︿論説﹀
近 世 後 期 に お け る 浅 草 寺 の 寺 務 執 行
幕府寺法上の僧侶処罰に関する寺務を中心としてー
小 島 信 泰
45
目次
はじめに
第一章別当代および役者の寺務
第一節別当代の寺務規定
第二節役者の寺務
第三節対幕府関係の寺務
第二章僧侶処罰に関する寺務
第一節僧侶処罰の二元性
第二節僧侶処罰に関する一事例
①事件の概要
②訴訟手続
③別当代および役者の関与
結び
はじめに
ユ 筆者は︑前二稿で近世後期における浅草寺の別当代および役者の就任過程を論じたが︑本稿ではこの両者の役職就
任後の寺務執行について考察する︒
当時︑浅草寺別当を兼帯した東叡山門跡(寛永寺住職)の下にあった別当代は︑浅草寺の本坊伝法院に住して︑こ
れを補佐する役者(定員二名︒月番で交代勤務した)とともに浅草寺のあらゆる寺務を執行した︒すなわち︑一山を
代表して︑幕府や本寺である寛永寺に関する寺務をはじめ︑一山・末門の支配に関する寺務や寺領・門前の支配に関
(3)(4>する寺務を行ったのである︒本稿では︑このうち一山の支配に関する寺務を︑﹃浅草寺日記﹄(以下﹃日記﹄)に記さ
れた寛政二二七九〇)年の僧侶処罰に関する事件を通して述べてみたい︒
ただし︑ここで注意を要するのは︑江戸時代の刑罰権は幕府が排他的に有したのではなく︑大名はもちろん公家や
ら 特殊民そして寺社もある程度の刑罰権を幕府によって認められていたことである︒したがって︑僧侶処罰に関しても︑
宗法.寺法に準拠した教団寺院内の僧侶処罰︑すなわち筆者のいう宗派寺法上・個別寺法上の僧侶処罰があったので
あるが︑本稿で論じる僧侶処罰とはこれではなく︑あくまでも幕府法である寺法︑すなわち筆者のいう幕府寺法に準
拠して行った僧侶処罰のことである︒ところが︑幕府はこうした場合においても︑各宗派の統制機関を介して僧侶処
罰に関するある一定の手続を進めていた︒そして︑これは各宗派の統制機関にとって重要な寺務であったのである︒
そこで︑本稿では︑浅草寺が所属する関東天台宗の統制機関であった寛永寺の下にあって︑浅草寺の実際の寺務執行
に当たった別当代および役者のこうした僧侶処罰に関する寺務に注目してみたい︒寛永寺の寺務については︑﹃日記﹄
によって解明できた事実に触れるにとどめ︑詳細は今後の課題としたい︒なお︑僧侶が俗界法上の犯罪を起こした場
合︑すなわち通常の犯罪事件においては当然に幕府が刑罰権を発動したが︑これに関する教団寺院側の寺務について
も他日を期したい︒
このように︑本稿は︑幕府寺法上の僧侶処罰において︑浅草寺の寺務執行機関である別当代および役者がどのよう
な役割を果たしていたのかを考察することによって︑両者による寺務執行の一側面を明らかにしようとするものであ
る︒
*本稿では︑漢字については︑旧字体を現行字体に変えた︒
近 世 後期 にお け る浅 草 寺 の寺 務 執行
47注(1)﹁近世後期における浅草寺別当代の就任過程﹂(﹃創価法学﹄第二八巻第一号︑一九九八年︑以下﹁拙稿‑一九九八﹂)︑
﹁近世後期における浅草寺役者の就任過程﹂(同第二八巻第三号︑一九九九年︑以下﹁拙稿‑一九九九﹂)︒
(2)本稿は︑筆者が構想する浅草寺の寺法体系の五つの部門のO﹁寺務執行法﹂に関連する論考である︒浅草寺の寺法体系に
ついては︑﹁近世寺院法の体系的考察のための一試案近世仏教の研究史と浅草寺の寺院法﹂O︑口(﹃創価法学﹄第二
五巻第一・二合併号︑同第二六巻第一号︑一九九六年︒以下﹁拙稿‑一九九六﹂)︑参照︒
ここでは︑浅草寺の寺法体系を構成する各部門を記しておく︒
O﹁一山機構法﹂
⇔﹁寺務執行法﹂
の﹁寺中寺院運営法﹂
⑳﹁僧侶支配法﹂
㈲﹁世俗関連法﹂
(3)拙稿﹁近世寺院法の研究ー金龍山浅草寺の場合﹂(﹃創価大学大学院紀要﹄第八集︑一九八六年︒以下﹁拙稿ー一九八
六﹂)︑参照︒
(4)浅草寺日並記研究会編︑第一巻・第二巻は金龍山浅草寺出版部︑以下の各巻は吉川弘文館︒一九七八年に第一巻が刊行さ
れ︑全三〇巻の刊行が予定されており︑既刊一九巻︒
(5)石井良助﹃日本法制史概説﹄(創文社︑一九六〇年改版)四七〇頁以下︑平松義郎﹃近世刑事訴訟法の研究﹄(創文社︑一
九六〇年)本論第一部︑参照︒
(6)幕府寺法︑宗派寺法︑個別寺法については﹁拙稿‑一九九八﹂︑参照︒幕府寺法上の僧侶処罰については︑拙稿﹁﹃浅草
寺日記﹄に記された寛政三年の僧侶刑罰法規についてー近世後期における僧侶刑罰の一飽﹂(﹃創価大学創立二十五周年
記念論文集﹄︑一九九五年︒以下﹁拙稿‑一九九五﹂)︑参照︒
(7)平松・前掲書︑三三九頁以下︒
(8)浅草寺別当である東叡山門跡︑浅草寺本坊に住した別当代および別当代を補佐した役者の関係についてはまだ研究の途上
にあるが︑東叡山門跡の下で浅草寺の実際の寺務を寺内にあって行ったのが別当代およびその補佐役である役者であったこ
とは確かなので︑本稿では別当代および役者の寺院機関としての立場を総称して寺務執行機関と呼ぶことにする︒
第一章別当代および役者の寺務
別当代および役者の実際の寺務に関する全般的な記述は︑こうした小論では不可能なのでそれは今後の課題とし︑
ユ ここでは成文化された別当代の寺務規定と役者の寺務の大概について述べておきたい︒
第一節別当代の寺務規定
別当代には︑浅草寺外部の僧侶が寛永寺の東叡山門跡によって任命された︒﹃日記﹄によると︑以下に述べるよう
に︑別当代はその任命に際して寛永寺より﹁被仰渡書﹂一通を下されているが︑これは別当代の寺務の大綱を規定し
たものである︒
﹃日記﹄に記された最初の別当代就任に関する記事には︑
一今日坊官衆於御用部屋︑常応院御役儀勤方等被仰渡書付壱通御渡︑御書付之趣全先年之通︑右之内此度御改被仰渡候者︑常
応院初召使之者共御台所焚出喰捨二被仰付候︑此問被仰渡候三人扶持者別段二被下置候︑且御役衣も先年之通被下置候由︑
大西民部卿御書付御渡之
近世 後 期 にお け る浅 草寺 の寺 務執 行 49
とあり︑宝暦一〇(一七六〇)年=月二九日の寛永寺における就任式で︑新別当代常応院憧犀は寛永寺坑狸より浅
草寺別当代としての役儀勤方等を仰せ渡された際に書付一通を渡されていて︑その内容は大筋において前別当代就任
時におけるものと同様であったと記されている︒したがって︑前別当代︑すなわち初代別当代の理乗院慧道の就任に
際して︑すでにこうした書付が渡されていたことは明らかであるが︑この記事には同書付の内容が記されていないの
で︑そこにどう規定されていたかは不明である︒
ところが︑天明五(一七八五)年=月の第六代別当代境智院秀亨の就任時には︑
ら けられるようになっており︑幸い次のような全文が﹃日記﹄に掲載されている︒
一 一 一 一 一
この書付は﹁被仰渡書﹂と名付
被仰渡書
本堂平日修法等之儀︑先規之通怠慢有之間敷事
浅草寺衆徒寺僧末門等進退諸願其外法儀之義者︑別当代汐伺之上取計可有之事
公儀二掛り候儀者︑是又別当代江伺之上︑右可為同断事
惣而金銀出入之儀者︑出役御納戸役汐掛り御用人江申聞取計可申事︑諸勘定請払帳面見改之上連印可有之事
惣而御修復御入用等井御勝手向諸入用等之儀︑多少二不限御勝手役無油断遂吟味候上︑猶又掛り御用人御納戸役取調書付を オカ 以相調取計可申候︑別当代二も御為筋之儀を無如在心付可有之事
信心之輩寄進物之類︑或者御益筋等之儀申立候もの有之候節︑是又右可為同断事
於浅草寺勧化等之儀勿論堅停止之儀二候得共︑近頃紛敷義略相聞候︑右体之企仕候もの於有之者︑急度可為越度事
境内破損場所等御勝手役︑堂番等見回り之儀二候得共︑猶又別当代無油断御修理所心付可申事
右之条々可被相心得候
巳二月
ここには︑宗教上の儀式から一山末門の支配︑寺院財政︑寺院建築等について規定されており︑別当代の寺務の大
綱を窺い知ることができる︒本稿はこの﹁被仰渡書﹂を下された第六代別当代境智院秀亨の時代を中心に論じること
になるが︑特に第三条の﹁一公儀二掛り候儀者︑是又別当代江伺之上︑右可為同断事﹂という規定が以下の論述に
関係することになる︒
注(1)﹁拙稿i一九九六﹂︑参照︒
(2)﹃日記﹄第二巻︑宝暦一〇(一七六〇)年=月二九日の条︑六二五頁︒
なお︑﹁拙稿‑一九九八﹂で筆者は︑この﹃日記﹄の記事によって﹁被仰渡書付﹂と名付けられた書付があったかのよう
に述べたが︑これは誤りであり︑この箇所は以下に述べるように︑(寛永寺における就任式で新別当代常応院性洞が︑寛永
寺坊官より浅草寺別当代としての役儀勤方等を)﹁仰せ渡され︑(坊官が)書付﹂(一通を渡し)︑と読むのが正しいと思われ
るので︑ここに訂正する︒そして︑同じく以下に述べるように︑﹃日記﹄によると遅くとも天明五(一七八五)年=月の
第六代別当代境智院秀亨の就任時までには︑この書付が﹁被仰渡書﹂と名付けられていたと考えられる︒
(3)歴代の別当代の名称と在任期間については︑﹃日記﹄第一巻の﹁解題﹂︑﹁拙稿‑一九九八﹂︑参照︒
(4)寛永寺の役職体制については﹁拙稿‑一九九八﹂︑参照︒
(5)﹃日記﹄第五巻︑天明五(一七八五)年二月=日の条︑二〇七頁︒
第二節役者の寺務
役者は︑寺中総出の入札により浅草寺の衆徒の中から選ばれ︑別当代と同じく寛永寺の東叡山門跡によって任命さ
れた︒﹃日記﹄によると︑役者については︑その任命に際して﹁被仰渡書﹂のような寺務規定を寛永寺から下される
ことはなかったので︑ここでは﹃日記﹄の記事や﹃浅草寺志﹄(以下︑﹃寺志﹄)によってその寺務の大概について述