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第 2 回 大衆 って何? 大衆 と 質量 は元は同じ? ソサエティやソシエテといった西洋語は 常に 社会 と和訳されるわけではない 英語のソサエティは 協会 と訳される場合も多いし フランス語のソシエテは 会社 と訳されることもある 一方 日本語的な感覚に従えば 社会と協会と会社を類義語だと考える

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Academic year: 2021

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第2回 「大衆」って何? ●「大衆」と「質量」は元は同じ? ソサエティやソシエテといった西洋語は、常に「社会」と和訳されるわけで はない。英語のソサエティは「協会」と訳される場合も多いし、フランス語の ソシエテは「会社」と訳されることもある。一方、日本語的な感覚に従えば、 社会と協会と会社を類義語だと考えるのは難しいだろう。実際、イギリスの「慈 善組織協会」という団体名を「慈善組織社会」と訳すのでは違和感が生じよう し、「フランス国有鉄道会社」を「フランス国有鉄道社会」と訳すのも奇妙だろ う。それでも、イギリスの慈善組織協会は「Charity Organisation Society」 だし、フランス国有鉄道会社は「Société nationale des chemins de fer français」 なのである。いわゆる株式会社もまた、フランス語では「société anonyme (S.A.)」 と表現される。これを「株式社会」と和訳したのでは、何のことだか意味が分 からないに違いない。それでも、フランス語では、消費社会が「société de consommation」、国際連盟が「Société des Nations」、そして株式会社が「société anonyme」なのである このように、同一あるいは同系列の西洋語が、類義語とは見なし難い複数の 日本語に訳されることは珍しくない。例えば、自然科学の領域では、「マス= Masse(独)/masse(仏)/mass(英)」という西洋語に対して「質量」とい う訳語が当てられることが多いのだが、社会科学の分野では、同じ「masse」や 「mass」といった西洋語に対して「大衆」という日本語が当てられることが多 いのである。実際、『社会学事典』(弘文堂)で「大衆」の項目を引くと、「〔英〕 mass〔独〕Masse〔仏〕masse」と書かかれている。オルテガ・イ・ガゼトが 著した古典的名著『大衆の反逆』(1929 年)の原題にしても“La rebelión de las masas”であり、「大衆」の訳出元は「masas」というスペイン語なのだ。さら に言えば、同義のイタリア語も「massa」である。 ともあれ、事実を確認しておこう。社会科で習う「大衆」と、理科で習う「質 量」の原語は、多くの西洋語において同一なのである。おそらく、日本語の世 界で生きている限り、この事実を知識として与えられなければ、「大衆」と「質 量」が元は同一の西洋語だという認識は持ち難いだろう。通常の日本語の中で、 「大衆」と「質量」は、非常に異なった文脈で用いられる単語だからである。 もちろん、この「マス」は、マスコミやマスメディアの「マス」だということ

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も忘れてはならない。マスコミの「マス」もまた、質量と同じ「マス」なので ある。 ●大衆=「多数の人」「多くの一般人」「多数の僧」 なぜ多くの西洋語において、「大衆」と「質量」が同じ単語で表現されるのだ ろうか。結論から先に述べると、両者とも数や量だけに関わる事物であり、ど の一人も、どの一グラムも、各々の異質性や個別状況を度外視されているとい う共通根を持つからである。西洋語の「マス」は、この共通性を単一語で体現 しているのだ。いわゆる「大衆」を構成しているのは、一つ一つの分子と同様、 固有名を付すべき無二の存在ではなく、その他大勢の中に密集する平均人に過 ぎないというわけである。元を辿れば、「マス」の語源であるギリシャ語の「maza」 は、直接的には「混ぜ捏ねた生地」の類を指す。言い換えれば、粉などを集め て練り固めた物体ということになろう。ここから、ラテン語の「massa」では、 パスタ類やチーズ、さらには集塊、堆積、山積といった意味も併せ持つように なるのである。 もちろん、「大衆」と「質量」を別語で表す日本語が誤りで、それらを「マス」 の一語で指し示す西洋語が正しいというわけではない。それぞれの言語には大 なり小なり固有の語彙体系があり、その中で各単語の指し示す範囲も規定され るからである。ある単語が何を指し示すのかは相対的かつ恣意的なのであって、 そこに絶対的な真理や普遍的な正当性があるわけではない。それでも、西洋語 によって形成された知識を理解し、それを広い視野の下で把握するためには、 翻訳語だけに頼るのではなく、どうしても原語の意味内容を知ることが不可欠 になってしまう。それに伴う困難は、日本語を母語とする者にとって、避けて 通り難い宿命に他ならない。 西洋語を母語とする人々は、本格的に社会科学や自然科学を学び始まる前か ら、「マス」という単語に慣れ親しんでいる。一方、遅れて近代化した日本の場 合、外来文明の輸入とタコツボ型の専門分業を余儀なくされたこともあり、あ る分野では「マス=大衆」となり、別の分野では「マス=質量」となってしま った。どちらも西洋語を漢字表記に置き換えただけなのだが、結果として、同 一の原語に由来する二つの訳語は、別々の日本語単語として一人歩きしてゆく。 かくして、「質量作用の法則」や「大衆食堂」といった、いささか個性的な用法 さえ誕生することになるのである。

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自然科学の分野において、仮に「マス=質量」を定訳だとするならば、「Law of conservation of mass」は「質量保存の法則」となるだろうし、「Law of mass action」は「質量作用の法則」となるだろう。だが、「質量作用の法則」という 名称は、今日では誤訳だと言われることが多い。すなわち、この場合の「マス」 は、「質量」と言うより、むしろ大量あるいは多数という意味なので、正しい訳 は「多数作用の法則」あるいは「大量作用の法則」だというわけである。たし かに、そちらの方が妥当なのであろう。実際、日本語を母語とする者の感覚に 照らせば、「大量」と「質量」は類義語とは言い難く、両者を使い分けるべきだ からである。

それでも、「Law of conservation of mass」の「mass」と、「Law of mass action」 の「mass」は、あくまでも同一の単語なのだ。同一の単語なのに――質量なる 翻訳語を創作した上――どうしても別々に訳し分けなければ誤りなのだろうか ……? この問に対する解答は一つではないし、決定的な正解もないだろう。 まあ、極めて安易かつ無益な解決法は、カタカナ語の濫用という愚策に訴え、 二つの法則に出てくる同じ「マス(mass)」を、「マス保存の法則」や「マス作 用の法則」に統一することであるに違いない。だが、そんなことをしても「マ ス」の原意を正確に伝えることにはならないし、「mass」を「マス」に置き換え るだけなら、文字通りヨコのものタテにしたに過ぎないのである。 ちなみに、マスコミ(マス・コミュニケーション)は、「大衆伝達」あるいは 「大量伝達」と和訳されることが多い。この場合は、どちらの訳語にも大きな 問題はないように感じられるだろう。つまり、「大衆」と「大量」が置き換え可 能なのだ。だが、街角の小さな「大衆食堂」を「大量食堂」と呼ぶのは、あま り適切ではないような気がする。あるいは、「質量食堂」と言ったのでは、質も 量も申し分ない食堂のように受け取れないこともないが、極めて不自然な日本 語になってしまう。 そもそも、大衆という単語も漢語であり、和語ではない。その基本的な語義 は単に「多数の人」なのだが、「多くの一般人」という意味も併せ持っている。 また、仏教の世界では、「多数の僧(僧侶集団)」を指す語として、この漢語が 用いられて来た。ともあれ、「多数の人」を指す「大衆」という漢語が千年以上 前から存在するのに対して、西洋語の「マス」が今で言う「大衆」の意味で常 用され始めたのは、せいぜい一八世紀以降のことに過ぎない。そして、近代の 日本において、西洋から伝わった「マス」という語を翻訳するために、古くか

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らの漢語が持ち出されたという次第なのである。このように見てくると、今日 の日本語の中での「大衆」が、漢語の「大衆」とも西洋語の「マス」とも微妙 に異なった意味内容を担うようになった理由も理解できよう。いずれにせよ、 「大衆」という言葉もまた、漢語や西洋語から離れ、日本語の中で一人歩きし ているのである。 ●「大衆食堂」は本当に「大衆」向けか? そうなると、話はややこしい。日本語の中で一人歩きする「大衆」という言 葉が、「マス」以外の西洋語を和訳する際にも用いられるからである。この種の 事態は、先に紹介した「精神」という単語の場合と同じだ。身近な例では、「ポ ピュラー・カルチャー」は、しばしば「大衆文化」と和訳されているのである。 もちろん、「ポピュラー」の部分を「大衆」と訳すことは、決して誤りではない。 実際、「popular price」は「大衆価格」で正しいだろう。ただし、同じ「ポピュ ラー(popular)」でも、「popular election」は「普通選挙」と和訳されるし、 「popular sovereignty」は「主権在民」と和訳――その妥当性は別にして―― されるのが一般的なのだ。これを「主権大衆」と訳し変えたのでは、本来の意 味を歪めているような印象を与えざるを得ないだろう。 おそらく、大衆食堂という日本語に登場する「大衆」もまた、「マス」ではな く「ポピュラー」に近い意味感覚を担っているに違いない。しかしながら、日 本の大衆食堂を「ポピュラー・レストラン」と英訳したのでは、どうも不正確 である。あるいは、大衆が「マス」の翻訳語だとすれば、大衆食堂という日本 語は、さらに奇妙であろう。大衆食堂は、単に安く食事が出来る店(cheap restaurant)のことではない。大衆食堂の常連客である私の豊富な経験から言 えば、食事代だけを比べた場合、むしろファミリーレストランや牛丼チェーン 店などの方が、街角の小さな食堂よりも安価なのだ。ドリアが 299 円とか牛丼 が280 円といった価格設定は――2011 年の時点で――低賃金の非正規雇用を組 織的に駆使しなければ実現できず、家族経営の小さな大衆食堂では不可能なの である。しかし、いくら値段が安くとも、ファミリーレストランを「大衆食堂」 とは呼ばない。その背後には、日本語と化した「大衆」の意味が、もはや「マ ス」から離れているという事情がある。 大衆食堂では、「以上でご注文よろしかったでしょうか」とか「2000 円から お預かり致します」といった、不特定の他人相手にしか用いない商業敬語は使

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われず、一人一人の客の顔を見て声が掛けられる。そして、店の親父や女将さ んが、客と一緒になって会話に加わっている。集まる客もまた、必ずしも氏素 性を知り合っているわけではないが、たいてい見たことのある顔ばかりである。 要するに、大衆食堂は、顔を覚えられる規模の人数で成り立っている空間なの だ。そこに集まる人間は、庶民でありこそすれ、匿名の集団ではない。すなわ ち、「マス」が意味する「大衆」とは異なるのである。むしろ、いわゆるファミ リーレストランに居合わせる匿名客の集団の方が、原子や分子の集合体と同様、 不特定多数の「大衆」に近いと言えよう。つまり、敢えて原語の「マス」に照 らした場合、何十席もあるファミリーレストランの方こそ、むしろ大衆が密集 する場という性質を強く持っているのである。 なお、フランス語では、マクドナルドも「レストラン」である。食事を提供 する施設は、大学食堂でもファーストフード店でも、さらには生活困窮者のた めの慈善炊出所でさえ、全て「レストラン」なのだ(軍隊や学校の給食施設は 別)。これに対し、日本語の世界に生きる我々は、異性から「レストランに行こ う」と誘われ、それが大学食堂や慈善炊出所だったら、あるいはファーストフ ード店だったら……何となく納得できない人が多いだろう。逆に言えば、日本 語の場合、大衆食堂を「大衆レストラン」とは言わないのが普通だということ なのである。また、「超高級レストラン」という表現は一般的だが、「超高級食 堂」という言い方はあまり聞かない。 ●「大衆文芸」と「大衆食堂」の「大衆」は違うもの? 大衆という語が「マス」よりも「ポピュラー」に近い意味で用いられる事例 は、他にもある。例えば、大衆文芸や大衆小説といった表現を敢えて英訳する と、「ポピュラー・リターチャー(popular literature)」あるいは「ポピュラー・ フィクション(popular fiction)」ということになろう。つまり、大衆文芸の「大 衆」は、大衆食堂の「大衆」と同じような意味合いで理解されているのである。 簡単に言えば、大衆文芸とは、堅苦しく敷居の高い高級レストランのような文 学ではないということになるのであろう。 しかしながら、優秀な大衆文芸に与えられる直木賞は、純文学を対象とする 芥川賞と並び称される名誉ある文学賞なのだ。例えて言えば、両賞とも権威あ る高級レストランに与えられる星印(☆☆☆)のようなものである。一方、下 町の大衆食堂にとって、ミシュランガイドの星印など全く無縁な存在であるに

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違いない。このように考えると、大衆文芸の「大衆」と大衆食堂の「大衆」は、 何となく似て非なる意味を表していると感じざるを得ないのだ。日本語の世界 の中でさえ、「大衆」という語は、分かったようで実は分かりにくい言葉なので ある。いずれにせよ、日本語と化した「大衆」は、それ独自の意味感覚を既に 獲得しているのだ。しかし、その独自な感覚に従って西洋語の「マス」の意味 を解釈してしまうと、原語が指示する本質を見誤る危険性が非常に高いのであ る。 ついでに言えば、小説という語もまた、明治期に作られた翻訳語である。坪 内逍遙が、英語の「novel(ノベル)」に「小説」という漢字を当てたのだ。さ らに、この「ノベル(novel)」という英単語は、ラテン語の「novella narratio」 に由来する。前半の「novella」が、省略語的に「novel(ノベル)」の語源とな ったのである。なお、「novella」は、映画のヌーベル・バーグの「ヌーベル」 と同じく「新しい」という意味で、後半の「narratio」は「ナレーション」の 語源である。だから、敢えて由来を辿った逐語訳を試みれば、「ノベル」は「新 話」とでもなろうか。 あるいは、フランス語やドイツ語では、いわゆる「小説」のことを「ロマン (roman/Roman)」と言う。英語でも、フランス語の「ロマン」を借用して、長 編小説のことを「roman」と表現することもある。いずれの場合も、「ロマン」 は「ノベル」とは異なり、「新しい」という意味を持つ語ではない。この「ロ マン」は、ロマン語(ロマンス語)に由来する。ロマン語とは、大雑把に言え ば、文語であるラテン語に対する俗語のようなものである。つまり、独仏語の 世界における「ロマン(小説)」は、元来、高尚な文語であるラテン語ではなく、 通俗的な言葉で表現された作品だということになろう。なお、漢語の「小説」 は、取るに足りない議論といった意味である。 ●『週刊大衆』は他誌より安いか? 話題を日本語の「大衆」に戻そう。今日、この単語は、日本語の中に定着し てゆくに連れ、「マス」ばかりか、「ポピュラー」とも異なった横文字の訳語と して使用されるようになった。例えば、「World Federation of Proprietary Medicines Manufacturers」の日本語名は、「世界大衆薬協会」とされているの である。なるほど、原語の意味を考えた場合、この日本語訳は的確であるに違 いない。ただし、元の英名を直訳すると「世界専売薬製造者連盟」といったも

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のになる。おそらく、「世界大衆薬協会」という和名に出てくる「大衆薬」と は、安価な薬品という意味ではなく、薬局や薬店で誰でも処方箋なしで買える 薬という意味合いなのであろう。実際、大衆薬は、大衆しか買わない薬という 意味ではない。上流のエリート層に属する人々だって、きっと薬局で市販され ている数百円の目薬を使うこともあるに違いないのだ。何にせよ、「大衆薬」 の「大衆」は、もはや「マス」でも「ポピュラー」でもなく、日本語独自の意 味感覚を担っているのである。 日本には、大衆文芸や大衆食堂ばかりか、大衆演劇や大衆課税も存在する。 さらに、『週刊大衆』という雑誌も実在するし、マス・コミュニケーションが 大衆伝達と訳されることも多い。そして、道路には大衆車が走り、海には大衆 魚が泳いでいるのだ。ただし、大衆魚は高級魚より安価だが、『週刊大衆』が 他誌より特に安いわけではない。また、大衆文芸の対語は純文学で、大衆薬の 対語は処方箋薬なのである。 ここまで来てしまうと、「大衆」と「質量」の原語が同じ「マス」だったと いう事実は、なかなか思い起こされないだろう。すなわち、「マス」という語 の根底には数や量だけに関わる事物という含意があることが、ほとんど意識さ れないのである。もちろん、日本語の中で「大衆」という語を用いる場合は、 何も西洋語の「マス」に従属する必然性はなく、日本語として使えばよい。だ が、社会科学の分野で西洋語の「マス」の意味を理解するためには、日本語の 「大衆」に縛られてはならないのである。 最後に、確認しておこう。西洋語の大衆(マス)は、エリート(選良)に対 立する言葉ではあれ、この語自体が本来的に社会階級的な上下関係を含意して いるわけではない。ただし、質より量が大衆(マス)の本質である以上、結果 として、そこに軽蔑的な意味が伴うことは多い。しかしながら、「勤労大衆 (labouring masses/masses laborieuses)」といった表現では、社会の生産活 動を支える中核的な存在という点が強調され、むしろ肯定的な意味を帯びるこ ともある。いずれにせよ、「大衆(マス)」は、それ自体として特定の階級や身 分に直結しているわけではない。 実際、オルテガ・イ・ガゼトの『大衆の反逆』が指し示す「大衆(マス)」は、 下層階級のことではなく、あくまでも平均的かつ同質的で特筆すべき資質のな い人間集団のことである。誤解を恐れずに敢えて大雑把に言えば、この意味で の大衆は、イワシの大群に例えることが出来るかも知れない。すなわち、数が

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非常に多く密集しており、どの個体も似たり寄ったりで区別できず、群れが右 へ傾けば全員が右へと流される……という次第である。オルテガが問題視した のは、下層階級や貧困層の出身者がエリートになることではない。危惧された のは、エリートが必要とされる領域に大衆(=大量)がなだれ込んでしまうこ とである。まあ、真のエリートは大衆娯楽誌など買わないのかも知れないが、 それを買えないのが貧困層や下層階級なのであろう。

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