カザフ族の遊牧生活
著者 加藤 九祚
雑誌名 国立民族学博物館研究報告
巻 8
号 3
ページ 653‑696
発行年 1983‑12‑19
URL http://doi.org/10.15021/00004450
加藤 カザ フ族の遊牧生活
カ ザ フ 族 の 遊 牧 生 活
加 藤 九 詐 *
国 立 民 族 学 博 物 館 (以 下 , 民 博 と い う)
の 中 央 ・北 ア ジ ア展 示 室 に は , 中 央 ア ジ ア の カ ザ フ 族 (中 国 で は ハ サ ッ ク恰 評 克 と 表 記 ) の ユ ル タ 10PTa (天 幕 ) が 展 示 さ れ て い る (標 本 番 号 H 65370)。 本 稿 は , か つ て 中 央 ア ジ ァ の 代 表 的 遊 牧 民 で あ っ た ス テ ッ プ (と り わ け 西 部 ) の カ ザ フ 族 の 革 命 前 の 遊 牧 生 活 の あ ら ま しを 文 献 に よ っ て 紹 介 し, そ の 生 活 の 拠 点 と し て の ユ ル タ に つ い て の べ る もの で あ る。
1. カ ザ フ 族 に つ い て
カ ザ フ (ま た は カ ザ ー フ, こ こ で は カ ザ フ と す る) 族 は ユ ー ラ シ ア 内 陸 部 の 原 住 民 で あ る 。 自称 を カ ザ フ Ka3ax ま た は カ ザ ク Ka3aK と い い ,ソ連 邦 で は15構 成 共 和 国 の 1っ と して カ ザ フ共 和 国 , 中 国 で は恰 蒔 克 (ハ サ ッ ク)自 治 州 お よ び 自 治 県 を 形 成 して い る。 カ ザ フ族 は ソ連 国 内 に529万 9千 人 (1970年 現 在 ), 中 国 に 約 80万 人 (1978年 現 在 ) の ほ か , モ ン ゴ ル 人 民 共 和 国 , ア フ ガ ニ ス タ ン に も住 ん で い る。 言 語 は ア ル タ イ 語 族 に 属 す る チ ュ ル ク語 の キ プ チ ャ ク ・グ ル ー プ で あ る 。
* 国立 民 族学 博 物 館第 4研 究 部
宗 教 は ス ン ニ 派 の イ ス ラ ム 教 。
カ ザ フ 族 は1925年 頃 ま で ロ シ ア 文 献 で キ ル ギ ス ・カ ザ ク KHprH3−Ka3aK ま た は 単 に キ ル ギ ス KHprH3 と 称 せ ら れ た 。 こ こ に は 明 らか に , カ ザ フ 族 に 隣 接 す る キ ル ギ ス 族 と の 混 同 が み られ る。 こ の 理 由 に つ い て トカ レ フ は つ ぎ の よ う に 説 明 し て い る 。
16− 17世 紀 お よ び 18世 紀 前 半 の ロ シ ア 文 献 で は 一 般 に カ ザ ク ま た は カ ザ チ ヤ ・
オ ル ダ Ka3aqbH−OPAa と称 せ られ た 。 と こ ろ が 1730年 頃 か ら, つ ま り カ ザ フ族 の 一 部 が ロ シ ア 帝 国 の 治 下 に 入 っ て か ら, キ ル ギ ス ・カ ザ ク と よ ば れ る よ う に な っ た 。 こ れ は , 一 面 で は ロ シ ア の い わ ゆ る コ サ ッ ク (こ れ も Ka3aK と 書 く) と 区 別 す る た め に , 他 面 で は 隣…接 の キ ル ギ ス 族 と よ く似 て い る と こ ろ か ら, 文 献 上 で キ ル ギ ス ・カ ザ ク ま た は キ ル ギ ス ・カ イ サ ク KvaprK3−KaticaK と よ ば れ る よ う に な っ た [ToKAPEB I 958:371]。
(1) カ ザ フ族 の 形 成
「カ ザ フ」 と い う言 葉 の 起 源 に つ い て は 諸 説 が あ る が , 今 の と こ ろ 定 説 は な い。
あ る 人 は カ ス ・ア ク (Kac−aK, 白 い ガ ン の 意 )に 由 来 す る と い い ,別 の 人 は カ ズ ・ サ ク (Ka3 カ ズ 族 と caK サ カ 族 の 合 成 ) に 起 源 す る と い う。 ま た , チ ュ ル ク 語 の カ ザ ク 「自 由 な ス テ ップ の 人 々 」 か ら き た と の 説 も あ る 。 佐 口透 教 授 は 「カ ザ ー フ と は トル コ語 で 叛 徒 本 国 か ら離 脱 して 自 由 行 動 を と っ た 者 と い う意 味 で あ る 」 と の べ て い る [佐 口 1978:39]。
「カ ザ ク 」 の こ の 意 味 は, 後 代 に ロ シ ア の 国 境 屯 田 兵 の 総 称 と して 移 って い っ た 。
ロ シ ア 人 が 「カ ザ ク 」 の 語 を 避 け た の は,
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ロ シ ア の 国 境 屯 田 兵 の カ ザ ク (ま た は コ サ ッ ク ) と の 混 同 を 避 け る 意 味 が 最 大 の 理 由 だ っ た か も知 れ な い 。
民 族 と して の 「カ ザ フ 」 の 起 源 に つ い て も, こ れ が チ ン ギ ス ・ハ ン以 前 か らあ る と の 説 と , 15世 紀 中 頃 で あ る とす る 説 が あ る。 現 在 は大 体 後 者 の 見 解 が 有 力 の よ う で あ る。 佐 口教 授 も こ の 説 を と り,
つ ぎ の よ う に の べ て い る 。カ ザ フ 族 は 「モ ン ゴ ル 帝 国 の 4つ の ハ ン 国 の 1つ で あ る 金 帳 ハ ン国 が 崩 壊 し た の ち , い ま の カ ザ フ草 原 で モ ン ゴ ル , トル コ 系 種 族 集 団 が 離 合 集 散 した 結 果 , 形 成 さ れ た ウ ズ ベ ク と い う新 し い 民 族 の 分 派 で あ っ て , ウ ズ ベ ク族 が ア ブ ー ル ーハ イ ル ・ハ ン に率 い ら れ て 西 トル キ ス タ ン に 移 動 した の に 対 し て , モ ン ゴ ル の 遊 牧 的 伝 統 を 守 る 集 団 が カ ザ フ草 原 と セ ミ レチ エ 地 方 で , カ ザ フ と 称 して , 金 帳 ハ ン家 の 末 商 を 擁 して 遊 牧 民 国 家 を 建 て た の が お こ りで あ る」[佐
口 1978:39]。
1558年 モ ス ク ワ か らブ ハ ラ を 訪 れ た イ ギ リス 人 ジ ェ ン キ ン ソ ン の 旅 行 記 に は,
「タ シ ケ ン トに 戦 い を 挑 む の は マ ホ メ ッ トの 掟 に 従 う カ ザ ッ ク族 で あ り … … 」 と い う 表 現 を も っ て カ ザ フ 族 の 名 で 登 場 し て い る [ジ ェ ン キ ン ソ ン 1983:46]。
トカ レ フ は 種 族 連 合 と して の カ ザ フ と 民 族 と して の カ ザ フ の 形 成 を 別 に考 え て い る。 彼 は , 民 族 と し て の カ ザ フ族 が , 形 質 的 に 見 る と 南 シ ベ リア 型 と して ほ ぼ 画 一 的 で あ り, 言 語 的 に も全 域 を通 じ て ほ と ん ど 変 らな い と こ ろ か ら, こ れ だ け の 大 民 族 が 15世 紀 か ら19世 紀 ま で の わ ず か 400年 聞 に 形 成 さ れ る の は 困 難 で あ る
と し, した が っ て 15世 紀 の カ ザ フ 種 族 連 合 の 形 成 は , む しろ カ ザ フ民 族 形 成 の 最 終 段 階 で あ ろ う と 考 え て い る [TOKAPEB
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国立民族学博物館研究報告 8巻 3号 1958:372]。 し か し い ず れ に して も , 15 世 紀 が カ ザ フ 族 の 形 成 史 に お い て 極 め て 重 要 な 時 期 で あ っ た こ と に 変 り は な い 。
[ア クーオ ル ダ ]
1227年 , チ ン ギ ス ーハ ン の 長 子 ジ ュ チ
(1172−1224) は , 父 に よ っ て キ プ チ ャ ク 大 草 原 IlaUIT−H KblnqaK に 分 封 さ れ た 。 キ プ チ ャ ク 大 草 原 は カ ザ フ草 原 と も よ ば れ , カ ザ フ族 の 活 躍 の 舞 台 で あ った 。 ジ ュ チ は , ヴ ォ ル ガ 河 口 の サ ラ イ を 都 と す る キ プ チ ャ ク ・ハ ン国 (金 帳 汗 国 Altun Ordo, ロ シ ア 語 で 30JloTaH OpAa) の 創 始 者 で あ る 。こ の 王 国 は ま た ジ ュ チ ーウ ル ス と も よ ば れ る。
ジ ュ チ ーウ ル ス は 14世 紀 初 頭 ,白 帳 汗 国 AK−OPAa と青 帳 汗 国 KOK−Op双a (金 帳 汗 国 の 本 家 ) と い う二 つ の 王 国 に 最 終 的 に分 裂 した 。 白 帳 汗 国 は 金 帳 (青 帳 ) 汗 国 に た い して 従 属 的 関 係 に あ っ た が , し か し同 じ ジ ュ チ の 子 孫 で は あ っ て も, バ
ト ゥ と は ち が う 系 譜 の ハ ン家 を い た だ い て い た 。白 帳 汗 国 は 主 と し て オ ル タ㌧ エ ジ ェ ン の 子 孫 ,金 帳 汗 国 は バ ト ゥ と ト ゥガ ー テ ィ ム ー ル の 子 孫 に よ っ て 支 配 さ れ た 。
し か し 白 帳 汗 国 は ジ ュ チ ーウ ル ス の 東 部 領 域 で , ウ ラ ル 川 以 東 の 現 在 の カ ザ フ ス タ ン の 地 (セ ミ レ チ エ を の ぞ く) お よ び ア ラ ル 海 と シル ダ リヤ の 北 部 地 域 を 占 め た 。 ア ク ーオ ル ダ の 中 に は シ ャ イ バ ンの 所 領 も含 ま れ た 。
ア クーオ ル ダ は モ ン ゴ ル の 侵 入 以 後 カ ザ フ ス タ ン に 形 成 さ れ た 最 初 の 王 国 で あ っ た 。 「こ の 住 民 は , 古 くか ら こ の 地 に 住 み , モ ン ゴ ル の 征 服 以 前 に キ プ チ ャ ク 部 族 連 合 に 入 っ た チ ュ ル ク 語 の 諸 部 族 , お よ び チ ン ギ ス ーハ ンが 来 襲 し た と き ,カ ザ フ ス タ ン と ア ル タ イ の 東 部 お よ び 南 東
加藤 カザ フ族の遊牧生活
部 か ら移 動 して き た 人 々 で あ った 。 キ プ チ ャ ク の ほ か ,ナ イ マ ン Ha員MaH,ウ イ ス ン YHCYH (ウ シ ュ ン y田[YHbl), カ ル ル ク KapnyKH, キ レ イ ト KHpeHTbl (キ レ イ KHpeH), コ ング ラ ト KOHrpaTbl, マ ン ギ ー ト MaHrb1Tblら の 部 族 が 住 ん で い た 」
[HycynBEKoB 1979:151ユ。
金 帳 汗 国 の ハ ン, ジ ャニ ベ ク の 死 後
(1359年 ), ハ ン位 を め ぐ る は げ し い 争 い が お こ り ,ア クーオ ル ダ も こ れ に ま き こ ま れ た 。 この 頃 中 央 ア ジ ァ に チ ム ー ル が 登 場 し,チ ム ー ル の 支 持 を 得 た ア ク ーオ ル ダ の トフ タ ミ シ ュ ToxTaMblul は 1380/81 年 金 帳 汗 国 の チ ム ー ル ー ト ゥグ ル グ を 追 放 して 支 配 権 を に ぎ っ た 。 し か しや が て チ ム ー ル と チ ム ー ル ート ゥ グ ル グ を 敵 に ま わ し た トフ タ ミ シ ュ は , 1391年 6月 ク ン ド ゥ ズ チ ャ川 (今 の ク イ ビ シ ェ フ 州 に あ る) の 決 戦 , つ づ い て 1395年 テ レ ク 川 の 戦 い で チ ム ー ル に 破 れ 去 っ た 。 1380年 代 以 後 , ア クーオ ル ダ は ウ ズ ベ クーウ ル ス と よ ば れ る よ う に な っ た 。 15世 紀 中 頃 , 金 帳 汗 国 は崩 壊 し, そ の 旧 領 内 に カ ザ ン,
ア ス トラ ハ ン, ク リ ミ ア の 3汗 国 が 成 立 し, ホ ラ ズ ム は チ ム ー ル の 支 配 下 に 入 っ た 。 一 方 , ア クーオ ル ダ も 著 し く弱 体 化 し, か つ て そ の 治 下 に あ っ た シ ャ イ バ ン ーウ ル ス の 有 能 な ハ ン, ア ブ ル ハ ィ ル ーハ
ン A6ynxatip−xaH に 支 配 さ れ る に 至 っ た [HycynBEKoB 1979:154]。
[モ ゴ リス タ ン]
ア ク ーオ ル ダ が 栄 え た 頃 ,セ ミ レチ エ の 有 力 な 部 族 ド ゥ グ ラ ト AyrnaTblを 中 心 に モ ゴ リス タ ン (ま た は モ グ リ ス タ ン)一 ハ ン 国 が 形 成 さ れ た 。 モ ゴ ル ま た モ グ ル
と は, 「モ ンゴ ル 」 の 中 央 ア ジ ァ 的 発 音 で あ っ て , モ ゴ リ ス タ ン.と は ペ ル シ ア 語
で 「モ グ ル M OGUL (蒙 古 )人 の 国 土 」 の 意 で あ る。
14世 紀 に は す で に , か つ て この 地 に 移 って き た モ ン ゴ ル 諸 部 族 は , 現 地 の チ ュ ル ク 族 に 同 化 さ れ , チ ュ ル ク語 を 話 す よ う に な っ て い た [BAPTo調bA l968:212]。
モ ゴ リス タ ン の 最 初 の ハ ン は チ ャ ガ タ イ 家 の ト グ ル ク ーチ ム ー ル TornyK−− TvaMYP で , 1348年 ,ア ル マ ル イ ク (今 の
ク リ ジ ャ) に 首 都 を お い た 。 ハ ン 国 の 領 土 は 年 代 に よ っ て 消 長 した が , 1480年 代 に は タ シ ケ ン トや サ イ ラ ム な ど の 都 市 が 含 ま れ , セ ミ レ チ エ は 版 図 か ら は ず れ た 。
ま た 16世 紀 初 頭 に は , ハ ン の 権 力 は 東 ト ル キ ス タ ン の カ シ ュ ガ ル に 限 られ た 。 な お , トグ ル ーチ ム ー ル は 東 トル キ ス タ ン に 強 制 的 に イ ス ラ ム を 広 め た こ と で 知 られ て い る。
前 記 ア ブ ル ハ イ ル ーハ ンの ウ ル ス は 文 献 上 で 「遊 牧 ウズ ベ ク の 国 家 」 rocyna−
pcTBo KoqeBblx y36eKoB と よ ば れ , 西 は ヤ イ ク (ウ ラ ル ) 川 , 東 はバ ル ハ シ ュ 湖 , 南 は ア ラ ル 海 と シ ル ダ リヤ 下 流 部 , 北 は トボ ル 川 と イ ル テ ィ シ ュ 川 中 流 部 を し め て い た 。し か し ア ブ ル ハ イ ル ーハ ン は 1456− 57年 オ イ ラ ト族 と の 戦 い に 破 れ , 1468年 モ ゴ リス タ ンへ の 遠 征 の 途 中 死 亡 し , 「遊 牧 ウ ズ ベ ク の 国 家 」 は崩 壊 し た LHycynBEKoB 1979:181]。
[ノ ガ イ ーオ ル ダ ]
金 帳 汗 国 の 崩 壊 と ア クーオ ル ダ の 弱 体 化 の 過 程 で , カ ザ フ ス タ ン の 地 に 形 成 さ れ た も う 1っ の 遊 牧 民 国 家 と して 「ノ ガ ィ ーオ ル ダ 」 HoratiCKaH OPAa が 形 成 さ れ た 。 ノ ガ イ ーオ ル ダ の 支 配 的 部 族 は マ ン ギ ー ト M aHrblTblで , 主 な 領 域 は ヴ ォ ル ガ 川 と ヤ イ ク (ウ ラ ル ) 川 の 間 の ス テ
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ップ を 占 め , 中 心 は サ ラ イ チ ク (ウ ラ ル に あ る) 付 近 に あ っ た 。 こ の オ ル ダ の 人 々 は 自 ら を マ ン ギ ー トと称 し た 。 ノ ガ イーオ ル ダ の 事 実 上 の 創 始 者 は 金 帳 汗 国 の 重 臣 エ デ ィ ゲ EAbire で あ っ た 。 彼 は 15年 間 (1396− 1411) 金 帳 汗 国 の ほ と ん ど 全 権 力 を 手 中 に お い た 人 物 で あ る 。 ノ ガ イ ーオ ル ダ で は , ハ ン だ け は チ ン ギ ス ーハ ン の 子 孫 か ら選 出 さ れ た が ,実 権 は エ デ ィゲ の 子 孫 の 手 中 に あ っ た 。 ノ ガ イ ーオ ル ダ に は, マ ン ギ ー トの ほ か ,ク ン グ ラ ト, ナ イ マ ン , ア ル ギ ン, カ ング ル , ア ル チ ン, キ プ チ ャ ク, ケ ンゲ レス , カ ル ル キ , ア ラ シ ュ , タ マ な ど の 部 族 が 含 ま れ て い た 。 こ れ ら の 部 族 は カ ザ フ族 の 形 成 過 程 に 直 接 加 わ っ た も の と され て い
る [HYcynBEKoB I979:183]。
16世 紀 中 頃 の ノ ガ イ ・オ ル ダ に つ い て , 1558年 モ ス ク ワ か ら ブ ハ ラ へ 旅 行 した イ
ギ リス 人 ジ ェ ン キ ン ソ ン は つ ぎ の よ う に 書 い て い る。 「彼 ら は ホ ー ド [オ ル ダ ] と 呼 ば れ る 多 く の 集 団 に 分 か れ , 1っ 1っ の ホ ー ド に は支 配 者 が い て , 彼 ら は こ れ を 集 団 の 王 と して そ の 命 に 従 い , マ ー ス
[ミル ザ 】と 呼 ん だ 。 町 と か 家 と か を 彼 ら は ま っ た く持 た ず , 野 外 で 生 活 を 営 ん だ が , そ れ ぞ れ の マ ー ス あ る い は 王 は, そ の ホ ー ドす な わ ち 領 民 を , 彼 らの 妻 子 や 家 畜 と と も に 周 囲 に 従 え て お り , こ の 集 団 は一 箇 所 の 遊 牧 地 を 食 い つ くす と 別 の 遊 牧 地 に 移 っ た 。 そ の 移 動 の と き は , 大 型 あ る い は小 型 の 荷 車 の 上 に 天 幕 を 張 っ た よ う な 家 を 持 っ て い て , これ を 遊 牧 地 か ら遊 牧 地 へ と ラ ク ダ に 引 か せ , 彼 らの 妻 も 子 も, そ れ か らす べ て の 財 産 も , と い っ て も そ れ は ご く僅 か だ っ た が , これ に 載 せ て 運 搬 し た 。 男 子 は み な , 少 な く
と も四 人 な い し五 人 の 妻 を 持 ち , そ の 他
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かね
に な お 妾 も い た 。 金 と い う も の は 使 用 せ ず , た だ 彼 ら の 家 畜 を , 衣 類 そ の 他 の 必 需 品 と 物 々 交 換 した 。 芸 術 と学 問 と か に は 何 の 関 心 も な く, 長 じて い る の は 戦 い だ け で , こ れ に か け て は 熟 練 者 で あ った 。
と は い っ て も多 く の 場 合 , 彼 ら は遊 牧 の 民 で , 大 量 の 家 畜 を 養 い , こ れ が 彼 らの 全 財 産 で あ っ た 。 大 い に 肉 類 , と く に 馬 肉 を 食 い ,馬 乳 を 飲 み ,しば しば こ の 馬 乳 で 酔 っ 払 っ た 」 [ジ ェ ン キ ン ソ ン 1983:
15−16]。
ジ ェ ン キ ン ソ ン が こ こ で 書 い て い る の は, 当 時 の ノ ガ イ ・オ ル ダ の 富 裕 な 有 力 者 の 生 活 と 考 え ら れ る。 こ こ で 興 味 深 い の は, 彼 らの 住 居 に つ い て 「小 型 の 荷 車 の 上 に天 幕 を 張 っ た よ う な 家 」 と 書 か れ て い る こ と で あ る 。 16世 紀 当 時 は , 18世 紀 以 降 の よ う に , ユ ル タ を 分 解 して ラ ク ダ に 積 ん で 移 動 す る よ う な 機 動 性 は な く,
チ ンギ ス ーハ ン 時 代 の モ ン ゴ ル と 同 じだ っ た の で あ る 。 遊 牧 民 は 移 動 に 機 動 性 を 持 た せ る こ と に よ っ て , そ の 行 動 範 囲 は 著 し く広 が っ た と 考 え られ る。
16世 紀 後 半 , カ ザ ン ・ハ ン国 と ア ス ト ラハ ン ・ハ ン 国 が ロ シ ア に 併 合 さ れ た 後 , ノ ガ イ ーオ ル ダ は 崩 壊 し,住 民 の 一 部 は や が て カ ザ フ族 の 小 ジ ュ ー ズ に 組 み 入 れ ら れ た 。 「ア ブ ル ハ イ ル ーハ ンの 創 始 し た 遊 牧 ウ ズ ベ ク の ハ ン 国 と ノ ガ イ ーウ ル ス の 住 民 の 部 族 構 成 は , 基 本 的 に は 同 じで あ っ た 。 そ の 中 に は , こ の 地 域 で 遊 牧 して い た チ ュ ル ク 語 の 諸 部 族 (キ プ チ ャ ク , カ ル ル ク, カ ング ル , ア ル ギ ン そ の 他 ) と , 古 来 の 現 地 住 民 に よ っ て 同 化 さ れ は した が , な お モ ン ゴ ル 的 名 称 を 残 して い る 諸 部 族 (マ ン ギ ー ト, ミ ング , メ ル キ ー ト, タ ン グ ー トそ の 他 ) が 統 一 さ れ て い た 」 [ToncToB l963:326]。
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民族 と して の カザ フ族 は, 以 上 あげ た よ うな遊 牧 的 部 族 国 家 の成 立 と崩 壊 の 過 程 に形 成 された の で あ る。
[カ ザ フ の 3 ジ ュ ー ズ ]
1350− 1360年 頃 か ら,ア クーオ ル ダ の 部 族 た ち は , そ れ ま で の 伝 統 的 自 称 で あ る
「キ プ チ ャ ク」の 代 わ り に, 文 献 上 で 「ウ ズ ベ ク 」 と よ ば れ る よ う に な っ た 。 ク メ コ フ は 書 い て い る。 「ア リス トフ H.A . APHCTOB, ヤ ク ボ フ ス キ ー A . K), SIKy−
60BcKH転 イ ワ ノ ブ rl. rI. 1・{BaHoB は
『ウ ズ ベ ク 』 y36eK と い う言 葉 が 金 帳 汗 国 の ハ ンで あ っ た ウ ズ ベ ク (1312−−1342)
の 名 に 由 来 す る と して い る 。 セ ミ ョノ ブ A .A . CeMeHOB は , 『ウ ズ ベ ク 』 と い う 言 葉 は 東 方 の 著 者 た ち に よ っ て , ウ ズ ベ クーハ ンの 領 民 で は な く, ア クーオ ル ダ の 部 族 に あ た え た もの で , し た が っ て ハ ン の 名 前 と は 関 係 の な い こ と を 論 証 した 」
[HycynbEKoB 1979:2541。ガ フ ー ロ フ B.r. raΦypoB と ア フ メ ドブ B. A. AxM−
eAOB も セ ミ ョ ノ フ 説 を 支 持 し て い る
[AxMEnoB 1965: 11−17; rAΦypoB l972:547−548]o
カ ザ フ草 原 に は , い つ の 頃 か , 3っ の 部 族 連 合 >Ky3 が 形 成 さ れ た 。 こ れ は カ ザ フ 語 で 大 ジ ュ ー ズ ¥nbl >KY3, 中 ジ ュ ー ズ O PTa》Ky3プ 小 ジ ュ ー ズ KHII.IH>Ky3
と よ ば れ た 。 ジ ュ ー ズ と は 部 分 , 側 を 表 す 言 葉 で , ロ シ ア 語 で は便 宜 的 に オ ル ダ Op八a と 訳 され て い る。 ジ ュ ー ズ は カ ザ フ 民 族 史 の 中 で 重 要 な 役 割 を 果 した が
(遺 制 的 に は 今 日 ま で 残 っ て い る ), こ の ジ ュ ー ズ を 統 合 す る も の と して , 言 わ ば ゆ る い 政 治 的 な 組 織 と して の 「カ ザ フ ・ ハ ン 国 」 が ,ま だ ア ブ ル ハ イ ル ーハ ンの 存 命 中 で あ った 15世 紀 後 半 , チ ュ ー 川 と タ
ラ ス 川 の 流 域 を 中 心 と して 形 成 さ れ た 。 そ れ を 支 配 し た の は ジ ュ チ 家 の 系 統 で あ る ギ レイ と ジ ャ ニ ベ ク の 2人 で あ っ た 。 カ ザ フ ・ハ ン 国 は ジ ャ ニ ベ ク の 子 カ シ ム の 時 代 に , ム ハ マ ッ ド ・ シ ャ イ バ ニ と の 間 に 長 期 に わ た っ て 争 い を つ づ け , カ ザ フ族 の 勢 力 を著 し く広 げ た 。 シ ャ イ バ ニ は 北 方 の シ ャ イ バ ン朝 の 出 身 で あ る が , チ ム ー ル 死 後 の チ ム ー ル 朝 か ら中 央 ア ジ ア を 奪 い , ブ ハ ラ を 中 心 に シ ャ イバ ン 朝 を 開 い た 人 物 で あ る。
1598年 , シ ャ イ バ ン朝 出 身 の ク チ ュ ム を ハ ン と す る シ ベ リ ァ ・ハ ン 国 が 滅 亡 し,
カ ザ フ ・ハ ン 国 と ロ シ ア と は 領 土 を 接 す る よ う に な っ て , ユ ー ラ シ ア草 原 に 新 し い 時 代 が 開 か れ た 。 しか しカ ザ フ ・ハ ン国 は 3つ の ジ ュ ー ズ を ま と め た 中 央 集 権 的 な 国 家 に な る こ と は で き ず , 18世 紀 初 頭 の タ ウ クの と き全 く分 裂 し, カ ザ フ
ス タ ン全 土 の ロ シ ア併 合 ま で ジ ュ ー ズ が 分 散 的 な 勢 力 を 保 ち つ づ け た の で あ る 。
(2) 16− 17世 紀 の カ ザ フ の社 会 構 成 カザ フ ・ハ ン国 の社 会 構 成 は,単 に そ の 時代 だ け に とど ま らず , その 後 ロ シァ 革 命 ま で の カ ザ フ社会 を理 解 す る うえ で きわ め て重 要 で あ る。
[ウ ル ス y」1yc と イ ル HAb]
ウ ル ス は 16世 紀 の カ ザ フ 遊 牧 民 の 政 治 組 織 の 基 本 的 形 態 で あ っ た 。 ウ ル ス に は,
モ ン ゴ ル 帝 国 の 枠 内 に お け る 支 配 王 朝 成 員 の 分 封 領 の 意 味 と, 「国 」と い う 意 味 が あ っ た 。 13− 14世 紀 の ダ シ ュ トーイ ・キ プ チ ャ ク に お け る ジ ュ チ 家 の 所 領 は 「ウ ル ス ・バ ト ゥ」, 「ウ ル ス ・ベ ル ケ 」, 「ウ ル ス ・ウ ズ ベ ク 」 と よ ば れ た 。 ア クーオ ル ダ も, 14世 紀 後 半 「ウ ル ス ・ ウ ル ス ーハ
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ン」 と よ ば れ た 。 モ ゴ リス タ ン も支 配 的 ハ ン の 名 前 を つ け て 「ウ ル ス ・ トグ ル ク ーチ ム ー ル ーハ ナ 」 ynyc−TorJlyK−THMyp
−xaHa と か 「ウ ル ス ーイ ・モ グ ー ル 」 Ynyc
−HMory馮 と よ ば れ た。 ア ブ ル ハ イ ル ーハ ン の 汗 国 は 「ウ ル ス ーイ ・ウ ズ ベ ク」 ynyc
−H y36eK,つ ま り 「ウ ズ ベ ク の ウ ル ス 」 と よ ば れ た。
ウ ル ス の ほ か , 古 い チ ュ ル ク の 概 念 で あ る イ ル Hnb,エ ル gnb も 広 く 用 い ら れ た 。こ れ は独 立 して 用 い ら れ る こ と も ,ウ ル ス と な らべ て 用 い られ る こ と も あ っ た。
例 え ば イ ル ーイ ・ウ ズ ベ ク lin−va y36eK,
イ ル ーイ ・モ グ ー ル Hn・−fl Moryπ, イ ル ・ ワ ・ウ ル ス ーイ ・モ グ ー ル Mnb Ba YJIYC−H Moryn で あ る。 「イ ル の 概 念 は , ウ ル ス
と 同 じ よ う に , 国 , 国 の 住 民 全 体 , と り わ け 遊 牧 民 族 の 主 要 な 部 分 で あ る 部 族 ま た は 部 族 グ ル ー プ を 表 現 す る の に 用 い られ た 」 [HycynEEKoB 1979: 188]。
「全 ウ ル ス の 人 々 を 表 現 す る の に チ ュ ル ク の 言 葉 ∂nb(unb, Hn)が 用 い られ た 。
… … ウ ル ス の 占 め る 地 域 は チ ュ ル ク 語 の イ ウ ル トMypT と よ ば れ た 」 [cynTAHOB 1982:78]。
ス ル タ ノ ブ は ウ ル ス の 人 口 に つ い て , 条 件 に よ っ て か な り 変 動 した と 考 え て い る 。 彼 は さ ま ざ ま な 文 献 を 整 理 して , 天 幕 数 (家 族 数 ) 1万 , 人 口 は 約 6万 人 で , こ れ が 小 ウ ル ス を 形 成 , こ の 程 度 の 小 ウ ル ス が 5〜 7個 集 ま っ て 大 ウ ル ス と な り,
人 口 は40万 あ ま り と推 定 して い る。 16世 紀 の カ ザ フ ・ハ ン 国 に は 約 20の 小 ウ ル ス , 約 3つ の 大 ウル ス が 含 ま れ て い た 。 16 世 紀 初 頭 , こ う し た 大 ウ ル ス は ジ ャ ニ ベ
クーハ ンの 息 子 た ち , つ ま り カ シ ム ース ル タ ン, ジ ャニ シース ル タ ン, タ ニ シ ュース ル タ ン らの ウ ル ス で あ っ た [CynTAHOB
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国立民族学博物館研 究報 告 8巻 3号 1982:81]σ
ス ル タ ノ ブ は 16世 紀 後 半 の カ ザ フ ・ハ ン 国 の 総 人 口 を 120万 と して い る。 ま た レ ワ シ ン A.JleBalllvaH は 19世 紀 初 頭 の カ ザ フ の 人 口 を 男 女 合 計 250− 300万 と 推 定 して い る [CynTAHoB l982:82]。
[ハ ン と ス ル タ ン]
ハ ン 国 の 首 長 は ハ ン (汗 ) で あ り , そ の 権 力 は世 襲 で , 支 配 系 統 の 年 長 者 に つ た え られ た 。 汗 国 の 最 高 権 力 は ハ ンの 手 中 に に ぎ ら れ た が , しか し重 要 な こ と は ハ ンの 親 戚 で あ る ス ル タ ン, 貴 族 , 聖 職 者 らの 合 議 に よ っ て 決 定 さ れ た 。 イ ブ ン
・ル ズ ビ ハ ン に よ れ ば , 「チ ンギ スーハ ン の 子 孫 は ス ル タ ン と よ ば れ , そ の 中 で 最 も 有 力 な 人 が ハ ン と な る 」 と の べ て い る
[CyaTAHoB l982:85]。 ま た ス ル タ ノ ブ は , ウ ル ス の ス ル タ ン の 数 は 18− 20人 を 下 る こ と は な い と 考 え て い る。 オ ス マ ンー トル コ で は 王 ま た は ハ ン の こ と を ス ル タ ン と称 した が , し か し王 だ け で な く,
オ ス マ ン朝 の す べ て の 王 子 , 王 女 を 意 味 した 。 中 央 ア ジ ア と カ ザ フ ス タ ン で は , 少 な く と も遊 牧 ウ ズ ベ ク の ハ ン 国 以 後 , ス ル タ ン は チ ン ギ ス ーハ ン を 先 祖 とす る 王 朝 の 各 成 員 の 称 号 で あ っ た 。 ス ル タ ン と 同 じ意 味 で オ グ ラ ン ornaH ま た は ト レ T6pe と い う言 葉 も用 い られ た 。 ハ ン位 に た い す る 独 占 的 権 利 は , チ ン
ギ ス ーハ ン の 子 孫 (ス ル タ ン)だ け が 持 っ て い た 。 チ ン ギ ス ーハ ン の 子 孫 は ,民 族 と 国 境 に 関 係 な く, な ん らか の 程 度 で モ ン ゴ ル 帝 国 の 伝 統 を 残 して い る と こ ろ で は , ハ ン位 を 要 求 す る こ と が で き た 。 カザ フ
・ハ ン 国 は こ の よ うな 遊 牧 国 家 で あ っ た 。 チ ン ギ ス ーハ ン の 子 孫 は 「自 い 骨 」aK cytieK と よ ば れ た 。 ユ720年 代 以 後 , カ ザ
加藤 カザ フ族 の遊牧生活
フ の 3 つ の ジ ュ ー ズ に お い て , そ れ ぞ れ の 首 長 と して ハ ンが 現 れ た 。 こ れ 以 後 , ジ ュ ー ズ は 独 立 し た ム ン 国 と な っ た
[CyJITAHoB, 1982:85]。
ス ル タ ン は , 軍 事 以 外 の 義 務 を 負 わ ず , ま た 体 刑 を ま ぬ が れ た 。 ま た ス ル タ ンの 裁 判 を と り し き る の は 年 長 の ス ル タ ン ま た は ハ ン だ け で あ っ た 。 19世 紀 初 頭 に お い て も, ふ つ う の 人 が ス ル タ ン に 出 会 っ た と き に は , 馬 か ら 降 りて , 片 膝 を つ い た 。 ス ル タ ン は こ れ に 答 え て , 自分 の 手 を 相 手 の 肩 の 上 に お い た 。 天 幕 内 で も 同 じで あ っ た 。 あ る 人 が ス ル タ ン の 称 号 を 詐 称 した 場 合 に は 15− 30回 鞭 で 打 た れ た
[CyハTAHoB I982:95]。
ス ル タ ン に は ふ つ う多 くの 妻 が あ り,
息 子 の 数 が 13− 15人 に 達 す る こ と は 珍 ら し くな か っ た 。 し た が っ て , 19世 紀 初 頭 の ス ル タ ンの 数 は 1000人 を は る か に 上 ま わ っ た と考 え られ る 。
[ピ ー BHH]
ピ ー は,チ ン ギ ス ーハ ン の 子 孫 に 属 しな い カ ザ フ の 氏 族 や 部 族 の 長 で あ る。 バ ル ト リ ドに よ れ ば , ピ ー は 「古 い 時 代 の べ ク 6eK が 後 代 に 形 を 変 え た も の で , 15 世 紀 以 前 に は 見 あ た らな い も の で あ る 」
[BAPTO,πb双 1964:36]。
断 片 的 に 伝 わ っ た カ ザ フ の 法 令 集
>KeTH >Kaprbl (7つ の 法 規 , タ ウ ケ ーハ ンの 法 令 集 )に よ れ ば ,ピ ー は そ の 支 配 下 の 氏 族 成 員 の 裁 判 権 を 持 っ て い た [Cyn−
TAHoB l982:98]。 ピ ー は ハ ンの 統 治 体 制 に お け る重 要 な 一 環 と し て , 少 な く
と も 4っ の 資 格 を 持 って い た 。 す な わ ち 軍 事 司 令 官 , 行 政 官 , 裁 判 官 , ス テ ップ の 貴 族 の 代 表 者 で あ る。
ピ ー は 19世 紀 末 ま で カ ザ フ ス タ ン に 残
っ て い た 。 1854年 以 後 , ピ ー の 称 号 は ス ル タ ン と 「ア ウル の 長 老 」 の う ち 6年 間 官 職 に あ った もの , ツ ァ ー リ政 府 の 任 命 した 職 務 を 遂 行 した も の に あ た え ら れ た 。
「ス テ ップ 地 域 の 統 治 に 関 す る 法 令 」
(1868年 10月 21日 公 布 )で は, ピ ー の 称 号 は 一 時 的 な も の と な り, 1891年 3月 25日 公 布 の 法 令 に よ っ て , カ ザ フ ス タ ンに お け る ピ ー の 称 号 は 全 面 的 に 廃 止 さ れ た
[CyATAHoB l982:100]Q
[ノsイ Ba尚]
こ れ は カ ザ フ 遊 牧 民 に お い て 最 も多 数 を 占 め る 支 配 的 階 層 で あ っ た 。 6ati と は チ ュ ル ク 語 で 「富 め る 」 の 意 で あ って , フ ァズ ラ ラ ー ・イ ブ ン ・ ラズ ビバ ン ●イ ス フ ァハ ニ に よ れ ば , キ プ チ ャ ク草 原 お よ び モ ゴ リ ス タ ン の 諸 部 族 に お い て 「富 め る人 , 多 数 の 家 畜 を 所 有 す る人 」 の 意 で あ っ た 。 こ の こ と か ら , バ イ は か な り 多 数 の , 社 会 的 に 一 様 で は な い グ ル ー プ で あ っ て , 共 通 点 は 多 数 の 家 畜 の 所 有 者 , つ ま り 富 者 で あ っ た と 考 え ら れ る [Hyc−
ynBEI〈oB 1979:218]。
研 究 者 に よ れ ば , カ ザ フ ス タ ン遊 牧 民 の 1家 族 (5人 )が 独 立 した 生 計 を 営 む た め に は ,ふ つ う15− 20頭 の 馬 , 50− 100頭 の 羊 と 山 羊 , 少 な く と も6頭 の 牛 と 2頭 の ラ ク ダ が 必 要 で あ る [TonCTOB 1963:
330]。 し か し カ ザ フ の 大 部 分 の 牧 民 の 所 有 家 畜 は この 数 に達 しな か っ た 。 ス ル タ ノ フ は , 19世 紀 , 中 ジ ュ ー ズ の 遊 牧 民 の 60% は 独 立 で き な か っ た と の デ ー タ を 引 用 して い る [CyJsTAHoB l982:101]。
ス ル タ ノ ブ は 同 じ と こ ろ で , レ フ シ ン A . JleBIIIHH の 調 査 に 基 づ き, バ イ の 所 有 す
る 家 畜 数 を あ げ て い る。 す な わ ち , 羊 約 2万 頭 , ラ ク ダ 40Q−−500頭 , 馬 8QQOな い
659
し10,000頭 に 達 し た と の こ と で あ る q バ イ の 称 号 に は 経 済 的 な 意 義 と政 治 的 な 意 義 の 二 つ が 含 ま れ て い た 。 バ イ は , 経 済 的 に み れ ば 富 裕 で あ り , 富 裕 で あ る こ と に よ って 一 定 の 政 治 的 意 義 を 獲 得 し た の で あ る。
さ き に あ げ た ♪KeTH》Kaprblに よ れ ば , バ イ は , 彼 が ス ル タ ン ま た は ピ ー で な い 場 合 に は ,毎 年 自 分 の 財 産 の 20分 の 1を ハ ン に 納 入 した [CynTAHoB l982:102]。
カ ザ フ に あ っ て は , ま た 夫 婦 1組 の う ち, 夫 の こ と を バ イ , 妻 の こ と を ハ テ ィ ン xaTblH ま た は ハ トゥ ン xaTyH と よ ん だ 。 古 代 チ ュ ル ク 語 で バ イ は 「富 め る人 」
「旦 那 」 を 現 し, ハ ト ゥ ン は 「女 主 人 」 を 意 味 した [TonblBEKoB 1971:507]。
トル ス トフ は 12世 紀 の ホ レ ズ ム に つ い て 書 い て い る 。 「ホ レズ ム の 支 配 者 が 古 代 ホ レズ ム の 称 号 『ホ レズ ム シ ャ ー 』 と ア
ラ ブ の 称 号 『ス ル タ ン」 を 名 の っ た と き , ホ レズ ム シ ャ ー の 第 一 夫 人 は 古 代 チ ュ ル
クの 称 号 ハ ト ゥ ン を 名 の っ た 。 こ う して ホ レズ ム の 王 妃 は , 王 国 内 に入 っ た チ ュ ル ク諸 族 に 関 し て , 王 国 の 最 高 主 権 を 持 つ 女 性 で あ る こ と を 示 した の で あ る」
[ToncToB l948:286]。
バ イ は 時 代 が 下 る に つ れ て カ ザ フ の 一 般 民 衆 の 生 活 に 入 り, 夫 は 一 家 の 長 , さ
らに は そ の 主 要 な 富 で あ る家 畜 の 所 有 者 と して , この 称 号 を 用 い る よ う に な っ た 。 同 時 に ハ ト ゥ ン は 「家 事 を 切 り も りす る 人 」 の 意 味 で , 妻 の 称 号 と な っ た 。 こ う した 用 法 は カ ザ フ だ け で な く, ウ イ グ ル , ウ ズ ベ ク, キ ル ギ ス , トル ク メ ン, タ タ ー ル な ど多 くの 民 族 で も み られ る。
[バ テ ィ ル BaTblp]
ユ6−一一17世 紀 の カ ザ フ 社 会 の 特 権 的 グ ル
66 0
国立民族学博物館研究報告 8巻 3号 一 プ に 属 す る も の と して バ テ ィ ル が あ っ た 。 チ ュ ル ク ・ モ ン ゴ ル 語 の バ テ ィ ル BaTblp,バ ハ ド ウ ル Baxa双yp,バ ガ ト ウ ル BaraTyp は 15世 紀 以 後 ロ シ ア 語 に 入 り ,バ ガ テ ィ リ BoraTblPb と な っ た 。 こ れ は 当 初 , 戦 い の と き敵 に 一 騎 打 ち を よ び か け る勇 敢 な 男 の 意 で あ っ た [CynTA−
HOB I982:102]。
チ ンギ ス ーハ ン の 時 代 以 後 ,バ テ ィ ル は 封 建 化 し た 軍 事 的 ・遊 牧 的 貴 族 の 代 表 者 に , 称 号 の 1っ と して あ た え られ た 。 バ テ ィ ル は しか し, 勇 敢 な 人 物 の 称 号 で あ る に と ど ま らず , 職 業 的 軍 人 の 系 列 に入 る 人 物 の う ち , と く に 戦 功 の あ っ た も の , ハ ン ま た は 有 力 な ス ル タ ン に 近 い も の に あ た え ら れ た 。
バ テ ィ ル は ま た 軍 事 的 司 令 官 の 意 味 で も あ っ た 。 「し ば しば バ テ ィ ル は ピ ー と ハ ン を 兼 ね た 。 遊 牧 社 会 の そ れ ぞ れ の ハ ン は 主 要 な 軍 司 令 官 と して , 戦 時 に お け る民 衆 の 運 命 を 決 定 した 」 [TonblBEKOB l971:255]。 カ ザ フ の ハ ン, カ シ ム , ウ ズ ベ クの ハ ン, シ ェ イ バ ニ , モ ゴ リス タ ン の ハ ン,ス ル タ ンーサ イ ドは み な バ テ ィ ル で あ っ た 。ア ブ ラ ィーハ ン もバ テ ィ ル で あ っ た 。 18世 紀 に な る とバ テ ィ ル の 役 割 は さ ら に 高 ま っ た 。 そ れ は つ ぎ の よ う な こ と わ ざ に 現 れ て い る。 「主 人 が あ た え れ ば , バ テ ィ ル は 受 取 る, あ た え な け れ ば 自分 で 取 る」, 「バ テ ィ ル と オ オ カ ミ は 路 上 で 食 物 を 獲 得 す る」, 「強 い ア ウ ル の 若 者 は 互 い に バ テ ィ ル と 呼 び , 弱 い ア ウ ル の 若 者 は 互 い に 女 と 言 う」。 カ ザ フ の バ テ ィ ル 制 は, カ ザ フ の ジ ュ ー ズ が ロ シ ア に 併 合 さ れ た 時 期 (18世 紀 後 半 ), カ ザ フ遊 牧 社 会 で 最 も強 い 影 響 力 を も っ て い た [TonblBEKoB 1971:257]◎
加藤 カザ フ族 の遊牧生活
[ア ク サ カ ル AKcaKanbl]
文 字 通 り に は 白 い ひ げ を 意 味 す る チ ュ ル ク 語 。 バ ル ト リ ドに よ れ ば , ア ク サ カ ル は 「事 実 上 一 定 の 法 律 上 の 権 限 な し に , 自 分 の 年 齢 , 富 , 以 前 の 功 労 に よ っ て 尊 敬 を 得 て い る 人 」 で あ る 。 ・
[シ ヤ ル ア Hlapya]
一 般 の 遊 牧 民 の こ と で あ る。 ほ か に カ ラ チ ュ ー Kapagy と い う用 語 も あ っ た 。 カ ザ フ の 遊 牧 国 家 の 特 徴 は , 自 由 な 遊 牧 民 の 人 格 と財 産 の 保 護 は , 国 家 機 関 に よ っ て で は な く, 全 面 的 に 氏 族 の 団 結 に よ って 確 保 さ れ た こ と で あ る 。 ピ ー に よ っ て 代 表 さ れ る 国 家 は , 例 え ば 殺 さ れ た 人 の 親 族 に た い す る報 復 の 権 利 , 掠 奪 さ れ た 者 に た い す る 報 復 の 掠 奪 (BapaHTa)
の 権 利 を あ た え る だ け で あ っ た 。 し た が っ て 人 々 は , 自 分 の 属 す る 氏 族 か ら 離 れ る こ と は , 全 く無 防 備 の 状 態 と な り , ほ と ん ど 死 を 意 味 した 。 一 般 遊 牧 民 の 最 大 の 義 務 は 戦 士 に な る こ と と, 現 物 の 形 で 税 を 納 め る こ とで あ っ た 。 ハ ン 国 内 の 農 耕 民 も税 を 徴 収 さ れ た 。
[クル KyJI]
奴隷 の こ とで ,ロ シア語 で ラブ イPa6bi で あ る。 クル は証 人 にな る こ とがで きず , ま た どん な 場合 で も主 人 の 扱 い にた い し て訴 え る こ と はで きな か った 。 クル は 自 らの犯 罪 にた い して責 任 がな く,責 任 は そ の主 人 が負 った。 そ して クル にた い す る生 殺 与 奪 の権利 はす べて 主 人 にあ る と され た。
クル の供 給 源 は捕虜 , 奴 隷 売 買 , 負 債 で あ った。 この うち捕虜 が最 も多 か った。
遊 牧 民 は隣 接 す る農 耕 民 を 襲 い, 手 工 業 品 や食 糧 だ け で な く, 捕虜 を つ れ去 った 。
そ して 男 は 奴 隷 市 場 に 出 され , 女 は 妾 や 埠 と な った 。
つ ぎ に 多 い の は , 親 に よ っ て 売 られ る 子 ど も で あ っ た 。 ジ ェ ン キ ン ソ ン は そ の 旅 行 記 の 中 で 書 い て い る。 「余 が 同 地 に い た 頃 は , 器 量 よ しの タ タ ー ル 人 の 子 供 ら を そ の 生 み の 父 親 ・母 親 か ら, 望 む な ら ば 1000人 で も買 い 受 け る こ と が で き た ろ う。 つ ま り男 の 子 で も 女 の 子 で も, イ ギ リス な らば 6 ペ ン ス く らい の 値 打 の パ ン の 一 塊 で 買 え た の だ 」 [ジ ェ ン キ ン ソ ン 1983:20]。 こ う した こ と は 19世 紀 中 頃 ま で 旱 ば つ や 飢 餓 の と き に行 な わ れ た 。 「15− 18世 紀 の カ ザ フ の 軍 事 ・遊 牧 的 , 家 父 長 制 ・封 建 的 生 活 の 特 徴 の 1 つ は ,
家 父 長 的 奴 隷 使 用 Pa6CTBO と奴 隷 売 買 Pa60ToprOBn の 存 在 で あ っ た 。 こ れ は 家 父 長 制 的 ・封 建 的 遊 牧 社 会 の 社 会 ・経 済 の 本 質 そ の もの に 起 源 して い た 」 [Ton−
blBEKOB l 971:283]。
カ ザ フ ス タ ン に お け る奴 隷 使 用 は , 公 式 に は !822年 帝 政 ロ シ ァ の 勅 令 に よ っ て 部 分 的 に 禁 止 さ れ た 。 最 終 的 に 徹 廃 さ れ た の は 1875年 の こ と で あ る [CYJITAHOB 1982:110]。
2. カザ 7族 の物 質 的 生 産 の基 礎 カ ザ フ族 は 過 去 にお い て, 「中央 ア ジ
ア諸 民族 の うちス テ ップ型 の遊 牧 経 済 お よ び遊 牧 文 化 の諸 特 徴 を最 も顕著 に 身 に つ け て い た」 [ToKAPEB 1958:372]。
[ア ウ ル ユ
カ ザ フ 族 の 遊 牧 生 活 は , 2− 7戸 か らな る ア ウ ル (ayn 中 国 語 で は 阿 島 ホ と表 記 ) を 単 位 に して 行 な わ れ た 。 東 トル キ ス タ ン の カ ザ フ 族 に つ い て み れ ば ,「 阿 鳥 ホ
661
大 小 不 等 , 有 的 三 , 五 家 , 有 的 十 来 家 , 有 的 更 多 一 些 」で あ った [国 家 民 委 民 族 問 題 五 紳 双 書 編 輯 委 員 会 「中 国 少 数 民 族 』 編 写 組 1981:200]。 半 遊 牧 お よ び 定 住 の ア ウ ル は 一 般 に 大 き く, 10− 20戸 か ら な り た っ て い た [TonblBEKOB 1971:
501]。 ア ウ ル は か つ て 純 粋 に 血 縁 集 団 と 考 え られ て い た が , し か し必 ず し も そ う で は な く, 血 縁 以 外 の 要 素 も か な り入 っ て い た 。 中 国 資 料 に も , ア ウ ル は 「大 都 是 同 祖 同 父 的 后 商 , 但 有 吋 也 有 少 数 非 血 縁 美 系 的 成 員 , 則 多 半 是 外 部 落 因 貧 困 而 来 依 附 的 牧 民 … … 」 と 書 か れ て い る [国 家 民 委 民 族 問 題 五 紳 双 書 編 輯 委 員 会 『中
国 少 数 民 族 』 編 写 組 1981:200]。
ア ウ ル に はバ イ に よ っ て 経 営 さ れ る 家 畜 数 の 多 い も の と, 家 畜 数 の 少 な い , 貧 し い 牧 夫 か ら な る も の が あ っ た 。 バ イ の ア ウ ル (ふ つ う そ の バ イ の 名 前 で よ ば れ た ) に は , バ イ に 経 済 的 に依 存 して い る 貧 し い 牧 民 の 家 族 が 含 ま れ て い た が , こ れ は カ ザ フ 語 で ハ ラ シ xapamH ま た は コ ン ス ィ KOHCbl と よ ば れ た 。 そ し て ア ゥ ル の 中 央 に ア ウ ル の 首 長 の 大 き な 白 い ユ ル タ , そ の ま わ り に 黒 く よ ご れ た ハ ラ シ の ユ ル タ が 建 て られ た 。
バ イ の 大 型 ア ウ ル の 場 合 は ヒ ツ ジ 2000 頭 , ラ ク ダ 150− 200頭 , 馬 も 同 数 か そ れ 以 上 で あ っ た 。 家 畜 の 頭 数 は ふ つ う, 仔 の 育 った 秋 に数 え られ た 。 こ れ だ け の 規 模 の 家 畜 を 飼 う に は ヒ ツ ジ の 牧 夫 3−−4人 , ラ クダ の 牧 夫 2人 , 馬 の 牧 夫 2− 3人 , 全 部 で 9− 10人 を 必 要 と した 。 家 畜 の 放 牧 だ け で な く, 新 し い 井 戸 の 掘 さ く, 古 い 井 戸 の 清 掃 , 水 飼 の た め に 人 手 を 必 要 と した 。 寒 くな っ て 雪 が 降 る と, 家 畜 が 夜 間 休 あ る よ う に 除 雪 す る 必 要 が あ った 。 こ う した 労 働 力 を 全 部 加 え る と , 上 記 の
6 62
国立民 族学博物館研究報告 8巻 3号
規 模 の ア ウ ル で 約 20人 の 人 手 を 必 要 と し た 。 こ の 半 分 は や と い 入 れ た 牧 夫 で あ り , 残 り の 半 分 は バ イ の 貧 しい 親 族 で あ っ た
[ToJI blBEKoB 1971:527]。
や と わ れ 牧 夫 の 少 な く と も半 分 は , 一 家 の 長 と し て 独 立 した ユ ル タ を 持 っ て い た 。 こ れ に バ イ の 所 有 す る 2− 3張 の ユ ル タ , さ ら に は バ イ の 貧 しい 親 族 の ユ ル タ 数 戸 を 加 え て , 全 部 で 12− 15戸 の ユ ル タ か らな る ア ウ ル を 形 成 した 。
バ イ の 貧 しい 親 族 た ち は , 一 般 に , バ イ と 同 じ ア ウ ル を つ く っ て 遊 牧 す る の は , 同 一 祖 先 の 子 孫 と して の 血 縁 関 係 に よ る も の で あ り , バ イ と 自 分 た ち と の 相 違 は 家 畜 数 だ け で あ って , そ の 他 は 同 権 で あ る と考 え た 。 彼 ら は 相 互 に , 年 齢 差 に よ って 父 , 母 , 兄 弟 , 姉 妹 , 嫁 な ど と呼 び あ った 。 ま た , 同 じ ア ウ ル の 子 ど もや 女 性 た ち は , 各 家 族 の 貧 富 を 問 わ ず , 年 長 者 に ま ず 挨 拶 し, 彼 ら を 名 前 で 呼 ぶ こ と
を しな か っ た 。 若 い 女 性 は年 配 の 男 性 の 道 を 横 切 っ て は な らず , ユ ル タ 内 で は つ ね に 上 座 を ゆ ず り, 隣 に 座 っ て い る年 長 者 の 許 しな しで 食 べ た り飲 ん だ り して は な ら な か っ た 。 食 事 の と き 成 人 男 子 が ユ ル タ 内 に 入 っ て くる と , 必 ず 座 らせ て ご 馳 走 した 。 な に か の 不 幸 が あ れ ば , 必 ず 互 い に 援 助 す る こ と に な っ て い た 。 遊 牧 生 活 で は, 例 え ば 役 畜 と して 必 要 最 少 限 の ラ ク ダ が わ ず か 1頭 不 足 して も,
そ の 家 族 に と っ て は 死 活 の 問 題 で あ っ た 。 ユ ル タ の 部 品 や 生 活 用 具 が 運 搬 で き な け れ ば , 水 もな い 砂 漠 あ る い は荒 れ た 草 原 で 立 往 生 しな け れ ば な ら な い。 そ こ で バ イ の 貧 し い 親 族 た ち は , 自 分 た ち の 労 働 力 を 提 供 す る こ と に よ っ て , バ イ の ラ ク ダ を 貸 して も ら う こ と に な る。 した が っ て , 遠 距 離 に わ た って 季 節 的 遊 牧 が で き
加藤 カザ フ族の遊牧生活
るの は家 畜 と人 手 の多 いバ イの ア ウル に か ぎ られ た 。
遊 牧 生 活 で は, 数 カ月 間 同 じ場所 に滞 在 す る冬 と夏 を の ぞ くと, ほ とん ど毎 日 移 動 した。 その 都 度 ユ ル タの 分 解 と組 立 を く り返 し, ラクダ に そ れを 積 ん だ り降 ろ した り しな けれ ば な らな か った。 井戸 の水 で家 畜 を水 飼 す る こと も重 労 働 で あ った。 井戸 の場 合 , 長 さ 1.5m ほ どの木
ふね
槽 が 用 い られ た が , 200頭 の ヒ ツ ジ に水 を 飲 ま せ る に は 少 な く と も 2− 3個 が 必 要 で あ っ た 。 2人 の 男 が 井 戸 か ら水 を 汲 み つ づ け る と き, 1っ の 槽 で 同 時 に30−− 40頭 の ヒ ッ ジ , あ る い は ラ ク ダ 10頭 を 水 飼 す る こ と が で き た [ToAblBEKoB 1971:
522]。
か つ て カ ザ フ族 の 牧 草 地 は 季 節 に よ っ て 分 け ら れ た 。 冬 季 の 牧 草 地 は ク ス タ ウ KblCTay,春 季 の そ れ は コ ク テ ウ KOKTey,
秋 季 は ク.ゼ ウ Ky3ey,夏 季 は ジ ャ イ リ ャ ゥ 》Kathnfiy と よ ば れ た 。定 住 お よ び 半 遊 牧 の カ ザ フ族 も そ れ ぞ れ 季 節 的 に 異 な る 牧 草 地 を も っ て い た 。
冬 の 牧 地 は原 則 と して , ア シ の 生 え た 湖 岸 , 河 川 の 岸 辺 , 渓 流 の ほ と り, 丘 陵 の 南 斜 面 , 起 伏 の 大 き い 砂 漠 の 中 の 平 地 が 選 ば れ た 。 春 の 牧 草 地 は , 冬 の 牧 草 地 か ら あ ま り 遠 くな い 場 所 で , 早 春 に 比 較 的 早 く雪 の 解 け る 場 所 が 選 ば れ た 。 秋 の 牧 草 地 は 多 くの 場 合 , 春 の 牧 草 地 と 同 じ か , あ る い は 冬 の 牧 草 地 に 接 して い た 。 最 も重 要 な こ と は 夏 の 牧 地 の 選 択 で あ っ た 。 そ の 条 件 は 牧 草 が 多 く, わ り あ い 涼 し く ,水 場 が 近 く,しか も蚊 や ブ ヨの い な い こ と で あ っ た 。 こ う し た 条 件 を 満 た す 場 所 は カ ザ フ 草 原 の 北 部 と 山 地 で あ っ た 。 砂 漠 お よ び 半 砂 漠 の 貧 し い カ ザ フ 牧 民 た ち は 好 条 件 の 夏 の 牧 地 を 利 用 す る こ
と が で きず , 冬 の 牧 地 に そ の ま ま 留 ま っ た 。 19世 紀 末 , マ ン ギ シ ュ ラ ク半 島 と ウ ス トユ ル ト地 方 で は , 牧 民 の 約 半 数 が 冬 季 の 牧 草 地 に 留 ま っ て い た 。 夏 の 牧 地 を 確 実 に利 用 で き る の は 富 裕 な バ イ た ち だ け で あ っ た [双Axm JIE伽 EP l980:67]。
夏 の 牧 地 で あ る 半 砂 漠 や 砂 漠 で は , 家 畜 の水 飼 の た め に 井 戸 が 利 角 さ れ た 。 井 戸 の 深 さ は 10−100 m で あ っ た 。 「牧 地 の 井 戸 は ア ウ ル , 個 々 の 氏 族 , あ る い は そ れ を 掘 っ た 家 族 の 所 有 で あ り , 遊 牧 の ル ー ト上 に あ る 井 戸 は公 有 で あ っ て , 早 い 者 順 に 利 用 す る こ と が で き た 。 … … 1873年 当 時 の デ ー タ に よ れ ば , マ ン ギ ン
シ ュ ラ ク半 島 地 域 で 井 戸 の 総 数 1133, う ち 698が バ イ の 所 有 ,107が 一一re牧 民 ,282 が 個 々 の 氏 族 グ ル ー プ , 46が 公 有 で あ っ た 」 [πAX【1M E貢rEP 1980:70]。
以 下 , カ ザ フ ス タ ン西 部 の 主 と して カ ザ リ ン ス キ ー , ペ ロ フ ス キ ー , イ ル ギ ズ ス キ ー 郡 の 遊 牧 民 (ケ テ , シ ョメ ケ イ , ト ゥ ル トカ ル の 3部 族 ) に つ い て , 四 季 の 遊 牧 生 活 を 概 観 して み よ う。
[冬 営 地 に お け る 生 活 ]
カ ザ フ ス タ ン西 部 で は か つ て , キ ジ ル ク ム砂 漠 が 最 高 の 冬 季 牧 地 で あ る と 考 え ら れ た 。 この 砂 漠 は80− 90% 植 物 に お お わ れ て お り, ま た 小 高 い 丘 陵 が な ん 列 に も わ た っ て 走 って い て , そ の 間 の 低 地 で は 吹 雪 が 少 な か っ た 。
冬 季 に キ ジ ル ク ム 砂 漠 を 利 用 す る 遊 牧 民 (カ ザ リ ン ス キ ー 県 と ペ ロ フ ス キ ー 県 の 遊 牧 民 ) に は , 冬 営 地 も 固 定 的 な 建 物 も な か っ た 。 ま た 草 刈 り も 農 耕 も しな か っ た 。 彼 ら は典 型 的 な 遊 牧 民 で あ っ た 。 キ ジ ル ク ム は , 夏 季 の 砂 の 温 度 は 70−
80℃ に 達 し, 地 下 水 位 は 70−80 m , し
6 63
国立民族学博物館研究報 告 8巻 3号
1)浅 い井 戸 2) つ るべ の あ る井 戸 3),4) 深 い井 戸 5)石 で 囲 った 深い 井 戸 (マ ンギ シュ ラク)
図 1 カ ザ フスタ ンの井 戸 の タ イ プ (八AxmnEthrEP によ る)
か も塩 分 が 多 か っ た 。 ま た 春 に は 動 物 の 体 に 食 い つ くダ ニ が 現 れ た 。 夏 は 乾 燥 し て 草 が 枯 れ , ヤ ギ や ヒ ツ ジ は ほ と ん ど ふ と ら な か っ た 。
そ の 代 わ り 冬 の キ ジ ル ク ム は 雪 も少 な く, 寒 さ も お だ や か で , し か も春 , 夏 , 秋 の 間 遊 牧 民 の 家 畜 が 入 っ て い な い の で , 牧 地 と して 好 ま れ た 。 彼 ら は この 砂 漠 に 冬 の 間 最 高 2〜 2.5カ 月 放 牧 し た 。 3月 の 初 め , 北 方 へ の 移 動 準 備 を は じ め た 。 つ ま り 地 面 に 雪 の 残 っ て い る 間 は , 砂 漠 に 止 ま る こ と が で き た の で あ る。
当 時 も キ ジ ル ク ム に 井 戸 が あ っ た が ,
全 体 と して は少 な か った。 砂漠 土 に井 戸 を掘 る こ と は ほ とん ど命 が けの仕 事 で あ った。 井 戸 掘 りの専 門職 人 は井戸 1つ に つ い て300−400頭 の ヒツ ジを 要求 した。
キ ジル ク ムの 遊牧 民 た ち は カ ラ クル ・ ヒッ ジ, ひ と こぶ ラ クダ, 少 数 の ヤ ギ を 飼 育 した。 この ほか乗 用 と して 数 頭 の馬 を所 有 した。 彼 らは ヒ ワと ブハ ラ に家 畜 や 畜 産物 を売 り に出 し, また 貧 しい人 々 はサ クサ ウ ルで つ くった木 炭 を焼 いて都 市 へ売 却 した。
牧 地 の利 用 につ いて はなん の制 限 もな か った。 た だ井 戸 を掘 った人 は その 持 主