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康 有 為 に お け る 大 同 思 想 の 成 立

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(1)

康有為における大同思想の成立

 このごろ世界連邦の構想が唱へられてるるやうである︒世界が一つに

なり︑平和でしかも豊かな生活をしたいと言ふことは︑悠遠な時代から多くの人間がもちつゴけてきた夢であらう︒この夢の構図が中国では︑

すでに落々二千年前の礼記礼運篇に描かれ︑清の康有為の大同書に至っ

て完成される︒しかして﹁大同﹂なる理想の捉へ方において︑礼記礼運

の﹁後向き﹂を︑ ﹁前向き﹂に転換して︑かゾやかしい思想にまで高め

たのが康有為であることは︑周知の通りである︒この大同思想の成立

が︑康有為のどの時期に当るかを考へてみたのが本稿である︒しかし︑

これに触れるには︑氏一連の著述である孔子改制考・新学偽経紀等をも

併せ考へなければならない︒

 孔子兵制考は︑上古 昧無稽考から武運後儒教一統考に至る廿一巻であるが︑これを其の内容によって分類すれば︑略々四部に分けられる︒

 第一部は︑巻一より巻六に至る︒こ\で康有為は次の如く論じてみ

る︒即ち歴史時代は周末に始まり︑それ以前は 昧︑考ふるに由なく︑

確たる証拠を挙げる事は困難である︒今日残存する総べての曲ハ籍は周末

に作られたが︑このとき所謂諸子百家が並び起って︑教を創め制度を改

めた︒この制度を改めるに当っては︑例へば道家︐が黄帝に託した如く︑

康有為における大同思想の成立 すべてこれを古に託した︒また諸子は互にその教を広めようとして︑互に論難攻撃したが︑その中では墨子老子が有力であり︑後代に及ぼした影響も大であった︒ 第二部は︑本書の中心をなす部分であって︑巻七より巻十に至る︒こ

\で康有為は︑先づ儒教は孔子によって創造されたものである事を論ず

る︒孔子創儒の事実が忘れられるに至ったのは︑ 一に劉敵のためであ

る︒劉散の邪説が行なはれた為に︑孔子はたゴ六経を脩述した博雅高行

の士として知られてみるに過ぎない︒この説を承けて︑唐貞観の時︑周

公を先聖とし︑孔子を先師とし︑近くは章学齢も儒教の集大成者を周公

とし︑孔子に非ずとした︒しかし︑これは全く誤りである︒また孔子が

創めた儒教と先王とは関係なく︑孔子は法王として︑制法の王となった

のであって︑古典に見える文王︑聖王︑先王等の語は孔子を指したもの

である︒この改制に当って孔子は即智文王に託したのである︒

 第三部︑その巻は︑十三から十七に至る五巻である︒こ\で康有為

は︑孔子の改制に対して最も有力な批判者となったのが︑老墨の学派で

あった事を説き︑これに対して儒学も反撃したことを述べる︒

 第四部は︑孔子の改制創始した教が漸次他学派を圧倒して優位に立

ち︑天下の教となって行く過程を考える︒即ち儒墨が一時並び栄えた

が︑遂に儒教は魯国に拡がり︑次に偏く天下に伝った︒かくて秦漢に至

って盛大となり︑漢の武帝に及んで儒によって統一されたのである︒

 孔子改制考は︑孔子を社会改革者︑素王として制度を改めた事実を例

証して︑制度の改革は人間社会の進歩を促すものである事を述べたもの

と解せられる︒しかし康有為は其の論証の過程において︑︐必ずしも孔子

のみを尊ばない点が注目される︒即ちその第一部で周末諸子が競って制

(2)

康有為における大同思想の成立

度を改め︑教を創め︑古に託したと言ふが︑それらは

 子下伯子︑原壌︑胞子成︑春子︑愚子︑少正卯︑許行︑白圭︑陳仲

 子︑墨家︑道家︑法家︑名家︑陰陽家︑従横家︑兵家

等である︒また︑これら諸子の中で制度を改めたものは

 墨子︑管子︑里子︑棘子成︑原壌︑老子︑楊子︑翌翌︑サ文︑慎到︑

 恵子︑許子︑白圭︑驕子︑公孫龍︑郵析︑林既︑塁壁︑申子︑韓非子

等二十家を挙げてみる︒また託古の証には︑

 墨子︑老子︑楊子︑荘子︑長子︑驕子︑ 子︑商君︑韓非︑量子︑呂

 氏︑内野︑鵬冠子︑准南子︑方士

等を例示する︒而して︑康有為がその第二部で強調する孔子幣制も︑こ

れら諸子の改制と同様に考へられてるる︒即ち孔子と諸子とは︑本質に

おいて同等であり︑方向においても相違ないものとして把握されてる

る︒たゴ孔子の場合︑その﹁託古﹂は︑他の諸子が黄帝等に託するに対

して︑発舜文士に法ったという点が異るのみである︒

 このやうに本書では︑孔子改血のことだけを指摘するわけではない︒

周末には︑孔子に限らず︑諸子百家すべて改制し︑創還し︑託古したの

である︒この中の一人に孔子が存在する︒孔子はことさらに高い次元

で︑高遭な理想を掲げて改制したわけではないのである︒日はく︑

 大地諸教射出︑尤盛於春秋戦国時哉︑積諸子之盛︑ 其鳥神聖者︑ 衆人帰之︑集大一統︑青煮万世︑論衡称孔子為諸子之卓︑下士然哉︑氣滋調︶

と︒孔子は単に諸子中の卓越者に過ぎないのである︒康有為は何故かや

うに孔子を諸子と同列にまで引下げたであらうか︒公羊学的な立場から

すれば︑孔子改制のことは︑これを高次の理念としていくら強調しても

強調し過ぎることはない筈である︒にもか\はらず︑孔子を諸エJ百家と

同列に置いて︑漸くこれらの中の卓越者として認めたことは︑如何様に

解すべきであらうか︒

 ﹁孔子の創作は︑諸子百家の創作と動機目的手段を同一にするもので

 あるといふ事からして︑一度孔子を諸子の列に引き下げたのであっ

 て︑所謂黒白を別って一捻を定あるといふ観念から学問を解放して︑

 比較研究の精神を発見させたものである︒﹂

と見る梁啓超がみる︒しかし︑か\る観点は康有為の拠り所である公羊

学の立場を輩固にするものとは考へられない︒

 ところで︑康有為には︑これよりさき新学心経考の著述がある︒この

書が世に出たのは︑光緒十七年︵明治二四一一八九一︶であり︑時に康

有為は三十四才︑まだその前名﹁祖詰﹂を署してみる︒有為は︑この中

で公羊学の立場から劉散の古文経を攻撃し︑今文学の確立に努力してみ

る︒この時の有為の公羊学者としての態度には︑烈々たるものがあり︑

そのひたむきな熱情は︑今日でも十分に感得する事ができる︒たとへ

ば︑  提聖法於既墜︑明六経於闇勿臼︑劉散之偽不黙︑孔エJ華道不著︑吾錐

 孤微冬野以已︑矯怪二千年来︑通人大儒肩背相望而衝心広益︑無一

 人墨筆妊工料︑雪先聖之沈冤︑出土儒於雲霧者︑岩聖制赫闇有所待邪︑︵輝罐︶

といふ序文を見れば︑純粋な公羊学者としての康有為の一面を見出し得

るであらう︒有為が公羊学者として︑その立場を堅持すれば︑孔子を諸

エ・と同列に並置することは︑あり得ないことなのである︒新学偽経考で

古文を否定した有為の進むべき道は︑升平から太平へ︑小康から大同へ

と進展する今文学的な孔子改制の強調でなければならない︒然るに事実

は前述の如く︑孔子は単に諸子中の卓越者に過ぎないのであれば︑その

改制も諸子の改制と差異はなく︑有為その人の思想的立場も公羊今文を

棚上げして︑古文史学を容認する折衷的なものになるであらう︒康有為

は︑何故これまでの主義主張を弱くするやうな論述を試みたであらう

か︒

(3)

 孔子改制考が世に出たのは︑巻首によれば二流廿三年︵明治三〇1一

八九七︶で︑有為四十才の時である︒ 周知の如く︑清国は明治廿七年︑わが国と開戦し︑廿八年四月︑下関

条約を締結した︒この日清戦争の終った年が中国の近代化にとって一つ

の黎明であり︑康有為の改革運動はこの年に始められた︒康有為の運動

は所謂変法自彊の維新運動であり︑専制政治を立憲君主制に改めて︑富

国強兵の実をあげて︑中国を近代国家たらしめようとするもので︑日本

の明治維新に範を求めたものである事は︑こと新しくこ\に説明するま

でもない︒この運動が光緒帝及び宮廷内の皇帝派を動かし︑その意見が

全面的に採用されるやうになったのが︑光緒廿四年︵明治三一t一八九

八︶であって︑孔子改制考が出版された翌年に当る︒孔子改制考の著作

時代は︑このやうな国家多難の秋であった︒この著の有為の思想史上に

占める位置を考へるに当って忽かせにできない大きな因子である︒しか

るに︑孔子改制覇の著述動機について︑かやうな社会的政治的背景を考

慮に入れる人は極めて少いやうである︒ 梁啓超は︑その著︑清代学術概論の中で︑康有為の代表的著述とし

て︑新学偽経考︑孔子改制考︑大同書を数へてるるが︑しかし﹁新学偽経考・即製皆有為難砂場転作﹂と言ふ.︵発言︶改製が梁氏

の如く︑単に工学を整理したに過ぎないものとすれば︑時め政治の指導

原理となった変法自彊の運動とは多くの関聯をもち得ない事になる︒もっとも有為の変法は︑日清戦争の敗北によって︑急に有力な政治方針と

しでとりあげられたが︑それ以前から彼の唱へてるたところではある︒

有為は光緒十七年︑万木草堂において講学に従事したが︑この時︑長学

興記を著し学規を作ってみる︒この学規に其の弟子陳千秋が践を書いて

みる︒その中に︑

康有為における大同思想の成立   孔子響六経︑改制聖法︑隼七+︑以法後王︑︵清華学報五八四頁︶とある︑これは弟子陳千秋の意見とのみ見るべきものではなく︑その師康有為の考へ方であったと解すべきである︒か㌧る事実のみを念頭におけば︑改制考は旧学を整理したものと言ふ見方も一応成り立つやうである︒然るに︑有為の学は常に経世を忘れないものであった︒やはり陳千秋の話中に︑  大義昧没︑心知底意者愈愈︑漢之学生得春秋︑宋明之学発癌四書︑ 二千年之治頼是 ︑国朝之儒︑創心事慰謝宋学亡︑経師忠義逃難而漢 三衣亡︑陵夷至道成之季︑大盗狙披︑国命危砧︑民生日伜︑莫之振 救︑垂葉既観︑而世変亦日新 ︑吾師康先生︑思聖道之衰︑欄王制之歓︑慨然発憤︑思養畜︑︵喜々︶と述べてみる︒康有為が慨然として憤を発し︑近代国家建設に志したのは︑あ窪りにも貧困な時の政治にあった︒同じく︑万木草堂の長入学記の中に学問を区分して︑義理︑経世︑考拠︑詞章の四として︑  学与薬異︑周入寺六芸之学為公学︑有六条算学為私学︑皆経世之学 也︑漢学皆経学︑六朝階唐人多詞学︑宋明人多義理学︑国朝人多考拠

学︑要不出此四者︑︵清華学報五八七頁︶

と言ひ︑経世の学こそ真の学問であり︑人として努むべきもので︑ ﹁経

世即政事也﹂と云ふ如く︑経世は政治である.︵清華学報五八七頁︶

 か\る事から考へれば︑孔子掛戸考著述の大きな動機となったのは︑

清朝政治の貧困に対する憤りであり︑その実践方法として変法自彊の維

新運動であったと見るべきであろう︒公羊学者として︑純粋に公羊的な

ものを追求すればするほど現実との距離がますます大となって行くこと

を知ったであろう︒言葉を換へて云へば康有為における孔子改制考は︑

公羊学的昂揚を試みたものではなく︑むしろ公羊学の唱道する孔子改制

の事と現実の政治との調和を図ったもので︑折衷的色彩が強く︑妥協的

な不徹底さがあるのは止むを得ない︒現実の政治は理想と異る︒理想を

(4)

康有為における大同思想の成立

実現させるには妥協もある程度必要である︒康有為は理想としては︑公

羊学の純一無雑に与するが︑現実には変法自彊の維新運動こそ実践の可

能性がある︒この実践を裏づけるものに孔子改革考が用意されたと見る

べきであらう︒周末︑総べての先覚者は現状の打破を図ったが︑其の中

でとくに孔子の改制が卓越してみた︒この場合︑周末を現代に置換へる

と︑この間の事情が瞭然となるであらう︒現状を打破し清朝旧体制の改

丁を試みて︑はじめて社会は進歩し理想社会へ一歩を進め得るのであ

る︒筆者はかやうに康有為の思想史上に占める改制考の位置を考定した

いと思ふ︒然るに︑この場合︑単に改翠巌は旧学を整理したものである

と云ふ観点は︑客観状勢の無視︑学問と実践との関係を考慮に入れない

ものである︒か\る見地に立つからして︑改制考は塵平の﹁知聖篇﹂に

本ついたとか︑或はこれを劉霧したとする説ともなるのである︒

 これまで述べたやうに︑改心考は公羊学の理念を大幅に柔げて︑現実

の政治に歩を合はせようと試みたものであるが︑ともかく升平から太平

の世へと進展して行くことについて主としてその旦ハ体的手段方法を述べ

たものである︒ところが︑その理想の世界である大同の世を描いたもの

として大同書がある事は︑さきにも触れた通りである︒梁啓超は有為の

著書を序列して︑

  一日新学偽筆考︑二日孔子改罫引︑三日大同書︑謂若以新学偽経考

無智風︑野臥引書其火山大噴火也︑其大地震也︑︵一代学術概論一二九頁︶

と言ひ︑また

偽再考改制考皆有為鐘旧学之焦昔身創作則大同書也︑︵清華学報六一二頁︶

と論じてみる︒この大地震に喩へられる大同書それ自らについては別に

考へること\して︑こ\ではその成立について眺めたいと思ふが︑その

過程は戸々複雑で一言でこれを定めることは困難である︒

 大同書の著作年代に就いては︑これまで二︑三の説がある︒

 その一は有為廿七才︑光緒十年の作とする︒降車自編年譜によれば︑

  是年秋冬図無大同義︑撞著人類鐘︑後膨拡充為大同書︑︵清華学報六四七頁︶

と言ふ︒また︑張氏の南海康先生伝では︑

  先師年廿七︑以南法之役毒城戒厳︑還西群居一撮︑名品澹如︑渉猟

 西書︑井研究仏典︑上自婆羅門労通四教︑万縁澄絶︑所悟益深︑・

 其道以元為体︑以陰陽為用︑以勇礼義智仁五運論二念︑以三二論諸

聖︑以三世推将釆︵清華学報六四七頁︶

と言ふが︑本来の公羊学に加ふるに︑仏教キリスト教等の書を研究して

大悟する所が大同の理であった如くである︒更に前掲書では︑−

  又云︑先師年廿八︑従事算学︑以幾何理著人類公理︑井手定大同之

制︵蝶蕪︶       ㌧

と述べ︑大同書の成立を年廿八とする︒

 三編年譜は︑民国八︵一九一九︶康有為の自著であるが︑それには光

緒十年︵一八八四︶フランス兵の広東侵入によって︑有為は父祖の郷里

である西樵山の北︑銀塘郷の七桧園澹如楼に避難した︒その時︑国難に

感じ︑民生を哀んで大同書を著したといふ︒さきの年譜は有為の三編であれば︑十分の信愚性があるやうにも思へるが︑しかし有為の高弟梁啓

超はこれを信頼しない口吻である︒即ち梁氏は

  大同書全書凡数十万言︑有為錐此書︑然秘不示人︑其弟子最初得読

此面煮惟陳千秋梁啓超︑啓醒請印布久不許︑︵清華学報六一二頁︶

と語り︑有為が梁陳二弟子に大同の義なるものを説いたのは︑煙出光六

才︵一八九二︶の時であると言ふ︒梁啓超の学的地位はこ\に述べる暇

はないが︑有為の高弟として民国学界を風靡したことは︑周知である︒

そこで︑この説も信用し得る如くであるが︑有力な銭穆の反論がある︒

銭氏は有為の弟子の中では最も年少であるが︑彼は康有為の学術思想の

(5)

記すべき者は︑康氏の長興講学に姶まるが︑未だこの時には大同思想は

見られないと言ふ︒

  抑康氏長興講学︑所可大書特導者︑厭為力反乾嘉以来考拠学︑而別

 求開一新経︑然康氏未能自制其志也︑方三国講学長興︑而県有新学

 偽思考之作︑学記転置光緒十七年二月︑偽経鼻序在四月︑相差僅両

月︑︵清華学報五九一頁︶

 また︑前述の如く此の時︑康有為は長興学記を作ったが︑この中極め

て論語を称揚して

  天下道術至神︑以孔子為折衷︑孔子言論至多︑以論語為可尊︑論語

之鑑至喚以志干裂︑拠論証︑依調馬游干芸︑四言為至骸︑︵清華学報五八五頁︶

と言ふが︑これに就いて銭穆は

  按康氏此時尚未専薬礼蝉茸羊重畳教︑傍尊論語︑与以後見解不同︑

逮既取上羊︑則不得不捨論語︑︵清華学報五八五頁︶

と評し︑康氏自身も後には﹁論語為後世語録醜類︑不尽可据﹂として

みるのは︑勿論公羊学者としての発言である.︵罐鐘︶されば︑大同

思想の成立を廿七︑八才とすることは︑康氏の自身の言あるにせよ全く

信じられない︒

 ところで︑梁啓超は大同書の刊行について︑康氏は秘して人に示さ

ず︑また印布も久しく許さなかったが︑遂に不忍雑誌に掲載するやうに

なった︒しかしそれも三分の一ほど載せたのみで雑誌停版のため果さな

かったと言ふ︒不忍雑誌の発行は︑民国二年有為五十六才のときであ

る︒戊戌の政変で海外に亡命した康有為は︑諸国を遊歴すること十六

年︑十三ケ国に至ったが︑清朝滅亡︑中華民国の成立によって帰国し

た︒この時︑着手したのが不忍雑誌の刊行であり︑唱へたものは虚君共

和の説である︒ このやうに︑大同書の一部が公にされたのは︑民国二年の不忍雑誌上

であって︑光緒十年説と相距ること約三十年である︒どうしてこのやう

康有為における大同思想の成立 な差が生じたのであらうか︒ 梁啓超は︑前にも触れたように︑大同書について偽経考改制考等は旧学に依ってみるが︑大同書は純然たる創作とし︑更に  有為著此書時︑固一無依傍︑一無智襲︑在三十年前︑而其理想与今 世所謂世界主義社会主義者多合符契︑而陳義之高岡過之︑真可謂豪傑

之吉︑︵清華学報六一四頁︶

と賛してみる︒ところが銭穆は

  然自今論之︑近代世界主義︑社会主義之産生︑皆有相当之背景及其

 豪男実現之方法︑墨黒時之中国︑無論政治社会絶無必趨大同之需要︑

 亦絶無可向大同町歩騒︑康厚志端発此奇想所為繋何︑陳転置高︑唐大不実︑亦幾於以空想為譲而巳︑︵蝶鷺︶

と論じ︑大同思想成立の政治的社会的基盤がないからして︑単に観念の

遊戯に過ぎないとする︒これは大同書の成立を相当早期としての意見で

ある︒しかし︑この成立を有為の中年に近い作と見れば︑銭氏の言ふ社

会的基盤を満足させるいくつかの条件を備へる時期が近づいてくるし︑

又公葉陰的立言も不自然さが見られないことになる︒康有為における大

同の構想︑または未定稿は彼の壮年に成ったと思はれるふしがあるには

ある︒梁氏は

  初嵐読陳書︑大楽︑鋭意欲宣伝其一部分︑有為弗善也︑皇院不能禁

其所為︑後此万木草堂学徒多言大同 ︑︵華弾礁︶

とか︑或は  当時有切実発揮大同書法義︑蕃而立諦達者︑︵真前︶

と言ふを見れば︑師の許しを得ないが︑若い学徒が競って︑大同について論じ且つ喧伝した様が窺はれる︒南海康先生伝に  先師年廿八︑従事算学︑以幾何理︑著人類公理︑井手定大同之

制︑︵蝶蕪︶

とあるから︑大同書はその初は﹁人類公理﹂と称してみたことが判明す

(6)

康有為における大同思想の成立

る︒大同書と改めた時期は不明であるが︑有名な仁学の著者諌詞同が刑

死したのが光緒廿四年である︒この前年︑有為は変法自強説を奏上し︑

更に日本政変考を進めたが︑間もなく結党を罪せられ︑ついで西太后か

ら殺害の令さへもくだるに至った︒

 かやうなことを考慮に入.れると︑有為が大同書を公にすることを忌み

揮ばかった事情も窺はれる︒

 一方︑有為の学統について考へて見れば︑彼は幼時︑祖父の蟄修について学んだが︑それは朱子学であった︒十九才の時︑同郷の朱次碕の門

に入ったが︑これも程朱学を中心として時に陸王に亘る︑経世実用の学

であった︒有為は︑その後朱次碕.の死に至るまで師事した︒三十二才︵

一八八八︶京師に上り︑清廷に上書し︑変法を請うたが︑容れらず︑翌

年帰郷した︒この変法が改制考の立場であることは︑先に触れた︒当

時︑王闘運の弟子彦平が来広してるた︒これと親しく面曙し︑更にその

翌年には広州城外の安徽会館に蓼平を訪ねてみる︒有為は塵平との再度

の会見によって︑その今文学説に傾注した︒有為はこれまでの彼の学問

を惜しげもなく捨て︑嘗っての著述政学通議を焚いて今文学者として再

出発した︒これから公羊学者として大をなすに至るのである︒田所義行

氏が有為が大同の義・に深念沈思したのは︑廿七才頃の理想に燃えでるた

青年時代であらうとされ︑有為自身も廿七才と語るにもか\はらず︑今

文学に転向した三十三︑四才よりの数年間が注目されるわけである︒

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