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黄 河 環 境 史 研 究 の 可 能 性

小    林    善    文  

はじめに

  中国文明を育んできた母なる河である黄河の歴史については、膨大な研究業績が存在している。環境問題が深刻化 するとともに、黄河環境史という分野が注目され、内外で多くの業績が生み出されてきている。筆者は、かつて「生 態環境史から見た黄河史―中国における研究動向をめぐって― 」

を著し、二〇世紀末までの中国における黄河環境史 の研究動向を概観した。ただこうした研究動向を追うことがどのような意味をもつのかという基本的な疑問に向き合 うことなく今日に至っている。最近公刊された 『環境に挑む歴史学 』

では編者の水島司が 「序」 において 「世界史 (ワ ールド ・ ヒストリー)ではなく地球史(グローバル ・ ヒストリー)が大きな関心を呼んでいるのは、従来の歴史学が、 人類の歴史を人類だけの歴史としてきたことへの痛烈な批判と受け取るべき現象なのである」として、歴史学に携わ る者は、人類史、地球史を再構築するという課題への取り組みに大きく遅れをとってしまったと自戒の言葉を述べて いる。

  本稿が対象とする黄河流域の環境史に関していえば、人類が存在していなくても太陽活動の影響などで生態環境に 変動が生じてきたという見方がある。しかし、そこに人類の与えた影響の程度を考察することが、環境保全に向けた 人類の果たしうる可能性を推測させることに繋がるのではないだろうか。黄河流域での人類の長年にわたるさまざま な活動が、生態環境の悪化に影響してきたことは事実と思われる 。

一方でこうした人間の活動が生態環境を改善しう る可能性も否定できない。本稿は、このような問題意識と基本姿勢で考察を進め、まず前半では、黄河流域の気候変

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動と環境問題発生との関係を時代順に概観する。後半では、黄河の氾濫と治水に対する人々の取り組みを追い、つい で現代における水資源の欠乏と汚染、 さらには黄河本流の断流などに見られる深刻な環境問題への取り組みを通して、 人間の営為のもつ可能性を、中国と日本の最近の研究成果に拠りつつ問いかけていきたい。

一、黄河流域の生態環境史

  黄河の氾濫と治水を中心とした日本における研究成果としては、戦時中の福田秀夫・横田周平『黄河治水に関する 資 料 』( 東 京、 コ ロ ナ 社、 一 九 四 一 年 )、 二 〇 世 紀 後 半 の 吉 岡 義 信『 宋 代 黄 河 史 研 究 』( 御 茶 の 水 書 房、 一 九 七 八 年 ) な ど が あ げ ら れ る 。

最 近 で は、 濱 川 栄『 中 国 古 代 の 社 会 と 黄 河 』( 早 稲 田 大 学 出 版 部、 二 〇 〇 九 年 ) が あ る が、 環 境 史分野も含む総合的な研究であり、 この書の内容に関しては 「王景の治水」 に関連して後述する。また 『中国二一』 (

Vol.

三七、特集・中国水利史、東方書店、二〇一二年)の論説の中にも黄河史に関する複数の論説が見られる。さらに松 永 光 平『 中 国 の 水 土 流 失 』( 勁 草 書 房、 二 〇 一 三 年 ) は、 主 と し て 黄 河 流 域 の 水 土 流 失 を 論 じ る な か で、 黄 土 高 原 に おける農業と牧畜のそれぞれが環境保全に有効か否かを論じてきた論争史を取り上げている。黄河の最大の支流であ る渭水の流域は古代王朝の政治的中心地であり、流域の環境史関係でも日中双方での広汎な研究成果が生み出されて いるが、その詳細は村松弘一『中国古代環境史の研究』 (汲古書院、二〇一六年)の分析に委ねる 。

  これから『黄河文化史』や『生態環境与黄河文明』を軸に、主として竺可楨の研究に拠る中国における気候変動の 歴史を踏まえて 、

それぞれの時期の黄河流域の諸相を述べていく。八〇〇〇年前から三〇〇〇年前までの時期は仰韶 温暖期といわれ、黄河流域の平均気温は現在より三~五度高かったといわれる 。

この時期の半坡遺跡の近くを流れる

河は上流での森林や竹林の存在もあって水量は豊かであった 。

禹の治水伝説はこの時期の豊かな河水の状況の上に 形成されたものであろう。禹の治水の基本は、父の鯀が用いた「堵(ふさぐ) 」という方法ではなく、 「疏(とおす) 」 であり、河道の疏浚で洪水を大海に導くものであった 。

この基本姿勢は黄河流域の各部族の嚮応を得て、黄河流域の

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各地の部族の融合と統一を実現したという 。

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これに加えて気候の変化が降水量の減少を引き起こし、洪水が治まった という結論を得ている 。

((

ただし温暖な気候と降水量の減少との相関関係の分析は見られない。

  殷・周の時期については、紀元前一〇〇〇年頃から紀元前八五〇年頃にかけての第一寒冷期と紀元前七七〇年頃か ら西暦元年頃にかけての第二温暖期に分けられる 。

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殷代には河水の氾濫、田地の埋没、土質の塩漬化によって農業生 産の基礎が破壊され、社会矛盾が激化して迫られて遷都したとされる 。

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ついで周が東遷した時期になると黄河流域で 冶鉄業が興り、 開墾や土壌の改良などを通して社会経済を大いに発展させた 。

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それでもこの時期には、 黄土高原の 「原」 の上の森林は少なくなく、天然の植被は多くが破壊されていなかったと史念海は述べる 。

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ただし黄河の渾濁化はすで に始まっていて、春秋戦国時代の文献にはそれが表現されており、非林区を流れる河流の輸沙量は、林区を流れる河 流の輸沙量に比べて数十倍から百倍以上になるとして 、

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開発が進んで植被の破壊が進んでいることを認めている。

  一方で春秋戦国の交替期には、農業区は涇河・渭河の下流とそれ以東の平原区に限られていたとも述べている 。

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原 宗子は「穀物生産を重要視し始めた戦国以降の秦は、特に商鞅の変法以降、普及し始めた鉄製の斧などを用いて急速 に域内の平地の森林を切り払って農耕地化していったと考えられる。その鉄器を生産するための燃料も無論「山林藪 沢」の所産たる木材で、鉄器増産分に見合って、樹木の使用量も飛躍的に増大したはずである」と述べた上で、少な く と も 秦 に と っ て は「 山 林 藪 沢 」 は「 一 定 の 犠 牲 を も 払 っ て 入 手 し た「 「 戦 利 品 」 で あ り、 戦 略 拠 点 で あ っ た と 考 え るべきではなかろうか」と述べる 。

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中原諸国を制圧していった秦の進出が、黄河流域の生態環境に与えた影響を的確 に述べたものといえよう。さらに原宗子は「黄土は肥沃 」

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とする定説に対して土壌学の研究から黄土は肥沃ではない ことと連作は施肥によって初めて可能になることを明らかにした 。

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縄田浩志は、 古代の華北においてすでに一種の 「環 境 問 題 」 が 発 生 し て い る と い う 前 提 の 上 に、 桑 栽 培 で 成 り 立 つ「 養 蚕 に よ る 環 境 保 全 策 の 考 案 は、 資 源 利 用・ 生 産・ 消費・資源還元の東アジア型循環系の最初の枠組みの形成でもあった」と養蚕がもたらした環境保全策の意義を取り 上げている 。

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  秦漢帝国の約四〇〇年間は、第二温暖期から第二寒冷期(西暦元年から六〇〇年頃)にわたる時期である。最初の 統一帝国を建てた始皇帝は、農耕を奨励し商業を抑制した 。

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前漢第五代の文帝(在前一八〇~前一五七)は「山沢の 禁を弛め」て農業生産の発展をめざしたが、このことで黄河中流の生態植被の破壊に方便の門を開き、黄河の泥沙が 大幅に増加し、 「黄河」という表現が現れ始めた 。

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前漢第七代の武帝(在前一四一~前八七)以後、前漢末までの間、 人口増加と乱開発が続き、下流に被害を及ぼすことになった 。

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秦漢帝国の発展と人口増加、それを支える農業生産と 河水利用の増加、植被の破壊という流れは当然予想されるところであるが、その一方で漢代には水資源の分配使用の ための「漢水令」が制定されている。この法令は下流を先に灌漑し、上流は後に灌漑することで、水資源活用の順序 を明らかにして節約を図るねらいをもっていた 。

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それが実際に施行されたのかどうかを判断する必要がある。

  漢 代 の 黄 河 治 水 策 に つ い て、 村 松 弘 一 は「 武 帝 以 前、 多 く の 豪 族 が 黄 河 下 流 域 を 拠 点 に 商 業 活 動 を 展 開 し て い た。 洪水が続き、黄河下流域の経済が疲弊することによって、結果的に豪族層の力が弱まり、漢王朝の中央集権化が進ん だ と い う 説 も あ る 」 と 述 べ、 「 実 際 は、 武 帝 も 王 莽 も 光 武 帝 も 黄 河 の 洪 水 を 治 め る ど こ ろ か 放 置 し て い た 」 と い う 。

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したがって、 「漢水令」 の実施は実際にはおこなわれなかったと考えてよいだろう。原宗子は 「前漢末から王莽期には、 華 北 全 体 に お け る 森 林 の 減 少 は 極 限 に 達 し、 耕 地 へ の 有 機 質 投 入 が 困 難 に な り 」 と 述 べ、 「 前 漢 末 に お け る「 農 村 の 疲弊」は、域内の平地を全て穀物生産地として経営しようという初発的な「大田穀作主義」が、当然ながら居住地周 辺の森林消滅という事態を招いて陥った、一つの帰着点 」

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とする。このように秦漢王朝の時代にはすでに生態環境の 問題が表面化する一方で、政権をあげての対策は講じられていなかったことが見えてくる。

  王景の治河をめぐる諸問題については後述するが、黄河の「安流」を実現した魏晋南北朝時代は黄河の氾濫が減少 し た 第 二 寒 冷 期 に あ た る。 市 来 弘 志 は、 華 北 へ の 遊 牧 系 諸 民 族 の 移 住 が 集 中 す る の は 三 世 紀 後 半 か ら 四 世 紀 前 半 で、 とくに永嘉の乱は遊牧民が華北を支配する時代の訪れを告げる極めて象徴的な事件であったという。さらに市来は山 西は長城以南で遊牧民に最も適した気候と自然環境を備えた牧畜可能な最南端地域となり、このような牧畜の影響は

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太行山脈を越えて黄河下流平原に浸透し、四世紀には河北の

付近で巻き狩りがおこなわれ、周辺に駐屯する軍団を 支える上で牧畜が少なからぬ比重を占めたと述べている 。

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すでに譚其驤は、農業に従事する漢族人口の急激な減少と 牧畜に従事する羌胡人口の迅速な増加による黄河中流域での土地利用状況の変化が、下流の洪水量と泥沙量の大幅な 減少に繋がったと指摘していた 。

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農業と牧畜の比重の変動がもたらす植被の変化が、黄河が安流できるか否かの主要 な判断基準であるというのが、その基本的な立場である 。

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  村 松 弘 一 は、 陂( 堤 ) の 建 設 が 後 漢 の と き に 始 ま っ た と し、 後 漢 初 期 に 牛 疫 な ど の 被 害 に よ り 食 糧 生 産 が 減 少 し、 農地開発が国を挙げて求められたと述べる 。

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ただし譚其驤は、黄河下流域の牧畜業の比重は前漢を上回っており、牧 畜から農業への転換は漢族の遷入ではなく、北方民族の漢化がもたらしたものと述べる。しかもその変遷過程がきわ め て 緩 慢 で あ り、 郡 県 の 増 置・ 戸 口 の 増 加 が あ っ た と は い え、 黄 河 下 流 の 安 流 無 事 の 局 面 は な お 維 持 さ れ た と す る 。

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王景治河をめぐる論戦のなかで、この時期の農業と牧畜のそれぞれが黄河流域の植生に与えた影響については、すで に拙稿で言及したところであるが 、

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この時代の人口減少もあって、流域の植生に及んだ悪影響は少なかったと考えら れる。

  隋唐王朝時代は、第三温暖期にあたる。長安と洛陽の都城の大規模な営建のため必要な林木は近隣で伐採し、増加 する人口に食糧を供給するために黄河上中流域での開墾が進んだ。唐代後期の寒冷化が農耕の発展を遅らせたとはい え 、

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安史の乱以後、黄河は第二の氾濫期に入った。江南からの食糧輸送に頼る傾向が強まるなかで、黄河の氾濫はそ の糧道を阻むことになった。唐の強盛は前漢の強盛と同様に、生態環境の破壊を対価としたものであった 。

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それにも か か わ ら ず 安 史 の 乱 の 後 も、 黄 河 流 域 に お け る 農 耕 地 の 拡 大 を 図 る 取 り 組 み が 続 い た。 『 黄 河 大 事 記 』 は、 七 八 五 年 絳 州 刺 史 韋 武 に よ る 興 建 引 汾 灌 区( 灌 田 一 三、 〇 〇 〇 余 頃 ) の 整 備、 七 九 一 年 の 刺 史 李 景 に よ る 韋 州 九 原 郡 で の 二 本 の用水路建設による数百頃の農田灌漑、元和年間(八〇六~八一五)の高霞寓による塩漬農地数千頃の灌漑、八二〇 年の霊州の光禄渠の修復による千余頃の引黄農地灌漑、八二四年の寧夏回楽県での六〇〇余頃の農田灌漑などを記録

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している 。

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ただ唐の末年になると北方の遊牧地域の低温・乾燥化が進んだため、吐蕃・党項・回鶻・南詔などの少数 民族の侵入が相次いだ。また唐末から五代十国時代にかけての黄河流域で森林植被の破壊も進んだ 。

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唐代の養馬地区 は主に渭河流域にあったが、それはこの地域の森林がすでに破壊にあっていたためである 。

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渭水・汾水といった黄河 の主要な支流も森林減少の影響を受けていた。唐から宋にかけて、渭水はまだ航運の力をもっていたが、運行する船 隻は大幅に減少したし、汾河の船運についても記載されることがたいへん少なくなった 。

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こうした黄河の主要な支流 の流量減少が、流域の生態環境の劣化を象徴していたと考えられる。

  五代十国から宋 ・ 元に至る時期は、第三寒冷期(一〇〇〇~一二〇〇年)から第四温暖期(一二〇〇~一三〇〇年) にほぼ相当している。黄河中下流にある山西・陝西・河北・河南・山東の諸省と北京・天津といった大都市を含む地 域は、黄河文化類型に属し、農業文化類型でもある。さらにこの地域では、土地への強い執着心、河流の農業に対す る束縛、伝統的な倫理思想の影響を受けた重農抑商思想などとして特色づけられる文化を生み出してきた 。

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宋代に黄 河中流域は西夏に支配される期間が比較的長かったが、肥沃な土壌をもつ河湟地域では湟水の灌漑が活用されていた し、黄河本流から引水可能な地域での農業開発も進んでいた 。

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この時代には寒冷化の進行による契丹・女真など北方 遊牧民族の華北への侵入が増加した。契丹人の侵入が続いた八〇年間の間に黄河の氾濫と決壊は四七回に及び、水利 灌漑施設は破壊され、農地は荒廃した 。

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気候寒冷化が一一二六~二七年の靖康の変を生み、後にはモンゴル軍の南下 を生んだとする見方もある 。

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また一一二八年には東京留守の杜充が金の南下を阻止するために河南省滑県西南で黄河 の堤防を決壊させ、結果として黄河は南東流して淮河に入ることになった 。

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この時期、北方人口の相対的な減少と土 地 の 耕 作 放 棄 が あ っ た が、 製 鉄 の た め の 森 林 伐 採 や 牧 場 の 拡 大 に よ っ て 森 林 の 回 復 は で き な か っ た と も 見 ら れ て い る 。

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  明 清 時 代 は 第 四 寒 冷 期( 一 四 世 紀 ~ 一 九 世 紀 ) に 相 当 す る。 そ れ は「 小 氷 期 」 の 気 候 に 当 た る と い わ れ て い る が 、

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人 口 の 激 増 も あ っ て 農 業 政 策 に 重 点 を 置 か ざ る を え な か っ た 明 清 時 代 の 統 治 者 は、 「 農 業 を 本 と し、 商 業 を 末 」 と す

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る儒家思想に拠り、重農抑商の政策を進めざるをえなかった 。

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北方民族との関係でいえば、気候寒冷化で南下を図っ たといわれるモンゴル勢力に対して五度の遠征をおこなった永楽帝の姿勢に気候変動の影響を見る視点もある 。

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急激 な人口増加は食糧供給の面でそれを支える長江方面への発展を促し、一四〇〇年頃に人口二〇〇万人前後であった湖 南省の人口は、二〇〇年後に五〇〇~六〇〇万人に、一八〇〇年には一、 七〇〇万人、一八五〇年には二、 〇〇〇万人 に達した 。

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華北は豊かな農業生産力をもつ長江流域からの食糧供給に頼らざるをえず、明清時代を通して黄河の治水 の 前 提 は 大 運 河 の 治 水 に あ っ た。 そ の た め に は 黄 河 の 泥 沙 を 海 に 流 し、 大 運 河 を 破 壊 し な け れ ば よ か っ た の で あ る 。

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明代は屯田を重視したが、万暦年間に汾水と

水に相次いで浮橋が修建されたことを取り上げて、史念海は黄河支流 の流水量減少がその修建を可能にしたと述べている 。

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黄河の流水量の不安定化は、平常時の減少と時として発生する 大洪水に象徴されるが、一七六一年七月の大洪水では花園口の流量は毎秒三二、 〇〇〇 ㎥ に達した 。

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  二〇世紀以降は、人口の急増と工業化による温室効果ガス排出量の増加によって、地球規模の温暖化が進んでいる 時代である。二〇世紀前半の黄河史に関しては、一九三八年六月に日本軍の西進を阻止するために 蔣 介石の国民党軍 が黄河大堤を切って約八九万人の住民を水死させたことが特筆される 。

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二〇世紀後半の黄河史に関しては、一九七二 年から一九九九年まで続いた断流や汚染問題などが特筆されるが、多くの関連研究があるため、本稿に関連する問題 を適宜取り上げていく。

  以上、黄河流域の寒暖の変化と生態環境の変化との間に関連性があるのか否かを考えるために、大まかな時代毎の 変動を追跡した。もとより上記の気候変動と黄河流域の生態環境との関係性は定説化しているものではなく異論もあ ると思うし、取り上げているテーマに一貫性がないという批判もあると思うが、全般的な傾向を探るためと理解して いただきたい。

  たとえ人類が存在していなくても、 太陽活動の影響などによって生態環境の変化は生じたであろう。妹尾達彦は 「自 然科学者たちの多くは、人類の歴史時期に人間の活動によって黄土高原が現在のような景観になったのではなく、約

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一万年前の更新世(洪積世)の終わりには、黄土高原とオルドスの砂漠は、すでに現在と類似した景観であったと考 えている」と述べている 。

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一方で、史念海は「歴史時期以前に黄土高原にはすでに溝壑があったのは事実である。し か し 歴 史 時 期 の 溝 壑 の 形 成 と 変 化 は や は り 相 当 に 頻 繁 で あ り 重 要 で あ っ た。 …… 歴 史 時 期 に は 人 為 作 用 が 増 え た が、 こうした人為作用の起こした影響は、森林の乱伐、土地の乱開発などやはり自然の要素をはるかに超えている」と述 べた 。

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史念海の長期にわたる文献の渉猟と丹念な現地調査をふまえた上記の主張は、現代の中国において次々に生起 する生態環境問題を目の当たりにすれば否定し去ることはできないだろう。生態環境の破壊に人為的要素が大きけれ ば、人為的要素は逆に生態環境の回復・維持に寄与できる可能性をもっているともいえるだろう。そこで治河をはじ めとする黄河流域への人々の働きかけとその背景となる思想・宗教などの歴史的考察を通して、黄河流域の生態環境 保全のために人為的営為はどの程度寄与しうるのか、その可能性を見ていくことにする。

二、黄河流域の生態環境に対する人為的営為の歴史的考察

  まず中国の歴史のなかで黄河流域に直接的、間接的に関わる生態環境保護に繋がる思想をもち、行動した人物の考 察 か ら は じ め た い。 た だ 全 体 で 二、 〇 〇 〇 頁 を 超 え る『 黄 河 文 化 史 』 で も、 思 想 史 的 な 側 面 に つ い て の 多 少 の 言 及 は あっても、環境問題に関わる掘り下げた考察は見られない。そのため中国の環境意識の歴史的考察を試みた『中国古 代環境文化概論』に拠りつつ思想史的考察を試みる。

  中国古代の儒家の環境思想は、 全体を重視して極端に走ることに反対し、 「 両

ふたつ

を執りて中を用い」る思想方法と「中 道 」 の 原 則 を 堅 持 し、 「 天 人 之 性 」 だ け で な く「 尽 物 之 性 」 を 強 調 し、 天 人 兼 顧、 天 人 和 諧 を 主 張 し て き た。 こ れ は 一種の素朴な弁証法的思想で、現代の人々が普遍的に認めている人と自然とが和諧共生し持続発展できることと謀ら ずして合っているとする 。

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この儒家に比べてより重要性をもっているのは、老子・荘子を代表とする道家であり、道

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家の環境思想は古代の環境思想のなかで最も重要な構成部分となっている 。

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その思想は中国古代の早熟な農業文明の 産 物 で あ る が、 当 時 は す で に 森 林 の 濫 伐、 「 林 を 焚 き て 猟 し 」「 沢 を 渇 し て 漁 す 」 と い っ た 環 境 問 題 が 出 現 し て い た 。

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こうした問題に対処するために道家は「小私寡欲」を主張したが、それは道徳的修養を強化して貪欲さを抑え、消費 水準を下げて大自然に対する搾取を減らす意味をもっていた 。

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道家より後にも陸贄や白居易の如く、資源有限論や財 富有限論ともいうべき思想が生み出されており、中国古代の自然資源の開発利用の知恵の結晶といえる 。

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  諸子百家のなかでは、墨家を代表する墨子も環境問題に関連して取り上げるべき人物であるが、かれは厚葬に反対 し、薄葬を主張した最も有名な思想家であった 。

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中国古代の支配階級でありながら薄葬を主張した理由を見ると、厚 葬 が 盗 掠 に 繋 が る こ と を 怖 れ て の ケ ー ス が 多 か っ た よ う で あ る が、 資 源 の 節 約 に つ な が る も の で も あ っ た 。

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一 方 で、 秦の始皇帝や隋の煬帝らは大規模な土木工事をおこしているが、結果として生命環境の破壊に大きく影響しているの である 。

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また人々の環境保護に向けた目標は、時代とともに変化していった。唐以前の人々は動植物と森林の保護を 重視したが、宋以後は牛馬の保護に重点が移った。それは農業を発展させて軍事需要を満たすためであって、中国の 封建社会後期の環境保護意識は比較的淡薄であった 。

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以上のような中国環境思想史の分析は、当然黄河流域を含めた 中国環境史のなかで思想家たちが果たしてきた役割を比較し評価するものとなっているが、思想家たちが生起する環 境問題に主体的、積極的に関わったかどうかという問題の解明は十分になされているとはいえないだろう。

  黄河史は治水の歴史でもあるが、最も関心を呼び論戦が続けられてきたのは、後漢の王景による治水である。王景 の業績については、 『後漢書』巻七六「王景伝」にある 地 勢 を 商 度 し、 山 阜 を 鑿 ち、 砥 績 を 破 り、 溝 潤 を 直 截 し、 衝 要 を 防 遏 し、 壅 積 を 疎 決 し、 十 里 に 一 水 門 を 立 て、 更

こもごも

あい洄注せしむ(商度地 埶 、鑿山阜、破砥績、直截溝潤、防遏衝要、疎決壅積、十里立一水門、令更相洄注) という原漢文三三文字に記されているに過ぎない。この王景の黄河治水が、その後八〇〇年にわたる「安流」をもた らしたと主張したのは譚其驤で、今日までこの説をめぐって議論が繰り返されてきた。その詳細は濱川栄が整理して

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お り、 譚 其 驤 説 の 概 要 か ら は じ め て、 任 伯 平 に よ る 譚 説 批 判、 鄒 逸 麟 に よ る 譚 説 擁 護 と 任 説 批 判、 趙 叔 貞・ 任 伯 平・ 任世芳等による譚説批判、王守春による趙・任説批判などさまざまな視点からの考察も含めて紹介している 。

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濱川は そ の 結 論 と し て「 「 長 期 安 流 」 は や は り 基 本 的 に 肯 定 さ れ る べ き で あ ろ う 」「 「 人 為 的 活 動 も 相 当 に 影 響 し た も の と 考 えられる」としているが、妥当な結論と考えられる。

  黄河の河災を減少させようとする人為的活動は、黄河流域の生態環境保全に向けての人為的活動に通じるものがあ る。朱子学の研究者であった木下鉄矢は「黄河・華北平原の歴史と治河事業を支えた思想」を論じるに当たって、ま ず王景の事業の具体的な展開とねらいを取り上げている 。

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さらに「循吏列伝」の「循吏」について「簡潔にまとめる なら、自身が赴任した地域の民生の安定と向上に腐心し、灌漑設備の起工などインフラ整備を行い、また水利権を平 等に行使するルールを作るなど生産の向上、社会秩序の充実を通して地域社会の安定、繁栄をもたらす事業を推進す る民政官」としている 。

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木下は、黄河治水事業に積極的に貢献した人物として明代の潘季馴(一五二一~九八)を取 り 上 げ、 そ の 治 河 構 想 の 基 本 は「 束 水 攻 沙( 水 を 束 ね て 沙 を 攻 め る )」 で あ り、 黄 河・ 淮 河・ 京 杭 運 河 の 三 つ を あ い 関連する一つの河川システムとして捉え、 「体系的な施策システムを構築する意味では「河川工学」の可能性を示し、 画期をなすものであった」と評価する 。

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ついで清代の 靳 輔とそのブレインである陳 潢 の治河策については、決壊の起 こ る 原 因、 河 川 シ ス テ ム 全 体 の 機 能 低 下 の 原 因 と な っ て い る 沙 泥 の 堆 積 に よ る 閉 塞 の 改 善 の た め の 清 口 の 疎 通 工 事、 高家堰の堰堤機能向上の工事、京杭運河の浚渫、堤防の改修などをおこなったが、これは中国治水史上の頂点を刻む 治河施策の提案と位置づけることができるだろうと述べる 。

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黄河治水史上に残る潘季馴以下の人物の事蹟を取り上げ た上で木下は「在地住民の窮状を救い、 その生活を安定、 向上させる民政という職務をまさにそれにふさわしい「仁」 という情熱と「学」という努力をもって細心に果たすべし、という朱子学の精神の効用のもとにあったということが できるであろう 」

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と述べる。こうした朱子学の素養を身につけた官僚による治水に向けた献身的努力は、生態環境問 題解決に向けた人為の努力の可能性を示すものといえるのではないだろうか。

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  黄河が抱えるさまざまな分野に関わる研究の進行とともに、その水準は上がり、より多角的な成果が生み出される ようになってきた。例えば、リモートセンシングの方法を用いて前漢期黄河古河道の復元を試みた長谷川順二は、中 国 古 代 専 制 国 家 と 灌 漑 農 業 と の 関 係 に つ い て「

RS

デ ー タ、 特 に

SRTM-DEM

を 用 い た 地 形 分 析 に 基 づ け ば、 前 漢 あ るいはそれ以前において黄河の河水を直接引いた水利灌漑工程はひとつとして実施されていない」という結論を出し ている 。

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黄河の断流について分析した福嶌義宏は「黄河の河川流量低下は最近の降水量減少とともに、黄河中流部に おける森林被覆の努力が実ってきた結果、利用可能な河川流量が低下した」とする従来の一般的評価を超える解析結 果 を 出 し て い る 。

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黄 河 の 大 洪 水 に 関 し て も、 一 八 四 三 年( 道 光 二 三 ) の 三 門 峡 河 段 に お け る ピ ー ク 時 の 流 量 が 毎 秒 三 六、 〇 〇 〇 ㎥ で あ っ た こ と が、 清 の 治 河 大 臣 の 奏 折 文 と 二 度 わ た る 水 工 模 型 試 験 や 各 種 の 計 算 方 法 で 証 明 さ れ て い る 。

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  黄河環境史の研究対象は、現代の中国も含まれる。黄河流域住民の貧困は、生態環境問題の解決を困難にしている 大きな要因である。なかでも二一世紀初頭の山西省を見ると、省内の一一九県区(市区)で、国家の扶貧開発工作重 点県が三五、省定貧困県が二二で、貧困県の数は全国第七位となっている 。

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山西省の農民の収入は少なく農地の九五 %は古くより旱地で、灌漑に頼らざるをえず、整備維持のための資金の投入は不可欠で、欠水は土壌土質の劣化を生 んでいる 。

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陝西省など黄土地帯についていえば、農業経営では生産規模が小さく産業構造が単一であることが、黄河 中流域の黄土丘陵溝壑区に共通するもので、付加価値の高い農業生産には縁遠い 。

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陝西省韓城市の調査では、一年一 作という粗放的な農地利用が続けられ 、

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退耕還林区などでは花山椒が植えられているが、収穫作業に関わる人件費比 率の高さは大きな負担になっている 。

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このような地域的特質が農業の規模拡大と収益増加を阻み、貧困解消の壁とな っている。

  黄河を母なる河とする立場より流域の環境問題を論じた哲夫は「一方で(黄河という)母親の乳は年々減り、一方 で沿黄都市の工業・生活用水は年をおって増加し、大水漫灌の風はしばしば禁じても絶えない。地方は沢を渇して漁

(12)

をし、沿黄の上流地区ではややもすれば投資が黄河の供水量を超える千億元の重化学工業におこなわれている。国家 は大量の黄河流域の「十五小」企業を閉じたが、沿黄の多くの小廠を閉じて大廠に変えても、汚水排出の総量はかえ って増えている 」

11

と実態を述べる。農地に関しても化学肥料と農薬使用量の年をおっての増加、土壌汚染と農産品中 の残留農薬等の基準値オーバー、汚染による漢方薬生産への悪影響などが指摘されている 。

11

  黄河流域全体を見た環境政策を進める上で、生態補償制度を打ち立て、上流の生態保護を奨励する機制を打ち立て ることは、有効な道であるといわれ、住民の受けてきた教育の程度と収入の水準が生態保護を進める意思と相関関係 にあるといわれる 。

1(

また生態環境が悪化した地域では、生態移民が最も根本的で有効な取り組みであり、寧夏と内蒙 古には少なからぬ成功例があるとして、鄂爾多斯市東旺区長青村の成功例があげられている 。

11

また黄河流域の生態環 境保全をめざす退耕還林政策は現代の代表的な政策である。黄河上流の馬家坪などでの長期にわたる現場調査による 検証で、関良基らのグループは、林間間作の合法化、林間放牧の合法化、苗木の供給に関する諸規則の緩和、代替生 業機会育成のための予算措置といった政策提言をおこなっている 。

11

これは八年間の退耕還林期間の食糧補助が打ち切 られた後、その取り組みを継続させるためにも不可欠の政策提言であり、指導監督に当たる地方政府側と地元住民と の認識ギャップを埋める提言ともなっている 。

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  一方で、黄河流域全体に配慮しつつその実態を探り、黄河を生命体として再生させようという『生命体「黄河」の 再生』の基本姿勢は評価しつつも、黄河の水資源問題解決の切り札として南水北調の西線工程を指摘するこの書の姿 勢に、筆者は違和感を覚えている。その理由を以下に簡潔に述べる。まず南水北調西線工程が着工されるまでの取り 組みとしては、南水北調の中線工程と東線工程がある。そのなかで丹江口ダムより引水する中線工程は、南流する漢 水の水量を大幅に減少させて流域の欠水状況を深刻化させている。東線工程は調水コストの高さに加えて汚染水を天 津などに運び、長江下流での塩水遡上を招く可能性がある 。

11

  長江と黄河の上流域を中心とする南水北調の計画を中期的に見れば、西線工程の第一期と第二期の工事後から第三

(13)

期工事が発効するまでに、黄土高原から黄河に流入する泥沙総量を五億㌧減少させ、長江上流域より九〇億 ㎥ の水を 黄河上流域に調水し、この計画を有効に運用すれば、黄河の水沙問題は若干改善されるだろうとする。さらに長期的 には西線工程の第三期計画が完成すれば、流入する泥沙総量を八億㌧減少させ、一七〇億 ㎥ の水を黄河に調水できる とする 。

11

巨費と難工事が予想されるこの壮大な計画は、結局のところ長江上流域に深刻な欠水状況を生み出すことに なり 、

11

青蔵高原の水資源の限界を考えない構想となっている。

おわりに

  黄河環境史の研究対象となる時代は、先史時代から現代までとなり、かつての氾濫と治水を主要な研究対象として きた黄河史から流域の生態環境の破壊と修復・保全を主たる研究対象とする分野が分かれ独立してきたといえるだろ う。本稿は、日本と中国の黄河流域の環境史研究を踏まえ、竺可楨にはじまる気候変動の波動と黄河流域の歴史的諸 相を関連させて、おおまかなスケッチを試みたが、そこから一定の法則性を見出すことは難しかった。気候変動と北 方民族の南進や靖康の変、明の永楽帝の北征などとを結びつける考察は確かに魅力的ではあるが、断定的に結論づけ ることはできない。王景の黄河治水をめぐる論争は、黄河環境史における主要な論争点の一つになってきたが、黄河 全流域の統一的管理については漢代における「漢水令」以外にめぼしいものはない。

  黄河史の研究は、さまざまな科学的方法を用いることによって、それぞれの分野における分析が進んできた。その 一方で、人間の主体的営為が生態環境に及ぼす影響を考えるならば、歴代の思想家たちの黄河に代表される生態環境 に対する思想と行動を考察する必要がある。こうした視点から儒家・道家・墨家などの生態環境に対する思想と行動 を取り上げたが、 全体的に見て思想家たちの自然を愛護する一方で、 節約を旨とする姿勢を評価する姿勢が目立った。 ただ木下鉄矢が取り上げた朱子学の精神を体現した歴代の官僚の取り組み姿勢の考察は、今後研究を深めるべき方向

(14)

性を示しているといえよう。また退耕還林政策への地方政府関係者の対応を取り上げたが、流域全体を見通す視野の 広さと地域との対話を通して現状を掌握して具体策を実行する要員の育成という方向性が必要と考えられる。

  南水北調の三工程の有効性を強調する方針を批判したのは、中国の水資源総量が限られているなかで、黄河流域に とどまらず長江流域を含めた広い視野をもった政策の立案と実行が必要と考えたためである。二〇~二一世紀の黄河 流域の環境変化も黄河環境史の研究対象である。黄河流域の水資源の減少と汚染が進むなかで、上流・中流・下流す べてを見通した水資源の統一管理のための中央政府の全体計画策定、その計画に盛り込まれた各省区の水資源分配案 の遵守、欠水地域に適した産業構造への転換などは、利害関係の調整も必要であって困難を伴うとはいえ、実現をめ ざして進むべき方向である。ただ上部機関の策定した諸計画の完遂を至上目標とするのではなく、現場の声を踏まえ た柔軟な取り組みが不可欠であり、その重要性は退耕還林計画の実践においても見られる。生態環境問題は、人間が 関わる面が大きい。歴史上、朱子学の精神を体現すべく奮闘した指導者たちの努力の姿を現代に生かすことは重要で あり、人為の可能性を追求していくことは、今後の黄河環境史研究の可能性を広げていくことにつながるだろう。

[註]

(1)『神女大史学』第二〇号、二〇〇三年、所収。

(2)水島司編『環境に挑む歴史学』(勉誠出版、二〇一六年)。

(3)李国英・芦田和男・澤井健二・角哲也編著『生命体「黄河」の再生』(京都大学学術出版会、二〇一一年、以下書名のみ示す)

一九〇頁、には、「黄土高原の激しい水土流失は二五~三〇万年前にすでに起きていた。より深刻になったのは五万年前で、人類が

活発に活動を始めるより早かった」とある。

(4)宋代の黄河治水に関しては、宮崎市定「王安石の黄河治水策」(『宮崎市定全集』第一〇巻、所収)があり、旧法党と新法党の論

戦にも関係する興味深い論文である。

(15)

(5)村松弘一「秦漢環境史研究の現在」(『中国古代環境史の研究』九~二九頁)は、秦漢時代の当該地域を多角的に分析している。

なお中日歴史地理合作研究論文集の第一輯として史念海主編『漢唐長安与黄土高原』(陝西師範大学中国歴史地理研究所、一九九八

年)と同第二輯として史念海主編『漢唐長安与漢中高原』(陝西師範大学中国歴史地理研究所、一九九九年)が刊行され、日本でも

関連書が出版されているが、その詳細については紙幅の関係もあり省略する。

(6)張純成『生態環境与黄河文明』(人民出版社、二〇一〇年、以下書名のみ示す)八二~八三頁。

(7)李学勤・徐吉軍主編『黄河文化史』(上・中・下巻、江西教育出版社、二〇〇三年、以下書名のみ示す)三頁。

(8)『生態環境与黄河文明』三八頁。

(9)同前書、五六頁。

10)同前書、四九頁、五一頁。

11)同前書、五七頁。

12)前註(6)。

13)『黄河文化史』二五一頁。

14)同前書、五七九頁。

15)史念海『黄土高原歴史地理研究』(黄河水利出版社、二〇〇一年、以下書名のみ示す)一〇頁。

16)同前書、五〇四頁。

17)同前書、八二五頁。

18)原宗子『農本主義と「黄土」の発生―古代中国の開発と環境二―』(研文出版、二〇〇五年、以下『農本主義と「黄土」の発生』

と略す)二二五頁。なお中国古代の山林藪沢に関しては村松弘一も考察している(『中国古代環境史の研究』第六章)。

19Robert B.Marks)黄土は肥沃とする説は最近でも主張されており、馬立伯()著、関永強・高麗潔訳『中国環境史:従史前到現代』(原 題はChina:Its Environment and History)(中国人民大学出版社、二〇一五年、以下『従史前到現代』と略す)四二頁では、「歴史

(16)

家の何炳棣がいうように、黄土はきわめて肥沃で、雨のあとの土壌の毛細管の作用で栄養物が絶えず地面まで運ばれていた」と述べ、

同書六九~七〇頁では栄養物質はたいへん豊富で、土地の耕作では休耕の必要がないと述べている。

20)原宗子前掲書、一二頁、一一〇頁、二四五頁。

21)縄田浩志「砂漠化・砂漠化対処の歴史」(山中典和編『黄土高原の砂漠化とその対策』(古今書院、二〇〇八年)一〇三頁。また

原宗子『環境から解く古代中国』(大修館書店、二〇〇九年)二〇二頁では、桑の栽培が表層土壌の飛散を防ぎ、養蚕の産業廃棄物

―蚕矢の耕地への投下が地力減退を防いだと述べている。

22)『従史前到現代』一〇九頁。

23)『生態環境与黄河文明』一〇五頁。

24)譚其驤「何以黄河在東漢以後会出現一個長期安流的局面」(譚其驤主編『黄河史論叢』復旦大学出版社、一九八六年、八五頁)。

25)趙安啓・胡柱志主編『中国古代環境文化概論』(中国環境科学出版社、二〇〇八年、以下書名のみ示す)一七三頁。

26)『中国古代環境史の研究』三六五頁、三六九頁。なお王莽が黄河の氾濫を治めようとしなかった理由は、河水が東去し、元城(今

の河北省大名付近)の祖先の墓が黄河の害を受けずに済むようになったと考え、あえて大改道しなかったことにあるとする(黄河

水利委員会黄河志総編輯室編『黄河大事記(増訂本)』黄河水利出版社、二〇〇一年、以下『黄河大事記』と略す、一八頁)。

27)『「農本」主義と「黄土」の発生』四六八頁。

28)市来弘志「魏晋北朝期黄河下流平原における牧畜民の活動」(鶴間和幸・葛剣雄編著『東アジア海文明の歴史と環境』東方書店、

二〇一三年、所収)。

29)譚其驤註(

24)論文、前掲『黄河史論叢』九〇~九一頁。

30)『生態環境与黄河文明』一三一頁。

31)『中国古代環境史の研究』二六七~二六八頁。

32)『黄河史論叢』九四~九五頁。

(17)

33)前註(1)。

34)安史の乱後、黄河流域には吐蕃が進出したが、占領した地域の大部分では牧畜が営まれ、吐蕃の圧迫で内遷した党項・吐谷渾・

沙陀の諸部も遊牧に従事していた(『黄土高原歴史地理研究』五七八頁)。

35)『生態環境与黄河文明』一六二頁。

36)『黄河大事記』三三~三四頁。なお唐代の一頃は約五八〇㌃である。

37)彭鎮華・彭揚華等著『黄河史話』(中国林業出版社、二〇一六年)三三九~三四〇頁。

38)『黄土高原歴史地理研究』一五〇頁。

39)同前書、一二五~一二七頁。

40)『黄河史』一九二五頁。

41)同前書、一七三二頁、一七七七頁。農業開発とともに都城・開封の営建のため呂粱山中で林木の伐採が進み、その規模は唐代よ

り大きく、汾水流域での森林減少が続いた(『黄土高原歴史地理研究』一五一頁)。

42)『生態環境与黄河文明』一六五頁。

43)同前書、二〇三頁。

44)『黄河大事記』五二頁。『中国古代環境史の研究』四〇二頁。長谷川順二『前漢期黄河古河道の復元―リモートセンシングと歴史

学―』(六一書房、二〇一六年)一二〇頁。

45)『従史前到現代』一三三頁、一四〇頁。

46)『黄河史話』三四三頁。

47)『黄河文化史』一九四四頁。

48)『生態環境与黄河文明』二四四頁。

49)『従史前到現代』二七三頁。

(18)

50-)松田吉郎「黄河の治水史」(『月刊しにか』二〇〇一一「特集・黄河」所収)。

51)『黄土高原歴史地理研究』一二八頁。

52)『黄河大事記』一〇五頁。

53)『黄河大事記』一八三~一八四頁。

54)妹尾達彦「環境の歴史学」(『アジア遊学』二〇、特集「黄土高原の自然環境と漢唐長安城」勉誠出版、二〇〇〇年、所収)。

55)『黄土高原歴史地理研究』二二一頁。

56)『中国古代環境文化概論』一五頁。

57)同前書、七二頁。

58)同前書、一一七頁。

59)同前書、一三一頁。

60)同前書、一四四頁。

61)同前書、一五五頁。なお浅野裕一『古代中国の文明観―儒家・墨家・道家の論争―』(岩波書店、二〇〇五年)は、儒家が王公・

大人の奢侈・贅沢を社会秩序維持の装置とした(同書、八五頁)とする一方で、これと対立した墨家の節葬(薄葬)の主張につい

て詳しく解説し、封建体制の維持につなげる手段の一環としたととらえている(同書、九一頁、一〇四頁、一一四頁)。

62)『中国古代環境文化概論』、一五六頁。

63)同前書、九九頁。

64)同前書、二〇九頁。

65)濱川栄前掲書、三二三~三六三頁。

66)福嶌義宏・谷口真人編『黄河の水環境問題―黄河断流を読み解く―』(大学図書、二〇〇八年)第六章。

67)同前書、一三七頁。

(19)

68)同前書、一四八頁。この潘季馴の業績に対しては評価しない見方もある。例えば岑仲勉『黄河変遷史』(中華書局、一九五七年、

二〇〇四年に再版)五三九頁では、潘季馴は「必ず先ず河水自然の性を求めるべし」というが自然の重要な一点をつかめず、「治河

に一労永逸の道なく、ただ補偏救弊の策あるのみ」といいながら理論と実践が密接に繋がることがなかった、と批判している。

69)『黄河の水環境問題』一五一頁。安徽巡撫靳輔は、潘季馴の「束水攻沙」の基本方針を継承して流域の現状をふまえた治河策を上

奏している。そのことは『清史稿』巻一二六「河渠」に「束水刷之」や「束水趨海」という主張が見られることからも推測できる。

70)『黄河の水環境問題』一五四頁。

71)長谷川順二前掲書、二二七頁。

72)福嶌義宏『黄河断流―中国巨大河川をめぐる水と環境問題』(昭和堂、二〇〇八年)一七四頁。

73)史輔成・易元俊・慕平編著『黄河歴史洪水調査・考証和研究』(黄河水利出版社、二〇〇二年)一二五頁、一九二頁、二〇一頁。

74)李仙娥等著『黄河流域古村落生態発展模式与政策評価研究―以晋陝為例』(陝西人民出版社、二〇一六年)九頁。

75)同前書、三一~三二頁。資金不足は荣河鎮のリンゴ栽培を見ると、品質向上と貯蔵販売条件の改善に繋がっていないことが指摘

されている(同書、三三頁)。

76)陳渠昌・白霞「黄土丘陵溝壑区小流域多水源聯合配置研究」『水資源保護』二〇一〇年、第二六巻第一期。

77)小島泰雄「陝西韓城市農村の地域性」(石原潤編『西北中国はいま』ナカニシヤ出版、二〇一一年、所収)。

78)高橋健太郎「韓城市における花サンショウ栽培と「退耕還林」」(前掲『西北中国はいま』所収)。

79)哲夫「黄河十八拍(下)一走黄河看水利」『環境教育』(中華人民共和国環境保護部主管)第一三七期、二〇一一年一一月。

80)董陳成・劉桂環・李岱・李栄生・郎一環「黄土高原生態脆弱区循環経済発展模式研究―以甘粛隴西県為例」『生態環境与保護』(中

国人民大学)二〇〇五年一一月。

81)「黄河流域居民生態補償意願及支付水平分析―以山東省為例」(原載『中国農村経済』二〇〇九年五月)『生態環境与保護』

二〇一〇年第三期。

(20)

82)黄詩鏗「黄河中游地区林業生態環境建設対策初探」(原載『中国科技論壇』二〇〇四年五月)『生態環境与保護』二〇〇四年一二月。

83)関良基・向虎・吉川成美『中国の森林再生―社会主義と市場主義を超えて―』(御茶の水書房、二〇〇九年)一八八~一九〇頁。

84)同前書、一九一頁によれば「中国政府は、二〇〇七年八月になって退耕還林政策を見直し、林間での間作を合法化するとともに、

代替生業機会振興のための予算措置も具体化される内容であった」と提言に合致する改革になりつつあることを評価している。

85)前掲拙著第一〇章。

86)『生命体「黄河」の再生』一六〇~一六一頁。

87)前註(

82)。

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