から生まれた 旅行記『ペルシャ・クルディスタン紀行-カルン川上流域でのひと夏とト ルコのキリスト教徒探訪 Journeys in Persia and Kurdistan:Including a Summer in Upper Karun Region and a Visit to the Nestorian Royals』 (1891)が,旅行家イザベラ・バードに最高の栄誉を与えることになった. インド駐在の軍人ソイヤー少尉に同行し,ロシアとの係争地帯を旅して得 られた情報は,大英帝国の政治・宗教・学問の世界にとって,最高にして 最新の情報(金坂…2014:92)だった16  それと同時に,この第Ⅳ期,そしてつづく第Ⅴ期の旅が,海外医療伝道 活動を支援する目的を持っていたことも重要である.バードは亡き夫と妹 ヘンリエッタを記念する病院をインド北部のスリナガルとビアスにそれぞ れ設立し,自らも看護技術を事前に学んだうえで旅をおこなった.帰国後 の講演でも,冒険,地理学・人類学に関わるテーマ以上に,海外伝道活動 について力を注いで語った(金坂 2014:92).  第 V 期(1894-1897)の旅は,久々に訪れた日本をベースキャンプとし ながら,朝鮮,ロシア領満州(沿海州),中国の揚子江流域をめぐってお こなわれた.日清戦争前の極東は,イギリスとロシアの間のグレート・ゲー ムの観点からも,世界から注目を集めていた.この旅でバードは,旅先か らロンドンの新聞社に定期的に現地報告を送り,日清戦争とその後の朝鮮 半島の諸相をいわばジャーナリストとして掌握し,母国に伝えることを求 15 金坂は,バードン香港主教夫妻の支援や,スエズ運河開通(1869)以後,イギリ スにとってマレー半島西岸の経済的重要性が増した事実を強調する.

16 第Ⅳ期の旅からは,その後旅行記『チベット人の中にて Among the Tibetans』(1894) も出版された.

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められていた17(金坂…2014:97).  それに続く揚子江流域とその奥地への旅は,英国国教会伝道協会がアジ アにおける伝道の最重要地域と位置づけていた中国揚子江流域における同 協会と中国内陸宣教会(内地会)の活動を視察,支援しつつ,この舞台の 西に広がる辺境や少数民族を訪ね,高山地帯への挑戦もなしとげる旅18 あった(金坂 2014:97-98).その実行にあたっては,大英帝国の国力を 背景に,中国国内の自由な移動が認められる領事待遇のパスポート(護照) を取得していたことが大きい(金坂…2014:98).  そして,最後の第 VI 期(1900-1901)に訪れたのが,スルタンが国全 体の統治力を失い,フランスやスペインとともに英国も地政学的関心を持 つ国モロッコ(金坂…2014:100)であった.この旅について,単行本とし ての旅行記は出版することはなく,いくつかの雑誌に視察報告記が発表さ れただけだった.この旅から戻って 3 年後,イザベラ・バードは 72 歳で 亡くなった.  このように,およそ半世紀にわたるバードの旅は,大英帝国内とその周 辺から,その版図の外縁にある,帝国にとって関心の深い地域へと,少し ずつ広がっていった.それだけでなく,徐々に帝国の片腕となるような探 検へと組み入れられ,旅が公的性格を帯びていった様子を見てとることが できる.この点からいうと,第Ⅲ期における日本への旅は,初めて,帝国 の影響力が本格的には及ばない異言語地域への訪問だった点で,バードの 旅における重要な転換点をなした19 3.いくつかの『日本奥地紀行』  1879 年 5 月 27 日に日本を含むおよそ 1 年 2 ヶ月にわたるアジアへの旅 17 ここから生まれた旅行記のひとつ目が,『朝鮮とその隣国-この国の近年の変転と 現状の報告を含む旅行記 Korea & Her Neighbours:A Narrative of Travel, with an Account of the Recent Vicissitudes and Present Position of the Country』(1898)である. 18 この揚子江流域の旅行記が,『揚子江流域とその奥地-四川省と蛮子が住む梭磨宣 慰司領を主とする中国の旅の報告 The Yangtze Valley and Beyond:An Account of Journeys in China, Chiefly in the Province of Sze Chuan and among the Man-tze of the Somo Territory』(1899)である.

19 金坂(2014)は,バードの日本の旅が当時の英国公使パークスの肝いりでおこな われ,その旅行記にも一種の報告書的色彩があったという考えを示している.

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から帰宅したバードは,翌年 10 月,日本の旅行記を Unbeaten Tracks in Japan(以下『日本奥地紀行』)のタイトルをつけて執筆し,旅行関係の書 籍を多くあつかうジョン・マレー社から出版した.書名にある“unbeaten… tracks”とは,「まだ誰も通っていない道」という意味であり,「外国人に とって知られざる日本を歩く」とでもいったニュアンスがあった.副題に は「蝦夷の先住民および日光東照宮・伊勢神宮訪問を含む内地旅行の報告 (An… Account… of… Travels… in… the… Interior,… Including… Visits… to… the…

Aborigines…of…Yezo…and…the…Shrines…of…Nikkô…and…Isé)」とつけられ,日 本旅行が関東北部,北海道,関西地方への訪問を含むことをあらわしてい た.  このときに出版された初版を原テクストとみなすならば,その後,バー ド自身が関わった改訂版が 2 種類(金坂のいう『簡略版』と『新版』)あり, その後,各国語への翻訳が生まれ20,日本語でも種々の全訳,部分訳がお こなわれてきた21.『日本奥地紀行』が,さまざまな時代に,さまざまな読 み方をされてきた息の長い書物であったことに加えて,参照されるテクス トが複数存在していた事実は,バードによる日本の旅の全体像を理解する うえでのひとつの問題点となってきた.  バード自身がたずさわった異版のひとつめが,初版(1880)から 5 年後, 同じジョン・マレー社から出版された簡略版(1885)である.簡略版は, もともと2分冊であった初版に手を加えて,コンパクトな1巻本として作 り直したものである.もうひとつの新版(1900)は,1894 年から 1897 年にかけて日本をベースとした東アジアの旅をおこなったバードが,20 年の時を経て,若干の削除を加えた初版本の内容に,新しい序文と自ら撮 影した写真を付して出版しなおしたものであった.  このうちもっとも広く読まれてきたのが簡略版である.簡略版の副題か らは,初版にあった関西地方訪問をあらわす“and… Isé”が抜け落ち,「蝦 夷の先住民および日光東照宮訪問を含む内地旅行の報告(An… Account… of… Travels… in… the… Interior,… Including… Visits… to… the… Aborigines… of… Yezo… and… the… Shrines… of… Nikkô)」となった.旅行記の叙述は東京から北に向かい,

20 1882 年にはすでにドイツ語訳が出版されている(金坂…2014:252). 21 詳細については金坂(2014:254-259)を参照のこと.

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北海道でのアイヌ訪問をクライマックスとする,シンプルな構成にあらた められた.後半の関西への旅が完全に省略されただけでなく,初版に含ま れていたさまざまな補足的解説や,旅の展開のスピードにブレーキをかけ かねない,いくつかの報(Letter)22や冗長な記述が省かれた.  この結果,バードの日本の旅は物語性の高い構成,すなわち「旅と冒険 の書物」(金坂… 2014)に生まれ変わった23.この行程のほとんどは,後述 する日本人の従者兼通訳である伊藤をともなう旅であった. 4.通訳以上の存在だった「従者」伊藤との関係  すでに述べたように,「旅と冒険の書 物」となった簡略版の『日本奥地紀行』 では,ほぼすべての旅程でバードのか た わ ら に あ る の が,「 従 者(servant,… boy)」と形容される伊藤24の存在である. 伊藤は通訳をつとめると同時に,宿の 手配,役場や地元の人々との折衝,荷 造りなど,ありとあらゆる役目をひき うける旅の同行者であった.横浜出身 で当時はまだ数え年で 18 歳の若者で あったが,すでに上手に英語を話し, 外国人との旅の経験もあった.バード は伊藤の第一印象について,「こんなに ぼうっとした表情の日本人には会った 22 『日本奥地紀行』はそれぞれ番号のついた Letter から構成されている.これらは妹 のヘンリエッタに宛てた手紙の形式をとっているものの,実際に送付された書簡ではな いため,金坂はこれを「報」と訳した. 23 金坂は,この修正が出版者ジョン・マレー 3 世からの要望によっておこなわれたも のであり,初版本も十分に多く販売されたことを強調する.とはいえ,簡略版が『日本 奥地紀行』を息の長い書物に変え,1970 年代以降の再販にあたっても簡略版が基本と なってきたことも事実である.バードの本来の意図を忠実に反映するテクストが初版本 (または新版)であるのに対し,読者のもとめる期待により沿った内容になっているの が簡略版であるということができるだろう. 24 近年の研究によって,日本における通訳業の先駆者である伊藤鶴吉(1858-1913) だと明らかにされている. バードの従者 伊藤鶴吉 出典:国立国会図書館 近代日本人の肖像 http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/11_1.html 2019 年 1 月 14 日閲覧

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ことがなかったものの,時折すばやく盗み見るような目つきをすることか らすると,ぼんやりしているように装っているようにも思われた」(金坂 訳『完訳 日本奥地紀行… 1』:83-84.以下は巻数とページ数のみ記す)と 記している.はじめは半信半疑で伊藤を雇い入れたバードだったが,旅の 進展とともに,伊藤は彼女の旅になくてはならない存在になっていく.…  東京から日光までの旅は,訪日外国人も多く旅するルートであった.日 光を過ぎ,旅行記の表題になっている「未踏の道(unbeaten… track)」に 踏み込んでからは,とたんにバードが不安や不快感におそわれる様子を読 み取ることができる.宿の不潔さ,人々の姿や行動の異様さに対する記述 がつづく.しかし,何よりもバードを戸惑わせたのは,どこに行っても逃 れられない,物見高い日本人の好奇のまなざしであった.観察者である バードは,つねに日本人から見返される存在であった.旅行記のなかで バードは,自分が男に間違えられたり,アイヌと間違えられたり,はたま た猿芝居の猿にまで間違えられた出来事などを書き記している.この視線 の不快感は,北海道に到達するまで基本的に変わることがなかった.  また,バードの感じる不快感は,次のように,伊藤の行動に対する不信 感をもたらした.… 湯元を離れる前に私は「ピン撥ね」の手口を目にした.私が勘定書きを ほしいと言うと,[宿の]主人はそれをくれずに二階にかけ上がっていっ た.いくらにするのがよいか伊藤に相談しに行ったのである.そしてふっ かけたその代金を二人で折半した.買物のたびに,また宿の支払いのた びに従者は「ピン撥ね」する.実に抜け目なく行われるので阻止できな い.(1:168.[ ]の中は訳者による注.以下同様)… 「ピン撥ね(squeeze)」が実際にあったのかどうかは,わからない.バー ドは自分の目に映った出来事と,それに対する自分の解釈を記しているだ けである.自らが事態をコントロールできないことにいらだつバードは, 伊藤の身なりやふるまいに対してまで不平をこぼす.… 私は伊藤を説得して私が嫌いな広縁の黒いフェルトの中折帽をやめさせ 私と同じ菅笠をかぶらせた.というのも,伊藤は私から見れば醜ぶおとこ男なの

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にたいへん見栄っぱりで,歯を白くしたり,鏡の前で念入りに白おし粉ろいを塗っ たり,陽焼けを心底から恐れて手にも白粉を塗る.爪も磨くし,外では 必ず手袋をはめるのである.(1:188)… バードには人を外見の美醜で判断するところがあった.それもたいていの 場合,その基準はヨーロッパ的な風貌に近いかどうかで決定された.伊藤 については,「顔は丸顔で非常にのっぺりしており,歯は健康そうで目は とても細長かった.そして重そうにたれた目蓋は日本人の一般的な特徴を こっけいに誇張したようだった」(1:83-84)と記す.典型的日本人顔の 伊藤は,「醜男」とされ,似合わない西洋風の帽子のかわりに,日本風の 菅笠をかぶることをバードに強要されるのであった.…  しかし,旅が進み,快適とは言えない日本の宿屋や,気候,風景などに なじんでいくにつれて,バードは周囲を観察するゆとりを取り戻す.それ にともなって伊藤の長所にたいする記述も次第にふえていく.… 旅における伊藤の手際のよさと伊藤が類い稀な知性の持ち主であること に私は日々驚いている.この男は「品のない」英語とは区別される「真 正なる」英語を話したいと強く願っているし,これまで知らなかった言 葉の正確な発音と綴りを身につけたいとも切望している.そして私が使 う言葉のうちよく理解できない言葉はすべて帳面に毎日書き留め,晩に なるとそれを私のところにもってきてその意味と綴りと対応する日本語 を書き留める.通訳を仕事にしている多くの者よりもずっとうまい英語 を話す.(1:201-202)… 伊藤を通して,バードは日本人の真面目さや几帳面さに気づいていく.伊 藤はただの従者でも,ただの通訳でもなかった.それよりも,自分に対し て日本の習慣をことこまかに解説し,ときには外国人やアイヌに対する偏 見を口にすることも含め,日本人のものの見方を教えてくれる貴重な存在 であることに,バードは気づいていく.やがては「旅の用意に始まり,人 にものを尋ねたり情報を得たりする際に,さらには,ある意味旅の友とし てさえも,私は伊藤に頼りきっている」(1:203)と告白するにいたるの である.

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 親子ほども年の離れた伊藤は,日本での適切なマナーに関しては,バー ドの先生でもあった.… 伊藤は私が立派な振る舞いをすることを強く望んでいる.私も日本式に 礼儀正しくありたいと,また日本人の礼儀作法を絶対に踏みにじるまい と常に心をくだいているので,こうしてくださいとか,こんなことはな さらないようにという[伊藤の]意見をほとんどそのまま受け入れてい る.それで日一日と深くお辞儀するようになってきている!(1:202-203)… ただし,適切なマナーをめぐって,バードは伊藤自身のしめす態度が気に 入らなかった.日本人同士の慣例には従順であった伊藤だったが,バード に対するときには遠慮がなく,不作法であるように目に映った.あるとき, 「マナーの点でいくつか改めるべきことがある」とバードに指摘された伊 藤が,改めますと約束したものの,「宣教師のマナーを真似ただけです」 と言い返してあきれさせたことがあった(3:40).…  伊藤はバードにとって,文明開化の時代の日本の象徴のような存在で あった.バードの目には,伊藤は外国の文物を選択的に取り入れ,肝心な 部分については受け入れを拒む,あざとい愛国者と見えた.バードは伊藤 の宗教心に関して,名目上は神道の信者だが,いかなる「宗教も信仰して いない」(2:149)と断言する.このように,バードの目に映る伊藤は, キリスト教信仰を持つ彼女には不可解で,一筋縄ではいかない人物だった. しかしそれゆえに,日本の旅の前半部分を伊藤と過ごした経験が,次節で みるように,旅の後半における日本の伝統宗教の実態やキリスト教伝道が 直面する困難について,他のヨーロッパ人とは異なった見方をする手がか りを与えた.… 5.文明化と伝道へのまなざし:しぐさをめぐる考察  すでにみたように,イザベラ・バードの人生において,宗教や海外伝道 はつねに大きな関心を寄せる領域であった.『日本奥地紀行』の初版本を 読むと,東京,新潟,函館,神戸で伝道活動の実態を詳細に観察してい

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る25ことがわかるし,伝道にあてられた文章26が多く含まれていた.しかし, 旅と冒険を強調した簡略版では,そうした文章はほとんど省かれることに なった.また,簡略版で省略された関西の旅では,神道の聖地伊勢神宮や, バードが仏教におけるプロテスタントのような存在であるとみなす,浄土 真宗の西本願寺を訪れるなどして,日本人の宗教観を実地に見聞しようと していた.  したがって,簡略版が成立するにあたってもっとも見えにくくなったの が,バードのキリスト教伝道へのまなざしである.簡略版では,西洋文明 の輸入,伝統的な日本文化の残存,日本文化とも西洋文明とも異なるアイ ヌの先住民文化(未開)の存在,という三つの軸に沿って日本社会が観察 されているようにみえる.しかし,じっさいには,文明化のプロセスとは ある程度独立した尺度として,キリスト教受容の側面がとらえられていた ことはきわめて重要である27.初版の最後におかれた「日本の国政(A…

Chapter… on… Japanese… Public… Affairs)」と題した文章の末尾で,バードは つぎのように述べている. 日本に忍び寄らんとしている影のうちで最も暗いものは,私の考えでは, この国が種々の果実を生み出す[キリスト教という]木を移植しないで 果実[だけ]を得ようとしてきているという事実-史上初めてのこと- に由来する.(中略)日本に何よりも望まれるのは,この国が,私たち[西 洋]の諸技術や諸科学をつかんだのと同じように積極的に,我らの主イ エス・キリストが唇と命をもって説かれた初期キリスト教の真理と純粋 性をつかみとることである.(4:211) 日本滞在の総括として書かれたこの文章の結論は,手厳しい.「はしがき 25 高畑(2007:18-22)が明らかにしているように,その多くは英国国教会の伝道拠 点であり,そのほかにも多くのキリスト教関係者に会っている. 26 たとえば,「伝道[新潟における伝道覚書]」「第 38 報 伝道活動」「第 51 報 伝 道の中心」「第 58 報 キリスト教の見通し」など. 27 高畑(2007)は,「未踏の道(unbeaten…tracks)」に「西洋人が行かない未踏の地」 と「伝道の未踏の地」という二重の意味がこめられていたと指摘している.しかし,こ れは伝道の努力そのものではなく,西洋文明=キリスト教の教えのおよんでいない場所 という意味で考えるべきであろう.

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(Preface)」における「この国が私を有頂天にさせるというより,調査研 究の対象になる国であることがわかった.その興味深さには予測をはるか に超えるものがあった」(完訳 1:25;… 新訳:29)という,どのようにでも とれる言い回しや,センチメンタリズムと余韻を残して終わる簡略版旅行 記の幕切れとは好対照である.このような文明化と伝道をめぐる厳しいま なざしを取り戻すことで,前節でとりあげた伊東に対するアンビバレント な評価も理解可能になる.  以下では,信仰や伝道をめぐる膨大な記述のなかから,日本人の礼儀作 法に関する部分をとりあげて,バードがどのように日本人を理解しようと したのかを考えてみたい.  バードは神戸にあるミッションスクールを見学した際28,礼儀作法のと らえかたをめぐってその教育方法に批判的な見解を示した29.バードはつ ぎのように書いている. 私が礼儀作法(マナー)が悪いと伊藤を叱った時に伊藤が「宣教師のマ ナーを真似ただけですよ」と答えたことをあなた[妹ヘンリエッタ]は 覚えていると思うが,日本人の大変な丁寧さの奥にある不誠実さや偽善 を嫌っている宣教師たちが,そんな丁重な行為は時間の無駄だとしてや めさせようとするということはたしかにある.しばらくでも宣教師から 教えを受けたことのある若者が,その礼儀作法や態度がぞんざいで無頓 着なために他の人[日本人]をぎょっとさせるのも事実である.これら はヨーロッパ人の間にあってさえ不快なことである.(4:72) ここで言っているのは,第一に日本人の礼儀をめぐるしぐさが表面的であ り,それを偽善的ととらえる宣教師たちがあらためようとしているという 事実である.バードもその見方に賛同しないわけではない.ただし,彼女 28 「第 51 報 伝道の中心」(4:63-75). 29 その背後には,この学校を運営するのがアメリカの団体であり,英国教会ではなか ったこともあったのかも知れない.しかし,バードは「例外も 2,3 はあるものの,ど の宗派の宣教師たちも[神道と仏教という]日本の二大信仰についてはほとんど何も知 らない」(4:74)と言っているから,批判は特定の宗派というよりも,アプローチの仕 方に向けられたと理解すべきであろう.

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はしぐさのなかには誠実か不誠実かという次元だけではとらえられない, 別の側面もあると考えている.習慣となり,無意識化された動作のなかに は,見過ごすことのできない重要な何かがある,ととらえている.それゆ えにバードは旅のさいちゅう,伊藤からそのしぐさを学びとろうとし,そ れを自分にはおこなわない伊藤を責めた.これに続けてバードはつぎのよ うに書いている. しかしそれでも私には,頭を低く下げた上品なお辞儀に対して「ちょこ んと頭を下げるだけの挨拶」を返すのを見たり,上品な国民の丁重な行 為がすべて無視されるのを見るのは非常に不快である.また,永い時を 経て培われた国民の慣習という「木の根元に斧を置くこと」がキリスト 教にかこつけて行われているのを見るのも不快である.私は,国民が本 来的に有する特質までも変質させることを嫌悪する者なので,日本人の 礼儀正しい行為を学び,少しでもそれに合わそうとするのを目にしたい と思う.また,日本人の丁重な礼儀作法に,真実と誠実というイエス・ キリストの御教えが吹き込まれ,浸透するのを目にしたいと思う.(完 訳 4:73) つまり,伝統的慣習としてのしぐさは,かりに空虚であったとしても美質 であり,そこに真実としてのキリスト教信仰が吹き込まれることによって, 文明が完成するととらえているのである.ここに,文明化と伝道を両輪と して物事を理解しようとするバードのまなざしのユニークさがあらわれて いる.バードが西洋のキリスト教文明をすぐれたものとして疑っていない ことは明らかである.これは相対的な観点ではけっしてない.バードの考 えによると,西洋文明はキリスト教という木から生まれてきたものであり, 医学,工学,法律といったものはすべてそこから生まれた果実なのである. したがって,木であるキリスト教を受け入れずに,その果実のみを移植し ようとしている日本には,真の進歩が望まれず,暗い影が忍び寄っている ということになるのだ.  ただし,だからと言ってバードが一方的にキリスト教の真実をふりかざ して,高みから見おろしているとも思えない.少なくとも,日本を7ヶ月 にわたって体験したバードには,絶対的な真理の普遍性にたいする信頼に

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ある種の揺らぎが生まれたのではないだろうか.だからこそ批判の目が伝 道の主体である宣教師たちに向けられたのだと見ることができる.つぎの ような言い回しには,若干の歯切れの悪さをともないながら,体験を反芻 するバードの思考が反映されている. ここであなた[妹ヘンリエッタ]に書いているのは,知り合いにかなり 熱心に語ってきたことに他ならない.というのも,日本ではキリスト教 の人気のなさが際立っている.着ているものもそうであるように,人々 によく合っている[日本の]古くからの礼儀作法,私たちが学べるもの が少なからずあるその礼儀作法に,面と向かって,あるいはそれとはな しに反目するという問題を背負うことになってしまっているのである. (完訳 4:73-74) 究極的に,伝統とどのように向き合うべきかという命題は,かんたんに答 えが出るものではない.明治時代の日本が国家として取り組んだのがこの 課題だったし,それだけ重要な問題の存在に気づいたからこそ,バードも 「はしがき」において「有頂天にさせるというより,調査研究の対象にな る国(I…found…the…country…a…study…rather…than…a…rapture)」と書いたので あろう. 6.コンタクト・ゾーンのゆくえ  上でみたように,旅の前半部分で長く行動をともにした伊藤の存在は, バードに視点の転換をもたらした.重要なことは,旅行記の後半部分,関 西の旅においてバードが伊藤を想起している事実である.伝道拠点の実情 や日本人の信仰について明らかにする目標をもつ旅の後半において,伊藤 の声がこだましているが,それは感傷などではない.  いまいちど伊藤の存在,そして伊藤を通して気づいた日本人のしぐさの 問題について考察してみたい.アメリカの文化批評家メアリー・ルイーズ・ プラット(2008)は,しばしば非対称的な関係にある異なる文化が出会い, ぶつかり合い,たたかいあう社会空間のことを「コンタクト・ゾーン」と よぶ.プラットは次のように言う.

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もしもヨーロッパ人が見たり,言ったりしたものだけを研究対象にする ならば,それは帝国主義的な企てがもとめた知識や解釈の独占を,ただ くり返すことになるだけだ.(中略)ヨーロッパ帝国主義の受け手側の 人びとも,自分たち独自の知や解釈を示したのだ.ときには,グアマン・ ポマがヨーロッパ人自身の表現手段をもちいておこなったように. (Pratt…2008:7.訳は引用者による) グアマン・ポマとは,スペインによる南アメリカ征服・支配にたいして, スペイン人の文字と描画をもちいて,被征服者側の言い分を示そうとした ことで知られる人物である.伊藤は,グアマン・ポマ同様に,西洋の側か らみると土着のまなざしである,自らの知や解釈を示そうとする―プラッ トの用語にしたがえば―「自文化民族誌(auto-ehnography)」の実践者, いいかえれば,「省察する他者」(田中…2007:36)である.  「省察する他者」である伊藤は,旅の過程でバードのまなざしに寄り添 いながら,バードによる知や解釈のプロセスに関与する.また,対話相手 として異論を差しはさみ,ときには,まなざしの対象となり,ときには見 つめかえす.伊藤を通じて,基本的に非対称的であるまなざしが双方向的 になる契機がうまれたのである.第 5 節で論じたバードによるしぐさをめ ぐる考察は,このようなコンタクト・ゾーンの産物である.  ただし,このような多義性は,簡略版の『日本奥地紀行』では失われた. そこには文明化と伝道に向けられたバードのまなざしや,伊藤の声のこだ まが残されていない.旅の同伴者である伊藤は,不可解ながらも有能な従 者として,ときには道化のようにバードをなごませ,そして「最後の朝に なりました.残念ではありませんか.私はそうなのですが」とセンチメン タルな余韻を残して去っていくのである.  しかし,初版にはそのつづきがある.伊藤が最後のサービスとしておこ なった礼状執筆をめぐって,バードは長々と日本人の書状の習慣について の考察をめぐらせている.まなざしは交錯し,見つめ,見つめかえすコン タクト・ゾーンにおけるせめぎ合いはつづく.簡略版『日本奥地紀行』の 誕生は,バードの自発的意思というよりは,市場を意識した出版側の意向 の結果である.簡略版の読者は,この旅行記に,「女性らしい」気まぐれ とセンチメンタリズムにあふれた冒険旅行を見るかもしれない.しかし,

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それは多義的な初版から抽出された女性旅行者のひとつの像にすぎない. おわりに  本稿では,イザベラ・バードによる日本の旅と旅行記をめぐって,多面 的な先行研究を参照しながら,女性にとって旅することは何を意味するの か,という問に答えようとした.結論として言えることは,その問いには かんたんに答えられないということだ.ひとりの旅行者を「女性」という 観点で見ていくことは可能だが,それは他の側面を無視することにつなが る.イザベラ・バードの日本の旅についていえば,そもそも,旅行記に複 数の版が存在する時点で,統一的な像を結びようがない.まずは,どの 「バード」なのかを問わねばならなくなる.  本稿で明らかになったことは,つぎのことである.イザベラ・バードが 生きた時代,女性が一定の条件で旅をすることが可能であった.その際に, 女性は旅の成果を期待されずに,旅すること自体をすすめられることが あった.しかし,旅を重ねたバードは書くことを通じて,旅の成果物であ る旅行記を求められるようになっていった.そうした旅行記は「女性の」 旅行記であることが期待されたかも知れないが,必ずしも,それが旅行者 バードの目標であったとはいえない.バードがおこなったのは,たえず新 しい経験との出会いを求め,見て,考え,書くことである.そういったな かで,日本の旅では,日本人のしぐさに注目し,それを日本の西洋文明受 容の問題と結びつけて考えた.  『しぐさの日本文化』において多田道太郎が分析したように,しぐさと は奥深いものである.鋭利なナイフで切り取って再構成するような高尚な 概念からは遠くにあるが,しぐさには文化の型があらわれる(多田… 2014:244).イザベラ・バードによる日本人のしぐさをめぐる記述には, 旅という経験から得た知を見てとることができる.しぐさの根深さを考え ることは人を憂鬱にさせる.バードがどんなにお辞儀を模倣したとして も,しぐさはそうそう簡単には身につかない.伊藤の西洋かぶれのマナー が板についていないのと同様である.しかし,しぐさに着目したバードで あったからこそ,文明化と伝道の問題を安易に考えることはできないと結 論づけたのではなかっただろうか.また,バードが日本の旅以降,医療伝 道の推進に力をそそいでいったことは,これに対するひとつの回答だった

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ようにも思える.  本稿は,清泉女子大学(平成 30 年度)の初年次向け科目「共通基礎演習」 においておこなった講演「女性」の内容を整理・補強する目的で執筆した. いっしょに講演を作り上げていった科目コーディネーターの藤本夕衣先 生,他の二人の講演者である Paloma…Trenado 先生,米谷郁子先生,クラ ス担当者の先生方,そして疑問や違和感,感想を表明してくださった学生, 教職員のみなさん全員に感謝したい. 参考文献 パット・バー『イザベラ・バード―旅に生きた英国婦人』 小野崎晶裕訳,講談社学術 文庫,2013 年.

Bassnett,… Susan.… "Travel… Writing… and… Gender."… In… The Cambridge Companion to Travel Writing,…edited…by…Peter…Hulme…and…Tim…Youngs:225-241.…Cambridge: Cambridge…University…Press,…2002.

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イザベラ・バード『完訳 日本奥地紀行(全4巻)』金坂清則訳,平凡社東洋文庫, 2012 年 -2013 年.

-『新訳 日本奥地紀行』 金坂清則訳,平凡社東洋文庫,2013 年.

Buisseret,… David… (edit.)… The Oxford Companion to World Exploration.… 2… vols.… New… York:Oxford…University…Press,…2007.

Gilmartin,… Patricia.…“Women… Explorers”,… in… The Oxford Companion to World Exploration,…vol.2:358-363. 井野瀬久美惠『興亡の世界史 16…大英帝国という経験』 講談社,2007 年. ―『女たちの大英帝国』講談社現代新書,1998 年. 金坂清則『イザベラ・バードと日本の旅』 平凡社新書,2014 年. D・ミドルトン『世界を旅した女性たち―ヴィクトリア朝レディ・トラベラー物語』  佐藤知津子訳,八坂書房,2002 年. 宮本常一『「日本奥地紀行」を読む』 平凡社ライブラリー,2002 年. 長野太郎「戦後昭和における冒険旅行を考える―遠心性の誘惑にとらわれた若者たち

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参照

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