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弁証法的思惟による     学習指導のモメントの摘出について

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(1)

47

弁証法的思惟による

    学習指導のモメントの摘出について

熊 谷 忠 泰

く1)学習とは何か

 デューイが教育を定義して「経験の再構成」というとぎ,学習とはさしあたって自己経 験め改造であると考えてもよいであろう。学習が広く全人格的な理解・心情・態度。行為 の修得であるとするならば,新しいそれらのものの修得は,それ以前の旧いものに比べれ ば,少くとも新しいものの形成を意味するからである。しかし,問題はその経験を構成す

・るものは何かということである。経験はそれ自体として生成するものではないからであ

る。

 いうまでもなく,経験を構成するものはカテゴリーである。 ノ

  「カテゴリーは最高の類概念であり,存在の最も根本的な様式であるから,客観的頷域にも,主観  的領域にもある(ものである)…」①

このカテゴリーは,レーニンによれば,

  「外部的存在および行動の無数の個別的なものの簡約である。これらのカテゴリーはそれ自身,ま  た実践のうちで(生きた内容を創造したり,交換したりする精神的作業のうちで)人びとに奉仕す  る。」②

と解釈され,まさしく人間の経験のみならず,更に存在それ自体を可能ならしめるものと

       コ   ら

されている。してみると,学習は「自己経験の改造」から更に「カテゴリー発展」へと展 朋しなくてはならないということになる。つまり,学習者は自らのカテゴリー発展を通し て,自己ならびに人類の経験や世界の存在を学んだり,理論および実践のうちで精神的作 業を高めなくてはならないのである。

 むろん,子どものカテゴリーは必ずしも論理的カテゴリーではないであろう。それ故に 学習の指導は,それをレーニンのいわゆ、る「思考のカテゴリーは……自然および人間の合 法則性の表現である」③ところまで高めなくてはならない。そのとき,このようなカテゴ

リーの段階的発展を通して,子どもは自己および世界に正しく働きかけ,そこでの法則を 理解し,ひいては合法則的な生産(自由の創出という広義の生産)を常に新らしく続ける

ことができるのである。では,このようなカテゴリー発展を実際に行なう人間の機能は一 体何であろうか。

《2)認識について

 現象の世界め多様を統一的に把捉するはたらきを思考という。思考はいわば多様な現象

      

をカテゴリーに拠って統一する人間の知的綜合的機能である。

 ところで,その多様は一般に感情と感性的な直観に属するといわれる。われわれはもの を思考するとき,ものを精神の純粋な規定である単純な諸形式・に還元する。これがすなわ ちカテゴリーである。

 さて,現象の多様性は思考にとって外的なものである。そこでわれわれが感情によって 多様を知る場合,それはまだ思考ではない。また,多様を直観的に把握するはたらきもま

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長崎大学教育学部教育科学研究報告 第ユ5号

だ思考とはいえない。この場合もわれわれは対象を外なるものとして見るだけである。従 って思考は,これらの,ただ知るだけのはたらきと異なって,その外なる多様を一つの連 関のなかでカテゴリーにまで高めるときに現われる。しかし,思考は人間の精神の機能で あって,世界を構想的に知ることはできても,それ自体世界を創るものではない。われわ1 れが綜合的に世界を創出したときには,それは機能としての思考というよりは,むしろ一一 そう綜合的かつ創造的な,認識というべきである。

 レーニンは,それを「人間による自然の反映である」④といっている。多様な自然を感一 三および感性=直観によってとらえ,この素材を思考がカテゴリーにまで高めるとき,わ れわれの精神に反映としての認識が成立するというのである。一般に,認識とは単に知的 なはたらきだと解されているようだが, それは正しくない。それ故に,レーニンも認識に ついてこう述べている。

  「認識とは,思考が客観へたえず限りなく近づいていくことである。人間の思考のうちに自然を  反映する活動は,……運動の反断の過程,矛盾の発生とその解決の反断の過程のうちにあるものと.

 して理解されなければならない」⑤

主観が客観に接近する,つまり両者の統一は,運動またはそこに介在する矛盾を不断に解 決するというはたらきによって成立する。ところでこの運動は, 「諸概念や諸法則などの 定式化,形成からなる過程である。そしてこれらの概念や法則などもまたたえず運動し,発 展しており,自然の普遍的な合法則性を条件的・近似的に包括するものである。ここには.

実際に,客観的に三つの項,すなわち(1)自然,②人間の認識,③人間の認識における自然 の反映一という形式がある。そしてこの形式が概念や法則やカテゴリーである。」⑥  認識は,このように広くかつ深く自然=世界に関わりをもつものであり,しかもそれは

矛盾の解決による統一という力動的・弁証法的な関わりなのである。従って,このような 活動的な関わりのなかで始めてカテゴリーも発展する。それ故に,カテゴリーは「経験の1 簡約」であるだけでなく,同時に「自然=世界の普遍的な合法則性を包括する運動の形式」

であり,ただ認識という活動においてのみ発展し得るのである。しかし,真の認識はこの 段階で立ちどまらない。

  「人間の認識は,客観的世界を反映するだけでなく,さらにそれを創造しもする」。⑦

 人間における認識のこの重層性(反映と創造)は,それでは何を意味するのであろうか。

 それは,人間には認識として単に理論的認識のみならず,さらにそれを超えるものがあ,

り,その働きによって世界を創造するということである。それが実践的認識である。

       の  の     コ       の  の     の  ロ

  「実践は理論的認識よりも高い。なぜならそれは普遍性という価値をもつだけでなく.直接的な  現実性という価値をもっているからである。」⑧

 理論的認識は・普遍的ではあるがそれ自身無規定的なものとして客観的世界に対峙し,

この世界から規定された内容で自己を充たす。しかるに実践的認識は,普遍的であるのはも ちろん,規定的な客観的世界のなかで現実的なものと対峙し,その限りにおいて自らも現 実的なもの,活動的なものでなければならない。従って実践は,自己の規定を定立し,外 的世界の諸規定を否定することによって自らに外的現実性の形をとった実在性を与えるも のである。こうして,入間の認識は実践によってのみ自己を定立し,現実の実在性を得る ことができる。軽験の簡約・世界の合法則性を包括するカテゴザーは,最初認識の発展に一 よって自己を確定したが,その認識も実は実践によってのみ実在性を賦与されることが睨

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弁証法的思惟による学習指導のモメントの摘出について(熊谷) 49

らかとなった。そこで「必要なことは,認識と実践との結合である。」⑨(こうして,学 習とは,子どもにとって,自らの以上のような認識をはたらかせ,それによって認識のカ テゴリーを一そう発展させることを通して自己経験の改造と真正なる世界の創造を実にす ることであるといえよう。)

 ところで,認識が,生きた人聞の認識として現実の世界の中で機能するとき,それはど のような相で現われるのだろうか。いうまでもなく即物的な弁証法として展開する。

(3)弁証法の構造

 レーニンによれば,「弁証法とは対立したものがどうして同一であることができ,また,

どうして同一であるのか一それらはどんな条件の下で相互に転化しあいながら同一であ るのか一なぜ人間の頭脳はこれらの対立を死んだ硬直したものと見ないで,生きた,条 件的な,動的な,相互に転化しあうものと見なければならないかということに関する学説

もある。」⑩

 世界の過程や人間の思想には,例外なしにこのような矛盾の諸側面が含まれている。と ころが,本来矛盾する各側面は孤立的には存在できないものである。それらは一定の条件 によって,一方では対立しながら,他方では相互に連関しあい,依存しあっている。この 性質が同一性である。しかしもっと重要なことは,矛盾しているものが相互に転化しあう

ということである。

 現実の世界は一つの体系として形成されている。すべての事物はこの全体的な連関の中 にくみ入れられ,相互に作用しあっており,この作用こそがすべてのものの発展の原動ガ である。対立は統一と両立できないものではなく,両者の相互浸透において,つまり同一の 中に差別をはらみ,肯定の中に否定を含むという関係においてのみ全連関は成り立ち,連一 関がこのような関係のものであるから,空間的・時間的につながる弁証法的な連関であり 得るのである。

 ところで,入間の認識活動は単なる知的欲求によって誘発されるのではなく,上述の ような現実の深く鋭い矛盾のさなかで,その矛盾の解明を求めようとする生命的な欲求に よって現われるものである。従って,本来,入間の認識の最:も根本的かつ直接的な基盤 は,何といっても人間による世界の改造ということでなくてはならない。入間の認識は,

それ故に世界の必然的連関をとらえていくに応じて自己自身を形成するのである。もし この連関をとらえそこなえば,その瞬間から認識は自己形成を止めるのである。このよう に,人間の認識,生きた論理は,即物的な前提条件のもとで,また弁証法的な構造のもと で成立しているのである。では,このような認識が発展する世界を把えるには,どのよう な操作の過程をたどるのであろうか。

 それは,ヘーゲルが形而上学的とよんだ思考方法の行なう「事物を固定させた規定」を 否定する仕方で行なえばよい。しかしこの否定は,規定の単なる否定ではなく,肯定と否 定との二つの規定を統一的に行なうのでなくてはならない。

 肯定と否定という対立的規定を統一的にとらえることは,発展をとらえるうえで重要で ある。発展とは変化の累進であり,変化とは干るものがそのままの形で存在しなくなるこ

        

とであって,それは回るものの中に含まれる否定が肯定をゆるさないという関係,つまり1 矛盾関係によって生じる。

  「矛盾はすべての事物の発展過程のうちに存在し,また矛盾はすべての事物の発展過程をはじめ

(4)

50

長崎大学教育学部教育科学研究報告 第15号

:からおわりまでつらぬいている」⑪

  「運動そのものが,一つの矛盾である」⑫

だから, 「本来の意味からいえば,弁証法とは,対象の本質そのもののうちにある矛盾の 研究である」⑬とさえいうことができる。

 矛盾はこれまで「不合理」という意味を含めて使われてきたようであるが,実は,矛盾

     コ

こそあらゆる運動の特例である。何となれば,一つの規定は守るものをそのもの自体とし て限定することではなく,他との区別において,しかも分離という区別においてではなく 相互に媒介しあうことによって(ここに矛盾が発生する)自己を規定するところの統一を

        の        ロ

含んでいるからである。つまり,

  「一つの規定の中にその反対がある」

  「一つの規定は他の規定との関連においてのみ存在し,両規定の存在は一つのものの成  立である」

という関係が潜んでいるのである。では,こうしたことが何故可能なのであろうか。

 それは,発展は本来盛るものが存在し,また存在しないこと,すなわち或るものは何よ りもまず各瞬間において同一物であり,しかも常に同一物ではないということ,つまり転       ●化の関係にあるからである。だから,これはまた運動といい直すこともできる。従って,

      

運動がこういう矛盾を不断に定立しながら,同時にそれを解決していぐのである。

 以上のように,弁証法的な認識過程は肯定のうちに否定を,従ってまた毛沢東にしたが えば⑭表現こそ異なるが普遍性のうちに特殊性をふくみながら両者を統一的にとらえると かう方式をとる。

   「人類の認識の運動の順序からいうと,それは常に個別的および特殊的なことがらの認識から,

 一般的なことがらの認識へと一歩一歩ひろがっていく・人びとは常に最初は多くの異なった事物の  特殊な本質を認識し,そうしてから初めて更に一歩を進めて一般化の仕事を行ない,さまざまな事  物に共通な本質を認識することができるようになる。すでにこの共通の本質を認識した後には,こ  の共通の認識を手引として,それに引つづきまだ研究されていないか,またはまだ深く研究されて  いないさまざまの具体的事物についての研究を行ない,その特殊な本質をさがし出すのである。こ  のようにして初めてこの共通の本質についての認識を補い,豊富にし,発展させ,そしてこの共通  の本質の認識がひから,び死んだものに変わるのを防ぐことができる。これは認識の二つの過程であ  って,一つは特殊から一般へであり,他の一つは一般から特殊へである。人類の認識はすべてこの  ようにして循環往復しながらすすみ,そして各循環ごとに人間の認識は一歩一歩高められ,たえま  なく深められることができるのである。」⑮

認識のこの反覆性のないところでは諸事物は九だの一回きりの雑多な諸現象の一つとして 終り,そこから法則をつかむことはできない。従って反覆性を見出すことは,法則を成立 させるうえで重要である。しかし,くり返しになるが,その場合の反覆は,既に述べたこ とから当然に,肯定的な現状に対する否定・または一つの事から他め事への反覆であるこ とは明瞭であろう。そこで,弁証法における否定の意味は何かという問題が生じてくる。

つまりジ矛盾または反覆の根拠には否定のはたちきが本来的にあるからである。

 一 「弁証法は疑いもなくそのうちに否定の要素を,しかもその最も重要な要素として含んでいる。

 しかし弁証法の特徴および本質をなすものは,単なる否定でもなければ,でたらめな否定でもなく  ……それは連関のモメントとしての,また発展のモメントとしての否定であり,肯定的なものを保  ヨ寺した否定,すなわちどんな動揺も,どんな折衷主義ももたない否定である。」⑯

(5)

弁証法的思惟による学習指導のモメントの摘出について(熊谷) 5工

 それは形而上学における単に放棄としての否定ではなく,新しい半平を生みだすそうい う否定である。従って,それは本来的に「否定の否定」というべきものである。発展の過.

程でおこる否定の反覆は.低次元の特徴を高次元において示すけれども,その場合の反覆 はもはや単なる再生ではなく,より高い段階での改造的再現なのである。発展は,このよ うに否定の反覆によづて古いものの限界的再現を伴ないながら,全体としては非反覆的な 上昇をたどるのである。いわば,過程の全体をつらぬく否定の反覆という普遍性と,各段 階における特殊性(普遍性の否定)との相互媒介によってのみ,上向的な循環が可能なの である。もしすべての発展が上記のような相互媒介的なものである塗らば,弁証法的認識 も,概念・判断・推理などの操作を行なうにあたって,必然的に従来の形而上学的論理の 方式を踏襲することは許されないであろう。以上をまとめ,それを表示すればつぎのよう

になるであろう。

       り

 a 概念をそれ自身から規定する(そのもの自身がその関係と発展において考察されな   ければならない)。

b 事物自身のうちにある矛盾性(自己の他者),あらゆる現象のうちにある矛盾したガ   と傾向。

 c 分析と総合の結合。

鎚制糟1≧_馴曲髪

 気 即且向自的「規定」  !

高次元の認識

重⊥.

疋T定

  (矛 盾)

低次元の認識        論       理      、 認   識       註、〈〉は運動を、「ゴは定立を示す。

(4)認識の発展

 客観の世界に働きかけながらそれを改造するはたらきを実践という。だが実践を導くの は観念である。しかし,それが有効であるためには,観念は客観の必然性を示す法則であ り,同時に認識の筋道を示す論理に従わなくてはならない。論理は,人間の実践への要求 が己れを通してはじめて計画・実施されるという仕方で極めて深く人間の生活,あるいは 活動に組み入れらているのである。すなわち.実践の過程で客観的法則が入間に反映され

(感性)・定式化され(法則化)て論理となり・その論理(法則の体系)、に従って計画が 立てられ,それに基づいて技術による客観的法則への関係がはじまり,その関係の有効性

(合法則性)を通じて客観的法則に対する論理(主観的法則)の合致が証明されることに

なる。

 つぎに,悟性的または理性印認識は一定の証明を経てばじめて,その正しさが立証され.

る。だが,そのような証明を保証するものは,実は実践によってその確実性が確かめられ た公明的な事実である。そ巴町に・論理や認識を証明し得る主体は・生命的な統一体とし ての人間であり,人問の実践である。

 ところで,人間における最も基本的な実践は,歴史的には自由の創出という生産であ

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石2 長崎大学教育学部教育科学研究報告 第15号

1り,他のすべての活動はそれから派生したものである。従って,人間の認識活動も主とし て生産に依存しながら自然ならびに人間を知るようになってきた。むろん冷日では,入間 の社会的実践は極めて複雑となったが,それでも多種多様の実践を通して自然と人間,丁 丁と人間の関係を知ることができる。このように入間の認識が実践から発し,しかも実践 こそが認識の正しさを証明する論 拠を提示するものであるならば,人間の認識は実践との どのような関わりにおいて発展し,逆に実践に奉仕するよ うになるのであろうか。

 はじめ入間は,実践の過程において,過程の中の事物の現象面だけを見る。つまり感覚 と単なる印象の段階で,これを認識の感性的段階という。ところが,それに続く実践の継 続によって,人は感覚と印象を反覆する。すると人間の頭脳のうちで,一つの認識過程に

.おける突然の変化,つまり飛躍がおこり,概念が生じる。それはもはや事物の現象ではな く・その本質・全体・内部的連関牽とらえたものである。このようにして判断と推理を使 っていけば,論理に合った結論を引き出すことができる。これを理性的認識の段階とい

う。認識の任務は,感覚を経て思考に達すること,一歩一歩と客観的事物の内部矛盾を 理解し,その法則性を知り,一つの過程と他の過程との間の内部的連関を把握することで

ある。⑰しかし,感性的,理性的というこの二つの認識段階は,実は一つの統一的な認識 過程の中の桂町なのであって,恰も肯定一否定が相互に矛盾関係にありながらも結局はよ り高次のものへと統一されるのと相等しい。従って,それらは性質は異るが,実は実践の 基礎の上で統一されているのである。

 ここには,特に重要な二点がある。

 第一は,理性的認識は感性的認識に依存するということである。もし理性的認識が感性 酌認識と異るものだと考える入があれば,それは誤っている。理性的なものが信頼できる のは,まさにそれが感性(実は実践の低い段階)に由来するからであり,過程の順序から 感性が先行するというにすぎない。

 第二は,認識は常により一そう深められなくてはならないということである。だから,

感性的認識は理性に発展しなくてはならないのである。ここからつぎの過程が発生する。

 人間にとって重要なことは,単に世界の法則を理解し,世界を解釈するだけでなく,更 に法則の認識を用いて能動的に世界を改造するということである。真の認識は実践から始 まり,理論に達したらそこで止まるのではなく (大低の認識はここで止まる!),再び下 賎に帰らなくてはならない。認識の能動性は感性から理性へと飛躍するだけで.なく,更に 改造的実践へという飛躍にも現われなくてはならないのである。つまり,認識を実践に帰 えし,それを科学・生産。改造に役立て,その結果が更に理論を点検し,発展させ,そし て理論二実践のすべての認識過程がたえず継続しなくてはならないのである。

〈5)認識過程の総括と学習指導のためのモメントの摘出

 われわれは,認識の発展が感性的認識から理性的認識をへて,最後に改造的実践にいた

・る過程をみてきたが,学習の指導が子どもの認識の発展を問題とする限り,指導の過程は 認識の過程に対応すべきだということは当然の理であろう。そしてこの事は,最初に想定

した「学習は自己経験の改造からカテゴリー発展へと高まるべきである」という命題と野 営するものでもない。カテゴリーの発展は自然および人間の法則性の発展であり,そして

=法則性の発展は理論嵩実践の認識過程において可能だからである。そこで,まつ,指導の モメントを決定する手が\りとして,認識の発展段階と弁証法的論理の過程とを対応させ

(7)

弁証法的思惟による学習指導のモメントの摘畠について(熊谷)

53

てみた。

認識の発展段階

a・感性二段階

b.理性的段階

。.改造的実践段階

論 理 過 程

「規定」

    〈否定〉

「区 別」

〈車回イヒ (移そ了) 〉

「統 一」 「規 定」

(「規定」の適用)

指導 の 目 安

矛 盾 の 露 呈

矛 盾 の 解 決

法則の検証

   この対照表の意味は何か一それは「認識の発展段階」の中で作用する人間の知的機能を明らか   にし,それを各段階に位置づけると,実際の指導の際に各段階ごとに(「指導の目安」は一おう   立てられてはいるものの),そこで今子どものどのような機能が主たるものとして作用しているか   を知ることができ,従ってそこから学習指導のモメントを発見する手力蔦りが想定されると考え   たからである。このような理由から, 「論理過程」の内容はいきおい分択的でなければならない   ことになる。従ってこの分択は,ヘーゲル論理的にその多くを負うこととなった。

 a.感性的段階

 この段階における論理過程は,或るものを「規定」し,そのく否定〉を通して「規定」

1こおける肯定と否定の要素を「区別」することである。総体的な認識としては,毛沢東の いわゆる「感覚と印象」の段階である。

 まず, 「規定」がどのような能力によって,またどのような過程で行なわれるかが出発 点である。それは何よりもまず,感性的意識からはじまる。感性的意識は対象を他のすべ

      の       コ

ての対象から区別して,「いま」 「ここに」「ある」ものとして直接的に,主観的な断定 によって規定する。⑱しかしこの種の規定は普遍性をもたないから,そうするためには,

認知は知覚に進まなくてはならない。知覚は他の対象への関係をもち,対象を一般化す る(131)。この知覚による規定は,感性的な多様を時間と空間の中で外なるものとして把 えたという限りにおいて直観とも呼ぶ(154)。しかし,このような機能は感情によっても 果されるが,この場合は時。空の規定を有しない(154)。

 そこで,この感情の内容を表象にまで高め,そのことによって内容を必然化し,普遍性 にまで純化するものが知性である(314)。そしてこの表象がわれわれの対象であり,その 内容はすべて経験から得られる(工55)。

 対象が認知されると,つぎに「規定」に進まなくてはならないが,そのはたらきは思考 である。思考は多様を統一的に把捉するはたらきであり(153),また普遍的な「規定」を

    の    

.自分自身の中から,また自分自身の中に設定する(331)。その一つに悟性的機能がある。

悟性は一般に思考の規定作用であり,思考の諸規定という形で物を確定的につかむもので

     

あるから(332), 「物の内的なものを考察する」ともいわれる(133)。その意味で,悟性 は物の本質的なものと非本質的なものを「区別」し,物の必然性と法則を認識する(332)。

 以上のように,現象を手がかりにして物の本質を洞察し,偶然を契機として必然性を見 出すことを事物を法則的に把捉するという。むろん,この操作は論理的思考によるほかは

(8)

54

長崎大学教育学部教育科学研究報告 第15号

ないが,しかしすべての論理操作は何よ〉りも「規定」の機能を果すものである。だが,規 定は事物の限定であるから,規定の対象である法則は,必然的に固定されたもの,静止的1 なものであることを免かれない。レーニンも「法則の国は現象する世界の静止的な映像で ある」というヘーゲルの言葉を極めて高く評価して,次のように述べている。

  「(この言表は)唯物論的な,そしてすばらしく適切な規定である。法則は静止的なものをとらえ

 る。」⑲

 その固定,静止を避けるのが,ほかならぬく否定〉のはたらきである。しかし,この否 定から生ずる 「区別」の内容も,実は「規定」にほかならない。そこで直ちに次めく否 定〉が作用する。しかしζの過程は,実際には自然や世界,または認識の自己展開として 行なわれるのである。

 b.理性的段階       ノ  この段階は,論理の過程としては,「区別」された二つの側面(肯定と否定。そしてそ れが同一物に現われるという矛盾状態)が【統一」(高次の「規定」の状態)1こ向って く転化(移行)〉する過程であって,認識の発展としては毛沢東の「感覚と印象の反覆に.

より飛躍が生じ,概念=法則が発生する」段階である。従って,認識に関しては,前壷階 よりはるかに複雑かつ高度である。つまり,前段階を承けて確かな認識が行なわれる段階 であるからである。

一さて,ヘーゲルは認識についてこう述べている。

  「認識は概念と現実性との関係である。自体的にはただ自分だけで充実されているにすぎないそ  の限り空虚な思考は,この現実性との関係によって特殊な内容で充たされることになる。またこの特  殊な内容も,そこにあることから一般的な叙述(概念)にまで高められる」(245)

 そこには二つの機能が見出される。一つは思考作用(単なる作用)が素材(対象という 素材)を「現実性」として獲i得する,他は対象として単にDa−seinするものが「概念」

によって窺えられるという機能である。そこで「現実性」と「概念」について述べなくて はならないが,もう一歩堀り下げれば,「現実性」の問題は〈較化(移行)〉の弁証法や,

さらにはこの段階で主要な作用を演じる「悟性」の弁証法の対象でもあり,より本質的1乙 は「有」の法則性を明らかにして「概念」の定立へと向かう論理の問題でもある。しかも それは,ヘーゲルにおいては,「本質論」の弁証法的統一規定として展開するので,この 問題は, 「本質論」全体の問題として考察するのが至当であると思われる。

 本質とは「有」が直接的であるのに対して,自分との単純な統一に帰った有である。だ

      

から,本質は自分自身に反照し (自分自身を見)・自らを規定する。しかし,その諸規定 は統一のなかにあるから・それはまた開係でもある(それを反省規定という) (171)。ζ の「関係」によって明らかとなる本質の規定は,自分自身との統一を表わす同一性,二つ       

のものがただ他方がある限りにおいてのみあることを表わす区別(そしてこれはさらに差

      の       

別と対立とに分かれる),定立された規定がそこで止揚されること:を示す根拠である        6 ●

(172〜3)o

 以上三つの規定,特に根拠から出てきた(すべてのものは根拠をもつ)存在の諸規定の 全体としてあるものが,物である。ところで物は,それ自身存在するものとして同一性と

      こ      

差別性をもつが,また質料(この統一が物を形成する)としての特性に分解される。つま:

り,物は存在規定または物を物たらしめている諸規定の統一の面からみれば存在である       ●   ●

(9)

弁証法的思惟による学習指導のモメントの摘出について(熊谷)

55

が,物を成立させている質料の面からみれば分解(消滅)するから,それ自身矛盾である。

       コ      ロ

故に,物は現象である(174〜5)。現象とは自らにではなく,他者の中に根拠をもつもの

『である(176)。

 同一一性。差別・根拠=物,物の同一性・差別・質料=現象という論理に立てば, 「本質 1は現象しなくてはならない」ということから,現象の中にあって本質の中にないものは何 もない(その逆も成立する)ということになるG76)。

 ところで,現象の法則とは,「現象の諸規定間の本質的関係」 (177)をいうのである

       

から,諸規定は相関関係をもつ。相関関係は,物の規定の二つの側面(同一性とその否

        コ      

定)間の相互関係(これが矛盾である)であり,同時に関係であるという意味で,統一の 機能を果たす(177)。このように,相関関係が矛盾であるとともに統一を含むということ

は,それが制約された相関関係だということでもある。しかし,こうした相関関係にも,

まだ現象と本質の区別はある。だからそれは,全体と部分(区別として),力と発現(同 一性として),内面と外面(統一として)という関係を内包する。こうして,相関関係は 物と現象を統一しながら「現実性」に高まる(ユ78〜80)。

 本質を振り出しに今まで述べてきた事の理由は,実はこの「現実性」を導出するためで あった。現実性は,ヘーゲルの「本質論」では,本質と現象の統一である。そしてまた,

     の   の       コ       コ   コ   コ   コ   リ   リ

自己原因としての,或いは原因一結果の交互作用において自分を自身の中に反省し,その 反省を通して真実の根源性であり得るところの実体において自己を表示する(ユ80〜85)。

      

 さて,次に「概念」であるが,これに関するヘーゲルの規定はまことに多彩である。

  「概念が現わすものは存在するもの℃あるが,それはまた本質的なものでもある。」 (15の

      ロ       り       コ       ロ   ロ   ロ   コ   リ   ロ

  「概念はわれわれによって定立されたものであるが,しかし事物(現象。存在の中に本質が見ら  れるもの。現実的な本質)そのものをその中に含んでいる。」(158)

  「概念は,即且向自的に存在するものであり,単純な総体性であって,そこからあらゆるその規

 定が流れ出て来るものである。」 (200)

  「概念は普遍的なものであるが,この普遍は同時に規定されてもいる。すなわち,この普遍は,その  規定の中にあって依然同一の全体であり,換言するとこの普遍は事物の諸規定を統一として自分の中

 にもっている・ような規定性である。」(211)

  「認識の理念においては,概念は求められる。そして概念は対象に一致すべきものとされる。善  の理念においては,逆に概念が第一のものとみられ,即自に存在する目的と見られる。従って概念

 、は現実性の中で実現さるべきものである。」(249)

  「絶対的知識は概念であるが,それも自分自身を対象または内容とし,従って自分自身の実在性  をもつ。」(250)

 叙述の場所と内容に応じて,ヘーゲル自身がこれほどの多様性をもって規定した概念 を,簡単にわれわれが定義付けることは彼の意志に反することになろう。だがここに一つ だけ,彼以外の人の概念の規定を挙げておこう。

  「〃本質の本質〃が概念である。その点で本質は概念に対していえば,概念によって〃定立された  もの〃である。しかしこの定立されたものとしての本質は,また概念の客観的基体をなすもの,す なわち事柄そのものであって,その点でまた真なるものである。またその意味で概念は存在(現象)

と本質との統一であり,或は主観的なものとの統一であるといってよい。」⑳

 本質の本質としての概念と,存在と本質とめ統一としての概念とは,「本質は現象し 煎ければならない」というヘーゲルの前記の命題を想起すれば,全く同じものである。

(10)

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長崎大学教育学部教育科学研究報告 第15号

しかも,概念を「本質の本質」と規定したことは,「本質論」の救述からみてまことに簡 にして的を射たものといわなくてはならない。

 このような理由で, 「認識は概念と現実性との関係である」 (前出)といえよう。

 さて, 「概念」は,本質の本質として,感性的段階において「区別」として露呈された 肯定と否定の〈転化〉の運動または発展が,「統一」によって完了する論理的地点であ る。従って, 「概念」において,理性的毅階は完結する。同時に「移行」の弁証法も,こ こで一つの段落を迎える。では,このような弁証法を遂行する能力は何か。いうまでもな く悟性と理性である。

 物は,個別性の面からみれば,偶有的であり,変化するが,普遍性の面からみれば,恒 常的であり,本質の生成の過程にある。対象の規定は,この二つの面からなされる。われ われの意識が対象を後の面から把えようとするとき,その意識を悟性という(132〜3)。

それ故に,悟性は,上述したように物の本質,必然性,法則性を認識する能力である

(332)。むろん悟性は,物を「規定」する感性的段階においても機能するが,しかし,移 行の弁証法の遂行されるこの理性的段階において,その主たる機能を果たす。その機能 は,判断,理解,推理である。

 つぎに,悟性とならんで理性がある。人間におけるこの最高能力の叙述をもって理性的 段階は終わる。理性は,対象の知識と自己の知識との最高の統一である。従って,理性の 諸規定がわれわれの思想であるとともに,対象=物の本質の規定でもあるというそうした 確実性でもある。むろんこの両面は,一つの思考(認識)の中にあるものである。だから,

われわれが理性の機能を通して知り得ることは,第一に,理性活動を通して獲得した内容 は単に主観的な表象または思想ではなく,客観的実在性をもつということ,第二に,内 容はわれわれに対して外的なもの,所与的なものではなく,われわれの自我によって貫ぬ かれたもの,その意味で自我によって生産されたものだということである(150)。

 このように,自我によって生産されたものが,しかも客観的実在性をもつというところ に,つまりそのような表象や思想を生み出させ得るというところに,理性の高さと,・その 意味での認識への寄与がある。従って,理性から得られた知識は,単に主観的確実性に止 まらず,また真理でもある。何となれば,真理の本質はゴ確実性と対象性(存在)との統 一にあるからである。学習の指導は,このような確実な認識または生産的な知識をギども たちに創出させることでなければならない。そのためには,理性の操作の指導が確実に行

なわれていなくてはならない。

 c.改造的実践段階

 この段階は,論理の過程からすれば,形式論理学ではすでにその限界を超えている。だ が実践的・発展的論理,従って弁証法的には,実践的認識の段階として,前段における

「統一」によって,高次元において「規定」されたものを展開する段階である。認識あ発展 としては,毛沢東の「再び実践に帰る」段階である。つまり, 「概念」または理性的知識 を歴史または自然の世界に適用し,高次の弁証法的運動を展開させる仁万である。ヘーゲ ルにあっては,論理学に続く「精神現象学」その他の精神科学的哲学の世界であるが,こ こではもはやそれらのものに触れる必要はない。ヘーゲル哲学の論理とわれわれの意図す るところとは,すでに分岐すべき地点に達したからである。どこまでも論理自体の分析的 展開を追及するヘーゲルに対し,われわれは,認識結果の現実への綜合的適用を目標とす

(11)

弁証法的思性による学習指導のモメントの摘出について(熊谷) 57

る。しかし,操作自体が対象及び操作の論理(法則性)に基づいてなされる限り,認識の 過程としては,やはり.弁証法の論理に従わなくてはならない。・

 理性的認識の結果を「現実に適用しなくてはならない」という理由は,「認識の発展」

に関する毛沢東理論の紹介の中でもふれたので,改めてふれないが,ただそれに関するレ ーニンの言葉だけを引用しておきたい。

  「理論的理念(認識)と実践との統一,このことに注意せよ。」⑳

  「生き生きとした直観から抽象的思考へ,そしてこれから実践へ一これが真理の認識の,すなわち  客観実在認識の弁証法的な道すじである。」⑳

  「生命は脳ずいを生み出す。人間の脳ずいのうちに自然が反映される(註,認識とは自然の反映で  ある一前出)。人間はその実践と技術のうちでこの反映の正しさを検証し,適用しながら客観的真理

 に到達する。」⑬

 われわれは,これらの引用の中に,この項で述べるべきことのすべてが含まれていると.

思う。

 弁証法的論理の中から学習指導の重要な手がかりを発見しようとする試みは,弁証法が 生きて変化する世界を発展として綜合的に把えようとするものであるだけに,弁証法自体一

       り   の

の叙述だけからは不可能であると思われたので,特に分折的なヘーゲル論理学を援用し,

発展の弁証法の論理と,現実の指導の手がかりという一見異質的なものの統一を敢てし た。それが可能だとされた根拠は,両者が「認識過程」という地平において共通地盤をも つと考えたからである。しかも分折論理の授用は,論理学は本来認識の法則性である点か

ら,決して不当ではない。思考機能を,一方が発展的・綜合的に把えようとするのに対 し,他方は分析的に見るという視点の相違に過ぎないからである。ただし,その結果は,

対象を一方は力動的に,他は静止的・固定的に把捉するという大きな差異を生む。しかし とこでは,思考過程に機能する能力とその役割とが関心を占めたにすぎない。

 こうして今,われわれは,認識の各段階につぎのような「指導のモメント」を見出すこ とができたQ

感性的,段階

感   性, 悟   性

否 定 の 機 能

疑 問 的な態度

理 性 的 段 階

」悟 1生 (半U断1まカ)),王里筆生

分折・綜合の,言語の

思  考  的  な

実践 的 段階

確認の,習熟の,応用の

改造的な, 創造的な

註①「視点」とは,指導に当っての視点をさす。

 ②「能力」は特に各段階で指導するものを挙げたのであって,各段階で示された能力のみが作用す   るという意味ではない。なお,感性的段階における悟性と理性的段階におけるそれとは,内容   的な相違があるが,ここでは省略する。

 ③「機能」と「態度」における「指導のモメント」は,指導の結果として子どもが身につけるべ

  き「機能」 「態度」である。

 ④「言語の機能」は言語「使用」機能ではなく,「言語」機能の果たす概念化=法則化の機能を意:

  味する。

(12)

石8 長崎大学教育学部教育科学研究報告 第15号

:註①ヘーゲル「哲学入門」 (武市健人訳,岩波文庫)p.156

 ②レーニン「哲学ノート」 (松村一人訳,岩波文庫)第一分冊p・18〜19  ③レーニン,上掲書,P・19

④同

⑤同

⑥同

⑦同

⑧同

⑨同

⑩同

上,

上,

上,

上,

上,

上,

上,

P.160 P.179 P・160

p・205

P・20ワ P・21!

P・49

⑪毛沢東「実践論・矛盾論」 (松村・竹内訳,岩波文庫)p.45

⑫エンゲルス「反デユーリング論」(粟田賢三訳,岩波文庫)上巻P.202

・⑬レーニン,上掲書,第二分冊p・48

⑭毛沢東,上掲書,p.45

・⑮同 上,    p・47

⑯レーニン,上掲書,第一分冊p・22ワ

⑰毛沢東,上掲書 p.12〜15

⑱ヘーゲル,上掲書,p.ユ29〜150,以下本文中1()内に単に数字のみをあげている場合は  すべて同書のページを示すものである6

⑳レーニン,上掲書, p.114

⑳武市健人氏の見解(ヘーゲル,上掲書,p.158の註)

⑳レーニン,上掲書,第一分冊 p.2!6

@同  上,p.145

@同 上,P.188、

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