一一
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デューイ教育思想における
「状況」(Situation)について(その1)
教育学研究室 関 勤
の実践的主体性は可能→現実という観念的な定式の中へ
1 はじめに 人間存在と状況 埋没されて,本来の意味を失ってしまうであろう。
先ごろ亡ぐなられた哲学者の務台理作氏は,人間存在 入間存在の諸条件或はその真実の可能性(人間の条件)
の意味と状況とのかかわりについて,「人間は,人間が とは,このような潜勢から顕勢への可能性でなく,彼が
・ . ● ● o ・ ● ● ●
スであるかという本質や本性によってはかられるもので そこに澄かれている状況の全体の中で何ものになるかと
o ● 畳 ● ■
ネく,与えられた状況の中で何になるかというその状況 いう可能性である・人は異なる状況の中では異なる人間 的可能性からはかられるべきである。人間がそもそも何 になる可能性をもっている。状況ぬきの「……である」
であるかということは,つねにその状況,とくに全体的 でなく,一定の状況の中で「……になる」という可能性
状況からのみはかられる.同吻燗がAという状況のこそ繊を可能にする条件である晶と述べて,燗存 中にあるぱあいと,Bという状況の中にあるぱあいとで,在の意味が,一つの状況の中で何になるか,或はいかに まるで別人のようにふるまうことがある。このばあい, 変えられるかという可能性(可変性)によってはかられ
A状況のみが本質的であってB状況は偶然にすぎないと ること,しかも,実践を可能にする条件としての人間の いうわけにはいかない。どのような状況も彼にとっては 可能性(可変性)は,状況ぬきでは成立しえぬものであ 偶然であり,同時にまた必然である。人間存在の意味は り,一定の状況の中でのみ,一定の状況とのかかわりの その状況の全体において示されるものである。(1)」と述 中でのみ現実化することを明らかにされている。
● ● ●
べて,人間現実にとって状況は不可分の条件であること, 更に,務台氏は,「人間は,実践的には,何であるか
● ■ o
人間は,その状況的可能性からはかられるべきであるこ が大切でなく,何になるかが大切である。つねにそのよ とを説かれている。 うに要請されている存在である。本質または本性という
● ● ●
なお,務台氏は,『人間存在の意味はア・プリオリな ものも,もともと何になるべきかという実践的要請を正 人間の本質または本性によってはかられるものでなく, 当化するために,その状況にしたがって考出されたもの
したがって彼が何ものであるかによってはかられるもの にほかならない。したがって人間は状況に応じてちがっ でなく,一つの状況の中で何になるかという諸条件,或 たものになる可能性(可変性)をもっているのが本来のあ はいかに変えられるかという可変性によってはかられる。 り方,あたりまえのあり方である。もちろんどのような
■ ● ■ ●
何であるかという見地によると,人間は潜勢的にすでに 状況においても信念を変えることなく毅然として操志を
可能的人間である。しかも本質的な人間でなければなら 一貫することが,人間として望ましいのはいうまでもな
ない。たしかに人間はその本質において人間であって, い。しかしこの操志一貫の意味は状況次第で人間はちが
三角形や机ではない。しかしこのように考えると,あら ったものになりうることと矛盾するものではない。次元
かじめ・そこに誇かれた可能的本質が実現の過程をへて がちがうのである。じっさい状況の変化に応じ,その都
現存在になるという運動,ちょうど種子の中に潜勢的に 合次第で操志が変るとすれば,それは人間としてもっと
含まれている形相が発芽と成長によって予定された通り も恥ずべきことであるにちがいない。しかしその操志が
の植物になるというような,不思議な過程が前提される 一貫してゆるがないということは,歴史的状況の全体へ
ことになる。もしこの前提にしたがうならおそらく人間 の見通しがあり,その全体への設計に澄いて,いかなる
190 茨城大学教育学部紀要 第27号
● ● ● ● ■ ■
人間になるべきかという要請がゆるがないというのであ 論,直接的には,デューイの教育思想の中に「状況」に って,全体状況の見通しこそ根本の条件である。(3)」と ついての考察がゆたかに展開されていると予想するから 説くことによって,状況次第で入間はちがったものにな である。しかし,間接的には,次のような理由で,私が
りうるという主張が,ともすれば誤解をまねいて,それ デューイの教育思想に親近性を感じ,さらに,それに正 が操志一貫と矛盾する主張であるが如くに解されること 当性を感ずるからである。数学者の岡潔氏が指摘したこ に対して,両者は次元のちがうものであり,矛盾するも とだが,『これは日本だけのことでなく,西洋でもそう のでない所以を明白にされている。 だが,学問にしろ教育にしろ「人」を抜きにして考えてい
以上に長々と引用した務台氏の所説は,人間は可変的 るような気がする。実際は人が学問をし,人が教育をし 存在であるということ・状況に応じて人間のあり方はち たりされたりするのだから,人を生理学的にみればどん がったものになるということ・しかしそれは状況次第と なものか,これがいろいろの学問の中心になるべきでは 曜
「う意味ではなく,状況内に澄ける主体的な設計一行 ないだろうか。しかしこんな学問はまだないし,医学で 為の全体によるということ・一定の状況とそれに対する も本当に入を生理学的にみようとしてはいない。それを 主体的設計とは,人間存在の根本的条件であって,これ めざしているのかもしれないが,それにしては随分遅れ をはなれて状況と人間とが別々にあるのではないという ている。(5)』といわれている。また,行動科学の研究者
● o o
こと・人間は全体状況をはなれて,何であるかと問うこ である千葉康則氏は「しかし,多くの哲学が,精神とか
o o ・
とは無意味であり,全体状況の下において何になるかと 実存などから出発して,なぜ生存から出発しないのか不 いうことこそ人間の根本規定であること,等を明らかに 思議である。(6)」と疑問を投げかけていられるのだが,
われわれに指摘するものである。 岡氏の指摘にしろ,千葉氏の疑問にしろ,何れも,教育 その所説は,最も根元的なかたちで,人間観,或は教 や哲学の研究が合理的,科学的基礎の上に立脚していな 育観を,われわれにつきつけるものであるように思われ いことに対する批判である。特に生物学的基礎の上に忠 る。人間は可変的存在であるということは,教育者が常 実に立脚していないことに対する批判である。このよう に把持しなければならぬ人間観(児童観)であり,状況 に批判をされても仕方がない,或いは当然とされる多く に応じて人間のあり方はちがったものになるということ の哲学や教育論の中で,デューイの教育思想は,唯一の は,教育者に教育実践の可能性を確信させる最も根元的 科学的基礎・生物学的基礎の上に立脚する思想の展開で な教育観であるように思われる。 あると認められるのである。例えば,彼の教育学の主著 ところで,務台氏の所説の中で,きわめて重要な意味 『民主主義と教育』を読む者は,開巻第一章「生活の必 をもつものと考えられる概念である「状況」とは一体何 要としての教育」に澄いて,生物と無生物との違いから であろうか。務台氏の所論の中においても,勿論その文 筆が起こされていることに気づく筈である。私は,多く 脈の中で,それなりの理解はできるし,また,それは の観念的,思弁的教育学書の中で,唯一の例外として,
「社会科学上の種々のカテゴリーを内容的にとらえるた デューイの教育思想が生物学的基礎,或いはさらに社会 めには,われわれは,いわゆる辞典に依存するのではな 学的基礎の上に立脚する,まことのものとして,それに
く,それらのカテゴリーがつかわれている書物や論文そ 親近性を感じ,さらに,正当性を感ずるのである。
のものをとおして体得すべきであろう。あたかも小児が
日常語を日常生活そのものに澄いて,そこから経験的に 皿 主体と環境は分けられない一状況
体得するのと同様に。(4)」という意味で正しい。しかし, 『生物の世界』の著者である今西錦司氏は,主体と環
私は務台氏の所論の中から一歩そとへ出て,デューイの 境との関係について,「ダーウィンというのは環境から
教育思想において展開せられている「状況」の概念の理 主体に働きかける面を考える。ラマルクは主体が環境に
解をと澄して,そのカテゴリーの内容的とらえかたをし 働きかける面を問題にしているけれども,いまとなって
たいと思っている。 は,主体側と環境側というふうな分け方がもうできない
私が,いま,デューイの教育思想をとおして,「状況」 んじゃないか……。」つまり今西さんは「主体と環境と
という概念の内容的とらえかたをしたいと思うのは,勿 は分けられない。」という立場に立っ者として理解され
関:ディーイ教育思想に吾ける「状況」(Situat孟on)について(その1) 191 仙り,(7)氏自躰また,r生物の世界』のなかで, ているので,つ曜熾はいかにして可能であるかが問
「環境といえどもやはり生物とともに,もと一つのもの 題となるとしている。「主体(認識者)と客体(認識せ から生成発展してきたこの世界の一部分であり,その意 られるもの)があり,しかも,これが相互に全く孤立し 味において生物と環境とはもともと同質のものでなけれ ているとすれば,いかにして主体と客体とは妥当な知識 ば鯛(8)と説くことによって,この立場に立つことをを生ずるように関係するのである加ω」ということを 主張されて吾られる。 説明する理論を構成する必要が必然的に出てくるのであ
このように,生物を環境ごと考察するという意味で, り,この問題は,「世界が精神に作用し,精神が世界に 全体論的な考え方によって捉えられるもの,すなわち, 作用する可能性」の問題とともに,哲学的考察の独占的 生物と環境・主体と環境は分けられないものであり,一 大問題となった。この大問題の考究の所産として,「わ 体としてあるという考え方によって捉えられるものが, れわれは,真なるものとしての世界を知り得ず,ただ心 根元的な意味における状況というものであろうと思われ の上につくられた印象のみを知るのだという,あるいは る。原型としての状況というものであろうと思われる。 個人の精神以上の世界はないという,あるいは知識は精 デューイは・労働と閑暇・認識と行為・人間と自然と 神自身の状態のある結合にすぎないという諸理論⑫」が,
いう好ましくない分裂が事実として存在すること,この 哲学的主観主義の向こう見ずの断案として出てくること 事実としての分裂の背後には,肉体と精神,理論と実践,になる。しかも,この向こう見ずの断案が,事実として 物理的機構と理想的目的とが相互に対立するものである 広く認められていたということは,精神がいかに深刻な ことを系統的に叙述しているもろもろの哲学があること,程度まで実在の世界と対立せしめられていたかを証明す さらに,個人の精神と世界とを相互に厳密に区別する点 るものである。
こもこれら二元論哲学の鰍であることをく9)明ら蘇 デー図は,世界(環境)と糊申(餓),主体(人 している。これらの分裂が教育の世界に反映して,学習 間)と客体(世界)とをこのように引き離し,分裂せし 者(子供)と教材との分裂,系統的知識(理論)の学習 め,孤立させる立場には,全く賛成することはできなか
と子供の活動(実践)との分裂,世界(環境)の片われ った。彼は,哲学的主観主義の運動は,人間の実際的動 としての教材と精神の片われとしての方法との分裂,知 向の真旨に対する曲解であるとして,批判的に,「人間 的学科と実際的学科との分裂,自然的学科と社会的学科 は実際に,自然澄よび人間相互の関係から自由になろう とめ分裂,或いは学校と社会との分裂が出現している。この と努力するような矛盾したことには従事しないのである。
ような嘆かわしい教育の世界における分裂を統一し,止 彼等は自然と社会の中により大なる自由を求めて努力し 揚しようとする意識的努力こそ,デューイの教育思想の つつあるのだ。人間は事物の世界と同胞の世界に変化を 中に脈うっ源流であろう。彼が経験の理論を唱えて,学 澄こすためのより大なる力を求めている。すなわち,よ 習者(主体)と教材(世界・環境)との統一・止揚をは り大なる範囲の運動を,したがって,運動の中に含まれ かろうとしたのも,また,活動と認識との連続性を強調 ている観察と観念のより大なる自由を求めているのだ。
して,「本書において提唱したところの認識の方法に関 人間は世界からの遊離を望むのではなくて,世界とのよ する理論は,プラグマティズムの認識の方法の理論だと り密接なる結合を望むのだ。人間は伝統によってではな いえよう。このプラグマティズムの認識の方法の理論の く,直接に世界についての彼等の信念を形成しようと欲 根本的特徴は,環境を故意に(有目的的に)変容する活 するのだ。人間は,彼等が相互により効果的に影響を与 動と認識との連続(性)を主張するところにある。⑩」 えることができるように,しかも,彼等のめいめいの行 と述べたのも,この教育思想の展開の典型であると考え 為を相互の目的のために結合させることができるように,
られる。 彼等の同胞とのより密接な結合を望むのだ鯉」と述べて デューイは,認識論として知られている哲学分野の大 いる。
きな発展は,認識対象としての世界から認識主体として 世界(環境)と精神(自我),主体(人間)と客体
の精神(自我)を引き離したことの反映であり,そこで (世界)とを,要するに個人の精神と世界とを,引き離
は,認識する精神と認識される世界とが分裂せしめられ し,分裂せしめ,孤立させ,相互に厳密に区別すること
192 茨:城大学教育学部紀要 第27号
に反対するデ_イは,むしろ,それを統一し,止揚し,ひとつに統一されているからである.q⑤」と言う.われ 密接な相互交渉の中に診こうと努力するのだが,そのあ われの常識からすれば,生きるということは,有機体の
らわれは,最も根底的なものとして,主体と環境との関 独占的はたらきであり,環境は外部にあって単に利用さ 係,有機体と環:境との関係という生物学的次元の考察に れるにすぎない附属物(従属物)と見なされてきたのだ
向けられる。 が,ここでは認識がまったくあらためられている。生き ていくという過程が,有機体によって演じられるのと同 有機体と環境との一っの統一 様に,環境によっても演じられるという説明ほど,有機
デューイは,主体と環境とが分けられないこと,より 体と環境とのひとつの統一を見事にあらわすものは・な
厳密に生物学的に言えぱ有機体と環境とが分けられない いように思われる。 1
アとを,彼の哲学的主著である『論理学一探究の そこで,有機体と環境とのひとつの統一という認識は・
理論』の第2章「探究の現実的母胎一生物学的母 両者の関係について,つぎのように演繹されることにな 胎」において,明らかにしている。先ず,有機体と環 る。「環境は構造のあらゆる分化とともに拡がる。なぜ 境とが_つの統一をなしていることについて,「有機体 なら・新しい器官が新しい相互作用の道を開き・以前は
の生命は,とにかくひとつの活動過程であって,ひとっ 無関係であった世界の事物が・生命のはたらきを始める の環境をふくんでいる。その活動過程は,有機体の空間 からである。動きまわる動物の環境は・固定した植物の 的限界を超えた取引である。有機体は環境のなかで生き それとはちがうし・クラゲの環境は鱒のそれとはちがい・
ているのではない。それは環境を手段として生きている。 また魚の環境は小鳥のそれとはちがっている。したがっ 呼吸,食物の摂取,排泄は,直接的な統一の諸例である。 てくりかえしていえば・ちがいは・魚が水に住み・小鳥 血液の循環や神経組織の刺激は,比較的間接的な統一で が空気中に住む・ということにあるのではなく・水や空 ある。ω」と述べている。有機体と環境とが一つの統一 気が特定の仕方でそれぞれの活動を始めたゆえに・これ をなしているということは,蔚姑葉ではないが,有らの勤の特徴である機能が現在の姿になった.⑰」。
機体と環境とが一体としてあるということであり,それ ここでは,有機体と環境とのひとつの統一ということ,
は有機体と環境とが分けられないことを意味している。 生きていくという過程が有機体と環境とによって同様に それは,生命は環境をふくむとか,生命は活動過程であ 演じられるということが,更に拡大されて・有機体の側 って取引であるとか,有機体は環境のなかで生きるので の構造の分化と環境の側の拡大とが,ひとつの統一をな なく,環境を手段として生きているというような説明の していることが論証されているのである。したがって・
なかに明らかである。 有機体と環境とのひとつの統一ということや,生きてい 有機体の生命活動は,「有機体のはたらきは,すべて くという過程が有機体によって演じられるのと同様に,
有機体内のエネルギーと有機体外のエネルギーとの直接 まさしく環境によっても演じられるということが,静的 あるいは間接の相互作用である。というのは,生命には なものとして,固定的なものとして捉えられているので エネルギーの消費があり,消費したエネルギーは,活動 はなくて,動的なものとして,可変的,拡大的なものと を遂行したのちに環境から返してもらうことに成功して して捉えられているのである。
はじめて,補充されるからである。これこそエネルギー な澄,デューイは,有機体と環境との相互作用のバラ 回復の唯一の源泉である。㈲」と言われるとおり,有機 ンスについて,「相互作用の分化とともに,相互作用の 体内のエネルギーと有機体外のエネルギーとの直接ある バランスー客観的にいえば統一された環境一を維持 いは間接の相互作用とされ,それは環境の存在を前提と する必要がでてくる。バランスは,有機体の内部と環境 してはじめて可能となるはたらきである。したがって, の両方の変化に応じるメカニズムによって維持される。
環境なしの生命活動は考えられないことになる。 たとえば呼吸作用のような一見独立したはたらきは,圧 デューイは更に言葉をあらためて,「生きていくとい 力変化を伴う酸素と炭酸ガスの含有量の積極的な交換一 う過程は,有機体によって演じられるのと同様に,まさ これは肺のなかの血液と炭酸ガスによって行なわれる一 しぐ環境によっても演じられる。なぜなら両者は,現に によって,恒常的にたもたれている。肺はまた肺で,腎
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関:ディーイ教育思想における「状況」(Situation)について(その1) 193
臓と肝臓がひき澄こす相互作用,すなわち循環する血液 ろきである。この哲学書,論理学書は,決して,精神と と消化管から吸収される物質との相互作用に依存してい か実存などから出発していないのである。生存から出発 る。このようにきちんと拍手のそろった新陳代謝の全体 しているのである。生命から出発しているのである。
系は,神経組織の変化によってコントロールされている。
α⑳」と述べて,それが有機体の内部と環境の両方の変化 皿 経験一人間と環境は分けられない一 に応じるメカニズムによって維持されるとし,その例を 状況 あけているわけである。 デューイは,周知のように,『民主主義と教育』の第
また,これに関連して,「以上のような内部変化の複 11章「経験と思考」に澄いて,「経験の本質は,それ 雑徴妙な体系の効果は,環境とのうまくそろった統一一 が特別に結合した能動的要素と受動的要素とを含むこと あるいは同じことであるが,うまく統合された環境一を維 を,知ることにより理解できる。能動的方面に澄いては,
持することである。無生物と環境との相互作用の場合は, 経験は試みることである。試みるということは,実験と 事物のあいだに一定の関係を維持しない。たとえばハンマ いう言葉との関連において明らかにされる意味である。
一の一撃は,石を粉々に砕く。しかし生命が正常につづく 受動的方面においては,経験は受けることである。われ かぎり,有機体のエネルギーと環境のエネルギーの相互作 われが何かを経験する場合,われわれはそれに働きかけ 用は,のちの相互作用のために必要な条件を両者のなか る。それに何かをする。それから,われわれは,その結 に維持する。言いかえれば,その過程は,無生物の相互作 果を受けるのである。われわれがあるものに何かをする 用の場合とちがっ臆味で自己維持的である画とも述 と,次にそのものが引き替えにわれわれに何かをする。
べられているが,これは無生物と環境との相互作用の場 これが特別の結合である。経験のこの二つの面の結合が・
合に比較して,有機体と環境との相互作用の場合の特色 経験の効果や価値を測定するのである・ある活動が結果 が,自己維持にあることを明らかにするものである。 を受けることへと連続するとき,すなわち,われわれの 以上の論究は,デューイの『論理学_探究の理 活動によって生じた外界の変化が反響して,われわれの 論』の第2章「探究の現実的母胎一生物学的母胎」に基 内部に変化をおこす場合,その単なる(活動の)流れは ついて,主体と環境とが分けられないことを,有機体と 意義を持つのである。われわれは何かを学ぶのである。
環境とが分けられないことを論証する意図のもとに行わ いわゆる経験から学ぶということは,われわれが事物に れたものである。結論はきわめて明確である。有機体と 対して為すことと,その結果として・われわれが事物か 環境とが一つの統一をなしていること,生きていくとい ら受けることとの間に因果関係をつけることである。こ う過程は,有機体によって演じられるのと同様に,まさ のような条件の下に論いては,為すことは試みること・
しく環境によっても演じられること,有機体と環境との すなわち,それが何であるかを発見しょうとして,世界 間には相互作用のバランスが維持されていること,これ について実験することである。その結果として,事物か である。有機体と環境とは一つの統一をなしているのだ。 ら受けることは,教訓,すなわち,事物の関係を発見す 両者は一体となってあるのだ.これは言いかえれば,有 ることである.⑳」と経験の本質や,繰から学ぶとい 機体と環境とが分けられないということである。演繹す いうことの意味を明らかにしている。私は,かって,
れば,主体と環境とが分けられないということである。 「デューイの反省的思考の本質⑳」と題して,ここに叙 この有機体と環境との関係が,統一の状態として捉えら 述されていることの内容を思考と関連させて考察したこ れるというのが,デューイに澄ける根元的な意味での とがあるが,ここではそれにはふれないことにする。
「状況」(Situation)ということである。原型と しかし,ここには,経験についてわれわれが知らなけ しての「状況」ということである。 ればならない基本的なことがらが,正確に,簡潔に・し
なお,附言すれば,本書のこの部分を読むかぎり,こ かも丁寧に叙述されて澄り・他のいかなる書物を読むよ
れが,いわゆる哲学者の著作であろうかというおどろき りも,経験についてのわれわれの認識を助けるものと考
がある。これはまさしく生物学的基礎にもとつく厳密な えられ,解釈をつけ加えることなど必要ないと思われる
科学的態度でつらぬかれた哲学書の内容に直面したおど のだが,ただ,状況との関連から少しく附言することに
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したい。先ず経験の本質として,能動的要素と受動的要 ればならない。これこそ,実験的方法の教訓であり,ま 素とが含まれる。能動的要素は主体としての人間の存在 た,すべての教育が学ばねばならぬ教訓である。⑳」と
澄よびその働き(試みること)である。受動的要素は主 デューイが述べたとき,それは,経験の意味と経験によ 体としての人間の働き(試みること)をうける或るもの って学ぶということの意味と実験科学の意味とが太い連
(環境)の存在およびその働き(人間に引き替えに何か 鎖をなすものとして彼に捉えられていたのである。
をすること)である。この二つのものが特別に結合した 以上の所論によって,経験とは人間と環境との間に成 時に経験が成立する。要するに経験とは人間と環境との 立する関係,或いは,人間と環境との間に存在する能動 間に成立する関係であることは明白である。 的関係,また主体と環境との相互作用と規定されるので デューイは,『民主主義と教育』の第20章「知的学 ある。ところで,この規定の仕方が強調するところは,
行っている。「経験そのものは,本来,人間と彼の自然 でも成立しえないし,環境のみでも成立しえないという 的環境及び社会的環境との間に存在する能動的関係から ことである。入間(主体)と環境とが特別に結合する時 成り立っている。ある場合には,行動の主導権が環境の に成立するものである。経験においては,人間(主体)
側にある。そして人間の方はその努力について或る拘束 と環境とは分けられない,それは一つの統一をなしてい をうけ,努力を曲げられる。またある場合には,まわり る。このようなものとして捉えられるのが,デューイに にある事物や人々の行動が,その人の活動の向かうとこ 澄ける経験というものであり,それは同時に状況といわ うにしたがって,有効な結果に向かって導かれる。そし れるものであるように思われる。
て,その結果としてその人が受けとるところのものは,彼 ここで,私はデューイの教育哲学の著作である『民主 が自分みずから産み出そうと努力したところの結果であ 主義と教育』から彼の哲学の著作である『実験論理学論 る。このようにその人に澄こったこととその人がこれに 文集』へ眼を転じて,経験の概念について考察をすすめ 応じて為すこととの間の,また,人がその環境に向かって ようと思う。彼は,この著作の序論において,「私は,
なしたことと,その環境が反対にその人に為すこととの U経験 という言葉がこのテキストの中で用いられると 間の関係(結合)が確立される度合に正しく応じて,彼 き,その経験という言葉が,多様な,しかも相互作用す の行為と彼のまわりの事物とは意味を獲得する。彼は自 る諸要素から成る莫大な,しかも生きてはたらく世界を 分自身と人間澄よび事物の世界との両者を理解するよう 意味しているということのみを指摘したいと思う。㈱」
に学習するのだ。⑳」。経験知よび経験によって学ぶと と言っている。この表現はなかなか含蓄の多い難解な内容を いうことの意味をこのように解釈するデューイは,当然 もつように思われる。難解だという意味は,カギ括弧の のことではあるが,明確な目的を意識した教育を行うと 中を主語と述語のみに整理して,挿入句を排除してしま ころの学校は,この主体と環境との相互作用が,これらの うと「経験は世界を意味する」ということになるが・こ 諸意味一それは児童のその後の学習の道具となるほど れはデューイの真意に反するもののようであるからであ 重要であるものなのだ一の獲得を効果的ならしめると る。彼はこの点に関して,「若し,われわれが 世界
ところの環境を提供せねばならないと要請するのである。或いば環境 のような一般的客観的言葉を・何故,そ 更に,ここに述べられた経験の意味,或いは経験によ の時・使わないのかと問われたとすれば・その解答は・
って学ぶということの意味に関連して,近代において急 経験 という言葉(術語)は・これらの術語(世界・
激に発展したものは実験科学の進歩であるが,それは, 環境)が漏らしているところの必要欠くべからざるある 行為と講とについての伝統的紛裂に対して最も鹸ものを暗示するということである.⑫⑤」と述べて,「経 的な打撃を与えたのであり,しかも,その実験科学の進 験」という言葉が世界,環境という言葉と質の違うもの 歩は,「行為の所産として以外に,真の知識とか有効な であることを暗示している。
理解とかは生じない。㈱」ことを証明している。「人間 更に,彼は,経験ということの意味を明らかにするた
は何かを見出したいと思うとき,事物に対して何かを為 めに,経験という術語の発明され使用された理由,経験
さねばならない。すなわち,人間は条件を変えて見なけ という術語の必要とされる理由について,「その普通の
関:ディーイ教育思想における「状況」(Situation)について(その1) 195
人間的用語法に澄いて,蚊経験 という術語は, 有機 の主著の一つである『経験と教育』へ再び眼を転じて・
体 ど曳環境 , 主観 ど客観 , 人々 ど気事 経験の概念についての考察をひとまず終結させようと思う。
物 ,娘精神 と娘自然 等々のような,かかる術語に デューイは,教育を経験の基礎に立って賢明に運営して
よって,遠まわしの,しかも,分割された方法に澄いて 行くことができるために・経験の理論を組み立てること 、のみ指示されている菟ゐを,断呼として言及するある方 が必要であり,この理論の構成には・最も有意義な原理
法をもつ必要の故に,以前に発明され,そして使用され を提起しなければならないと考えた。そこで・「教育的 た。⑳」と説明している。これは,この小論に診いて, に価値のある経験と・そうでない経験とを識別しようと 今まで論じられてきた状涼つ瞬の考察,あるい醗する試み⑳」や「さまざまの繊のもつ固有の鮪の間 騨ついての考察を,より一腱騨しめるのに役立つの識別という報⑳」が最も基本的な問題であるとして・
説得的説明であるように思われる。われわれは,ともす この識別の標準として・経験に関する第一の原理・すな れば物事を分析的にのみ見ようとする。有機体と環境, わち・経験の連続の原理を設定する。この経験の連続の 主観と客観,人々と事物,精神と自然,というような関 原理は・前に発生したところの経験から何かを取りあげ 係の場合にも,対応しているものの各々を,一旦区別し,るものと・後に来る経験の性質を何らかの仕方で変容す 孤立化させたうえで,さてあらためて両者を結合させよ るものとあらゆる経験を意味する。
うと人為的な努力をする。しかしこれは。本末が転倒し ついで,彼は・経験に関する第二の原理・すなわち・
た思考法,認識の方法である。有機体と環境,主観と客 経験における相互作用の原理を設定する。彼は・「相互 観,人々と事物,精神と自然というような対応関係は, 作用という言葉は・経験に論ける両方の要素一客観的 本来,分けられないもの(不可分のもの)の対応関係, 条件と内部的条件一に平等の権利を割り当てる。あらゆ 一つの統一の状態にあるものの対応関係,一体としてあ る正常な経験は,これらの二つの条件の相互作用である。
るものの対応関係として捉えられなければ,その本姿が それらが一緒になり,或いは,それらの相互作用によっ 把握されえないものである。上に引用したデューイの説 て,われわれのq気状況 (asituation)と呼ぶと 明は,まさにそのことをわれわれに嶽ているものと思ころのものを形成する.⑳」と言う.ここで述べられて われる。有機体と環境,主観と客観,人々と事物,精神 いることは,今までに論究されてきた経験の概念,すな
と自然,というような分けられないものの対応関係,一 わち,人間と環境との間に成立する関係,人間と環境と 4
ツの統一の状態にあるものの対応関係,一体としてあ の間に存在する能動的関係,主体と環境との相互作用,
るものの対応関係を,分離し孤立させればその瞬間に本 等として捉えられてきた経験の概念と少しも矛盾するも 質や本姿を喪失してしまうものの対応関係を,その本然 のではない。相互作用という視点から,経験の意味と状 の姿のままに言及する方法が,「経験」という術語であ 況の意味を記述したのみである。更に,彼は,「状況の る。また,そのとき,分けられない,一つの統一として 概念と相互作用の概念とは,互いに離れ得ないものであ ある,一体としてあるという考え方によって捉えられる る。経験は,常に,個人とその時に彼の環境を構成して ものが「状況」というものである。 いるところのものとの間に生ずる取引(transaction)
デー一イは,勲,「賦経験・(・xperi…e),であるが故に,経験効うるのだ.G助」と述べて,状況
璽隻
況 (situation)等の言葉は,決して自分の と相互作用との分けられえないこと,不可分性を主張し 反省の術語とはなることのできないあるものへ,しかも,ている。
それにもかかわらず,それらの術語にすべての実質的意 経験について,ここまで論述してきたわれわれは,経 味と地位を与えるところのあるものへ,正確に復帰する 験の概念について或る程度明晰な把握をすると同時に,
ことの必要を,思索家に思い出させるために用いられて また経験に関連して捉えられる状況の概念についても同 いる。②㍉と述べているが,これも既に説明した経験あ じ程度の把握をなし得たように思うのである。それらの るいは状況という概念の性質を含蓄ある仕方で補説する 把握は,更に関連するもの,離れ得ないものとしての相 ものとうけとることができるであろう。 互作用という概念の把握にも関連していることを知らさ
私は,ここで,『実験論理学論文集』から彼の教育学 れるのである。
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IV 学習一子供の能力や活動と教材は 中枢神経組織内の神経細胞の本来的連絡ということに基 分けられない一状況 礎をおいたところの,多数の本来的生得的諸傾向,本能 デューは,『民主主義と教育』の第5章「準備説,開 的な行動の様式である。關」。この批判の意味を子細に 発説,形式陶冶説」において,形式陶冶説(the theory 分析すること,或いは批判の根拠を探究することは,重
of formal discipline)の本質をつぎのようなも 要なことであると思われるが,ここでは当面の課題から として規定した上で,それに対して批判を加えている。 逸脱するので,これ以上の論究は差し控えたい。
この学説は,人間の精神能力として,観察力,記憶力, むしろ,デューイの形式陶冶説に対する次の批判が,
想起力,連想力,注意力,意志力,感情力,想像力,思 状況の概念,経験の概念に深くかかわっていると思われ 考力等が,教育を受ける以前から,末だ訓練されていな るので,それに移ることにする。デューイは,形式陶冶 い状態で存在することを予定し,教育の任務はこれらの 説の根本的誤謬は,その二元論に基づくもので,「その 能力を直接に訓練することだと見なすのである。この学 説が,児童の活動や能力を,その教材から分離させたこ 説は・いくつかの能力を,成長の結果と見ないで,これ とに基づいている。見たり,聞いたり,或いは記憶する を教授(学習)の,直接の,そしで意識的な目的と見なす。ゴ というような一般的な能力というようなものは存在しな ルファーがマスターせねばならぬ打ち方の種類を人が列 い。現実に存在するものは,賦あるもの を見たり,聞 挙すると同様に,訓練されなければならぬ明確な数の能 いたり,記憶したりする能力のみである。その練習の中 力があると考えるのである。この学説の古典的形式での にふくまれている教材から切り離して,精神的或いは身 提唱者はJ・ロックである。彼によると,一方では,外 体的能力を訓練するということはナンセンスである。…
界の世界が,受動的に受けとる(人間の)感覚を通して,…Gの」と批判をする。この批判は,きわめて意味深長で,
材料,すなわち,知識の内容を与え,他方では,精神が,われわれが状況という概念を考察するときに,具体的な いくつかの既に出来ている諸能力,すなわち,注意力, 材料を提供するものであろう。見るという働きは,視覚 観察力,把持力,比較力,抽象力,結合力をもっている。 器官である眼の働きと見られるある物との間に生ずるも そこで,事物が自然そのままに結合したり分離したりす のであり,眼だけあっても,ある物だけがあっても成立 るのを,精神が区別したり結合したりすれば,その結果 出来ない働きである。聞くという働きは,聴覚器官であ として知識が生ずるのである。教育にとって重要な任務 る耳の働きと聞かれるある音との間に生ずるものであり,
は,これらの精神の諸能力が,完全に確定した習性とな 耳だけあっても,ある音だけがあっても成立出来ない るまで,これらの精神諸能力を鍛練することである。ゴ 働きである。記憶する働きも同様であろう。記憶する機 ルファーや体操家が,ある画一的方法で特殊な筋肉を反 能をもつ脳の働きと記憶されるあるものとの間に生ずる 復的に使用することによって,最後に無意識に働く技術 ものであり,脳だけがあっても,あるものだけがあって を獲得することは,形式陶冶説の考え方に類似している。 も成立できない働きである。これは極めて単純な感覚器 思考の能力ですら,細かい区別をしたり,細かい区別を 官の働きの場合の例であるが,具体的な材料から切り離 総合したりする反復練習によって,一種の訓練された習 されての人間の能力の働き,或いはその訓練はあり得な 慣を作るものと確信された。そして,そのための比類の いことを証明している。
ない機会を提供するものが教授であると考えられた。 したがって,私は,デューイの教育思想において,教 上述のように規定された形式陶冶説に対して,デュー 授(学習)に訟ける子供の能力や活動と教材とが分けら イは,最も根底的な形で批判・攻撃を加える。「澄そら れないものとして捉えられていること,能力や活動と教 く,最も直接的な攻撃法は,観察,想起,意志,思考等 材とが一つの統一をなすものとして捉えられていること の諸能力が生まれつき持たれていると仮定することが, を見るのである。これは言葉を換えれば,学習において 純粋に神話的なものに過ぎないということを指摘するこ 子供の能力や活動と教材とが相互作用をなすものとして捉 とである。上述したような既成の諸能力がはじめからあ えられているということであり,これは同時に学習が経験と って,それが練習させられ,訓練させられるのを待って して捉えられていることを意味するものであり,また,
いるようなことはあり得ない。実際にそこにあるのは, 学習が状況として捉えられていることを意味するもので
関:ディーイ教育思想における「状況」(Situation)について(その1) 197
ある。学習が成立するためには,子供の能力や活動と教 まれ,想像された「もの」があり,また,方法の系列に 材とは絶対に切り離し得ないものである。 は,見る,聞く,愛す,憎む,想像するという「行為」
デューイは,『民主主義と教育』第13章「教育方法 があるというわけである。
の本質」に詮いて,上述の問題,すなわち,学習に澄い しかし,デューイは,材料と方法とのこの区別は,あ て子供の能力や活動と教材とが切亘離し得ないものであ くまでも思考上の区別であって,実際上の区別ではない るという原理の問題に背馳する教育方法に触れている。 ことを強調する。「この区別(経験されたものと経験の それは教材と教授法(方法)とが不自然に分離されてお 仕方との区別,材料と方法との区別)は,ある目的に対 り,統一されるべきだという仕方で提示されている。彼 しては非常に自然で,しかも重要でもあるので,そのた は,先ず,「精神の世界と事物や入間の世界とは二つの めに,われわれは,往々この区別を思考上の区別ではな 分離した独立の領域であるという観念一哲学的には二 くて,実際上の区別であるが如くに見がちである。かく 元論として知られている学説一は,教授の方法と材料 して,われわれは自我と環境,或いは自我と世界との区 とは別個の問題であるという結論を下す。そこでは,教 分をする。この区分が方法と材料との二元論の根源であ 材は自然と人間の世界についての事実と原理を組織的に る。すなわち,われわれは知ること,感ずること,意志 分類した既成のものである。方法は,この前提された教 すること等々のことは,それ自体孤立している自我或い 材を精神に最もよく提示し,また,印象づける方法を考 は精神に属するものであり,しかもそれは,その時,独 察することを,その役割とするか,或いは,精神が教材 立の材料(自我或いは精神から独立している材料)に働 を獲得し,そして把持するのを容易にするように,精神 かしめられるものであると考えるのである。また,われ が外部的に教材に結びつけられる方法を考察することを, われは,自我或いは精神にだけ所属するそれらのもの その役割とするのである.㈲」と述べて漱材と方法と (知ること,感ずること,酷すること)は,外界の事 の分離が二元論に基づくものであること,および,分離 物のもつ活動力の様式(外界の事物の活動方法)とは関 されるものとしての教材と方法との各々の内容或いは役 係なく,それ自身の活動の法則を有するものと考えるの 割を明らかにしている。 である。⑳」このように,経験されたものと経験の仕方 次に,彼は,何故に教材と方法とが分離的に考えられ との区別,材料と方法との区別は,思考上の区別であり,
るようになったのか,より根元的には,精神の世界と環 実際上の,或いは現実上の区別ではないと認識するデュ 境の世界とを分離的に考える二元論が生じたのかについ 一イは,この区別をあたかも実際上の区別であるが如く て,その起源を論じている。「われわれが今まさに経験 に見る立場に対しては,終始批判をして止まないのであ をしている代りに,一つの経験を反省している場合には, る。「人が食べるものなしに食べることが出来ると考え われわれは,不可避的にわれわれ自身の態度と,その態 たり,また,顎と咽喉の筋肉の構造と運動,胃の消化活 度がそれに向けられている対象(事物)とを識別する。 動などは,その活動がそれにかかわる材料との関係から,
例えば,人が食べている時,彼は食物を食べているので 今日のようになったのでないと考えることは不合理極ま ある。彼は食べるという自分の行為を食うことと食物と ることである。その活動が取扱う材料と無関係に進化発 に区別レない。しかし,若し彼が食べるという行為を科 展したと考えることは不合理極まることである。有機体 学的に研究しようとすれば,このように区別することを のもつ諸器官が,食料の存在する外界そのもの(物質界)
第一に実行するであろう。彼は一方では,栄養物の性質 の連続的な一部であることは,見たり,聞いたり,愛し を,他方では摂取したり,消化したりする有機体の行動 たり,想像したりする諸能力が外界の材料と本質的に連 を吟味するであろう。G叫このように経験を反省するこ 続していることと同様である。これらの諸能力は,事物 とが,われわれが経験するもの(経験されたもの)と, へ向けられる独立の行為であると言うよりは,むしろ,
その経験をすること(経験の仕方)との区別の起源とな 環境が人間の経験や機能へ入って来る方法であると言う るわけである。この区別に名前をつける時に,われわれ 方が正当である。倒」と論じているのも,この批判のあ の言葉として「材料」と「方法」という名称になるわけ らわれである。
である。材料の系列には,見られ,聞かれ,愛され,憎 ともあれ,デューイにおいては,学習を成立せしめる
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基本的要素として,子供のもつ能力や活動と教材(材料)然として操志を一貫することが,人間として望ましいの とは分けられないものであり,相互作用をなすものとし ではないか。」に対しても,務台氏は,「操志を一貫す て捉えられるものである。それは,経験の仕方と経験 ることが,人間として望ましいのはいうまでもない。し されたものとの関係,教育方法と教材との関係と言い換 かしこの操志一貫の意味は状況次第で人間はちがったも えても全く類似の関係として捉えられるものである。 のになりうることと矛盾するものではない。次元がちが 以上の論証によって,デューイに診いては,学習を成 うのである。じっさい状況の変化に応じ,その都合次第 立せしめる基本的要素としての,子供のもつ能力や活動 で操志が変るとすれば,それは人間としてもっとも恥ず と教材との関係は,まさに経験と呼ばれるべき性質をふ べきことであるにちがいない。しかしその操志が一貫し くむものであり,また,それは状況と呼ばれるべき性質 てゆるがないということは,歴史的状況の全体への見通 ● ふくむものと解されるのである。 しがあり,その全体への設計に澄いて,いかなる人間に
■ o o ● ●
なるべきかという要請がゆるがないというのであって,
V 一応のまとめ 全体状況の見通しこそ根本の条件である。」と,まこと 小論の「はじめに」において,私は「状況」というも に説得力ある論理を展開されており,私は大きな感銘を のについて白紙の状態で澄り,務台理作氏の『哲学概論』得たのであった。このような務台氏の状況論に刺激され の状況論に触発されて,はじめて入間存在と状況との重 て,私の「デューイに澄ける状況」論の執筆がはじめら 大な関係に気付かされて,デューイの状況論へと進んだ れたわけである・
かのように書いたが,事実は,むしろその逆である。デ 小論に澄いて,デューイの状況の概念は,第一に,最 ユー Cの教育に関する著作,特に『民主主義と教育』や も根元的な意味での状況,原型としての状況という意味
『経験と教育』を読むたびに,経験という概念を明白に で,生物学的な次元での生命の過程に澄ける,生物と環 捉えたいと思うのだが,その時,必らず経験の概念と裏 境,有機体と環境との,分けられえない関係,一つの統 腹にちらりちらりと姿を見せるのが状況の概念であった。 一の状態にある関係,相互作用を為す関係として捉えら 経験の概念が表にあると,必らず状況の概念が裏にある。 れるものを意味している。
状況の概念が表にあると,必らず経験の概念が裏にある 第二に,経験という次元に齢ける,人間と環境(まわ という如くである。そこで,デューイの経験の概念を明 りの人々や事物)との間に成立する能動的関係,相互作 確にするためには,一度徹底的に状況の概念を究明しな 用を為す関係,一つの統一の状態にある関係,不可分離 ければならないと考えていたのであるが,たまたま,そ 性にある関係として捉えられるものを意味している。
れをまとめる導火線となったのが,上記務台理作氏の状 第三に,学習における,子供のもつ能力や活動と教材 況論であったという方が事実に近い。 (材料)との間に成立する関係,両者の問に存在する能
魯 ● o o o
務台氏の「人間は,人間が何であるかという本質や本 動的関係,相互作用を為す関係,一つの統一の状態にあ 性によってはかられるものでなく・与えられた状況の中 る関係,若し両者を分離せしめるならば,即座に学習そ
● ■ o o o
で何になるかというその状況的可能性からはかられるべ のものを不成立に澄ちいらしめる関係として捉えられる きである。」という主張や,類似しているが,「入は異 ものを意味している。
なる状況の中では異なる人間になる可能性をもっている。一 なお,状況の概念と相互作用の概念とは,離れ得ない という指摘ほどに,近来私の心をゆさぶったものはなか ものであり,相互作用が状況を形成するものである。経 った。伝統的な立場に立つ教育論は,ともすれば硬直し 験の概念も,状況の概念も,二つの分離し得ないもの,
た観念的な主張をしがちである。状況への力動的な考察 一っの統一の状態にあるもの,相互作用を為すもの,を に基礎をおくことを忘れて,一方的に入間(子供)の行 本然のその姿のままに,総合的に統合的に捉えようとす 動が規定されうるが如く,入間(子供)の道徳的性質が る,理解しようとする,それなりに完成させようとする 形成されうるが如く主張しがちである。また,われわれ 意味をもつものである。 (1977.11.10)
が状況を重視すると主張するとき,必らず出てくる反論
「どのような状況においても信念を変えることなく,毅
●
関:ディーイ教育思想における「状況」(Situation)について(その1) 199
⑫3} Ibi(玉, p.321.
註 ⑳ lb鳳, pp.321−32a
⑳ J.Dewey :Essays in Experimental
(1)務台理作:哲学概論.昭33.p.286. Logic。(1916)Dover Publications,
(2)同上書, pp.287−288。 1953. p.7.
(3)同上書, p.289. ㈱ Ibid., p 7.
(4)黒田寛一:読書のしかた.1970.p.43. 伽 Ibid., pp.7−8.
(5)岡 潔:春宵十話.昭38.PP 11−12・ ㈱ Ibi&・P・8・
(6)千葉康則:行動科学とは何か.昭45.p.50. ⑳ J. Dewey:Experience and Educatiqn.
(7)今西錦司他:今西錦司の世界.昭50.p.311. The Macmillan Company,
(8)三田博雄:山の思想史.1973.p.224. 1938.p.24.
(9) J.Dewey :Democracy and Educatioル ⑳ Ibid・, P・26.
The Macmillan Company, ⑳ Ibi , P・39・
1916. p. 341. (32 1bi(弘, p.41.
⑩ 拙稿「デューイ教育思想における連続の概念」。 ⑬ J.Dewey:Democracy and Educatioル 茨城大学教育学部紀要第19号,1969. The Macmillan Company,
Ibid., p.40α 1916. p.73.
(11) Ibi(玉, p.342. (銅) Ibi(弘, p.76.
(12う Ibid., P・342・ (3勃 Ibi(L, P・193・
α3 1bid., P・343・ ㈱ Ibid・, PP 195−196・
q4) J. Dewey:Logic−The Theory of ⑳ Ibid・, P・196・
Inquir)ん19路]1}25 (3④ Ibid・・ P・196。
上山春平編:世界の名著.48.昭43.p415.
q5) Ibid., p. 25.
同上書,p.415.
α〔勤 Ibi(L, P・25・
同上書,P・415・
q7) Ibid., pp.25−26.
同上書,P・415・
α鋤 Ibi(L, p.26.
同上書,pp.415−41a
q鋤 Ibid., p.26.
同上書,p・416・
⑳ J.Dewey :Democracy and Education.
The Macmillan Company,
1916.pp 163−164.