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前稿(二宮,2012)で述べたように,江戸期,灘をはじめとする下り酒は,

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(1)

は じ め に

前稿(二宮,2012)で述べたように,江戸期,灘をはじめとする下り酒は,

新川の下り酒問屋仲間によって,市中の販売権が独占されていた。明治維新 後,株仲間は解散したが,旧下り酒問屋仲間は東京酒問屋組合(以下,「下 り酒問屋」と表記)を組織し,1次問屋として独占的地位を1880年代まで堅 持した。しかし,東京酒問屋組合の明治期の輸入高は,1888(明治21)年度 の446, 000駄をピークに,1910(明治43)年度には225, 000駄へと半減した。

1911(明治44)年度には,東京市場での灘酒販売における,下り酒問屋の取 扱いは「全体の約7割位」(原嶋,1911)になり,大正期には減少の一途を 辿った。

下り酒問屋の灘酒取扱高減少の背景には,灘酒造家の販売戦略の変更と,

東京酒問屋組合に所属しない「アウトサイダー」の登場があった

1)

。灘酒造 家は,従来の問屋任せの販売戦略を変更し,直営店を設置し,仲買や小売店

明治期から大正期における灘酒造業

―― 問屋依存型販売からの脱却と新興商人の酒類流通への参入 ――

二 宮 麻 里

はじめに

1 明治期の灘酒造家の販売戦略の転換(1868年‐1911年)

2 大正期における灘酒造家の直営店の設立と下り酒問屋の衰退(1911年‐1923年)

3 新興商人の登場 ― 酒類流通への新規参入 おわりに

−307−

( 1 )

(2)

に直接販売することになった。直接販売に乗り出すことは,商品販売に必要 な膨大な資本と販売リスクを負担しなければならないことを意味する。しか し,灘酒造家はいかに販売に資本が必要であっても,問屋依存型販売から脱 却しなければならなかった。本稿では,こうした灘酒造家の販売戦略転換の 契機と経緯について論じることとする。

他方,明治維新以降,ビールや「甘味葡萄酒」のような洋酒や洋風調味料 など,新商品を積極的に取扱って成長する「アウトサイダー」の新興商人が 登場した。新興商人は,伝統商品の販路網を再編し,新商品を流通させ,市 場を開拓した。さらに,瓶詰清酒の販売を手掛け,清酒流通に参入を果たし た。本稿では,こうした新興商人の事例として,明治屋と国分をとりあげる。

すでに明治屋とキリンビールとの取引関係については,風呂(1984),西 村(2009)の先行研究があり,それらは明治屋とキリンビールとの一手販売 権解消について考察したものであった。またビールにとどまらず,醤油,清 酒や味の素といった調味料といった,より広い商品カテゴリーにおける戦前 から戦間期の流通チャネル分析については,池田敦の一連の先行研究がある

(池田,1996 a;1996 b;1998;1999)。その問題意識は,メーカー主導型流通 チャネル編成への移行にあった。いずれの研究も,関心はメーカーのマーケ ティング活動がいかに日本における流通システムを発生・成立させたのか,

という点にあった。

本稿では,ビールと瓶詰清酒を取り扱った新興商人の主体的な販路開拓と 生産者との取引関係に焦点をあてて論じていく。従来,清酒は,清酒のみを 生産する酒造家と,清酒のみを販売する商業者により一つの「産業」が形成 されていた。しかし,生産者の直営店設立における販売活動と商業者の活動 によって,新たな市場が形成され,流通段階においては「産業」の垣根が越

1)

酒類流通業者の業界団体としては,東京において同業組合準則による東京酒問 屋組合と酒類問屋組合の

2

組合があったが,この両問屋組合は重要物産同業組合 法による組合とはならなかった。そのため,新規参入の業者が出現しても,法規 上の対抗手段を持たなかった(藤田,

1995

115

117

頁)。

−308−

( 2 )

(3)

えられていった。以下,1と2では,明治期における灘酒造家の販売戦略の 変化と東京下り酒問屋の衰退,3では酒類流通への新規参入者について,述 べていくことにしよう。

1 明治期の灘酒造家の販売戦略の転換(1868年‐1911年)

1−1 灘酒造家の酒質向上への取組と会社組織化

江戸期,50万石を超えていた灘酒造業の造石高は,明治維新後,1869(明 治2)年に13万石まで急減していたが,1892(明治25)年には,30万石台を 維持するまでとなった。1905(明治38)年の日露戦争後,灘酒造業造石高は 40万石に回復し,1911(明治44)年度には,48万1, 527石まで伸長した。し

かし,灘酒造業を構成する個別酒造家の顔ぶれは変化した。

1892年度から1911年度の間に,灘酒造家の造石高ランキングは一変した。

1892年度において造石高1万石を超えていた酒造家は4軒で,辰馬吉左衛門

(造石高は23, 510石,代表銘柄は白鹿,以下,辰馬本家),若井源左衛門(1 万4, 694石,代表銘柄は牡丹正宗,以下,若井本家),日本摂酒株式会社(1

えびす あずま

万3, 783石,代表銘柄は戎面),辰馬半右衛門(1万2, 658石,代表銘柄は東 自慢)であった。1911年度において造石高が1万石を超える酒造家は,12店

じ まん

に増加した(図表1)。先の4店以外の残り8店はいずれも,1892年度から 1911年度に急成長を遂げた酒造家であり,4位には伏見の月桂冠が食い込ん だ。1892(明治25)年度の造石高と比較すると,その成長がいかに著しいも のであったかが分かる。

この時期,成長を遂げた灘酒造家は,造石高の増加と並行し,生産性と酒 質の向上のために次々と先進的な取り組みをおこなった。例えば,1886(明 治19)年,蒸気機関を用いて精米する酒造家が登場した。水車場に設置され た臼数は100から150個であったが,蒸気機関を用いた精米所では概ね臼設置 数は500個以上と大幅に増加し,精米時間も短縮され,精白率を高めること 明治期から大正期における灘酒造業(二宮) −309−

( 3 )

(4)

も可能となり(神戸税務監督局,1907,199‐200頁),灘ではすぐに蒸気機関 による精米が一般的になった

2)

。また,1891(明治24)年頃には酒造米を精 選し,おおむね摂津国三島郡・武庫郡および播磨国明石郡・加東郡・加西 郡・美嚢郡・加古郡産米を使用するようになった。灘酒造家は,原料の調達

み のう

を自らおこない,産地の仲次に買付を任せる場合も,納品検査に立ち会った。

2)

明治初めは,!米の精米率

80

70%,掛米は85.5

75.5%,1881(明治14)年ご

ろには,!米

70

%,掛米は

75

% にまで進んでいた。ただし,その時期以降,精米 率自体は,上昇の一途を示したわけではなかった。

図表1 1911(明治44)年度と1892(明治25)年度における主要酒造家の造石高 造石高

順位 代表銘柄(酒造家名) 1911年度 造石高

1892年度 造石高

1892‐1911年の 増加率(%)

1 白鹿(辰馬吉左衛門) 25, 802 23, 510 10 2 日本盛(西宮酒造株式会社) 24, 272 5, 790 319 3 桜正宗(山邑太左衛門) 19, 797 707 2, 700 4 月桂冠(大倉恒吉) 16, 903 550 2, 973 5 菊正宗(合名会社本嘉納商店) 16, 514 3, 069 438 6 沢之鶴(石崎合資会社) 16, 389 9, 054 81 7 戎面(日本摂酒) 14, 321 13, 783 4 8 牡丹正宗(若井源左衛門) 15, 155 14, 694 3 9 東自慢(辰馬半右衛門) 15, 011 12, 658 19 10 忠勇(若林合名会社)※注 14, 379 ― ― 11 白鶴(嘉納合名会社) 11, 450 1, 043 998 12 富久娘(花木甚右衛門) 11, 255 5, 509 104

― 大関(長部文治郎) 8, 395 5, 712 47

― 白鷹(辰馬悦蔵) 5, 882 4, 177 41 灘五郷合計酒造石高 481, 527 328, 451 47

灘五郷蔵数 427 295

出所:"木藤夫他編(1991),13頁;上村(1998),54頁;月桂冠編(1999),135頁より 作成。1911年度造石高の原資料は,『醸造協会雑誌』第7年第9号,1912年。

注:若林合名会社は,1896(明治29)年,若林家を合同して設立された。

−310−

( 4 )

(5)

当時は摂津三島郡福井村(現,大阪府茨木市)の米が最適とされ,「有名な る酒造家」はこれを!米にしたが,数量に限りがあるため,「農家と多年其

もと

買入に就て特約をなせるものもあり又青田の時に契約をなす」など,より良 質の原料米を調達するために奔走した(神戸税務監督局,1907,198‐199頁)。

良質の酒造米を安定的に調達するため,菊正宗と泉正宗(泉仙介)は,1891

(明治24)年,美嚢郡の村落全体(現,兵庫県三木市)と契約栽培をおこな う村米制度に着手し(嘉納本家酒造,ホームページ),他の灘の醸造家も同

むらまい

様の動きをとった。原料米の代金は,生産開始前に前払いしなければならず,

良質の酒造米確保のためには資金力が必要であった

3)

また,戦前期の酒造業では,機械化されていない製造工程が多く,生産規 模の拡大は,蔵の借用,買収及び醸造場の増築によっておこなわれ,生産規 模拡大のたびに資金調達が必要であった

4)

。酒質を向上させ,生産規模を拡 大するには,相当額の資金調達を頻繁におこなわねばならず,会社形態への 移行は急務となった。

1880年代後半,灘において酒造関連会社が相次いで設立された。灘五郷の 中でも,特に西宮は進取の気風に富み,多くの酒造関連会社の設立が集中し ていた。1885(明治18)年には,灘初の恵比酒銀行(資本金10万円,取締役 頭取は辰馬喜十郎)が創設された。その融資先として,1887(明治20)年に は酒造家6家の出資により共同醸造会社の日本摂酒株式会社(社長は辰馬喜 十郎)が設立された。1889(明治22)年には西宮企業会社(資本金1万5, 000 円,社長は紅野善三郎,1896年に西宮酒造株式会社に改称,以下,西宮酒造 と表記)が設立され,明治期,西宮に2つの株式会社が発足していた

5)

。西

3)

例えば,1911(明治

44)年度の西宮酒造の場合,11

月中旬に原料米購入を決定,

12

11

日には全額支払完了後,12 月

18

日全量入荷した(西宮酒造編,94 ‐

95

頁)。

4)

図表

1,図表2

末に示した灘五郷蔵数の増加によっても理解できる。

5) 1893

(明治

26

)年に商法の会社編が施行されると,全国企業の株式会社設立は

加速され,

1896

(明治

29

)年には酒類業の株式会社は,全国に

32

社,兵庫県にお いては

12

社が誕生していた(西宮酒造編,

1989

83

頁)

明治期から大正期における灘酒造業(二宮) −311−

( 5 )

(6)

宮酒造は,設立後,毎期増資をおこない,7期目には資本金を20万円まで増 額し,1910(明治43)年には全国第1位の造石高を達成した。

江戸期から長い歴史をもつ灘酒造家も,家業から脱却し,経営の近代化を 進めようと,明治後期から大正年間に,会社形態をとった

6)

。個人企業から 合名,合資会社になった後,短期間で株式会社へと転換した。1897(明治 30)年,嘉納治兵衛(白鶴)は,清酒販売会社として嘉納合名会社を設立,

1907(明治40)年,嘉納本家(菊正宗)は,合名会社本嘉納商店となり,

1915(大正4年),辰馬半右衛門(東自慢)は,本辰酒造株式会社へ,1917

(大正6)年,辰馬本家(白鹿)は,辰馬本家酒造株式会社へ,1919(大正 8),山邑太左衛門(桜正宗)は,山邑酒造株式会社へ,石崎合資会社(沢 ノ鶴)は,石崎株式会社へ,本嘉納商店も株式会社へと改組した。そして 1919(大正8)年には,灘酒の造石高は,59万635石に達した。

個人企業からの脱却は,資金効率を向上させ,外部資金の調達を可能にし,

灘酒造家はさらに生産規模を拡大した。生産規模が大きくなればなるほど,

安定的に生産を計画する必要があったが,下り酒問屋との取引は,その時々 の相場により左右され,年間の出荷計画もたてることができなかった。

品質を向上させるために必死の努力をおこなっていた灘酒造家にとって,

他家の酒と区別して販売したいと考えるのは当然のことであった。酒のよう な外形をもたない商品にとって,他家の酒との区別,つまり「製品差別化」

をするための目印となるものは,商標でしかなかった。東京市場における酒 類販売においては,下り酒問屋が問屋商標を指定しており,自家商標によっ

6)

会社形態への展開に先立って,家政改革が必要であったことは言うまでもない。

従来,危険分散の観点から,ほとんどの酒造家は,家督相続の際,酒造蔵を財産 分与し,本家の後継者以外を分家にした。奉公人を別家として独立させてもいた。

本家と分家・別家との相互依存関係は無駄な人員や費用を生みがちで,支出収入 の把握を難しくする側面があった。こうした本家を中心とする分家・別家制度の 整理なしには,会社形態への転換は難しかった。白鶴編(

1977

)には,明治中期 に経営が傾いていた嘉納家の家政改革の詳細が記されている(

194

197

頁)。

−312−

( 6 )

(7)

て販売することができなかった。こうした状況を打開するために,灘酒造家 は問屋依存型販売から転換した。二宮(2012)において指摘したように,問 屋依存型販売から脱却するには2つの方法があった。1つには,東京市場に 特化した販売をやめ,地方市場を開拓する方法と,もう1つは東京市場にと どまりながら,直営店を設立して自ら販売する方法であった。前稿(二宮,

2012)では個別酒造家の事例を追ったが,本稿では,灘全体の動向について 分析することとしよう。

1−2 灘酒造家の地方市場の開拓

東京市場の灘酒販売は下り酒問屋によって独占され,幕末期から,下り酒 問屋の代金決済は長期化していた。その中で,下り酒問屋が支配する東京市 場から脱却し,新たな販売先を求めて地方市場を開拓する灘酒造家があらわ れた。灘酒造家の地方販売は,大阪市場を手始めにおこなわれた。灘酒造家 は,江戸市場へ販売を集中して専業酒造家として成長を遂げていたが,関西 市場の販路開拓は手つかずであった。江戸期,大阪は諸国産物の一大集散地 であり,大阪の集散地問屋によって,あらゆる商品が全国に流通したのだが,

酒だけはそのような全国流通の埒外にあったからである。大阪は酒造産地で あり,市中には数多くの酒造家がいて問屋業務を兼業し,小売店に直売して いたため,酒の専業問屋が発達しなかった(秀平編,1967,278頁)。

酒造家の大阪市場の開拓は,直営店(出店)による直接販売の形がとられ

で みせ

た。1885(明治18)年,灘の「澤之鶴」醸造元である石崎喜兵衛が,大阪市 場において直営店を設置して仲買や小売店に販売する方式に最初に成功する と,他の灘の酒造家も次々に直営店を設置し,問屋を通さずに直接販売をお こなった(山片・白鶴酒造編,1977,204頁)。中でも白鶴の直営店は,1912

(明治45)年には大阪市内のほとんどすべての酒店を特約店とし,他家の酒 も買入れ,自醸酒の3倍,3万1, 764石を販売するまでになった(白鶴編,

1977,241頁)。

明治期から大正期における灘酒造業(二宮) −313−

( 7 )

(8)

灘の地方市場への販売は,大阪市場を中心にして順調に伸び,1901(明治 34)年,14万6, 932石と,販売石高全体の45%に達した。1902(明治36)年 には20万5, 426石と,東京積販売石高の12万476石を逆転するまでになった

(神戸税務監督局,1907,141‐142頁)

7)

。地方市場販売石高の73%は,大阪市 場(大阪府および兵庫県)における販売であった。

大阪市場以外の地方市場を積極的に開拓した酒造家としては,白鹿があげ られる。他の酒造家も,地方市場へ進出しようと試みたが,直接販売するこ とは容易ではなく,仲次人を媒介して,地方の酒造家へ少量バルク販売(桶 取引)するにとどまっていた。酒造石高第1位を長く維持した白鹿は,1890 年代後半のピーク時に17, 775石あった東京市場での販売石高を,1911年度に は2, 843石までまで縮小し,地方市場を開拓していた。江戸期から廻漕業を 営んでいた白鹿は,保有する汽船に売手支配人を乗り込ませ,自らの手で販 路開拓をおこなったのである。1895(明治28)年に早くも台湾に醸造所を建 設し,台湾他,海外市場での販売を6, 967石(生産石高全体の28%)まで伸 ばし,東海道市場(6, 764石,同,27%),北海道市場(4, 460石,同,18%)

といった国内市場も積極的に開拓した(大島,2007)。

日本では汽船の運行や鉄道の開通など,物流網が急速に整備され,灘酒造 家の地方市場への販路開拓の基礎的条件は整いつつあった。酒のような荷嵩 で重量の商品の場合,物流網の整備は,流通システムに決定的な影響を与え た。1884(明治17)年,日本郵船会社が設立され,灘酒の定期船による輸送 が開始された。汽船運行が開始されるとともに,酒類は汽船によって輸送さ れるようになった

8)

。酒を積んだ大型汽船はまず横浜へ入港していたので,

「東京市場」外の横浜の商業者に対して灘酒造家は直接輸送できるようになっ

7)

ただし,この数値には,バルク販売(桶売)も含まれると思われる。仲次人を 介して酒造家間での桶取引もおこなわれていた(神戸税務監督局,

1907

130

132

頁)。

−314−

( 8 )

(9)

た。一方,1872(明治5)年,新橋−横浜間に鉄道が建設され,1889(明治 22)年には東海道線が開通し,数年後には鉄道の貨物列車による輸送が拡大 された。鉄道運賃が,船賃と変わらない程度まで下がると,酒類は鉄道によ り輸送されるようになり,伏見のような内陸の酒造産地も大きく成長した。

東京市場中心に販売していた灘酒造家は,販売戦略を変化させることになっ た。販売市場が広域化した酒造家にとって,自家商標を広く宣伝し,市場に 浸透させることは,ますます重要な製品差別化の手段となったのである。

1−3 灘酒造家の販売戦略の変化と自家商標

灘酒の中でも,東京市場において五大銘酒との評判が定着していたのは,

菊正宗(醸造元は本嘉納商店),桜正宗(同,山邑酒造),白鷹(同,辰馬悦 蔵商店),富久娘(同,花木三二郎),大関(同,長部文治郎商店)であった

おさ べ

(神戸税務監督局,1907;月桂冠,1999 b ;横地編,1943)。図表1ですでに 見たように,このうち菊正宗,桜正宗,富久娘は,1911(明治44)年度,造 石高が1万石を超えるまでに成長を遂げていた。五大銘酒は,東京市場にお いて東京下り酒問屋によって独占的に一手販売されていた。菊正宗と桜正宗 は鹿島本店,白鷹は説田彦助,富久娘は富士西商店,大関は中井商店(中井 新右門)による取扱いであった

9)

8)

辰馬本家,辰馬半右衛門家,嘉納治兵衛家など,規模の大きな灘酒造家は,江 戸時代から風帆船(和船)を所有し,廻漕業に携わっていた。幕末期,樽廻船は ほとんど酒造家の持船であった(柚木,1965,第

5

章)。辰馬家は,1878 (明治

11)

年にいち早く西洋型帆船

2

隻を新造し,1885 (明治

18)年,辰馬回漕店を設立,1887

(明治

20)年,㈲盛航会社設立に資本参加するなど,東京市場への輸送面での競争

優位性を確保していた。当時,酒は腐敗しやすい商品であり,輸送は,商品の品 質を左右する重要な要素であった。

9)

例えば,長部家は,江戸時代から

10

種類にも及ぶ問屋銘柄によって出荷してい たが,商標登録制度導入に伴い「大関」を新たに商標登録し,「大関」については 中井商店との一手販売特約を取り結んでいた(大関編,1996,217 ‐

219

頁)。

明治期から大正期における灘酒造業(二宮) −315−

( 9 )

(10)

有力灘酒造家は,特定の下り酒問屋への販売依存度を高め,一手販売権を 与え,自家商標を市場へ浸透させることに成功していた。清酒の販売価格は その時々の相場により大きく変動したのだが,東京下り酒問屋は,代表酒の 評判を高めるために,その酒価を維持しようとしたという(月桂冠,1999 b,

103頁)。灘酒造家において下り酒問屋との一手販売は,東京市場で特定商標 酒の名声を高め,酒価を維持する効果をもっていた。

しかし,市場では,酒の商標は,問屋商標として認識された。例えば,菊 正宗は,「(東京)新川の鹿島の菊正宗」だった。商標宣伝は,問屋主導でお こなわれ,新聞広告においても醸造家の名前は記載されてはいなかったから である。

下り酒問屋は,多数の酒商標を取り扱っていた。例えば,1884(明治17)

年,長部家の「大関」が商標登録され,中井酒店が大関の一手販売をおこなっ た。中井酒店は,当時,東京下り酒問屋における有力店で,1896(明治29)

年には,東京下り酒問屋において販売高第1位であった。1888‐1898(明治 21‐31)年頃,中井酒店において仕入高がもっとも大きかった酒造家は,長 部家ではなく,若井本家で,牡丹正宗の一手販売権も獲得していた。当時,

中井酒店に勤務していた横地信輔の回想録によれば,以下のような多数の商 標を取り扱っていた(図表2)。他にも,中井酒店は,兵庫県明石,和歌山,

三重,茨城,名古屋,北海道の酒造家とも取引をおこない,数多くの商標を 取り扱っていた。たとえ,「有銘酒」であったとしても,その他大勢の取扱 い銘柄の一角を占めるにすぎなかったのである。

他方,菊正宗,桜正宗の一手販売権を有していた鹿島本店は,「最高級品 の専売問屋として,飛切品の時々の商機は鹿島を中心にして建てられた感が あって,鹿島は数ある酒問屋の中でも一権威」(横地編,1943,383頁)の存 在であった

10)

。しかし,菊正宗,桜正宗と成長を遂げようとする2大銘酒の 販売を独占するためには,相応の販売力を維持しなければならなかったが,

1900年代以降,その販売力は低下した。

−316−

( 10 )

(11)

鹿島本店をはじめ,下り酒問屋は,取引方法を改善することができなかっ た

11)

。下り問屋側からすれば,より多くの酒造家と取引すればより多くの手 数料収入が手元に入ったため,取引酒造家の数を減少させ,特定の酒造家へ の仕入依存度を高める行動はとらなかった。1890年代までは,酒造家の側も,

取引する下り酒問屋数を増加させれば,東京市場での販売高も増加させるこ とができたため,なるべく多くの下り酒問屋との取引を志向する販売戦略を とっていた

12)

その反面,取引する下り酒問屋数が増えれば,問屋が指定する問屋商標に

10)

鹿島家は,現在の兵庫県川西市多田地区の出身で,1677(延宝

5)年頃,大阪店

を構え,その後,江戸へ進出した。明治中期,8 代目清兵衛,9 代目清平と経営能 力に乏しく,放蕩の限りを尽くす当主が続いたが,コントロールすることはでき なかった(望月,2010,60 ‐

75

頁)。

11)

下り酒問屋は,多くの商家同様,店舗の経営は,支配人(出店主)によって差 配され,店主は店舗と離れた別住所に居住した。こうした江戸期以来の経営方式 は,明治後期になっても継続された。店主の役割は,年に

1

度,年始に店舗に立 ち寄る他は,酒造家主人を「接待」したり,仲間との「付き合い」に限定された

(!木藤夫他編,

1991

205

208

頁;大日本洋酒缶詰新聞社,

1974

79

頁)。

図表2 1890年代における中井酒店の主たる取引先および商標

灘酒 若井本家(牡丹正宗,大八州),菅野(菖蒲正宗,菅公),太白

(桐正宗,太白公),丸岡茂吉(はや利桝),本若林(正成,元帥 正宗),新居(養神),山下(瀧孝),小網(天與),木村(からす),

安福又四郎(梅一輪,梅の樹),安福武之助(梅の莟),山路(大 御代),松尾(神亀),辰馬吉左衛門(地球一),辰馬悦蔵(安穏),

覚心平十郎(戎紋正宗,蜻蛉),野田三蔵(初鶯),守舍(福禄寿),

辰馬中店(山海),松本(まつ栄),越知(叡聖),長部(大関,

やぐら太鼓),高岡源七(高運),清水(清光一),野田六(鹿鳴),

鷲尾巽(萬亀),本辰馬(神龍),東辰馬(四神正宗,枝花正宗),

長尾政吉(萬物長)

その他下り酒 池上(剣菱),西田(聖運),寺田,金露,伝法の味醂(山海,川 の字,上・印)

京都・伏見酒 木村宗(福おかめ),北川(ふり袖),大倉恒吉(鳳麟正宗,芳花,

大倉庫),齋藤(柳正宗,天鼓,天津風),山本辰(花園)

出所:横地(1925),172‐173頁より作成。

注:表記で詳細が分かるものについては正式名称を記したが,略称も含まれる。

明治期から大正期における灘酒造業(二宮) −317−

( 11 )

(12)

よって商品を出荷しなければならないため,保有商標数は増えていった。商 標の宣伝は,下り酒問屋主体でおこなわれ,その費用は酒造家も負担した。

酒造家は,多くの問屋と取引すればするほど,商標宣伝の費用負担が増えた。

さらに商標宣伝の効果は,当該問屋のみが享受できるものであり,他の問屋 の自家酒までには及ばなかった。自家商標であれば,宣伝効果を直接享受で きるが,問屋商標の場合は,その効果は限定的であった。こうして灘酒造家 は,大阪市場のみならず,東京市場でも直営店を設立して,自家商標によっ て販売することに乗り出していくことになる。次章では,その詳細を述べる。

2 大正期における灘酒造家の直営店の設立と下り酒問屋の衰退

(1911年‐1923年)

2−1 灘酒造家による直営店の設立

大正期,有力酒造家へと躍り出た酒造家の多くは,代表銘柄を定め,下り 酒問屋まかせの販売戦略を転換し,自家商標によって販売しようとした酒造 家であった。桜正宗,菊正宗,白鶴,沢ノ鶴,富久娘などは,1916(大正 5)年以降に直営店を設立し,東京下り酒問屋を通さない直売を手掛け,

1910年代後半から1920年代に一段と造石高を伸ばした(図表3)。

辰馬本家は,1900年代,自家商標「白鹿」による販売を下り酒問屋に拒否 されていた。以降も多くの下り酒問屋との取引を整理することはなく,問屋 商標にて販売を継続した。1910年代には商標「白鹿」に「小印」をつけ,

「両点白鹿」「富士白鹿」など,多い年には14もの商標を下り酒問屋との「連 合商標」として登録した(大島,2008)。すでに述べたように地方販売を積 極的に手掛け,造石高は維持していたが,1920年代には,桶売を本格化させ,

12)

例えば,1892 年度造石高第

1

位の辰馬本家(白鹿)の下り酒問屋取引先数は,

1878

(明治

11

)年の

8

店から,

1887

(明治

20

)年には

16

店へと拡大している(大島,

2007

)。

−318−

( 12 )

(13)

年度によっては4割近くを桶売せざるをえなかった(大島,2008)。辰馬本 家は,ようやく1920年度後半に販売戦略を転換し,取引先問屋との取引関係 を整理し,自家商標による販売を積極化させ巻き返しをはかった。自家商標 による販売に切り替えることができなかった酒造家は,造石高を停滞させる か,次第に減少した。下り酒問屋が,酒造家に対する存在意義を示す問屋機 能は,金融機能でしかなくなっていた。

図表3 1911(明治44)年度と1923(大正12)年度における主要酒造家の造石高 造石高

順位 代表銘柄(酒造家名) 1923年度 造石高

1911年度 造石高

1911年‐1923年 増加率(%)

甲東会 会員 1 桜正宗(山邑酒造株式会社) 36, 646 19, 797 85 ○ 2 菊正宗(合名会社本嘉納商店) 35, 028 16, 514 112 ○ 3 白鹿(辰馬吉左衛門) 31, 335 25, 802 21

4 月桂冠(大倉恒吉) 31, 319 16, 903 85 5 日本盛(西宮酒造株式会社) 30, 118 16, 096 87

6 白鶴(嘉納合名会社) 25, 727 11, 450 125 ○ 7 沢ノ鶴(石崎合資会社) 21, 938 16, 389 34 ○ 8 東自慢(本辰酒造株式会社) 17, 920 15, 011 19

9 忠勇(若林合名会社) 17, 920 14, 379 25

10 富久娘(花木甚右衛門) 14, 922 11, 255 33 ○ 11 戎面(日本摂酒株式会社) 12, 122 8, 548 42

12 泉正宗(泉仙介) 11, 297 9, 208 23 13 大関(長部文治郎) 10, 949 8, 395 30

― 大黒正宗 10, 919 8, 727 25 ○

― 白鷹(辰馬悦蔵) 9, 307 5, 882 58

― 金露(大塚合名会社)※注 7, 436 ○

― 都菊(合名会社肥塚商店)※注 3, 072 ○

甲東会合計 155, 688

灘五郷合計酒造石高 572, 249 481, 572 19

灘五郷蔵数 481 427

出所:1923年度造石高は,大阪酒類商同業組合(1924),137‐144頁より作成。1911年度については,

図表1の通り。

注:金露,都菊は,灘内での醸造石高。

明治期から大正期における灘酒造業(二宮) −319−

( 13 )

(14)

2−2 下り酒問屋の金融機能の低下

下り酒問屋は,豊富な資金力を持ち,酒造家に対し前貸信用,川下の商業

まえがし

者に対して延払信用を供与し,金融機能を発揮することによって両者の取引 を媒介していた

13)

。一般的に集散地問屋が荷主(生産者)に対して供与する 前貸信用には,入荷前の信用と入荷後の信用と2つの形態がある( 見,

2002)。入荷前信用は,荷主(生産者)に原材料代を前貸し,その引き換え として完成時,製品を引き取るというものだが,酒造業の場合は,酒造家は,

自ら原材料費を負担していた。さらに酒造家は灘から東京までの輸送につい ても自らの手船でおこなっていた。酒造家が原材料費を負担し,自ら輸送で きるほどの相当資本を蓄積していたという点で,酒類流通は特殊ではあった が,問屋が荷主(酒造家)から商品を「預かり」,「口銭」(手数料)をとっ て仲買に委託販売するという販売形態は,他の商品を扱う集散地問屋と同様 であった。

下り酒問屋は酒造家に対して,入荷後信用のみ供与していた。具体的には,

東京下り酒問屋は,酒造家に対し,前月20日までに着荷した商品に対し,毎 月10日には商品代金のおおそよ8,9掛の内金を送金した。川下の商業者へ は委託販売(貸売)をおこなった。下り酒問屋は,商業信用連鎖の要として

かしうり

存在していた。

下り酒問屋の主たる販売先は,仲買(2次問屋)の東京酒類問屋であり,

その取引は大口であった。中井酒店の元支配人の横地信輔によると,当時,

年末繁忙期には在庫を1万駄(2万樽)以上抱え,得意先との1印(商標)

の取引単位は,100駄(200樽),200駄(400樽)といった大口取引も珍しく はなかった(横地,1935,173‐174頁)

14)

。こうした大口取引が可能であった

13)

幕末に頭角をあらわし,明治期まで隆盛を誇った下り酒問屋は,鹿島清兵衛・

利右衛門や中井新右衛門(播磨屋),小西利右衛門・利作,山田五郎助など,両替 商を兼ねるか,あるいは確実な両替商との信用関係を保持し,金融面でのリスク をコントロールすることができた問屋であった(柚木,1965,315 ‐

320

頁)。

14)

中井酒店の販売高のピークは,

1896

(明治

29

)年,

4

3,477

駄であった(東京 酒問屋統制商業組合,

1943

344

350

頁)。

−320−

( 14 )

(15)

理由は,第一に,下り酒問屋が,前述の金融機能を担っていたことと,第二 に,灘酒の東京市場での一手販売権をえていたことにあった。債務超過で倒 産寸前の取引先商業者がいれば,金融支援をおこなって経営を立て直し,以 降,他の問屋とは取引させず,自己の専属問屋とするようなこともあった

(月桂冠,1999 b ,103頁)。

1897(明治30)年から日露戦争後の1907(明治40)年までに,東京下り酒 問屋および東京酒類問屋は,資金調達を円滑におこなうために中井銀行(設 立は中井新右門),中沢銀行(同,中沢彦吉),八十四銀行(同,中沢彦吉)

など銀行を設立し,金融機能をさらに強化しようとした。しかし,1923(大 正12)年の関東大震災で東京下り酒問屋は,酒造家に対して莫大な債務を背 負った。下り酒問屋に在庫されていた焼失酒は,酒造家が債務を放棄し,下 り酒問屋はようやく経営を継続することができた。震災後,酒荷が不足して いる間は現金取引がおこなわれたが,復興が進むとともに,一般消費者も小 売店も「貸売りでなければ買わぬようになり」,半年後には旧来同様の委託 取引(掛売・延払)へと戻され,取引方法は変化することはなかった(横地 編,1943,209‐210頁)。下り酒問屋との価格決定(仕切)も,相場による成 り行きにより着荷後に決定される方式に戻っていった。ただし,震災後,価 格決定については酒造家がある程度主導権をもって決定するようになり,

1930年頃には,問屋が「同等品ノ他銘酒ニ比シ」著しく低い価格で販売した 場合に酒造家に対して「出精金」として,賠償されることになっていた(商 工省商務局,1931,17頁)。しかし,基本的な価格決定は相場にまかされて いた。

さらに,1927(昭和2)年におこった昭和恐慌により,中沢,八十四,中 井の各銀行は支払不能に陥り,経営破綻し,酒問屋に多くの損失をもたらし,

下り酒問屋は以前のように金融機能を発揮することができなくなった。酒造 家にとって,金融機能を発揮できなくなった下り酒問屋と取引する意義は完 全に失われた。

明治期から大正期における灘酒造業(二宮) −321−

( 15 )

(16)

2−3 下り酒問屋の灘酒一手販売権の喪失

1916(大正5)年,桜正宗が桜正宗臨時荷捌所(日本橋蠣殻町)を設け,

1917(大正7)年,菊正宗も東京支店を設置し,直接販売活動に乗り出した。

菊正宗と桜正宗,両銘柄の関東一手販売権をもっていた鹿島本店は大きな打 撃を受けた

15)

。1927(昭和2)年頃には,白鷹は説田彦助への「黒松白鷹」

の一手販売権を解消し,新たに升本総本店と一手販売契約を結び,「墨松白 鷹」として一手販売した。東京下り酒問屋は,灘銘酒の東京市場における一 手販売権をつぎつぎに失っていった。

東京下り酒問屋にとって販売先であり,灘酒造家にとっては2次問屋(仲 買)であった東京酒類問屋組合は,すでに日露戦争後の1907(明治40)年に は,組合規約を改正し,灘酒造業と直接取引することを宣言していた。東京 酒類問屋の有力店だった,升本喜衛門,牧原仁兵衛,鈴木新兵衛,平野太郎 兵衛,中沢彦吉の5店は,若林合名会社の忠勇正宗(飛切),惣長(1等)

の直接取引を開始し,1次問屋となった。忠勇はもともと,下り酒問屋組合 の丸星鈴木商店の専売,惣長は,広岡助五郎の専売であった。さらに東京酒 類問屋は,京都伏見,東北秋田,山形といった灘酒以外の産地の酒の取り扱 いをはじめた

16)

他方,東京市内には,東京酒問屋・東京酒類問屋組合員以外にも酒類を取 り扱う問屋が誕生していた。酒を積んだ大型汽船はまず横浜へ入港していた ので,横浜,八王子など東京近郊にも直接生産者から仕入れる酒問屋ができ ていた(原嶋,1911)。さらに,東京には,灘・堺の酒造家の直営店のみな らず,他の酒造産地酒造家の直営店も相次いで設立された。灘・堺の有力酒 造家8軒は,1924(大正13)年「甲東会」という会組織を結成し(二宮,

15) 1932(昭和7)年,鹿島本店は,酒問屋を廃業した。

16)

ただし,関東大震災前後まで東京酒問屋と東京酒類問屋とは協調関係にあった という(横地編,

1943

167

168

頁)。

−322−

( 16 )

(17)

2012),その後,他の酒造産地の直営店12店が,「更新会」という会組織を結 成した(図表4)。

醸造家による直販が開始され,川下の商業者は醸造家と直接取引するよう になり,図表5−1から5−2のように,東京下り酒問屋に対する「中抜 き」が進行した。

下り酒問屋が大口取引中心だったのは,大口の荷に対する信用供与力があ ること,すなわち金融機能と表裏一体であった。信用供与力がなくなれば,

小口取引に移行するしかなかった。しかし,下り酒問屋は従来,小口取引の 経験はほとんどなく,また東京酒類問屋組合員以外の取引先の情報も持って

図表4 更新会の構成員の概要

大星岡村商店 更新会理事。東京酒問屋組合理事。滋賀県の醸造家の直営 店として1908(明治41)年創業。1912(大正元)年,灘西 宮に醸造場創設,「金亀」を発売。

荒井佐五兵衛商店 更新会理事。東京酒問屋組合副組合長。東京府玉川に醸造 場を設立,「玉川白酒」を発売。

「黒松白鹿」の東京一手発売元。

中埜酢店東京支店 知多(愛知県)の清酢醸造業者の直営店。

竹野兵之助 三重県の醸造家が,1897(明治30)年に東京に直営店開設。

1907(明治40)年頃,灘酒の委託販売はじめる。

久星酒造株式会社 東京営業所

埼玉県に6つの醸造所を保有し,発売元となる。灘御影に 進出し,「國冠」醸造元となった。

きんりょう

金陵西野東京支店 香川県琴平の醸造家直営店。主要銘柄は「金陵」。

野田酒造東京支店 群馬県の醸造家が,1923(大正12)年に東京へ直営店開設。

あづまさかり

灘にも醸造所を設立。主要銘柄は,「東盛」。

三宅東京支店 広島県呉市の醸造家直営店。主要銘柄は「千福」。

せんぷく

※六甲商店 1912(大正元)年創業。「金殿」を販売。

※田原權平

※川島傅之助

※本高田商店

出所:横地編(1943)219‐220頁,田中(1928)より作成。

注:※は,後に脱退または廃業した。

明治期から大正期における灘酒造業(二宮) −323−

( 17 )

(18)

灘酒酒造家 東京下り酒問屋(21店)

(東京酒問屋組合)

東京酒類問屋組合(23店)

東京酒類仲買商組合(796店)

上記組合員以外の仲買・小売商(約3,000軒)

灘・堺の酒造家

東京下り酒問屋(15店)

(東京酒問屋組合)

東京酒類問屋組合(13店)

甲東会(灘・堺の酒造家直営店) (8店)

更新会(酒造家直営店) (11店)

その他地方の酒造家

地方酒造家直営店(約20店)

いなかった

17)

。こうした中,従来の委託取引を抜本的に改革することができ ないまま,関東大震災に直面した。他方,東京市内外において東京酒問屋組 合にも東京酒類問屋組合にも属さず,酒類を従来取り扱っていなかった「ア ウトサイダー」の新興商人が酒類流通に新規参入し,酒類販売競争はさらに 激化することになるのである。

3 新興商人の登場 ― 酒類流通への新規参入

3−1 明治屋の躍進 ― 月桂冠瓶詰の一手販売

明治維新以降,ビールや「甘味葡萄酒」のような洋酒や,ソース・ケチャッ

17)

当時の下り酒問屋について以下のような記述が残されている。「稀に小売店の熱 心な買い手が来ても酒問屋の売手は,売手先に任せて,一流の買手のみ談笑して いて,小売店の買出しには口を開かぬ事さえあった」(横地,

1925

294

頁)。東京 酒類問屋の中でも「一流の買手」とは,大口客のことを指した。

図表5−1 1890年代−1900年代の東京市場における灘酒の流通経路

出所:二宮(2012)若干修正。

図表5−2 1910年代−1920年代の東京市場における樽詰清酒流通経路

−324−

( 18 )

(19)

プといった洋風調味料,「味の素」など,新商品が次々と登場した。しかし,

そうした新商品の販売に取り組んだ東京下り酒問屋は,ほとんどいなかった。

他方,新商品を積極的に取扱って成長した新興商人は,瓶詰清酒の販売を手 掛け,清酒流通に参入を果たした。そうした新興商人の代表が,磯野計によ

はかる

り1885(明治18)年に創業された明治屋であった

18)

。樽詰清酒や醤油のよう な伝統商品の流通は,旧問屋仲間が独占していたが,新興商人は,清酒や醤 油など江戸期から形成された既存の流通経路を再編し,新商品の販路を開拓 した。

明治屋は,日本郵船に対する船舶食料品・雑貨納入という特殊事業を核と しながら,輸入食品・雑貨の卸売業者兼小売業者として横浜で事業を開始し た。1888(明治21)年,ジャパンブルワリーのビールを「麒麟麦酒」と命名,

一手販売権を獲得し,急拡大を遂げた。明治末期までに,自社ブランド

( MY 印)のジャム,小岩井バター,リプトン紅茶,森永チョコレートの他,

布引タンサン,シャンペンサイダー,マルエス印ハム(日本ハム製),日の 出ソースなど,国産の飲食料品を幅広く取り扱った(明治屋編,1987,82‐

83頁)。大正期に入り,ビールの取引高が大きく伸長するとともに,1911

(明治44)年,株式会社明治屋に改組,1918(大正7)年までに大阪,京都,

神戸,金沢,名古屋,福岡,仙台,札幌,新潟に支店網を設立し,全国に営 業網を整備した。

明治屋は,従来にない,新しいタイプの近代的商業者であった。明治屋の 扱う商品は,回転率の低い商品が多い上,クリスマス用品のような「際物」

きわもの

季節商品もあった。新興商人で,取引高に比べて資本は「過小」であったた め,「超堅実とも言うべき程度に,準備金や引当金を積み立て」,「万が一」

18)

磯野計は,1858(安政

5)年,美作国(岡山県)津山にて出生。1880(明治13)

年,三菱会社により給費留学生として英国へ派遣され,複式簿記を含む商業実務 を学んだ。

1897

(明治

30

)年,享年

39

歳で急逝した。

明治期から大正期における灘酒造業(二宮) −325−

( 19 )

(20)

に備えていた(明治屋編,1961,75‐76頁)。複式簿記を日本ではじめて採用 し,商品の販売・在庫管理をおこなった。

は ざかい

明治屋は,ビールが飲まれなくなる冬期に扱う端境商品として,清酒に着 目した。1909(明治42)年からは,桜正宗瓶詰の静岡以東の特約販売を開始 した。月桂冠は,1911(明治44)年,防腐剤(サリチル酸)を入れない瓶詰 清酒の発売に成功していた

19)

。月桂冠の瓶詰清酒の特約販売を,1915(大正 4)年,新興商人の明治屋が担うことになったのであった。

ここで簡単に月桂冠の歴史を振り返っておこう。月桂冠(当時の屋号は,

笠置屋)は,明治中期まで,年間石高500石前後を生産する京都伏見の小規 模な酒造家にすぎなかった。1883(明治16)年頃から東京市場での販売を開 始していたが,軌道に乗るまで試行錯誤が続いていた。1890(明治23)年度 には東京下り酒問屋の山田五郎助,升本喜八郎,中井新右門,富士西(小西 慎三),三橋甚蔵,高井房太郎,鈴木忠兵衛(丸星鈴木)の7店と主に取引 していたが,この頃の月桂冠の東京市場への輸出高は400石ほどにすぎな かった。1891(明治24)年度,三橋甚蔵,高井房太郎との取引を中止し,新 規に鈴木忠司と,そして翌1892(明治25)年度,伊坂市右衛門,山脇善助と 取引を開始するなど,毎年のように取引先を変更した。

東京市場への出荷に際しては,他の灘酒同様,下り酒問屋ごとに指定の問 屋商標(菰印)をつけた。山田五郎助ならば,「福寿鯛」,「栄鯛」,升本喜八 郎は「養気」,「秀福」,富士西は「信愛」,「来福」「大商利」,中井新右門は

「恒大一」,鈴木忠兵衛は「養老」,「玉泉」というように,下り酒問屋によっ て異なるばらばらの商標であった。取引先問屋の数が増えれば,販売高は増 大したが,販売価格は市況によって変化した上,当時,伏見酒は,東京下り

19) 1879(明治12)年,清酒の「火落ち」(腐造)を防ぐ防腐剤としてサリチル酸が

有効であることが発見され,急速に普及したのだが,

1897

(明治

30

)年には人体 に悪影響を与えることが指摘されていた。

−326−

( 20 )

(21)

酒問屋から「場違い酒」と呼ばれ,灘の無商標の酒よりもさらに低い評価を 与えられていた。取引先問屋が営業停止し「貸し倒れ」となることもあり,

月桂冠の東京積取引の収支は上下した。1890(明治23)年には37円10銭の欠 損,1891(明治24)年は168円50銭の利益,1892(明治25)年は113円78銭の 欠損と,販売石高の増加に対して,取引収支は安定しなかった(月桂冠,

1999,88‐89頁)。

1886(明治19)年,先代の急逝により,大倉恒吉は,弱冠13歳で11代大倉 家当主として家督を相続していた。恒吉は東京積を拡大するため,銘酒産地 として名声が定着した灘で酒造することを決意した。1899(明治32)年,灘 西郷で借蔵し,灘の酒造技術を修得しながら酒造を開始した。この年から翌 年にかけ,地方市場の開拓にも積極的に取り組み,横浜の八木庄兵衛本店,

静岡の森田酒店,横浜の白石作造酒店,沼津の中埜酒店,函館の梅津福次郎 商店,1903(明治36)年には東京の中澤商店とも取引を開始し,生産石高も 5, 272石と順調に増加した(月桂冠編,1999,85‐87頁)。1905(明治38)年 には「月桂冠」を商標登録し,丸星鈴木商店を通じて販売した(横地編,

1943,378頁)。1907(明治40)年には生産石高13, 015石と,初めて1万石を 超えた。

恒吉は,酒質の向上について,科学的研究をおこなった。1909(明治42)

年には大倉酒造研究所を設置,2年間,温度管理や衛生管理,容器管理につ いて研究した末,1911(明治44)年に防腐剤を入れない清酒の開発に成功し た。自社の瓶詰工場において「毫末ノ防腐剤ヲ含有セザル検査証明ノ封緘」

を一瓶ごとに添付し,瓶詰清酒として販売を開始することになった(月桂冠,

1999,112‐117頁)。

それまでの樽詰清酒は,加熱殺菌(火入れ)せずに「生」のままで販売さ れ,腐敗(火落ち)時のみ,火入れして販売したのに対して,清酒瓶詰は,

瓶詰の前後に火入れをおこなった。また,樽詰清酒は,木桶で造って杉樽に 明治期から大正期における灘酒造業(二宮) −327−

( 21 )

(22)

入れて運搬され,特有の杉木香がしたのに対し,瓶詰清酒は,杉香はしな かった。要するに,瓶詰商品は,樽詰清酒とは異なる商品であった。従来,

樽詰清酒を販売していた下り酒問屋の「玄人筋」からは見向きもされなかった。

当時,瓶詰清酒は,東京へ樽で運ばれてから瓶詰業者によって瓶詰された。

洗浄が不十分で不衛生な古瓶に手詰めされて販売されたり,店頭で「棚ざら し」にされて変質し,「瓶香」がすると言われてもいた(岡村,1963,183 頁)。酒造家の中には,品質の劣る買酒を詰めて販売するものがいたり,ま た瓶詰業者によっては,複数の,それも品質の低い酒を混ぜ合わせて販売す ることもあった。

明治屋は,都市のサラリーマンに代表される新しいタイプの消費者は,防 腐剤の入っていない清酒を望んでいることを十分に認識していた(石川,

1994)。「絶対に防腐剤を含まず」というキャッチフレーズの下に醸造家元詰 で販売すれば,瓶詰清酒は大きな市場を獲得できることを確信していた。灘 その他の有力酒造家へ相談したが,「消化能力の未知数な明治屋の要望に対 しては,余り興味を示さなかった」(明治屋編,1958,66頁)。ただ一人,明 治屋の方針に共鳴したのが,月桂冠の大倉恒吉であった。

1915(大正4)年,明治屋と月桂冠との間で「特製名誉月桂冠」瓶詰の一 手販売契約が結ばれた。この一手販売契約は,従来の委託販売とは異なる,

「画期的な」建値販売契約によっておこなわれた。以下,明治屋と月桂冠と の契約書について抜粋しよう(月桂冠,1999 b,135‐137頁)。

契約書

(前略)

第2項 取引価格は,第3項規定の如く其都度商議協定するも,目下の相 場に基き標準値段として取極めたる価格左の如し

−328−

( 22 )

(23)

一.月桂冠 1升瓶瓶詰 1ダース半入1函 東京汐留停車場着 金30円25銭替 一.同上 大瓶詰(4合形)4ダース入1函

同上 金30円50銭替 一.同上 中瓶詰(2合形)8ダース入1函

同上 金14円75銭替 一.同上 小瓶詰(1合形)16ダース入1函

同上 金15円替

(中略)

第3項,瓶詰値(直)段は毎年5月,10月の両度に酒荷の高低と他店瓶詰 相庭の振合に準じ協定すること

(中略)

第4項,取引開始当初に於ける売出し披露,広告費用等として金2千円を 大倉恒吉商店より明治屋へ提供す

(中略)

第5項,瓶詰売上に要する広告,景品費等一切の費用は,総て明治屋に於 て負担を為すに依り,大倉恒吉商店は協定値段より1函に付金30銭宛の割引 を為す事

但し,1ケ年販売高3000函を超過したるときはその函数に応じ,更らに1 函に付金20銭宛の追加割引を為し,毎年10月に瓶詰代金振替精算する事

第6項,毎月15日を勘定締切期日とし,同日迄に汐留停車場着荷分代金に 対し其月より起算し,4ヶ月目の初めの1日期(仮令は6月15日迄の分は9 月1日を期日とす)の為換手形を大倉恒吉商店より送付し,明治屋は該手形

ママ

に支払引受の調印を為し,直ちに返送する事

第7項,大倉恒吉商店は明治屋と協議を経ずして明治屋支店及び出張所所 在地に新たに月桂冠瓶詰販売店を設置せざる事

大正4年6月15日 明治期から大正期における灘酒造業(二宮) −329−

( 23 )

(24)

明治屋と月桂冠は,協議して販売価格を決定する上,代金決済についても 手形取引で,従来の清酒取引とは比べ物にならぬほど短期であった。月桂冠 は,瓶詰販売を明治屋に全面的に依存した。1923(大正12)年に東京出張所 を設置したが,明治屋と同じビル内で,「月桂冠の東京出張所には,社員は 常駐せず,同じ丸ビル1階の明治屋へ鍵を預け,上京する度に鍵を受け取っ て出張所を開くといったものであった」(月桂冠編,1999年,314頁)。こう した状況は,戦時期一次中断するが,第二次世界大戦後しばらくの間まで継 続された。

明治屋は,従来の清酒販売とは全く異なる近代的な販売管理を実践してお り,月桂冠にとっても画期的な販売手法であった。「各支店での月桂冠の売 り上げ高,在庫状態などの情報が,内容に応じて,月に1回,10日に1回,

1週間に1回というように頻繁に通知された。これによって,月桂冠は製品 がどの地域で,どのような状況で販売しているかという,きめ細かい市場情 報を得ることができ,その情報に基づいて,独自の合理的な出荷計画,販売 計画の立案・実施が可能となった。」取引条件においても,「画期的な販売価 格の公表,建値販売,販売口銭の事前取決め,手形の短期決済などにより,

月桂冠の販売管理・資金管理がより円滑になった」(月桂冠編,1999年,

120‐121頁)。月桂冠は,販売は明治屋に依存する一方で,品質,出荷管理に は万全の態勢で臨み,宣伝広告については互いに協力した。明治屋は,月桂 冠の販売の全てを管理し,月桂冠ブランドを全国へ浸透させたのであった。

明治屋は,1926(大正15)年にはキリンビールの一手販売権を返還するこ ととなった。「欧州大戦前までは麦酒五,雑品五の割合をもって取り扱った ものが最近(注:1926年頃)麦酒三分の二,雑品三分の一」という状況で ビール部門を失った明治屋にとって,単一商品としての「最大の稼ぎ手」は,

月桂冠瓶詰の販売となり,とりわけ東京市場が中心となった(明治屋編,

1987,153‐155)。

−330−

( 24 )

(25)

月桂冠瓶詰は,明治屋の販売網を通じて全国に販売された。それは,従来 の樽詰清酒の販売ルートとは全く異なるものであった。東京市場の月桂冠瓶 詰の2次特約店は,34店,図表6の通りである(明治屋編,1987,111頁)。

明治屋は,醤油商および洋酒缶詰商の販路を通じて販売された。2次特約店 のうち,国分商店,牧原仁兵衛,升本喜三郎,小網商店,広屋商店,遠山商 店(遠山市郎兵衛),中條商店は,それぞれ東京醤油問屋組合に所属する

「大店」であった。明治屋は,洋酒缶詰商および醤油問屋の販路を組み込み,

その販売ネットワークを通じて月桂冠瓶詰は販売された。

大正期,順調に成長した大倉恒吉商店は,1927(昭和2)年,株式会社に 改組した。大倉恒吉商店の清酒の取引先は42店,総販売石高2万4, 219石の うち,明治屋の販売石高は1万4, 800石であった。月桂冠の明治屋に対する 販売依存度は61%で,2位の丸星鈴木商店3, 030石,3位の横浜八木本店の 2, 380石を大きく引き離して1位の座にあった(月桂冠編,1999年,180‐181

頁)。以後も販売高は順調に伸び,戦前,明治屋の月桂冠販売石高のピーク は,26, 710石に達した(明治屋編,1972,70頁)。明治屋を経由した月桂冠

図表6 大正から昭和初期の東京における月桂冠瓶詰の2次特約店

項目名 店名

味噌醤油商・

醤油醸造販売業

国分商店,牧原仁兵衛,升本喜三郎,小網商店,広屋商店,

遠山商店(遠山市郎兵衛),中條商店 洋酒缶詰品商

洋酒食料品商

鈴木洋酒店,日比谷商店,川手商店,

川井敬次郎(川井商店),神崎(三郎兵衛)商店,

倉島洋酒店,安藤又吉,近藤辰次,俵木清八,中西繁三,

松木酉造,関口太郎左衛門,

亀田延二郎商店(延次郎)

酒商,酒類商,酒類問屋 鈴木新兵衛,渡辺寛五郎,中村兵左衛門,森田善太郎 不明 小島仲三郎,田下文治,萩本貞輔,高野銀兵衛,城南商店,

城南昭和会,中谷商店,湯浅文平 新井宗平,駒崎洋酒店 出所:商工社編(1925),商進社(1926),田中(1927)より作成。

注:カッコ内は商工社編の表記,下線部は商新社による。

明治期から大正期における灘酒造業(二宮) −331−

( 25 )

(26)

瓶詰の重要な販路として醤油問屋のネットワークがあった。次節に醤油問屋 の瓶詰清酒およびその他の新商品への取組について取り上げることとしよう。

3−2 東京市場における醤油流通の変化と国分商店

明治屋のような「西洋風」の新商品を扱う新興商人以外にも,新たに瓶詰 清酒に参入した新興商人がいた。国分勘兵衛(以下,国分)をはじめとする,

伝統商品である醤油を取り扱う商人であった

20)

。国分は,新商品を醤油の販 路で流通させて成長し,さらに瓶詰清酒もに組み込んだ。以下,国分の歴史 を振り返ろう。

明治維新期まで醤油醸造業を営んでいた国分は,1880(明治13)年,醤油 醸造業の廃業を決断し,東京市場での醤油問屋業を事業の中核として再出発 した。当時の取扱商品の主力は醤油で,他にも味噌,酢,味醂など,伝統食 品を販売していたが,1887(明治20)年,洋酒缶詰食料品の販売を開始した。

1890(明治23)年,日本麦酒醸造会社によって発売された「恵比寿ビー ル」の販売を嚆矢に,洋酒販売に本格的に取り組んだ。国分は,恵比寿麦酒 商会を設立し,大阪のヱビス商会,三井物産下関出張所と共に1次特約店と なった

21)

。日露戦争後の1906(明治39)年に札幌麦酒,大阪麦酒が統合し,

日本麦酒醸造会社は大日本麦酒株式会社となったが,国分は,引き続き大日 本麦酒株式会社の1次特約店を任され,ビール販売を軌道に乗せた。1924

20)

そもそも,江戸期,下り酒問屋仲間も地廻酒問屋仲間も,醤油を取り扱ってい た。1890 年代には,広岡助五郎(加島屋),中沢彦助(奴利屋),牧原仁兵衛,鈴 木忠右衛門(後の金星鈴木商店)などの酒問屋が東京醤油組合に加入していた(林,

1986,249

頁)。しかし,酒は「塩気を嫌う」とされ,清酒と醤油の両方を取り扱

うことに大部分の下り酒問屋は積極的ではなかった。焼酎や味醂など他の酒類や,

酒以外の食品を取り扱うことも「潔し」とはしない風潮があった(岡村,1963,134 頁)。そのため,国分のように洋酒販売にまで取り組んだ下り酒問屋は登場しなかっ た。

21)

サッポロビール株式会社広報部社史編纂室(

1996

),

147

頁。当初,ビール販売 は不振をきわめた。

−332−

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参照

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