《判例研究》
解約申入後における立退料の提供・増額と正当事由
最高裁平成3年3月22日第二小法廷判決
(平成2年(オ)第216号家屋明渡等請求事件)民集45巻3号293頁
田中英司
I はじめに
周知のように,借地・借家の契約関係の存続・終了をめぐり,正当事由の 判断が問題となる裁判例において,今日では,立退料という金銭給付が介在
(1)
する事例が主流となっている。そして,立過料の提供が一般化したことによ り,本来,「allornothing」の性格をもった正当事由の判断をめぐる紛争形態
(21
が,妥協の幅を有する金銭的紛争へと転化してきている,とも指摘されてい る。それとともに,正当事由の判断が,立退料を介在させることにより,か
(31
えって複雑かつ不透明になったことも事実であり,立退料の提供をめぐる実 体法上・訴訟法上の問題点はなお少なくない。
このような一般的状況において,ここで取り上げる最高裁平成3年3月22 日第二小法廷判決は,解約申人後における立過料の提供・増額と正当事由と の関係を扱うものである。すなわち,当初の解約申人後において立退料の提 供・増額の申出がなされた場合には,その立退料の提供・増額を参酌して当 初の解約申入れの正当事由を判断することができ,それにより正当事由の具 備が認められるときには,当初の解約申入時から6か月の経過によって賃貸 借契約は終了する(借家法3条1項),という判断が示されたのである。
(4)
本判決は,判例雑誌の解説によると,これまでの裁判例の取り扱いに再検 討を迫る,画期的な新判断であるとされている。また,本判決の評釈・解
《判例研究》
解約申入後における立退料の提供・増額と正当事由
最高裁平成3年3月22日第二小法廷判決
(平成2年(オ)第216号家屋明渡等請求事件)民集45巻3号293頁
田中英司
I はじめに
周知のように,借地・借家の契約関係の存続・終了をめぐり,正当事由の 判断が問題となる裁判例において,今日では,立退料という金銭給付が介在
(1)
する事例が主流となっている。そして,立過料の提供が一般化したことによ り,本来,「allornothing」の性格をもった正当事由の判断をめぐる紛争形態
(21
が,妥協の幅を有する金銭的紛争へと転化してきている,とも指摘されてい る。それとともに,正当事由の判断が,立退料を介在させることにより,か
(31
えって複雑かつ不透明になったことも事実であり,立退料の提供をめぐる実 体法上・訴訟法上の問題点はなお少なくない。
このような一般的状況において,ここで取り上げる最高裁平成3年3月22 日第二小法廷判決は,解約申人後における立過料の提供・増額と正当事由と の関係を扱うものである。すなわち,当初の解約申人後において立退料の提 供・増額の申出がなされた場合には,その立退料の提供・増額を参酌して当 初の解約申入れの正当事由を判断することができ,それにより正当事由の具 備が認められるときには,当初の解約申入時から6か月の経過によって賃貸 借契約は終了する(借家法3条1項),という判断が示されたのである。
(4)
本判決は,判例雑誌の解説によると,これまでの裁判例の取り扱いに再検 討を迫る,画期的な新判断であるとされている。また,本判決の評釈・解
説においても,基本的に肯定的な評価がなされている。しかし,筆者には,
にわかに左祖し難いように思われる。以下,事実の概要と判旨をまとめたう えで,若干の検討を加えることにしたい。
E 事実の概要と判旨
訴外Aは,昭和10年頃,所有する本件建物を, Y (被告・被控訴人・上告 人)に賃貸したが,昭和20年にAが死亡したことにより, X (原告・控訴人
・被上告人)が,本件建物賃貸借契約の賃貸人の地位を相続により承継した。
Xは,本件建物と隣接する別の建物に居住し, Yは,本件建物に居住したう えで,近くに庖を構え,服地販売業を営んでいた。こうしたなかで,本件建 物の賃貸人Xが,賃借人Yに対して,建物明渡等を請求したのが本件である。
第一審において, Xは,当初,建物の朽廃による賃貸借契約の終了,信頼 関係の破壊にもとづく賃貸借契約の解除を主張していたが,それらに加えて 予備的に,昭和62年5月11日の第7回口頭弁論期日において,立退料100万 円の提供とともにした賃貸借契約の解約申入れにつき正当事由があると主張 した。しかし,第一審は, Xの請求を棄却した(大阪地判平成元年1月18日)。 そこで, Xは,控訴し,第一審と同様の主張をするとともに,さらに予備 的に,平成元年7月21日の控訴審第4回(最終)口頭弁論期日において,正 当事由の補強として,立退料を300万円もしくは裁判所が相当と認める額に 増額する申出をするとともに解約の申入れをした。そして, r右解約申入れ の意思表示をした日から6か月後の平成2年1月20日の経過をもって本件賃 貸借契約は終了すべきものであるJ,と主張したのである。
控訴審は, Xの主張のうち,建物の朽廃による賃貸借契約の終了,および,
信頼関係の破壊にもとづく賃貸借契約の解除の主張は排斥したが,立退料 300万円の提供とともにした賃貸借契約の解約申入れについては,おおむね 次のように説いて, Xの請求を認容した。すなわち, (1)本件建物は早晩朽 廃に到ることが予測されるので,地価の騰貴した現在では,敷地の有効利用 のために,早急に本件建物を取り壊し,新たな建物を建てることが望まし い。 (2)Xは,社宅に居住しているXの二女のために,一戸建家屋を所有さ
せたいと考えているし,二女の家族も,定住家屋を確保することを予定して いる。さらに, Xは,高齢で,いつ病臥するかも知れない状態にあるので,
二女がXの身近に居住し,看護・介助をすることが望ましく, Xもそれを期 待している。これらの点からも, Xとしては,本件建物を取り壊し,新たな 建物を建てる必要がある。 (3)Yは,第一審において,相当額の立退料さえ 受け取れば,建物を明け渡してもよい旨の供述をしている。 (4)現在におい ては,一定の経済負担をしさえすれば,他に借家を求めることも容易であ る。 (5)以上のことにかんがみると, Xが相当額の立退料を提供すれば賃貸 借契約の解約申入れをする正当事由が具備するところ,その立退料は100万 円では低きに失するが, 300万円を支払うことにより,正当事由が具備する と認められる。そうであれば, Xが, i昭和62年5月11日に100万円の立退料 の提供とともにした解約の申入れは,未だ正当事由を具備していないが,平 成元年7月21日に300万円の立退料の提供とともにした解約の申入れは,正 当事由があるものというべきであるから,その後6か月を経過した平成2年 1月21日の経過をもって右解約の効力が生じることになる。J,と判示した(大 阪高判平成元年 9月29日)。
そこで, Yは,正当事由は解約申入期間である6か月の満了時まで存続し なければならないところ,控訴審は,その期間の満了以前である平成元年9 月29日に解約申入れの効力を認めたものであり,法令違背が存する,等と述 べて上告した。
これに対して,最高裁は,次のように説いて,上告を棄却した。
「建物の賃貸人が解約の申入れをした場合において,その申入時に借家法 1条ノ 2に規定する正当事由が存するときは,申入後6か月を経過すること により当該建物の賃貸借契約は終了するところ,賃貸人が解約申入後に立退 料等の金員の提供を申し出た場合又は解約申入時に申し出ていた右金員の増 額を申し出た場合においても,右の提供又は増額に係る金員を参酌して当初 の解約申入れの正当事由を判断することができると解するのが相当である。
けだし,立退料等の金員は,解約申入時における賃貸人及び賃借人双方の事 情を比較衡量した結果,建物の明渡しに伴う利害得失を調整するために支払
われるものである上,賃貸人は,解約の申入れをするに当たって,無条件に 明渡しを求め得るものと考えている場合も少なくないこと,右金員の提供を 申し出る場合にも,その額を具体的に判断して申し出ることも困難であるこ と,裁判所が相当とする額の金員の支払により正当事由が具備されるならば これを提供する用意がある旨の申出も認められていること,立退料等の金員 として相当な額が具体的に判明するのは建物明渡請求訴訟の審理を通じてで あること,さらに,右金員によって建物の明渡しに伴う賃貸人及び賃借人双 方の利害得失が実際に調整されるのは,賃貸人が右金員の提供を申し出た時 ではなく,建物の明解しと引換えに賃借人が右金員の支払を受ける時である ことなどにかんがみれば,解約申入後にされた立退料等の金員の提供又は増 額の申出であっても,これを当初の解約の申入れの正当事由を判断するに当 たって参酌するのが合理的であるからである。…そして,・・・被上告人 (X)
が昭和62年5月11日(第一審第7回口頭弁論期日)にした解約の申入れは,
立退料300万円によって正当事由を具備するものと認めるのが相当であるか ら,本件賃貸借契約は,右解約申入れから6か月後の昭和62年11月11日の経 過によって終了したものといわなければならない。したがって,これと異な り,被上告人が平成元年7月21日に立退料の増額を申し出た時から6か月後 の平成2年1月21日の経過をもって本件賃貸借契約が終了するとした原判決 には,借家法l条ノ 2にいう解約申入れの効力の解釈を誤った違法があるが,
平成2年1月22日以後の建物の明渡し及び資料相当損害金の支払等を命じた 原判決を変更して昭和62年11月12日以後の建物の明渡し及び賃料相当損害金 の支払等を命ずることは,いわゆる不利益変更禁止の原則により許されない。
論旨は,結局,原判決の結論に影響しない部分の違法をいうに帰し,採用す ることができない。」。
E 検 討
1 本判決の理論構成と従来の裁判例の理論構成
本判決の論点は,当初の解約申入後における立退料の提供・増額を,正当 事由との関係において,どのように取り扱うかということである(6)そして,
この論点につき,本判決は,従来の裁判例の取り扱いに再検討を迫る,画期 的な新判断であるとされている。そこでまず,本判決の理論構成と従来の裁 判例の理論構成を明らかにしてみたい。
本件において,賃貸人Xは,はじめに,第一審の第7回口頭弁論期日にお いて,立退料100万円の提供とともに解約申入れを行ったが,さらに,控訴 審の最終口頭弁論期日において,立退料を300万円もしくは裁判所が相当と 認める額に増額する申出をするとともに解約の申入れをしている。このよう な事実関係において,本判決は,まず,賃貸人が,当初の解約申入後におい て,立退料の提供・増額を申し出た場合には,それを参酌して当初の解約申 入れの正当事由を判断することができるとする。すなわち,本判決は,控訴 審における立退料増額の申出とともにした解約申入れにつき,立退料増額の 申出を解約申入れから切り離し,それを考慮、して当初の解約申入れの正当事 由を判断することができるとしたのであるごそして,最高裁は,その取り扱 いの合理性を,六つの点を挙げて,詳細に根拠づけている。
それらの六つの点による根拠づけは,次の二つの範鴎に大別することがで きる。
まず,第一の範鴎は,立退料の性質論である。すなわち,本判決によると,
立退料は,賃貸人と賃借人の事情を比較衡量したあとで,建物の明渡にとも なう当事者の利害得失を調整するためのものと把握されている。ここでは,
立退料という金銭給付は,正当事由を判断する際に考慮、の対象となる立退料 以外の通常の要素とは異質の要素であるとの理解が示されていると考えられ る。
次に,第二の範鴎は,立退料の提供・増額についての実態論である。すな わち,本判決は,次のように指摘している。賃貸人は,解約申入れにあたり,
立退料の提供なしに明渡を求めうると考えていることも少なくないし,立退 料の提供を申し出るときにも,立退料の額を具体的に判断して申し出ること は困難である。また,裁判所が相当と判断する立退料を提供する用意がある 旨の申出も認められているし,相当の額が具体的に判明するのは訴訟の審理 を通じてである。さらに,立退料によって当事者の利害得失が実際に調整さ
れるのは,賃貸人が立退料の提供を申し出たときではなく,賃借人が建物の 明渡と引き換えに立退料の支払を受けるときである,と指摘されている。
以上のように,本判決は,立退料の性質論および立退料の提供・増額につ いての実態論という一般理論にもとづいて,当初の解約申入れの正当事由判 断にあたり,後に提供・増額された立退料を考慮することが合理的であると 説くのである。
そのうえで,本判決は,当初の解約申入れが立退料の提供・増額により正 当事由を具備すると認められるときには,当初の解約申入時から6か月の経 過によって賃貸借契約は終了するとしている。すなわち,正当事由は,当初 の解約申入時に具備されたことになるのである。
さて,これに対して,従来の裁判例は,どのような理論構成をとっていた のであろうか。
まず,立退料ではなく,正当事由を判断する際に考慮、の対象となる立退料 以外の通常の要素についての判例からみていくことにしたい。ここでの問題 は,当初の解約申入後において,新たな通常の要素が生じた場合,その新た な通常の要素を,正当事由との関係で,どのように取り扱うかということで ある。
判例によると,まず,当初の解約申入時に正当事由が存在しなくとも,そ の後に新たな通常の要素が生じそれを考慮して正当事由の具備が認められ る場合には,その新たな通常の要素が生じた時点において正当事由が具備し たものと扱われ,その時点から6か月の経過によって賃貸借契約は終了する とされている。したがって,ここでは,その反面として,当初の解約申入れ は,正当事由を欠き,その効力を生じないことになる。そして,判例は,こ のような取り扱いの理論的基礎として,意思表示の解釈論を展開している。
すなわち,判例は,当初,明渡請求訴訟を維持・継続し,口頭弁論期日にお いて弁論を行う都度,解約申入れの意思表示がなされているとしていたが,
後には,訴訟が維持・継続されていれば,解約申入れの意思表示が黙示的・
継続的に行われていると解釈するに至っている。
次に,当初の解約申入後において,立退料提供の申出をともなう解約申入
れがなされたという事案に関する判例として,最判昭和46年11月25日民集25 巻8号1343頁がある。
この判例の事案は,当初,無条件の解約申入れがなされた後,第一審第10 回口頭弁論期日において立退料300万円の提供とともに解約申入れが行われ たものである。控訴審は,解約申入れをする者は,特に反対の意思がうかが われない限り,一定の範囲内において,裁判所に立退料の金額の決定を任せ ているとして,正当事由の補強条件を満たすに足りる立退料は500万円が相 当であるとした。その際,正当事由具備の時期は,当初の解約申入時ではな く,立退料300万円の提供とともにした解約申入時であり,その時点から6 か月の経過によって解約の効力が生じるとされたのである。そして,最高裁 は,控訴審の判断を相当であるとした。)この判例においては,立退料の提供 に関して,本判決とは異なる取り扱いがなされていることに留意すべきである。
その後,当初の解約申入後において,立退料の提供,さらに増額の申出を ともなう解約申入れがなされたという事案に関して,最判昭和46年11月25日 の判例法理を踏襲する下級審裁判例が続出した。これらの裁判例においては,
いずれも,裁判所が最終的に相当であるとした立退料額と格段の相違のない 範囲内で,立退料の増額の申出をともなって解約申入れがなされた時点にお いて,正当事由の具備が認められている。そして,その反面として,それ以 前になされた解約申入れは,その効力を生じないものとされているのである。
以上のように,従来の裁判例によると,当初の解約申入後に,立退料の提 供・増額がなされ,それを考慮すると正当事由の具備が認められる場合には,
立退料の提供・増額の時点において正当事由は具備しその反面,当初の解 約申入れは,その効力を生じないとされていたのである。さらに,この取り 扱いは,立退料以外の通常の要素についても同様であった。そして,このよ うな取り扱いの理論的基礎には,当事者が実際に立退料の提供・増額の申出 をともなって解約申入れの意思表示をなしていること,あるいは,解約申入 れの意思表示についての解釈論が存したのである。
なお,本件原判決も,従来の裁判例に従うものであった。というのは,原 判決は,当初の解約申入れは未だ正当事由を具備していないとして,その効
力を否定し,その後に立退料増額の申出とともにした解約申入れは正当事由 があるとして,その時点で正当事由の具備を認めているからである。本件に おいて,賃貸人Xは,立退料増額の申出をするとともに解約申入れをなし,
その解約申入れの意思表示をした日から6か月の経過をもって本件賃貸借契 約は終了すると主張していたが,原判決の取り扱いは,この賃貸人の意思に
も添うものであったといえる。
2 本判決の理論構成の問題点
さて,本判決の理論構成と従来の裁判例の理論構成とを比較検討してみる と,本判決の理論構成には,以下の二つの点において,問題があると考えら れる。
第一に,従来の裁判例の理論構成は自然であるのに対して,本判決の理論 構成は不自然であり,立退料の性質論および立退料の提供・増額についての 実態論にもとづく根拠づけは説得力を欠いていると考えられる。
理論構成が自然であるか否かということは,次の三つの点において,比較 検討することができょう。
まず,時間の流れに自然に沿った形で,理論構成がなされているかという 点である。
従来の裁判例によると,当初の解約申入れは未だ正当事由を具備していな いが,その後に,正当事由の具備を認めるに適正な額の立退料の提供・増額 がなされた場合,正当事由具備の時期は,立退料の提供・増額の時点である とされている。この理論構成が,時間の流れに、沿って自然であることはいう までもなし、。
これに対して,本判決は,当初の解約申入れは未だ正当事由を具備してい なかったにもかかわらず,その後に,立退料の提供・増額がなされたときに は,それを考慮、して当初の解約申入れの正当事由を判断することができ,そ れにより正当事由の具備が認められる場合,正当事由具備の時期は,当初の 解約申入時であるとされている。この理論構成は,時間の流れに不自然であ るといえよう。
次に,より重要な点であるが,当初の解約申入時には正当事由が具備しな かったが,その後,適正な額の立退料の提供・増額がなされたことにより,
はじめて正当事由の具備が認められたという事実に自然、に従った形で,理論 構成がなされているかという点である。
この点においても,従来の裁判例は,適正な額の立退料の提供・増額によ りはじめて正当事由の具備が認められたという事実に自然にしたがって,立 退料の提供・増額の時点において正当事由の具備を認めている。従来の裁判 例は,立退料の提供・増額についてであれ,立退料以外の通常の要素につい てであれ,それがなされ,生じた時点において正当事由の具備を認めている のであるが,その根拠については特に論じていない。このことは,そのよう な理論構成が自然であり,当然なことであるので,あえて根拠を論じること は必要でないと考えられるからではなかろうか。
これに対して,本判決は, 300万円の立退料の増額によりはじめて正当事 由の具備が認められたという事実があるにもかかわらず,増額の申出を考慮 して当初の解約申入れの正当事由を判断できるとし,正当事由具備の時期は,
立退料増額の時点ではなく,当初の解約申入れの時点であるとするものであ り,不自然な理論構成であると考えられる。
最後に,本判決は立退料についての一般理論に根拠づけられているのであ るから,本判決の理論構成は,当然,立退料以外の通常の要素には及ばない と考えられるが,そのように,立退料と通常の要素とを区別して取り扱うと いう本判決の理論構成が不自然であることは,たとえば,次のようなケース において,明確に露呈することになる。すなわち,当初の解約申入れは未だ 正当事由を具備していなかったが,その後,新たな通常の要素が生じ,さら にその後,立退料の提供・増額もなされ,その両者をあわせるとはじめて正 当事由の具備が認められるというようなケースである。この場合,本判決の 理論構成によると,立退料の提供・増額については,当初の解約申入れの時 点において正当事由が判断されるのであるから,結局,正当事由の具備は認 められないことになろう。
さて,続いて,本判決の理論構成の根拠についてであるが,いずれの根拠
にも,十分な説得力はないと考えられる。
まず,立退料の性質論についてである。既述したように,本判決が説く立 退料の性質論には,立退料が通常の要素とは異質のものであるという理解が 示されていると考えられる。そして,本判決が,立退料は通常の要素とは次 元の異なるものであるということから,立退料の提供・増額の取り扱いは通 常の要素のそれとは異なるものになり,当初の解約申入れの正当事由判断に あたり,後に提供・増額された立退料を考慮することができるということを 根拠づけようとしているとするならば,その根拠づけには,あまり説得力は ないと考えられる。というのは,立退料が通常の要素とは異質のものである としても,適正な額の立退料の提供・増額がなされ,あるいは,新たな通常 の要素が生じ,それによりはじめて正当事由の具備が認められる場合,その ことにかんがみて,両者についての取り扱いを同様とすることも考えられる からである。
次に,立退料の提供・増額についての実態論であるが,本判決が指摘する 点はそのとおりであると思われる。しかし,そのことが,当初の解約申入後 における立退料の提供・増額の時点で正当事由を判断することを排斥するこ とにはつながらない。本判決の根拠づけは,この点でも説得力を欠いている と考えられる。
さて,続いて,本判決の理論構成の第二の問題点は次の点である。すなわ ち,従来の裁判例が賃貸人の意思の枠内で理論構成されているのに対して,
本判決の理論構成は賃貸人の意思と諦離しているという点である。
本件の事案についてみてみると,賃貸人は,当初の解約申入時には100万 円(裁判所が相当であるとした立退料額と格段の相違のない範囲内には入ら ない額)の立退料しか申し出ていないし,また,立退料増額の申出をすると ともに新たな解約申入れの意思表示をなし,さらに,新たな解約申入れの意 思表示をした日から6か月の経過をもって本件賃貸借契約は終了すると主張 している。このような賃貸人の意思と,本判決の理論構成が訴離しているこ とはいうまでもない。
また,本判決は,当初の解約申入れが無条件でなされた後に立退料提供の
申出がなされた場合と,当初の解約申入時に申し出ていた立退料が後に増額 された場合とを,単純に同一視して,後に提供・増額された立退料を考慮し て当初の解約申入れの正当事由を判断できると理論構成している。この点に おいても,本判決が,賃貸人の意思といかに議離して理論構成されているか が窺われるといえよう(13)
3 本判決の影響
最後に,本判決の影響について簡単に触れて,本稿の結びとしたい。
本判決の理論構成によると,当初の解約申入後における立退料の提供・増 額を考慮して当初の解約申入れの正当事由を判断することができ,それによ り正当事由の具備が認められるときには,正当事由は当初の解約申入時に具 備されたことになるのであるから,立退料の提供・増額の申出が,遅くとも,
控訴審の口頭弁論終結の時点までになされたならば,当初の解約申入れの時 点において,正当事由の具備が認められる可能性があることになる。すなわ ち,立退料は,提供・増額の申出の時点ではなく,遡及して,当初の解約申 入れの時点において,機能しうることが認められるのである。このことが,
借家法1条ノ 2の正当事由をめぐる訴訟において,立退料の提供・増額の申 出をさらに促進させるという影響を与えることは疑いないであろう。
そして,立退料の提供・増額の申出がさらに増大し,一般化することは,
ひいては,正当事由の判断をめぐり,立退料という金銭給付が機能しうる範 囲,言い換えると,経済的合理性の機能しうる範囲が不当に拡大する危険性 をも惹起しかねないと考えられる。本判決の理論構成は,そのような影響を 与えかねない危険性も苧んでいるのではなかろうか。
(1) 立退料の提供が一般化した要因としては,借地権・借家権が強固な財産権として確立 し,それを保障することが必要となってきたこと,それとともに,住宅事情が相対的に 緩和してきたことが指摘されている。内田勝一「借地・借家の法律問題ー金銭給付によ る中間的解決をめぐって」ジュリ828号(1985)117ー118頁。
(2) 和田仁孝「家屋明渡し交渉における立退料の実態と問題一裁判外交渉過程を中心に一」
民商87巻3号(1982) 110頁。
(3) 本田純一『借家法と正当事由~ (ー粒社, 1984)はしがき。
( 4)判時1397号3頁,判タ768号52頁。
(5)吉田克巳「判批」判タ778号(1992)41頁,和田仁孝「判批」法教134号(1991)72頁, 後藤巻則「判批」法セ448号 (1992) 120頁,野口恵三「判批JNBL 489号(1992)50頁。
( 6) この論点は,これまでの学説においては,特に意識されてはいないようである。なお,
上告理由に指摘されているように,本件原判決が, 6か月の解約申入期間が満了してい ない時点で解約申入れの効力を認め,判決を言い渡したことも問題となりうるが,この 点については,吉田・前掲注(5)43頁を参照。
(7) 和田・前掲注(5)72‑73頁。
(8) 吉田・前掲注(5)44‑45頁,和田・前掲注(5)73頁参照。
(9 ) 最判昭和29年3月9日民集8巻3号657頁,最判昭和34年2月19日民集13巻2号160頁, 最判昭和41年11月10日民集20巻9号1712頁。
(10) 同旨の判例として,最判昭和46年12月7日判時657号51頁がある。
。
。
比較的最近の裁判例としては,東京高判昭和60年4月19日判時1165号105頁,横浜地判 昭和63年2月12日判時1291号108頁,東京高判平成元年3月30日判時1306号38頁,東京地 判平成2年1月19日判時1371号119頁などがある。(12) 同旨,吉田・前掲注(5)45頁。
(13) なお,本判決の理論構成の根拠は,立退料一般にあてはまる形をとっているとも思わ れるので,本判決の理論構成が,借家ケースのみならず,借地ケースにも及ぶのではな いかという問題点も残る。この点については,吉田・前掲注(5)45‑46頁を参照。吉田氏 は,借地ケースにおける法的安定性の確保を考慮して,本判決の理論構成は借家ケース に限定すべきであるとされる。